著者名(日)
植野 弘子
雑誌名
東洋大学社会学部紀要
巻
50
号
1
ページ
99-112
発行年
2012
URL
http://id.nii.ac.jp/1060/00003129/
Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止『民俗台湾』にみる日本と台湾の民俗研究
―調査方法の検討を通じて―
Folkloric Studies in Japan and Taiwan in Minzoku Taiwan
(Taiwanese Folklore): An Analysis of the Research Methods
植野 弘子
Hiroko UENO
はじめに
日本による植民地統治下の台湾において、台湾民俗の研究が、日本本土と台湾とのいかなる関係性 を想定して行われたのか、その研究手法、特に調査方法に注目して、検討することを本論文の目的と する。取り上げるのは、植民地統治の末期に台湾に現れた民俗研究の雑誌『民俗台湾』である。この 雑誌において、論議され、構想され、試行錯誤されていた活動から、当時の台湾と日本本土における 民俗研究の関連と齟齬とがみえてくる。それは、台湾と日本本土の民俗学の内実、そして台湾の民俗 の捉え方を考え得るものであり、また、当時の「大東亜」構想の中での台湾の位置付けを示すもので もある。Ⅰ 『民俗台湾』の創刊と評価
1 『民俗台湾』の誕生 『民俗台湾』は、1941年 7 月に創刊され、1945年 1 月まで毎月 1 号、通巻にして43号が刊行された1。 この雑誌の発刊の経緯は、『民俗台湾』の実質的編集者であった池田敏雄(当時、台湾総督府情報部 嘱託)と後に結婚した池田鳳姿2の回想によれば、以下のようである。池田敏雄は、「皇民化で変化を 余儀なくされている在来の習俗を一人の人間だけで細々と採集するのではなく、大勢の人が参加し、 方々の習俗を記録、収集することができるように、そのための雑誌を刊行したいという意向であっ た」[池田鳳姿 1990: 23]。台湾の慣習を記したものとしては、『台湾慣習記事』があるが、これは主 として統治の材料のために刊行されたものであり、池田は、「台湾人の慣習を扱うのに冷たく上から下を見おろすようにして調査を進めるのか、愛情をもって民俗採集するのかでは全く質が違うものに なると強調」[池田鳳姿 1990: 24]していた。このように、『民俗台湾』は、皇民化運動によって変 容を余儀なくされた台湾の民俗の実態を書き残したいと考え、またこれを行う人々の交流の場を作ろ うとした、池田敏雄の思いから生まれている。 池田は、まず、台北帝国大学医学部教授金関丈夫を訪問し、協力を求めた[池田敏雄 1982: 134 136]。金関は、自分がでるのは筋違いかもしれないが、移川子之蔵などの台北帝国大学土俗人種学教 室で出している『南方土俗』は高砂族が中心のため、漢民族を対象にした雑誌は是非必要だと思うの で、他に適当な人がなければ、引き受けていいと答える。『ドルメン』式の肩のこらない雑誌にと、 金関は提案した。金関を中心とし、池田が実質的に編集を行う体制で、『民俗台湾』は創刊されるこ とになる。まもなく太平洋戦争も始まろうとする1941年 7 月に、台湾の旧慣を記録しようとして発刊 された『民俗台湾』は、呉密察が指摘するように[呉 2002: 162]、急進的な皇民化運動の見直しを しようとする、植民地政府の皇民化政策の転換の隙間をぬってタイミングよく現れてきたものといえ よう。 『民俗台湾』は、台湾とその関連する諸地方の民俗資料の収集と記録を目的とした、記録・研究の ための雑誌であるが、一般人の利用を歓迎したものである。その内容からみるならば本格的な学術雑 誌とはいえず、また執筆者たちも、民俗学の専門家といえる者は殆どいない。寄稿された文章は、 2 、 3 ページが大半であり、少数のものを除いては、「論文」というほどの質、量、形態もない。『民 俗台湾』は、日本人 ( 内地人 ) と台湾人(本島人)が執筆し、台湾の伝統的民俗を日本語で書き残そ うとしたものであり、また、その方法を日本の民俗学に倣おうとしていたのである。 2 『民俗台湾』に対する評価 『民俗台湾』については、台湾の民俗に対して心血を注いで研究した人々の編集した雑誌として、 戦後も長く台湾と日本の双方において、肯定的評価が与えられてきた。 しかし、川村湊による『民俗台湾』に対する批判によって、こうした状況は大きく変わる。川村 は、人類学者金関丈夫の優生学的研究がレイシズム的であり、柳田国男との座談会での言説などか ら、彼が「大東亜民俗学」をめざしたとし、当該誌は「台湾趣味」というエキゾチズム(あるいはコ ロニアリズム)に惑溺した人々によるものであるとして批判した[川村 1996: 5 13、118 139]3。 また、小熊英二も、金関丈夫の研究を植民政策と連結した優生学的なものとしてとらえ、『民俗台 湾』の発刊計画は、民族優生政策構想のための手足となる協力者と組織の必要性を感じていた金関に とって、渡りに船となり、彼はその優生政策論を隠して、『民俗台湾』に参加していたと論じている [小熊 2001]。さらに、池田敏雄に対しても、池田が『民俗台湾』の編集後記において、「風俗、習 慣再検討」に基づいた「生活様式の改善」、つまり「文明化」を肯定していると、坂野徹によって論 じられている[坂野 2003: 60]。 『民俗台湾』の参加者の、またその寄ってたつ学問が植民地主義性や優生思想をもつとする諸批判
に対して、三尾裕子は以下のように反論している。つまり、皇民化政策に総論として賛成することが 『民俗台湾』の存続の最低条件であったような当時の研究をとりまく状況を考慮せず、また明確な抵 抗以外の言説を植民地主義的であると断罪し、自らを安全地帯の高みにおいたまま批判するのは、 「見る者」の権力性に無意識であるという点において、植民地主義と同じ誤謬を犯しているとしてい る[三尾 2004、2006]。筆者も、三尾の見解に同意するものである。 こうした論議とは、別の視点から『民俗台湾』を捉えたのが、ツー・ユンフイ[TSU 2003]の研 究である。ツーは、『民俗台湾』は、行きすぎた同化を牽制して台湾の文化を保存すると同時に、同 化を進める側面を持っていたとする。そして、この雑誌の参加者は、日本人と台湾人ではあるが、彼 らはある部分では同等ではない。つまり、彼らはみな日本語で書き、しばしば日本を起源とする調査 のモデルに言及していることを、ツーは述べている。この指摘は重要であり、『民俗台湾』につい て、座談会などの言説に基づくのではなく、実質的なその研究姿勢や研究活動の実態から、当該誌の 目指したものを考えようとしている。この視点からでなければ、台湾を研究していた当時の人々がな そうとしていたことは見えてこない。本論文もツーと同様の視点で、『民俗台湾』を考察しようとす るものである。
Ⅱ 『民俗台湾』と大東亜圈の民俗学
台湾の民俗学は、大東亜共栄圏が唱えられていた時代のなかで、自らの民俗学をいかに位置づけよ うとしていたか、大東亜と日本との関連でみていくことにする。 1 「大東亜」と日本からみる台湾 『民俗台湾』において、「大東亜」をいかにとらえていたかについて、三尾裕子は以下のように述べ ている[三尾 2005: 152 153]。『民俗台湾』においては、大東亜というものが具体的にどこを指すか については、ほとんど論じられていない。しかし、金関は、ブーゲンビルの伝承を 4 巻 1 号(1944年 1 月号)から 3 号にわたって紹介した後の編集後記で、ブーゲンビルの伝承と日本の古代の伝承に似 ているところがあり、同じ説話文化圈にあり、この島をアメリカやオーストラリアの支配下にゆだね ておくことは不適当としている。金関は、大東亜の諸民族は単なる利益共同体ではなく、民族心理の 交感を基調とする高い意味での共同体であるべきとしており、金関が「大東亜共栄圈」に文化の類縁 性という実体を付与しようとしていたことが読み取れると、三尾は論じている。 さらに、この編集後記のなかで金関は、「わが国の民俗学者が、眼を広く大東亜に開いて、大東亜 民俗学の達成に機運を向けつゝある現状は、当然のことであり、愉快なことである。台湾の民俗学徒 はこの大機運の達成に貢献すべき責務を痛感しなければならない。台湾民俗の研究は、単なる台湾だ けの問題ではないのである」と述べている。しかし、その後、『民俗台湾』において、大東亜民俗学を目指す研究は実際的には行われていないのである。 『民俗台湾』では、台湾における日本本土の文化と台湾の文化の交流、あるいはその変化の研究の 必要性は説かれてきた。 1944年 5 月に発行された 4 巻 5 号(35号)の巻頭語として、編輯部によって「台湾民俗研究の特殊 課題」が著されている。そこでは、『民俗台湾』が、大東亜民俗学の一部門としての台湾民俗学の研 究が中心となることは自明のことであるが、「従来とは異る特殊課題が課せられてゐる」とし、それ は、内台間の習俗文化の交渉による生活上・思想上の同化の様式を正確に捉え、記録し、日本文化の 発展のための資料とすることであると述べられている。同年 9 月発行の 4 巻 9 号(39号)の「奉公運 動と台湾の民俗研究」と題した座談会でも、台湾において変化していく「内地文化」、また「本島 側」「内地側」に新たに取り入れられたものへの関心が語られている。 こうした日本と台湾の文化の差異や、その相互的影響については、時評欄にはかなり取り上げられ ているが4、寄稿文のうち、「内台間の習俗文化の交流」あるいは「内台一如」というべき内容を、タ イトルに掲げて論じたものは、 3 篇にしかすぎない5。『民俗台湾』では、新たな文化について研究す る必要性を説き、またそれが「大東亜民俗学」の一翼を担うことになるとしながらも、実際にはこれ に関して深い内容の研究が発表されることもなく、日本と台湾の文化の交流についての考察も十分に 行われていない。それはまた、日本と台湾の位置づけに対する考察の不足を表すものであったともい えよう。 2 「座談会 柳田国男氏を囲みて」からみる「大東亜」 日本民俗学との接点として検討すべきは、1943年10月17日に柳田邸で行われた柳田国男を囲んでの 座談会であり、12月に発行された『民俗台湾』 3 巻12号(30号)にその内容が「座談会 柳田国男氏 を囲みて―大東亜民俗学の建設と「民俗台湾」の使命―」と題して掲載されている。中村哲(台北帝 大教授)と金関丈夫が上京した機会に、柳田を囲む座談会が催されたものであり、他には、以前に台 北帝大で教鞭をとり『民俗台湾』に関わった岡田謙(東京高師教授)、そして『民間伝承』編集者橋 浦泰雄が、出席している。 座談会の席上、金関は、台湾の民俗学と日本の民俗学がどのようにつながりがあるか、内地と台湾 がいかに連絡をとるか、柳田としては日本の民俗学、あるいは東亜の民俗学として台湾にどのような 期待をしているか、また具体的に調べてほしいことは何かと柳田に尋ね、あたかも「指導」を請うこ とになっている。 柳田は、これまで日本で言葉を重視した研究を行ってきたが、「大東亜圏」となると、言葉にかか わらずに、共同研究の共通題目をたてることが必要であると提言している。柳田は、「婚姻」「頭にか ぶる手拭」「原始信仰」「霊地思想」「祖先」などから、共通の研究の可能性を示唆する。そして、大 東亜の民俗学会が結合していくためには、台湾が一番いい条件を備えているとする。携わっている者 たちが脂がのっている、また、日本のことをわかっている本島人と、山の上にはいろいろの種族がい
るので、「これは大東亜圏民俗学とでもいふようなものを目標として進むには非常にいゝ稽古台であ る。」と柳田は語る。この座談会は、柳田の「大東亜圏」の民俗学に対する姿勢をさぐる題材として しばしば取り上げられる[川村 1996: 5 13、邱 2001: 56 57など]。しかし、この場の柳田の発言 をもって、かれの「大東亜圏民俗学」のありようを断定的に語ることは難しい。 3 柳田国男古稀記念事業にみる「大東亜」 前節の座談会において、橋浦が柳田の古稀記念の催し物について発言をしている。金関は柳田の古 稀記念事業の発起人の一人となっていた。この事業を行う「柳田国男先生古稀記念会」については、 その趣旨が昭和18年 9 月付けで発せられ、『民間伝承』 9 巻 4 号(1943年 8 月)に掲載されている。 そこで行う事業としては、一.日本民俗学地方大会の開催、二.内地以外に於ける民俗学大会の開 催、三.記念論文集の刊行、四.雑誌『民間伝承』の特輯号連続発行、である。 柳田国男の古稀記念事業に関しては、その計画の多くが時局の関係から達成されなかったこともあ り、研究関心を集めるものではなかった。しかし、当時の資料を検討した鶴見太郎は、「この一連の 事業が柳田民俗学の学風を意識した、ひとつの思想運動ともいうべき相貌を帯びていた」[鶴見 2004: 41]とする。鶴見は、その学風とは、「物証を第一とする調査方法を重視して、丹念な民俗採集 を積み重ねた経験的思考を大切にする」ものであったとし、「古希記念事業」を「そうした学風を拠 り所にする一個の運動」であり、「戦時下の極端なナショナリズムに対して過剰な反応をする事態か ら距離をとることが、この運動に関わった人々の共通理解であったと考える」と述べている[鶴見 2004: 42]。参加した人々のナショナリズムに対する態度を一概に論じる鶴見の見解に対しては、筆者 は疑問をもつものの、記念事業がここでいう「学風」をひろく広めようとする機会になっていたこと は間違いない。『民俗台湾』もこの事業に参画しようとし、そこに研究の在り方を探ろうとしていた6。 さらに、1944年 5 月発行の『民俗台湾』 4 巻 5 号(35号)には、『民間伝承』10巻 1 号(1944年 1 月)に掲載されているところの、柳田先生古稀記念会が発した「国際共同研究課題の提案」が転載さ れている。その内容は、当記念会は、内地外の諸民俗学会と、提携連絡のための民俗学大会を開催す べく準備を進めているが、大戦の進行と共に大東亜圏内の諸民族が今後一層緊密なる協同団結をかた めて行くことが必要であるとする。そして、相互の民族性を熟知するために、その調査研究の第一着 手として、以下の三つの項目を挙げている。「異境人に対する歓待」「祖先に対する考へ方」「結婚道 徳」(内容は婚姻規則―筆者)である。この提案は、後述する「共同研究課題」の提案と同様、日本 本土を超えて、「大東亜圏」での比較を目指す方向が看取され、また、『民俗台湾』は、そうした方向 性を支持する姿勢をみせている。しかし、この提案は、戦況の悪化のなかでは、達成されることもな く、『民俗台湾』においても、明らかにこの趣旨に従って書かれたといえる報告をみることはできな い。
Ⅲ 調査研究方法の検討―調査項目の共有
1943年に行われた柳田国男を囲んだ座談会については、大東亜民俗学に関して柳田が語った点がし ばしば注目を集めているが、もう一つ意味ある大切なことが語られている。それは、調査研究の方法 論である。『民俗台湾』においてもしばしば取り上げられている課題である。 1 『民俗台湾』における調査方法の検討 『民俗台湾』の目指した研究に関しては、消えゆく伝統的文化を書き残そうとするサルベージ的研 究であること[TSU 2003: 193、植野 2004: 52]の意味が問われなければならない。そして、その調 査方法のあり方にも、日本民俗学がもつのと同様の問題を抱えていた。 『民俗台湾』で論じられた研究方法に関して、ツーは、以下のような指摘を行っている[TSU 2003: 193 194]。民俗学的研究の必要性は、二つの理由によって強調された。一つは、台湾における民俗学 的研究が、 salvage exercise であったこと、もう一つは、民俗学者は、「事実」を記録することに努力 すべきであるとされることである。『民俗台湾』では、台湾の民俗学的研究は、資料収集の基礎的段 階にあるとしている。最も基本的かつ緊急の責務は、「在るが儘に」記録を残そうとすることである。 そして、客観的記述の強調は、共通の、標準的な方法論の追求へと導かれる。『民俗台湾』におい て、柳田国男・関敬吾著『民俗学入門』(『日本民俗学入門』―筆者)が、資料収集の有効な手引きと ならないかと挙げられ、また、一定の質問事項を設けることへの要望が出されていること、さらに金 関が柳田に指導を請うていることを、ツーは指摘している。しかし、客観的方法の追求は、共通の テーマで調査をすべきであるという非公式の見解を生んだに留まり、国際共同研究の呼びかけも、台 湾の全ての民俗学徒のために資料収集の方法を基準化しようとするこの雑誌独自の目的とはかけ離れ たものであったと、ツーは述べている。 1943年 4 月発行の 3 巻 4 号(22号)に掲載された「民俗台湾」編輯座談会7においても、調査研究 方法が、論じられている。陳紹馨は、『民俗台湾』に民俗採集記事の模範を載せること、また『民俗 台湾』で採集の指導をする必要があるとする。そして、陳は、金関丈夫が奉公会8から依頼をうけた 医療の俗信の調査について、具体的な質問項目を決め一般から回答を求めてはどうかと提案する(後 述)。『民俗学入門』の質問条項は、そのまま当てはまらないが非常によい手がかりであるとも陳は述 べる。金関も、調査の回答は、奉公班を通じて集めることにしていると述べているが、さらに雑誌の 読者以外にも、官庁や学校の先生を通じて一般から回答を求めることの可能性を示唆している。これ について、池田敏雄は、質問表の回答のための講習会をしたらどうかと述べる。金関は、調査のため の講習をやるとするならば、柳田国男などにやってもらうことになるが、日本の民俗と台湾の民俗は 違うので、柳田の方法論が直ちに役立つかと疑問を投げかける。ここで、注目しておくべきは、金関 は、この座談会では、「台湾の民俗を調べると云ふことは、日本の民俗学とは直接繋りはない。どつ ちかと云ふと支那の民俗学のブランチになる。」と述べていることである。この段階では、台湾の民俗研究と日本の民俗学との距離を述べていた金関が、 7 ヶ月後の柳田を囲んだ座談会では、異なる意 見を述べていたのである。 また、池田は、民間伝承の会から出ている「食習採集手帳」を参考として、試しに台北市の萬華地 区で資料を採集しようとしたが、項目にとらわれて思うようにはかどらなくて困ったと述べる9。中 村哲も、項目を「訊問的に」聞くことではなく、予想以上の問題をとらえることが必要であり、項目 を列挙しても一つ一つの答えが当たらないことが多くあると述べ、項目をたてた調査に懐疑的であ る。このように、この座談会では、調査項目を必要とする意見はでるが、日本のものをそのまま利用 できない実態、また項目に頼ることへの懸念も示されている。 2 『民間伝承』との連携 『民俗台湾』は、その研究の方式を、日本本土の「民間伝承の会」の機関誌である『民間伝承』に 倣おうとしていた。それは、1943年12月の『民俗台湾』 3 巻12号に掲載された柳田国男を囲んだ座談 表 『民俗台湾』・『民間伝承』の関連掲載記事 発 行 年 月 『民俗台湾』 『民間伝承』 巻号 掲載記事 巻号 掲載記事 1943.4 3 4 「民俗台湾」編輯座談会 1943.8 9 4 「柳田国男先生古稀記念会趣旨」 1943.9 9 5 「柳田国男先生古稀記念 共同研究 課題」 1943.10 3 10 巻頭語「民の鏡」 1943.12 3 12 座談会「柳田国男氏を囲みて」 1944.1 4 1 池田敏雄 「台湾食習資料」 10 1 「国際共同研究課題の提案」 氏神特輯号 1944.2 4 2 10 2 誕生特輯号 1944.3 4 3 金関丈夫による編集後記 10 3 生死観特輯号 1944.4 4 4 「柳田国男氏古稀記念会」 巻頭語「民俗採集調査項目の作製を企 図して」 10 4 錬成と遊戯特輯号 1944.5 4 5 「国際共同研究課題の提案」転載 巻頭語「台湾民俗研究の特殊課題」 10 5 生産方式特輯号 1944.6 10 6 家特輯号 1944.8 10 7・8 合併号/ 7 号社交と協同特輯号、 8 号祖霊特輯号(以降、休刊) 1944.9 4 9 座談会「奉公運動と台湾の民俗研究」 1945.1 5 1 (発行最終号)
会における金関の、以下のような趣旨の発言にみることができる。『民俗台湾』において、特集の テーマを作るために「民俗採集帳」などを基準にしたらいいのではないかとも考えたが、やはり台湾 の民俗採集帳を作らなくてはならない。そのためには、台湾の民俗の実状を知ることが必要であり、 そうしてからテーマが出てくる。これは、初めから簡単ではないので、柳田国男古稀記念事業の一つ として『民間伝承』を特集題目に従って編集することになっているが、その題目を、そのあと『民俗 台湾』の題としてもよいと、金関は述べている。これは、『民間伝承』編集者の橋浦が、この題目で 可能な問題については、「満州、北京、台湾といった所で、お互に発表する」という提案に応えたも のではあるが、積極的な連携を図ろうという金関の意図は見られる。 1944年 4 月発行の『民俗台湾』 4 巻 4 号(34号)の時評欄「点心」には、「柳田国男氏古稀記念 会」と題して、古稀記念会の活動内容の紹介と、『民間伝承』が特集号として本年 1 年を通じて各月 号に共同研究課題を定めることになったとして、その12題目が掲載されている。そこに、古稀記念会 が発した共同研究課題設定の趣旨が以下のように紹介されている。『民間伝承』 9 巻 5 号(1943年 9 月)に掲載された「柳田先生古稀記念 共同研究課題」の文章をほとんどそのまま引用しているが、 重要な部分で言い換えがなされている。 これらの諸問題は、現下世界の諸民族、特に東亜の諸民族に対し、指導の地位に立つ我が国 の、民族精神、理念、方法等(下線筆者、『民間伝承』掲載原文:我日本民族の、民族精神・理 念、)を具体的に明徴し確把するに不可分の問題であり、将に今後わが国(下線筆者、『民間伝 承』原文:我が民族)によつて創建されねばならぬ世界の新指導標としての哲学、科学の如き も、かかる基礎的な探究の上に立たねばならぬと云ふ主旨の下に有志者の協力を求めてゐる。 『民俗台湾』では、古稀記念会によって書かれた、「我日本民族」「我が民族」をそのまま使えず、 「我が国」と書かざるを得なかったところに、台湾と日本本土との距離が表れている。日本本土の民 俗学徒にとっては、指導の地位に立つ「我日本民族」は違和感のないものであったろう。しかし、台 湾においては、「我が民族」とは何なのか、その答えは簡単ではない。この齟齬を、日本の中央にい る民俗学者が気づくことは難しい。 各月のテーマ10については、何について書くべきかが『民間伝承』に示されている。たとえば、 1 月のテーマの氏神では、「氏神・産土・鎮守と称せられる神々の性格・信仰の相異と、これに対し抱 く村人等の感情上の差異とを探求することを今回の中心主題とする。」として、神名・社号、神地・ 祀所、祀る人、祭日、宮詣り、由来について、何を聞くべきか、採録についての指示が出されてい る。自由な投稿ではなく、編集者の資料採集の意図に従った原稿が届くことになる。日本の民俗学の 中央集権的体制は、ここにも反映している。 しかし、『民俗台湾』で、この企画が紹介されているときには、『民間伝承』では特集はすでに 4 月 までが終了しており、その後、1944年 8 月に発刊された10巻 7 ・ 8 号合併号で、『民間伝承』は休刊
となる。『民俗台湾』は、金関が柳田との座談会で述べたような月ごとの特集を組むこともなく、そ の半年後の1945年 1 月号を最後に休刊、すなわち廃刊となったのである。 3 共通の調査項目にむけて 1943年10月発行の『民俗台湾』 3 巻10号(28号)の巻頭語「民の鏡」において、田井輝雄(戴炎 輝)は、『民俗台湾』に対して、「多角的組織的資料の集成を期待する。一定の質問項目を設けて各地 の習俗を採集することを希望する。」と述べる。 1944年 4 月発行の 4 巻 4 号(34号)では、巻頭語として、編輯部より「民俗採集調査項目の作製を 企図して」が掲げられる。民俗調査と採集について読者諸氏の協力を生かせる方法として、大東亜民 俗学の発展のために、共同の調査項目に依り共同研究・調査を試みることが考えられるとする。「台 湾の民俗学は日本民俗学の発展のための比較民俗学としての一翼を担ふものである。この目的のため に本誌編輯部としては大胆ながら民俗採集の調査項目の作製に着手したいと思ふ。」と述べられ、編 輯部が具体策を考慮中であるとする。台湾の民俗学を日本の民俗学のなかに位置づけようとする姿 勢、そして統一的調査項目の作成への意思は明確である。前述した 3 巻 4 号(22号)の「民俗台湾」 編輯座談会において、金関は医療に関する俗信について、皇民奉公会の下部組織である奉公班を使っ て全島的な調査をする構想11を述べており、「具体的に細かく質問要項を書いて回答を求める」として いる。これは、統一的な調査項目を設定し、地方の資料が中央に集まる体制づくりを目指すものとい えよう。 調査項目を統一して民俗調査を行う手法は、柳田国男の指導によって、1934年から 3 年間かけて行 われた「山村調査」(正式名称:日本僻陬諸村における郷党生活の資料蒐集調査)に見られる。統一 した100の質問項目が記載された「郷土生活研究採集手帖」を携えた調査者が、柳田が選定した全国 52ヶ所の山村に赴き調査を行い、その手帖は、柳田のもとに集められる。ここに全国の地方において 統一的な調査項目に沿って採集された資料が、中央において研究資料として利用される体制が作られ たのである。『民俗台湾』がこうした体制を目指そうとしていたとはいえようが、結局、調査項目の 設定もできず、また、民俗資料収集のための全島的体制を確立することもできなかった。 緊迫する戦時体制のなかで、『民俗台湾』も、台湾と日本との関連性、さらに日本の傘の下にある 台湾を強調せざるを得なくなったであろう。また、柳田の確立した体制は、台湾の研究者からみるな らば、民俗資料の体系的な収集の手本と考えうるものであり、台湾にそれを確立しようとした志向も 当然のことともいえよう。しかし、結局、こうした構想は実体を伴わず、成果は生まれ得なかった。 台湾の民俗学は、日本の民俗学の、そして大東亜民俗学の一翼を担うことは、実質的にはなかったと いえよう。
〈注〉 1 通巻第44号は、ゲラ刷りまでできあがっていたが、発行されていない。その編集後記に、「次号(三月号) を以つて、一時休刊の己むなきに至つた」と述べられている。『民俗台湾』の概要については、池田敏雄の遺 稿[池田敏雄 1982]とそれを補った解題[池田麻奈 1982]に詳しい。 2 黄氏鳳姿、台北市萬華出身。少女時代に、池田敏雄の指導のもと、『台湾の少女』(東都書籍、1943年)な ど、台湾の民俗に関する著作を著している。 3 これに対する反論そして再反論[国分 1997、川村 1997]が行われている。 4 『民俗台湾』にみられる「日本」に関する記述については、陳艶紅による「台日の文化交流」に関する寄稿 文と時評欄に対する分析がある[陳 1997: 141 220]。陳が挙げた「台日の文化交流をめぐる寄稿文」は40例 であり、その内容は、台日文化の同源性、台湾人・日本人によって異なる視点、また皇民化運動による生活変 化について述べたものなどである。また、時評欄には、陳によれば、603の寄稿がある。そこでは、日台の言 語・生活習慣・婚姻慣習などが取りあげられており、陳は、「台日の寄稿者の実生活の中で味わった異文化の 矛盾または調和がありのまま記載されている」[陳 1997: 217]と述べている。 5 この 3 篇とは、台湾で暮らす内地人の生活について述べた淡野安太郎(台北帝大助教授)の「現代台湾内地
おわりに
『民俗台湾』の発刊の目的は、皇民化運動によって変容を余儀なくされた台湾の民俗を書き残そう とするところにあった。それは、東アジアにおける日本を中心とした民俗学の枠組みのなかで、台湾 をいかに位置付けるかを悩んだ歩みでもあった。『民俗台湾』では、台湾の民俗に対する研究方法と しては、統一された項目による調査が、より効果的であると考え、台湾にふさわしい項目をつくるこ とが模索されていた。これに対して、項目に縛られることなく予想外のものをさぐることの大切さを 述べたのは、中村哲であったが、ほかには項目に基づいた調査方法への異論は出されていない。こう した統一項目による調査は実践されてはいないが、現地調査に際して画一的な項目に縛られた調査が 行われるという可能性は、台湾の民俗研究も有していた。しかし、実態は、統一的な調査項目を共有 することはなく、柳田民俗学が日本本土で展開したような、調査体制の確立もなされなかった。 台湾の民俗研究が、日本の民俗研究の方法、テーマに倣って台湾での研究を行おうとしていたこと は明らかである。しかし、実際に日本本土の調査項目で調査しようとしてできなかったことは、池田 敏雄が行った調査が示す通りである。台湾の民俗研究を日本本土の枠組みで捉えようという時局に即 した志向はあっても、実態としては、それはあり得ないことである。「日本」、「大東亜」という枠組 みを台湾に当てることの困難さを、『民俗台湾』の研究方法とその研究活動が示しているといえよう。 [付記] 本論文は、法政大学国際日本学研究所 平成22年度文部科学省戦略的研究基盤事業「国際日本学の 方法に基づく<日本意識>の再検討―<日本意識>の現在・過去・未来」プロジェクト・研究アプ ローチ②「近代の<日本意識>の成立」によるシンポジウム「日本民俗学・民族学の貢献―昭和前 半」(2010年12月11・12日、法政大学にて開催)において、「『民俗台湾』からみえる「日本」―調査 方法をめぐって」と題して発表した報告を改稿したものである。人風俗所感」( 4 巻 3 号)、内台間の習俗文化の交渉による生活上・思想上の同化について述べた中川正(台北 帝大教授)の「内台生活の交流について」( 4 巻 5 号)、台湾人の呉新栄が、朝起きてから夜寝るまでの生活を 描いた「私の内台生活の交流」( 4 巻 8 号)である。前 2 篇は、まさに「所感」というもので、深い考察とい うものはない。しかし、医者であり文学運動にも携わった呉による寄稿文は、当時の日本化した台湾のエリー トの生活の一端を知ることのできる興味深い記述である。呉は、自らの生活を「交流」というより、「混合」 または「重複」もしくは「台湾生活の内地化」であるとしている。この 3 篇について、筆者は別稿[植野 2004: 48 49]でさらに詳しくその内容を論じている。 6 鶴見は、発起人となった金関が、橋浦からの要請に迅速かつ積極的な呼応をしていることから、『民俗台 湾』の側からも、記念事業を台湾における民俗研究の飛躍台にしようとしていたことが窺えるとしている[鶴 見 2004: 53、2006: 119]。 7 出席者は、中村哲、金関丈夫、陳紹馨、池田敏雄、松山虔三、立石鐵臣であり、1943年 3 月 3 日夜に開催さ れている。 8 皇民奉公会は、1941年 4 月に発足した社会教育の団体であり、青年層の訓練、増産、銃後の生活の整備を実 施しようとするものである。会の総裁は台湾総督であり、州庁・郡市・街庄・区・部落という行政単位に対応 して、支部・支会・分会・区会・部落会が設けられ、さらにその下に奉公班が組織された。各組織の長は行政 首長が兼任するものであり、全台湾を覆う組織である。 9 池田敏雄は、『民俗台湾』 4 巻 1 号(1944年 1 月)に、「台湾食習資料―台北市艋 に於ける―」と題して、 調査資料を掲載しており、「主として、民間伝承の会編「食習採集手帳」の項目に従つた。」と述べている[池 田 1944: 17]。「食習」の特集号の計画について、 3 巻11号(29号)の編集後記で呼びかけがなされている。 10 各月のテーマは以下のようである。 1 月 氏神、 2 月 誕生、 3 月 生死観、 4 月 錬成と遊戯、 5 月 生 産方法、 6 月 家、 7 月 社交と協力、 8 月 祖霊、 9 月 家庭教育、10月 お祭り、11月 予覚と前兆、12 月 結婚。 11 この計画の顛末については、柳田国男との座談会で語られている(『民俗台湾』 3 巻12号)。中村哲が、「あ そこには皇民奉公会といふものがあつて、これの生活部を通じて、民俗調査の問に、各地の下部組織に答へさ せるといふことも可能なんです。」と発言するが、金関丈夫は、「一時、民間医療法を調べるといふので、計画 したことがあるんですが、そのうちに幹部が変つて、立消になつてしまひました。」と述べている。全島的調 査は、構想のみで終わったのは明らかである。 [参考文献] 陳艶紅 1997 『領台時代の台湾文化と日本―《民俗台湾》を中心に―』 東呉大学日本語文学系博士論文。 池田鳳姿 1990 「『民俗台湾』創刊の背景」『沖縄文化研究』(法政大学沖縄文化研究所紀要)16: 13 34。 池田麻奈 1982 「「植民地下台湾の民俗雑誌」解題」『台湾近現代史研究』 4 : 109 120。 池田敏雄 1944 「台湾食習資料―台北市艋 に於ける―」『民俗台湾』 4 1 : 2 17。 1982 「植民地下台湾の民俗雑誌」『台湾近現代史研究』 4 : 121 151。 小熊英二 2001 「金関丈夫と『民俗台湾』―民俗調査と優生政策―」篠原徹編『近代日本の他者像と自画像』、24 53 頁、柏書房。 川村湊 1996 『「大東亜民俗学」の虚実』 講談社。 1997 「植民地主義と民俗学/民族学」『AREA Mook 民俗学がわかる。』、136 140頁、朝日新聞社。 国分直一 1997 「『民俗台湾』の運動はなんであったか―川村湊氏の所見をめぐって―」 『しにか』 8 2 : 122 127。 三尾裕子 2004 「以殖民統治下的『灰色地帯』做為異質化之談論的可能性―以《民俗台湾》為例―」『台湾文献』55 3 : 25 61。
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