• 検索結果がありません。

写真と真理 : スーザン・ソンタグ『写真論』再考

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "写真と真理 : スーザン・ソンタグ『写真論』再考"

Copied!
11
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

写真と真理 : スーザン・ソンタグ『写真論』再考

著者

柴田 健志

雑誌名

鹿児島大学法文学部紀要人文学科論集

85

ページ

75-84

発行年

2018-02-28

URL

http://hdl.handle.net/10232/00029988

(2)

七五 えられる認識について考察してみた。すると、意外なことに、現代社会 において真理とは何かという問いかけが導き出されたのである。ソンタ グ と の 関 係 は こ こ ま で で 終 わ る( 1 〜 3) 。 そ れ 以 下 は こ の 問 い か け に 対する私の解答である(4) 。

  

 

知覚

  1 9 世 紀 に お け る 写 真 装 置 の 発 明 と そ の 普 及 は 社 会 に い っ た い ど ん な 影 響 を 及 ぼ し た の で あ ろ う か。 ベ ン ヤ ミ ン の『 写 真 小 史 』( Benjamin 1991 )をはじめ、写真についての理論的な考察はつねにこのような問い かけをもとにして展開されている。 ソンタグの 『写真論』 も例外ではない。 この問いかけに対するソンタグの解答は非常にシンプルなものである。 「 写 真 は 現 実 を た だ 記 録 す る か わ り に、 事 物 の 私 た ち へ の 現 れ か た の 規 範となり、 そのことによって現実 ( reality ) の観念、 リアリズム ( realism ) 観念そのものをかえてしまった」 ( Sontag 1977:87 )。 ソンタグは写真を論じるにあたって、他の論者とは基本的に異なった視 点に立っている。すなわち、現実の複製を目的にした写真という新テク ノロジーを、絵画という旧テクノロジーと対比することによってその特 色を論じるという手法に訴えるのではなく、人間の眼による現実の知覚 との対比を中心に置いている。この視点の設定には批判的な意図がはた らいている。ソンタグの意図を鮮明にするには、次の点に注意を向けて

  

写真と真理

 

      

スーザン・ソンタグ『写真論』再考

  

  

  

 

  

はじめに

  スーザン・ソンタグの『写真論』はすでに写真論の古典である。とこ ろが、この本でソンタグがいったい何を主張しようとしたのかは意外と はっきりしない。それゆえ、この本をあらためて読み直してみなければ ならないのである。では、どんな視点からこの本を再読すべきであろう か。ソンタグは写真についての論述のほとんどを、写真が現代社会で果 たす役割の考察に当てている。重要な論点はふたつある。 (1) 写真は現実を記録するのではなく現実についてのひとつの見方を 提供する (2) 現代社会において写真が記憶にとってかわっている それぞれの論点は極めて洞察力に富んだものである。しかし、この二つ の論点を総合すると、現代社会についていったいどのような認識がもた らされるかという点は、 ソンタグ自身が明確に述べているわけではない。 そこで私は、ソンタグ自身の論点を再構成した上で、それらを総合して

(3)

柴    田    健    志 七六 習慣的な知覚を超えたもうひとつの知覚にすぎない。それが「規範」と なることによって「現実の観念」も「リアリズムの観念」もかわってし まったというのがソンタグの判断である。   では、写真によってかえられてしまった「現実の観念」とは何であろ う か。 「 現 実 」 と は 人 間 の 想 像 を 超 え た 存 在 を 指 す と い う 古 典 的 な 観 念 のかわりに、 「現実」とはこれまでの習慣的な事物の現れかたとは異なっ た現れかたを指す観念となったのである。ようするに、写真は真理では な く た ん に「 新 し い も の の 見 か た 」( Sontag 1977 :89 ) を 提 供 し た に す ぎない。 写真とはこれまでの習慣に反するもうひとつの習慣なのである。 「 写 真 が 習 慣 的 に 見 る こ と の 味 気 な い 外 皮 を は ぎ と っ て い る か ぎ り、 そ れ は 見 る こ と の も う ひ と つ 別 の 習 慣 を 作 り 出 し て い る 」( Sontag 1977 :99 )。 ソンタグは写真が現実の「暴露( disclosure )」 ( Sontag 1977 :119 )であ ると主張しているが、以上の論点を踏まえれば、もはやこの言葉を「真 理の顕現」という意味に理解することはできない。むしろ「写真は私た ちがこれまで見たことがなかったような仕方で私たちにものを見せてく れる」 ( Sontag 1977 :119 )ということを意味しているのである。   まとめると、ソンタグにおいて写真はわれわれを事物の存在そのもの にかかわらせるテクノロジーではなく、われわれが事物を知覚するひと つの様態を提供するテクノロジーである。写真は人間が感覚的にはけっ して知覚できない事物の存在それ自体を真理として示すのではなく、理 想的な知覚を提示するのである。ソンタグがいうように、写真とは「事 おく必要がある。絵画との対比によって語られる場合、写真の特色は現 実を忠実に記録するという点に集約される。たとえモデルがいたとして も、絵画は人間の想像によって生み出されるものであることにかわりは ない。ところが写真はたんなる光学的な過程であるがゆえに人間の想像 力が介入することはできず、それゆえ事物の存在がありのままに写し出 されると考えられる。すなわち、写真には人間の想像によって変形され な い 真 理 が あ る と い う こ と に な る。 ア ン ド レ・ バ ザ ン の 写 真 論( Bazin 2002 )がこのような言説の典型的なものである。このような考えに正面 から反対することがソンタグの意図したことである。     ソンタグによれば、 写真は「現実をただ記録する」ものなのではない。 たしかに、はじめのうちはそう思われたかもしれない。しかし、写真が 普及するにつれ、そのような考えが事実に反するものであるということ に人々は気づかされることになる。 「 人 々 は 誰 も 同 じ 事 物 を 同 じ 写 真 に 撮 る こ と は な い と い う こ と を す ぐ 発 見した」 ( Sontag 1977 :88 )。 絵画ほどではないとしても、写真にすら事物に対する人間の想像的な姿 勢が反映されている。したがって写真に写し出されているのは事物のあ りのままの存在ではないことになる。いいかえれば、写真は何ら真理を 語るものではないのである。   では、写真によって示される事物とはいったい何であろうか。人間が 日常生活の習慣にしたがって事物を知覚するのとは違った仕方で知覚さ れ た 事 物 で あ る。 写 真 と は、 人 間 の 想 像 を 超 え た 事 物 の 存 在 で は な く、

(4)

写真と真理   七七 ているように、プルーストは写真よりも人間の記憶(想起)を信頼して いた。文学的な創造という観点からいえば当然であろう。プルーストの ような人から見れば、写真など記憶のたんなる補助手段にすぎない。と ころが、そのような考えは現代社会の通念にはむしろ逆行しているとい う点をソンタグは指摘するのである。 「 記 憶 の 道 具 と し て 利 用 で き る 限 り に お い て の み 写 真 を 考 え る こ と に よって、プルーストは写真がどんなものなのかという点をどうやら誤解 し て い た よ う で あ る。 写 真 は 記 憶 の 道 具 と い う よ り も む し ろ 記 憶 の 発 明 な の で あ り 記 憶 に と っ て か わ る も の な の で あ る 」( Sontag 1977 :164-165 )。 なるほど、写真は人間の曖昧な記憶よりもよほど確かな過去の記録であ る。それゆえ、 人間は写真にもとづいて自分の物語を語ることができる。 実際、写真が普及し始めた19世紀後半から20世紀前半の時代におい て、写真とは記憶であるという考えが社会通念として成立していた。 「 1 9 世 紀 お よ び 2 0 世 紀 初 頭 に お い て 写 真 に か ん す る も っ と も あ り ふ れ た 観 念 は、 写 真 の 記 憶 と し て の 役 割 に か ん す る 観 念 で あ っ た 」 ( Trachtenberg 2008 :115 )。   では、このような考えは現代の人間にも見出されるであろうか。この 点 に つ い て 参 照 す べ き 作 品 が あ る。 『 ブ レ ー ド ラ ン ナ ー』 (1) で あ る。 こ の作品には、写真が重要な意味を持つエピソードが含まれている。その 物の私たちへの現れかたの規範」なのである。 「写真的リアリズムは本当に( really )そこにあるものではなく、 私が本 当 に( really ) 知 覚 す る も の と し て 定 義 さ れ う る し、 ま す ま す そ の よ う に定義されるようになっている」 ( Sontag 1977 :120 )。

  

 

記憶

  写真にかんするソンタグのもうひとつの論点は、現代社会において写 真が記憶にとってかわったという事実である。ソンタグはいったい何を いおうとしているのであろうか。ソンタグによれば、昔のことを思い出 すきっかけとして写真が撮られていると考えることはできない。 つまり、 写真は記憶の補助手段とみなされているわけではない。むしろ写真とは 記憶そのものであると考えられているという点をソンタグは事実として 指摘しているのである。無論、人間は写真などなくても過去を想起する ことはできる。しかし、過去の想起は想像と区別することが難しく、か つその内容にかんしてきわめて曖昧である。これに対して写真は記憶と して正確である。想起されたことがまったくの想像であるということは ありうるが、写真に写っているものが存在しなかったということはでき な い か ら で あ る。 そ れ な ら、 写 真 が 曖 昧 な 記 憶 に と っ て か わ れ ば よ い。 この考えを徹底させれば、 写真がなければ記憶はないということになる。 つまり、写真とは記憶そのものである。   もちろん、これと正反対の考えも成り立つ。実際、ソンタグも言及し

(5)

柴    田    健    志 七八 「 写 真 は 記 憶 で あ る。 記 憶 の 地 位 は す で に か わ っ て し ま っ た。 ポ ス ト モ ダンという時代において、記憶とはもはやプルーストのマドレーヌのよ うなものではなく写真なのである。過去とはいまや写真や映画やテレビ のイメージの集合体となった」 ( Bruno 1990 :73 )。 ブルーノは「写真は記憶である」という認識があたかも「ポストモダン という時代」にはじめて出現したかのように述べているが、事実はそう ではない。むしろソンタグがいうように、プルーストの時代からすでに 「写真は記憶」だったのである。以下に見るように、 「ポストモダン」の 特徴はこの認識そのものがある種の変容をこうむった点に認められなけ ればならない。   こ の 点 を 示 す た め に、 ( 1) の 論 点 と( 2) の 論 点 を こ こ で 総 合 し て みよう。 それによっていったいどんなことが明らかになるのであろうか。 ( 1) の 論 点 に よ れ ば、 写 真 と は 過 去 に つ い て の ひ と つ の 見 方 を 提 供 す るものにすぎず、過去の真理を証言するものではない。ところが、 (2) の論点によれば、人間は過去の証言として写真に頼ってしまった。写真 はその鮮明さの点で想起という形での記憶をはるかにしのぐものだから である。すると、人間は、最終的には真理を保証することが不確かであ るようなものに、自分の過去についての証言をゆだねてしまったという ことになる。   これが明らかにするのは、写真という環境のなかに生きる現代人のな かに、自己の存在に対する特殊な態度が生まれたという点である。すな わち、自分の物語を語るには写真が必要だが、その確実性に対しては懐 疑的にならざるをえないという態度である。このような曖昧な態度が現 エ ピ ソ ー ド は、 人 間 の 存 在 に 対 し て 切 迫 し た 問 い を 突 き つ け て い る も の と み な さ れ て、 こ れ ま で 頻 繁 に 論 じ ら れ て い る エ ピ ソ ー ド な の で あ る (2) 。   『 ブ レ ー ド ラ ン ナ ー』 の デ ッ カ ー ド( ハ リ ソ ン・ フ ォ ー ド ) は「 レ プ リ カ ン ト 」 と 呼 ば れ る 人 造 人 間( 原 作 で は「 ア ン ド ロ イ ド 」) を 狩 る バ ウ ン テ ィ・ ハ ン タ ー で あ る。 デ ッ カ ー ド の 前 に レ イ チ ェ ル( シ ョ ー ン・ ヤング)というレプリカントの女が現れる。レイチェルは子供のときに 母親とならんで撮った写真をデッカードに見せる。しかし、そんな写真 は撮られたはずがない。レイチェルはレプリカントであり、したがって 母親も父親もいないからだ。ではなぜそんな写真をレイチェルは持って いるのか。レプリカントが自分を人間と思いこむことを目的にして、レ プリカントを製造したタイレル社が偽造した写真である。つまり、写真 によってレプリカントに与えられるのは記憶なのである。もちろんそれ は偽の記憶なのだが。   注目すべきことは、写真によって記憶が与えられるという発想そのも のである。レプリカントは記憶を自発的に想起するのではない。写真を 見るだけである。しかし、ただそれだけで記憶が与えられる。レプリカ ントは自分が人間であると思いこむのである。こうした設定が説得力を 持つには、写真とは記憶であるということ、いや記憶とは写真であると い う 前 提 が な け れ ば な ら な い。 『 ブ レ ー ド ラ ン ナ ー』 の 観 客 が こ の 設 定 に疑問を感じないとすれば、観客もまたこの前提を受け容れているから である。 『ブレードランナー』の記憶のエピソードが持つ意味について、 ジュリアナ・ブルーノは次のようにいう。

(6)

写真と真理   七九 存在についての確実な証言であるという保証はない。このような状況の なかで懐疑主義が発生するのは当然である。この懐疑は自己の存在に対 しても向けられる。事実、現代の人間は自分の物語を語るために写真を 必要としている。しかし、写真が提供するイメージは人間の眼による知 覚と本質的に同じ水準にある。つまり、写真は確実な真理を与えてくれ ない。とすれば、人間が自己の存在についての懐疑主義に陥る危険が生 じる。デッカードがそうであるように、私は自分がそうであると信じて いるものとは違った存在でありうるという可能性を否定することができ ないのである。   デジタル・イメージが普及した現在においては、この懐疑はいっそう 強められるであろう。デジタル技術は、現実に存在する対象のイメージ を加工するだけでなく、現実に存在しない対象のイメージを構成するこ と が で き る。 オ ー ウ ェ ル が『 一 九 八 四 年 』( 一 九 四 九 ) で 創 作 し た「 記 録省」による写真偽造技術はすでに現実になっている。そこで、あらゆ る写真がデジタル・イメージである可能性を想定すれば、すべてが嘘で あるということになる。無論このような想定は相当に誇張されたもので ある。しかし、現代社会のなかにデジタル・イメージが広く浸透してい るという現実を踏まえれば、けっして無意味な想定ではない。   こうした状況に対抗するためにプルーストのように想起に訴えること はできない。というのも、想起のような曖昧なもの、しかもプルースト 自身がいうように精神の高度な緊張を要求するものによって、写真の即 物的な鮮明さに対抗することなど到底不可能であると考えられるからで ある。 想起がいかに無力なものであるかという点は、 『一九八四年』 でオー ウェルが描写しているとおりである。 代人のなかに間違いなくあることを、やはり『ブレードランナー』のエ ピソードが示している。   デッカードの部屋にも写真がある。レイチェルの写真と同様、家族写 真である。デッカードはレプリカントではなく人間である。しかし、レ プリカントであるレイチェルにも家族写真はある。すると、家族写真が あることは自分がレプリカントではなく人間であることの確実な証拠に はならないであろう。こうしてデッカードは自分の存在そのものに懐疑 の眼を向けなければならない。写真は真理を証言するとは限らない。し か し、 写 真 が な け れ ば 過 去 の 存 在 に つ い て 信 頼 す べ き も の は 何 も な い。 したがって懐疑は不可避的に生じる。唯一信頼すべきものの確実性が揺 らいでいるからである。   ただし、このような懐疑はデジタル・イメージの出現によってはじめ てもたらされたものではない。光学作用にもとづく従来の写真がすでに このような懐疑に扉を開いているのである。デジタル・イメージはこの ような状況をはっきりさせたのであって、 それを生み出したのではない。 デジタル・イメージの出現は「写真による視覚的世界の構成に内在する アポリアを暴きたて、写真の客観性という考えそのものを脱構築する機 会」 ( Mitchell 1992 : 7 )を提供したとみなすべきであろう。

  

 

真理

  写真は記憶である。過去に存在した事柄について何かはっきりしたこ とを知りたければ写真に頼らなければならない。しかし、写真が過去の

(7)

柴    田    健    志 八〇 の 存 在 で あ る。 「 私 」 が ま さ に 今 懐 疑 を 遂 行 し て い る と い う こ と は「 欺 く神」 でさえ欺くことができない ( Descartes 1996b :13-19 )。 『方法序説』 に出てくる「私は考える、ゆえに私はある」 ( Descartes 1996a  :32 )と いう命題はこのようなことを意味している。   デジタル・イメージによる懐疑がデカルトの誇張された懐疑と同じ論 理になっていることはすでに明瞭であろう。デカルトの感覚知覚に相当 するのは光学作用にもとづく写真であり、その信頼性を破壊するために デカルトが想定した「欺く神」に相当するのはデジタル・イメージであ る。それなら、デジタル・イメージによって強化された懐疑主義から脱 却するには、デカルトの哲学に依拠して、懐疑する「私」の存在の確実 性を主張すべきなのであろうか。自分が何者であるかを知るために写真 など不要であり、ただ自分が自分であるという直観だけを信用すべきな のであろうか。現代の懐疑主義にとって、そのような解決はおそらく意 味をなさないであろう。というのは、 問題になっている自己の存在とは、 デカルトの「私」のように経験的な次元を否定することによって見出さ れ る 存 在 で は な く( 事 実、 デ カ ル ト は 身 体 の 存 在 を 否 定 し て い る )、 ま さに記憶によって作り上げられている経験的かつ社会的な存在としての 自己の存在だからである。この次元で発せられる「私は何者か」という 問いかけにデカルトの哲学は答えることができない。また、プルースト のように、写真を否定して自発的な記憶の想起によって真理に到達する という手段も採用できない。すでに指摘した理由以外に、もっと重要な 理由がある。記憶は写真によって与えられるというのが現代社会の前提 であり、解決はこの前提の下で見出される必要があるからである。ソン タグのいうようにプルーストはこの点を誤解していた。 「 彼 は 子 ど も の 頃 の 記 憶 を 必 死 に た ぐ り 寄 せ な が ら、 ロ ン ド ン が 昔 か ら ずっとこんな風であったのかを思い出そうとした。 ( ・・ ・ )しかし無駄だっ た。どうしても思い出すことができない。眩いばかりの光に照らされた 劇的な情景が次から次へと何の背景もなく、ほとんど脈絡もなく現れる だ け で、 子 ど も 時 代 の 記 憶 は 何 ひ と つ 残 っ て い な か っ た 」( オ ー ウ ェ ル 2009 :10-11 )。 し か も、 フ ロ イ ト の い う よ う に、 人 間 が 自 分 の 幼 少 期 に つ い て 持 っ て い る 記 憶 は 後 に な っ て 創 作 さ れ た も の で あ る 疑 い が あ る( フ ロ イ ト 2010 :342-343 )。 人 間 は 現 実 に 起 こ ら な か っ た こ と を「 想 起 」 し て い る のである。つまり、想起こそ偽の記憶であるかもしれないのである。   ところで、哲学史的にとらえれば、デジタル・イメージにもとづく誇 張された懐疑と同一の論理は、 すでにデカルトによって構築されている。 デカルトは感覚知覚をとおして与えられる認識がときとして誤っている という点に注目し、確実にものを知るには感覚知覚に対する信頼を放棄 する必要があると考えた。さらに、デカルトは知識に対して徹底的な懐 疑を遂行するために、2+3=5というような明白な真理でさえ誤って いる可能性があると主張した。というのも、 デカルトによれば「欺く神」 がつねに人間を誤らせていると想定することができるからである。この 想定によって感覚知覚に対する信頼は無にされる。ただし、デカルトが このように知識に対する懐疑を徹底しておこなったのは、すべてを懐疑 の な か に 沈 め る た め で は な い。 む し ろ、 懐 疑 を 徹 底 す る こ と に よ っ て、 どうしても懐疑できないものの存在を見極めるためである。それが 「私」

(8)

写真と真理   八一 の自分は後から注入された記憶によって構成された人格であるにすぎな い。妻(シャロン・ストーン)もこの偽の人格を現実と思わせるために 当局から派遣された工作員だった。つまり、クウェイドの記憶は過去の 実在に対応しない。しかしクウェイドは、火星で出会った新しい仲間と ともに、火星を支配する当局に対しクウェイドとして立ち向かう決意を する。 つまり、 実在に対応しない偽の記憶を信じて行為する。 このストー リーについてアリソン・ランズバーグは次のように述べる。 「 驚 く べ き こ と だ が、 記 憶 は 過 去 を 確 証 す る も の で あ る と い う よ り も、 現 在 に お い て な し う る 一 連 の 行 為 を 生 み 出 し て い く も の で あ る 」 ( Landsberg 1995 : 183 )。   たしかに、写真が過去の自分について真理を語っているかどうかを確 認する方法は原理的に存在しない。なぜなら過去の自分がすでに存在し ていないからである。しかしながら、この認識によって懐疑主義者にな る必要はない。なぜなら、懐疑主義者は問題を理論的な次元でしかとら えていないからである。実存的な次元でとらえるなら、写真が過去の実 在に対応しているかどうかということは、 検証されるべきことではなく、 意志によって信じられるべきことであるという認識が成立する。ウィリ アム・ジェイムズの言葉を借りていえば、実存的な次元で真理を作り出 すのは人間の「信じようとする意志 (the will to believe) 」( James 1979 ) にほかならない。なぜなら、もしそれを信じなければ、われわれは現在 の生を十分に生きることができないと考えられるからである。   とはいえ、実在に対応しないことを信じるという態度は不合理である   問題点を整理しよう。誰にとっても、自分の物語を語るためには記憶 が必要である。そしてその記憶は写真が与えてくれるものである。とこ ろが、写真はかならずしも真理を証言しない。しかしだからといって写 真を否定するわけにはいかない。すると、もはや懐疑主義を克服する方 法はないのであろうか。われわれは自分の存在についてまったくの思い 違いをしているかのしれないという不安のなかに存在するしか手がない のであろうか。

  

 

自己

  写真の役割は、今存在している私がこれまでどんなふうに存在してき たかについての信念を与えてくれる点にある。この信念は実存的にはき わめて大きな意味を持っているはずである。というのも、この信念の内 容がかわれば、自分がこれから何をなすべきかについての考えもかわっ てくると考えられるから。この意味で、写真が真理を語っているかどう かは、たんなる理論的な問題ではなく実存的な問題である。いいかえれ ば、 写 真 の 意 味 と は、 そ れ が 過 去 を 忠 実 に 保 存 す る と い う 点 に あ る の ではなく、むしろそれが現在の生にどんな方向づけを与えうるかという 点 に あ る と い う こ と に な る。 『 ブ レ ー ド・ ラ ン ナ ー』 と 同 じ 原 作 者 の 短 編(ディック 2012 )の映画化である『トータル・リコール』 (3) ではまさ にこの点が主題になっている。平凡なサラリーマンである主人公クウェ イド(アーノルド・シュワルツネガー)は自分がクウェイドではなくハ ウザーという諜報部員であったことを知ってしまう。クウェイドとして

(9)

柴    田    健    志 八二 かというデッカードの懐疑は「信じようとする意志」によって乗越えら れるはずである。そのような意志をもつ限り、この問いかけに答える必 要 は な く な る で あ ろ う。 町 山 智 浩 に よ る と( 町 山 2006:281-282 )、 こ の 問 い か け に 対 す る 答 え は、 カ ル ト ム ー ビ ー 化 し た『 ブ レ ー ド ラ ン ナ ー』 のファン達からさかんに詮索されているという。また、この映画の出演 者、スタッフのあいだにも意見の相違があったという。これらの点を踏 まえ町山は次のように自説を述べている。 「デッカードはレプリカントか?   別にどちらでもかまわない。 ( ・ ・ ・ ) レプリカントたちは過去も未来も目的もない存在だが、力いっぱい今を 生きた。運命に反抗し、仲間を愛し、痛みを感じ、複製でない自分だけ の生を生きた。人間が未来への夢を失い、過去に囚われ、誰かの作った メディアの快楽に引きこもっている間に」 (町山 2006 :282-283 )。 レプリカントたちのほうが人間よりも人間らしい生を生きている。自分 の存在を見失っているのは人間のほうなのだ。デッカードに懐疑を植え つけるきっかけは写真であった。しかし、人間がこのような問題を抱え 込んだのは写真のせいではない。実在との対応という真理の概念をたん なる理論的な次元でとらえたことによって、写真は懐疑主義をもたらし たにすぎない。実存的な次元でとらえるなら、写真が真理であるかどう かを決定するのは人間の意志なのである。 ようにみえるかもしれない。 しかし、 写真あるいは記憶が人間の生にとっ てもつ意味を考察すれば、かならずしもそれが不合理であると決めつけ ることはできない。現実には自分が経験しなかったことを自分の経験と して認めることは理論的な次元ではたしかに不合理である。しかし、人 間は現在の生を生きねばならない。 このような実存的な次元からみれば、 自分がそれを経験したかどうかはそれほど重要ではない。経験したと信 じることによって何をなしうるかということの方が重要であると考えら れるからである。   アリソン・ランズバーグは『ブレード・ランナー』からこのような認 識を引き出している。 「 記 憶 は わ れ わ れ の ア イ デ ン テ ィ テ ィ ー ─ わ れ わ れ が 誰 で あ り 何 に な り う る か ─ の 中 心 に 位 置 す る も の で あ る。 し か し こ の 映 画 が 示 し て い る こ と は、 こ の 記 憶 が 生 き ら れ た 経 験 に 由 来 す る も の で も、 補 綴 的 ( prosthetic ) なもの (4) でも、 ほとんど違いはないということなのである」 ( Landsberg 1995 : 186 )。 このような主張が意味をもつためには次の点を前提する必要がある。写 真であれ記憶であれ、現実の経験との対応が原理的に確認できないとい う点である。どうせ確認できないのであれば、信じないより信じる方が ましである。なぜなら信じることによって現在の生を生きることができ る か ら で あ る。 無 論、 信 じ な く て も よ い。 し か し、 も し 信 じ な け れ ば、 人間は懐疑のなかで自分自身の生を無為に消費するだけである。   自分は本当に人間なのか、それともひょっとしたらレプリカントなの

(10)

写真と真理   八三 レイチェル・ティコティン (4) 「 補 綴 記 憶( prosthetic memory )」 と は そ の 人 間 の 生 き ら れ た 経 験 に 由 来 す る の で は く、 映 画 等 を と お し て 経 験 さ れ、 人 間 の 記 憶 の 一 部 と な っ てしまった記憶を指すランズバーグの用語。 Landsberg 2004. (5) た だ し、 次 の よ う な 事 情 は 考 慮 し て お く 必 要 が あ る。 ジ ェ イ ム ズ は 心 霊 現 象 に 格 別 の 興 味 を も っ て 調 査 を お こ な っ て い た し、 ま た「 心 霊 研 究 協 会 」 の 会 長 を つ と め た こ と が あ る が、 ち ょ う ど そ の 時 期 に ア メ リ カ で 心 霊写真が流行していたのである (浜野 2015 )。ジェイムズが 「写真と真理」 という問題に無関心であったとは考えられないであろう。    文献 ・オーウェル 2009 『一九八四年』高橋和久訳 早川書房 ・ デ ィ ッ ク 1977 『 ア ン ド ロ イ ド は 電 気 羊 の 夢 を 見 る か 』 浅 倉 久 志 訳 早 川書房 ・ デ ィ ッ ク 2012 『 ト ー タ ル・ リ コ ー ル   デ ィ ッ ク 短 編 傑 作 選 』 大 森 望 編   早川書房 ・ 浜 野 志 保 2015 『 写 真 の ボ ー ダ ー ラ ン ド X線・ 心 霊 写 真・ 念 写 』 三 松 堂 ・ フ ロ イ ト 2010 「 遮 蔽 想 起 に つ い て 」 角 田 京 子 訳『 フ ロ イ ト 全 集 3』 岩波書店 , pp.324-351 ・町山智浩 2006 『ブレードランナーの未来世紀』洋泉社 ・ Bazin, André 2002, “Ontologie de L’ image Photographique,” Qu’

est-ce que le conéma? Cerf, pp.9-17

・ Benjamin, Walter 1991, “Kleine Geschichte der Photogragie,”

Gesammelte Schriften Band II-1, Suhrkamp, pp.368-385

  

おわりに

  ソンタグの写真論から出発した考察がたどり着いた先は、写真が普及 し始めた19世紀の終盤に構想されたジェイムズの真理論であった。無 論、ジェイムズの『信じようとする意志』に写真への言及は見当たらな い し、 ま た ジ ェ イ ム ズ の 真 理 論 が 写 真 か ら 発 想 さ れ た と も 考 え ら れ な い (5) 。 し か し な が ら、 写 真 に よ っ て も た ら さ れ た 現 代 社 会 の 文 化 環 境 には、実在との対応という古典的な真理の概念によっては理解できない 現象が見出される。そのなかにジェイムズの真理論をあらためて検討し てみる文脈が見出されるのである。    注 (1) 『 ブ レ ー ド ラ ン ナ ー』 ( ワ ー ナ ー ブ ラ ザ ー ズ ) 監 督 リ ド リ ー・ ス コ ッ ト、 脚 本 ハ ン プ ト ン・ フ ァ ン チ ャ ー / デ ー ヴ ィ ッ ド・ ピ ー プ ル ズ、 出 演 ハ リ ソン ・ フォード/ルトガー ・ ハウアー/ショーン ・ ヤング。 「劇場公開版」 ( 1982 ) お よ び そ れ 以 後 に 編 集 し 直 さ れ た も の を 加 え る と 現 在 三 種 類 の 『ブレードランナー』 が存在している。 「ディレクターズカット/最終版」 ( 1992 )、 「ファイナル・カット」 ( 2007 )。 (2) カ ジ ャ・ シ ル バ ー マ ン は( Silverman 1991 ) こ の エ ピ ソ ー ド か ら 作 品 全 体 の テ ー マ を 読 み と ろ う と し て い る。 な お、 写 真 の エ ピ ソ ー ド は 原 作 ( デ ィ ッ ク 1977 ) に は な い。 映 画 の シ ナ リ オ の 段 階 で つ け 加 え ら れ た も のである。 (3) 『トータル ・ リコール』 (カロルコピクチャーズ)監督ポール ・ ヴァーホー ヴ ェ ン、 脚 本 ロ ナ ル ド・ シ ャ セ ッ ト / ダ ン・ オ バ ノ ン / ゲ イ リ ー・ ゴ ー ル ド マ ン、 出 演 ア ー ノ ル ド・ シ ュ ワ ル ツ ネ ガ ー / シ ャ ロ ン・ ス ト ー ン /

(11)

柴    田    健    志 八四 ・ Bruno, Giuliana 1990, “Ramble City: Postmodernism and Blade Runner,” Annette Kuhn(ed.) Alien Zone: Cultural Theory and

Contemporary Science Fiction, Verso 66, pp.61-74

・ D esc ar te s 19 96a , D is co ur s de la M éth od e, A dam & T an ner y(E ds .)

Œuvres VI, Vrin

・ Descartes 1996b, Méditations, Adam & Tannery(Eds.) Œuvres IX, Vrin ・ James 1979, The Will to Believe and Other Essays in Popular Philosophy, Harvard UP ・ La nd sb er g, A lis on 1 99 5, “ Pr os th eti c M em or y: T ota l R ec all a nd B la de

Runner,”Body and Sciety 1(3-4), pp.175-189

・ Landsberg, Alison 2004, Prosthetic Memory the transformation of A m er ica n r em em br ab ce in th e a ge o f m ass cu ltu re , C olu m bia U P ・ Mitchell, William 1992, The Reconfigured Eye visual truth in the

post-photographic era, MIT

・ Silverman, Kaja 1991,“Back to the Future,”Camera Obsucura 27, pp.108-133 ・

Sontag, Susan 1977, On Photography, Penguin

・ T ra ch te nb er g, A lan 2 00 8, “ T hr ou gh a G ra ss , D ar kly : p ho to gr ap hy

and cultural memory,”

参照

関連したドキュメント

︵抄 鋒︶ 第二十一巻 第十一號  三八一 第颪三十號 二七.. ︵抄 簸︶ 第二十一巻  第十一號  三八二

2003 Helmut Krasser: “On the Ascertainment of Validity in the Buddhist Epistemological Tradition.” Journal of Indian Philosophy: Proceedings of the International Seminar

[r]

日髙真吾 企画課長 日髙真吾 園田直子 企画課長 鈴木 紀 丹羽典生 樫永真佐夫 樫永真佐夫 樫永真佐夫 川瀬 慈 齋藤玲子 樫永真佐夫 三島禎子 山中由里子 川瀬

 渡嘉敷島の慰安所は慶良間空襲が始まった23日に爆撃され全焼した。7 人の「慰安婦」のうちハルコ

甲州市教育委員会 ケカチ遺跡和歌刻書土器の全体写真

専用区画の有無 平面図、写真など 情報通信機器専用の有無 写真など.

号機等 不適合事象 発見日 備  考.