「文学的」/「マンガ的」―いくえみ綾『プリンシパル』を読む―
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(2) 合田 典世. 2. ば、「漫画が俎上にのせている多様な物語とイデオロギーのあり方」以上に、「それらが他 ならぬ漫画として表象され、漫画として存在しているという事実」3 にもっと目を向けるべ きではないだろうか。 とりわけ、本稿において扱ういくえみ綾をはじめとする「少女マンガ」は、コマ割りや 絵柄の新しさ、内面描写の発見など、マンガの表現方式の革新を牽引してきたジャンルで、 媒体の特性に依って立つところが極めて大きい4。このすぐれて特殊な媒体を、活字の苦手 な人向きの単純な物語メディアでしかないなどと見なすのは、短見である。新しい「文学」 としての可能性を感じさせるような作品群が、一般読者はもちろん、通俗的に「格上」の ジャンルとされる小説の担い手たちにも確実に影響を与えている5。「文学的なるもの」は、 今や小説だけでなくマンガにおいても創造の場を与えられ、ジャンル間の境界侵犯を促し ているのである。少女マンガの表現を精査することは、これからの「文学」の行方を占う 行為ともなりうる。. 1.いくえみ綾と少女マンガ いくえみ綾(1964-)は、1979 年のデビュー以来、長く活躍し続ける漫画家の一人とし て、少女マンガ愛読者からの支持が厚い。ここに取り上げる『プリンシパル』は、彼女が 昔から得意とする、高校生を主人公とした恋愛もので、少女マンガ誌「Cookie」(集英社) に連載された。したがってジャンルとしては少女マンガとして描かれ、またそう読まれる ことが期待されるわけだが、実はそこに収まりきらない要素も多い作品となっている。 主人公の高校1年生、糸真(しま)は、学校ではいじめ に遭い、家庭では母親の再婚相手と馬が合わず、東京から 実父のいる札幌に越してくる。迎えにきた父親の運転する 車の中で、糸真は自らを「逃げてきたダメ人間」と半ば自 嘲的に称する。「逃げてきた」とは、東京から、そして東 京で起こった様々な問題から、というのが表層の意味であ るが、さらに本質的に言えば、後に詳述するように、自分 の人生から、あるいは自分の人生の主役(プリンシパル)たることから「逃げてきた」の だ。自分の人生を他人に預ける形でしか生きてこなかった糸真が、札幌という新天地で、 友人たちとの出会いや恋を通して成長し、初めて人生を自身で切り拓く「プリンシパル」 になっていく過程を描いたこの作品は、少女マンガにおける王道的「ビルドゥングスロマ ン」と言うことができるだろう。 このようなテーマはしかし、明示的には描かれておらず、実際、本作品への読者の反応 には時折、 「何が言いたいのか分からない」 「退屈」 「結局よく分からなかった」といったも. 2.
(3) 「文学的」/「マンガ的」―いくえみ綾『プリンシパル』を読む―. のが見られる。つまり、一般的な少女マンガ読者のリテラシーからすると「分かりにくい」 あるいは「マンガらしくない」要素があるということだ。 そもそも「分かりやすい」 「マンガらしい」作品とは、どのようなものであろうか。それ は、簡単に言えば、 「一義的」な作品、つまり、コマ、絵、セリフ、言葉、いずれをとって もその場で即座に意味が一つに決まるような作品である。斎藤環は、マンガというメディ アの特徴の一つとして、 「ハイ・コンテクスト」性を挙げている。絵画のもつ「多義性」と マンガのもつ「一義性」を比較しながら、マンガのコマ、絵、セリフ、言葉による「重層 表現」が「意味と感情がほとんど一義的な形で伝達され」るために採用されることを指摘 する6。こうした特性が「マンガ的」あるいは「マンガらしい」の意味するところで、しば しば「文学的」と比してその単純明快な「分かりやすさ」を揶揄的に指す。 しかし、 『プリンシパル』において、キャッチーな設定、可愛らしい絵柄から予想される この手の「マンガらしさ」は、影を潜めている。以下に詳述する通り、あらゆる言葉が一 義的には決まらない使われ方をし、重層的な響きを帯びているのである。ここで言う「重 層性」とはもちろん、斎藤の言う「重層性」とは全く別ものである。こうした特徴を具体 的に精査してみることは、一部の読者に不評の「マンガらしくなさ」の淵源を明るみにし、 マンガという表現形式の可能性や、ひいては広義の「文学」の行方に思いをはせる作業へ とつながっていく。. 2.マンガならではの「多義性」 糸真は、同じクラスの男子2人組である和央(わお)と弦(げん)と、近所同士であっ たことから、引越早々 仲良くなることがで きた。しかし、クラス メートの晴歌(はるか) たちによると、2人と 関わるとクラスの女 子から「ハブ」(本作 品では「除け者にす る」、 「いじめ」と同義) にあうという。図 1 の 見開き2ページは、東 京から越してきてや 図 1(第 1 話より). 3. 3.
(4) 合田 典世. 4. っと逃れられたはずの状況の再来の可能性に、 「あぶねえ―――」とヒヤリとさせられた糸 「もうゴタゴタはいやだ」云々と心情の吐露が続いた後、見開き 真の心情描写から始まる7。 の左ページ冒頭で、晴歌の顔のアップを背景に「どっち?」とセリフが提示され、場面転 換する。美術と音楽の「どっち」を選択科目に選んだのかを質問されたのに、糸真は一瞬、 ある別のことで「どっち」と訊かれたと勘違いしたことが、続くコマの「…………え?」、 さらにページ左下のコマの心の声「そっちかよ」によって示されている。右ページの「あ ぶねえ―――」の背景に配された和央と弦の小さなツーショットと、左ページの「どっち?」 の背景に配された晴歌とが、見開き上、それぞれほぼ同量のスペースを与えられて並列し ていること、また、左ページ中央のコマには、 「選択」という晴歌のセリフの吹き出しがか ぶさる形で、二人の後ろ姿が小さく描かれている(スクリーントーンで強調)ことが、糸 真の一瞬の勘違いの内容を示唆する。また、右ページ左のコマ(「もうゴタゴタはいやだ」) の背景が次のコマ(「どっち?」)の背景の上方に連続することで、和央と弦のことにとら われた糸真の心理状態の余韻も感じさせる。 このように、マンガという媒体の特性としてまず確認すべきは、見開き2ページという スペース上での展開を前提としていることである。読者はこれを無意識に処理することに 慣れているので改めて意識化するのが難しいが、 「表現論」的分析をするにあたっては、常 に念頭に置いておきたい。 さて、この一見些細な勘違いは、作品の展開に関わってくる糸真の深層心理に端を発す る。続く見開きの2ペ ージを見てみよう(図 2)。ここでは、背景に 音楽教師である弦の 姉、弓(ゆみ)が初出、 音楽の授業風景が描 かれるが、右ページ下 から左ページ上にか けて「さすがに/自分 の姉の授業は「無い」 から/美術だよね」 「どっちも」という糸 真の心の声が現れる。 「どっちも」の背景に 図 2(第 1 話より). 4.
(5) 「文学的」/「マンガ的」―いくえみ綾『プリンシパル』を読む―. は美術の授業、そして続くコマにはその授業に臨む弦 と和央の姿が描かれているので、ここでの「どっちも」 が和央と弦の2人を指すことは一層明らかである。こ こで注目したいのは、 「どっちも」の部分だけが、ペー ジをまたいで、比較的目立つ位置に配されているため8、 論理上つながるべき直前の部分から微妙に断絶し、か つハイライトされていることである。その結果――糸 真が質問の意味を一瞬勘違いした流れにあるので余計 に――前の見開き(図 1)で同じくインパクトを付与 されている晴歌の質問「どっち?」の答えであるかの ように見えてこなくもないではないか。あたかも、晴 図 3(第 1 話より). 歌が本当に「(和央と弦の)どっち(が好き)?」と訊 いてきたかのように。実際この後、糸真が、初めて仲. 良くなった異性である和央と弦の「どっちも」好きになっていくという展開が待ち受けて いる。さらには、晴歌と糸真が弦をめぐっていわば「恋敵」同士になることも知ってから だと一層、晴歌の何気ない質問であったはずの「どっち?」に微妙な陰影が汲みとれよう。 さて、東京から越してきた糸真は、父親の車中から札幌の秋の空の高さに見とれるので あったが、札幌の気候はすぐ変わる。第1話の最後にあたる図 3 で、 「空が高い9/秋がきた と思ったら すぐ雪が降るって/近所のおばさんが言ってた/もう/冬がくるのかもしれ ない」という糸真の心の声の背景に描かれるのは、一見無関係な場面――糸真が和央・弦 と一緒に3人で和央の家にいたという目撃情報を、晴歌がクラスメートから聞かされる― ―である。「冬がくるのかもし れない」のコマの背景は、トー ンで影になった晴歌の顔であ り、これが、晴歌らによる「ハ ブ」、すなわち糸真にとっての 「冬」の季節が再び到来するこ とを暗に予告していることは 明らかであろう。心の声の主と は一見無関係なシーンを背景 に置きながら、その声に暗示性 を付与することで、季節と関係 図 4(第 3 話より). 5. 5.
(6) 合田 典世. 6. 性の変化の兆しを同時に提示するというマルチ・タスクが、たった1ページでコンパクト かつ効果的に実現される。これもまた、言葉と絵を併用するマンガに固有の特性によるこ とを確認しておきたい。 とは言え、この時点では晴歌の表面的な親切や善意を疑おうとしない糸真は、晴歌につ いての悪い噂を伝えてくるクラスメートに噛みつく(図 4)。そのとき糸真が2度も放つセ リフ「「2人を好きになる」って おかしくない?」もまた、一義的ではない。ここで面白 いのは、和央と弦の2人を好きになったという女子クラスメートが晴歌主導で「ハブ」に あったという噂に対抗すべく糸真が飛びつくのが、 「2人を好きになる」という点であった ことだ。糸真が他人に向けて放った言葉が、そのまま自身の状況を説明しているように見 えてくるのである。 さらにこの直後、気づかわしげな表情の晴歌に「…なんでも言ってよ?」と言いながら 腕を「ぎゅう」と組まれる(図 4)のだが、次のページで背景なしのコマに「こわかった」 という心の声が登場する(図 5)。この言葉が、 晴歌の悪口を言ってきたクラスメートを指すの か、はたまた晴歌の気遣いが「ポーズ」である ことにすでに薄々気づきつつあるゆえの晴歌へ の反応であるのか、微妙なあわいに置かれてい ることも見逃せない。このような意識と無意識 のはざまをとらえる表現も、マンガ媒体の特性 を活かしたものであり、本人も把握しきれてい. 図 5(第 3 話より). ない糸真の潜在意識や本心を明かしていく上で のサスペンス効果をも生み出す10。 言葉の意味が一義的に決定できず、そこに複数のコンテ クストがかかっていることを示すようなコマ構成は、本作 品に実に頻出する。糸真の父が、行きつけのスーパーのレ ジ担当である和央の母にアプローチをしかける場面(図 6) を見てみよう。ここで、ページ下部の「さーて 今度こそ ち ゃんと/充電もしたし ちゃんと」という言葉は、和央の母 と糸真の父のツーショットを描く「断ち切り」の中に配さ れているため、「今度こそ ちゃんと」口説こうと奮い立つ 糸真の父の心の声ととられかねない。しかし、次のページ 図 6(第 4 話より). を繰ると判明する通り、これは東京に住む実母に携帯電話. 6.
(7) 「文学的」/「マンガ的」―いくえみ綾『プリンシパル』を読む―. で連絡しようとする糸真(最初に思 い立った時には充電が十分でない ことを口実に、先延ばしにしたのだ った(第 4 話))の心の声がフライ ング気味に導入されたものなので ある。ただしもちろん、これはただ の「フライング」ではなく、糸真の 父の状況にも「図らずも」はまって しまう偶然性を見据えての構成で あることは間違いないだろう。この ような読者を一瞬目くらましする. 図 7(第 6 話より). かのような「フライング」は、一見 無関係なシーン同士を余韻をもたせながらスムーズに連続させる効果を狙って作者が時折 用いる、マンガならではの仕掛けである。 同様のパターンとして、ある言葉、フレーズを軸に異なる複数の場面が展開するような コマ構成が図 7 である。和央と弦が初詣の計画について話している場面と、クリスマスの 約束をすっぽかされた糸真が後日晴歌に電話し、初詣の約束も適当にかわされ思わず涙し てしまう場面が、「何時に?いつ?どこで?」というコマを軸に同時進行する11。ここで試 みられるのは、時系列に沿って物語を語ることではなく、共通要素として抽出された言葉 を軸に複数の状況を同時展開することである。それぞれの状況が交互に断片的に提示され るため、直線的物語を追うのに慣れている読者にとっての「読みづらさ」の一因にもなり うる。しかし、ここでの力点は、物語の時系列的提示にではなく、複数の状況をめぐる同 時性と同一性の提示にあり、後 に詳述する通り、それはこの作 品の世界観と不可分の関係にあ るのである。 図 8 では、 「思ったこと」を軸 に二つの状況が展開する。うっ かり「思ったこと」を口にして 姉を傷つけてしまった弦、一方 で、和央への想いの変化などこ れまでの「思ったこと」を涙な 図 8 (第 17 話より). 7. 7.
(8) 合田 典世. 8. がらに洗いざらい和央に吐露 した糸真、という二つの場面が 同時進行するさまがこのよう な構成で表現される。コンテク スト次第で意味が変わるとは、 「文学」が教えてくれる言葉の 本質であるが、同じことをマン ガの表現様式が実に鮮やかに 示してみせる。 この「同時進行」の手法は、 弦と晴歌の動物園での初デー. 図 9(第 14 話より). ト場面と、糸真と和央の同じ動 物園での会話場面を、見開き上に並列して提示する図 9 でも見受けられる。弦に「つきあ おうよ」と半ば強引に迫る晴歌と、 「オオカミのもぐもぐタイム」に色めき立つ和央と糸真 が、無関係に並列されているとは考えにくい。 「かわいく言ってみせてるけど/食うのは生 肉だよね!」のセリフが示唆するように、晴歌の「肉食」ぶりが際立つように巧みにとら れた構成と言えよう。そしてやはり、こうした非常に微妙な類似性の前景化は、見開きの ページ上に展開するというマンガの特性あってこそ実現を見るのである12。. 3.登場人物の相似関係 ひとつの言葉やフレーズを軸として複数のコンテクストが作動するというパターンの根 幹には、登場人物の相似関係が存在する。ある言葉が特定の一人の登場人物だけでなく、 他の登場人物にも適用されうるという状況により、登場人物間の類似性、少なくとも表面 的には気づきづらい相似関係が浮き上がる のである。ここで、登場人物の関係をいっ たん整理してみたい。. 3-1.糸真と弦 図 10 は、転校してきたばかりの糸真が、 先生に言われた座席に座ろうとしたところ、 弦が「そこは和央の席だ」と敵対心むき出 しなのに対して「キレる」場面である。糸 図 10(第 1 話より). 8.
(9) 「文学的」/「マンガ的」―いくえみ綾『プリンシパル』を読む―. 真のセリフ「あたしは言われた所にいるだけだ/あたしはどこにも行けないんだ!」には、 この作品のテーマに直結する意義深い響きが感じとれる。つまり、座席のことだけではな く、糸真の状況そのものも暗示しているのだ13。藤本由香里は、少女マンガの心象風景にお いて「居場所」がひとつのキーワードとして機能してきたと論じる14が、その意味では、本 作品も例外ではない。 「立ち位置」、 「ポジション」といった言葉が時折、糸真の心の声に現 れるのも15、さらに端的には、晴歌が弦に告白した直後、行くあてもないまま思わずその場 を立ち去る糸真の心の声(あれ…/あたし/どこ行けばいい?(第 12 話))も、自分の「座 席」を模索し続ける姿の表れである。 居場所をめぐる糸真の悩みは、和央と弦の2人との関わりにおいても顕在化する。母子 家庭で貧乏生活を強いられた和央は、対照的に裕福な弦の家から様々な恩義を受けてきた。 可愛らしい外見の和央を女の子と思い込み、いわば「一目惚れ」した形で出会いを果たし た弦は、最初のインパクトを引きずるかのように「和央離れ」ができないでいる。病弱な 和央の世話をあれこれと焼くことをやめられないのだ。 「俺らの歴史なめんなよ!」と弦自 身も誇る(第 8 話)2人の過去の蓄積を前に、糸真は自分もその「どこかの一端にでも」 なりたいと考えたりする(第 4 話) 。しかし、所詮自分は「途中参加」とひるんでしまうの である(第 11 話)。 そんな糸真と似通った要素を持つのが弦である。和央にずばり指摘される通り、和央と の「歴史」に「囚われて」いる(第 8 話)弦は、晴歌の言では「自立」できていない。だ からこそ、和央の母と糸真の父の再婚により、和央と糸真が「姉弟」となることで「俺ら の歴史」が攪乱されるという事態に際し(晴歌の「もうきっと和央は弦のこと要らないね」 との言葉を待つまでもなく)、動揺を隠せない。奇しくも、この結婚をきっかけに、弦はい わば、 「途中参加」と尻込みしていた糸真と「ポジシ ョン」が入れ替わることにもなる(自ら「さすがに 部外者だわ」と場を去ろうとする(第 7 話)) 。 和央という自分の一部を奪い取られた形になり 「どうしていいか分からない」などと口走る弦に、 糸真は強い口調で「どーしていーのかって好きにす りゃいーじゃん/誰が. あんたに何かを禁止したの. さ/なんだって好きにしろや!」と言い放つ(図 11) が、これもまた糸真が自分自身へ投げかけるべき言 葉として乱反射する。 図 11(第 9 話より). 9. 9.
(10) 合田 典世. 10. 「好きにする」こと、 すなわち、自分の気持ち を正直に認めそれに従っ て行動することに不得手 な糸真は、晴歌と弦が付 き合うことになったのを しおに、晴歌の男友達の 金沢を紹介してもらい、 気分ののらないまま交際 を決める。ずいぶんと後 になってから素直に認め る自分の気持ち(弦が他. 図 12(第 9 話より). 人(ひと)のものになる なんてさみしいんだよーっ(第 23 話))を抑え込み、 「いちどリセット」 (第 19 話)とばか りに金沢を巻き込んだというのが本当のところで、結果的に、互いに傷つけ合う事態を招 くことになってしまう。 一方、弦もまた、晴歌と付き合うことにしたとはいえ、相手に押し切られる形で始めた 交際はうまくいかず、結局「友だち」に戻りたいと申し出る羽目になる。この点でも、弦 と糸真は似たような不完全燃焼な恋愛に「依存」してみることで、各々の欠落(和央をと られた、弦をとられた)の埋め合わせをしようとしていたわけである。晴歌から弦との破 局を聞いた糸真は「つきあっといて友だちでいいとかふざけてる」などと同情を示すが、 後になって金沢とのやりとりの中で「私じゃん」と、自分の放ったセリフの自己言及性に 気づくのであった(第 23 話)。. 3-2.弦と弓、糸真と弓 和央が昔から想いを寄せる弓は、和央に「囚われ」た弦のこ とを、 「人を守るつもりで自分を」 「支えている」 、 「支えること で支えられている」と説明する。 (図 12)。翻って彼女自身も、 昔から「支える」立場で和央と接してきた。同じ学校の教師と 生徒という関係上、葛藤を伴いながらも、和央からの揺るぎな い強い想いに彼女は最終的に応えていく。彼女もまた、和央を 「支え」ながらいつしか自分が「支えられて」いたことに気づ. 10. 図 13(第 10 話より).
(11) 「文学的」/「マンガ的」―いくえみ綾『プリンシパル』を読む―. いていくのである(図 13)。 とは言え、和央との年齢差や立場の違いか ら、弓はこの恋愛の成就を確信できないでい る。まだ若い和央がこれから他の女性と恋に 落ちないとも限らない。そこで弓は「私はち ゃんと私でいられるように」「期待しないで」 「ちゃんとしているわ」と、あえて和央に自 分の覚悟を語る(第 18 話)。糸真はこれを盗 み聞いてしまうのだが、興味深いのは、この 後、エピソードの末尾に、糸真(と弓)を背 景にもう一度このセリフが繰り返されること である(図 14)。この覚悟が糸真に、わがこと 図 14(第 18 話より). のように響いたことを示唆する構成と言えよ う。弦に恋心を抱きながらも一歩踏み出す勇. 気を持てない糸真は、「期待しないで」「ちゃんとしている」ことを己に課すしかないので ある。 このように、弦と糸真、弦と弓、糸真と弓、といった登場人物間の相似関係の中で、何 気ないセリフや状況が反響し合う。一見無関係に思える言葉やセリフの自己言及性に気づ くことで、登場人物たちは、自分を取り巻く世界に新たなコンテクストを見出すこととな る。自分の認識していた世界に別の視点が付与されるというパターンを通して、本作品で のビルドゥングスロマンは実現される16。この作品が「マンガ的」でないとすれば、その一 因は、物語を支える相似関係が初読では即座に気づきにくいことにある。我々読者は、再 読を通して初めて、ひとつひとつの言葉や状況に新しいコンテクストを読み込めるように なるという、実に「文学的」な経験にいざなわれているのだ。. 4.マンガの表現様式に支えられた世界観と「文学的なるもの」 一見全く異なった状況、異なった人物の間に潜む「共通項」を発見することは、この作 品、そして他のいくえみ作品を貫くテーマ――トラウマからの解放、救済――と直結する。 トラウマは、特定の一つの物語に固執することで生まれる。そこから救済、脱出を図るに は、別の視点が必要となる。別の視点、別の角度から世界を捉え直すことで、トラウマの 物語は解体され、全く別の物語へと再構築される。そこで必要なのは、表層にとらわれず、 その奥に目を凝らすことである。複数の状況・人物の同時性や同一性といったものを軸に 展開される世界観は、そうした物事の「深部」あるいは「潜在意識」や「無意識」に向か. 11. 11.
(12) 合田 典世. 12. うまなざしに支えられている。彼女の作品においてよく「死者」が「生者」の世界に登場 するのも、同根と言ってよい。自称「完全右脳人間」のいくえみの世界は17、意識と無意識、 現実と非現実、死者と生者、自分と他者といった(左脳的)二項対立物の交錯、融合から 立ちあがってくる18。そして、左脳(言語)と右脳(絵)の止揚のうえに成り立つマンガ19 のあり方は、この世界観と共鳴し合う。 登場人物間の相似関係や複数のコンテクストの同期に支えられた世界を、たとえば文字 で忠実に提示することは簡単なことではない。つとに言われてきたように、 「説明」ではな く「提示」することは、文字メディアには不得手な領域である。言語は時系列に沿って物 事を説明するのには適しているが、複数の物事の同時性を「説明」でなく「提示」しよう とすれば、そこには必然的に言語の限界に挑む試み――前衛的にして前頭葉的な言語実験 ――が伴うこととなる。一方、見開きのページ上で文字と絵による物語が展開することを 前提とするマンガは、 「継起性」と「同時性」の併存を可能とする。この特性に日本語の言 語特性との関連を見る夏目の言葉を借りれば、 「聴覚(時間)的なものと視覚(空間)的な もの」の「統合」とも言い換えられよう20。マンガでは、映画とも紙芝居とも違い、見開き 2ページの世界が「同時に」読者の認識に飛び込んでくる。無論、意識の上では右ページ のコマから順に追っていくのだが、厳密に言えば、読者はページを開いた瞬間に見開き2 ページ分の情報を少なくとも無意識的には認識してしまっており、その上で一つずつコマ を追っているのだ。 「同時性」が発揮されるのはページを開いた瞬間だけではない。コマを 追っているあいだ中、 「読了」したコマが残像、残響となって認識の中にとどまり続ける21。 そのようなページ空間に置かれた文字と絵は、相互に意味を補完し合うだけでなく、時に は互いの意図を撹乱し合うことで、 「文学的」な多義性を生み出し、静的にして動的な物語 空間を作りあげる。こうして、マンガという媒体は、幅広い読者層に受け入れられる「分 かりやすい」 「直感的」なインターフェイスを保ちながらも、同時に複数のコンテクストを 開示するという高度に複雑な芸当を可能とする。この場合の「分かりやすさ」は、「単純」 という意味ではない。人間の複雑な認知プロセスにより近接しているゆえの「分かりやす さ」であり、またそれが「感覚的」、 「直感的」という形容辞の意味するところなのである。 ここで、こうした複数のコンテクストを同時に動かすダイナミズムが、言葉の暗示性、 意味の重層性に依拠する文学、とりわけ詩やモダニズム文学の領分でもあったことを想起 したい。そもそもモダニズム文学とは、前世紀的言語や近代イデオロギーに挑む試みの謂 いであった。近代的合理性の欺瞞を暴いていくとき、旧来の二項対立の境界は溶解し、そ れに呼応して、言語の直線性を打ち破り、同時性を獲得する試みが文学作品に結実した。 モダニズム文学が、前世紀のいわゆる「伝統的」文学よりも、映画や絵画といった他メデ ィアとの親和性の高さを誇ったのも自然な帰結である。それから一世紀近くを経てメディ. 12.
(13) 「文学的」/「マンガ的」―いくえみ綾『プリンシパル』を読む―. アも多様化した現在、日本で生まれ育った少女マンガという媒体が、モダニズム文学が志 向したひとつの着地点であるかのように思われてくる22。「無意識」の発見と軌を一にして 発展したモダニズム文学は、ハイブラウの世界を超えて大きな影響力を及ぼすことはなか った。翻ってマンガは、「無意識」「潜在意識」といった感覚的世界と親しみながら、リー ダー・フレンドリーなインターフェイスを持ち合わせるという奇特な大衆メディアとして、 その表現可能性をますます広げている。少なくとも、いくえみ作品には「ポップなモダニ ズム」とでもいうべきオキシモロンがよく似合う。ハイカルチャー、ローカルチャーの懸 隔を超えて、 「文学」は新しい表現の出口を見つけつつあるのではないだろうか。かくして、 「文学的」と「マンガ的」の間の境界の揺らぎを発見するとき、そこにはフィクション史、 メディア史における新しい時代の萌芽が触知される。あらゆるすぐれた芸術作品と同じよ うに、最良のマンガ作品は、我々に新しい「メディア・リテラシー」の必要性を突きつけ ている。佐藤良明が喝破した通り、今やあらゆる表現媒体に「さまざまな<文学的なるも の>の要素がちりばめられてい」るのである23。 とは言え、そもそも大衆メディアとアカデミズムはなじみづらいものである。真面目く さったアカデミズムを受けつけないカジュアルさを旨とするこのメディアの本質が、 「マン ガ学」の発展に歯止めをかけていることも否定できない。 「マンガ」をめぐる言説から、偏 見が完全に払拭されることは難しいであろうし、 「文学」の失墜の主因としてマンガを追及 する趨勢も残っていくだろう。しかし、だからこそ、マンガ学あるいはメディア論には、 この大衆メディアの変化、進化を、ニュートラルな立場から、あるがままに記述すること が期待される24。その先にこそ、今後も絶えることのないフィクションという人間の営為の 謎に迫る鍵が隠れているだろう。 佐々木敦『「批評」とは何か?―批評家養成ギブス―』 (メディア総合研究所、2008)p.241 夏目房之介『マンガはなぜ面白いのか―その表現と文法―』 (NHK ライブラリー、1997)、 四方田犬彦『漫画原論』 (筑摩書房、1999) 3 四方田(1999)p.15 4 夏目(1997)によると、日本にしかないジャンルであるとも言われる。 5 綿矢りさ(1984-)や豊島ミホ(1982-)は、いくえみ作品を愛読しており、同世代の 作家たちが文章で「漫画的な空気、雰囲気を表現しようとしてきた」と述べるなど、マン ガの影響の大きさを認めている。『Feel Love』(祥伝社、2009)vol.6, pp.144-150 6 斎藤環『キャラクター精神分析―マンガ・文学・日本人―』 (筑摩書房、2011)p.111 7 以降作品からの引用は、いくえみ綾『プリンシパル』 (マーガレットコミックス、集英社) 1—6 巻による。 8 マンガにおいて基本的に見開き左は一番目立ちやすいとされる。 9 「空が高い」の部分は、図 3 の直前のページにある。 10 糸真の弦への恋心は、作品を通して徐々に(本人にも読者にも)明らかにされていくが、 その際、 「夢」 (第 4 話、第 16 話)や「日記」 (第 13 話)といった「潜在意識」と親和性の 高いツールが使われるのも、本作品に典型的である。 1. 2. 13. 13.
(14) 合田 典世. 14. 11. クリスマスの待ち合わせをすっぽかし、糸真だけをひとり待ちぼうけさせる計画の首謀 者たる晴歌は、後になってから、 「でも初詣は一緒だよ」と糸真にメールしていた。それに 対しての心の声としてすでに登場していた「何時に?いつ?どこで?」 (第 6 話)がここで 再び現れる。 12 第 25 話では、見開きのページを左右でなく上下に割った構図で、弦と糸真、和央と弓そ れぞれのシーンが平行して描かれる。 13 糸真は第 6 話の初詣のシーンで自分が吐いたこのセリフを再び思い出す。 14 藤本由香里 『私の居場所はどこにあるの?―少女マンガが映す心のかたち―』 (朝日文庫、 2008) 15「そんなに すんご――――く いいわけでも/ないよ この立ち位置」 (第 16 話)、「どの ポジションもだめな気がするよ」(第 17 話) 16 換言すれば、バラバラに見えても深いところで全てはつながっている、という世界観と も言えよう。それは、他のいくえみ作品、たとえば、いじめにおける加害者と被害者の問 題を扱う『いとしのニーナ』(2005-2010)にも通底する。 17 いくえみ綾『いくえみ綾 works』 (集英社、2009)p.15 18 『潔く柔く(きよくやわく) 』 (マーガレットコミックス(2004-2010、集英社))では、 主人公のカンナと禄(ろく)の、また『トーチソング・エコロジー』(「スピカ」(幻冬舎) 2012~連載中)では、主人公の清武(きよたけ)や苑(その)の、それぞれの過去にまつ わる「死者」との「交流」が作品の背骨となっており、それが作品に独特のリアリティを 付与している。 19 内田樹『街場のマンガ論』 (小学館、2010)p.76 20 夏目(1997)p.180 21 内田樹も指摘する通り、文字メディアである小説でも同じことは言えるかもしれないが (内田樹「活字中毒患者は電子書籍で本を読むか?」池澤夏樹編『本はこれから』 (岩波新 書、2010)所収)、マンガは図像がベースにあるため、より「感覚的」あるいは「直感的」 に訴えやすく、したがってその余韻の度合いもより高いと言えるだろう。 22 エズラ・パウンドに典型的なように、モダニズムの文学者たちが、マンガとの関連でし ばしば注目される日本の漢字文化に興味を示したことをここで思い出してみてもよいだろ う。ジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』の訳者、柳瀬尚紀も、ジョイスが日本語を知 ったら嫉妬しただろうと述べている(柳瀬尚紀『フィネガン辛航紀―『フィネガンズ・ウ ェイク』を読むための本』(河出書房新社、1992)p.20)。 23 佐藤良明『これが東大の授業ですか。 』(研究社、2004)p.184 24 夏目は『マンガ学への挑戦―進化する批評地図』 (NTT 出版、2004)でこれまでの批評 史を検証しつつ、 「あらたなマンガ論の枠組み」について詳細な考察と「モデル」提示を行 っている。. 14.
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