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徳冨蘆花の小品「雑木林」に登場する樹木について(1)

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(1)

1)内田芳明『風景の発見』朝日新聞社、2001年、68頁以下; 川本三郎『郊外の文学誌』新潮社、2003年、69頁以下(「蘆 花の田園生活」の章);長沢利明「環境民俗学ノート」2(2010 年12月 号 )〔http://www11.ocn.ne.jp/~oinari/sub7-14. html〕、などを参照。 2『自然) と人生』岩波文庫、1958年(改版)、64−65頁。以下、 蘆花の作品からの引用は、『自然と人生』及び『みみずのたは こと』の場合には、参照・入手の容易さ等の理由により、岩波 文庫版による。蘆花のその他の作品については、『蘆花全集』

I

はじめに

 徳冨蘆花が明治

33

年に発表した作品集『自然 と人生』中に収められている「雑木林」は、文庫本 で

1

頁ほどの小品ではあるが、現在でもなお、国木 田独歩の「武蔵野」(初出は明治

31

年)と並んで、 明治

30

年頃における武蔵野の自然風景を最もよ く伝える文学作品とされている1)  本稿では、蘆花の小品「雑木林」に解釈を加え ながら、小品中に蘆花が登場させている幾種類か の樹木について、彼がそれらの樹木をなぜ取りあ げたのか、また、どう評価していたのかを検討し、 彼の樹木に対する好み、〈樹木の美学〉とでもいう べきものを考察することにしたい。  小品「雑木林」の全文を、以下に示しておく。     雑木林 東京の西郊、多摩の流ながれに到るまでの間には、幾箇の丘あ り、谷あり、幾いくすぢ條の往還は此谷に下り、此丘に上り、うね うねとして行く。谷は田にして、概ね小川の流あり。流に は稀に水車あり。丘は拓かれて、畑はたとなれるが多きも、其そ 処こ此こ ゝ処には角かくに画しきられたる多くの雑ぞう木き林ばやしありて残れり。 余は斯この雑木林を愛す。 木は楢なら、櫟くぬぎ、榛はん、栗、櫨はぢなど、猶なお多かる可し。大木稀にして、 多くは切株より簇ぞく生せいせる若木なり。下したばへは大抵奇麗に 払ひあり。稀に赤松黒松の挺てい然ぜん林より秀ひいでゝ翠すい蓋がいを碧 空に翳かざすあり。 霜落ちて、大だい根こひく頃は、一林の黄葉錦してまた楓林を 羨まず。 其葉落ち尽して、寒林の千万枝簇ぞく々ぞくとして寒空を刺すも 可 よし 。日落ちて煙地に満ち、林りん梢しやうの空薄紫になりたるに、 大月盆の如く出でたる、尤もっとも可。

徳冨蘆花

小品「雑木林」

登場

する

樹木

について

1

論文 金子孝吉 Takayoshi Kaneko 滋賀大学経済学部 / 教授

(2)

(新潮社内蘆花全集刊行会、1928年−1930年)による。なお、 いずれの場合でも、引用する際には、原則として、漢字表記に ついては旧字体を新字体に改め、ルビについては難読漢字 または現在の通常の読み方と異なるとき以外は省略する。 3)蘆花の自伝的小説である『冨士』第2巻:『蘆花全集』第17 巻(新潮社内蘆花全集刊行会、1928−1930年)、315頁。 4)小品「雑木林」の成立時期と成立までの経緯については、 拙稿、研究ノート「徳冨蘆花の小品「雑木林」の成立経緯に ついて」、『彦根論叢』第402号(2014年冬号)、34−50頁、を 参照。 5)明治期における東京の行政区画の変遷については、『日本 歴史地名大系第13巻東京都の地名』平凡社、2002年、な どを参照。 6)田山花袋『東京の近郊』(上編「東京と其近郊」)実業之日 本社、1916年〔=大正5年〕(ここでの引用は、田山花袋『東京 近郊 一日の行楽』社会思想社、1991年、24頁、による)。 春来りて、淡褐、淡緑、淡紅、淡紫、嫩どん黄くわうなど和らかなる 色の限りを尽せる新芽をつくる時は、何ぞ、独り桜花に 狂せむや。 青葉の頃其林中に入りて見よ。葉やう々やう日を帯びて、緑玉、 碧玉、頭上に蓋を綴れば、吾面おもても青く、若し仮うたゝね睡せば夢 亦緑ならむ。 初茸の時候には、林を縁とる萩薄穂に出て、女お み な え し郎花苅かる 萱 かや 林中に乱れて、自然は此処に七草の園を作れり。 月あるも可か、月なきもまた可、風露の夜此これ等らの林のほと りを過ぎよ。松虫、鈴虫、轡くつわ虫、きりぎりす、虫と云う虫の 音ね雨の如く流るゝを聞かむ。おのづから虫籠となれるも 妙なり2)

II

蘆花が愛した「東京の西郊」の

「丘」にある雑木林

 ここでは、作品の最初の部分、「東京の西郊、多 摩の流ながれに到るまでの間には…」から「…多くの雑ぞう木き 林 ばやし ありて残れり。/余は斯この雑木林を愛す」までを見 ていく。  まず、冒頭にある「東京の西郊」とはどのあたり を指すのかということから考えてみたい。  小品「雑木林」が書かれたのは、蘆花が赤坂氷 川町の勝海舟邸の敷地内にあった借家で暮らし ていた時期(蘆花自身は「氷川時代3)」と呼んでい る)、さらにもっと限定的にいえば、明治

29

年の秋 頃と推定される4)のであるが、その時分は、赤坂か ら西に向かってしばらく進んでいけば、そこはすで に「東京の西郊」だった。明治

29

年秋の時点では、 「東京市」の西側部分を構成していたのは牛込区・ 四谷区・赤坂区・麻布区(旧区制)などである。現 在の新宿区の西側地域は、その時点での行政区 分としては豊多摩郡内藤新宿町、淀橋町、大久保 村、戸塚村、落合村などであり、東京市からみれば 「郊外」地域となる。現在の渋谷区にしても、当時は、 やはり豊多摩郡内の渋谷村、千駄ヶ谷村、代々幡 村からなり、自然が豊かに残っている農村地帯で あったし、今の目黒区にしても、荏原郡目黒村、碑 衾村からなる郊外地だった5)  そうすると、「東京の西郊」の始まりは、内藤新宿、 渋谷、目黒あたりからということになるが、では、 「西郊」の北限、南限はどの辺になるのだろうか。そ れについては、少し時代は下るが、田山花袋が大 正

5

年に発表した『東京とその近郊』の中で行って いる区分が参考になる。花袋は紀行文とも案内本 ともいえるこの書において明治後期から大正初め 頃の東京「近郊」の景観や名所旧跡などについて 語っているが、当時の東京市にとっての「近郊」地 域を、以下のように区分している。 東京の郊外は例として東郊、西郊、南郊、北郊の四つに わけられる。東郊は隅田川を境にして、その東である。西 郊は板橋から渋谷目黒あたりを起点に、扇のように先を 開いて見た区画である。北郊は千住、赤羽付近である。 この間には荒川が流れている。滝の川、飛鳥山などもこ れに属すべきものである。南郊は京浜電車の線の通っ ている地域である。大森、川崎あたりである。そこには多 摩川が流れて海に入っている6)  この見方に従えば、「東京の西郊」の北側の境は、 板橋、練馬あたりから、ほぼ北西に向かって、おお

(3)

れていない。今によれば、西郊は「北西部から南西部に至る、 秩父山麓から展開した武蔵野台地の一部。北は荒川、南は 多摩川に限られた一帯」であり、東郊は「北部から東部にかけ ての、荒川、中川、江戸川等に貫流される殆ど一面の低地帯」 であるという(ここでの引用は、『新版大東京案内』(下)ちくま 学芸文庫、2001年、45頁、による)。 9)この作品は最初、「今の武蔵野」というタイトルで『国民之 友』(蘆花の兄・徳冨蘇峰が社主だった民友社が発行してい た雑誌)に、明治31年の1月と2月に2回に分けて掲載された。 7)明治29年秋時点では、東京市は15区、それ以外の市外地 域は東京府下8郡からなっていた。その後、この行政区画は、 昭和7年に、近郊にあった5郡82町村が東京市に編入され、 新たに20区が設置されるという大改革が行われるまで、ほぼ 変らなかった。東京の行政区画の変遷については、『角川日 本地名大辞典 13 東京都』角川書店、1978年、1234−1235 頁、なども参照。 8)なお、今和次郎の『新版大東京案内』(中央公論社、昭和 4年刊)では、東京の郊外は、西郊と東郊の二つにしか分けら よそ川越街道に沿う地域(もう少し広くとって、荒 川を北の境にしてもよいかもしれない)であり、一 方、南側の境は、だいたいにおいて多摩川中流あ るいは甲州街道沿いの地域ということになるだろ う。そのようにして東西南北を区切るならば、東京 の「西郊」は、花袋がいうように、「板橋から渋谷目 黒あたり」の、東京市と境を接する場所が「起点」 となって、ほぼ西北西に向かって「扇のように先を 開い」た形となる。  蘆花がこの小品を書いたのは明治

29

年秋頃で あり、花袋による区分は大正初期に行われたもの である。その間、東京市の「近郊」では、市内の人 口増加、そして郊外地へ向かう鉄道敷設の進展な どもあって、郊外各所で農地から市街地への転換 が少なからず見られたが、それでも、「西郊」、「東 郊」などという、東京「近郊」の地理的・地勢的な 区分法まで改めなければならないことはなかった といえよう。また、東京の郊外地域の行政区画の 大きな改革も昭和

7

年までは行われなかった7)。蘆 花の「西郊」の捉え方は、花袋のそれと、ほとんど 違いはなかったといってよいと考えられる。  小品「雑木林」が執筆されたと推察される明治

29

年秋頃の時点において、蘆花のいう「東京の西 郊」の範囲を、あえて具体的な行政区分(その時点 での旧地名)によって指し示すとすれば、豊多摩郡 (内藤新宿町、大久保村、中野村、杉並村、渋谷村 などが属する)、荏原郡の北部(目黒村、世田ヶ谷 村など)、北多摩郡(三鷹村、小金井村、国分寺村 など)、そして北豊島郡の西部(板橋町、上・下練 馬村、石神井村など)、さらに埼玉県まで含めるな ら北足立郡の東南部(主に旧新座郡地域)、入間 郡などということになるだろう8)  さて、「東京の西郊」は、地形的・地質的には、冨 士山など、関東周辺にあった火山から噴出した火 山灰等が厚く堆積してできた関東ローム層からな る広大な台地だった。  だが、蘆花がこの小品で書いているように、その 台地の所々には、いくつかの川の流れによって刻ま れてできた「谷」もあり、その谷中を流れる川の周 辺では、水が確保されることによって水田を作るこ ともできた。一方、台地上、すなわち「丘」において は、そこに降り積もったローム層が非常に水捌け のよい性質の土壌であったため、また地下水位も 低かったため、昔から水が絶えず不足していて 「田」を作ることができず、拓けるのは「畑」しかな かった。  そして、この丘の上の「畑」の隣の「其処此処」に あったのが、蘆花が「愛す」る「雑木林」なのである。   明治

30

年頃の武蔵野 の西郊台地における、 「畑」と「雑木林」が広がる「丘」と、「田」が作られ ている「谷」とが入り混じっている風景については、 当時蘆花とも交友があり、一時期は蘆花の勤務先 である民友社の同僚でもあった国木田独歩も、作 品「武蔵野」(初出は明治

31

1

月・

2

月、原題は「今 の武蔵野」9))において描いている。独歩は、明治

29

9

月から翌年

4

月にかけて、豊多摩郡渋谷村 にあった「丘の上にある小さな家」10)で暮らし、市 中とは反対方向にある、林や畑が広がっている土 地をあちこち散策して回り、主にそのときの体験を もとに名作「武蔵野」を著した。独歩は、その中で、

(4)

11)国木田独歩『武蔵野』新潮文庫、2012年(改版)〔初版 1949年〕、20頁。 12)犬井正『人と緑の文化誌』三芳町教育委員会、1993年、 5頁。 13)武蔵野と「水車」の関わりの歴史については、伊藤好一 『武蔵野と水車屋─江戸近郊製粉事情─』クオリ、1984年、 が詳しい。 それが「武蔵野」と改題され、独歩の他の初期作品とともに 単行本『武蔵野』に収録されて出版されたのが、明治34年3 月である(やはり民友社刊)。 10)田山花袋『東京の三十年』岩波文庫、1981年〔初版、 1917年(=大正6年)〕、104頁。花袋は明治29年11月末に太 田玉茗とともに渋谷村の丘の上の家に独歩を訪ね、そのとき のことをこの書の中に綴っている。 武蔵野にある「丘」と「谷」とについて、次のように 書いていた。 武蔵野には決して禿山はない。しかし大洋のうねりの様 に高低起伏して居る。それも外見には一面の平原の様で、 寧ろ高台の処々が低く窪んで小さな浅い谷をなして居る といった方が適当であろう。この谷の底は大概水田であ る。畑は重おもに高台にある、高台は林と畑とで様々の区画 をなして居る。畑は即ち野である。されば林とても数里 にわたるものなく否、恐らく一里にわたるものもあるまい。 畑とても一眸数里に続くものはなく一座の林の周囲は畑、 一傾の畑の三方は林、という様な具合で、農家がその間 に散在して更らにこれを分割して居る11)  この文章は、蘆花の小品「雑木林」の最初の数 行を見事に敷衍し、当時の武蔵野の土地の特色 と利用状況をたいへん分かりやすく説明している といえる。  「東京の西郊」地域と範囲がほぼ重なるといっ てよい武蔵野台地は、先にも述べたが、関東ロー ムが厚く降り積もってできていた。関東ロームは、 「およそ

80

万年前から

2

万年前の最終氷期の頃、冨 士山、箱根山、赤城山、榛名山そして浅間山などの 火山が噴出した火山灰が堆積したもの」12)である 関東ローム層の下には、こちらも厚い砂礫層があり、 地上に降った雨などはすぐに地中に浸み込んで いってしまい、また、そこには大きな河川も流れて いなかったので、武蔵野の広い台地のほとんどは 乏水地であった。もともとは人も住めないような、 薄の原野の広がる荒地だったのである。江戸時代 (

17

世紀半ば)以降、玉川上水などが整備された ことによって水の不便が少しばかり解消され、新 田開発─といっても水田よりも畑の開拓が中心で あるが─が行われ、住みつく人も少しずつ増えるよ うになっていった。それとともに、「丘」と「谷」を 上ったり下ったりして進む甲州街道や五日市街道、 青梅街道、川越街道などの「幾條の往還」も整備 されていった。しかし、それでも、元来、土壌の性 質上、どうしても水が不足する武蔵野の「丘」の上 では、維新後も、そしてこの小品が書かれた明治

30

年頃になっても、相変わらず、小麦、大麦、粟、稗、 大根、薩摩芋などを栽培する「畑」を作るしかな かったのである。  稲作が可能となるのは、独歩のいう、台地の 「処々が低く窪んで小さな浅い谷をなして居る」場 所に限られるのであり、蘆花のこの小品中の言葉 でいえば、台地の中にある「谷」を「流」れる「小川」 の周辺にのみ、水田が作られていたのである。  そして、その「小川」の「流には稀に水車あり」と 蘆花は書いていた。  これらの水車は、川の周りにあった田圃へ水を 揚げるためのものであったり、また、収穫した米を 搗いて精白したり、さらには、台地の畑で生産され た麦を挽いたりするためのものだった。水車は、そ れが川にかけられていると、たしかに周囲の風景 に情趣を添えるものになる。だが、武蔵野台地に おいては、それはまったくの実用的な理由で設置 されたものだったのである13)

(5)

14)コナラとクヌギの違いについては、『山渓ハンディ図鑑3  樹に咲く花 離弁花①』山と渓谷社、2000年、226頁以下、 その他を参照。 15)全国雑木林会議編『現代 雑木林事典』百水社、2001 年、130 頁。

III

雑木林の中の「楢」と「櫟」

 蘆花は「余は斯この雑木林を愛す」と宣言したあと、 次のように、「雑木林」を構成する樹木の名をいく つかあげ、それに続いて、林中の様子を描く。 木は楢なら、櫟くぬぎ、榛はん、栗、櫨はぢなど、猶なお多かる可し。大木稀にして、 多くは切株より簇ぞく生せいせる若わか木ぎなり。下したばへは大抵奇麗 に払ひあり。  蘆花がこの小品を書いた当時、武蔵野に散在す る「雑木林」を代表する4 4 4 4 樹木、そして「雑木林」に ある樹木中、最も多くの面積を占めていたのが、 「楢」(ナラ)─植物学的により正確に言えば「コナ ラ」と呼ぶべきではあるが─と「櫟」(クヌギ)だった。 蘆花が、自分の「愛」する「雑木林」中の樹木として、 真っ先に「楢、櫟」の二つをあげているのも、まず何 よりも、この両樹木が数量の点で他を圧倒して多 かったからである。  コナラもクヌギも、ブナ科の広葉落葉高木であ り、いわゆるドングリを実らせる身近な樹木である。 葉形や樹皮が若干違い、堅果(どんぐり)や殻斗 (はかま)の形態も異なっている(コナラの堅果は 長楕円形で、殻斗は細かな鱗片が瓦重ね状につく のに対し、クヌギの堅果は球形で、殻斗は線形の 鱗片がらせん状につく14))が、木の種類としては近 しいものである。  蘆花が愛した武蔵野の「雑木林」は、よく知られ ているように、天然林ではなく、人間によって植栽 され、そして維持管理され続けてきた「人工の二 次林」15)である。そこに生育している楢・櫟などの 落葉広葉樹は、薪や炭となって、多大な燃料需要 のあった都市部に売られていき、また、その落ち葉 などは、農家の人たち自身が畑作のための肥料と して利用していたのである。  そのような「雑木林」の中の木々の様子を、蘆花 は「大木稀にして、多くは切株より簇生せる若木な り」と描写している。  コナラとクヌギは、育てるのに手間があまりかか らず、生長も早く、かつ火力も強いことから、薪炭 林として最も適している樹種とされている。それら は、植えてからおおよそ十数年経って、薪炭として 使うのに適した大きさ・太さにまで育つと、根元の 部分を残して伐採され、薪や炭の原木として出荷 される。しかし、コナラもクヌギも、それに備わっ ている性質により、その切り株跡から、すぐにまた 新たな芽がたくさん吹き出てくる。それらのうちで 元気の勢いのよい芽を三、四本残し、あとは伐り 取っておくと、おおよそ十数年後には、株は再び、 前に伐ったときと同じくらいの大きさにまで成長し ている。すると、その木は、前と同じように、やはり 根元のみを残して伐られるのである。  このような萌芽更新という樹木の性質を巧みに 利用して育成・管理されている「雑木林」中のコナ ラやクヌギは、通常は高木や大木になる前に、み な伐られてしまうので、蘆花が描写しているとおり、 まさしく「大木稀にして、多くは切株より簇生せる 若木」ばかりとなるのである。  それに続いて、蘆花は「下ばへは大抵奇麗に払 ひあり」とも述べている。  これは、雑木林が、薪炭林としての用途だけを 有していたのではなく、それに隣接している畑地に 肥料を供給する役割をも有していたことと深く関 係している。  乏水地ゆえに長らく未開発だった武蔵野台地 も、江戸時代に入ると、幕府や藩による上水の整

(6)

17『広辞苑第六版』岩波書店、) 1617頁。 18)三木謙吉「武蔵野に生ふる木(四)雑木林」(武蔵野会編 『武蔵野』第7巻第3号、1924年、所収)、45頁。 16)高度成長期以前の武蔵野における「雑木林」の利用実 態については、筒井廸夫『山と木と日本人』朝日新聞社、1982 年;市川健夫・斎藤功『再考日本の森林文化』日本放送出 版協会、1985年;犬井正『関東平野の平地林』古今書院、 1992年;同『人と緑の文化誌』三芳町教育委員会、1993年; 全国雑木林会議編、前掲書、その他を参照。 備や新田開発奨励政策もあって、徐々に畑地が拓 かれるようになっていった。ところが、武蔵野台地 を形作っていた関東ローム層は、火山灰土である ことから、土壌は酸性で、痩せていた。そうした土 地で畑作を持続的に営んでいくためには、通常以 上に多くの有機質肥料が必要だった。江戸期にお いても明治期においても、化学肥料などはない時 代であるから、畑に施すための肥料作りは農家の 人々が自らの手で行うしかない。そこで、人工密集 地から離れ、人糞の供給が不足する郊外地の農 家では、耕地の隣にある雑木林の広葉樹が毎年 林床に落とす葉を、肥料作りのために利用するよ うになった。武蔵野台地に住む農民たちは、農閑 期の秋の末から冬にかけて、林床に積もった落ち 葉を大量に搔き集め、それを使って堆肥作りに励 んだのである。  また、雑木林内に自然に生えていた下草なども きれいに刈り取られ、それらも、堆肥・緑肥として、 麦藁、稲藁、レンゲソウとともに畑に鋤きこまれた。  さらに、コナラやクヌギの木でも、枯れてしまっ た小枝の類や、林中に自然に生え出てきた、商品 用の薪や炭にはならない灌木類は、農家の人々自 らが自宅で焚きつけ用などに使うために伐り取っ ていた16)  このようにして、蘆花がこの小品を書いた頃にお いては、雑木林では、通常、下草類も余計な低木 類も定期的に刈り「払」われ、林床は、蘆花が描写 するように、常に「奇麗」に整備されていたのである。  さて、こうした薪炭用あるいは肥料用として有用 だったコナラやクヌギの木を、蘆花が「愛」した理 由は何なのであろうか。  それについて考察する前に、ここで、「雑木林」と いう言葉の定義について確認しておくことにしたい。  現在、雑木林という語は、たとえば『広辞苑第六 版』では「種々の雑木が混じって生えている林」の 意味であるとされ、その「雑木」とは「良材とならな い種々雑多の樹木。薪材などにする木」17)説明 されている。  三木謙吉は、大正末期に発表した「武蔵野に生 ふる木(四)雑木林」という短文の中で、「雑木」に ついて、次のように述べていた。 此の雑木林の樹木と云ふ名は何処から起つたかと云ふ に、古来最も人間の実生活に関係の深い樹木即用材に する樹木とか花や枝葉の美しい鑑賞用のものや、食用 に供し得る果物を結ぶ様な樹木は夙に知られ尊重され たが、他の利用上の価値の薄いものや全くないものはお しなべて雑木という汚名を附けられたのである…後略 …18)。   要するに、人間の生活にとって有用な樹木、す なわち建築「用材」として役に立つ檜や槇、杉や松 などの常緑針葉樹の木、また、「花や枝葉の美し い」桜や梅、橘などの「鑑賞用」の木、さらには、美 味な果実をつけてくれる蜜柑や琵琶などの木は 「尊重され」てきたが、それ以外の「利用上の価値 の薄いものや全くない」木は十把一絡げに「雑木と いう汚名」を付けられてきたというのである。そう だとすると、コナラやクヌギも、薪炭材として利用 する価値はあるものの、建築用としてはブナなどと 同様「用材」とはならないので、また、花も特に人目 を惹くものではないので、「雑木」の中に入れられ ることになる。  そのような「雑木」のコナラやクヌギからなる「雑 木林」を、蘆花はなぜ「愛」するのか。

(7)

20)徳冨健次郎(蘆花)『みみずのたはこと』(上)岩波文庫、 54頁。 21)同上、196−197頁。 22)国木田独歩『武蔵野』新潮文庫、2012年(改版)〔初版 1949年〕、13−15頁。 19)蘆花が発見した「雑木林」の新たな美については、足田 輝一『雑木林の博物誌』新潮社、1977年、52−55頁;同『雑 木林の四季』平凡社、1978年、32頁以下、また高田宏『自然 誌』徳間書店、1994年、121−128頁、などを参照。  それは、ひとつには、蘆花が、コナラやクヌギか らなる「雑木林」に、これまで評価されてきた美と は異なる美を発見したからだといえる。そして、そ の新たな美とは、〈変化する〉という美である。  蘆花は小品の後半で、雑木林がつくりだす風景 が四季とともに鮮やかに移り変わっていく様相を、 次のように描写していた。 霜落ちて、大だい根こひく頃は、一林の黄葉錦してまた楓林を 羨まず。 其葉落ち尽して、寒林の千万枝簇ぞく々ぞくとして寒空を刺すも 可 よし 。日落ちて煙地に満ち、林りん梢しやうの空薄紫になりたるに、 大月盆の如く出でたる、尤もっとも可。 春来りて、淡褐、淡綠、淡紅、淡紫、嫩どん黄くわうなど和らかなる 色の限りを尽せる新芽をつくる時は、何ぞ、独り桜花に 狂せむや。 青葉の頃其林中に入りて見よ。葉やう々やう日を帯びて、緑玉、 碧玉、頭上に蓋を綴れば、吾面おもても青く、若し仮うたゝね睡せば夢 亦緑ならむ。  秋には「黄葉」を中心に木々の葉が「錦」に彩ら れ、冬には「葉落ち尽して」寒空に繊麗なる枝先を 顕現させ、春には、芽吹く若葉が柔和な淡彩の協 演を見せ、夏には、「緑」や「碧」が滴るような「青 葉」に覆われる、というように、「雑木林」は、四季 によってその様相を著しく変化させていくというの である。  それに比べれば、高級建材として重要視されて きたスギやヒノキなどの針葉樹は、常緑であるた め、一年中変化することがない(本当は、常緑樹も 変化しているのだが、少なくとも人の眼には変化し ないように映る)。常盤木が連想させる恒久不変と いう性質は、古来、生命の永遠性、また精神の忠 誠・貞節に通じるものとして、人々から尊ばれてき た。しかし、見方を変えれば、それは変化に乏しく、 長らく眺めていると退屈さを感じるものともなる。 蘆花の〈樹木の美学〉は、姿が変わることのない静 的で安定した常緑針葉樹よりも、季節に応じてダ イナミックに姿を変えていく落葉広葉樹の方を選 びとるのである19)  蘆花は、小品「雑木林」を書いた

11

年後の明治

40

年になって、「東京の西郊」にある北多摩郡千 歳村字粕谷に移り住む。そこが彼の終の棲家と なったのだが、村での日々の生活を綴った書『みみ ずのたはこと』の中で、自宅近くにあった雑木林の、 四季ごとに「移り変る自然」について、 彼等が東京から越して来た時、…中略…赤裸な雑木林 の梢から真白な冨士を見て居た武蔵野は、裸から若葉、 若葉から青葉、青葉から五彩美しい秋の錦となり、移り 変る自然の面影は、其日其日其月其月の趣を、初めて落 着いて田舎に住む彼等の眼の前に巻物の如くのべて見 せた20) と書き、また「雑木林が、若葉と、青葉と、秋葉と、 三度の栄さかえを見せる」21)とも述べている。  「雑木林」の美は、何よりもまず、季節とともに 〈変化する〉ところにあるのである。  雑木林の落葉広葉樹の美を明治

30

年頃に見出 したのは、蘆花だけではない。独歩もまたそうだっ た。彼の作品「武蔵野」の中に、「楢の類の落葉林 の美」について語った、あまりに有名な一節がある が、ここでも、やはりそれを引用する必要があるだ ろう。

(8)

人のくらし 明治期を中心に』雄山閣、1996年(とりわけ第Ⅱ 章)、などを参照。 25)他の〈原図〉においても、一つの区画に、そこを代表する 樹木一種の名しか記されていないことがよく見られる。 23)この〈原図〉は、『明治前期手書彩色関東実測図』として、 (財)日本地図センターによって1991年に復刻刊行されている。 24)陸軍参謀本部測量課が明治13年から19年にかけて作 成した「迅速測図」とその〈原図〉、そして、明治期における関 東地方の植生景観については、小椋純一『植生からよむ日本 昔の武蔵野は萱原のはてなき光景を以もつて絶類の美を鳴 らして居たように言い伝えてあるが、今の武蔵野は林で ある。林は実に今の武蔵野の特色といっても宜い。則すなわち 木は重おもに楢の類で冬は悉く落葉し、春は滴るばかりの 新緑萌え出ずるその変化が秩父嶺以東十数里の野一 斉に行われて、春夏秋冬を通じ霞に雨に月に風に霧に 時雨に雪に、緑蔭に紅葉に、様々の光景を呈するその妙 は一寸西国地方又た東北の者には解し兼ねるのである。 元来日本人はこれまで楢の類の落葉林の美を余り知ら なかった様である。林といえば重おもに松林のみが日本の文 学美術の上に認められて居て、歌にも楢林の奥で時雨 を聞くという様なことは見当らない。…中略…自分は 屢 しば 々 しば 思うた、若し武蔵野の林が楢の類でなく、松か何か であったら極めて平凡な変化に乏しい色彩一様なものと なって左まで珍重するに足らないだろうと22)  独歩によれば、常緑針葉樹は「平凡な変化に乏 しい色彩一様なもの」でしかなく、それに比して、 落葉広葉樹は「春夏秋冬を通じ…中略…緑陰に 紅葉に、様々の光景を呈する」という点で、後者の 方が美しさにおいて優るというのである。  明治

30

年頃の日本において、蘆花は、独歩とと もに、誰よりも早く、檜や松でなく、桜や梅でもなく、 それまで、建築材としては役に立たず、薪炭用とし てしか認められていなかった、そして花も地味で目 立たず、審美的価値などないと見なされてきた 「楢」や「櫟」などの落葉広葉樹に、新たな「美」を 発見したのである。  「楢」と「櫟」を取り扱うこの節の最後に、蘆花 が小品の冒頭近くで、西郊の「雑木林」は「角かくに画しき られたる」と述べていたことについて説明しておき たい。  武蔵野台地では、江戸時代以降に新田開発が 積極的に推し進められたことは先にも述べたが、 台地への入植者たちには、〈短冊型〉に地割された 土地が与えられた。その分かりやすい一つの例と して、五日市街道沿いの中高井戸村、松庵村、吉 祥寺村あたりに拓かれた新田における地割の様 子を、図

1

(次頁)によって見てみることにしたい。  この図は、参謀本部が明治

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年に行った測量 に基づいて描かれた、「迅速測図」の〈原図〉23) 一枚「東京府武蔵国東多摩郡上下井草村近傍村 落」地図の一部である。「迅速測図」の〈原図〉に は彩色が施され、村落の土地利用やその地に生え ている樹木や林の種類も細かく描きこまれてい る24)。これを見れば、その土地の当時の植生がど うだったかが実によく分かる。この〈原図〉は、明治

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年代における植生を記録したものではあるが、 蘆花が生きていた時代の武蔵野、西郊地域の植 生状況を明解に示しているものとして、大変貴重か つ有益な資料であるといえよう。  さて、図には、東多摩郡中高井戸村、松庵村、上 荻窪村、また北多摩郡吉祥寺村などの地名が見え る。図の中段の右から左へ

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度ほどの角度で通っ ている道が五日市街道である。その街道の両側に、 新田として拓かれた短冊状の土地区画が並んでい る。街道に接して小さな四角形が点々と続いてい るが、それらは新田住民たちが住む家屋敷であり、 その隣に、「畑」と記されている細長い区画があり、 そして一番奥には、「楢」と記されている大小様々 な区画があるのが見てとれる。ここの植生は「楢」 と書き込まれてはいるが、実際は、楢の木だけを指 しているのではなく、楢を代表とする、櫟やその他、 薪炭用・堆肥用等として利用される「雑木」がいろ いろ生えていることを表していると解釈すべきであ ろう25)。そして、その「楢」の区画は、多少の凸凹が ありながらも、基本的には角張った方形をしている

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27)鈴木由告・新井二郎「東京およびその周辺のハンノキ林」 (『東京都高尾自然科学博物館研究紀要』第4号、1972年、 pp. 1−26 )を参照。 28)伊東隆夫他『カラー版日本有用樹木誌』海青社、2011 年、178−179頁;野村圭佑『江戸の自然誌 』どうぶつ社、 2002年、163頁、などを参照。 26)武蔵野台地の新田の短冊型地割が現在でもよく残され ているのが、埼玉県にある三富新田である。三富新田の短冊 型地割については、犬井正「新田開発と雑木林」(全国雑木 林会議編、前掲書、所収、128−131頁)などを参照。 ことが、図から明瞭に確かめることができる。短冊 型に整然と区割りされた土地の端に、同じく人為 的に形成された雑木林が、「角に画られた」かたち になるのも、当然の帰結といえるのである。  明治時代、西郊にあった「雑木林」のすべてが、 蘆花のいうように、長方形型に区画された畑地の 中にあって「角に画られた」かたちをしていたわけ ではもちろんないが、そもそもが自然林ではなく、 人工的・計画的に造り出された武蔵野台地上の 雑木林のかたちが本来的には方形だったことは確 かであるといえよう26) 図1 迅速測図原図「東京府武蔵国東多摩郡上下井草村近傍村落」(明治13年 11月測量)の一部 出典:野村圭佑『江戸の自然史』どうぶつ社、2002年、125頁。

(10)

30)小林一茶『七番日記』(上)〔丸山一彦校注〕岩波文庫、 2003年、220頁。 31)伊藤隼、前掲書、316−317頁。 29)伊藤隼は、ハンノキが「焚いても煤煙が多く出ないと云う ので、昔は江戸市内の反物商店で賞用された」と、『東京の植 物を語る(文啓社書房、』 1935年〔=昭和10年〕、316頁)で述 べている。

IV

雑木林の中の「榛」

 蘆花が「楢」と「櫟」の次に名前をあげているの が、「榛」である。  榛の木(ハンノキ)は、通常は湿地や池の周囲、 河川の水辺に生えるカバノキ科の落葉喬木である。 雌雄同株で、早春、葉の出る前に枝先から褐色の 雄花序を

2

5

本垂らし、一方、雌花は小さくて丸 い赤色の花を

1

5

個つける。雌花は秋には熟して 楕円形の実となる。  元来湿性樹木であるハンノキは、東京近郊地 域においては、近代に入ってからの都市化の進展 にともない、特に低湿地の排水事業および宅地化 等が進んだ結果、現在はほとんど姿を消してしまっ ている27)。しかし、蘆花がこの小品を書いた当時 の武蔵野においては、河畔や、崖線からの湧水で できた湿地、池の周囲に、普通によく見かけられる 樹木だった。  榛の木は、武蔵野地域では、人々によって、まず は護岸林・水防林として川岸に、また、刈り取った 稲を乾燥させるための〈稲架〉(はさ)として水田の 畔に、さらには、薪として使ったり売ったりする目的 のためにしばしば栽植された。その他、榛の木は、 その実や樹皮が染色にも利用され、建築用材・器 具用材としても使われた28)  榛の木は、また、根に根瘤菌を持っているので、 空中の窒素を固定することができ、マメ科植物と 同様、貧栄養地でも生長することが可能である。さ らに、生育のスピードも速く、薪炭木として見た場 合には効率のよい木とされ、それに加えて、薪とし て燃やしたときに煤があまり出ないことから、市中 の呉服商などの店では重宝がられたという29)  ただし、早春に枝先から何本か垂れ下がる円筒 状の暗褐色の花についていえば、それはきわめて 地味なものであり、まさに一茶が「はんの木のそれ でも花のつもり哉」30)詠んでいたとおりである。 そして、そのことが、榛の木が人々から注目を浴び ることがあまりない最大の原因なのである。人間に とっていろいろと有用でありながら、審美的には通 常低い評価しか得られていない榛の木は、その意 味では気の毒な樹木だといえる。  さて、伊藤隼は、昭和

10

年刊の『東京の植物を 語る』の中で、次のように述べている。 武蔵野の東郊から北郊にかけては、畦畔は勿論、畑地 の周囲にも榛を見ない所はない。…中略…畦畔に在る ものは榛と榛との間に横木を結び付けて稲の束を掛け て乾かし、畑の縁にあるものは寒風を避ける為、覆を結 び付けるのに用ひられてゐる。私達は武蔵野の木の中 からこの榛を見遁すことは出来ぬ31)  伊藤が言及しているのは、「東郊から北郊にか けて」見られる「榛」の木なのであるが、ここで、田 の畔にある稲架掛け用の「榛」の他に、「畑の縁に」、 「寒風を避ける為、覆を結び付ける」という用途で 植えられている「榛」もあると記されているのが、注 目される。田畔に稲架掛け目的の榛の木が植えら れている光景は日本各地で見られるものだが、関 東平野においてのように、冬季の強風から畑を守 るための「覆」いを縛り付ける木として、「畑地の周 囲」に榛の木を育てるというのは、それほどありふ れた風景ではないといえよう。  ただ、蘆花がこの小品中に登場させている「榛」 が、以上に述べてきたような、武蔵野の谷を流れ る川岸やその周囲の湿地に生えているハンノキ、ま

(11)

37)本田正次『植物学のおもしろさ』朝日新聞社、1988年、 215頁。 38)ヤマハンノキとケヤマハンノキの微妙な相違については、 『山渓ハンディ図鑑3 樹に咲く花 離弁花①』山と渓谷社、 2000年、170−171頁、また、 井達一、前掲書、80−84頁、 などを参照。 32)伊東隆夫他、前掲書、178 頁。 33) 井達一『日本の樹木』中公新書、1995 年、80−81頁。 34)犬井正『関東平野の平地林』古今書院、1992年、22頁。 35)同上、32頁。 36)織田一磨『武蔵野の記録』洸林堂、1944年(復刻版:武 蔵野郷土史刊行会、1982年、141頁、147頁)。 たは田畔に稲架掛け用として、あるいは畑の周囲 に風除けを目的として植栽されたハンノキのことを 指しているのかといえば、それはどうやら違ってい るというべきなのである。というのは、この小品の 文脈で考えるなら、蘆花がここで言及している「榛」 は、谷部の湿地に生えていたり田畔や畑縁に〈並 木状〉に植えられたりしているハンノキではなく、 水捌けのよい乾燥している関東ローム層の台地上 にある「雑木林」の中に、「楢」や「櫟」、さらには 「栗」や「櫨」の木などと入り混じって4 4 4 4 4 4生えている 「榛」の木だからである。  実は、ハンノキの仲間に、「やや乾燥した二次林 に多く見られる」32)〈ヤマハンノキ〉(あるいは〈ケヤ マハンノキ〉)という種類がある。   井達一の『日本の樹木』には、次のような記 述がある。 普通ハンノキというのは平地の湿地などに多いもので、 水田の畔などに立っていたり、あるいは稲架用にわざわ ざ植えてあったりする。実際ハンノキは水田化された湿 地で本来もっとも典型的な樹木だった。…中略…これ に対して、ヤマハンノキ、ケヤマハンノキの類は、同じ属 でも少々、山手の立地に出てくる33)。   また、犬井正は『関東平野の平地林』において、 「関東平野西部の落葉広葉樹は、クヌギ・コナラ 林からなっているものが多い」34)述べ、そしてこ の文に付した注において、「土地の状態や管理の 程度により樹種配分は少しずつ異なり、コナラの 多い林、クヌギの多い林、ヤマハンノキ・アカマ ツ・エゴノキの混生する林などさまざまである」35) と解説している。  昭和

4

年から吉祥寺に住み、昭和

19

年に『武蔵 野の記録』を刊行した画家の織田一麿は、武蔵野 の動植物に詳しかったが、その本の中で、武蔵野 の雑木林で見られる樹木について、次のように記 している。   樹木の種類は、クヌギ、コナラ、エゴ、ゴンズイ、ニガキ、 モミヂ、イヌシデ、ケヤキ、エノキ、ヤマハンノキ、コブシ、 それにムラサキシキブ、ノイバラ、ハギ、モチ等が…中 略…自生してゐる。…中略…荒川の附近ならば…中 略…ハンノキも小川の岸とか、水田の畔にはあるが、吉 祥寺附近ではヤマハンノキより他にはないらしい36)  本田正次も、その著『植物学のおもしろさ』の中 で「武蔵野の植物景観」について細筆しているが、 武蔵野特有の「雑木林は…中略…クヌギ、コナラ、 クリ、イヌシデ、エゴノキ、ヤマハンノキなどを主と し…後略…」37)述べていて、雑木林の構成種と してハンノキの名はあげていない。  とすれば、蘆花がこの小品に登場させている、 西郊台地の「雑木林」の中に生えている「榛」とは、 正式な名称で呼ぶなら、ヤマハンノキということに なるだろう(あるいは、その近種で、特に葉の裏面 や葉柄などに毛が密に生えているケヤマハンノキ の場合もあると考えられる38))。雑木林の中に、通 常は湿地を好むハンノキが混じることはまったくな いとはいえない39)、乾燥した高台上にある雑木 林では、やはりヤマハンノキの方が主な構成種だっ たと判断してよいのではないか。  ヤマハンノキとハンノキの違いは、生育する環 境の点でいえば、前者が乾燥した土地でも育つの に対し、後者が水気の多い湿地で主に生育するこ

(12)

41)このときの遠出について、蘆花は「冬の郊外」という短い 紀行文を残しており(『偶感偶想』:『蘆花全集』第19巻、新 潮社内蘆花全集刊行会、1928−1930年、194頁以下)、それ によれば、蘆花は市川へ行く途中、「蕭条たる寒田」に「葉な き榛樹や、肥料壺の一鴉や、枯蘆折葦」を見、利根川の長堤 では「百株の榛樹」、「槎さ牙が縦横せる榛樹の枝」を眺め、また 「ひようひようと榛の木寒き枯田哉」という句も詠んでいる。 39)上原敬二「武蔵野の樹木」(田村剛・本田正次編『武蔵 野』科学主義工業社、1941年、所収)、272−273頁を参照。 そこで上原は、ハンノキについて「武蔵野の水田の畔に列をな して植ゑられてゐるもの。稲架用に供する。高臺の雑木林の 中に交つて生じてゐるものもある」と述べている。それに対して、 ヤマハンノキは、雑木林の中に「時々混生する」としている。 40)徳冨蘆花『自然と人生』(岩波文庫)、86頁。 と、前者の葉が丸みを帯びた広卵形であるのに対 し、後者の葉は細長く先が尖ること、また樹皮が 少し違うことなどであるが、その樹形や、春先に地 味な花を咲かせ(というより、むしろ垂らし)、秋に 丸い実をならせて、冬の間その球形の暗黒色の実 をつけたままにしていることなどは同じであり、一 般の人が遠目で眺めた場合には両者の違いはそ れほど感じられない。蘆花にしても、ハンノキとヤ マハンノキの両方を含めて「榛」と呼んでいるのだ と考えられる。  ところで、蘆花は、「東京の西郊」の「雑木林」中 に生えている樹木として、「楢、櫟」の次に、なぜ 「榛」の木の名をあげているのだろうか。「西郊」に 散在する「雑木林」の中で、「楢」と「櫟」が数量的 に圧倒的優位を占めていたのは確かであるが、数 量という点でそれに次ぐ地位に「榛」の木がついて いたとは、一般的には言い難いからである。それに、 蘆花が「榛」に続いて名をあげている「栗」と「櫨」 を除き、武蔵野の雑木林中によく生えている樹木 としては、その他にもコブシやヤマザクラ、エゴノ キ、ヤマボウシ、ネムノキなど、美しい花を咲かせ る樹木がいくらもあった。それにもかかわらず、蘆 花が三番目の樹木として、地味で目立たない「榛」 の木を登場させているのは、いったいどうしてな のか。  蘆花は、小品「雑木林」が所収されている『自然 と人生』「自然に対する五分時」のなかに、「榛の 木」という小品も入れていた。そこでは、榛の木の ことを、彼自身の樹木趣味に大いに適う木である として称えていたのである。  榛の木 新芽ほのかに煙け む りり初そむる頃も流さ す が石におかしけれど、其 青黒く茂れる梢の紅なる夕ゆう照やけに映じて立てるも妙なれど、 葉落ち尽して寒空に立つは尤も妙なり。 晩秋冬初は東京東北郊の趣味尤も深き時なり。渺々と 黄金の海を湛へし田は悉く収まりて、川も村も人家も田 中の肥こ や し料壺も残りなく露はれ、冬木立の村寂れたる上よ り筑波と富士と遥に見かはして淋しげに笑えめる時、枯芦 がさがさと風に鳴り、広々としたる田の真中に肥料壺の 二つ三つ並べるに寒かん鴉あの啞あ々あと鳴ける時、ひょろひょろ としたる榛の木の、或は藁束を腹巻にし、或は節ふし高たかなる 肌をあらはし、水の如き寒空を爬かけるは、誠に趣深し。 自然は如何なるものをも用いて絶好の趣味を作るな り40)  この小品は、蘆花が明治

28

年の

12

月に「総州街 道を東に向つて」市外地へ出て、小松川、市川あた りに行ったときに見た冬景色が基となって書かれ ている41)。ここで蘆花が描写しているのは、東京の 「東北郊」にある「榛の木」、すなわち、田畔に生え ている榛の木の方である。彼は、榛の木が春に「ほ のかに」芽吹くときもよいし、夏に葉が「青黒く茂」 るときもよいが、それが「葉落ち尽して寒空に立つ は尤も妙なり」といい、寒風吹く冬枯れの景色の中 に、「藁束」の「腹巻」を纏いながら、「ひょろひょろ と」頼りなげに、寂しげに立っている「榛の木」こそ が「誠に」「深」い「趣」きがあると述べている。  榛の木は、たとえば、常緑樹の松が大木になっ たときのような、剛毅で威風堂々とした印象を人に 与えることはないし、また、桜のように絢爛に花を 咲かせて皆の眼を惹きつけるというようなこともな い。榛の木の姿が人々の眼に入ってくるのは、よう やく冬枯れの季節になって、冷たい季節風が吹き

(13)

44)徳冨蘆花『みみずのたはこと(上)岩波文庫、』 35−36頁。 42)徳冨蘆花『自然と人生』岩波文庫、83頁。 43)雅号「蘆花」についての代表的考察として、中野好夫『蘆 花徳冨健次郎』第1部、筑摩書房、1972年、413頁以下、をあ げておく。 渡るときであり、田の畔で、葉をことごとく落として その細身を晒し、いかにも頼りなさそうに、寂しく 突っ立っているとき、それも、蘆花によれば、「田中 の肥料壺」の近くに、「寒鴉」の鳴き声とともに立っ ているときの姿である。  しかし、蘆花は、だからこそ、そのような榛の木 の姿には深い趣きがあるのだと言い切るのである。  こうした好みは、蘆花の人生や作品中において よく見られるものである。蘆花には、派手で目立つ ものよりも、地味で慎ましやかなものに共感を寄せ、 豪壮よりも謹厚を選び、頌功される強き勝者よりも、 無念多き不遇な敗者の方に肩入れする、いわば判 官贔屓の傾向がある。  小品「雑木林」と同じく『自然と人生』に収めら れている小品「蘆花」は、秋の頃、東京は「洲崎より 中川尻江戸川尻のあたり」の「蘆洲」の風景を描写 した作品だが、作者はその中で、 「蘆の花は見所とてもなく」と清少納言は書きぬ。然も其 見所なきを余は却つて愛するなり42)   と書いている。「見所」がないからこそ、かえって「愛 す」べきものになるというのである。そもそも、作者 は、自分の筆名(雅号)に、「蘆花」(=アシまたはヨ シの花)という、咲いたか咲かないかほとんど分か らないほど微小な花、地味きわまる花を選ぶ人間 である43)。目立たないもの、控えめなものにこそ、 蘆花の愛情とシンパシーは注がれるのである。  このような人生観または芸術美学を蘆花が抱 いているのは、彼自身の幼少時からの人生の歩み、 そして当時の彼の生活や彼が置かれていた立場と 無関係とはいえない。父徳富一敬と母久子との間 に生まれた徳富家の男子は、長男の猪一郎(蘇 峰)と三男の健次郎(蘆花)のふたりだった(次男 は誕生後すぐに夭折)が、兄猪一郎は、小さいころ から神童として期待され、二十代半ばにして出版社 「民友社」を設立し、雑誌『国民の友』や『国民新 聞』を発行するなど、日本を代表するジャーナリス ト・論客として世間から常に注目を浴び、日の当た る場所を歩んでいたのに対し、健次郎の方といえ ば、幼少時からして、家族たちからは虚弱で我儘 で頼りない弟と見なされ、成人後も兄の会社の片 隅で地味な仕事しかあてがわれないような日陰者 だったのである。  蘆花は、周囲から自分に突きつけられる冷やや かで見下し気味の視線に晒されながらも、気丈に 頑張り続けている自分と、冬の強い寒風に耐えな がら、けなげに立ち続けている「榛」の木とを重ね 合わせていたといっても、あながち見当はずれでは ないように思われる。  蘆花が榛の木に対して並々ならぬ愛着を抱いて いたことは、彼の後年の作品『みみずのたはこと』 (初版は大正

2

年)からも窺うことができる。 彼は園芸が好きで、原宿五年の生活に、借家に住みなが ら鉢物も地植のものも可なり有って居た。大部分は残し て置いたが、其れでも原宿から高樹町へ持て来たものは 少なくはなかった。其等は皆持て行くことにした。荷車 の諸君が斯様なものを、と笑った栗、株立の榛の木まで、 駄々を捏ねて車に積んでもろうた44)  明治

33

10

月から明治

38

12

月末まで蘆花は、 当時は東京市外だった豊多摩郡千駄ヶ谷村原宿 の借家に住んでいた。明治

39

年の新年からの伊 香保滞在、

4

月からのパレスチナ巡礼とロシアでの トルストイ訪問を終え、

8

月に帰国してからは、今

(14)

度は、市内の赤坂区青山高樹町の借家に短期間 ではあるが暮らしていた。しかし、翌

40

年の

2

月末 に、終の住処となる北多摩郡千歳村粕谷の農家 に引っ越した。上の文章からは、その当時所有し 育てていた植木を蘆花がどう扱ったかをよく知る ことができる。蘆花は、自分が大事に愛情をかけ て育てていた「株立の榛の木」を、蘆花の引っ越し 道具を「荷車」で運ぶために集まってくれた知り合 いの人々に「斯様なものを、と笑」われながらも、 「駄々を捏ねて」無理に運んでもらったのである。 松や桜の木などとは違い、引っ越し時にわざわざ 運ぼうとする人は今も昔もいないと見なされる「雑 木」の「榛の木」を、蘆花はわざわざ自分の新居に 運んでいって植え直したのである。蘆花のハンノキ に対する特別な愛情あるいはこだわりがはっきり 見てとれるといえよう。  堂々とした立派な松や杉などより、また、目立つ 花を咲かせて人々の注目を集める桜や梅などより、 蘆花にとっては、寒風吹き荒れる冬中に「ひょろ ひょろと」頼りなげに立ち、晩冬にひっそりと目立 たぬ花序を垂らすハンノキあるいはヤマハンノキ の方が、好みなのである。だからこそ、楢や櫟と比 べれば西郊台地上の雑木林の中で数量的には特 に多いとはいえない樹木である「榛」を、蘆花は、他 の木々を差し置き、「雑木林」にある樹木の三番手 として登場させたと考えられるのである。       ─(

2

)に続く─

(15)

On the Trees Appearing in the Short Piece

Zouki-bayashi

(Copse) by Tokutomi Roka (1)

Takayoshi Kaneko

Tokutomi Roka’s short piece

“Zouki-bayashi”(Copse), which is included in his book

Shizen to Jinsei (Nature and Men;1900), is

re-garded as the piece that gives the most accurate

description of the natural scenery of

Musashi-no in around the thirtieth year of the Meiji era.

The purpose of this study is to interpret the

short piece and to ascertain how Roka

evaluat-ed several trees appearing in the

“Zouki-bayashi”(Copse), in other words, to examine,

so to speak, his aesthetics of trees.

In Part 1, first, as a preliminary consideration,

we define the extent of “the western suburbs of

Tokyo” mentioned by Roka in this piece;

sec-ond, we clarify the state of land use of the hills

and valleys in the Musashino Plateau at that

time. After that, we discuss why Roka referred

particularly to the Japanese oak (quercus

serra-ta), the sawtooth oak (quercus acutissima) and

the alder (alnus japonica) that appear in the

copses on the Musashino Plateau, and how he

evaluated these trees.

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