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劉琳と「華陽国志』の校注本 利用統計を見る

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劉琳と「華陽国志』の校注本

著者

谷口 房男

著者別名

TANIGUCHI Fusao

雑誌名

アジア文化研究所研究年報

38

ページ

25-36

発行年

2003

URL

http://id.nii.ac.jp/1060/00009380/

Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/3.0/deed.ja

(2)

劉琳と

の校注本

はじめに 一 九 六

0

年代の後半から三

O

余年間、東洋大学アジア・アフリカ 現 アジア)文化研究所におけるグループ研究プロジェクトの一つとして、 ( 1 ) の訳注に取り組んできた。その﹃華陽国志﹄の訳注作業を進 ﹃ 華 陽 国 志 ﹄ めていく上で、とくに一九八

0

年代半ばに刊行された劉琳校注﹃華陽国志 ( 2 ) の両書は、多くの示唆を得ると 校注﹄と任乃強校注﹃華陽国志校補図注﹂ ともに、非常に参考となったことからも、四川大学に両先生を訪ねる機会 を と 願 っ て い た 。 ところがたまたま一九人八年夏に四川省成都市を旅した際に、成都市内 の旧蹟などを見学するとともに、西南民族学院や四川大学を訪れることに なり、﹃華陽国志校注﹄を著された四川大学古籍整理研究所の劉琳教授を 研究室に訪ねた。しかし、なぜかこの時に任乃強氏にはお目にかかること が出来なかった。そして一九九 O 年夏には、上海に立ち寄った折りに、上 海古籍出版社の編集者である鄭世賢氏が我々の宿泊するホテルに訪ねてこ られ、任乃強校注﹁華陽同志校補図注﹂ の寄贈を受けるとともに、本書の 刊行に至る経緯について、詳細に伝えられたこともあった。

その後に劉琳氏(写真 1 ) とは、二

O

O

一年夏に再度成都市を訪れた折 りにも、我々が宿泊するホテルでお会いし、意見を交換する機会があった。 このような経緯から﹁劉琳と﹃華陽国志﹄ の校注本﹂と題し、主として劉 琳氏の略歴と業績などを紹介するとともに、劉琳氏の﹃華陽国士山﹄研究の 一端を示し、あわせて任乃強氏の﹃華陽国志校補図注﹂などについても若 干 言 及 し て み た い 。 そこで劉琳氏の紹介に先立ち、まず﹃華陽国志﹄について、その概要と 特徴などに簡単にふれておきたい。 ﹁ 華 陽 国 士 山 ﹄ の 概 要 ) 1 i ( ﹁ 華 陽 国 志 ﹄ の内容と史料価値 ﹁華陽国志﹂は、東晋の常藤(じようきょ、字は道将、晋代の萄郡江原 県 H 現在の四川省崇慶県の人、生卒年不明)が撰し、四世紀半ばに成立し た歴史地理の書である。華陽とは本来華山の南であるが、すなわち本書で は四川から雲南にまたがる、中国の西南地域を指しており、これらの地域 の歴史と地理と人物を記している。その撰者である常藤は、巴亙の李氏が 建てた、五胡十六国の一つである成漢国(一二 O 四 j 三 一 四 七 年 ) に つ か え た 五

(3)

劉 琳 と ﹃ 華 陽 国 志 ﹄ の 校 注 本 で あ り 、 東 晋 の 穆 帝 永 和 二 一 ( 一 一 一 四 七 ) 年 に 、 官僚(李勢の時に散騎常侍) 桓温が成漢国を攻め込むと、その主である李勢に降伏を勧めた一人であっ ( 3 ) た。﹁華陽国志﹂は、常壊が東晋の都建康に移ってからまとめたものであ ( 4 ) り、彼にはこのほかにも、﹃漢之書﹄(一名﹃李萄書﹄)がある。 ﹃ 華 陽 国 志 ﹄ の構成とその内容は、以下のようなおおよそ四つの部分か ら な っ て い る 。 上古から東晋までの歴史と地誌などをまとめている。 巻 一

1

四 : : : : : : 梁 ・ 益 ・ 寧 コ 一 州 ( 巴 ・ 漢 中 ・ 萄 ・ 南 中 ) に お け る ① 巻 五

1

九 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 前 漢 末

1

束晋における西南中国で展開した地方政 ① 権の歴史を記している。 巻 一 0 1 一一:::西南中国における前漢から束晋までの人物などを ③ 記 し て い る 。 ④ 巻 二 一 : : : : : : ・ : 自 序 と 三 州 士 女 目 録 を 収 め て い る 。 このような﹁華陽園志﹄が取り扱った領域を示意図にすれば、おおよそ 下記のような四つの地域(内は現在の地名)からなっている 0 9 ム ﹃ 華 陽 国 志 ﹄ の版本と校注本 ﹃華陽国土佐は唐代半ばごろにはまだ原型のままで存続 していたようであるが、やがて宋代にはその版本が散侠し、 明代以降しばしばその修復が試みられ、各種の不完全な ﹃華陽国志﹄が翻刻された。その後さまざまな足本が作ら れるようになり、それらの一部が現存しているのである。 とくに清代には、屡寅がそれらの足本をもとに刻した題襟 館本﹁華陽国志﹄と顧広折や顧観光らによる校勘本が刊行 一 一 ム ハ された。しかし民国時代には校勘作業が殆ど見られなかったようであり、 それ故に伝えられていない。やがて一九四九年の新中国成立以後には、 ﹃ 華 陽 国 志 ﹄ の校勘と注釈作業が取り組まれ、とくに一九八

0

年代になる と、劉琳氏や任乃強氏らによって、﹃華陽国志﹄ の精綴な校注本が出版さ れ た の で あ る 。 ﹃華陽国志﹄は、西南中国とりわけ巴照明の歴史地理を見ていく上で、必 須の文献の一つであり、従来から利用されてきたのである。その﹃華陽国 士山﹄について、まず中国における版本の検討と校注についてみると、 朱土嘉﹁華陽国志版本考略﹂(﹃燕京大学園報﹄七 0 ・ 七 一 、 一 九 三 一 四 年 一一・一二月 ) 0 蒲志燈﹃華陽国志校注﹂(碩土論文、自印本、 一 九 八 O 年六月 ) 0 劉琳﹃華陽固志校注﹄(巴罫書社、 一 九 八 四 年 七 月 ) 。 任乃強﹁華陽国志校補図注﹂(上海古籍出版社、 一 九 八 七 年 一 O 月 ) 。 などがある。また日本における﹃華陽国志﹄ の版本などの検討については、 久村因﹁華陽国士山の版本について﹂(﹃名古屋大学文学部紀要(人科学・ 社 会 科 学 ) ﹄ 第 一 七 輯 、 一九七三年三月 ) 0 山内四郎﹁華陽国志の諸本について﹂(﹃東洋大学アジア・アフリカ文化 研 究 所 研 究 年 報 ﹄ 一 九 九 九 年 、 二 000 年三月 ) 0 がある。なお中林史朗著﹃華陽国志﹂は、巻一

1

巻固までの抄訳であるが、 ( 5 ) 版本などについても言及している。 ﹃華陽国志﹄は、現存する当該時期の類似史料が少ないことからも、貴 重なものであることが指摘されてきた。しかし、今日伝えられている 華 陽 国 志 ﹄ の版本は、不完全本であるために、その引用に慎重さが求められ

(4)

てきたのであり、そのためにも劉琳氏や任乃強氏らによる﹃華陽国志﹄ 校注本が、大いに利用される理由でもある。

ω

﹃華陽国志﹄中の民族語集 不完全本とはいえ、﹃華陽国志﹄ の一つの特徴は、当該時期の文献には 殆ど見ることができないような民族関係語棄が多く含まれていることであ る。とりわけ当該地域の民族呼称が多く記載されていることから、かつて ( 6 ) ﹃華揚国志﹂中に見える民族関係語蒙の索引を発表したことがある。また ( 7 ) ﹃華陽国志﹄中の非漢民族と民族官印などについて論じたこともあり、こ こで改めて﹃華陽国志﹄に見える西南民族の呼称表記の仕方について、少 しくみておきたい。 a 中国古代における民族認識

*

華夷思想による中原の民(﹁華﹂﹁夏﹂←﹁漢民族﹂) とその周 辺の人々 (﹁夷﹂﹁蛮夷戎秋﹂←﹁非漢民族﹂﹁(異民族・少数民 族 ) ﹂ )

*

国家による統治支配の有無による﹁民﹂と﹁夷﹂(あるいは﹁夷・ 漢 ﹂ 、 ﹁ 夷 ・ 晋 ﹂ な ど ) と ﹁ 遠 夷 ﹂ b ﹁華陽国志﹂中にみえる中国南部・西南民族の呼称 イ 総 称

*

夷越・百越

*

南蛮・蛮夷 ロ 個称(・別称)

*

: : : : ・ ﹁ 濃 ・ 責 ・ 宜 ・ 共 ・ 奴 ・ 獲 ・ 夷 ・ 聾 之 蛮 ﹂ 、 ﹁ 板 楯 蛮 夷 ( 白 虎 復 夷 、 明 頭 虎 子 ) ﹂ 劉 琳 と ﹃ 華 陽 国 志 ﹂ の 校 注 本 の 漢 中 : : : 民 ・ 売 ・ 責 ・ 佼

*

*

: : ・ : : 猿 ・ 輔 人 ・ 時 乍 ・ 耶 ・ 史 ・ 尭

*

南中:::損・撲・匂(鈎)町・夜郎・葉検・桐師・嵩唐・哀牢 このような﹃華陽国志﹄中にみえる中国南部・西南民族の呼称表記方法 については、当該時期における民族状況を知る上で、きわめて貴重な史料 と い え よ 、 っ 。 劉琳の略歴と業績 ) 噌 E 4 ( 劉琳氏との面会 劉琳氏と最初にお会いしたのは、第二聞東洋大学中国少数民族研修旅行 の 際 で あ り 、 一九八八年八月一八日に、四川大学古籍整理研究所の研究室 カ 宝 lこ 刊 お 行 い さ て れ で て あ お つ り た

ま寧

た真

玩 2 々 ) が ¥ 訳

4

2

業 き を す 進 で め に て 劉 しミ 刻字 く 氏 上 の で 「 、 華 し 陽 ば 国 し 志 ば 校 利 註 用 」 させていただいていたことから、本書に関していくつかの疑問点を質すと ともに、﹁華陽国志﹂に関する氏の意見を伺うことができた。またこのと き我々の訳注作業などが進行していたのであり、﹁華陽園志訳注稿(一

)

1

(七)﹂および﹁華陽国志人名索引稿﹂と﹁華陽国志民族関係語柔索引稿﹂ を掲載した﹃東洋大学アジア・アフリカ文化研究所研究年報﹄数冊を氏に 直 接 に 手 渡 し た 。 劉琳氏と再度面会したのは、第五回東洋大学中国少数民族研修旅行の折 りであり、二

OO

一年八月一九日夜に、成都市内の加州花園酒庖において であった。僅かな時間とはいえ、さまざまな問題で意見の交換を行うとと ( 8 ) の 寄 贈 を 受 け た 。 もに、氏から﹁中古泥鴻

l

l

劉琳史学論文自選集﹂ 七

(5)

劉 琳 と ﹃ 華 陽 国 志 ﹄ の 校 注 本 (2) 劉琳氏の略歴 劉琳氏は一九三九年に貴州省丹寒県に生まれた。新中国が成立後一 O 年 を経た一九五九年に、四川大学歴史系を卒業した。翌年から一九八三年ま で、四川大学歴史系において、﹁古代漢語﹂ ﹁中国古代史﹂などの講義 を担当した。氏は一九八四年に四川大学古籍整理研究所に移り、やがて同 研究所の副所長となり、二 O O 一年に定年により退職した。氏は長年にわ たり中国古代史研究および古籍整理研究に従事し、両漢貌晋南北朝史・宋 史・四川古代史・道教史・歴史文献学などの各方面で深い造詣をもたれて いる。現在は中国貌晋南北朝史学会の理事であり、かつて国務院特別賞を ( 9 ) 受賞されたこともあるという。 劉琳の業績 まず劉琳氏の編著書としては、次のような諸編がある。 ﹃ 華 陽 国 志 校 注 ﹄ ( 全 一 冊 、 四 五 六 頁 、 巴 罫 書 社 、 ( 日 ) 一九八四年七月 ) 0 ﹃四川古代史稿一両漢貌晋南北朝部分﹄(四川人民出版社、 ( 日 ) 年 ) 0 一 九 八 七 ﹃ 全 宋 文 ﹄ ( 第 一 冊

1

第五十冊、全五 O 冊、四川大学古籍整理研究所編、 曾腕荘・劉琳主編、巴萄書社、 一九八八年六月

1

一九九四年七月 ) 0 ﹃現存宋人著述総録﹄(全一冊、五三 O 頁、劉琳・沈治宏編著、巴濁書 社 一 九 九 五 年 八 月 ) 0 ﹃中古泥鴻││劉琳史学論文自選集﹄(全一冊、四一一五頁、劉琳著、巴 罫 書 社 、 一 九 九 九 年 九 月 ) 。 ﹁全萄芸文志﹄(上中下、全三冊、[明]楊慎編、劉琳・王暁波点校、銭 装書局、二 O O 一 二 年 五 月 ) 0 J¥ ﹃古籍整理学﹄(全一冊、一二六人貰、劉琳・呉洪浮共著、四川大学出版 社 、 二 O O 三年七月 ) 0 以上のように、劉琳氏の編著書の多くは、単著よりも複数の人による共 編であり、主に文献学に関するものである。 劉琳氏の論文については、﹁中古泥鴻││劉琳史学論文自選集﹂ の 目 次 を参考にしてみていくこととする。本書によれば氏の論文としては、二四 編が収録されており、この他にどのような論文があるか定かではないが、 とりあえず以下にその日次を列挙してみよう。なお整理のために、各論文 タイトルの頭に番号を冠しておく。 論東晋南北朝道教的変革与発展 論︿太平経﹀的政治傾向 二張五斗米道的一部重要文献 i ︿ 正 一 法 文 経 章 官 品 ﹀ 四 楊義与許誼父子造作上清経考 五 夜郎族属試探 _.__ ノ、 僚人入萄考 七 離堆弁 )¥ 成都城池変遷史考述 九 高耕与成都羅城

論劉備 厳法・任賢・正身略論諸葛亮治萄 ︿ 華 陽 国 志 ﹀ 簡 論 常藤評伝 四 北朝土族的興衰

(6)

五 明清幾種︿十六国春秋﹀之研究 一 ム ハ 北朝芸文志筒編 七 時代芸文志簡編 Ji

唐宋之際的社会変革与宋代文化的発展 唐宋之際北人遷罫与四川文化的発展 九

固始遷閤考 薬嚢年譜 幸 一 冗 竜 与 ︿ 松 垣 文 集 ﹀

忽様研究地理沿革 四 謬鈍先生的治学道路与学術特色 は、必ずしも特定の領域や課題のみを集中的に採りあげているとはいいが 以上のような編著書と論文といった劉琳氏の業績から、氏の研究の関心 たい。しかし敢えていえるとするならば、漢代から宋代までの萄あるいは 四川といった地域の歴史や人物および文献などを採りあげているというこ とができよう。氏によれば自らの研究分野を、道教史関係(一

1

四 ) 、 民 族史関係(五・六)、社会史関係(一四・一八・一九)、地理史関係(七

1

九 ・ 二 三 ) 、 人 物 史 関 係 ( 一

0

・一一・一コ了二一)、文献史料関係三二・ 一 五 j 一七・一一一一)の六分野に整理され、また自らの研究方法を考証史学 ( ロ ) であるとも述べている。さらに劉琳氏の論考をまとめた自選の論文集であ る﹃中古泥鴻﹄の書名について、劉琳氏はおおよそ次のようにいう。氏の 研究対象が漢代から宋代であり、中国史上ではこれを﹁中古﹂という。 方の﹁泥鴻﹂とは、蘇東披の詩文に﹁人生到処何所似、応似飛鴻踏雪泥。 雪上偶然留指爪、鴻飛那復弁東西。﹂とあり、自らの研究を回顧すれば、 劉 琳 と ﹃ 華 陽 国 志 ﹄ の 校 注 本 ( 日 ) この詩になぞらえることができると述べているのである。 ﹃ 華 陽 国 士 山 ﹄ の 校 注 本 (2) 劉琳校注﹃華陽国志校注﹄ まず劉琳校注﹃華陽国志校注﹂(巴罫書社、 一 九 八 四 年 七 月 、 A 4 、 の内容は、主として原文の標点(校勘を含む)と注釈からなっ ( 日 比 ) ( 日 ) ており、その他に示意図が五点と附録四点が添えられている。本書(の原

00

五 頁 ) 文)が依拠した底本は、清・摩寅が刻した題襟館本﹁華陽国志﹄であり、 諸版本との校勘を行っている。なお劉琳氏は﹃華陽国志校注﹄の中で、任 ( 日 ) 乃強氏および我々の訳注作業に対して、次のように指摘している。 対 子 ︿ 華 陽 国 志 ﹀ 一書、前人向無注釈。解放後、任乃強老師撰写︿華 陽 国 志 校 注 図 補 ﹀ 一稿、是為首創。又近年日本学者船木勝馬写有︿華 陽国志訳注稿﹀、連載子東洋大学亜非文化研究所︿研究年報﹀、但校注 者 未 見 。 ところで、後にみるように本書の前言が加筆された一九八一年一 O 月 の 時点では、任乃強氏の﹃華陽国志校補図注﹄がまだ刊行されてなく、原稿 の段階であったのであり、それ故にそのタイトルも刊行後のものと異なっ ているのである。また劉琳氏は任乃強氏の稿本との関係について、 在本書校注過程中、有幸在四川大学歴史系資料室看到任乃強老師的 ︿ 華 陽 国 志 校 注 図 補 ﹀ 的 大 部 分 初 稿 ( 巻 一 一 一

1

巻 十 二 ︿ 序 志 ﹀ ) 0 任老的 著作博大精深、使我受到恨多啓発、謹在此向任老表示感謝。上海古籍 出版社両年前就己決定出版任老修改之後的法部巨著、因巻帳較大、歪 今尚未聞世、故而任老的一些精畔的見解拙稿尚不便引用、深引為憾。 九

(7)

劉琳と﹃華陽国志﹄の校注本 ( げ ) とあるように、任乃強氏の初校(巻三から一一一)を参照したと述べる。な お劉琳氏﹁華陽国志校注﹄ の題第は ( 写 真 3 ) 、劉琳氏の思師である謬鍛 (2) 先 生 が 揮 毒 さ れ た と 序 回 あ る 任乃強校注﹃華陽国志校補図注﹄ 劉琳氏も指摘するように﹁華陽国志﹂ の校注本として最も代表的なもの が、任乃強校注﹁華陽固志校補図注﹄ である ( 写 真 4 ) 。本書の前言には、 一九六一年に初稿が完成したとあり、それを上海古籍出版社から刊行した の は 、 一 九 八 七 年 一 O 月のことである。本書の初稿が完成した時期は、中 固におけるプロレタリア文化大革命が始まる以前のことであり、そしてそ れが刊行された時期は、文革が収束して一 O 年以上が経過してからのこと ( 国 ) ・ 注 釈 ・ 論 説 ・ である。本書の内容は、原文の標点(校勘・輯補を含む) ( 印 ) ( 鈎 ) 絵図からなっており、その他に附録一一点が加えられている。このような内 容の本書は、単なる﹃華陽国志﹄ の校注本にとどまらず、まさに﹃華陽国 志﹄に関する研究の集大成ともいえる一大労作なのである。 なお第三回東洋大学中国少数民族研修旅行の折りに、上海古籍出版社の 編集者鄭世賢氏と面会(一九九 O 年八月三 O 日夜、上海和平飯届)したが、 そのとき鄭世賢氏は任乃強氏の校注本について、おおよそ次のように伝え た の で あ る 。 任乃強氏の原稿は一路大なものであり、それ故に原稿の三分の一を削除 した。その削除した主な部分とは、殆どがプロレタリア文化大革命中 に任乃強氏が加筆した政治的な発言の箇所であった。 しかし、﹃華陽国志校補図注﹄ の前言末尾には、﹁一九八二年再校、微有剛 改﹂とあり、若干の改削にとどめたようにみえる。あるいはこの改削が、

前言のみを指すのか、原稿全体をのべているのか定かではない。ともあれ、 一九八四年の時点で、任乃強氏はすでに九 O 歳であったと鄭世賢氏が伝え たが、そうであるとするならば、文革時期に氏は六 O 歳後半から七 O 歳前 半であったと思われるのである。今となっては削られた部分について、そ の内容を知る由もない。ただ文革当時にしばしば見られたように、あるい は毛沢東の著作の一部を引用した論述に近似したものであったであろうか。 いずれにしても、中国における政治的な激動の中で、真撃に対応されよう とした老大家の姿が想像されてくるのである。 劉琳・任乃強両氏の校注本のほかにも、両校注本に先だって蒲志憧﹃華 陽国志校注﹄があり、本書は氏の硯土論文である。その主な内容は、校勘 ( 幻 ) と侠文からなっている。 両校注本における民族記事の注釈 第一節でのべたように﹃華陽国志﹄ の 中 に は 、 ﹃ 史 記 ﹄ ﹃ 漢 書 ﹂ ﹃ 後 漢 書 ﹄ ヲ 一 一 国 志 ﹂ ﹃亜白書﹄などの歴代正史や﹃水経注﹄などの文 献史料にみえる民族関係語葉よりも、遥かに多くの特殊な民族呼称(民族 名)が記されているのである。このような﹃華陽国志﹄中の民族語棄につ いて、とりわけ中国南部・西南民族の民族名について、劉琳氏および任乃 強氏の﹃華陽国志﹄校注本において、どのように注記されているであろう か。とくに当該地域の民族名である﹁板楯蛮﹂と﹁猿(僚)﹂について、 両書の注釈を具体的に示してみよう。 因みにまず﹁板楯蛮﹂については、﹃華陽国志﹄巻一・巴志に、 漢興、亦従高祖定乱有功。高祖国復之、専以射白虎為事。戸歳出賓銭、 口四十。故世号白虎復夷、 一日板楯蛮、今所謂明頭虎子者也。

(8)

とあり、この条に対する劉琳校注﹃華陽国志校注﹄巻一には、 ︹ 賓 ] ︿ 説 文

V

一グ賓、南蛮賦也 o d 此字当是拠巴人語音而造。︿後 漢書・南蛮伝

V

一秦置斡中郡、在グ武陵蛮 d 中収取グ賓布ヘ蓋グ武 陵蛮 d 亦称賦為ぷ賀九[白虎復夷]︿隷続

V

録︿漢繁長張禅等題名

V

有 ρ 白虎夷王謝節 4 ・グ白虎夷王資偉ヘ即此。[板楯蛮︺楯同盾。胡 三省︿通鑑釈文弁誤

V

巻 一 一 一 括 m 楯蛮以木板為楯、故名 o d [ 明頭虎子] 拐、︿説文

V

一 ρ 彊(強)也、重也 0 4 段 玉 裁 注 謂 ぷ 単 一 d 当作

4

ヂ 。 鍾即重畳之意、従二弓、会意。其字音閥、韻書多音其両切(企

g

m

捨て系以意為之、不足為拠。可能因為グ板楯蛮 d 頭柏装飾如二弓相 畳之形、故称万羽頭 d 。又、此四字︿蛮書

V

巻十引作グ弦頭虎子九

( n )

と注釈がほどされている。一方、任乃強校注﹁華陽国志校補図注﹄巻一に ふ み 、 漢高帝自漢中還定三秦、得力子責民七姓。迫東討項羽、平群雄、統一 天下、終始頼丞相粛何自巴・罰・漢中・臨西及三秦之地供給兵源。沼 目所逝共定三秦之七姓、即多有胸忍地区之白虎夷人、不尽出子間中。 故上節所有 ρ 夷 d 字、皆責人之便称、非上章所挙必隅・責・宜・共・ 奴・撞・夷・聾 d 之夷 o p 白虎復夷 d 之 夷 字 亦 然 。 故 ぜ ん 日 板 楯 蛮 。 。 又 日 ρ 歳出責銭 4 0 以童、夷・蛮混称、其実皆百撲之支分派出、別自 為族者也。歳出量銭者、郎被称為責。亦自称為量。グ轟銭ヘ戸歳出口 四十、謂婦女・奴隷不算、只算男口。戸出此口算之外、不吏承担揺役・ 貢賦。但責以射虎。如魂晋所謂グ束売猟将ぶ(見︿李特載記 V ) o p 虎復夷ヘ就上文言、蓋謂此種只納孟銭、作猟将、不供他律役之夷戸、 由其祖先在秦時有射殺白虎之功而復之。復者、免除揺役之義。秦世復 劉 琳 と ﹃ 華 陽 国 志 ﹄ の 校 注 本 之。漢初亦復之、但供兵役。初猶日募、有自願之義。旋即成為故事、 漸変為徴失。就後文︿但望疏

V

分析、則後漢時一切賦役与漢民間、負 担又更酷罵。但存其被肢視之名称而己。制度回無一成不変者也。︿後 グ鹿君死、魂暁世為白虎 o d 可以設想、秦昭王時為害四郡 之白虎、即麗君之塊所化。又可設想、麗君之育、即郡西施南盆地之古 ρ 夷族 d ( 説在 3 章之詮⑫夷字注)。自称其是白虎後育者、或郎以白虎 為図騰。其人本巴王之支族、子巴国亡後、曽屡図復国、叛子斡中、侵 擾巴・漢・萄郡。卒為忠順於秦之責民合力撃敗、乃遁走入楚、為グ巴 郡南郡蛮九巴人不能詳伝其故事、但輪為射殺白虎。若其如此、則 ρ 白虎復夷 μ 与グ白虎夷 u 恰為対立之両種民族。白虎復夷為板楯、為 賓民。白虎夷、則巴族遺喬之称也。今世発現冬勢靖与保寧院巴王族墓、 漢書

V

一 三 日 一 銅兵器上刻有虎形。萄故地近巴一面、亦多有虎紋銅兵器発見、似皆可 定為巴王族曽有以白虎為図騰之事。麗君既為 ρ 巴氏之子ヘ其 P 魂暁 化為白虎ヘ正可説明其亦是白虎図騰。本文旧刻国云一万高祖因復之、 専以射白虎為事 0 4 按上文、白虎為秦昭王時所特有。則漢高時何得云 グ 専 以 射 白 虎 為 事 d ? 非伝抄中桁白字、即当語為グ専以制御所白虎夷為 任 μ 之借験。如此設想、亦与古代文字簡随之諸民族、好以警職表達先 民史事之例符合。誠如此説、則 ρ 白 4 字非術文、然究嫌穿撃、留待考 と あ り五訂 ま た 同 注 は グ 板 楯 蛮 d 之称、始子後漢。前漢則但称量一民而己。楯即盾之別字。拝 禦之器、上古用皮製。其後用木製、遂加木豪。︿左伝

V

定六年グ献楊 楯六十子簡子 d 是也。盾形当微突。板楯則但以平板為之、是工芸猶甚

(9)

劉 琳 と ﹃ 華 陽 国 志 ﹄ の 校 注 本 落後之。然其人繍勇、善戦闘、漢代屡徴用之、大得其力、故又有 ρ 明 頭 虎 子 。 之 称 。

d?

字、︿説文

V

グ 弓 有 力 也 0 4 今其字作 P 翠 ヘ 或 作 か 強 力 d 。巴地有以強為姓者、音亦作

h

g

m

( 弘 ) とあり、詳細な注釈がほどこされている。 次 に ﹁ 猿 ﹂ に つ い て は 、 ﹃ 華 陽 国 志 ﹂ 巻 コ 一 ・ 萄 志 に 、 ( 保 子 ) 帝 攻 青 衣 、 雄 張 猿 輔 入 。 とあり、この条に対して、劉琳校注﹁華陽国志校注﹄巻三には、その注釈 の部分で、﹁僚童﹂として巻一注をみよとするも、いずれにあるかを明ら ( お ) かにし得ない。なお任乃強校注﹃華陽国志校補図注﹄巻三には、 踏与僚・労・牢・老、古音相近、蓋騎越活動子謂公河流域、留於甑越 西方者為寮・'西入雲南高原者被称為労或牢・'東入湘斡之問者被称為 P 老 d 或グ花老

μ

;

北入於四川盆地者被称為僚;最西者称之為 4 倶 越 。 。 ( お ) と あ る 。 と こ ろ で ﹃ 華 陽 国 士 山 ﹂ 巻 四 ・ 南 中 志 に 、 談 藁 県 、 有 機 猿 。 とあり、この条に対して、劉琳校注﹁華陽国志校注﹄巻四には、 [ 濃 僚 ] か 僚 d 之称始見子漢末・三園、拠研究、僚人也是古撲人的一 支。談棄本是夜郎国故地、夜郎人属僚族(見前文)、故多撲・僚。 ( 幻 ) とあり、やや詳しい注釈がほどこされている。このようにみてくると、あ る項目が必ずしも初出のところで注記されているとは限らないようである。 ところで、この条に対する任乃強校注﹃華陽園志校補図注﹄巻四には、 猿、越族之別支、周・秦世己入居貴州高原、己詳一章之注④。晋世大 量入居局地。参看︿李勢志

V

。 ( お ) と あ る 。 ここに少しく長い引用で大変に煩噴となったのは、両書の注釈の仕方な どを比較するためであり、なにとぞご容赦いただきたい。 以上のように、民族語棄に関する両書の注釈についてみてくると、全体 として劉琳氏の注釈は、きわめて簡潔となっている。 一方の任乃強氏の注 釈は、多くの文献を渉猟・博捜し、整理検討を加えた精細なものとなって い る こ と が わ か る 。 四 劉琳の﹃華陽国士山﹄に関するこ論文 ) 1 i ( ︿ 華 陽 国 士 山 校 注 ・ 前 言 ﹀ 之 一 部 分 ﹂ ﹁ ﹃ ︿ 華 陽 国 志 ﹀ 簡 論 この論文は、そのサブタイトルのように、後に刊行された ﹃ 華 陽 国 志 校 注﹄前言の一部であり、すなわち﹃華陽国志校注﹂前言の第一節から第三 節までに相当する。ただ第四節の部分は、劉琳氏が﹁華陽国志校注﹄を刊 行する際に、新たに補ったものである。ここではその内容について詳細な 紹介をさけ、単に各節のタイトルの表示(後に刊行された﹃華陽国志校注﹂ 前言では、単に一・二・三のみを表記して、なぜか各節のタイトルが削除 されている。)にとどめることとしたい。 ︿華陽園志﹀在中国方志編纂史上的地位 ︿華陽国志﹀的史料価値 ︿ 華 陽 国 志 ﹀ 的 版 本 四 ︹校注の底本(題襟館本)と刊行の経緯などを記す(筆者が補う)︺ この論文は、その末尾に﹁原載︿四川大学学報﹀哲社版、 一 九 七 九 年 第 二 期 ) ﹂ と あ り 、 ﹃ 四 川 大 学 学 報 ﹄ 一九七九年第二期に掲載されたものを再

(10)

録したのである。 ( 初 )

ω

﹁ 常 蕩 評 伝 ﹂ この論文は、その末尾に﹁(原載︿中国史学家評伝﹀上冊、中州古籍出 版 社 、 一 九 八 五 年 版 ) ﹂ と あ り 、 一九八五年に出版された吋中国史学家評 伝﹄上冊に掲載されたものであることを知る。とくに﹃華陽国志﹂ の撰者 である常藤については、史料が少ないことから殆ど具体的なことが知られ ていないためにも、この論文は常壊について知る上で参考になるものとい えよう。そこで本論文の概要を箇条書にして示してみよう。 常藤について -萄郡江原県(四川省崇慶県)の人である。江原の常氏は大姓であり、 歴代多くの官吏を排出した家柄である。 -族祖の常寛は、一二国時代の儒学者であり、地方史の編纂に携わった 人 物 で あ る 。 ( 泊 ) 生卒年は不明である。 官職は李勢の時期に散騎常侍であった。 著作としては﹁漢之書﹄(一名を﹃萄李書﹄ともいう)と ﹃ 華 陽 国 士 山 ﹄ が あ る 。 成立は永和田 ( 三 四 八

)1

永 和 一 O (三五四)年の簡である。 内容は梁・益・寧三州の歴史・地理などを記している。 ︿華陽国志﹀の特徴と価値 -地方志の新たな体裁︿編年史・地理志・人物伝 V を編み出した。 内 '*" tt 巻 一 j 四 三州の歴史と地理 劉 琳 と ﹃ 華 陽 国 士 山 ﹄ の 校 注 本 巻五

1

九 舗に展開した政権の編年史 巻 一

01

一 一 三州の人物伝 巻 序志、三州士女目録 ︿華陽国志﹀の編纂姿勢 -古文献を利用する。 -長老の言を採用する。 姿 勢 ③ ② ① 知らないことは知らないとする。 前人の記述に対し批判的である。 虚妄・謬言に徹底的に批判をする。 四 常 時 牒 の 歴 史 観 -封建地主階級の﹁道義﹂ ﹁ 法 式 ﹂ を 尊 重 す る 。 -天 命 論 と コ 一 綱 五 常 論 を 強 調 す る 。 おわりに この数年来、中国のみならず我が国でも、華南民族史、とりわけ中国南 部・西南地域における民族の歴史について、次第に関心がもたれるように なってきている。そこには中国における政治的な事情と、学問的な状況が 背景にあるものと思われる。それに加えて中国における改革・開放政策に 伴う開発行為が、考古学の発達を促していることなどから、中国文明ある いは中華文明を、これまで主に黄河文明としてとらえられてきたが、最近 ではむしろ長江文明などを含めて多元的に見ていくことが適切ではないか、 ( 認 ) といった見解が強まってきている。それによって、とくに長江文明が重視

(11)

劉琳と﹃華陽国志﹄の校注本 されるようになり、当該地域に展開された民族の歴史を見ていこうとする、 その視点が強調されているのである。このような状況からも、﹃華陽国志﹄ が今後ますます見直されるとともに、劉琳校注﹃華陽国志校注﹄および任 乃強校注﹁華陽国志校補図注﹂などが利用されていくものと思われる。 なお劉琳校注﹁華陽園志校注﹂および任乃強校注﹃華陽国志校補図注﹄ が刊行されて二 O 年を経過しており、すでに多くの研究者に知られている のである。それ故にここに改めて取り上げることに臨時いを感ずる。しか し、東洋大学アジア・アフリカ文化研究所(現・アジア文化研究所)にお ける﹃華陽国志﹂訳注作業を中心とした、﹁華陽国志﹄研究プロジェクト は、二 O O 四年三月を以て終了することとなり、その一区切りとして本稿 をあえて当研究所の﹃研究年報﹄に掲載することとした。 注 ( 1 ) 我 々 が 行 っ た 訳 注 お よ び 索 引 な ど は 、 以 下 の 通 り で あ る 。 *船木勝馬等編﹁華陽国志訳注稿(一

1

一 四 ) ﹂ ( ﹁ 東 洋 大 学 ア ジ ア ・ ア フ リ カ 文 化 研 究 所 研 究 年 報 ﹂ 一 九 七 四 年 コ 一 月 1 一 九 九 九 年 コ 一 月 ) 0 谷口一房男編﹁華陽国志人名索引稿﹂(﹁東洋大学アジア・アフリカ文化研 究所研究年報﹄一九七三年、一九七四年三月 ) 0 谷口房男編﹁華陽国志民族関係諸柔索引稿﹂(﹁東洋大学アジア・アフリ カ文化研究所研究年報﹄一九七四年、一九七五年三月 ) 0 谷口一房男編﹃華陽国志人名索引附華陽国志民族関係語蒙索引﹂(国書刊行 会 、 一 九 八 一 年 六 月 ) 。 谷 口 一 房 男 ﹁ ﹃ 華 陽 国 志 ﹄ 研 究 コ 一 十 年 の 回 顧 ﹂ ( ﹁ 東 洋 大 学 ア ジ ア ・ ア フ リ カ 文化研究所研究年報﹄一九九九年、二 000 年 三 3 月 ) 。 山内四郎﹁﹁華陽国志﹄の諸本について﹂(﹃東洋大学アジア・アフリカ文 化研究所研究年報﹄二 000 年 、 二 O O 一 年 三 月 ) 。

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四 ( 2 ) 劉琳校注﹁華陽国志校注﹂ 七 月 ) 0 任 乃 強 校 注 ﹃ 華 陽 国 志 校 補 図 注 ﹂ 一 九 八 七 年 一 O 月 ) 0 ( 3 ) ﹁晋書﹄巻九八・桓温伝に﹁時李勢微弱、温志在立勲子萄、永和二年、率衆 西伐。時康献太后臨朝、温将発、上疏而行。朝廷以濁険遠、市温兵寡少、 深入敵場、甚以為憂。初、諸葛亮造人陣図於魚復平沙之上、塁石為八行、 行相去二丈。温見之、謂此常山蛇勢也。文武皆莫能識之。及軍次彰模、乃 命参軍周楚・孫盛守輸重、自将歩卒直指成都。勢使其叔父福及従兄権等攻 彰模、楚等禦之、福退走。温又撃権等、三戦三捷、賊衆散、自間道帰成都。 勢於是悉衆与温戦子窄橋、参軍聾(護戦授、衆懐欲退、而鼓吏誤鳴進鼓、於 是攻之、勢衆大潰。温乗勝直進、焚其小城、勢遂夜遁九十里、至晋寿蔑萌 城、其将部嵩、処四堅勧勢降、乃面縛輿槻請命。温解縛焚槻、送子京師。温 停萄三旬、挙賢旋善、偽尚書僕射王誓・中書監王稔・鎮東将軍部定・散騎 常侍常時稼等、皆萄之良也。並以為参軍、百姓成悦。軍未旋而王誓・部定・ 隣文等反、温復討平之。振旅還江陵、進位征西大将軍・開府、封臨賀郡公。﹂ とあり、また同書巻二二・李勢載記に大司馬桓温率水箪伐勢。温次青衣、 勢大発軍距守、又遣李福与処四堅等数千人従山陽趣合水距温。謂温従歩而上、 諸将皆欲設伏於江南以待王師、処四竪不従、率諸軍従江北鴛驚碕渡向健為。 而温従山陽出江南、処田堅到犠為、方知与温異道、乃廻従沙頭津北渡。及堅 歪、温己造成都之十里昭、弘首堅衆自潰。温至城下、縦火焼其大城諸円。勢 衆 柏 田 催 。 無 復 固 志 、 其 中 書 監 王 椴 ・ 散 騎 常 侍 常 藤 等 勧 勢 降 。 ﹂ と あ る 。 ( 4 ) ﹃願氏家訓﹂巻六・書証に﹁易有萄才注、江南学士遂不知是何人。王倹四部 目録、不言姓名。題云王粥後人、謝臭・夏侯該、並読数千巻書。皆疑是諜 周、而李萄書一名漢之書。﹂とあり、その﹁而李萄書一名漢之書﹂の割注に ﹁陪書経籍志、漢之書十巻、常藤撰。﹂とある。なお﹃惰童日﹂巻コ三了経籍 志﹃漢之書十巻、常時曙撰。華陽国志十二巻、常藤撰。梁有萄平記十巻、萄 漢 偽 官 故 事 一 巻 、 亡 。 ﹂ と あ る 。 ( 5 ) 中林史朗﹃華陽国志﹂(中国古典新書続編、全一冊、二四七頁、明徳出版社、 一 九 九 五 年 五 月 ) 。 ( 6 ) 前掲拙稿﹁華陽国志民族関係語葉索引稿﹂、同﹃華陽国志人名索引附華陽国 ( 全 一 O O 五 頁 、 A 5 版 、 巴 田 明 書 社 、 一 九 八 四 年 ( 全 七 七 三 頁 、 B 5 版 、 上 海 古 籍 出 版 社 、

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士 山 民 族 関 係 語 葉 索 引 ﹂ 。 ( 7 ) 拙稿﹁﹁華陽国志﹄中の非漢民族と民族官印﹂(﹃東洋大学アジア・アフリカ 文化研究所研究年報﹄一九九九年、二 000 年三月)、同﹁漢六朝時期的官 印与民族関係﹂(﹃中南民族大学学報﹄二 O O 二年第六期、二 O O 二 年 一 一 月 ) 。 ( 8 ) 劉琳著﹃中古泥鴻││劉琳史学論文自選集﹄(宋代文化研究専輯、全四二五 頁 、 巴 萄 書 社 、 一 九 九 九 年 九 月 ) 。 (9)﹁中古泥鴻│││劉琳史学論文自選集﹄の自序および表紙の折り込みに記され ている﹁作者簡介﹂と本人からの書簡による。 (叩)本書は台湾の新文豊出版公司から繁体字本で刊行されている。(全一冊、 A 5 版、七六 O 頁、一九八八年一一月、台一版 ) 0 (日)本書は共著のようであるが、未見のために共著者および冊数などを確認す る こ と が で き な い 。 ( ロ ) ﹃ 中 古 泥 鴻 l i l劉琳史学論文自選集﹂自序(同書二貝)。 ( 日 ) ﹃ 中 古 泥 鴻

│l

劉琳史学論文自選集﹄自序(同書二頁)。 ( M ) 示 意 図 の 五 点 は 、 ﹁ 華 楊 国 志 巴 志 擾 域 一 不 意 図 ﹂ ・ ﹁ 成 都 城 及 二 江 七 橋 示 意 図 ﹂ ・ ﹁ 華 陽 国 志 漢 中 志 霊 域 一 不 意 図 ﹂ ・ ﹁ 華 揚 国 志 濁 志 彊 域 一 不 意 図 ﹂ ﹁ 華 陽 国 志 南 中 志 彊 域 一 不 意 図 ﹂ で あ る 。 (日)附録の四点は、﹁華陽国志侠文﹂・﹁華陽国志梁益寧三州地名族名索引﹂ ﹁本書校注輯侠引用書目簡称﹂・﹁呂大防・李歪序﹂である。 ( 日 ) ﹁ 華 陽 国 志 校 注 ﹂ の 前 言 コ 一 よ り ( ﹃ 中 古 泥 鴻 │ │ 劉 琳 史 学 論 文 自 選 集 ﹄ 一 一 一 貰 ) 0 ( げ ) ﹃ 華 陽 国 志 校 注 ﹄ の 前 一 百 四 よ り ( ﹁ 中 古 泥 鴻 1 1 劉 琳 史 学 論 文 自 選 集 ﹂ 一 一 一 一 頁 ) 。 (日)本書に収録されている論説は、以下のような内容になっている。 巻一の巻末に﹁説塩﹂、巻三の巻末に﹁議叢考﹂・﹁成都七橋考﹂を、巻 四の巻末に﹁荘踊入濃考﹂・﹁萄拘醤入番馬考﹂・﹁萄布・耶竹杖入大夏 考﹂が付され、また巻二の巻末には﹁常志梁州都県与西漢志及晋志対照表﹂ が 、 ま た 巻 一 O 上の巻末には﹁巴郡士女讃注残文輯侠﹂が、さらに巻一一 の巻末には原附として﹁益梁寧一二州先漢以来士女目録﹂が付されている。 (凹)本書には﹃華陽国志﹄に関わる多くの四川の地図が収録されており、地図 劉 琳 と ﹁ 華 陽 国 士 山 ﹄ の 校 注 本 二一枚が付されており、その理解を深めるのに役立つ。なお鄭世賢氏によ れば、任乃強氏は﹃華陽国志﹄に関わる地図のみならず、四川に関する地 図を多く描かれており、その一部を本書に収録したが、いずれは四川地図 集として、別に刊行したいと述べていた。ところが最近になって、その一 部と思われるものとして、任乃強・任新建著﹃四川州県建置沿革図説﹄(全 一 冊 、 A 4 、四四五頁、巴局書社、二 O O 二 年 九 月 ) が 刊 行 さ れ た 。 (却)附録の二点は、﹁旧刊序抜﹂・﹁莫与儀著作両篇(﹁鮮刊考﹂・﹁荘蹄考﹂ で あ る 。 ( 幻 ) 蒲 志 燈 校 注 ﹁ 華 陽 閏 志 校 注 ﹄ ( 全 一 冊 、 B 5 版 、 コ 一 二 五 頁 、 自 印 本 、 一 九 八 O 年六月 ) 0 ( 沼 ) 劉 琳 校 注 ﹁ 華 陽 国 志 校 注 ﹂ 一 二 六 j 一 二 七 頁 。 ( お ) 任 乃 強 校 注 ﹃ 華 陽 国 志 校 補 図 注 ﹂ 一 五 1 一 六 頁 。 ( 加 ) 同 上 一 六 頁 。 ( お ) 劉 琳 校 注 ﹃ 華 陽 国 志 校 注 ﹂ 一 七 九 頁 。 ( 部 ) 任 乃 強 校 注 ﹃ 華 陽 国 志 校 補 図 注 ﹄ 一 一 四 頁 。 (訂)劉琳校注﹃華陽国志校注﹄四一一頁。なお氏には僚に関して﹁僚人入局考﹂ と 題 す る 専 論 が あ る 。 ( お ) 任 乃 強 校 注 ﹃ 華 陽 国 志 校 補 図 注 ﹂ 一 二 四 頁 。 ( 却 ) ﹁ 中 古 泥 鴻 │ │ 劉 琳 史 学 論 文 自 選 集 ﹄ 一 五 一 一 一 1 一 六 一 一 一 頁 。 ( 却 ) ﹃ 中 古 泥 鴻 │ │ i 劉 琳 史 学 論 文 自 選 集 ﹄ 一 六 四 1 一 七 六 頁 。 (紅)任乃強氏は﹃華陽国志校補図注﹄前言の中で、約二九一 1 一 二 六 一 年 と し て い る ( 二 1 一 一 一 頁 ) 。 (認)徐朝竜﹃三星堆・中国古代文明の謎│史実としての﹁山海教﹄ l ﹄ ( あ じ あ ブ ッ ク ス 、 大 修 館 量 一 日 底 、 一 九 九 八 年 六 月 ) 。 飯塚勝重﹃長江物語﹄(あじあブックス、大修館書広、一九九九年六月)。 鶴間和幸﹁中華の形成と東方世界﹂(﹃岩波講座世界歴史 3 一中華の形成と 東方世界﹄所収、岩波書庖、一九九八年一月 ) 0 五

(13)

(写真2) 劉琳教授と筆者

(写真4)任乃強校注『華陽国志校補図注

J

内表紙 (写真1)劉琳教授 (2001年 8月19日) 出 費 者 社 品 販 一 九 八 m m 年・成 M m

5

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門晋︺常韓携 制川構栓控 (写真3)劉琳校注『華陽国志校注』内表紙 劉 琳 と ﹁ 華 陽 閏 志 ﹂ の校注本 ム ノ 、

参照

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