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東歌・防人歌にみる武蔵

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Academic year: 2021

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東歌

防人歌にみる武蔵

 

 

 

学苑 ・ 近代文化研究所紀要   第九五九号   (一) ~(二六)   (二〇二〇 ・ 九)

Musashi Province as Described in the Manyoshu:

Poetry Composed by People in Eastern Japan (Azumauta), and Poetry by Coastal Guards, and Their Wives (Sakimorinouta)

Tomoko Karasudani

Abstract

In the ancient Nara period, present day Setagaya-ward, Tokyo, was part of Musashi province. The author reviews its historical background using work done by previous researchers, and considers surviving ancient relics in today’s Setagaya. The county name Seta appears in the Wamyoruijusho (Japan’s oldest dictionary of Chinese characters edited in the Heian period). In addition, there is evidence in the Nihon Shoki (Chronicles of Japan compiled in the Nara period) and in the Shoku Nihongi (Second of the six classical Japanese history texts in the Heian period) that nearly 1,800 Korean people, including a few nuns and priests from areas then called Kudara, Shiragi and Kokuri, naturalized in Musashi. Though the distribution is not certain, we can surmise that those people played a role in the development of the culture of Eastern Japan. In the Azumauta, collected in Musashi province, the rhetorical technique called jokotoba is prevalent. The preface words, or jokotoba, in eight of the nine poems begin with place names. This suggests that the poetry is inextricably related to the natural features or scenes of the province. In two Musashi poems in the Manyoshu the flower ukera (Atractylodes japonica) appears. The uncontrollable emotion of love is symbolized by this plain edible plant that was used as a medical herb at the time. The exclusive characteristic of Sakimorinouta in Musashi province is that they include elegies by the wives of coastal guards. Six out of the twelve poems are of this type. In the poetry of the region, the dialects of the east are recorded. For example in a poem by a husband in Ebara-county, “house” is transcribed ihe while in a poem by a wife it is iha. The distribution of dialects in the Manyoshu suggests that there was a phonetical borderline between the west and east in Musashi province during this period. Thus the regional characteristics and place names are historically inherited.

Key words: Azumauta (東歌), Sakimorinouta (防人歌), Manyoshu (万葉集),

Musashi province (武蔵国), Setagaya (世田谷)

古代武蔵国と世田谷区周辺概略図(網かけ部分が世田谷区) 0 40 km 府中市 調布市 世田谷区 東山道武蔵路推定ルート 武蔵国府

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はじめに 古 代 の 世 田 谷 に 関 す る 資 料 は 限 ら れ、 『 新 修 世 田 谷 区 史 上 巻 1 』や、 『万 葉 の 歌 ― 人 と 風 土 ―   13   関 東 南 部 2 』に す で に 記 し 尽 く さ れ て い る と 言 っ ても過言ではない。筆者はそれらの中からまず現在の世田谷に関係する可 能性のある資料にあたり、第一節を記述した。第二節では武蔵国の東歌、 第三節では武蔵国の防人歌をもとに、万葉人の生活や心情、歌の発想や古 代人の思惟について記した。筆者の筆力の及ぶ範囲で武蔵国、古代の世田 谷に関わる幾ばくかのことを述べたいと思う。 一   上代文献にみる武蔵 ・ 中央と武蔵の関係 世田谷は武蔵国に入る。古代の武蔵は、東京都と埼玉県、神奈川県川崎 市、横 浜 市 に 及 ぶ。万 葉 の 時 代 に は 東 山 道 所 属 の 国 だ っ た。東 歌 に 二 首 「牟 射 志 野」と い う 仮 名 書 の 例 が あ り ( 14・ 三 三 七 六、三 三 七 九) 、国 名 も ム ザシと訓む。 『日本書 紀 a 』安閑天皇元年 (五三四) の条には次のような記事 がある。 武 むざ 蔵 しの 国 くにの 造 みやつこ 笠 かさ 原 はらの 直 あた 使 ひお 主 み と 同 族 の 小 を 杵 き と、国 造 を 相 争 ひ て、 使 主 ・ 小 杵 は 皆 名 な り 。年 を 経 て 決 め 難 し。小 杵、 性 ひととな 阻 りさが し く し て 逆 ふ る こ と 有 り。心 高 び て 順 まつろ ふ こ と 無 し。 密 ひそか に 就 ゆ き て、 援 たすけ を 上 かみ 毛 つけ 野 のの 君 きみ 小 を 熊 くま に 求 め て、使 主 を 殺 さ む と 謀 る。 使 主、 覚 さと り て 走 に げ 出 で、 京 みやこ に 詣 まゐ で て、 状 あるかたち を 言 まを す。 朝 み か ど 庭 、 臨 つ み さ だ 断 め た ま ひ て、 使 主 を 以 ち て 国 造 と し て、小 杵 を 誅 ころ す。国 造 使 主、 悚 かしこま り 憙 よろこ ぶ る こ と、 懐 こころ に 交 み ち て、黙 し 已 む こ と 能 は ず。謹 み て 国 み か ど 家 の 為 に、 横 よこ 渟 ぬ ・ 橘 たち 花 ばな ・ 多 おほ 氷 ひ ・ 倉 くら 樔 す 、 四 よ 処 ところ の 屯 み や け 倉 を置き奉る。 笠 原 は『倭 名 類 聚 抄 b 』 (以 下 倭 名 抄 と す る) に「武 藏 國 x 玉 郡 笠 原」と あ る。埼玉県鴻巣市笠原付近とされ、行田市の埼玉古墳群を笠原直に関係づ ける説もある。大和朝廷の裁断によって武蔵国造の地位を巡る同族の争い に勝利した使主が献上した屯倉、横渟は倭名抄にみえる「武藏國橫見郡」 の 地 (埼 玉 県 比 企 郡 吉 見 町 一 帯) か と い わ れ る。橘 花 は 倭 名 抄 に み え る「武 藏 國 橘 樹 郡」の 地、郷 名 に「御 宅 美也 介 」が あ る。神 奈 川 県 東 部、川 崎 市 と 横浜市のそれぞれ一部にあたる。多氷は『書紀集 解 3 』に倭名抄の「武藏國 久 良 郡 大 井 於保 井 」郷 に あ て る 説、 『日 本 書 紀 通 證 4 』に、武 蔵 国 多 磨 郡 か と す る 説 が あ る。通 証 の 多 磨 郡 説 を 採 れ ば、 「多 氷」は 多 磨 郡 と 中 野 ・ 杉 並 ・ 世 田 谷 な ど の 区 の 西 側 の 一 部 に 及 ぶ。倉 樔 は 倭 名 抄 に「武 藏 國 久 良 郡」とあり、 「久良」に「久良岐」の訓がある。 「樔」を「樹」の誤りとし、 倉樔郡を「久良郡」にあてる説がある。久良郡は武蔵国の南部で、横浜市 の中部 ・ 南部にあたる。安閑紀によれば多摩川流域の地に大和朝廷の直轄 地が置かれたことがわかる。 大國魂神社前に置かれた国分寺の礎石 国分寺の礎石

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  武蔵国は、久良 ・ 都筑 ・ 多磨 ・ 橘樹 ・ 荏原 ・ 豊島 ・ 足立 ・ 新座 ・ 入間 ・ 高麗 ・ 比企 ・ 横見 ・ 埼玉 ・ 大里 ・ 男衾 ・ 幡羅 ・ 榛沢 ・ 那珂 ・ 児玉 ・ 賀美 ・ 秩父の二十一郡を有 した大国であった。このうち世田 谷 地 方 は、多 磨 郡 (多 麻 郡) の 勢 多郷と荏原郡の覚志郷に擬定され て い る。宝 亀 二 年 (七 七 一) 十 月 己 卯 条 ( 続 日 本 紀   巻 第 三 十 一 ) の 太 政官奏では、武蔵国は東山道から 東海道に属する国となった。武蔵 国府は府中に置かれた。今の大國 魂神社のあたりである。延喜式巻 二 十 八   兵 部 省 に は、 「武 藏 國 驛 馬 店 屋 。 小 高 。 大 井 。 豊 ト 嶋 シマ 各 十 疋 。 傳 馬 都 ツ 築 ツキ 。 橘 タチ 樹 ハナ 。 荏 ヱ 原 ハラ 。 豊 嶋 郡 各 五 疋 。 」 とある。店屋 ・ 小高 ・ 大井 ・ 豊島 駅が置かれ、交通が整備された。 乗 あま 瀦 ぬま 駅 (延 喜 式 に は 記 載 が な い) は、 豊島駅と武蔵国府とを結ぶ支路の 駅で、杉並区天沼あたりとされる。 店屋駅は相模国府に通じていた。 〈武蔵国略図『國史大辭典 第 13 巻』1992 年 4 月 598 頁〉

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話である。中巻第九縁は武蔵国多磨郡の大領大伴赤麻呂が自ら建立した寺 の財物を借用したまま死んで牛に生まれ変わり負債を償う化牛説話で、郡 司層の仏教への関わりがうかがわれる。下巻第七縁は、武蔵国多磨郡小河 郷の正六位上大真山継が観音の霊験により罪を免れ、多磨郡の少領に任じ られる話である。 『先 代 舊 事 本 紀 d 』巻 第 十「国 造 本 紀」に よ れ ば、武 蔵 国 に は、无 邪 志 国 造 ・ 胸刺国造 ・ 知々夫国造の三国造が存在していたらしい。无邪志国は埼 玉県大宮を中心とした荒川流域を、胸刺国は多摩川流域をさす。それぞれ 北武蔵と南武蔵、秩父郡地方に大きな力をもっていたのであろう。 天武紀十三年 (六八四) の 条 e には次のようにある。 大化の改新後の武蔵国は、その国府を多磨郡小野郷に置く。倭名抄   巻 五   國 郡 部 に は「武 藏 國 國 府 在 多 磨 郡 」「多 磨 太婆 國府 」と あ る。武 蔵 国 府 跡 は 「府 中 市 の 南 端 を 流 れ る 多 摩 川 左 岸 の 立 川 段 丘 上 か ら 沖 積 微 高 地 上 に 立 地 し、そ の 関 連 遺 跡 群 も 含 め た 範 囲 は、東 西 約 三 キ ロ メ ー ト ル、南 北 最 大 一 ・ 八 キ ロ メ ー ト ル に 及 ぶ 5 」と さ れ る。現 在 の 府 中 市 に あ る 大 國 魂 神 社 (府 中 市 宮 町) 東 側 一 帯 の 京 きょ 所 うず 地 区 に 国 衙 が 比 定 さ れ て い る。国 府 の 北 方 三 キ ロ メ ー ト ル の 地 に 国 分 寺 も あ っ た。現 在 の 最 勝 院 国 分 寺 は 史 跡 地 の 北 (国分寺市西元町) にある。 『日 本 霊 異 記 c 』に は 多 磨 郡 の 説 話 が 三 話 あ る。中 巻 第 三 縁 は 武 蔵 国 多 麻 郡鴨の里の住人吉志火麻呂が大伴某人に指名されて筑紫の防人に三年赴く 五 月 の 辛 亥 の 朔 つきたち に し て 甲 子 に、 化 ま ゐ け 来 る 百 済 の 僧 尼 と 俗 しろきぬ 人 の 男 女 、 幷 せ て 二 十 三 人 、 皆 武 蔵 国 に 安 は 置 べ ら し む 。 戊 寅 に、 三 み 輪 わの 引 ひけ 田 たの 君 きみ 難 なに 波 は 麻 ま 呂 ろ を 大 使 と し、 桑 くはは 原 らの 連 むらじ 人 ひと 足 たり を小使として、 高 こ 麗 ま に遣す。 前者は百済の渡来人を武蔵国に置いた記事である。 後者は、朝鮮半島の不穏な情勢を示す記事である。 新編日本古典文学全集日本書紀の頭注には次のよう に 記 さ れ る。 「新 羅 王 に よ っ て 封 冊 さ れ た「高 句 麗 王」安 勝 は 神 文 王 三 年 (六 八 三) 十 月 に 新 羅 の 都 に 呼び寄せられ、金馬渚への帰国は認められず、新羅 は領域内の「高句麗」の消滅をはかっており、翌年 十一月には再興高句麗の地は新羅の金馬郡となる。 今回の遣高麗使は内乱勃発目前の騒然たる金馬渚訪 大國魂神社 武蔵國 最勝院国分寺

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これらの記事から百済や新羅の僧尼や渡来人を武蔵国に居住させ、開発に あたらせていたことは知られるが、世田谷との直接的な関わりは不明であ る。律 令 制 下 の 国 郡 郷 を 示 す 倭 名 抄   武 藏 國 に よ れ ば「多 磨 郡   小 川 乎加 波   川 口 加波 久知   小 楊 乎也 木   小 野 乎 乃   新 田 尒布 多   小 島 乎之 萬   海 田 安萬 多   石 津 伊之 都   狛 江 古乃 江   勢 多」 (平 安 時 代 末 期 写 の 高 山 寺 本 で は「狛 江 古万 江 」 b ) と あ り、多 磨 郡 には十の郷が存した。狛江の地名は現在も残り、狛江郷の由来は渡来系の 人々が多数居住したことによるといわれる。高麗人の居所「高麗居」に由 来するとする説があり、現狛江市駒井が遺称地とされ る 6 。一九五一年に発 掘 調 査 が 行 わ れ た 狛 江 市 亀 塚 古 墳 (五 世 紀 末 ~ 六 世 紀 初 頭) か ら 出 土 し た 金 銅製毛彫飾金具三枚には、エキゾチックな人物 ・ ペガサス ・ 竜とそれぞれ に唐草文の毛彫りが施されている。その構図や筆致が高句麗古墳の壁画に 類似していることから、狛江地域と渡来人との関係が推定されてい る 7 。天 平 十 三 年 (七 四 一) に は 国 分 寺 建 立 の 詔 が 出 さ れ る。武 蔵 国 国 分 寺 域 か ら は「狛」の逆字を押印した文字瓦が出土しており、 「「狛」とあるのは狛江 の こ と で あ ろ う。国 分 寺 の 建 立 に 狛 江 郷 も 協 力 し た と い う 証 拠 で あ る 8 」、 「「多」 「多麻」 「玉」 「狛」 「狛江」という文字瓦は多磨郡や狛江郷から寄進 さ れ た 瓦 で あ り、非 常 に 貴 重 で あ る 9 」な ど の 指 摘 や、 「同〔狛 江〕郷 に 含 まれると思われる現調布市 入 いり 間 まち 町 ょう 城 しろ 山 やま 遺跡で検出された墨書土器銘「高大 寺」は高麗大寺の略とみられ、入植した渡来系の人たちが寺院を建立して いたことが推知され る 10 」という言及などから、世田谷の地と渡来人は関わ っていたのだろう。武蔵国と深い繋がりをもつ人物として福信がいる。以 下『続日本紀』桓武天皇延暦八年 (七八九) 十月の記 事 h をあげる。 乙 酉、 散 さん 位 ゐ 従 三 位 高 倉 朝 臣 福 ふく 信 しん 薨 こう し ぬ。福 信 は 武 蔵 国 高 麗 郡 の 人 な り。本 の 問 と な り、新 羅 軍 に よ る 高 句 麗 覆 滅 後 の 帰 国 と な っ た」 。天 武 紀 十 四 年 (六 八 五) 九 月 条 e に、 「癸 亥 に、 高 こ 麗 まの 国 くに に 遣 せ る 使 つ か ひ 人 等 還 かへ れ り。 」と あ り、 「庚 午 に、化 来 る 高 麗 人 等 に、 禄 もの 賜 ふ こ と 各 おのもおのも 差 しな 有 り。 」と 記 さ れ る。六 八四年に国を滅ぼされた高句麗人の中には、日本への亡命を試み、遣使に 従 っ て 来 朝 し た 者 も 存 し た と 思 わ れ る。ま た、持 統 紀 元 年 (六 八 七) 四 月 条 e と四年 (六九〇) 二月 条 e には次の記事がある。 夏 四 月 の 甲 午 の 朔 に し て 癸 卯 に 、 筑 つく 紫 しの 大 おほみこともち 宰 、 投 化 せ る 新 羅 の 僧 尼 と 百 はく 姓 せい 男 女 二 十 二 人 を 献 る 。 武 蔵 国 に 居 はべ ら し め 、 賦 た た ま 田 ひ 受 かてたま 稟 ひ 、 生 なりはひ 業 を 安 か ら し め た ま ふ 。 壬申に、 帰 まゐおもぶ 化 ける新羅の 韓 かん 奈 な 末 ま 許 こ 満 まん 等 ら 十二人を以ちて、武蔵国に 居 はべ らしむ。 以下、武蔵国と渡来人の関わりを示す記事には次のようなものがあり、高 麗郡 ・ 新羅郡の設置が渡来人の居住によってなされている。 『続日本紀』元正天皇霊亀二年 (七一六) 五月の 条 f 辛 卯、駿 河 ・ 甲 斐 ・ 相 模 ・ 上 総 ・ 下 総 ・ 常 陸 ・ 下 野 の 七 国 の 高 麗 人 千 七 百 九 十九人を以て、 武 む ざ し 蔵 国に遷し、高麗郡を置く。 『続日本紀』聖武天皇天平五年 (七三三) 六月の 条 f 六 月 丁 酉、 (中 略) 武 蔵 国 埼 さき 玉 たま 郡 新 しら 羅 きの 人 ひと 徳 とこ 師 し ら 男 女 五 十 三 人 を、 請 こひ に 依 り て 金 こむ の姓とす。 『続日本紀』淳仁天皇天平宝字二年 (七五八) 八月の 条 g 癸 亥、 帰 まゐおもむ 化 き し 新 羅 の 僧 卅 二 人、尼 二 人、 男 をのこ 十 九 人、 女 めのこ 廿 一 人 を 武 蔵 国 の 閑 地に移す。是に始めて 新 し ら き 羅 郡を置く。

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姓 は 肖 せう 奈 な 。そ の 祖 おや 福 ふく 徳 とく 、 唐 たう 将 しや 李 うり 勣 せき 、 平 へいじやうじやう 壌 城 を 抜 く に 属 あた り て、 国 み く に 家 に 来 ま う 帰 き て、 武 蔵 の 人 と 為 り き。福 信 は 即 ち 福 徳 の 孫 うまご な り。 小 と し わ か 年 く し て 伯 を 父 じ 肖 奈 行 かう 文 ぶん に 随 ひ て 都 に 入 り き。時 に 同 輩 と 晩 頭 に 石 いその 上 かみの 衢 ちまた に 往 き て、 相 す ま ひ 撲 を 遊 い う け 戯 す。 巧 たくみ に そ の 力 を 用 ゐ て 能 く そ の 敵 あた に 勝 つ。遂 に 内 う ち 裏 に 聞 え て、召 し て 内 ない 竪 じゆ 所 しよ に 侍 ら し め、是 よ り 名 を 着 あらは す。初 め 右 う 衛 ゑ 士 じの 大 だい 志 し に 任 にむ し、 稍 やや く し て 遷 り て、天 平 中 に 外 従 五 位 下 を 授 け ら れ、 春 しゆんぐのすけ 宮 亮 に 任 せ ら る。聖 武 皇 帝 甚 だ 恩 幸 を 加 へ た ま ふ。 勝 宝 の 初、従 四 位 紫 し 微 び 少 せう 弼 ひつ に 至 る。本 の 姓 を 改 め て 高 こ ま 麗 朝 臣 と 賜 ひ、信 部 大 輔 に 遷 さ る。神 護 元 年、従 三 位 を 授 け ら れ、造 宮 卿 を 拝 し、兼 ね て 武 蔵 ・ 近 ちかつあふみ 江 の 守 を 歴 た り。宝 亀 十 年、書 を 上 たてまつ り て 言 さ く、 「臣、聖 化 に 投 し て よ り 年 と し 歳 已 に 深 し。但 し、新 し き 姓 の 栄、朝 臣 は 分 に 過 ぐ と 雖 も、旧 俗 の 号、高 麗 は 未 だ 除 か れ ず。伏 し て 乞 は く は、高 麗 を 改 め て 高 倉 と せ む こ と を」と ま う せ り。詔 し て、こ れ を 許 し た ま ひ き。天 応 元 年、 弾 だんじ 正 やう 尹 のゐん に 遷 さ れ、武 蔵 守 を 兼 ね た り。延 暦 四 年、 表 へう を 上 たてまつ り て 身 を 乞 ひ、散 位 を 以 て 第 てい に 帰 り き。薨 し ぬる時、年八十一。 『法 隆 寺 献 物 帳』 (寧 楽 遺 文 i ) に は 天 平 勝 寶 八 歳 (七 五 六) 七 月 八 日 の 記 事 に 「從四位上行紫微少弼兼武藏守巨萬朝臣「福信」 」の署名がある。高麗郡か ら出た渡来人が紫微中台という国家の中枢におり、武蔵守になったことが わ か る。武 藏 國 高 麗 郡 に は「高 麗 古 萬 」 郷 が 残 る。聖 天 院 (埼 玉 県 入 間 郡 日 高 町) 高 麗 山 勝 楽 寺 に は 高 麗 王 若 光 の 墓 が 伝 わ る。高 麗 神 社 に は 若 光 を ま つ る。武蔵国には渡来人との関わりが記される。 『続日本紀』淳仁天皇天平宝字二年 (七五八) 八月の 条 g には、次のように ある。 癸 亥、 帰 まゐおもむ 化 き し 新 羅 の 僧 ほふし 卅 二 人、尼 二 人、 男 をのこ 十 九 人、 女 めのこ 廿 一 人 を 武 蔵 国 の 閑 地に移す。是に始めて新羅郡を置く。 新 羅 郡 は 宝 亀 十 一 年 (七 八 〇) 五 月 条 を 最 後 に そ の 名 が み え な く な る。そ の 後 新 座 郡 と 改 称 さ れ た ら し い。倭 名 抄 の 訓 は「爾 比 久 良」 、足 立 郡 と 入 間 郡 の 間 に 新 座 郡 が の せ ら れ る b 。倭 名 抄 に は「荏 原 郡   蒲 田 加萬 太   田 本 多毛 止   満 田 上音 下訓   荏 原 江波 良   覺 志 加〻 之   御 田   木 田 木 多   櫻 田 佐久 良太   驛 家 b 」と あ る。この荏原郡覺志郷と多磨郡勢多郷が世田谷区域内に比定される。世田 谷は倭名抄多磨郡の勢多郷に由来 し b 、瀬田はその遺名とされている。 武蔵国が東海道所属へと改められたことは『続日本紀』光仁天皇宝亀二 年 (七七一) 十月 条 j にみえる。 己 卯、 太 だいじ 政 やう 官 ぐわん 奏 す ら く、 「武 蔵 国 は 山 せん 道 だう に 属 つらな る と 雖 も、兼 ね て 海 かい 道 だう を 承 う け た り。 公 く 使 し 繁 し 多 げ く し て 祗 し 供 く 堪 へ 難 し。そ の 東 とう 山 せん の 駅 や く ろ 路 は 上 かみつけの 野 国 新 にひ 田 たの 駅 うま 従 や り よ 下 しもつけの 野 国 足 あし 利 かがの 駅 うまや に 達 いた る。此 れ 便 へん 道 だう な り。而 る に 枉 まが り て 上 野 国 邑 お は ら き 楽 郡 従 り 五 いつつのうまや 箇 駅 を 経 て 武 蔵 国 に 到 り、 事 こ と を は 畢 り て 去 る 日 に、ま た 同 おな じ き 道 を 取 り て 下 野 国 に 向 ふ。 聖天院高麗王廟

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今 東 海 道 は、相 模 国 夷 いさ 参 まの 駅 うまや 従 り 下 しもつふさ 総 国 に 達 る ま で、そ の 間 ほど 四 駅 に し て 往 還 便 ち 近 し。而 し て 此 を 去 り 彼 かしこ に 就 く こ と、損 害 極 め て 多 し。臣 ら 商 量 す る に、 東 山 道 を 改 め て 東 海 道 に 属 つらな ら ば、公 私 所 を 得 て、人 馬 息 ふ こ と 有 ら む」と ま うす。奏するに可としたまふ。 武 蔵 国 が 東 海 道 所 属 に な っ た こ と で、東 海 道 は 相 模 国 か ら 店 屋 駅 (町 田 市 町 谷 付 近) → 小 高 駅 (川 崎 市 高 津 区 末 長 小 高 か ら 新 作 小 高 付 近) → 大 井 駅 (品 川 区 大 井) → 豊 島 駅 (北 区 御 殿 前 遺 跡 付 近) を 経 て 下 総 国 府 に 至 る 経 路 が 考 え ら れ て い る 11 。万 葉 集 の 最 終 歌 は 天 平 宝 字 三 年 (七 五 九) の 家 持 歌 で あ るが、巻十四の「東歌」における武蔵国は、東海道に置かれており、これ は天平宝字三年から十二年後の宝亀二年以降の万葉集編纂時の状況を反映 しているものと考えられる。巻二十の「防人歌」では武蔵国の防人たちが 国 府 か ら 部 領 使 の 掾 正 六 位 上 安 曇 宿 禰 三 国 に 伴 わ れ て、天 平 勝 寶 七 歳 (七 五 五) に 足 柄 峠 を 越 え て い く 様 が 詠 ま れ る (四 四 二 三 ・ 四 四 二 四) こ と か ら、 この時点ですでに東海道を用いていたことがうかがわれる。武藏国の防人 歌は巻二十の四四一三~四四二四の十二首である。この中には防人の妻の 歌も六首含まれる。左注に防人の出身郡と氏名が記される。四四一三~四 四 二 二 番 は 歌 番 号 の 下 に 左 注 の み を 記 し た (引 用 文 に 付 し た 傍 線 ・ 傍 点 ・ 囲 み等は筆者による。以下同じ) 。 二〇 ・ 四四 一三 右の一首、上丁 那珂郡 の檜前舎人石前が妻の大伴部真足女 二〇 ・ 四四 一四 右の一首、助丁 秩父郡 の大伴部小歳 二〇 ・ 四四 一五 右の一首、主帳 荏原郡 の物部歳徳 二〇 ・ 四四 一六 右の一首、妻の椋椅部刀自売 二〇 ・ 四四 一七 右の一首、 豊島郡 の上丁椋椅部荒虫が妻の宇遅部黒女 二〇 ・ 四四 一八 右の一首、 荏原郡 の上丁物部広足 二〇 ・ 四四 一九 右の一首、 橘樹郡 の上丁物部真根 二〇 ・ 四四 二〇 右の一首、妻の椋椅部弟女 二〇 ・ 四四 二一 右の一首、 都筑郡 の上丁服部於由 二〇 ・ 四四 二二 右の一首、妻の服部呰女 二〇 ・ 四四 二三 足柄の   み坂に立して   袖振らば   家なる妹は   さやに見もかも 安 之 我 良 乃   美 佐 可 尓 多 志 弖   蘇 埿 布 良 婆   伊 波 奈 流 伊 毛 波   佐 夜 尓 美毛可母    右の一首、 埼玉郡 の上丁藤原部等母麻呂 二〇 ・ 四四 二四 色深く   背なが衣は   染めましを   み坂賜らば   まさやかに見む   伊 呂 夫 可 久   世 奈 我 許 呂 母 波   曾 米 麻 之 乎   美 佐 可 多 婆 良 婆   麻 佐 夜 可尓美無    右の一首、妻の物部刀自売    二 月 二 十 九 日 に、武 蔵 国 の 部 領 防 人 使 掾 正 六 位 上 安 曇 宿 禰 三 国 が 進る歌の数二十首。ただし、拙劣の歌は取り載せず。 都筑郡 ・ 橘樹郡 ・ 荏原郡 ・ 豊島郡 ・ 秩父郡は多磨郡に隣接する郡である。 多 磨 郡 の 防 人 歌 は 載 せ ら れ な い が、 『日 本 霊 異 記 』中 巻 第 三 縁 に は 武 蔵 国 多麻郡鴨の里の住人吉志火麻呂が大伴某人に指名されて筑紫の防人に三年 赴く話があ る c 。多磨郡の兵士も防人として赴いた可能性はあろう。 巻九の高橋連虫麻呂歌集に武蔵国に下った時の歌一首    武蔵の小埼の沼の鴨を見て作る歌一首 九・ 一七 四四 埼 玉 の   小 埼 の 沼 に   鴨 そ 翼 霧 る   己 が 尾 に   降 り 置 け る 霜 を   払 ふ とにあらし

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都 か ら 訪 れ た 官 人 高 橋 虫 麻 呂 が 詠 ん だ 旋 頭 歌 で あ る。養 老 三 年 (七 一 九) 七月には常陸国守となり、按察使として安房 ・ 上総 ・ 下総の三国を管轄し た 藤 原 宇 合 (養 老 五 年 正 月 に 正 四 位 上 と な り 離 任 か) と の 主 従 関 係 か ら、虫 麻呂が国府の官人として常陸に在任したのを養老年間とみる説、また天平 年間とみる説もある。右の歌も東山道所属の養老から天平年間に作られた の で あ ろ う。冬 の 沼 地 の 荒 涼 と し た 風 景 が 浮 か ん で く る。東 歌 ( 14・ 三 三 八 〇) に も「埼 玉 の 津」が 詠 ま れ て い る。 「小 埼 の 沼」は、行 田 市 埼 玉 の 尾 崎 沼 神 社 あ た り が 小 埼 沼 跡 と 称 さ れ る (名 残 と し て「武 蔵 小 埼 沼」の 碑 が 建 つ) 。江 戸 時 代 後 期 の『新 編 武 藏 風 土 G 稿』巻 之 二 百 十 六 埼 玉 郡 之 十 八 忍領埼玉村の条に、 「 x 玉沼」 「村ノ北ニアリ古ヘ小 x 沼或ハ x 玉津ナト云 テ萬葉集ニモ歌アリテ當國ノ名所ナリ」とあり、 「 x 玉沼邊尾崎沼邊之圖」 として絵図を載せ る k 。 武蔵国の歌は東歌として相聞の部に九首採録されているが、次の歌は最 もよく知られる。 一四 ・ 三三 七三 多 摩 川 に   さ ら す 手 作 り   さ ら さ ら に   な に そ こ の 児 の   こ こ だ か な しき 多 麻 河 泊 尓   左 良 須 弖 豆 久 利   佐 良 左 良 尓   奈 仁 曾 許 能 児 乃   己 許 太 可奈之伎 三 三七三番の万葉歌碑は狛江市にある。真鶴産小松石を用いた高さ二 ・ 七 メ ー ト ル、幅 一 ・ 四 二 メ ー ト ル の 巨 碑 で あ る。揮 毫 は 松 平 定 信 (楽 翁) 。 こ の 歌 碑 の 初 代 碑 は、文 化 二 年 (一 八 〇 五) に 猪 方 半 縄 (現 在 の 猪 方 四 丁 目 辺 り) に 建 て ら れ た が、洪 水 で 流 失 し た。大 正 時 代 に 玉 川 史 跡 猶 予 会 が 結 成されると、松平定信を敬慕する渋沢栄一らと狛江村の有志らが協力し、 大正一三 (一九二四) 年、旧碑の拓本を模刻して現在の新碑が建てられた。 多摩川万葉歌碑 多摩川 右歌碑拓本

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多 摩 川 は「六 玉 川 (む た ま が わ) の 一 つ で、水 路 と し て 活 用 さ れ 東 海 道 の矢口 ・ 脇往還の登戸 ・ 丸子など渡船場が多くあった。沿岸には調布 ・ 布 田などの地名が残り、布さらしで知られ、 「調」として朝廷に貢献された。 「手作り」 「晒す」などと共に詠まれることが多 い 12 」とある。区内の砧、調 布市などの名称は、調布の生産に関わる地名といわれている。 天武紀五年四月の 条 e には封戸の記事がみえる。大宝令制では封戸の納め る租の半額と調 ・ 庸の全額が封の所有者の収入となる。 辛 亥 に、勅 す ら く、 「諸 王 ・ 諸 臣 の 給 は れ る 封 戸 の 税 は、以 西 の 国 を 除 き て、 相易へて以東の国に給へ。 (中略) 」とのたまふ。 西国の封戸が東国に移されたようである。封戸は『延喜式』巻二十二   民 部省 上 l に、 凡 諸 家 封 戶、各 爲 二 三 分 、 一 一 分 充 二 輸 レ 絁 國 、 一 二 分 輸 レ 布 國、但 伊 賀、伊 勢、 參 河 、 近 江 、 美 濃 、 越 中 、 石 見 、 備 v 、 周 防 、 長 門 、 紀 伊 、 阿 波 等 國 不 レ 得 レ 充 レ 封 、 とあり、絁 ・ 布に重点を置いて設定されていた。武蔵国の特徴は封戸が多 い こ と で あ る。 『新 抄 格 勅 符 抄 』第 十 巻 抄   大 同 元 年 牒 に よ れ ば、武 蔵 国 には次のような寺領があった。 東大寺   四百五十戸   西大寺   二百五十戸   法花寺   五十戸     藥師寺   百戸 山階寺   百戸      飛鳥寺   四百十五戸   川原寺   百五十戸   大安寺   百戸      武蔵国は封戸が関東八国の中でも特に多い。薬師寺は讃岐国二百戸と比 べると少ないが、それでも百戸である。絁 ・ 布の貢進が非常に多かったこ とがわかる。 『延喜式』巻二十三   民部省 下 l には 武藏國   筆一百管、膠五十斤、蔴黃 五 斤 、蔴子六斗、   *五十斤の異本もある。 武藏國   絁 五 十 疋、布 一 千 五 百 端、商 布 一 萬 一 千 一 百 段、 豉 六 石 五 斗。龍 鬚 席 卅 枚、細 貫 席 卅 枚、席 五 百 枚、履 料 牛 皮 二 枚、鞦 廿 具、鹿 革 六 十 張、 鹿皮十五張、紫草三千二百斤、木綿四百七十斤、櫑子四合、 『延 喜 式』巻 二 十 四   主 計 寮 上 l に は、武 蔵 国 か ら 貢 上 し た 調 が 次 の よ う に 規定されている。 武藏國 行程、上廿九 日、下十五日、 調、緋 帛 六 十 疋、紺 帛 六 十 疋、黃 帛 一 百 疋、橡 帛 廿 五 疋、紺 布 九 十 端、縹 布 五十端、黃布 y 端、自餘輸 二 絁、布 、 一 こうした機織りに武蔵国に移り住んだ渡来人の技術が活かされたことは、 『万 葉 集』巻 十 ・ 二 〇 九 〇 番 の 七 夕 歌 や 巻 十 二 ・ 二 九 七 五 番 の 正 述 心 緒、 巻十四 ・ 三四六五番の東歌の中の「高麗錦」の語に示唆される。六六八年 に国が滅亡しても、その文化は古代日本の文化の形成に大きな影響を与え、 「高 麗」の 名 は そ の 様 式 を 受 け 継 い だ 高 級 工 芸 品 に 対 し て 用 い ら れ た。な お、 『新 編 武 藏 風 土 G 稿』巻 之 九 十 三 多 磨 郡 之 五   上 布 田 宿 の 布 多 天 神 社

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の 条 に は、 「桓 武 天 皇 延 暦 十 八 年 木 綿 ノ 實 始 メ テ 渡 リ シ ナ レ ト 人 イ マ タ 布 ニ製スルコトヲシラス其時多磨川邊ニ菅家ノ所緣ニテ近國ニ名ヲ顯ハセシ 廣福長者トイへルモノアリ天神ノ社ヘ七晝夜參籠シテ不思議ニ神ノ吿ヲ蒙 リ布ヲ製スルノ術ヲ得テ多磨川ニサラシテコレヲトヽノヘテ奉リヌ是乃本 朝木綿ノ初ナリトカヤ帝御 B 淺カラス即チ其布ヲ調布トノタマヘリソレヨ リ此邊武州調布ノ里トイヘ リ k 」という木綿の生成と調布の地名起源が伝え られる。 『日本後紀』桓武天皇延暦十八年 (七九九) 七月是月 条 n には、一人 の天竺人が参河国に漂着し、綿種をもたらしたと記される。 次 に、東 歌 に 詠 ま れ た う け ら に つ い て 記 す。 『万 葉 集』に は う け ら の 花 は 三 首 (或 本 歌 を 含 め れ ば 四 首) に 詠 ま れ い ず れ も 東 歌 で あ り、三 首 の う ち 二首は武蔵野の歌である。 一四 ・ 三三 七六 恋しけば   袖も振らむを   武蔵野の   うけらが花 4 4 4 4 4 の   色に出な ゆめ 古 非 思 家 波   素 弖 毛 布 良 武 乎   牟 射 志 野 乃   宇 家 良 我 波 奈 乃   伊 呂 尓 豆奈由米    或 本 の 歌 に 曰 く、 「い か に し て   恋 ひ ば か 妹 に   武 蔵 野 の   う け 4 4 らが花 4 4 4 の   色に出ず あらむ」    或 本 歌 曰、伊 可 尓 思 弖   古 非 波 可 伊 毛 尓   武 蔵 野 乃   宇 家 良 我 波 奈乃   伊呂尓低受安良牟 一四 ・ 三三 七九 我 が 背 子 を   あ ど か も 言 は む   武 蔵 野 の   う け ら が 花 4 4 4 4 4 の   時 な き も の を 和 我 世 故 乎   安 杼 可 母 伊 波 武   牟 射 志 野 乃   宇 家 良 我 波 奈 乃   登 吉 奈 伎母能乎 右の二首が武蔵国の歌で、未勘国歌に一首載せられている。 一四 ・ 三五 〇三 安斉可潟   潮干のゆたに   思へらば   うけらが花 4 4 4 4 4 の   色に出め やも 安 斉 可 我 多   志 保 悲 乃 由 多 尓   於 毛 敝 良 婆   宇 家 良 我 波 奈 乃   伊 呂 尓 弖米也母 これらにはすべて花が詠まれ、うけらの花が「色」や「時」を起こす序と な っ て い る。 「色 に 出 づ」は、秘 め て い た 恋 の 思 い を 表 に 出 す 意 で あ る。 巻十一 ・ 二七二五の「黄土」 、二七八四の「韓藍の花」 、巻十二 ・ 二九七六 の「紫」で は、 「色 に 出」す の「色」は 赤 系 統 と い わ れ る。う け ら の 花 は 秋に白または淡紅色の花を開き、目立たないように顔色にお出しなさいま す な と い う 形 容 に 用 い ら れ る。こ れ に つ い て は、第 二 節 に 記 す。 『 增 訂 萬 葉集全註釋 十 13 』では「ウケラの花は、夏期にかけて長いあいだ笑くので、 時無シを引き起している」とする。うけら、をけらは『播磨国風土記』や 『出雲国風土記』に、 「白朮」と記され、その茎根が薬とされた。 うけらの花

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天武紀十四年九月の 条 e には天武天皇の御病気のことが記される。 丁 卯 に、天 皇、 体 み や ま ひ 不 予 し た ま ふ が 為 に、三 日、大 官 大 寺 ・ 川 原 寺 ・ 飛 鳥 寺 に 誦経せしむ。因りて稲を以ちて三寺に納めたまふ。各差有り。 この記事と直接関わるのかは不明だが、同十四年十月庚辰、十一月丙寅の 記 事 e に次のようにある。 庚 辰 に、百 済 の 僧 法 蔵 ・ 優 婆 塞 益 田 直 金 鐘 を 美 濃 に 遣 し て 白 朮 4 4 を 煎 し む。因 りて絁 ・ 綿 ・ 布を賜ふ。 丙 寅 に、法 蔵 法 師 ・ 金 鐘、 白 朮 4 4 の 煎 た る を 献 る。是 の 日 に、天 皇 の 為 に 招 みたまふり 魂 しき。 「白朮」はキク科の多年草で山野に自生し、若芽は食用に根茎は薬となる。 『本 草 綱 目 啓 蒙 o 』に は「朮」に は 蒼 朮 と 白 朮 が あ り、各 自 異 種 と す る。天 武紀では白朮の煎薬を献じたところから天武天皇の病や、招魂の儀式と関 わるのかもしれない。 倭 名 抄 に は、 「朮   尒 雅 注 云、朮 儲律反、 乎介 u 、 (中 略)   本 草 陶 注 云、朮 乃 有 二 兩 種 、 一 白 朮、葉 大 有 レ 毛 而 作 レ 椏、根 甜 而 少 レ 膏、赤 朮、葉 細 無 レ 椏、根 小 苦 而 多 レ 膏 b 」と あ り、白 朮、赤朮の別がある。江戸時代中期の『和漢三才圖 會 p 』巻第九十二之本   山草類上巻には白朮の効用として、①中を暖める、②脾 ・ 胃の中の湿を取 り去る、③胃中の熱を除く、④脾 ・ 胃を強くし飲食を進める、⑤胃を和め 津液を生じさせる、⑥肌熱を止める、⑦四肢が疲れ、だるくて臥寝がちで、 目は開けられず、飲食の欲のないものに効がある、⑧渇きを止める、⑨胎 を安定させる、の九つを挙げる。 平安時代の『医心 方 q 』には薬の調合法として、 「『范汪方』ニ云 ウ (ママ) 、朮、 芍薬ハ、皮ヲ刮ギテ去レ」とある。こうした朮の効能は古代から受け継が れ て き た と み ら れ る。 『延 喜 式』巻 三 十 七 典 薬 寮 の「草 藥 八 十 種」の 中 に 「白朮」が見え、 「諸國進年料雜藥」の中にある。これによれば「白朮」は 畿内では山城国 ・ 大和国 ・ 摂津国、東海道では尾張国 ・ 参河国 ・ 駿河国 ・ 安房国 ・ 下総国 ・ 常陸国、東山道では近江国 ・ 美濃国 ・ 飛騨国 ・ 信濃国の 諸国から貢上されたが、武蔵国廿八種の中には含まれていない。東歌をみ ると多くの朮が生育していたと思われるのだが、白朮の質がよくなかった のであろうか。万葉集には押さえきれぬ恋情表現の対比として目立たない うけらの花が詠まれるのみである。 以上のように、現代の世田谷の地名は万葉の時代から連綿と受け継がれ ているのである。辺境であっても、税に関わる布や身近な植物を素材に万 葉集には当時の武蔵を彷彿させる歌が残されている。 二   東歌にみる武蔵 武蔵国の歌は東歌として相聞の部に九首採録されている。 一四 ・ 三三 七三 多 摩 川 に   さ ら す 手 作 り   さ ら さ ら に   な に そ こ の 児 の   こ こ だ か な しき 多 麻 河 泊 尓   左 良 須 弖 豆 久 利   佐 良 左 良 尓   奈 仁 曾 許 能 児 乃   己 許 太 可奈之伎 一四 ・ 三三 七四 武蔵野に   卜部かた焼き   まさでにも   告らぬ君が名   占に出にけり 武 蔵 野 尓   宇 良 敝 可 多 也 伎   麻 左 弖 尓 毛   乃 良 奴 伎 美 我 名   宇 良 尓 低 尓家里

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一四 ・ 三三 七五 武蔵野の   をぐきが雉   立ち別れ   去にし夕より   背ろに逢はなふよ 武 蔵 野 乃   乎 具 奇 我 吉 芸 志   多 知 和 可 礼   伊 尓 之 与 比 欲 利   世 呂 尓 安 波奈布与 一四 ・ 三三 七六 恋しけば   袖も振らむを   武蔵野の   うけらが花の   色に出なゆめ 古 非 思 家 波   素 弖 毛 布 良 武 乎   牟 射 志 野 乃   宇 家 良 我 波 奈 乃   伊 呂 尓 豆奈由米    或 本 の 歌 に 曰 く、 「い か に し て   恋 ひ ば か 妹 に   武 蔵 野 の   う け らが花の   色に出ずあらむ」    或 本 歌 曰、伊 可 尓 思 弖   古 非 波 可 伊 毛 尓   武 蔵 野 乃   宇 家 良 我 波 奈乃   伊呂尓低受安良牟 一四 ・ 三三 七七 武 蔵 野 の   草 は も ろ 向 き   か も か く も   君 が ま に ま に   我 は 寄 り に し を 武 蔵 野 乃   久 佐 波 母 呂 武 吉   可 毛 可 久 母   伎 美 我 麻 尓 末 尓   吾 者 余 利 尓思乎 一四 ・ 三三 七八 入 間 道 の   大 屋 が 原 の   い は ゐ つ ら   引 か ば ぬ る ぬ る   我 に な 絶 え そ ね 伊 利 麻 治 能   於 保 屋 我 波 良 能   伊 波 為 都 良   比 可 婆 奴 流 ゝ ゝ   和 尓 奈 多要曾祢 一四 ・ 三三 七九 我 が 背 子 を   あ ど か も 言 は む   武 蔵 野 の   う け ら が 花 の   時 な き も の を 和 我 世 故 乎   安 杼 可 母 伊 波 武   牟 射 志 野 乃   宇 家 良 我 波 奈 乃   登 吉 奈 伎母能乎 一四 ・ 三三 八〇 埼玉の   津に居る舟の   風を疾み   綱は絶ゆとも   言な絶えそね 佐 吉 多 万 能   津 尓 乎 流 布 祢 乃   可 是 乎 伊 多 美   都 奈 波 多 由 登 毛   許 登 奈多延曾祢 一四 ・ 三三 八一 夏麻引く   宇奈比をさして   飛ぶ鳥の   至らむとそよ   我が下延へし 奈 都 蘇 妣 久   宇 奈 比 乎 左 之 弖   等 夫 登 利 乃   伊 多 良 武 等 曾 与   阿 我 之 多波倍思   右の九首、武蔵国の歌 東歌二三七首のうち、百首あまりに序詞が用いられ、恋情を表出する。 武蔵国の歌も物の特徴に寄せて心情が歌われる。以下の歌の引用には、序 に傍線を付し、序に導かれる語は囲った。 一四 ・ 三三 七三 多 摩 川 に   さ ら す 手 作 り   さ ら さ ら に   な に そ こ の 児 の   こ こ だ か な しき 「手作り」は、細かい麻糸を織り上げた布を白くするために、水に晒し、 日に曝す。阿蘇瑞枝氏が『萬葉集全歌講義   第七 巻 14 』で指摘するように、 サが上代でツァだったとすれば、現代人のサ行音の清音の繰り返しとは異 な る。上 二 句 は 序 で、 「晒 す」と 同 音 で、川 の 流 れ も 思 わ せ る。水 に「さ ら す」布 の 揺 ら め き が 川 の 水 の 流 れ や 川 音 に 重 ね ら れ、 「さ ら さ ら に」と 清らかな水が絶え間なく流れるように、さらにさらにと「このこ」への思 い が 募 っ て い き、言 い よ う も 無 い 愛 し さ が「こ こ だ」に 強 調 さ れ、 「か な し」に集約されていく。前半のサ行音の繰り返しは情景を呼び起こしなが ら歌い手の切迫した感情に繋がり、後半のカ行音の繰り返しに結びついて 歌にリズムと変化をもたらしている。 武蔵国の歌に用例はみられないが、東歌の中に男女の直接的な性愛を歌 う「寝」の語が多く用いられることは、柴生田稔 氏 15 ・ 西鄕信綱氏によって 指 摘 さ れ て い る。同 様 に、 「か な し」も 東 歌 に 特 徴 的 に 用 い ら れ る 語 で あ る と 西 鄕 氏 が 言 及 し て い る。三 三 七 三 の 東 歌 に「か な し」 、四 四 一 三 の 防 人 歌 に「ま か な し き」の 語 が 用 い ら れ る。 「か な し」の 語 に つ い て 西 鄕 信

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綱 氏 は、 「卷 十 一 ・ 十 二 で 壓 倒 的 に つ か は れ て ゐ る「戀 し」と い ふ や う な 表現よりは、もつと肉感にそくし、直接的愛撫とつながり、それを下地に も つ た 表 現 で あ る や う に お も は れ る 16 」と 指 摘 す る。 「か な し」は 巻 十 四 の 東歌では三三五一、三三五八の或本歌、三三六六、三三七二、三三七三、 三三八六、三四〇三、三四〇八、三四一二、三四五一、三四六二、三四六 五、三四六六、三四八六、三五〇〇、三五三三、三五三七、三五三七の或 本歌、三五四八、三五四九、三五五一、三五五六、三五六四、防人歌では 三五六七、譬喩歌では三五七六、挽歌では三五七七にみられる。 一四 ・ 三三 七四 武蔵野に   卜部かた焼き   まさでにも   告らぬ君が名   占に出にけり 「か た 焼 き」は 三 四 八 八 番 に も 詠 ま れ、い ず れ も 秘 め ら れ た「告 ら ぬ」 恋人の名が占いの象に現れ出たことを歌う。現在も東京都青梅市の武藏御 嶽神社では、正月三日に太占祭が行われており、男鹿の左肩甲骨を忌火で 焼いた錐で突き通す鑽焼によるひび割れの如何によって、農作物の吉凶を 占う。 当該歌ではすでに噂になっていた恋を占いによってあきらかにしようとし た の か、幾 人 か 候 補 者 を 挙 げ て 実 否 を 占 っ た の か、 「作 者 (女) の 親 な ど が相手の名を知ろうと努め た 17 」のか、それが「 母 18 」なのかは不明である。 歌 で は 個 人 の 恋 愛 も 露 わ に さ れ た こ と が う か が え、 「ま さ」は 現 実、真 実 にも、卜占に自分の恋人の名が表れた驚きや、神意に顕れたことによって かえって恋を宿命的なものと受け止める女の気持ちが詠まれる。 武蔵御嶽神社太占斎場 太占祭結果 鹿卜写真 ※ 上段の太占祭結果と下段の鹿卜の 骨のひび割れは関連しない。

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一四 ・ 三三 七五 武蔵野の   をぐきが雉   立ち別れ   去にし夕より   背ろに逢は なふ 4 4 よ 「武 蔵 野 の を ぐ き が 雉」が「立 ち 別 れ」を 導 く 序 で、男 が 女 の も と か ら 立 ち 去 っ た 状 況 が、雉 が 飛 び 立 つ よ う に 慌 た だ し か っ た こ と を 示 す。 「を ぐき」は深い山間で、 「去にし」の主語は「背ろ」である。 「ろ」は親愛の 接 尾 辞 で、男 は 何 か の 職 務 の た め に 旅 立 っ た の で あ ろ う。 「夕」は 男 女 の 逢会の時間であり、実際は夜を共に過ごしたのかもしれないがヨヒの語に よってその時間が十分ではなかったことが示され、二 ・ 三句と響き合う。 男の出立から隔てられた日々の長さを振り返るように、逢えないつらさが 「逢はなふよ」に表出する。 「なふ」は東国方言、打消の助動詞の終止形で、 「よ」は詠嘆の意を表す。 一四 ・ 三三 七六 恋しけば   袖も振らむを   武蔵野の   うけらが花の   色に出  なゆめ 袖振りは、招魂 ・ 求愛を示す。恋の思いがあふれ苦しくてならない時に 袖を振るのは心を確かめ合った恋人同士の間で取り交わされる愛情表現で あ る。 「武 蔵 野 の う け ら が 花 の」が「色 に 出 づ」の 序 に な っ て い る。う け らの花が目立たない花であることから、そのようにという趣で、第五句に かかるとする説『注 釋 19 』に従う。或本歌は男性の歌で、激しい恋をしてい ればその思いが外に出るのは当然であり、どのような恋をしたならその思 いをうけらの花のように外に出さずにすむのかと訴える。内藤茂氏はうけ らは「目立たない花だが、忍ぶ恋をこの花に託した万葉人の自然を見る目 の鋭さに驚 く 20 。」 と述べる。忍ぶ恋を強いられた男は、 どのような恋であっ たなら武蔵野のうけらの花のように恋心を表に出さずにすむのかと、激し い 恋 心 を 内 に 秘 め る 困 難 さ を 詠 う 。 両 歌 は 、 い ず れ も 切 な い 恋 の 局 面 を 詠 う 。 一四 ・ 三三 七七 武 蔵 野 の   草 は も ろ 向 き   か も か く も   君 が ま に ま に   我 は 寄 り に し を 「も ろ 向 き」は、一 斉 に 向 く と い う 説 と あ ち ら こ ち ら に 向 く と い う 説 (「 草 クサ 葉 ハ 諸 モロ 向 ムキ なり、此方へも、彼方へも、依向ふを云り」 『古 義 21 』・ 『全 集 22 』・ 『注 釋 23 』) がある。前者は『萬葉集私注   七』に、 「は」を助詞として、 「モロはモロ トモニで、モロテ、モロハの類の語も、兩方一緒に、兩方皆共にの意であ る。……ここのモロムキも諸共に一方に向く意で、ヨリニシヲにかかると 見 る べ き で あ る 24 」と し、 『古 典 文 学 大 系 25 』、 『萬 葉 集 全 歌 講 義   第 七 巻 26 』、 『岩 波 古 語 辞 典 27 』も こ の 立 場 を と る。後 者 は『萬 葉 代 匠 記』初 稿 本 が「も ろむきはこなたへもかなたへも風にまかせてむかふをいへ り 28 」と指摘した 説 で あ る。上 二 句 が 序 で、 「か も か く も」は も ろ 向 き の 状 態 を 受 け る。 「を」は 逆 説 的 表 現 で、武 蔵 野 の 草 が 風 に な び い て 一 斉 に 向 く と と れ ば、 男の強い気持ちに押されてすっかり靡き寄ってしまったものを、と草の様 子と男の行動、女の心情は一致する。武蔵野の草が風のまにまにあちらこ ち ら に 向 く と と れ ば、 草 の 様 に 喩 え た 男 の 心 を 信 じ た 女 は 男 に 翻 弄 さ れ た ことになる。前者の意で取れば女の強く寄せる男への思いが表れ、後者の 意で取れば男の心に左右される女の心情が表れる。 一四 ・ 三三 七八 入 間 道 の   大 屋 が 原 の   い は ゐ つ ら   引 か ば ぬ る ぬ る   我 に な 絶 え そ ね 「大 家 が 原」は 倭 名 抄 に「武 藏 國 入 間 郡 大 家 於保 也介 」 b と あ る。 「い は ゐ つ ら」は蔓性植物らしいが未詳、スベリヒユ説、ジュンサイ説がある。上三 句が「引かばぬるぬる」を導く序である。ヌルはほどける意で、水島義治 氏 の『萬 葉 集 全 注   巻 第 十 四』は「 「ぬ る ぬ る」の 語 感 か ら す れ ば 沼 や 池 などに生える植物がふさわしいのではない か 29 。」とする。 「引く」は男が女

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を 誘 う 意、 「ぬ る ぬ る」は「何 の 抵 抗 も な く 滑 なめ ら か な さ ま。物 に も 心 に も い う。 「 寝 ぬ る」の 意 を 懸 け る」 (『古 典 集 成 30 』) 。「我 に な 絶 え そ ね」は 私 と の 仲を絶やさないでおくれの意で、 「な……そ」は禁止、 「ね」は相手に対し て そ の 行 為 の 実 現 を 誂 え 望 む 意 の 終 助 詞 で あ る。東 歌 に は「寝 を 先 立 た ね」 (三 三 五 三) 、「紐 結 ば さ ね」 (三 四 二 六) そ の 他 全 部 で 八 例 み え る。 「そ ね」の 形 も こ の 例 の ほ か に「言 な 絶 え そ ね」 (三 三 八 〇 ・ 三 三 九 八) 、「雷 な 鳴 り そ ね」 (三 四 二 一) な ど、八 例 が 東 歌 に み え る。上 代 だ け に 見 ら れ る も のであり、~しないでほしいの意で穏やかな禁止を表す。類歌では、 一四 ・ 三四 一六 上野   可保夜が沼の   いはゐつら   引かばぬれつつ   我をな絶えそね   (上野国) 一四 ・ 三五 〇一 安 波 を ろ の   を ろ 田 に 生 は る   た は み づ ら   引 か ば ぬ る ぬ る   我 を 言 な絶え   (未勘国) のように地名や植物が変わり、語句の小異があるが、発想は類似している。 一四 ・ 三三 七九 我 が 背 子 を   あ ど か も 言 は む   武 蔵 野 の   う け ら が 花 の   時 な き  も の を 「あどかも言はむ」は、 「あど」は「など」の訛りで疑問の副詞、この私 の 思 い を 何 と 言 い 表 し た ら よ い の だ ろ う か。 「武 蔵 野 の う け ら が 花 の」の 三 ・ 四句は「時なき」を起こす。うけらは花が開いても蕾のままの形であ ると受け止められていたようで、 『和歌童蒙抄』には次のように記される。 う け ら と は 香 藥 也。と こ な つ に 花 あ り。つ ぼ み た る や う に て 笑 也。集 注 爾 雅 曰、朮 は 花 あ り と い へ ど、ひ ら け ざ る ご と し と 云 へ り。さ れ ば 時 な き も の を とよめり。 花が咲いても開かないのと同じ状態なので「時なきものを」と解釈してい る 31 。水 島 義 治 氏 は、 「う け ら の 花 は 花 期 が 長 く、夏 か ら ず っ と 秋 の 間、長 期間咲いていることから「時無き」にかかるものと思われ る 32 」と指摘する。 「時」だけにかかるとみる説 (『略 解 33 』・ 『古 義 34 』・ 『新 考 35 』・ 『全 釋 36 』・ 『注 釋 37 』など) も あ る。 「時 な き」は い つ も 時 を 定 め ず 常 に の 意 で、わ が 夫 を 恋 し く 思 う 気持の絶え間ないことをいう。類歌には、 一四 ・ 三四 二二 伊 香 保 風   吹 く 日 吹 か ぬ 日   あ り と い へ ど   我 が 恋 の み し   時 な か り け り 4 4 4 4 4 4 二〇 ・ 四三 〇一 印南野の   赤ら柏は   時はあれど   君を我が思ふ   時はさねなし 4 4 4 4 4 4 の二首があり、いずれも恋や敬慕の思いが絶え間ないことを歌う。 一四 ・ 三三 八〇 埼玉の   津に居る舟の   風を疾み   綱は絶ゆとも   言な絶えそね 「埼 玉 の 津」は 行 田 市 あ た り の 利 根 川 の 旧 水 路 に あ っ た 船 着 き 場、渡 し 場である。風が烈しいので、船を繋ぎとめている舫い綱が切れることがあ っても、二人の仲を絶やさずに続けてほしい、という愛情関係が絶えない ことを願う。類歌は、 一四 ・ 三三 九八 人 皆 の   言 は 絶 ゆ と も 4 4 4 4 4 4   埴 科 の   石 井 の 手 児 が   言 な 絶 え そ ね 4 4 4 4 4 4   (信 濃国) と、言が絶えないことを希求する。 一四 ・ 三三 八一 夏 麻 引 く   宇 奈 比 を さ し て   飛 ぶ 鳥 の   至 ら む と そ よ   我 が 下 延 へ し 「夏麻引く」は、夏、麻の皮をこいで績む意、夏麻を引く畝の意で、 「宇 名比」や「海上」の枕詞になる。 「宇奈比」は地名とされるが不明である。

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『萬 葉 集 私 注   七』の「東 京 都 内 の 宇 奈 根 が、そ の 遺 名 で あ ら う と い ふ 說 も あ る が 確 か で は な い 38 。」と い う 記 述 を う け て『萬 葉 集 注 釋 巻 第 十 四』に 多摩川北岸の世田谷区宇奈根と、川を挟んで南の川崎市高津区宇奈根の地 名 が あ り、 「ウ ナ ネ は ウ ナ ヒ の 轉 じ た も の で な い か 39 」と 指 摘 す る。そ う で あれば、三三七三の多摩川に晒す麻布の歌と関係性をもつ。現在地は未詳 で あ る が、 「葦 屋 の 菟 名 日」 ( 9・ 一 八 〇 一) の よ う に 海 辺 の 地 で あ っ た と もいわれる。宇奈比をさして飛ぶ鳥のように、と上三句を序にして、思う 相手のいる宇奈比に至らむと、心の中でずっと思っていたのだ、と密かな 思 い を 抱 い て い た こ と を 詠 む。 『 增 訂 萬 葉 集 全 註 釋 十』に は、 「ウ ナ ヒ が わ が思う人の住處で、作者はそこから離れて旅に出ているのであろ う 40 」と述 べ る。 「夏 麻 引 く」 は 夏 期、 麻 を 根 引 き す る 意 で、 労 働 の 苛 酷 さ か ら 転 じ て、 相手を一途に思う心を飛ぶ鳥に喩えることで清々しいイメージが伝わる。 三三七四~三三七七番は武蔵野の占術、うけらの花や草に寄せて切ない 恋の様々な局面を見事に歌い上げる。武蔵国東歌は序詞の割合が非常に大 き い。遠 藤 宏 氏 は 武 蔵 国 東 歌 の 序 詞 に つ い て 次 の よ う に 述 べ る。 「多 摩 川 に   さ ら す 手 作 り   さ ら さ ら に」 (三 三 七 三) で は「序 詞 部 分 の「さ ら す (曝) 」と 心 情 表 出 の 部 分 の「さ ら さ ら に」と は 同 音 の 関 係 に あ る。 (中 略) こ の 同 音 関 係 に あ る 語 を 繋 ぎ と し て 結 合 さ れ 一 首 を な し て い る (後 略) 」。 「武 蔵 野 の   を ぐ き が 雉   立 ち 別 れ」 (三 三 七 五) は「序 詞 部 が「立 ち 別 れ」 と い う 一 語 に 譬 喩 的 関 係 と い っ て よ い 関 係 で 続」い て い る。 「武 蔵 野 の う け ら が 花 の」 (三 三 七 六 ・ 三 三 七 九) は 一 首 の 途 中 に 序 詞 が 置 か れ る。 「武 蔵 野 の   草 は も ろ 向 き   か も か く も」 (三 三 七 七) は、 「上 二 句 は (中 略) 「か もかくも」ということばを起こすのではなく、草の諸向きの状態が「かも かくも」という内面を喚起している」 。「入間道の   大屋が原の   いはゐつ ら」 (三 三 七 八) も「序 詞 部 全 体 と 心 情 表 出 部 全 体 が 結 ば れ て お り、景 か ら 心 情 へ の 転 換 が 行 わ れ て い る 41 」。遠 藤 氏 の 指 摘 の よ う に 序 詞 部 は 当 事 者 の 置かれた状況や強い心情の表出と関わっている。序詞「埼玉の   津に居る 舟 の   風 を 疾 み」 (三 三 八 〇) は「綱 は 絶 ゆ と も」の 状 態 を 引 き 出 し、逆 説 的に願望を述べる。九首中八首にみられるこれらの序詞は地名から始まっ ており、その土地の風物や情景と歌の発想が強い結びつきをもっているこ とを示す。 武蔵歌の九首は相模国と上総国の間に入れられ、武蔵国が東海道に属す る も の と す る 配 列 で、宝 亀 二 年 (七 七 一) 以 降 の 観 念 が 表 れ て い る。屋 名 池 誠 氏 は、 「東 歌 に 反 映 し た 一 部 の 東 国 方 言 で は / ・ 子 音 終 わ り 語 幹 (四 段 活 用) の 動 詞 ・ 動 詞 型 接 尾 辞 ・ 助 動 詞 の 已 然 形 / ・ 母 音 終 わ り 語 幹 (二 段 活 用) の 動 詞 ・ 動 詞 型 接 尾 辞 の 語 幹 末 / で、そ れ ぞ れ エ 列 乙 類 が 甲 類 に 変 わ る と い う 形 態 変 化 が 進 行 中 で あ っ た」と 指 摘 し、 「東 歌 に 反 映 し た 音 韻 状 況 は、防 人 歌 に 反 映 し た 音 韻 状 況 に 先 立 つ も の」と す る。ま た、 「東 歌 は (少 な く と も そ の 一 部 は) 現 地 方 言 の 話 者 に よ っ て 音 韻 レ ベ ル で 筆 録 さ れ、方 言 色 (の 少 な く と も 一 定 部 分) は 理 解 不 能 の た め や む を え ず 残 さ れ た ものにすぎな い 42 」とする。それ故に当時の東国の言語の様を彷彿とさせる も の が あ る。三 三 七 五 番 の 否 定 辞 ナ フ は 陸 奥 (三 四 二 六) ・ 常 陸 (三 三 九 四) ・ 上 野 (三 四 一 九) ・ 下 野 (四 三 七 八) ・ 武 蔵 国 な ど 足 柄 坂 以 東 の 上 代 日 本語の東国方言に用いられ、現代の否定辞ナイの前身とされる。屋名池氏 は、音 韻 ・ 文 法 面 か ら 東 国 の 国 別 け 表 示 は 信 頼 で き る も の と し、 「ナ フ」 は武蔵以北の地域に連続して分布していたも の 43 と考察する。小泉保氏は、 「八 世 紀 に お け る 古 代 日 本 語 で は、大 和 地 方 を 中 心 と す る 西 部 古 代 日 本 語 に対して、関東 ・ 東北に基盤をおく東部古代日本語の方言的差異が認めら

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れているが、その代表が否定形の「ぬ」と「なふ」であり、これが現代で は「ン」と「ナ イ」に 投 影 し て い る 44 。」と 述 べ る。現 代 方 言 の 東 西 の 相 違 はすでに奈良朝には芽生えていたのである。 三   防人歌にみる武蔵 防 人 制 度 は 天 智 紀 三 年 (六 六 四) 条 に「是 の 歳 に、対 馬 島 ・ 壱 岐 島 ・ 筑 紫国等に、防と烽とを置く。 」とそのはじまりが記される。 『続日本紀』天 平 宝 字 元 年 (七 五 七) 閏 八 月 条 g に は、 「壬 申、勅 し て 曰 は く、 「大 宰 府 の 防 人に、頃年、坂東の諸国の兵士を差して発遣せり。是に由りて、路次の国、 皆、供給に苦みて、防人の産業も亦、弁済し難し。今より已後は、西海道 の七国の兵士合せて一千人を差して、防人司に充て、式に依りて鎮戍らし む べ し。 (後 略) 」」と 記 さ れ、東 国 か ら の 防 人 派 遣 を 廃 止 し た と あ る。天 平十年 (七三八) 度の周防國正稅 帳 s には、 「向京防人參般供給穎稻壹仟捌伯 陸 拾 漆 束」と あ る。 「向 京 防 人」の 集 団 は 三 般 に 分 か れ て 周 防 国 を 通 過 す る。正 税 帳 が 断 簡 で あ る た め、上 般 の 人 数 は 記 さ れ な い が、 「中 般 防 人 玖 伯 伍 拾 參 人」 「後 般 防 人 壹 伯 貳 拾 肆 人」と あ り、二 般 併 せ て 一 〇 七 七 人 が 京に向かったことがわかる。岸俊男氏は前後の関係から上般を八〇〇人と 推量し、これに天平十年度の筑後国正税帳に記される備前国児島に向かっ た者を加え、約二三〇〇人が防人として動員される総数とみる。天平十年 度 の 駿 河 國 正 稅 帳 s に は、 「 舊 防 人 伊 豆 國 貳 拾 貳 人   甲 斐 國 參 拾 玖 人、相 模 國貳伯參拾人   安房國參拾參人   上總國貮伯貳拾參人   下總國貳伯漆拾人   常陸國貳伯陸拾伍人   合壹阡捌拾貳人」とある。東海道に所属する国の中 でも遠江 ・ 駿河は載せられておらず、東山道に属する信濃国、上野国、下 野国、武蔵国は含まれていない。岸氏は「これら六国の防人があと半分の 約 一 〇 〇 〇 人 を 占 め て い た と 推 定 す る 45 」。仮 に 一 国 の 動 員 割 当 て が 同 じ と すれば、一国あたり一六六名となる。武蔵国から赴いた防人は約一六六名 あ ま り と な る。防 人 の 任 期 は 三 年、天 平 神 護 二 年 (七 六 六) 四 月 壬 辰 の 条 j では、 「東人を差点して三千に填てむ。 」とあり、防人の定数を三〇〇〇人 とする。武蔵国の防人歌は次の十二首である。 二〇 ・ 四四 一三 枕大刀   腰に取り佩き   まかなしき   背ろがまき来む   月の知らなく 麻 久 良 多 之 4   己 志 尓 等 里 波 伎   麻 可 奈 之 伎   西 呂 我 馬 伎 己 無   都 久 乃 之良奈久   右の一首、上丁那珂郡の檜前舎人石前が妻の大伴部真足女 二〇 ・ 四四 一四 大君の   命恐み   愛しけ   真子が手離り   島伝ひ行く 於 保 伎 美 乃   美 己 等 可 之 古 美   宇 都 久 之 気   麻 古 我 弖 波 奈 利   之 末 豆 多比由久   右の一首、助丁秩父郡の大伴部小歳 二〇 ・ 四四 一五 白玉を   手に取り持して   見るのすも   家なる妹を   また見てももや 志 良 多 麻 乎   弖 尓 刀 里 母 之 4 弖   美 流 乃 須 母   伊 弊 奈 流 伊 母 乎   麻 多 美 弖毛母也   右の一首、主張 荏原郡 の物部歳徳 二〇 ・ 四四 一六 草枕   旅行く背なが   丸寝せば   家なる我は   紐解かず寝む 久 佐 麻 久 良   多 比 由 苦 世 奈 我   麻 流 祢 世 婆   伊 波 奈 流 和 礼 波   比 毛 等 加受祢牟   右の一首、妻の椋椅部刀自売 二〇 ・ 四四 一七 赤駒を   山野にはがし   捕りかにて   多摩の横山   徒歩ゆか遣らむ 阿 加 胡 麻 乎   夜 麻 努 尓 波 賀 志 4   刀 里 加 尓 弖   多 麻 能 余 許 夜 麻   加 志 4 由

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加也良牟   右の一首、豊島郡の上丁椋椅部荒虫が妻の宇遅部黒女 二〇 ・ 四四 一八 我が門の   片山椿   まこと汝   我が手触れなな   地に落ちもかも 和 我 可 度 乃   可 多 夜 麻 都 婆 伎   麻 己 等 奈 礼   和 我 弖 布 礼 奈 ゝ   都 知 尓 於知母加毛   右の一首、荏原郡の上丁物部広足 二〇 ・ 四四 一九 家ろには   葦火焚けども   住み良けを   筑紫に至りて   恋しけ思はも 伊 波 呂 尓 波   安 之 布 多 気 騰 母   須 美 与 気 乎   都 久 之 尓 伊 多 里 弖   古 布 志気毛波母   右の一首、橘樹郡の上丁物部真根 二〇 ・ 四四 二〇 草枕   旅の丸寝の   紐絶えば   我が手と付けろ   これの針持し 久 佐 麻 久 良   多 妣 乃 麻 流 祢 乃   比 毛 多 要 婆   安 我 弖 等 都 気 呂   許 礼 乃 波流母 志 4   右の一首、妻の椋椅部弟女 二〇 ・ 四四 二一 我が行きの   息づくしかば   足柄の   峰這ほ雲を見とと偲はね 和 我 由 伎 乃   伊 伎 都 久 之 可 婆   安 之 我 良 乃   美 祢 波 保 久 毛 乎   美 等 登 志努波祢   右の一首、都筑郡の上丁服部於由 二〇 ・ 四四 二二 我が背なを   筑紫へ遣りて   愛しみ   帯は解かなな   あやにかも 寝も 和 我 世 奈 乎   都 久 之 倍 夜 里 弖   宇 都 久 之 美   於 妣 波 等 可 奈 ゝ   阿 也 尓 加母祢毛   右の一首、妻の服部砦女 二〇 ・ 四四 二三 足柄の   み坂に立して   袖振らば   家なる妹は   さやに見もかも 安 之 我 良 乃   美 佐 可 尓 多 志 4 弖   蘇 埿 布 良 婆   伊 波 奈 流 伊 毛 波   佐 夜 尓 美毛可毛   右の一首、 埼玉郡 の上丁藤原部等母麻呂 二〇 ・ 四四 二四 色深く   背なが衣は   染めましを   み坂賜らば   まさやかに見む   伊 呂 夫 可 久   世 奈 我 許 呂 母 波   曾 米 麻 之 乎   美 佐 可 多 婆 良 婆   麻 佐 夜 可尓美無   右の一首、妻の物部刀自売   二 月 二 十 九 日 に、武 蔵 国 の 部 領 防 人 使 掾 正 六 位 上 安 曇 宿 禰 三 国 が 進 る歌の数二十首。ただし、拙劣の歌は取り載せず。 四 四 二 四 番 の 左 注 に よ れ ば 残 さ れ て い る の は、天 平 勝 寶 七 歳 (七 五 五) 二月の交替の東国防人の歌である。三月一日を交替の日とし、難波に集結 した東国十カ国の防人たちの歌八十四首のうち、武蔵国は十二首を載せる がそのうち六首が妻の歌であるのが特徴である。 妻が歌ったうち四首が夫の歌と並べて載せられる。語句の響き合いがう かがわれるのは四四一五と四四一六番、四四二三と四四二四番であるが、 相手の句をとり入れて詠む都人の唱和のあり方とは異なる。 すでに岸俊男氏が指摘しているが、防人歌の配列順序が一定の基準に基 づ い て い る も の と み て、武 蔵 で は 上 丁 (妻) ⑴ ― 助 丁 ⑴ ― 主 帳 ⑴ ― 上 丁 ⑸ の 歌 が 残 さ れ て い る が、各 国 の 防 人 集 団 に は 国 造 丁 (国 造) ― 助 丁 ― 主 帳 丁 (帳 丁 ・ 主 帳) ― (火 長) ― 上 丁 (防 人) の 関 係 が 成 立 し て い た と 推 察 す る。丁 は 軍 防 令 に 兵 士 は「同 戸 之 内 毎 二 三 丁 一 取 二 丁 一 (兵 士 簡 点 条) に ある丁に通じるとみ る 46 。東国の防人集団は最も多くて三〇〇人以下、少な い場合は二〇 ― 三〇人のこともあり、国造丁は一名、助丁 ・ 主帳もそれぞ れ一名もしくは二名ずつ、人数の少ない場合にはその中のあるものを欠く

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こ と も あ っ た と 思 わ れ る。彼 ら の 下 に 一 般 の 防 人 兵 士 (上 丁) が あ り、そ の十人ごと一組の長として火長が任ぜられていたらしい。武蔵国では、国 造 丁 に あ た る 者 の 歌 は 載 せ ら れ ず、助 丁 (秩 父) 大 伴 部 小 歳 ― 主 帳 丁 (荏 原) 物部歳徳 ― 火長 (歌が載せられていない) ― 上丁 (那珂) 檜前舎人石前 ・ (豊 島) 椋 椅 部 荒 虫 ・ (荏 原) 物 部 広 足 ・ (橘 樹) 物 部 真 根 ・ (都 筑) 服 部 於 由 ・ (埼 玉) 藤 原 部 等 母 麻 呂 の 名 が み ら れ る。武 蔵 国 の 防 人 は 大 伴 部、物 部などの者が任じられている。防人歌は一字一音の万葉仮名で表記されて いるので、当時の東国方言の訛音を伝えている。迫野虔徳氏は「武蔵国に は、訛形の場合を除いて、特殊仮名遣いの関係音節は六十余例あるが、そ の う ち 誤 り と 思 わ れ る も の は、わ ず か に「都 久 之 倍 夜 里 弖」 (筑 紫 へ、四 四 二 二) の 一 例 だ け で あ る 47 。」と 指 摘 す る。武 蔵 国 で は、上 代 特 殊 仮 名 遣 が 正確に書き留められている。 二〇 ・ 四四 一三 麻 久 良 多 之 4   己 志 尓 等 里 波 伎   麻 可 奈 之 伎   西 呂 我 馬 伎 己 無   都 久 乃 之良奈久 「枕 大 刀」 「ま か な し き」 「背 ろ が ま き 来 む」の よ う に マ 音 が 重 ね ら れ、 引き離されるように旅立った夫が再び戻ってくる日がわからないと歌う妻 の 哀 切 さ が 漂 う。 「枕 大 刀」の タ シ 4 は タ チ 4 の 訛 り、寝 る と き に 枕 元 に 置 く ことからこのように称したかといわれる。カナシは愛憐の意で三三五一番 にも用いられる。背ろの「ろ」は親愛の接尾辞、東国方言で三三七五番に もみえる。 「まき来む」は原文「馬伎己無」 。マキは難解で、メキと訓む説 (『古 典 文 学 大 系 48 』・ 『注 釋 49 』・ 『新 古 典 文 学 大 系 50 』等) も あ る。諸 説 が あ り、 『萬 葉代匠記』初稿本は「めきこんは、まきこんなり。まきは罷の字にて、ま か り 歸 こ ん の 心 な り 51 」と す る。 『萬 葉 集 全 歌 講 義   第 十 巻』に あ る よ う に 「マ カ リ コ ム (罷 り 来 む) 」の 意 52 、と み ら れ る。 「ツ ク」は「ツ キ」の 訛 り、 「知らなく」は、 「知らず」のク語法である。檜前舎人は檜前舎人部の略で、 檜前廬入宮を宮とした宣化天皇の名代部とみられる。大伴部真足女はその 妻であるが、武蔵国は妻の歌六首を採録し、他の国に比して異例である。 夫の歌は載せられない。四四二四番の左注に記されるように、拙劣歌ゆえ に除かれたか、と考えられる。出立の場で夫婦が詠み交わした歌であろう か。 二〇 ・ 四四 一四 於 保 伎 美 乃   美 己 等 可 之 古 美   宇 都 久 之 気   麻 古 我 弖 波 奈 利   之 末 豆 多比由久 この歌には、海路の不安を詠む。作者が大伴部であることに関わるのか、 防人の中に「大君の命恐み」と詠めるほどの思想的統制がとれる階層が存 したことが知られる。多田一臣氏はこのことばに「王権の権威を奉ずるこ との自負とその絶対性に対するあきらめにも似た服従の気持ち」の二重性 を み る 53 。「真 子」は 愛 す べ き 若 い 娘 の 意 で、異 郷 を 旅 行 く 不 安 を 和 ら げ て く れ る の が、家 に 居 て 案 じ て く れ る 愛 す る 妻 と の 紐 帯 で あ っ た。 「真 子」 に は「古 ゆ   語 り 継 ぎ つ る   う ぐ ひ す の   現 し 真 子 か も」 ( 19・ 四 一 六 六) の よ う に ほ と と ぎ す が う ぐ い す の 愛 を 受 け て 育 っ た 子 と い う 例 が あ る。 「は な り」は「は な れ」の 訛 り で あ る。四 三 三 八 番 の 場 合 と 同 じ く、助 丁 の階級でありながら、一般兵士上丁よりも後に置かれている。 二〇 ・ 四四 一五 志 良 多 麻 乎   弖 尓 刀 里 母 之 4 弖   美 流 乃 須 母   伊 弊 奈 流 伊 母 乎   麻 多 美 弖毛母也 「白 玉 を 手 に 取 り 持 し て」の「持 し て」は「持 ち て」の 訛 り、中 央 方 言 の

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