〈論文〉量子論の歴史-その概念発展史と哲学的含意--黒体放射からプランクの量子仮説まで
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(2) 第62巻 第1号. 1:黒体放射の問題から―キルヒホッフによる一般化. ミクロの基礎理論である量子力学。この量子という概念の直接的な出自は黒体の放射問 題にあって,この問題に熱統計力学と電磁気学を適応・応用していったところにある。二 十世紀に入ってから(正確には世紀の変わり目あたりから)発見のゴールドラッシュを迎 える様々な未知のミクロ粒子,例えば電子などの発見がその直接的な引き金になってい るのではない。量子は熱統計力学と電磁気学の交錯ポイントに出現し,やがてミクロ領域 の力学へと適応されていくことで物理学の概念として洗練され確立されていったのである。. 本節では,まずは,黒体放射の問題の出自から紐解いてゆくこととする。. 物体を熱すると徐々に赤みを帯び始め,さらに熱を加えていって温度を上げてゆくとや がて青白い光を放つようになる。これは,かなり以前から経験的によく知られていたこと である。 温度と放たれる光の色との関係について,比較的古い科学的な報告として,例えば1792 年のウェッジウッド の報告がある。また,もっと有名なものは,天文学者ハーシェル . もちろん,発見された当初からその正体がミクロの粒子であることは分かってはおらず,この ようにミクロ粒子と記述してしまっては歴史的には正確さを欠くことになる。より正確に記すに は「後にミクロ粒子であると判明した放射線の数々……云々」と書かねばならないだろう(こう したものの代表格がX線である) 。 ―これらの歴史は本論の続編で―ある次稿以後の part 2 と part3で詳しく扱うこととなるが,ひとまずこの段階では,量子はミクロの探求から生まれたの ではない,という事実を述べるにとどめておく。 T. Wedgwood, Experiments and Observations on the Production of Light from Different Bodies, by Heat and by Attrition. Mr. Thomas Wedgwood Communicated by Sir Joseph Banks, Bart. P. R. S. Phil. Trans. R. Soc. Lond. January 1,(1792)82, pp.2847 トーマス・ウェッジウッド(Thomas Wedgwood, 1771~1805)は,どんな物体でも同じ温度 で同じように赤くなることを発見し,これを王立協会に報告している。 ちなみに, トーマス・ ウェッジウッドは,英国の有名な磁器メーカー Wedgwood の創始者ジョサイア・ウェッジウッ ド(Josiah Wedgwood, 1730~1795)の息子であり, 進化論で有名なチャールズ・ダーウィン (Charles Robert Darwin, 1809年~1882年)は従兄弟にあたる。 フレデリック・ウィリアム・ハーシェル(Sir Frederick William Herschel, 1738~1822)は, ドイツ,ハノーファー生まれの英国の天文学者,音楽家。天王星の発見や赤外線の発見で知られ る。最初は,音楽の教師としてイギリスに渡り,ニューカッスルやリーズのオーケストラで活躍 していたが,やがて数学に興味を抱くようになり,1773年からは天文学にも携わるようになり, 高精度の望遠鏡を制作した。1791年にその望遠鏡を使って,土星のリングとその衛星の詳細な観 測を行ったことでも知られる(On the Ring of Saturn, and the Rotation of the Fifth Satellite upon Its Axis. By William Herschel, LL. D. F. R. S. Phil. Trans. R. Soc. Lond. January 1, (1792)82, pp.122)。 今日,ハーシェルの名前は主に天文学者として残されており,2 009年に打ち上げられたハー シェル宇宙望遠鏡は,赤外線の発見者であるハーシェルに因んで命名された望遠鏡であった(2013 年4月29日に観測運用を終了)。 ちなみに,ハーシェルが音楽から数学,そして天文学へと移っていったのは,当時,音楽とは. 114 ─ 114( ) ─ .
(3) 量子論の歴史―その概念発展史と哲学的含意(森川). によるものである。1800年2月11日,ハーシェルは,プリズム分光された光の中にまだ開 発されたばかりの水銀温度計を置き,色の帯を横切って紫から赤までこの温度計を動かし てみると温度が上昇することに気が付いた。これだけでも報告に値することなのだが, ハーシェルは,この観測を行った後にたまたま温度計を赤い光の外側1インチほどの場所 に置いたままにしておいた。すると,しばらくしてさらに温度が上昇していることを発見 したのである。こうしてハーシェルは,光による熱を検出することで赤外線を発見するに 至ったのであった。―ちなみに,これとは反対側の紫外線については,1801年2月22日, ハーシェルの発見に刺激されてドイツのリッター が発見している(赤の外側に眼に見え ない光があれば, その反対側にも何かあるだろうと考えるのは至極当然のことではあろ う)。 ともあれ,この光(というよりは放射と述べた方が適切であろうが……)と熱との関係 を経験的, かつ直感的に把握することは決して難しくない。さしたる物理学的な知識を 持ってなくとも,現代のわれわれは,青白く光っている物体の方が赤く光っている物体よ り温度が高そうだ,となんとなく直感的に思うであろう。―例えば,日本語でもどんどん 熱を帯びてくることを「白熱する」というのはこの現象が経験的に知られていたなにより の証拠である。 しかしながら,これを精密に理論化して言明しようとすると物質の表面などの複雑な反 応が邪魔をしてかなり難しい。そこで,物質の放射と温度の関係について研究するために, キルヒホッフ は,1859年,理想化された状況を仮定し, 「光と熱の放出と吸収の関係につ すなわち天空の音楽(神の声)という観念があったからである。コペルニクスも惑星と音階の調 和の関係をしきりに考えており,天動説はその思索の結果でもあったのである。 W. Herschel, Observations Tending to Investigate the Nature of the Sun, in Order to Find the Causes or Symptoms of Its Variable Emission of Light and Heat; With Remarks on the Use That May Possibly Be Drawn from Solar Observations, Phil. Trans. R. Soc. Lond, January 1, vol.91,(1801)pp.265~318. Additional Observations Tending to Investigate the Symptoms of the Variable Emission of the Light and Heat of the Sun; With Trials to Set Aside Darkening Glasses, by Transmitting the Solar Rays through Liquids; And a Few Remarks to Remove Objections That Might Be Made against Some of the Arguments Contained in the Former Paper, Phil. Trans. R. Soc. Lond, January 1, vol.9 1,(1 801)pp.354~36 2. ヨハン・ヴィルヘルム・リッター(Johann Wilhelm Ritter,1776~1810)は現在のポーランド 領ザーミッツ生まれのドイツの物理学者。180 4年からバイエルン科学アカデミーで研究を行った。 祖国のレグニツァとシレジアで1791年から1795年まで薬剤師として働いていたが,イェーナ大学 で医学を学び, その後,主に電気に関する研究を行った―水の電気分解(1799年),電気による メッキ(1800年),乾電池の制作(1802~1803)などが有名。 紫外線の発見は, 硝酸銀が光に当 たると黒色化することを用いてなされた。 ギュスタフ・ロベルト・キルヒホッフ(Gustav Robert Kirchhoff,1824~1887)はプロイセン (現ロシア,カーリングラード州)生まれの物理学者。黒体放射についての業績以外では特に電 気回路のキルヒホッフの法則で有名。ハイデルベルグ大学教授,ベルリン大学教授を歴任した。 十九世紀ドイツの科学会を代表する物理学者の一人である。. 115 ─ 115( ) ─ .
(4) 第62巻 第1号 という短い論文を発表している。この論文は, 「同一温度では同一の波長の放射に いて」. 対して,吸収率と反射率の比が物質の違いによらず常に一定となる」 ということを証明す る。これをキルヒホッフの法則と呼ぶ。 なお,当時,イギリスのロンドン以外では最大級の実験室を有していたマンチェスター 大学(当時はオウエンス・カレッジ)のバルフォー・スチュワートが,1858年にエジンバ ラ王立協会に出した「放射と温度に関する法則」がある。これは,「熱せられた物体は, それが吸収するのと同じ種類の光を出す」 と唱えていることを付記しておく。. さて,この法則を導出するキルヒホッフの論法(思考実験)は非常にシンプルである。 キルヒホッフは,無限に広い平板物質が互いに平行に向かい合っている状態を設定する。 一方を物体C,一方を物体cとし,外側の表面は完全な鏡(つまり,放射を完全に跳ね返 して一切を吸収しない)Rとrで被われているとして,この両者で放射と吸収が行われる と考えるのである(図11)。. 図11. . Gustav R. Kirchhoff, ber den Zusammenhang zwishen Emission und Absorption von Licht und W rme, Monatsbericht der Akad. d. Wiss. Zu Berlin. Dec.(1859)pp.783~787. 再録版は, Gesammelte Abhandlungen, J. A. Barth, Leipzig,(1882)pp.566~571. 邦訳,「光と熱の放出と 吸収の関係について」,物理学古典論文叢書1,物理学史研究刊行会編,東海大学出版会(1970)。 以後,このシリーズは「物理学古典論文叢書」と表記して巻数を示すのみにする。 脚注の文献(原典:初版 p.7 83. 再録版 p.567,邦訳版:3頁)より。 ジョージ・P・トムソン, 「J・J・トムソン 電子の発見者」,伏見康治 訳,河出書房新社(1969), 40頁。(原書は,George Thomson, J. J. Thomson, Doubleday & Company, Inc.(1965). であ る。) マンチェスター大学(当時のオウエンス・カレッジ)の教授であったバルフォー・スチュアー. 116 ─ 116( ) ─ .
(5) 量子論の歴史―その概念発展史と哲学的含意(森川). ここで,Cの単位面積を単位時間あたりに出る放射を E として,これを放射能(Emissionsverm gen)と呼び,Cに投射されてきた放射を吸収する率―吸収率をAとする(こ れをキルヒホッフは吸収能:Absorptionsverm gen と称するのだが,ここでは分かり易 いように吸収率としておく)。 同様に, cの場合もそれぞれ放射能をe,吸収率をaとす る。こう設定して, Cが吸収する放射を考えよう。まず,自らが,Eを放射して,cで E(1a )が反射されてきて,これを自らが吸収する段には,E(1a ) Aとなっている。こ の時に自らが跳ね返す放射はE(1a) (1A)であり…,とこれを順番に続けてゆくと,自ら がEを放射して自らで吸収するのは, となり,. とすると,. である。同. 様の論法で,cから放射された放射能eをCが吸収する場合を考えてみると, となる。かくして,Cが吸収する放射は,これらの加算であるが,Cと cが等温で平衡状態にあるならば,このトータルの吸収量は最初にC自身が放射したEと 等しくなければならない。つまり, 慮して整理すると,. である。これより,. を考. が導出される。すなわち,平衡状態が成り立つためには吸収率. は放射能に比例しなければならない。 これを敷衍すると,吸収率が1の場合,すなわち,投射されたあらゆる放射のすべてを 完全に吸収する黒体の場合,吸収率は,その温度における放射能に等しいと結論できる。. さらに次の年,1860年,キルヒホッフは,この定理をさらに巧妙な思考実験と精緻な数 学的な解析によって証明すると同時に,その論文の中で黒体という概念を導入した。黒体 をキルヒホッフは次のように定義している。すなわち,「黒体,あるいは完全黒体とは, 入射する放射をすべて吸収してしまう物体である」と。そして,熱力学的な考察から, この理想的物体である黒体が放つ放射は,同一な温度Tを持ち,いかなる放射も透過しな ト(Balfour Stewart,1828~1887,はエジンバラ生まれの物理学者。1868年,王立協会よりオー ウェンメダルを授与されている。 )がキルヒホッフより前の1 858年に「熱せられた物体は, それ が吸収するのと同じ種類の光を出す」という法則をエジンバラ王立協会に提出している。 Gustav R. Kirchhoff, ber das Verhaltniss zwischen den Emissionsverm gen der K rper fur W rme und Licht, Poggendorf Annarlen,109,(1860),pp.275~301. Gesammelte Abhandlungen, J. A. Barth, Leipzig,(1882), pp.571~584. 邦訳は「熱および光に対する物体の輻射能と吸 収能の関係について」(物理学古典論文叢書1)である。 同論文において, キルヒホッフは,「黒体は輻射(放射:筆者補)が生ずる媒質と同一の屈折 率をもたねばならない。したがって,黒体表面では反射はまったく生ぜず,輻射線(放射線:筆 者補)はすべて完全に吸収されることになる」と述べている。. 117( ) 117 ─ ─ .
(6) 第62巻 第1号. い壁で作られた空洞内部に存在する放射と等しいことも示したのである。つまり,同一温 度にある黒体とかかる条件を持つ空洞は物理学的に同等だということである。―これをキ ルヒホッフの空洞定理と呼ぶ。 実際,物体を加熱してゆくと,確かに赤みがかってくるが,比較的低温の段階ではまだ 熱せられた物質による違いが存在している。ところが,これをさらに加熱してゆき,おお よそ10 , 00℃を超えてくると,物質による違いが無くなってきていかなる物体であろうとも 黒体を加熱しているのと同等となってくる。ということは,10 , 00℃以上の熱的平衡状態に ある炉も黒体の発する放射と同等ということになる。かくして,黒体放射の問題は以下の ように言表される。. 温度Tで熱的な釣り合いの状態にある空洞がある。この状態で空洞の中にはどんな光の スペクトル(放射)が存在するかを予測する公式を見つけ出せ。あるいは,光のスペクト ル(放射)分布からこの空洞内部の温度Tを導き出す公式を見つけ出せ,というものであ る。 具体的には,実験的に得られた温度Tでの光のスペクトル分布曲線を再現する数式を求 めることなのである。. さらに,キルヒホッフによる問題の単純化と黒体放射の問題の核心をしっかりと物理学 の言葉で述べておこう。 キルヒホッフによれば,ある温度で熱的な平衡状態にある空洞には,様々な波長の電磁 波(光)が存在しているはずであるが,この状態では光のエネルギーが各波長 (もしく は振動数 )にきまった仕方で分布し,その分布は温度Tにはよるが壁の物質の種類には よらない普遍性を持つ。そこで次になすべきは,このエネルギー密度の分布関数 (もしくは振動数表示で. )を求めることである。. これが,「スペクトル分布曲線を再現する数式を求めること」のより物理学的な表現で ある。 また,ヤンマー は,キルヒホッフの空洞定理を以下のように現代の用語に書き換えて マックス・ヤンマー(Max Jammer, 1915~2010)はドイツ生まれのイスラエルの物理学者, 哲学者。ハーバード大学,プリンストン大学,オクラホマ大学で科学史や科学哲学の講師を務め, イスラエルのバル=イラン大学の教授となり後に学長となる。「量子力学史」「量子力学の哲学」 「力の概念」「質量の概念」「空間の概念」などの著作で知られる。 以下の引用は,M. Jammer, The Conceptual Development of Quantum Mechanics, McGrawHill Book Company(1 966). 邦訳は,ヤンマー, 「量子力学史1」,小出昭一郎 訳,東京図書 (1974),より。引用箇所は,それぞれ,原典:p.5,日本語版:4頁。. 118( ) 118 ─ ─ .
(7) 量子論の歴史―その概念発展史と哲学的含意(森川). いる。. 温度Tの黒体表面の単位面積が単位時間にその面に垂直な方向の単位立体角内に放射する エネルギーのうち,振動数が. と. のあいだのものを. とすると,. で. あって,Lambert の法則にしたがう表面に対し半球にわたってとった全放射エネルギーは となる。そして温度Tの空洞内の放射のうち振動数が と ものを. . とすると,全エネルギー密度は. のあいだの. となるが,このとき. すなわち. という関係が簡単な幾何学的考察から証明される。熱力学の第二法則によって,. と が. 空洞の壁の性質とは無関係であることがわかる。. である。―すなわち,求めるべきは,上記のエネルギー密度である。. ちなみに,光が電磁波の一種であることはすでにマクスウェル によって証明されてお り,これまで光と記したものは厳密には電磁波と記されるべきものである。 いずれにせよ,与えられた命題はじつに単純である。 そして, この単純さが, エネル ギー量子の発見へと導いたのである。―ここで単純というのは,物理学的に命題が単純で あるということにも増して,キルヒホッフによって考察対象となってくる放射が素材によ らないことが証明されたことである。いささかしつこいが,このことは重ねて強調してお きたい重要なポイントである。 十九世紀後半の当時にあっては原子が何物であるかという知識は得られていない。しか しながら,キルヒホッフの定理は,そうした素材に関係なくそこから放射される光にのみ 焦点を当てればよいことを保証したのであり,キルヒホッフが成したことの真価は間違い なお,引用文中の「Lambert(ランベルト)の法則」 (Lambert, J. H.1760, Photometrie)は, 要約すれば,「物体表面における光の散乱やそれによる光子群の過程などが無視できる場合, 光 の吸収率が入射と独立である」ことを主張する法則である。―International Union of Pure and Applied Chemistry, Compendium of Chemical Terminology, Gold Book,(2012)p.818を参照。 ジェームス・クラーク・マクスウェル(James Clerk Maxwell, 1 832~1879)は,英国スコッ トランド出身の物理学者。ケンブリッジ大学キャベンディッシュ研究所の所長を務めた十九世紀 のイギリスを代表する物理学者。 その業績は幅広いが, 特に電磁気学の業績で知られ, ファラ ディーによって発見された様々な電磁気現象を4つの方程式―マクスウェル方程式にまとめ上げ た。. 119( ) 119 ─ ─ .
(8) 第62巻 第1号. なくこの一点にある。そして,この問題の偉大さは,それが物体の性質によらないという 事実に凝縮されている。この事実は,その問題の中にいまだ知られざる何らかの普遍性が 含まれていることを暗示しているからである。. 2:太陽の分光学から. それにしてもキルヒホッフは,なぜ前記したような発想を持ち得たのだろうか? ある いは,なぜ前記したような研究を行ったのだろうか? キルヒホッフのこの分野について の直接的な研究は,フラウンホーファー 線の謎を解明することにあった。 フラウンホーファー線とは,太陽光のプリズム分光の中に現れる暗線のことである。 つまり,そこだけ光が弱い場所のことを指す。そもそも太陽光は自然光なのでプリズムで 分解すればもれなくすべての波長を見出すはずであった。しかし,実際には,所々で光が 弱くなっている箇所があった。ということは,その該当する箇所の波長の光だけが存在し ていないか,存在していたとしても他に比べて極めて弱いということになる。この謎を解 き明かしたのがキルヒホッフと化学者ブンゼン であった。 の 彼らは,1859年,ベルリン学士院へ提出した論文「フラウンホーファー線について」. ヨーゼフ・フォン・フラウンホーファー(Joseph von Fraunhofer,1787~1826)はドイツの物 理学者。家業であるガラス製造工場で働いた市井の労働者であるが,様々な光学機器の製造に携 わり,後代に名を残すこととなった。光学的フラウンホーファー回折は特に有名。1822年にエア ランゲン大学から名誉博士の学位を受け,1824年には功績を認められメリット勲章を授与され貴 族となった。 なお,ドイツ全土に67もの研究所を擁するフラウンホーファー研究機構は彼の業績に因んだも ので,応用科学研究をミッションとする。(これに対して有名なマックス・プランク研究所は, 基礎研究に主眼が置かれている。) なお,この暗線の最初の報告はイギリスの化学者ウイリアム・ウォラーストーン( William Hyde Wollaston, 1 766~1828)によって1802年に行われている。 W. H. Wollaston, A method of examining refractive and dispersive powers, by prismatic reflection, Philosophical Transactions of the Royal Society, 92,(1802)pp.365~380. ウォラーストーンは1766年,イギリスのノーフォークに生まれ,ケンブリッジで教育を受け, 1793年に医学の学位を受けた。同年,ロイヤル・ソサエティの研究員に選出され私設の実験室を 開設している。1820年にはロイヤル・ソサエティの会長を務めている。特に,太陽光スペクトル のフラウンホーファー線の中に暗線があることを発見したことで知られる。 ロベルト・ブンゼン(Robert Bunsen, 1811~1899)はドイツの化学者。キルヒホッフとの共 同研究で分光学の研究を行う。1860年セシウムを,1861年ルビジウムを発見した。ハイデルベル グ大学教授。 当該の文献はレポートとして,以下に初出している。 Gustav Krichhoff, Ueber die Fraunhofer’ schen Linien, Monatsbericht der K niglichen Preussische Akademie der Wissenschaften zu Berlin(1859),pp.662~665.(Max Plank and Gustav Krichhoff, Abhandlungen ber Emission und Absorption:1Ueber die Fraunhofer’ schen Linien: Ⅱ, Biblio Bazaar,(2 009), に再録。) また,より総合的な報告として,以下がある。 Gustav Krichhoff, Ueber das Sonnenspektrum, Verhandlungen des naturhistorisch-medizinischen Vereins zu Heidelberg, 1 (7),(1 859), pp.251~255.. 120 ─ 120( ) ─ .
(9) 量子論の歴史―その概念発展史と哲学的含意(森川). 中で,これらの暗線が,太陽の上層部や大気中の酸素などによって吸収されてしまったこ とを示した。つまり,太陽から放射される光のうちで,特定の波長のみを吸収し,同一の 波長を放射する元素の存在を示したのである。この吸収率と放射率がまったく同じであれ ば暗線は出現しないが,わずかでも放射率が下回れば(放射率が吸収率を上回ることなど 物理的にあり得ないのだが……)太陽光スペクトルに暗線が出現することとなる。 ここからキルヒホッフの前記した研究が始まり,放射と吸収についての一般化が行われ た。そして,次の段階ですべてを吸収してしまう完全黒体の理論的な定義へと至ったので ある。すなわち,歴史的に見ると,キルヒホッフの法則は,直接的には太陽物理学(天体 物理学)や分光学の研究の成果なのである。そして,この法則の背景には,十九世紀に なって,精密さを増した分光学機器の精度の向上があった。. 黒体も空洞もまったくもって理想化された理論的な代物にすぎない。しかしながら,こ れらは,キルヒホッフが結束点となる形で分光学,広くは天体物理学におけるその具体的 な観測の中から形を成したのである。. 3:プランク以前のサマライズ. さて,こうして俎上した黒体放射の問題ではあるが,これは,結局のところ古典物理学 の範疇では解き得ないことが判明してくる。そして最後にプランクの作用量子仮説となる のだが,本節ではプランクまでの流れを詳細に,しかしながら可能なかぎり簡潔に辿って みよう。. シュテファンの法則 1879年,シュテファン は,1,200℃(1473° K)の白金線が出す放射が525℃(798° K) のときの11.7倍であり,たまたま. =11.609……,となって,11.7に非常に近いこと. Gustav Krichhoff, Ueber das Verh ltniss zwischen dem Emissionsverm gen und dem Absorptionsverm gen der K rper f r W rme und Licht. Annalen der Physik 185 (2),(1860) pp.275~301. ヨーゼフ・シュテファン(Joseph Stefan,1835~1893)はスロベニア生まれのオーストリアの 物理学者。ボルツマンの師に当たる。 当該の論文は, J. Stefan, ber die Beziehung zwischen der W rmestrahlung und der Temperatur, Wien, Ber. 79,(1879)p.391~. である。. 121( ) 121 ─ ─ .
(10) 第62巻 第1号. から,放射の全エネルギー E は,温度 T の4乗に比例すると結論した。すなわち,. . としたのである。ただし,これは,推論によるものであり,理論的な裏付けがあってのこ とではない。 またシュテファン自身, これは, 黒体という条件下ではなく放射のエネル ギーと温度の関係として一般的に成り立つものと信じていた。つまり,シュテファンの結 果は今日の眼から見ると偶然としか言いようがない。しかし,「シュテファンの四乗則」 として知られるこの法則は,実験結果ともよく符合し,ボルツマン によって理論的に証 明されることにもなった。. シュテファン=ボルツマンの法則 1884年,ボルツマンは, 「電磁的な光の理論から熱輻射の温度異存に関する Stefan の法則 を導出すること」というたった四頁の論文でシュテファンの四乗則を理論的に導き出した。 ボルツマンの発想は,イタリア人物理学者バルトーリ の思考実験の中にあった。バル トーリは,動く鏡を用いて,放射という形にした熱を低熱源から高熱源へと移す思考実験 を論じた。だが,これにはエントロピーを減少させるような仕事が必要となる。そこで, 彼は,熱放射が圧力を及ぼし,これが件の仕事を為すと考えたのであった。ボルツマンは これを受けて,この圧力がエネルギー密度の三分の一に等しいことを示し,放射気体に温 度 T と圧力 P を付与して熱力学的にシュテファンの法則が成り立つことを示したのであ る。 今日,シュテファンの四乗則をボルツマンの理論的証明と一緒にしてシュテファン=ボ ルツマンの法則と呼ぶことが多い。. . ルードヴィッヒ・ボルツマン(Ludwig Eduard Boltzmann,1844~1906)はオーストリア出身 の物理学者,哲学者。ウィーン大学教授。熱力学を統計力学的に基礎づけ,エントロピーを統計 力学的に定義し直した業績で有名。原子論の闘士であった。科学史的には,原子を疑い得ない存 在として認知させた一番の功績者と目される。 晩年はうつ病に悩まされ,イタリアのアドリア海に面する保養地ドォイーノ(Duino-Aurisina, ドォイーノ=アウリジーナ)に滞在中,家人が眼を離したわずかな間に自殺した。 アドルフォ・バルトーリ(Adorfo Bartoli, 1851~1896)はイタリアの物理学者。アレッツォ 工科大学,サッサリ大学,フィレンチェ工科大学,カターニア大学,パヴィア大学の教授を歴任 した。主に,放射圧の研究で知られる。 朝永振一郎の「量子力学Ⅰ」,みすず書房(1969),には,放射気体にカルノーサイクルを行わ せることで同様の結果を導き出す方法が詳しく述べられているが,これは,ボルツマンの原論文 の最後の方に書かれている方法を若干ながら現代風に修正したにすぎない。ボルツマンの現代性 の表れとでも言うべきであろう。. 122( ) 122 ─ ─ .
(11) 量子論の歴史―その概念発展史と哲学的含意(森川). ヴィーンの変位則 シュテファン=ボルツマンの法則は,確かに実験結果とうまく合致していた。しかしな がら,ここまでの議論は,放射のスペクトル分布を決定するようなものではない。そこで ヴィーン は,過渡的な折衷案を提示することとなる。 折衷案といえども,それはまさしく絶大な進展であった。なぜならば,これによって一 つでもスペクトル分布が分かれば次々と異なった温度でのスペクトルを導くことができる ようになったからである。. ヴィーンは,1893年,スペクトルを理論的に得ることができないにしても,仮にある温 度でのスペクトル分布が分かれば,それを元に異なる温度でのスペクトルを得ることがで きる,ということを極めて巧妙な思考実験から示した。彼は,いわば,人工的に(意図的 に)ある特定の温度の放射状態からある特定の温度の放射状態を作り出すことで,これを 解決しようとしたのである。 この論理的な骨子は以下である。. まず,ヴィーンは,バルトーリやボルツマンのように,放射をまるで気体のごとくに扱 う。―つまり,個々の放射(放射線)に圧力や温度を担わせる。そして思考の中で(思考 実験として)以下のような過程を構成するのである。. 図12 ヴィルヘルム・カール・ヴェルナー・オットー・フリッツ・フランツ・ヴィーン(Wilhelm Carl. 123 ─ 123( ) ─ .
(12) 第62巻 第1号. 図12のように, 室1と2に分かれたシリンダーがあるとして,室1は温度Tにある 黒体Aからの放射を受けて放射Aの状態にあるとする。最初は弁を開けておく。すると, 室1と2は同じ放射状態Aである。次に,弁を閉じて室2を可逆的に圧縮してゆくと室2 の温度は上昇する。この状態での温度をT’とすると,ヴィーンは,この時に室2の中にあ る放射の状態は温度T’の黒体が放射する電磁波の状態と同じでなければならない,と考え たのである。 具体的には,これが,T’と同じでなければ熱力学第二法則に反する結果を招くことを論 理的に帰結し,次に室2を圧縮する際に電磁波が受けるドップラー効果を加味して,温度 T’にある黒体の放射を導いた。 その結果は,最初の(最初に分かっている放射の)エネルギー密度を ,対応する電磁 波の波長を. とすると,求めるべき未知の黒体の放射は,エネルギー密度を. の波長を とすると, (ここで. および. ,電磁波. となる。これにシュテファン=ボルツマンの法則,. は温度で,あえてヴィーンの原論文の表記と一致させたことを付記し. ておく)を適応して,変位則. を得たのである。つまり,異なる温度間では波長. と温度の積が同一となるように変位する,ということである。 物理学者であり科学史家である天野清 は,ヴィーンのこの業績に対して次のような評 価を与えている。. この Wien の論文は,例えば輻射線(放射線:筆者補)を三つの垂直方向へ分けて論じる 点等にも欠陥がないではないが,Bartoli や Boltzmann の先例ありとはいえ,当時まだ実 Werner Otto Fritz Franz Wien, 1 864~1928)は,東プロイセンのフィッシュハウゼン近郊のガ フケンに地主(農業主)カールの長男として生まれた。ゲッチンゲン大学,ベルリン大学で数学 と物理学を学んだ後,一時,帰郷して家業を継ごうとしたが,1890年には土地を売却して学研生 活に入り,シャルロッテンブルグ PTR 研究所でヘルムホルツの助手となった。1 892年にベルリ ン大学私講師となり,その後,アーヘン工科大学,ギーセン大学,ザルツブルグ大学,ミュンヘ ン大学の教授を務めミュンヘン大学では学長となった。1920年にはドイツ物理学会の会長を務め ている。1911年,熱放射に関する研究でノーベル物理学賞を受賞。 天野によれば(科学史論2,115頁),晩年は,政治史にも興味を示し,大学の同僚である現代 政治史家ヘルマン・オンケンを捉えては議論をしていたという。しかしその議論は,言わば歴史 の if を考えるかのごとき議論であり(いわゆる床屋談義の発展版といったところであろう) ,さ んざんオンケンを悩ませたという(天野はやんわりと「悩ませた」と記しているが,現実は「う んざりさせた」というのが正解であろう)。(天野については次の脚注を参照のこと。) 天野清(1907~1945)は日本の物理学者,科学史家。戦後間もない昭和 23年に京都の日本科学 社より公刊された「天野清選集1,2」 (第一巻は量子力学史,第二巻は科学史論である)は日本 の物理学史研究の嚆矢として高く評価されている。1945年4月13日の東京大空襲で被爆し,翌日 14日に死去。1932年,九州帝国大学助手となり,商工省中央度量衡検定所,旧制東京高等学校講 師を経て1944年,東京工業大学助教授となった。 以下での引用は,天野清選集 第二巻,20頁より。. 124( ) 124 ─ ─ .
(13) 量子論の歴史―その概念発展史と哲学的含意(森川). 験で証明されて居なかった輻射圧(放射圧:筆者補)を大胆に利用して,熱力学的可逆過 程を構成した点,殊に Doppler 効果の巧妙極まる適応ぶりなど,正に歴史的価値あるもの で,Wien の才能を遺憾なく発揮していると言えよう。. この評価は,まことに的を射たものである。 筆者の感想を述べれば,ヴィーンが,この理論を展開した論文「黒体輻射と熱理論の第 二主則との新しい関係」(1893)での思考実験は,ほとんど魔法のような手法であり,当 時としてはまことに風変わりな発想であったことだろうと想像する。しかし風変わりな発 想でありながら,彼のこの論文は非常に説得力があり魅力的である。 この風変わりな発想は,分布式を求める場合にさらに顕著になってくる。. ヴィーンの分布式 次にヴィーンは,分布式そのものを求めようとした。今日ヴィーン分布と呼ばれる彼の 式は当時の観測データとかなりの精度で一致していた。ところが,彼がこの分布式を導き 出した物理学的仮定ははっきりと間違っているものであり,レイリー は,ヴィーンのこ の分布式を導出した論文に対して「理論的な側面からみると,この結論はたんなる推測以 上のものではないようにわたしには思える」と批判している。しかしながら,ラウエ の 言葉を借りれば,まさにヴィーンのこの分布式が「われわれを量子論の入り口まで導いた」 のであった。. 1896年,ヴィーンは,「黒体の放出スペクトルにおけるエネルギー分布について」 と題 する論文を発表し,放射スペクトルを導く一般式を提示した。ヴィーンは,この論文で, そもそも何らかの仮定によって基礎付けを為さなくては放射法則を導出することはできな い, と述べ,この仮定による基礎付けをマクスウェルの速度分布則に求めた。 そして,. レイリー卿 → 本論の脚注を参照のこと。 マックス・フォン・ラウエ(Max Theodor Felix von Laue,1897~1960)はドイツ生まれの物 理学者。結晶によるX線回折を発見したことで1914年ノーベル物理学賞を受賞。チューリッヒ大 学,フランクフルト大学で教授職を勤めた後,1919年ベルリン大学の教授となり1943年に名誉教 授となるまで同職にあった。 W. Wien, Ueber die Energievertheilung im Emissionsspectrum eines schwaryen K rpers, Wiedemann Annalen58,(1896),邦訳は,「黒体の放出スペクトルにおけるエネルギー分布につ いて」(物理学古典論文叢書1)。 彼のこの観点は,すでに,ユダヤ系ロシア人物理学者ミヘルゾンによって試みられている。 Vladimir Alexandrovitsch Michelson, ウラジミール・アレクサンドロヴィッチ・ミヘルゾン (1860~1927)は,ウクライナはトゥーリチンのユダヤ人家庭に生まれた物理学者, 気象学者,. 125( ) 125 ─ ─ .
(14) 第62巻 第1号. 空洞中にある混合気体の中の一つの成分から放射が生じていると考え,その強度がその分 子の速度のみに依存していると仮定する。曰く,. 各々の分子は,運動する分子の速度のみに依存し,その強さが速度の関数であるような振 動を発するという仮説を立てよう。. この仮説は,まったくの間違いである。ヴィーン自身はこれが間違いという認識はな かったであろうが,少なくとも物理学的な根拠が薄弱であるとの認識があったのであろう。 続けて,「このような前提はここではさしあたり全く勝手なものであるから,云々……,」 と述べている。しかしながら,ヴィーンは,とにかく必要な仮説をできるだけ簡単な形で 設定する必要性を説くのである。そして,マクスウェル=ボルツマンの速度分布則とのア ナロジーから,波長が. と. の間にある放射の強さ. を,. 1.この周期の振動を発する分子の数, 2.速度vの関数,したがってまた. の関数,. に比例するとして,. . と置く。ここで F と f は未知の関数であり, は絶対温度である。さらに自身の変位則か 地球物理学者。1883年にモスクワ大学で物理学と数学を学んで卒業後,ヨーロッパ各国へ留学し, 1887~188 9年にはベルリン大学に滞在中であった。帰国後の1894年にモスクワ農業大学の物理学 および気象学の教授となった。 帰国後は主に気象観測学の分野で活躍した。(なお, ミヘルゾン に関しては情報が少ないためか,ウラジミールを Wladimir と間違って記載されている場合がほ とんどである。例えば,クーン(T. S. Kuhn)もその著書 Black-Body Theory and the Quantum Discontinuity,18941912, Oxford University Press(1978)の p.8でVをWと誤記している。し かし,これは Vladimir が正解である。おそらくは,下記する Philosophical Magazine がVをW と誤記してしまったのが始まりであろう。以後は Vladimir と正確に記すのがよいであろう)。 さて, ヴィーンであるが, 彼は当該の論文の中で上記のミヘルゾンの論文に言及し,これを 「巧妙な(gl cklich:幸運な)考え方」と評している。ミヘルゾンは, 多数個の分子がある場 合のマウスウェルの速度分布則は個体に対しても成り立つ。1個の分子によって励起される振 動の周期. は,分子の進行速度vと. の関係を有する。ここで. は定数。1個の分子. から放出される放射の強度は,同じ振動周期の分子の数,さらに温度の不定関数やまた運動エネ ルギーの未知関数に比例する。この場合,運動エネルギーは. に比例すると仮定して, 分布則. を得ている。―当該論文は以下, V. A. Michelson(ただしVがWと誤記してある) , Theoretical Essay on the Distribution of Energy in the Spectra of Solids, The London, Edinburgh and Dublin Philosophical Magazine and Journal of Science, Series 5, 25(1888)pp.425~435 ただし,これは,1889年にヴェーバー(H. F. Weber,1880年代,チューリッヒ工科大学教授で あった)によって実測と合わないことが示されている。. 126( ) 126 ─ ─ .
(15) 量子論の歴史―その概念発展史と哲学的含意(森川). ら,c を定数として. とし,シュテファン=ボルツマンの法則から. . でなければならないとする。 そして,. を冪級数に展開し, 未定係数法によって,. を導出するに至る。こうしていわゆるヴィーンの分布式. . を得るのである。この公式は当時,それまでに得られていた測定結果と非常によく一致し ていた。 これは,物理学的にまったくおかしな前提から出発して極めて真実に近い結果が導出さ れた例ではある。だが,一概に彼の思考がまったくの的外れだったというわけではない。 事実,プランク は,ヴィーンの公式を高く評価し,ヴィーンの間違った前提を正しい文 脈に設定し直すことで正しい放射式に辿り着くのである。. 4:プランクの放射公式. ヴィーンの分布則は,確かに実験結果を見事に再現するものであった。しかしながら, 物理学的にはいささか根拠薄弱であることは免れず(仮にヴィーンの仮定が正しかったと してもそれはそれで大問題である) , レイリーの言葉を用いれば「この結論はたんなる推 測以上のものではない」ものである。分布式の確固たる物理的な理由がクリヤーにはなっ ていないのである。そうした中でプランクが登場することとなる。なお,プランクの学術 的基盤は熱力学にあり,1879年の学位論文「熱力学の第二法則について」,1897年に出版 した「熱力学講義」など,種々の熱力学に関する知見を背景にして黒体の問題へと挑んだ。. さて,プランクによって為されたヴィーンの公式の厳密な導出は,1897年から断続的に 発表され,1900年12月14日のドイツ物理学協会の例会での発表をもって完成されたと目. マックス・カール・エルンスト・ルートヴィヒ・プランク(Max Karl Ernst Ludwig Planck, 1858~1947)については Appendix を参照のこと。 1897年から1899年にかけて五回に分けてベルリン科学アカデミーに提出された論文, ber ir-. 127( ) 127 ─ ─ .
(16) 第62巻 第1号. されている。本節では,その過程をできるだけ詳細にフォローしておこうと思う。 プランクは,ヴィーンの公式が基本的に正しいものであると考え,あるいは,物理的に おかしな仮定を置いてはいるが,何か真実に肉薄しているものであると考えた。ヴィーン は,気体分子運動論の見地からマクスウェル=ボルツマンの速度分布を用いた。しかしな がら,放射は電磁的なものである。そこでプランクは,マクスウェル=ボルツマンの速度 分布則の導出過程を電磁的な文脈でもって実現しようと試みたのである。具体的には,マ クスウェル=ボルツマンの速度分布則が,任意の初期状態から出発して不可逆的に到達す る平衡状態であるのと同様に,放射の分布関数もエントロピー(プランクの言葉によると, 「電磁気的なエントロピーと呼んでもよいような」物理量)が最大化された結果として実 現されるものとして理解しようと試みたのである。 以上のような立場からプランクは,振動数. とエネルギーUを有する一個の共鳴子なる. ものを考えた。共鳴子とは,空洞内部にある光(電磁波)とエネルギーのやりとりをする 線形振動子のことで,両者の共振(共鳴)によってエネルギーの平衡が保たれるのである。 プランクは空洞内壁がこのような共鳴子の集合体であると考えて論を進めた。そしてまず, 共鳴子による放出と吸収が等しいとして古典電磁気学によって放射密度. とエネルギー. Uとの関係. . を得た。さらに,この共鳴子の電磁的エントロピー S を. . と定義して(aとbは定数, eは自然対数の底である), エントロピー増大の原理から を要請するに至る。これを積分し,熱力学の関係式. を用いて,変位. 則を持ち込むとヴィーンの分布式が得られる。. reversible Strahlungsvorg nge, 邦訳, 「非可逆的な輻射現象について」 (物理学古典論文叢書1) は,1900年,Annalen der Physik(4),1, pp.69~122 にまとめて発表されている。内訳は,以下 の通りである。第一報:1897年2月4日,pp.57~68. 第二報:1897年7月8日,715~717頁。第 三報:1897年12月16日,1121~1145頁。第四報:1898年7月7日,449~476頁。第五報:1899年 5月18日,440~480頁。. 128( ) 128 ─ ─ .
(17) 量子論の歴史―その概念発展史と哲学的含意(森川). 図13. ところが,この頃(1899年から1900年にかけて)になると,測定の精度が増してきて, ヴィーンの公式がすべての領域で無制限に成り立つのではないことが明らかとなってきた。 ルンマー とプリングスハイム が行った測定によると,このズレは振動数の小さい箇所 で明らかであった。また,レイリー卿 は,1900年6月,統計力学の等分配の法則を空洞 放射の電磁振動に適応するとヴィーンの公式とは似ても似つかない公式を導くことを示し た(いわゆるレイリー=ジーンズの放射公式)。ただし,レイリーの公式は,ヴィーンの 公式が成り立たない振動数の小さな領域では極めてよく実験データと一致する。これは. . オットー・ルンマー(Otto Richard Lummer, 1860~1925)はドイツの物理学者。主に光学と 熱放射の研究を行った。現ポーランドのブレスラウ大学教授。 エルンスト・プリングスハイム(Ernst Pringsheim, 1859~1917)はドイツの物理学者。主に 光学と熱放射の研究を行った。現ポーランドのブレスラウ大学教授。ルンマーとは終生の友人で あり共同研究者であった。 レイリー卿:ジョン・ウィリヤム・ストラット(John William Strutt, 3rd Baron Rayleigh, 1842~1919)は英国の物理学者。 キャベンディッシュ研究所所長(マクスウェルの後任), ロン ドン王立研究所の自然哲学教授,ケンブリッジ大学名誉総長などを歴任した十九世紀の英国を代 表する物理学者であった。1904年にノーベル物理学賞を受賞。 その後,1905年にジーンズ(J. H. Jeans)によって係数の間違いを指摘され,以後,レイリー =ジーンズの放射公式と呼ばれるようになったこの公式は,エネルギーの等分配法則に基づいた 放射公式である。量子力学の教科書では,古典物理学が破綻することをドラスティックに示す為 に用いられる(本論の第7節を参照のこと)。 ジェームス・ホップウッド・ジーンズ(Sir James Hopwood Jeans, 1877~1946)はイギリス の物理学者。1904年にプリンストン大学の応用数学教授となり,1910~1912年まではケンブリッ ジ大学の教授を務めた。その後,研究を宇宙論(天文学,宇宙物理学)へとシフトしてゆき,カ リフォルニアのウィルソン山天文台で研究に従事した。宇宙論での功績は,いわゆる定常宇宙論 の提唱である。. 129( ) 129 ─ ─ .
(18) 第62巻 第1号. ルーベンス とクールバウム によってまったく疑いようもなく示された(図13参照)。 かくしてプランクは新しい公式の導出を試みる。目指す形は,振動数が大きく温度の低 い時にはヴィーンの公式に一致し振動数が小さく温度が高いところではレイリーの公式に 合致するようなものである。 これは,数学的には. と. を同時に満たすことであるというこ. とに気が付いたプランクは(特に物理的な根拠はなく), こ う す れ ば, U が 大 き い と こ ろ では. を. へと置き換えた。. と な り, U が 小 さ い と こ ろ で は,. となるはずである。よって,解くべき微分方程式を,. . と定め,これを積分し,. を用いて,. を導いた。そして,ここ. へヴィーンの変位則を使っていわゆるプランクの放射式. . (放射密度ならば,. となる). を導くに至ったのである。 1900年10月19日,ベルリン物理学協会の例会で発表されたこの放射式は実測値を完璧に フォローするものであった。プランクが伝えるところによると,このベルリンでの発表の 翌朝になって「同僚のルーベンスが訪ねてきて,学会が終わった夜,私の公式を自分の観 測データと詳しく比較した結果,すべての波長で十分に両者は合致することが判った,と 述べた。ルンマーとプリングスハイムも,最初は測定値との不一致を確かめたと信じてい たが,間もなく(プリングスハイムが口頭で伝えてくれたところでは) , それが計算の間 違いによるとはっきり判ったので,反論をとり下げた。それは以後の測定では,実験方法 が精密になればなるほど正確に,繰り返し実証されることになったのである」と述べてい る。 ハインリッヒ・ルーベンス(Heinrich Rubens,1865~1922)はドイツの物理学者。ベルリンの 物理工学研究所教授を務めた。 フェルディナンド・クールバウム(Ferdinand Kurlbaum, 1857~1927)はドイツの物理学者。 物理工学研究所を経てベルリン工科大学教授を務めた。 M. Planck,Vortr ge und Erinnerungen, 1933, 1 949 und 1 965. 邦訳,「現代物理学の思想― 講演と回想― 上」,法律文化社(1971),29頁。. 130( ) 130 ─ ─ .
(19) 量子論の歴史―その概念発展史と哲学的含意(森川). 5:量子論の誕生―プランクの作用量子仮説. こうして得られたプランクの放射公式であったが,これがいかに実験結果と符合しよう ともこのままではただの経験的な公式で急場の一時しのぎにすぎない。これがどのような 物理的内容を含み,そしてどのような物理的内容を表現しているのかを明らかにしなくて はならない。プランクは,10月19日のベルリンでの発表以後,この問題にかかりっきりに なった。そして,不眠不休の8週間を経てついにプランクは革命的なアイデアに辿り着い た。後年,プランクはこの8週間のことを次のように述べている。. その放射公式が完全に正しいことがはっきりしたにしても,それは結局のところ,当て推 量がたまたまうまく行ったおかげで見つかった内挿公式にすぎないのかもしれませんでし た。それでは誰も満足はできないわけです。そこで私は,この公式を発見したその日から, これに本当の物理的な説明を与えることに取り組みました。このことが,ボルツマンの着 想によるエントロピーと確率との関係を考える方向に導いて行きました。これが,生涯の うちでもいちばん頑張って仕事をした時でしたが,こうして何週間が過ぎると,だんだん 明かりがさしてくるような気がし始め,そしてはるか彼方に思いがけない光景が現れてき ました。. 先に述べたように,1 900年12月14日,ドイツ物理学協会で行われたその発表は,後年し ばしば量子論の誕生日と目されるようになった。以下ではその内容の骨子を見てゆこう。. まず,プランクは,この公式の意味内容を明確にするにはこれまでのように熱力学の内 部に留まっていたのでは不可能であることに気がついてゆく。そして,ボルツマンによる 確率論的な考え方を元にしなければならないことに気がついた(その様子が上記のプラン. なお,ハイゼンベルグもプランクが「午後のお茶の時間」にルーベンスと私邸で会っており, 新しい放射式と実測値が完璧に符合することを確認したというエピソードを伝えている。Physics and Philosophy, Harper & Row 958)p.3, 邦訳:「現代物理学の Publishers, Inc, New York,(1 思想」,みすず書房(1967),5頁。―両者の情報を総合すると,ルーベンスが学会の翌日(プラ ンクの記述によれば午前であるがハイゼンベルグの記述では午後となっているが)にプランクの 私邸でのお茶の時間に訪ねてきた,ということであるが,午前中に訪ねて来て,午後までいてお 茶の時間を共にした,ということであろうか……。 M. Planck, Novel Lecture, The Genesis and Present State of Development of the Quantum Theory, June 2,(1920).. 131 ─ 131( ) ─ .
(20) 第62巻 第1号. ク自身の言葉である)。 そこで,これまで. と書いていたエントロピーを振動子 N 個からなる系. のエントロピーとして. と置いた。すなわち,完全にボルツマンに従ったので. ある(ここで k はボルツマン定数,Wは系のエネルギーが与えられた時にそれを満足する 分布の総数である)。 ところが,Wを決定するには,エネルギーをこれまでのように連続的な量と考えていて は不可能である。なぜならば,これでは組み合わせの数を決定することができないからだ。 これを為すには,エネルギーが一つ二つと数えられなければならない。そこでプランクは, 全エネルギー. がエネルギー要素. の整数倍,すなわち,. でなければな. らないとした。ヤンマーによれば,量子の概念は,こうして言わば「組み合わせの数を求 導入されたのである。プランクは以下のように めるための方法論的要求が動機となって」. 述べる。. 個々の共振子にエネルギーを分配する必要があり,まずエネルギーEを振動数. を持つN. 個の共振子に配分する。もしEが制限なしに分割可能な量だと見なせば,配分は無限に多 くの仕方で可能である。しかしわれわれは―しかもこれが全計算の最も大切な点である が―Eをすべてが一定数の有限な等しい部分からなると考え, そのために自然定数 [エルグ×秒]を使うこととする。この定数に共振子に共通の振動数 掛けてエネルギー要素. を. エルグがえられ,またEを で割ればN個の共振子に分配すべき. エネルギー要素の数Pをうる。. こうして,P個のエネルギー要素. をN個の振動子に配分する数として,Wは,. . となる。これより,. . マックス・ヤンマー,前提書,原書:p.19,邦訳:22頁。. 132( ) 132 ─ ─ .
(21) 量子論の歴史―その概念発展史と哲学的含意(森川). となって,一個の振動子につき(すなわち. で),. より放射法則. . を導出した。ここで. . である。. 以上が,プランクの作用量子の導入までの流れである。. こうして,エネルギーを要素に分割する,つまり,エネルギーを不連続化することで懸 案であった黒体放射(あるいは空洞放射)のスペクトルを物理的な意味を付与しつつ導く ことに成功した。しかしながら,この理論が一般的に認証されるにはさらに十年ほどの歳 月を必要とした。 プランクの発表当初,この作用量子仮説の深淵な意味を理解する者はプランク本人も含 めて誰もいなかった。プランクは,なんとしてでも理論的な説明を成さねばならないこと から致し方なくエネルギーを不連続にしただけであって,決して自らのやり方に満足して いたわけではなかった。その後も彼は,h の導入を古典物理学の範疇に収めるための方策 を探り続けたのである。 そもそも彼は, 計算の便宜としてWを確定するためだけに不連続量 あって,当初の計画としては,最終的に. を導入したので. →0の極限を取ってエネルギーを連続に戻そう. としていた。 ―ちなみにこれはボルツマンが行っていたことと同じである(後述)。しか し,これを強引にでも行おうとすれば,. が対応するヘルツ発振機の固有振動数であるこ. とから,これをゼロとするわけにはいかず,従って h をゼロとせざるを得ないのだが,こ れがまったく不可能(もっとはっきりと述べれば物理的にまったくのナンセンス)である ことを知ったプランクは,文字通り苦渋の決断でエネルギーを不連続のままにせざるを得 なかったのであった(極限を取ればレイリー=ジーンズの公式に行き着いてしまったであ ろう)。なんとなれば,プランク本人は,h が,物理学的に重要な意味を有するある普遍的 な定数であることをはっきりと認識しており,1899年5月には,すでに彼は,光速cに加 133( ) 133 ─ ─ .
(22) 第62巻 第1号. えて件の h も自然単位系の基本要素として導入する必要性を感じていたのであった。 1931年になってプランクは,述べている「それは(量子の導入によるエネルギーの不連 続化:筆者補)言わば絶望的な行為だった。6年間というもの,私は黒体の理論と取っ組 み合っていた。この問題が本質的なものだということは分かっていたし,答えも分かって いた。そこで私は何を犠牲にしてでもその理論的な説明を見つけ出さなければならなかっ たのだ。ただし,神聖犯すべからざる熱力学の二つの法則だけはそのままにしてね」,と。 もちろんプランクだけでなく,古典物理学と折り合いをつける試みはその後も数多なさ れたが,そのすべてが失敗に終わった。こうした諸々の試みに関して,プランクは以下の ように述べている。「エネルギー要素の本性は明らかにされずに残っている。私は何年も の間,作用量子を古典物理学の体系の中にくみ込もうとくり返し試みたが,それは成功し なかった」と, そしてさらに,「量子物理学の建設という課題は若い世代の人たちに残さ れた」,と……。このプランクの述懐通りに,現在にあっても, 「エネルギー要素の本性」 なるものは明らかではない。少なくとも,その実体的な意味合いにおいてはまったくもっ て明らかではない。その代わり,いささか認識論的に述べれば,物理学は,量子論に至っ て,世界の「実体」を見極めようとする姿勢―言わば古典的姿勢―から,現象の「関係性」 を明らかにしようとする方向へと方向転換せしめられたのであり,かかる側面からも作用 量子の導入と出現は革命であったと述べることができるのである。 しかし,付言すべきこと,そして注目すべきことは,この革命が,言わば,非常に控え めな革命,あるいは恐る恐る為された革命と言うべきものである,ということである。少 なくとも,フランス革命のような一気に旧世界を破壊するものとして為されたのではなく, 旧世界への控えめな接ぎ木たらんとして為されたのである。それは,偏にプランクの保守 的なパーソナリティーによるところが大きい。田村は,その著書「プランク」の「まえが ヽ. ヽ. き」で,プランクの研究方法について「正常な途を正常に一歩一歩進み,その追求の極限 に於いて革命的な思想を樹立」したのであると述べている。また,同じく田村が述べるよ . Armin Hermann, The Genesis of Quantum Theory, MIT Press,(1971)p.2 3. ―エミリオ・ セグレ,「X線からクォークまで 20世紀の物理学者たち」,みすず書房(1982),久保・矢崎 訳, 99頁より孫引き。 M. Planck, 前提書(脚注に同じ)34頁。 もちろん, この言い方には違和感があるだろうが, それでもやはり, 原理原則に従えば,「明 らかではない」と言わざるを得ないだろう。現在,量子力学は完成された確固たる理論であるが, あらゆる説明はその理論に則った形で行われるのであり, それはどこまでいっても窮極的には トートロジーとならざるを得ないからである。 例えばカッシーラーは「Substanzbegriff und Functionsbegriff(1 910),邦訳:「実体概念と 関数概念」,山本義隆 訳,みすず書房(1979)」の中で哲学的認識が,実体を認識しようとする姿 勢から関係性の認識へとシフトしていったことを詳細に述べている。すなわち,カッシーラー流 に述べれば,量子論は,かかる認識論の潮流とも不可分ではないのである。. 134( ) 134 ─ ─ .
(23) 量子論の歴史―その概念発展史と哲学的含意(森川). うに,ここまでの過程において(つまり, プランクの放射公式の導出までの過程におい て), 天才的な大発見によくありがちな異常とも言えるような思考や論理の飛躍は確かに 見いだされないのである。. 6:古典物理学の破綻. それにしても,なぜエネルギーが不連続になると古典物理学が破綻するのかを簡単に述 べておこう。なお,これは科学史的な興味からではなく,物理学の知識が少ない読者へ向 けての付加的な解説として記しておくものである。. 外界と小孔を通してエネルギーのやりとりをする空洞があるとしよう。この空洞は,プ ランクの放射公式で表される放射で満たされているとする。つまり,エネルギーが不連続 となっている。ただし外界はこれまでのように古典電磁気学による電磁波でみたされてい るとする。この状況で空洞が外界とエネルギーをやりとりするためには,この小孔からエ ネルギーが. の塊で出たり入ったりするということである。しかし,こんなことは. まったく不可能なことである。 空洞からエネルギーが塊で出て行ったとしよう。すると,外界のエネルギーはそれに応 じてそれだけ増加しなくてはならない。ところが,この過程は,連続的にエネルギーが増 加するのではなく,一気に. のエネルギーが増加するのである. 。と. いうことは,外界の電磁波は一気に(途中の形態を経ることなく)その形状を変化させな くてはならない。事態は,この逆の過程であっても同じである。つまり,外界が空洞にエ ネルギーを与える場合である。この場合であっても空洞は不連続にしかエネルギーの増減 をしないのだから,ある塊でしかエネルギーを受け付けない。ということはやはり外界の 電磁波はエネルギーを渡す際に不連続な変化を余儀なくされる。 これ以外にも様々な面で,エネルギーが不連続化されてしまうと,不都合が生じてくる。 それは,連続なものと不連続なものとの相互作用において顕著に,そして決定的に現れる。 一方が不連続で一方が連続だとその接触面で矛盾が生じざるを得ないのである。その結果 田村松平,「プランク」,弘文堂(1950),1頁~2頁 なお,田村は,同一箇所で,坂田昌一がプランクの研究方法を「われわれ凡人の物理学」とし て縷々強調されたことがあることを紹介している。本当にプランクが凡人であるか否かは議論の あるところであるが,例えばジョン・L. ハイルブロンは, 「マックス・プランクの生涯 ドイツ物 理学のディレンマ」,村岡晋一 訳,法政大学出版局(2000)においてプランクは決して天才では なく,一番ではなかったことを成績の席次を挙げて伝えている(3頁)。. 135( ) 135 ─ ─ .
(24) 第62巻 第1号. として,連続的である古典物理学は全面的に影響を受けることを免れない。だからこそ, プランクの公式を古典物理学の範疇へとなんとかしてソフトランディングさせる方策が数 多く繰り返されたのである。. 7:レイリー=ジーンズの公式について. 記述が前後するが,レイリー=ジーンズの放射公式についても述べておく。量子力学の 教科書では,これを古典物理学が決定的に破綻する例として用いることが多い(事実そう である) 。また, 教科書という性質上, 量子という新しい概念へ慣れさせるためのショッ ク療法として破綻を劇的に示すこの公式を最初に述べ,その後にヴィーンの変位則,ヴィー ン分布,そしてプランク分布という順番で記述が続く場合が多い。その為に,学生は(そ して大方の読者は),あたかもこれらの理論より先にレイリー=ジーンズの公式があって, この破綻的事態をなんとかしようとしてプランクの公式へと行き着いたと誤解しがちであ る。困った状況に陥っていたことは事実ではあるが,時間的な先後関係は,ヴィーン分布 が公表された後に,レイリー卿が純粋に電磁気学的に計算するとどうなるかを示したので あって,その結果,振動数が大きくなるとまったくもって破綻してしまうが,振動数が小 さければヴィーンの公式よりも実測値と合う,ということを示したのである(図13を 参照のこと)。 また,電磁気学と熱力学をこのように融合させる理論的試みについては,ヴィーンが実 質上,始めてであり,それを受けて,かような電磁波を正しく電磁気学で扱うとどうなる か,ということをレイリーは示したのである(おそらくは長老としての責務や老婆心など もあったのであろう)。だから彼レイリーの1900年の論文は,「完全輻射の法則についての 注意」 となっており,ヴィーンや学会に広く注意喚起するものだったのである。 しかしながら,これが,古典物理学ではこの問題を処理できないということをうまく表 していることは確かである。それは,結局,いわゆるエネルギーの等分配則 が決定的に . Lord Rayleigh, Remarks upon the Law of Complete Radiation,完全輻射の法則についての 注意,Philosophical Magazine 4 9(1900)pp.539~540(邦訳:物理学古典論文叢書1)。. . エネルギー等分配則とは,温度Tの場合,エネルギーが個々のモードに分量. ( k はボルツ. マン定数,T は温度)だけ等しく配分されていることを示す法則であり,温度の原子論的な解釈 の基盤となるものである。つまり,1原子分子なら自由度が3で三つのモードに分けられるので, この分子(原子)に配分されるエネルギーは となり,2原子分子ならば回転のモードが二 つ増えるので. となる。. 真空中の電気振動(電磁波)の場合も同様に考えられ,エネルギーは固有振動の数を. 136( ) 136 ─ ─ . とする.
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