• 検索結果がありません。

『海上の道』に見る柳田國男のタカラガイ観

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "『海上の道』に見る柳田國男のタカラガイ観"

Copied!
28
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

『海上の道』に見る柳田國男のタカラガイ観

著者

佐藤 亜美

雑誌名

東北宗教学

15

ページ

177-203

発行年

2019-12-31

URL

http://hdl.handle.net/10097/00127441

(2)

『海上の道』に見る柳田國男のタカラガイ観

1

佐藤 亜美

キーワード 柳田國男 海上の道 タカラガイ 子安貝 1.はじめに  タカラガイは、古くは縄文時代の遺跡からも多数出土2する南海産巻貝の仲 間であり、日本においてそれらは安産の御守として知られている。タカラガイ の利用は古くから世界的に広がっており、死者あるいは生者のための装飾、儀 礼、呪(まじな)いに使われ、また、中国などでは貨幣として流通したことが 分かっている(セイファー 1986、白井 1997:107 365、上田 2016、ほか)。 タカラガイの利用の広がりからは、そこに何らかの意味が込められていたと考 えられるが、本稿では、柳田國男最後の著作『海上の道』を手がかりにタカラ ガイに込められた意味を考える。柳田は著作の中で人類が日本列島にやって来 た動機を「宝貝の魅力のため」としたが「宝貝の魅力」そのものについては詳 しく述べていない。人々をそれほどまでに引き付けた「宝貝の魅力」とは何だっ たのか。柳田がタカラガイの価値をどのように捉えていたのか、柳田のタカラ ガイ観について改めて探る。 2.「海上の道」について 1 『海上の道』とは  柳田國男による「海上の道」は、現在日本列島に暮らす人々がどこからどこ へやって来たのか、どういった理由で来ることになったのか、そして、人々が どう拡散していったのかを考察したものであり、巻頭の「海上の道」のほか、 1 本稿は2019年9月13日、帝京科学大学千住キャンパスにおいて開催された日本宗教学会第 78回学術大会での口頭発表を基にしており、『宗教研究』九三巻別冊に要旨が掲載となる予定。 2 タカラガイそのもの、タカラガイを加工したもの、タカラガイを模した土製品など、様々 な形態で日本列島各地から出土している(徳田 2000:12 15、佐藤 2002:61 77)。また、中 国古代の遺跡では、死者の手に握らせたり口に含ませたりといった使用例も多く見られる (Ke Peng & Yanshi Zhu 1995:7 8、佐原 2001:22 28、 2011:242 246)。

(3)

南島文化や稲作文化などに関する八つの論考から成り立っている。八つの論考 は、すべて様々な雑誌で発表されたものだが、それぞれは、表題ともなってい る「海上の道」を補足し補強する役割を果たしている。『海上の道』の構成は 以下の通りである。 1.「海上の道」『心』五巻十号・十一号・十二号、1952年 2.「海神宮考」『民族學研究』十五巻二号、1950年 3.「みろくの船」『心』四巻六号、1951年 4.「根の国の話」『心』八巻九号、1955年 5.「鼠の浄土」『伝承文化』一号、1960年 6.「宝貝のこと」『文化沖縄』二巻七号、1950年 7.「人とズズダマ」『自然と文化』三号、1952年 8.「稲の産屋」にひなめ研究会編『新嘗の研究』一輯、1953年 9.「知りたいと思う事二、三」『民間伝承』十五巻十一号、1951年  このうち、タカラガイに関連するのは「海上の道」「宝貝のこと」「人とズズ ダマ」「知りたいと思う事二、三」に収められた「子安神と子安貝のこと」で ある。  巻頭論文「海上の道」は、1952年5月開催の第六回九学会連合大会で柳田が 「海上生活の話」として講演したものを基としており(国分 1976:230 231)、 同年10月、11月、12月刊行の雑誌『心』にそれぞれ掲載された。「海上の道」は、 それ以前に発表された「宝貝のこと」(1950)、「知りたいと思う事二、三」中 の「子安神と子安貝のこと」(1951)などを踏まえての論述であることが分かる。 ここでは巻頭論文「海上の道」を読み進めるため、それらを踏まえて書かれた 論文、関連する著作についても併せて確認していきたい。 2 「海上の道」の今日的評価  第一論文である「海上の道」で柳田が「人が大陸から稲の種を携えて、この

(4)

列島に渡って来た」(『柳田國男全集』1:52)と述べたため、この著作は、多 くは「日本人起源論」「稲作伝播論」として読まれ、批評され、柳田の発言を 実証、あるいは反証するために、多数の研究が成されることとなった。 赤坂憲雄は対談でこの点について「『海上の道』は稲作北上説の仮説としてもっ ぱら読まれていますが(中略)稲作渡来説以外の読まれ方ではほとんど読まれ ていない。何か不幸な運命の本」とコメントしている(谷川健一、藤井貞和、 赤坂憲雄、2002:72)。各方面に多大な影響を与えた「海上の道」が、どのよ うに読まれているかを確認するため「海上の道」というタイトルを持つ論考を いくつかレビューする。 〈主に稲作渡来について述べられたもの〉 ◆ 上原達雄「『海上の道』から DNA 判別まで―DNA 判別で稲作の南方渡来説 はどうなるのか―」   『海上の道』を稲種実と技術とそれを持った人々の渡来に関する仮説として 読み、DNA 分析が導入されることによりこれまでのパラダイムがシフトす るかどうかを論じている。 ◆ 川野和昭「『海上の道』再考―南九州・奄美諸島とラオス・タイのアカ族の 稲種・稲魂継承儀礼の比較から」   副題が示すように稲作儀礼について論じたもの。柳田が『海上の道』中の「稲 の産屋」で述べた種籾をめぐる儀礼に言及している。 ◆ 来間泰男『稲作の起源・伝来と 海上の道 』(上)(下)   水田稲作の伝来と日本人の起源について、柳田以来綿々と続く様々な議論と 多くの先行研究を丁寧に繙き、一つ一つを改めて検証し沖縄のはじまりを理 解することができるとした。 ◆国分直一「柳田国男と『海上の道』」   「海上の道」の成立史と南島の調査について、また、南島が稲作の源流地か どうかについて考古学的視点から述べ、沖縄地方だけでなく中国東南沿岸地 方でもタカラガイが採集できることを報告した。

(5)

◆佐々木高明『南からの日本文化−新・海上の道』(上)(下)   本土と南島農耕文化を基盤に形成された沖縄とでは基層文化が異なる。「海 上の道」は沖縄を「日本」に包摂する試みでもあったが、南島農耕文化は東 南アジアに源流。日本文化には多元的な起源がある。 〈いくつもの海上の道、渡来したモノの多様性〉 ◆ 角南聡一郎「黒潮文化圏と新『海上の道』―柳田国男の発問に対する後学の 回答と想像力」   先史時代のヒトの移動や現在にまで続くモノの移動など、『海上の道』以降 の研究をまとめ、モノを単に無機質な物質として捉えないという柳田民俗学 が目指した形と後学のあるべき姿について述べた。 ◆ 野地恒有「海上の道=海縁ネットワーク論その一 移住開拓者の民俗学ノー ト(四)」   タカラガイの宗教的な重要性というよりは、モノにはその島を周辺地域と結 びつける働きがあるとして、海を軸とした人やモノのネットワークの成立を 重視する。 ◆上田正昭『東アジアと海上の道―古代史の視座』   日本と東アジアを結ぶ「海上の道」は一つだけではなかった。密接につなが るいくつもの航路を通じ、多くの人やモノ、政治、文化が日本にもたらされ たことを論じている。 ◆国分直一編『論集 海上の道』   人や信仰、文化の移動を東シナ海だけではなく広い視野で捉え「海上の道」 を再検討。韓国の寺の石塔からイモガイなどが発見され、韓国と沖縄地方と の交渉の可能性を示した三島格の報告がある。 ◆国分直一『北の道 南の道 日本文化と海上の道』   黒潮の道を通じ人と文化の交流があった。「ズズダマと紅豆とトウアヅキ」 では柳田の「人とズズダマ」を引用し、かつてズズダマを連ねた女性の胸飾 りには貝がつけられていたことを報告している。

(6)

〈琉球と日本の関係〉 ◆谷川健一『甦る海上の道・日本と琉球』   朝鮮南部と九州西海岸、琉球などの南島は、縄文時代前期から一続きの文化 の流れに属していたことを多角的に論じた。タカラガイに関して柳田の稲作 起源論が「あらためて現実味を帯びてくる」としている。  ここに挙げたのはタイトルに「海上の道」が含まれるものだが、ここに挙げ た以外にも「黒潮」や「南島」、あるいは「稲作」をキーワードに、柳田の「海 上の道」は多くの研究者によって取り上げられ、論じられている。日本文学史 上、海が登場する表現が無いことは折口信夫が指摘(益田編 1965:209 210) しているが、宮田登が「『海上の道』再考」として「民俗学における海からの 視点を明確に提示したのは、柳田国男であった」(宮田 1993:332 333)と記 した通り、『海上の道』以降、それまで無かった「海」という視点を得て様々 な研究が成されたという点については改めて言うまでもない。そして、柳田以 後の研究の積み重ねによって、人々や稲ばかりではなく実に多くのものが、多 くのルートを通じ日本列島にもたらされたことが分かる。  では、タカラガイについての研究は、現在どのような状況にあるのか。木下 尚子は柳田の「知りたいと思う事二、三」の中の「子安神と子安貝のこと」の 一節を引き、「現在、日本の水稲耕作の始まりが柳田の仮説で説明されること はないが、柳田が立論の根拠としてさまざまに検証を試みたタカラガイの追跡 は、稲作伝来ルートの決着後やや等閑視されているように思える」と述べてい る(木下 2018:16)。  このように、タカラガイについては論じられることが少なくなったようでは あるが、本稿では、人々がなぜ日本列島に渡って来ることになったのかという 動機について柳田が「タカラガイの魅力のため」とした点に着目し、これまで 「海上の道」について論じられる中ではあまり注目されてこなかった柳田が考 えるところの「タカラガイの価値」について考察する。

(7)

3.柳田國男はタカラガイをどう捉えていたか 1 「今日と同じ様な連想と俗信」とは  タカラガイそのものの価値について柳田がどう捉えていたのか、「海上の道」 に先立って発表された「宝貝のこと」について確認する。柳田はタカラガイに ついて、子安貝3(タカラガイの異名)が登場する『竹取物語』を引き、次の ように述べている。 【引用1】「宝貝のこと」五(下線筆者、以下同)、『柳田國男全集』1: 219 220 宝貝には禁呪厭勝の力ありと信じ始めたのには、必ず別に一般的な心理が 働いたのであるが、そういう中でも特に安産の守りとして、これを重んず るようになった頃には、おそらくはもうあの貝の珍らしい形に、もっぱら 注意を向けるようになっていたであろう。(中略)しかし『竹取物語』の あの個条が、やや下品な諧謔を目的とし、子安という言葉には別にちがった 内容がありそうにもないのだから、やはり今日と同じような連想と俗信 a とが、もうあの頃からあったものと見てよいのであろう。畔田翠山の『古 名録』によれば、ソソ貝だのベベ貝だの b という名が、すでに室町期の医 書類には用いられており、俗間にはそれよりももっと悪い異名 c が、今日 は流行しているかとも想像せられる。 タカラガイは「子安貝」とも呼ばれ、産婦の手に握らせると安産になるという 信仰は、今も日本列島に一部残っている。タカラガイは唇縁に歯のようなギザ ギザが刻まれる点が最大の特徴であり、『日本民俗大辞典』では、妊婦が握っ 3 子安貝=タカラガイという点については、日本で出版された本草書や事典の多くで、タカ ラガイの説明として「子安貝」が併記されていることからも、タカラガイと子安貝は同じも のを指すと考えて問題ないと考える。

(8)

ていれば安産するという俗信4からこの名がついたと紹介され、形状が女性器 を連想5させることから生殖や増殖につながるという俗信が生まれたとする(小 島 1999:650)。 柳田が言う「今日と同じ様な連想と俗信」(下線 a)の「連想」とは、形が女 性器に似ていることであり、「俗信」とは「産婦の手に握らせると安産になる」 ということであろう。柳田は「特に安産の守りとして、これを重んずるように なった頃」には貝の形に注意が向くようになったと、時代と共にタカラガイに 対する人々の信仰も変遷したことを述べ(点線部)、『竹取物語』を例に挙げて 「今日と同じような連想と俗信とが、もうあの頃からあったものと見てよい」 と結論付けた。  実は『竹取物語』ではタカラガイと女性器との類似については述べられてお らず、「子安貝」が安産の守りであるとも明示されてはいない。ただ、タカラ ガイとセットで登場する燕もまた古来より旺盛な繁殖力のため多産の象徴と考 えられている(白倉 2007:64、野本 2008:26)ことから、柳田が指摘したよ うに『竹取物語』に見られるタカラガイは、物語成立の9∼10世紀には出産や 安産の象徴と捉えられていたことはほぼ間違いない。  柳田は、彼が生きた時代のタカラガイ信仰と『竹取物語』時代のタカラガイ 信仰が同様であると指摘しているが、当時柳田が立案の中心としてかかわった 4 妊婦が握っていれば安産するという信仰については多くのもので紹介されている。 コヤスガイ(ハチジョウダカラ):安産のお守りと言われ、昔、出産の時両手にこの貝を握 りしめていた。貝の形に起因するものだろうか(川名1988:18) たからがひ:本邦ニテハ産婦是レヲ握スレバ産シ易シ、故ニ子安ガヒト云フ(物集1916 第 拾貮册:94) こやすがひ たからがひ 貝子:婦人臨産握於掌易産故名子易貝(寺島1824:巻第四十七 貝 介部) 5 貝と女性器の類似については多くの研究者による指摘があり(Jackson 1917:xiii、エリアー デ 1971:167、Lurker 1991:496 497)、ジャクソンは、軟体動物が出産に当たり殻から自身 を押し出す様子との類似性についても触れている。

(9)

『日本産育習俗資料集成6』にも、タカラガイについての信仰は安産以外には無 く7『竹取物語』が編まれた時代と『日本産育習俗資料集成』が編纂された時代 とでは、タカラガイの位置づけは変化していないことが確認できる。 また、柳田が述べる「ソソ貝だのベベ貝だの」(下線 b)というのは、女性器 との類似を根拠にタカラガイに付けられた異名である。柳田はそれらの名を「悪 い異名」(下線 c)と評した。柳田は、その悪い名が俗間に流行しているので はないかと想像しているが、柳田の想像通り、日本列島各地には柳田が『古名 録』を参照して挙げた「ソソ貝」「べべ貝」の他にも、「ムマのクボガイ」「ボ ボガイ」など、女性器との類似を基に付けられたタカラガイの異名は多い(川 名 1988:168 172)。 『竹取物語』について述べられた箇所の続きを確認する。 【引用2】「宝貝のこと」五『柳田國男全集』1:220 しかしそういう多くのものは、むしろこの貝の人を助ける力を忘れてしま い、ただ形の珍らしさだけに、心を引かれるような連中の思いつき d で あって、その一つ以前の素朴なる人たちが、まのあたりの天然の不可思議 に驚き、これに隠れたる霊の作用を認めようとした場合 e とは、かりに 幽かな記憶の繋がりはあるにしても、命名の態度はおそらくはまるでち がっていた。すなわち一方は稀にしかこれを口にせず、または少なくとも 戯笑の具には供しなかった。その痕跡がまだシビ・スビ・ツビの語には残っ ているかと思う。私がこれらを第二次の発生とし、別に今一つの本来の名 6 1934年、皇太子誕生を記念して開始された恩寵財団愛育会の事業で、柳田は出産にまつわ る全国の民俗事例を集めることを提案するなど企画の中心にいた。戦争による中断を経て柳 田の没後完成。タカラガイに関する記載は、「妊婦に小貝(陰部に似た)を握らせると安産 する」(福島県)、「トリアゲル人は、子安貝を持っていると安産だという」(栃木県宇都宮市)、 「子安貝で水を飲めば安産する」(群馬県吾妻郡伊参村)など、安産の呪(まじな)いとし て7件が紹介されている(恩賜財団愛育会編 1975:34 64)。 7 安産を願い、呪(まじな)いとして貝を用いる事例については、和歌山県の報告にもあり、 出産の際に「子安貝を握らせることもあった」ことが紹介されている(野田 1974:172)。 同様の事例は『長野県史』にも巻き貝で水を飲む、安産の神様の御神体である貝をだれにも やらないよう妊婦の部屋においた、など6件が挙げられている(長野県編 1986:154、長野 県編 1988:236、長野県編 1989:178、180)。

(10)

詞が、なければならぬとする理由もここにある。南方諸島において、最初 この美しい宝の貝を緒に貫いて頸に掛けていたのは、君々すなわち厳粛な る宗教女性であった f 。そうしてこれがただ安産の守り、または児子の平 安なる生育のみに、特効あるかのごとくには信じていなかったろう g か らである。  柳田は、タカラガイを巡る観念が元々は「人を助ける力」であったのにそれ を忘れ、タカラガイの異名は「形の珍らしさだけに、心を引かれるような連中 の思いつき」であると指摘した(下線 d)。そして「一つ以前の素朴なる人たち」 が「まのあたりの天然の不可思議に驚き、これに隠れたる霊の作用を認めよう とした場合」と「連中」とでは態度が違うことを述べ(下線 e)、「一つ以前の 素朴なる人たち」の思想の痕跡が言葉の中に残っているとして、タカラガイに 対する人々の思いが、過去から現在までの間に変遷した可能性を示唆する(点 線)。  しかしながら、その理由はあまり明確にはされないまま、南方諸島において タカラガイを首飾りにしていたのは「厳粛なる宗教女性であった」こと(下線 f)、タカラガイの価値は、かつては単に安産や子どもの健やかな成長だけでは なかった可能性について述べる(下線 g)。 2 タカラガイが持つ「人を助ける力」とは  柳田はタカラガイの異称を「第二次の発生」とし、第一次から第二次の間に 観念ばかりではなく名称にも変化があったと考えた。では、タカラガイが持っ ていた「本来の名詞」、その名と共にあったそもそもの力とは何だったのだろ うか。柳田はそれを「人を助ける力」と述べたが、その力がどういうものであっ たか「宝貝のこと」では明確にされていないので、それよりも後に書かれた「海 上の道」について確認する。 【引用3】「海上の道」十六 『柳田國男全集』1:44 45

(11)

そこでいよいよ私の問題の中心、どうしてそのような危険と不安との多 かった一つの島に、もう一度辛苦して家族朋友を誘うてまで、渡って来る ことになったのかということになるのだが、私はこれを最も簡単に、ただ 宝貝の魅力のため h と、一言で解説し得るように思っている。秦の始皇 の世に、銅を通過に鋳るようになったまでは、中国の至宝は宝貝8であり、 その中でも二種のシプレア・モネタと称する黄に光る子安貝は、一切の利 慾願望の中心であった。 【引用4】「海上の道」十七 『柳田國男全集』1:48 亜細亜東南の諸国との貿易には、明らかに歴代宝案時代9というべきもの があった。そこから蘇木・胡椒の類を贖い取って、これを中朝に貢献した という代償物は、いわゆる海巴10すなわち宝貝以外にはあったとも思われ ぬから・・・ i(後略)。 【引用5】「海上の道」十八 『柳田國男全集』1:48 49 今でも宮古島周辺の貝類採取地として年々多数の小舟の集まっていたのは、 北には沖縄本島への航路に接して八重干瀬という広大な岩礁地域があり、 他の側面では属島伊良部島の佐良浜の磯まわりが著名であった。近世幾度 かの大きな災害にあって、すでに信仰伝承の大部分を失っているようだが、 この近くにはヌーシ山、または乗瀬御嶽と称する霊地があって、海上守護 の女神を祀っている。(中略)祭の奉仕者はすべて婦人であり、いずれも 8 中国で貨幣として使用されたタカラガイの多くは、キイロダカラ(Cypraea moneta)とハ ナビラダカラ(Cypraea annulus)。 9 『歴代宝案』は、琉球王朝と明・清を中心とした諸外国との外交の記録を集成したもので あるが、1434年の項に「海巴(かいば)五五十万個」が琉球から明に送られたことが記載さ れている。 10  今回使用のちくま文庫版では「貝巴(かいひ)」となっているが、筑摩書房の1961年刊行 の単行本初版では「貝肥」となっている。貝肥は、貝 あるいは貝 の誤りか。日本で書写 された『本草綱目』には「貝 」とあったが『国譯本草綱目』では「貝肥」、後に「貝肥は 貝 に正す」と「考定者注」が入っている。台北の文光図書版では「海 」。江上波夫はタ カラガイの印度名が中国に伝えられ、同種の貝が「海 」「海貝」「海 」「海巴」等の音をもっ て呼ばれるに至ったことを紹介している(江上 1932:320 321)。

(12)

関係のある家から出る j ことになっていた。 「海上の道」十六で柳田は人々が危険を冒してまで日本列島にやってきた動機 は「ただ宝貝の魅力のため」と述べる(下線 h)。しかしながら、ではなぜタ カラガイがそれほどまでに魅力的で人々にとって必要だったのか、という点に ついて詳しくは語っていない。そして十七でタカラガイ以外にはそういう価値 のものはないと断言するが(下線 i)、その後の十八でも理由には触れずタカラ ガイの「人を助ける力」が明確にならないまま、「宝貝の話」と同様に、話題 は海上守護の女神、祭りの奉仕者は女性であるという話題へと転換する(下線 j)。 「宝貝のこと」と「海上の道」に共通するのは、どちらもタカラガイの価値や 力について詳しく述べる代わりに祭祀にかかわる女性が登場する点である。結 局、タカラガイが持つ「人を助ける力」の内容がよく分からないままではある が、祭祀にかかわる女性との関連を疑っているのではないかということが、お ぼろげながら浮かび上がる。 4. タカラガイの価値の変遷 1 タカラガイの価値はどう変遷したのか  柳田は「宝貝のこと」で、タカラガイを巡る人々の観念が昔と今では変遷し ていることを再び述べる。 【引用6】「宝貝のこと」六 『柳田國男全集』1:221 宝貝が大陸の奥に流伝して、数十百年を経過するうちには、多分はあの採 取時の美麗さは失われ、何ゆえにこれが宝であるかの理由が、海から遠く 離れて住む者には、だんだんに不可解になったことは想像してよかろう。 それを現今のように、単なる社会の約束と解することは昔の人にはできな いから、次いで起るものは呪禁の力、これを手に持つときは敵を制し、な いしは一身の生活を楽しく安らかにするという類の信仰でなければならぬ。

(13)

世界の隅々に現われているこの観念の変遷については、すでに研究が進ん でいるのだろうが、私はまだ知ることができない。少なくとも日本に関す る限りは、私たちがこれから考えてみなければならぬ。  かつてタカラガイは「美麗」であり「宝」である理由があったのだが、地域 が遠くなり、時代を経るに従って、世界中で「何ゆえにこれが宝であるかの理 由」が不可解になるという事象が想像できると柳田は指摘する。  タカラガイを巡る観念の変遷について再度説明されていることから、柳田は この点を重要視していることが分かる。これまでの柳田の主張をまとめると、 タカラガイの信仰は、①美麗さ、人を助ける力、隠れたる霊の作用、安産と子 安以外の働きがあったにもかかわらず②禁呪厭勝の力、呪禁の力、楽しく安ら かな生活という信仰に変化し、やがてはその見た目から③安産・子安という俗 信に変化した、と整理することができる。しかしながら、①の元々の信仰の内 容については詳しく言及されておらず、柳田も「まだ知ることが出来ない」と 今後の課題としたため、ここでタカラガイが持っていたそもそもの力について 柳田がどう考えていたのかという点については行き詰まってしまう。  『海上の道』からこれ以上柳田のタカラガイ観を探るのは困難とも言えそう だ。上田信は貨幣とタカラガイについて述べる中でアンダーソンの『黄土地帯』 と柳田の『海上の道』に触れ、「アンデショーンと柳田とは、タカラガイを訪 ねる旅の先達ではあるものの、彼らがたどる道はところどころでとだえ、彼ら の踏み跡をたどることはむずかしい」と記している(上田 2016:19)。 2 変遷前のタカラガイの価値とは  柳田が何を考えていたのかを知るため、柳田の他の著作と柳田が参考にした 文献についても併せて検討する。柳田の仕事は多岐にわたるが、考え方と論理 の展開には共通性が見られるからである。  柳田は昔話や童話、伝説について多くの研究を残しているが、昔話は「神話 のひこばえ」であり、童話は「複雑なる過程を通って、神話が昔話となり、ま

(14)

た退縮」したもの(柳田 1990「昔話と文学」、『柳田國男全集』8:213)、そ して伝説は「神話から脱却して成長」(柳田 1990「木思石語」、全集7:187) したものと考えている。  そして文芸の起源が上代の信仰生活にあり、その「遠い素朴の世の文芸のモ チーフ」が、年月を経て現代の大衆小説にまで伝わっている点を指摘した(柳 田 1990「口承文芸史考」、全集8:193 194)。柳田は、昔話側から「伝説との 交渉を考え、もしくはこの道を辿って神話の本来の姿に、近よって行く素志を 明らかにしようとする」(柳田 1990「口承文芸史考」、全集8:12 13)と述べ ているが、このことからも、柳田が文芸の起源は神話にあると考えていること が分かる。柳田は、現代にまで伝わる神話の残存や痕跡を辿っていくことで神 話が復元できると考えていた。  そして柳田は「信仰改訂」という言葉を用い、文芸のありようの変化を信仰 の変化という側面から捉えている。つまり人々の信仰の変化があったからこそ 文芸もそれに応じて変化したということである。そして神話から文芸への変化 は、神話を基礎づけていた初期の信仰から見ると「零落の迹」(柳田 1990「桃 太郎の誕生」、全集10:417)であると位置づけた11 信仰の改訂→零落という論理の展開は、タカラガイ信仰が俗信に変化したとい う変遷の過程とも共通する。神話の変遷を参考にしつつ「海上の道」を確認す ると、タカラガイにおける観念の変遷にも神話の変遷と同様にその裏側には信 仰の変化があったと柳田が考えていることが見えてくる(【引用4、5、6】 点線部)。  では、柳田もはっきりとは言わなかった「零落」以前の観念、改訂前の観念 とは、具体的にどういうものだったのだろうか。変遷前のタカラガイの価値や 信仰について柳田は詳しく語っていないため「海上の道」と「宝貝のこと」、 両方の著作に祭祀にかかわる女性が登場する点に注目し、女性のパワーについ て述べている柳田の論考を確認する。 11 武田正は、柳田が考える昔話成立過程を整理した上で、昔話が「信仰」から離れて自立す ることによってさらなる世界の拡大に結びついたと解釈している(武田 2001:158 161)。

(15)

【引用7】「妹の力」 『柳田國男全集』11:25 26 祭祀・祈祷の宗教上の行為は、もと肝要なる部分がことごとご婦人の管轄 であった k 。巫はこの民族にあっては原則として女性であった。(中略) 子を生み育てるのもやはり女だから、女は常に重んぜられた。ことに婦人 の特殊生理は、かくのごとき精神作用に強く影響した。天然と戦い異部落 と戦う者にとっては、女子の予言の中から方法の指導を求むる必要が多く、 さらに進んでは定まる運勢をも改良せんがために、この力を利用する場合 があった l のである。ゆえに女の力を忌み怖れたのも、本来はまったく 女の力を信じた結果であって、あらゆる神聖なる物を平日の生活から別置 するのと同じ意味で、実は本来は敬して遠ざけていたもののようである。  柳田は「汚いとか穢れるという語で言い現していたけれども、つまりは女性 には目に見えぬ精霊の力があって」と、女性の持つ霊力に言及した上で、「宝 貝のこと」や「海上の道」と同様にここでも、かつて宗教行為は女性の管轄で あったことを述べる(下線 k)。下線 l は、タカラガイが信仰から俗信へと観 念が変遷する途上に位置する「禁呪厭勝の力」「呪禁の力」を指すものであろう。 そして女性が持っていた神聖な力は「忌み怖れ」られたとする。  福田アジオは、柳田が「妹の力」を執筆する前の1921年、「海南小記」の旅 で柳田が沖縄を「発見」したことが、女性の信仰上の役割や女性の力に気づい たきっかけであると指摘し「大きな転換」と記している(福田 1992:185)。 柳田はタカラガイについて「最初この美しい宝の貝を緒に貫いて頸に掛けてい たのは、君々すなわち厳粛なる宗教女性であった」(引用2・下線 f)として いるが、タカラガイの力とこういった女性の力に関連があると考えていたので はないか。  次に、柳田が「宝貝のこと」で産地分布図を引用し、「二度読んだ」というジャ クソンの著作について確認する。

(16)

【引用8】Shells as evidence of the migrations of early culture:xi

The cowry is widely believed to confer fertility on women and to help in the process of parturition. They are, therefore, worn on girdles by maidens, presented to them as bridal offerings, and used by sterile or pregnant women to attain these respective benefits. They are also put into graves to confer vitalising power and ensure the continuance of the deceased's existence, i.e., not merely life but also resurrection.

 ジャクソンは、タカラガイの作用を単に安産ということに限定しておらず、 タカラガイは女性に生殖力を与え出産を助けるほかにも生命力を与え故人の存 在の継続を確かなものにするために墓に入れられたと考えているようだ。  三島格は遺跡における埋葬の事例から、「タカラガイの、日本民俗学上の、 現在までの見解の大要は、出産育児にともなう呪物とされ、子安神・子安地蔵 などと同様に、この貝を子安貝といいならわしてきたのは、その例証の一つと されている。しかしタカラガイは、より古い時代には、それとはやや異なった ものとして取り扱われたのではあるまいか。前述先史時代以降の諸例は、それ を暗示するもののようである。貝と埋葬ということを現在の習俗をも含めてあ らためて考えてみる必要がある」(三島 1977:50)と述べ、かつてタカラガイ は単なる出産育児にともなう呪物ではなかった可能性について指摘している。  タカラガイが生の継続、蘇りのため墓に入れられる事例について柳田は記し ていないが、タカラガイは中国の殷(商)時代の遺跡から死者と共に埋納され るという形で数多く発見されており( 2011:242 246、佐原 2001:22 28ほか)、 柳田の著作中にも中国・黄河中下流域の平原を指す「中原」が繰り返し登場し、 タカラガイと関連付けて述べられる。 【引用9】「海上の道」 『柳田國男全集』1:45、50 殷の王朝が、中原に進出した背後の勢力は東方にあった。いわゆる東夷の 海の営みの中で、今でもすでにほぼ明らかになっているのは、宝貝の供給

(17)

であった。 いわゆる東夷の活躍が次第に影響を中原の文化に及ぼし、宝貝の重視熱望 がほぼ頂点に達せんとした時代… 【引用10】「宝貝のこと」『柳田國男全集』1:215、218 すなわち強力なる中原の王者は、万策を講じて遠い海の果はてからこれ (筆者注。タカラガイ)をたぐり寄せ、あるいはまたこれを無形の武器と して、洪大なる地域を征服し得たのも… いわゆる中原の古代文化地帯が、その発源地の最も重要なるものであった ときまるならば、たとえ海上の跡はすでに湮滅したにしても、なおこの無 数の美しい宝貝の品種を産出する南方の島々の交通を、一応はこれと結び つけて考えてみなければならぬ。 【引用11】「人とズズタマ」『柳田國男全集』1:239 しかも三千数百年の昔から、久しく宝貝の重用せられた中原の地と、最も 短い半径をもったのがこの群島であった。 【引用12】「子安神と子安貝のこと」(知りたいと思う事二、三)『柳田國 男全集』1:293 大陸の宝貝はその起原が最も遠く、しかも少なくとも中原一帯の文化圏に 対しては、日本島群の南半分が、最も近くまた便利な、ほとんと唯一の供 給地といってもよかったことが、近頃少しずつ心づかれて来たのである。

(18)

 江上波夫12の影響もあり、中国で出土するタカラガイについて柳田はかなり 意識していたようである。江上や柳田の関心は、タカラガイの流通だったかも しれないが、なぜタカラガイが中国で必要だったのかという理由、なぜタカラ ガイが(多くの場合は死者と共に)埋められていたのかという理由は常につき まとっていただろう。柳田がタカラガイについて述べようとするとき、必ず祭 祀にかかわる女性が登場する点からは、タカラガイが持っていた零落以前の力 として、女性が持つ霊的なパワーと共通する力―生殖、出産、象徴的に人々に 生命力を与え故人の存在を継続させるといった―を想定していた可能性も否定 はできない。 5. まとめ  前述の通り「宝貝のこと」で、柳田は、タカラガイについて「ただ安産の守 り、または児子の平安なる生育のみに、特効あるかのごとくには信じていな かったろう」と記している(下線g)。では、なぜ柳田は本来のタカラガイの 価値についてはっきりと書くことができなかったのだろうか。  ひとつの理由として、柳田民俗学においては精神構造を大切にし、性的なも のを取り扱わないといった点を挙げたい。  タカラガイに、単に子どもを安全に産ませるだけではなく、生命力の賦与や 人の生まれかわりといったパワーを授ける力があるのだとしたら、そこには女 性の妊娠、生殖、繁殖といった働きも含まれる。本来であれば、そこには男性 性との呪術的、祭祀的、象徴的、あるいは実際的なかかわりがあったはずであ り、その点を避けて通ることはできない。しかしながら、柳田は『海上の道』 のタカラガイに関するいくつかの論考において、男女のかかわりについて論ず ることはなく、ただ祭祀を担う女性について述べるにとどめる。  後藤総一郎は、柳田の思想と学問について「人間存在の原初の問題である 12 柳田は「人とズズダマ」の中で「江上波夫君などの子安貝談は精読」しているとし、さら に附記として「江上波夫君の『極東に於ける子安貝流伝』は、『人類学雑誌』四七巻九号の 抜刷を頂戴して二度読み、今も座右に置いている」と書き残している(柳田 1990「柳田國 男全集」1:239、246 247)。

(19)

『セックス』についての、日本『常民』のそれについて、柳田はなにゆえに欠 落させていったのか」と、その欠落を指摘したが(後藤 1987:65)、後藤が述 べるように柳田民俗学では性的なものを取り扱わないため、柳田が『海上の道』 においても女性の生殖的なパワーについて、あえて明確に述べなかった可能性 も考えられる13。柳田は、『海上の道』第二論文の「海神宮考」には次のように 記載しており、古い時代の信仰について柳田がどのように考えていたのかが垣 間見えるものとなっている。 【引用13】「海神宮考」 『柳田國男全集』1:89 とにかくに海を対象とした初期の信仰には、何か陰微なる男女関係の、か らみ付いていた痕跡の一つであり、将来の汎い比較のために、わからぬま でもなお注意してみたいものと思う。  この記載から、実は柳田は「初期の信仰」の中に男女関係の痕跡を認めてい たことがわかる。住谷一彦は、柳田が「海神宮考」の中でこのように書いてい る点に注目しており、「こういった点をさらにたち入って追求していくと、柳 田氏の構想に重なり合いつつも、なお埋れているかに見えるいま1つの民族= 文化系統を見出すことが可能のように思われる」と論評している(住谷 1962: 397)。  こうして考えてみると、タカラガイに関する初期の信仰、妊娠や生殖、繁殖、 孕む、生むという女性性について、柳田は、何らかの考えを持っていたにもか かわらず、学問への姿勢のためにはっきりとは述べなかったという可能性も考 13  折口信夫は柳田との対談の中で司会の石田英一郎に「大嘗祭のとき、天子様が衾、褥を かむって斎みこもる。ああいうのが何かよほど古い思想と関係があるのではないかという気 がいたしますが」と問われた際に「これは簡単にはとけない。われわれが先生を中心として 絶えず反省しながら、建設して行っている日本民俗学では、これを領域としていないのです」 と明確に答えている。そして自身の考えについては「個人として模索した範囲」と述べた。(益 田編 1965:225)。大嘗祭が、稲作儀礼や村々の秋祭りと基本的に同じであると考えた柳田(柳 田 1990『柳田國男全集』1:273 274)に対し、折口は天皇と女性との性的な交わりを推測 している(折口 2017:212 257)。

(20)

えられる。  そして変遷前のタカラガイ信仰についてはっきりと書くことができなかった もうひとつの理由として、それらを知るための決定的な方法が無かったという 点を挙げたい。  古代のタカラガイについての信仰は、もはや文字資料では辿り切れない時代 のものである。非文字資料については主に考古学が担う分野であり、その点に ついては考古学に頼るしかない。柳田は、自身の民俗学的な結論が考古学的に 支えられ持ちこたえられるかどうかと記している(下線 m)。 【引用14】「子安神と子安貝のこと」(知りたいと思う事二、三) 『柳田 國男全集』1:293 この美しい貝を宝とし、貨幣とする風俗はこちらにはまったくなくて、た だ限られたる目的のために、呪物としてこれを若い婦女たちに佩用せしめ る習わしのみがあったとすれば、いよいよこの物の輸送の方向が明らかに なるのだが、果して考古学の知識によって支持せられるかどうか。それが 決定するまでの間、我々としてはまず子安信仰の古い姿を、探り尋ねてお きたい m 。  柳田は「考古学嫌い」と評されることも多いが、考古学に関心が無かったわ けではなく、常に考古学や考古学研究者との接触はあった(設楽 2016:110 125)。柳田は縄文時代の遺物なども収集14しており、その批判は、考古学とい う学問に対してというよりは、土器の編年15を中心とする考古学の手法に対し 14 柳田と考古学については、2016年4月∼10月、国立歴史民俗博物館第4展示室で「柳田國 男と考古学−柳田考古遺物コレクションからわかること」と題された展示も行われた(同博 物館 HP:2019年9月参照)。 15 山内清男が確立した縄文土器に施文される文様の変化から年代序列をつける研究。設楽博 己は「終生文学を基盤とした柳田は、小林行雄の記紀を参照枠とするような考古学は評価す るが、山内学派のような土器の型式にこだわる考古学は即物的として遠ざけていたようだ。 そうした傾向が晩年の『海上の道』という考古学の側から批判を受ける立場にも大きく影響 していたのではないだろうか」と記している。(設楽 2016:119)

(21)

て向けられたものであったようだ。  遺物の分析だけでは、当時の人々の祈りや祀りという柳田が最も知りたかっ た精神的な側面、信仰を復元するのは不可能16である。柳田はその点が明らか になる日を待っていたのではないだろうか。その気持ちは、「それが決定する までの間、我々としてはまず子安信仰の古い姿を、探り尋ねておきたい」(下 線 m)という一文にもよく表れている。  角南聡一郎は、柳田の『海上の道』について「モノを単に無機質な物質と捉 えるのではなく、そこに人間が感情移入や何等かの関わりを持つことにより、 人間の諸器官の延長上の存在として位置付けようとした痕跡」が「随所に認め られる」と論じているが(角南 2020発表予定)、まさに柳田が言いたかったこ とを代弁しているとも言えよう。  本稿では、柳田のタカラガイに関する主張をまとめ、また、柳田の文学に関 する論文なども参考にしながら『海上の道』でははっきりとは述べられていな かった柳田國男のタカラガイ観について、改めて考察した。柳田の没後も発掘 調査は進んでおり、タカラガイは、中国だけではなく日本列島各地の遺跡から 出土し、また、他の貝でタカラガイを模した貝製模倣品や土や粘土でタカラガ イを模した土製模倣品など、多くのタカラガイ関連製品も発見され(徳田 2000:12 15、佐藤 2002:61 77、山谷 2004:12 14、忍澤 2011:46 58、ほか)、 非文字資料についての新たな解釈も生まれている17  発掘の成果により、現在では、弥生時代にタカラガイの魅力のため人々が稲 を携え日本列島にやって来たのではなく、日本列島では、縄文時代草創期から 南海産のタカラガイが礼文島(北海道)にまで流通していたというのが通説と 16  柳田は「どうもこれは考古学に対する蔭口になりそうだが、石とか金とか永く朽ちない ものだけで、いろいろな過去をきめられることは心細い」と発言している(益田編 1965: 201)。 17 縄文時代後期∼晩期の西広貝塚=千葉県=からは土器内に納められた新生児の遺骸ととも にタカラガイが出土した。これについて「不幸にして『生』を全うできなかった子を哀れん で、つぎには生きながらえられるようにとの祈りを込めたモノ」(忍澤 2011:54)という解 釈がある。また、容器は女性の子宮を象徴するという考えから、縄文土器や壺が「再生信仰 のための祭祀道具だったのでは」(大島 2014:62 66)、という、編年だけではなく人々の祈 りや信仰といった側面からの解釈もなされている。

(22)

なっている。こういった事実から、いつの時代も、タカラガイというある特定 の自然物が、人間によって選択され、長い距離を運搬され、時に加工され、模 倣され、信仰の形を変えながら今も静かに日本列島に息づき、人々の心と精神 の営みを伝えている18ことが分かって きた。  では、それらはどう復元できるのか。 柳田が目指していた本来の形にはどう 辿り着いたら良いのか。そもそもそれ は可能なのか。各分野の研究が進展し た 今、これまでの柳田のタカラガイ 観を再吟味し、タカラガイに関する初 期の信仰を組み立て直す作業も必要と 考えている。  江の島の土産物店では今も「安産守 り」としてタカラガイ(ハチジョウダ カラ)が売られている(2019年3月筆 者撮影) ハチジョウダカラの図。江戸時代の貝類図鑑である『目八譜』より(国立国会 図書館デジタルコレクション) 18 江の島の土産物店ではタカラガイが「子安貝」として「産婦の手に握らせると安産をもた らす」と書かれて売られていた(2019年3月)。

(23)

〈引用・参考文献〉 上田信 2016『貨幣の条件 タカラガイの文明史』筑摩書房 上田正昭 1997『東アジアと海上の道―古代史の視座』明石書店 上原達雄 2008「『海上の道』から DNA 判別まで―DNA 判別で稲作の南方渡 来説はどうなるのか―」沖縄学研究所『沖縄学研究所紀要』11(1)、86 127 江上波夫 1932「極東に於ける子安貝の流伝に就きて」日本人類学会『人類 學雜誌』539、47( 9)、309 336 エリアーデ、ミルチャ 1971『イメージとシンボル』エリアーデ著作集第4巻、 せりか書房 大島直行 2014『月と蛇と縄文人 シンボリズムとレトリックで読む神話的 世界観』寿郎社 沖縄県教育委員会 2018『歴代宝案の栞』沖縄県 沖縄県立図書館史料編集室編 1994『歴代宝案』訳注本第一冊、沖縄県教育 委員会 忍澤成視 2011『房総の縄文大貝塚 西広貝塚』 シリーズ『遺跡を学ぶ』80、 新泉社 折口信夫 2017「大嘗祭の本義」角川ソフィア文庫『古代研究』民俗学篇3、 192 262、KADOKAWA 恩賜財団愛育会 編 1975『日本産育習俗資料集成』第一法規 柿沼陽平 2009「殷周時代における宝貝文化とその『記憶』」工藤元男、李成 市編『東アジア古代出土文字資料の研究』4 46、雄山閣 河南省文物局編 2009『河南省南水北調工程考古発掘出土文物集萃』北京: 文物出版社 川名興 編 1988『日本貝類方言集―民俗・分布・由来―』未来社 川野和昭 2001「『海上の道』再考―南九州・奄美諸島とラオス・タイのアカ 族の稲種・稲魂継承儀礼の比較から」東北芸術工科大学東北文化研究センター 『東北学』5、186 200

(24)

Ke Peng & Yanshi Zhu, 1995, New Research on the Origins of Cowries Used in

Ancient China, University of Pennsylvania

木下尚子 2018「子安貝の誕生」神奈川大学日本常民文化研究所『民具マン スリー』51(6)(7)、16 20

来間泰男 2010『稲作の起源・伝来と 海上の道 』上・下、日本経済評論社 向平 2011『商系墓葬研究 A Study of Shang Burial System』北京:科学出 版社 小島孝夫 1999「タカラガイ」福田アジオほか編『日本民俗大辞典』上巻  吉川弘文館 国分直一 1976「柳田国男と『海上の道』」法政大学『沖縄文化研究』3、 229 243 国分直一 1992『北の道 南の道 日本文化と海上の道』第一書房 国分直一編 1978『論集 海上の道』大和書房 後藤総一郎 1987『柳田国男論』恒文社 近藤喬一 1995「商代寶貝の研究」山口大学アジア歴史・文化研究会『アジ アの歴史と文化』2巻、1 55 佐々木高明 2003『南からの日本文化−新・海上の道』上・下 日本放送出 版協会 佐藤一夫 2002「タカラガイ製装飾品の模倣品について」後藤和民教授頌寿 記念論文編集委員会編『フィールドの学 考古地域史と博物館』白鳥社、55 97 佐原康夫 2001「貝貨小考」奈良女子大学『奈良女子大学文学部研究年報』 45、21 37 白井祥平 1997『貝』Ⅰ、法政大学出版局 設楽博己、工藤雄一郎、松田睦彦編 2016『柳田國男と考古学―なぜ柳田は 考古資料を収集したのか』新泉社 白倉一由 2007「燕」國文學編集部編『古典文学動物史』學灯社

(25)

Manchester University Press 角南聡一郎 2020(予定)「黒潮文化圏と新『海上の道』−柳田国男の発問に 対する後学の回答と想像力−」 住谷一彦 1962 [ 書評 ] 柳田国男『海上の道』、日本民族学会編『民族學研究』 27(1)396 397 セイファー、ジェイン 1986『海からの贈りもの 「貝」と人間−人類学か らの視点』築地書館 武田正 2001『昔話の語りと変容』岩田書院 谷川健一、藤井貞和、赤坂憲雄ほか 2002「『海上の道』と南島文化―柳田国 男の思想の再検討」東北芸術工科大学東北文化研究センター『東北学』6、 65 83 谷川健一 2007『甦る海上の道・日本と琉球』、文春新書、文芸春秋 寺島良安 1824『倭漢三才図会』巻第四十七 秋田屋太右衛門ほか、国立国 会図書館デジタルコレクション 徳田有希乃 2000「縄文時代のタカラガイの普及についての予察」ニューサ イエンス社『考古学ジャーナル』454、12 15 長野県 編 1986『長野県史民俗編』第一巻(一)東信地方 人々の生活、長 野県史刊行会 長野県 編 1988『長野県史民俗編』第二巻(一)南信地方 人々の生活、長 野県史刊行会 長野県 編 1989『長野県史民俗編』第三巻(一)中信地方 人々の生活、長 野県史刊行会 西谷大 1998「貨幣の誕生 宝貝と厭勝銭」国立歴史民俗博物館『お金の不 思議 貨幣の歴史学』山川出版社 ネイチャーウォッチング研究会 2009『タカラガイ 生きている海の宝石』 誠文堂新光社 野田三郎 1974『日本の民俗 和歌山』第一法規出版 野地恒有 2015「海上の道=海縁ネットワーク論その一 移住開拓者の民俗

(26)

学ノート(四)」愛知教育大学日本文化研究室、『日本文化論叢』(23)、57 67 野本寛一 2008 講談社学術文庫『生態と民俗 人と動植物の相渉譜』、講談 社 福田アジオ 1992『柳田国男の民俗学』吉川弘文館 益田勝実編 1965「対談 日本人の神と霊魂の観念そのほか」『現代日本思想 史体系』29、筑摩書房 三島格 1977『貝をめぐる考古学』学生社 三島格 1978「韓国慶州芬皇寺石塔のイモガイ−南島と朝鮮の交渉史」国分 直一編『論集海上の道』大和書房 宮田登 1993「日本民俗論―海からの視点」 網野善彦ほか『岩波講座 日本通 史』1、岩波書店 武蔵石寿 1843『目八譜』国立国会図書館デジタルコレクション 物集高見 1916『廣文庫』廣文庫刊行會 柳田國男 1961『海上の道』筑摩書房 柳田国男 1978『海上の道』岩波文庫 柳田国男 2013『海上の道』角川ソフィア文庫 柳田國男 1989「海上の道」ちくま文庫『柳田國男全集』1、7 296、筑摩 書房 柳田國男 1990「木思石語」ちくま文庫『柳田國男全集』7、157 352、筑摩 書房 柳田國男 1990「昔話と文学」ちくま文庫『柳田國男全集』8、209 421、筑 摩書房 柳田國男 1990「口承文芸史考」ちくま文庫『柳田國男全集』8、7 207、 筑摩書房 柳田國男 1990「桃太郎の誕生」ちくま文庫『柳田國男全集』10、7 421、 筑摩書房 柳田國男 1990「妹の力」ちくま文庫『柳田國男全集』11、7 304、筑摩書

(27)

房 山下紘一郎 2009『神樹と巫女と天皇 初期柳田国男を読み解く』梟社 山谷文人 2004「礼文島における縄文後期の貝製品」ニューサイエンス社『考 古学ジャーナル』521、10 14 李時珍 1982『本草綱目』下册 台北:文光図書 李時珍『本草綱目』介部第四十六巻介之二、国立国会図書館デジタルコレク ション 李時珍『国訳本草綱目』鈴木真海訳、白井光太郎校注、木村康一ほか新註校 訂、1973 1978、春陽堂書店

Lurker, Manfred, 1991,Wörterbuch der Symbolik, Alfred Kröner Verlag 『竹取物語 伊勢物語』1997『新日本古典文学大系』17、岩波書店

『竹取物語 伊勢物語 大和物語 平中物語』、1972『日本古典文学全集』8、 小学館

国 立 歴 史 民 俗 博 物 館 https://www.rekihaku.ac.jp/outline/press/p160412_y/ index.html 2019年9月参照

(28)

Value of cowries ― tracing of “Kaijo no michi”

by Kunio Yanagita

Ami Sato

 This paper aims to explore Yanagita s view of cowries, based on his paper Kaijo

no Michi where cowries appear, and to discuss their value and charm. Cowries

belong to a group of snails of the southern seas, and have been found in Jomon Period archaeological sites. The use of cowries has been widespread worldwide since ancient times, where they have been used for decoration, rituals, and sorcery for the dead or living, and money in ancient China. Yanagita believed that the charm of cowries attracted people to the Japanese archipelago. In his book, Yanagita suggested that ideas about the function of cowries have changed. At one time he believed that cowries had special spiritual power as certain women and had been used by woman healers for various purposes including the use as amulets to ensure a successful conception, and then later cowries became amulets to ensure safe birth. Yanagita s writing has only alluded to this point, but various academic endeavors may enable us to get a better understanding of Yanagita s thoughts in the future.

参照

関連したドキュメント

If we think of D(x, t) as the strategy of a random walker x t attempting to maximize his chance of arriving at the origin at time T , it is reasonable that he should rush with

We extend a technique for lower-bounding the mixing time of card-shuffling Markov chains, and use it to bound the mixing time of the Rudvalis Markov chain, as well as two

At Geneva, he protested that those who had criticized the theory of collectives for excluding some sequences were now criticizing it because it did not exclude enough sequences

We show that a discrete fixed point theorem of Eilenberg is equivalent to the restriction of the contraction principle to the class of non-Archimedean bounded metric spaces.. We

We have formulated and discussed our main results for scalar equations where the solutions remain of a single sign. This restriction has enabled us to achieve sharp results on

The oscillations of the diffusion coefficient along the edges of a metric graph induce internal singularities in the global system which, together with the high complexity of

So far, most spectral and analytic properties mirror of M Z 0 those of periodic Schr¨odinger operators, but there are two important differences: (i) M 0 is not bounded from below

The first group contains the so-called phase times, firstly mentioned in 82, 83 and applied to tunnelling in 84, 85, the times of the motion of wave packet spatial centroids,