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アジアと女性解放 : 13号 (1983.1)特集「8・15とアジア」

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フィリピン、シンガポール、マレーシアほか

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台湾、朝鮮、タイ、フィリピン、沖縄

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-教科書から侵略の文字が・..

日本の教科書・アジアの教科書

特 集

ニホン語を強いられたアジアの人 たち h F A ﹁アジヤワヒ卜ツ﹂は侵略のス ローガ ン ( 日本占領下のフィリピン)

(2)

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とアジア

37年 目 の8月15日 は 、 新 た な 侵 略 へ の ふ み 台 と 、 な る だ ろ う か 。 こ れ まで8月15日は「終戦記念日」でしかなカ、った。だが、 1982年、 8月15 日 は 「 戦 没 者 を 追 悼 し 平 和 を 祈 念 す る 日 」 と な っ た 。 こ の 日 の 実 現 を め さ守して「英霊にこたえる会」は積極的働きかけを行なった。 さ ら に 、 こ の 日 を 制 定 す る に あ た り 、 政 府 の 諮 問 を 受 け た 江 藤 淳 、 曽 野 綾 子 ら 6人 で 構 成 さ れ た 戦 没 者 追 悼 の 日 に 関 す る 懇 談 会 が 報 告 書 を 政 府に出し「日」の制定を提言した。 し か し 、 こ の 報 告 書 は 追 悼 の 対 象 を310万の同胞のみとしており、同じ 「大東亜戦争」で犠牲となった1800万 人 と も2000万 人 と も い わ れ る ア ジ ア の 人 々 に つ い て は ま っ た く 触 れ て い な い 。 台湾、朝鮮を南進の足がかりとして、「八紘一宇」のスローガンのもと、 ア ジ ア 統 ー を め ざ し 日 本 が 侵 略 し て い っ た 国 々 で ど れ だ け の 人 々 が 殺 さ れ た だ ろ う 。 現 地 調 達 を 基 本 と す る 日 本 軍 隊 の 占 領 で 、 ア ジ ア の 国 々 で は 米 、 衣 類 ば か り で な く 、 人 間 の 労 働 力 も 強 制 的 に 奪 わ れ て い っ た 。 ま た 、 占 領 地 で は 女 性 を 強 姦 す る こ と は 当 り 前 の こ と で あ っ た し 、 従 軍 慰 安 婦 と し て 多 く の ア ジ ア の 女 性 が 戦 場 に 連 れ て い か れ た 。 本 来 豊 か な 自 然 に 恵 ま れ て い る は ず の ア ジ ア の 民 衆 は 飢 え に 苦 し み 、 着 る 物 に 困 り 、 ゴ ム や バ ナ ナ の 皮 を ま と っ た 。 戦 後 、 連 合 軍 は 惇 虜 虐 待 に つ い て の 厳 し い 責 任 追 求 を 行 な っ た 。 し か し 、 ア ジ ア の 民 衆 が 被 っ た 被 害 に つ い て の 責 任 は 不 問 に 付 さ れ て 今 日 に い た っ て い る 。 ア ジ ア の 民 衆 を 殺 し た 日 本 の 戦 争 責 任 は 今 だ に 消 え て は い な い 。 ロ ー ム シ ャ 、 コ 一 、 テ ン ノ ウ へ イ 力 、 そ う い っ た 言 葉 が 今 な お ア ジ ア の 人 々 の 口 に の ぼる。 今 、 ア ジ ア 諸 国 か ら 「 歴 史 を ね じ 曲 げ る 日 本 の 教 科 書 」 と い う 批 判 の 声 が 上 が っ て い る よ う に 、 日 本 の 教 科 書 か ら 「 侵 略 」 の 文 字 が 消 さ れ よ うとし、戦場となった沖縄で'800人 の 人 々 が 日 本 軍 に 虐 殺 さ れ た 事 実 す ら 消そうとする動きがおきた。 私 た ち は 歴 史 の 中 で 日 本 軍 が 何 を し た の か ほ と ん ど 学 ぶ こ と も な い ま ま 、 今 ま た 、 買 春 観 光 や 企 業 進 出 と ア ジ ア に 出 か け る 。 ま た ア メ リ カ の 配 下 の も と 、 ア ジ ア で の 軍 事 一 体 化 を 押 し 進 め て い る 日 本 に 対 し 、 か つ て の 「 大 東

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共 栄 圏 」 の 国 々 か ら 、 そ の 軍 備 増 強 に 危 慎 の 声 が あ が っ て J ノ i t -thE1 1 ・

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日本軍が侵略した地域

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いる。 私 た ち は 、 ア ジ ア に お け る 侵 略 の 実 態 を 明 ら か に す る こ と な し に 、 あ の 戦 争 が 何 で あ っ た の か を 把 え る こ と は で き な い 。 ア ジ ア の 加 害 を 抜 き にして8月15日 を 語 る こ と は で き な い 。 戦 争 と は 人 を 殺 し つ く す こ と で あ る 。 今 こ そ 、 戦 争 へ の 道 を 歩 ま な い た め に 、 ア ジ ア の 人 々 と 共 に 連 帯 し起ち上がろうではないか。 1983年 │ 月

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〉〆

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日;本軍の最大進出線 高 原子爆弾を落された都市

J 8本軍の基地 唱曲,連合国軍の基地 メ 主 要 海 戦

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は日本の敗北を示す 「日本の歴史・7J(ほるぷ出版)

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一世一一一---ー

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あ る パ ー テ ィ 十一月 一日は﹁文化 の 刊 ﹂ で あ る 。 戦前の教育を受けた人々には、この 日は﹁川治節﹂として記憶され て い る 。 一 九間 二 一

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、 点以、水川町の点条首相広邸は、本や いだ蒜同気に満ちあふれでいた。じ 力同の同航をめぐらせ、花が色どら れた食ゃには、ミッドウェ l 海 戦 、 カダルカナル九撤退、アソツ向王併 と続く敗け似の屯くるしさはない。 明日から始まる﹁ト八木亜会議 L に 出 席する久日凶代表が一堂に会したパー ティは、ビルマのパ

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モウ首相の 一五 葉によると束条首相を中心に、﹁きわ めて感動的な非同気をつくり出して いた﹂という。東条は次々と到析す るな行同首脳の子を提リ、お五いの紹 介を精力的に行なっていた。その時、 ︿東亜科刷を指導する帝凶﹀の斤州と して東条は侍立の絶別にあったこと だ ろ う 。 中同凶民政府行 政院院長川防衛、 軍の宣伝するあの戦争の姿がはっき り描かれている。 だ い っ け い お お ぎ み ツ h 川 と わ ﹁ 起 て 一 系 の 大 君 を 光 と 永 久 に LA み人 ' h c と も ム い つ 載 き て 臣 民 わ れ ら 皆 共 に 御 綾 威 そ ど し し の い ゆ U A 1 ニ う い え に 副 わ ん 大 使 命 征 け 八 紘 を 字 と な し カ い ひ と ん 九 ぴ た ど へ い わ し 四 海 の 人 を 導 き て 正 し き 平 和 た り そ う は 合 会 か 必 う ち 建 て ん 理 想 は 花 と 咲 き 薫 る ﹂ 全世界を、大君をいただく大 日本 の傘の下におさめ、﹁正しき平和 ﹂ をつくり出そう、それが天皇の威光 にかなうための日本人の大きな使命 であるというのである。今ふり返っ てみると、﹁何と馬鹿気たことを﹂と 誰しも考えるだろう。 だが、多くの日本人が、こんな歌 詞に何ら疑問を抱かなかったほど、 中 阜 の 言 論 ・思想統制は徹底していた 。 また、アジアが猷米列強の支配の下 に附吟していたこともまされもない 事実である。 満州同総則必 u r m 忠、タイのワン・ワ イタヤコン殿卜、フィリピンのラウ レル大統領、ビルマのパ│モウ泊相 そして﹁白 山イ ンド仮政府﹂の的利 チャンドラ・ボ

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ス 。 これらの山阿 古は、いずれも日本の﹁大東岨 H ( 栄 樹﹂のるかにつくられた﹁カイライ 政的﹂の指導者たちである 。 ボ│ス は い 米 粂 に む か つ てこのパーティは﹁ひ とつのん系候のハ│ティーだ﹂と H っ たという 。 ャ h J 一円である。まさに明 日 から始まる﹁大東亜会議 L は、﹁大 日本務同﹂を家長とす﹁家﹂に組み 込まれた目ハヵ凶の﹁家族会議﹂をめ ざしていたのである 。 日本 か﹁大東山忙共栄附﹂建設のヤ引 の 卜 に、出

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へと校時の歩をすすめ た 時 、 ﹁ 八 紘 . ん T ﹂をスローガンとし ていた 。 ﹁八紘(あめのした)をおお い て 山 j ( いえ)とせん﹂という立昧だ が、いま夙にい、えは﹁附界はつ、 人知はみな兄弟﹂というあの粁川

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一のスローガンになる 。 この小心に な る の が ﹁ 万 附 系 ﹂ の 大 h 主 で あ り 、 今のベトナム(仏領印度と呼ばれ ていた)は、フランスに、マレ l シ マ、ビルマ、インド、シンガポール はイギリスに、インドネシア(繭領 印度と呼ばれていた)はオラン ダに そしてフィリピンはアメリカにと、 アジアは臥米の他民地として分割統 治されていた。独立を求める声は圧 殺され、列強の支配は﹁万年統治﹂ を誇るゆるぎないもののようにアジ アの民衆には映っていた。香港のス タンレ l 刑務所、シンガポールのチ ャンギ刑務所の偉容は苛酷なイギ リ ス支配を今に伝えている 。 中国侵略の穆着状態を南方侵略に よって打開しようと、軍がアジアに 目をむけた時、そこには欧米列強に よってズタズタに分断され、喰いあ らされた悲惨なアジアの現実があっ た 南 進 す る 日 本 重慶に退いて日本への抵抗を絞け る終介石政椛に、米英らは物資援助 を続けていた 。 中回戦線の泥沼を脱 するためにも、日本はこの援蒋ルー トを何とか切断したか っ た 。 だ が 、 援終ルートを断つためにはイギリス との対決はさけられない 。 一 九問 。 (昭日)年六月、日本の外務省はビル マと香港経由の援純物資輸送停止を 駐 日イ ギリス大使に巾入れている 。 その犬山市をいただく﹁神 同 日 本 ﹂ と いうのである。 米条にとって、﹁大東叫ん五議﹂は日 本 の い は 時 を A n m 化するためにも、是 非とも成功させなければならない 。 前夜然 のパーティで、一小愛恕な'中人 以 条 が 、 叫 帆 . U 仲の変位をふリまいた であろうことは芥坊に必似できる 。 この山に参山した外川の片脳は、九 件 の 川 ル い と 升 川 算 を 胸 に 、 ﹁ 入 米 品 川 共 栄 凶問﹂というタイトルの之川を、﹄(に 出じる役名である 。 い 米 条 は ん 仁 権 力 を ・ 山 手 探 す る ﹁ J m u k ﹂として山(刊があ っ たのである 。 ア ジ ア の 現 実 ト 一 一 川 行 、 六 日 の 一 一

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問 、 ﹁ 大 点 。 帆 会議﹂が怖凶議が w V で聞かれた 。 会 議の U H 鋭で、十米条は﹁英米のいう附 仰い平和とは、すなわちアジアにおい ての制民地凶作取の永続化、それによ る利己的秋山吋の維持にはかならない﹂ と 出 説 、 U 本こそその解放折であリ 独 L M を版刷する者だと焔剥した 。 仏印ル l トを断絶するために監視 員をハノイに送ったりもしている。 こうして自 らが 引き起した中国侵略 を貫徹させるために、日本は蒋介石 政権を支援する列強との対決へとひ きずりこまれていったのである。 一 九四

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昭日)年七月 二 八日から 三 日間、日本軍は南部仏印へ兵を進 めた。アメリカは日本軍のこの行動 に対して対日石油輸出全面停止を発 表 、 これは石油の八

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をアメリカ に依存していた当時の日本には衝撃 的な出来事だった。アメリカとの戦 争状態は何とか回避すべく日米交渉 を続行していたのである。しかし、 中国大陸からの日本軍の撤収、務介 石政権支持、満州国の否認を主張す るアメリカの要求は、日本軍には絶 対に受け入れられないものだった。 ﹁英益﹂の賞い血で賄った﹁満州﹂の 地を 、むざむざとあけわたすことな どとうてい出来ないことだと思われ ていたのである。﹁満州﹂をあけわ たし、中国から徹兵しない限り、米 英との戦争は避けられないとの判断 が次第に日本軍のなかで回められて い く 。 ABCD 包副網のなかで、日 本は﹁自存自衛のために戦争も辞せ ず﹂との選択に傾いてい っ た 。 ( A はアメリカ、 B はイギリス、

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は中 刷 、 D はオランダを指す) 日本市の中凶し入院への似略が招い ト 巾 ぃ 刀 資 川 仰 の 叫 間 保 と 緩 粋 ル

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卜(中凶 で抗日戦線を築き日本市に執助に紙 坑する作介石への述 A H 阿による媛助 物資の輸送ル l 卜)切断を

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的とし たアジア U M M 町が凡引に﹁解放者﹂に すりかわ っ ている。欧米の支配にと って代る 日本のアジア支配が﹁鉄鎖 の以を解放する﹂ 正義 の支配とでも いうのだろうか。このまやかしは、

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附されたアジアの川々に宵

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され ただけでなく、日本の同以を戦争へ 日

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する子段としても卜 一 一 分 に 川 川 された 。 日 本 ' 中 に 似 附 附 さ れ た ア ジ ア の同々では、食焔 ・人的資似 の強制 以台や徴川が行なわれ、ぃ市殺、強 k 州 、 必作もな什地で起きていた 。 日本が解 欣おなどではなく新たな支配名であ ることを、アジアの人々は被支配の 体験を過して早々と見抜いていた 。 だ が 、 ' ψ の 4日 一

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に川らされた日本人 が戦予の点の安を知ったのは敗戦後 である の A r なお、アジアの人々の 日 に の ぼ る ﹁ 見 よ 米 海 の 笠 あ け て ﹂ で始る﹁愛同行進 出 ﹂ の批判 一 一 系 に 4 たこの穆養状態を、撤兵ではなくさ らなる侵略で解決することを明らか にしたのが 一 九四 一 ( 昭 日 ) 年 九 月 六 日の﹁御前会議﹂である。ここには 一

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月下旬を目途として対米、英、 蘭との戦争準備を完了することが明 記されている。 対米戦争も辞せずと大見えを切っ たものの、日本は石油をはじめとす る主要資源をアメリカに依存してい た。戦争など出来る状態ではない。 アメリカにかわる資源の供給先とし て、日本軍が熱いまなざしを向けた のが蘭印(今のインドネシア)であ る。蘭印には石油もある。ボーキサ イトもゴムもある 。蘭 印 さ 、 ぇ 押 え れ ば何とか戦争は出来る、﹁自存自衛﹂ の対英米戦争は資源確保の南進 によ ってのみ可能となると軍は、ふんだ の で あ る 。 中国侵略は、今や南方の 軍事侵略へと拡大していかざるをえ なくなった。その南方各地は、殴米 列強の植民地統治下にあった。その 地を欧米にかわ って新たに日本が占 領し、日本の鉄鎖につなきとめよう というのである。 -5-﹁大東亜戦争﹂の開始 ハワイの真珠湾奇襲で始まった戦 争を、日本は﹁大東亜戦争﹂と称す ることに決定した。これは﹁大東亜 新秩序建設を目的とする戦争になる

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ことを意味する﹂という。 この戦争は﹁支部撤兵﹂を求めら れた日本が、﹁自存自衛﹂と称して米 英にしかけた戦いではなかったのか。 ﹁東亜解放﹂は戦争遂行の方弁とし て利用されたにすぎない。だが真珠 湾奇襲の成功、フィリピン、マレ

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半島占領、シンガポール陥落、スマ トラ・ジヤワ占領と思いがけない緒 戦の勝利の連続に、軍も政府も﹁大 東亜共栄圏﹂の確立の幻想を本気で 抱いたようだ。東条首相は一九四二 年一月に再開された第七九帝国議会 の施政演説で、大東亜共栄圏確立の 方針を執拘にくり返した。そして日 本の南進と占領は、﹁植民地解放﹂を 大義名分として打出すことによって 新たな局面をつくり出すことになっ た。国民を﹁新たに興す大アジア﹂ の大義ために総動員していったこと はもちろん、植民地からの解放を求 めるアジアの指導者のなかからも呼 応する動きが生まれた。 インド独立を求めるチャンドラ・ ボ

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ス、蘭印のスカルノ、ビルマの パ

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モウ:・アジアの独立運動の闘士 たちは日本の武力をテコにイギリス、 オランダの櫨から脱出しようと計っ た。永年の欧米帝国主義列強に搾取 しつくされたアジアの民衆が、自分 たちと同じ肌をした日本人に解放者 の姿を見たとしても不思議ではない。 美しい言葉の裏にある日本の真意 を露呈したのが、会議終了後のレセ プション会場だった。大東亜会館の 宴会場には、モザイクスタイルで大 東亜共栄圏の地図が掛かれていた。 しかも日本の勢力範囲は赤タイルで 浮きあがるようになっていたという。 ﹁大東亜各国協同して﹂などとい うが、実態は属国、すなわち日本の 構民地であることはこのモザイク地 図が何よりも雄弁に物語っていた。 赤タイルに色どられた自国の姿を目 にした﹁大東亜各国﹂の指導者は何 を考えたのだろうか。﹁大東亜共栄圏﹂ は、どんな美辞で飾られようとも、 米英にかわって、アジアを日本の植 民地統治下におく'﹂とを意味する。 一時的ではあったが、破竹の勢いで 進む日本軍の南進は、アジア解放の 幻想を、日本人にもアジアの民衆に も与えたのである。独立運動の闘士 たちは、この機会を生かして独立を 達成しようと策を練った。民衆は初 めて知った﹁解放﹂の喜びに民族独 立の魂をはぐくんでいった。日本の 南進は、永年の欧米アジア支配の構 造を流動化させたのである。だが、 日本が朝鮮・台湾を中国大陸や南進 の基地として収奪していることを考 えれば、アジアの指導者たちにも日 本の占領の意図が見えたはずだ。南 進する日本軍のなかに植民地の台湾 人・朝鮮人兵士もいた。日本の占領 によって﹁人的資源﹂の活用の名のも とに強制徴用、徴兵がありうること もわかったはずだ。冷静に考えれば、 日本軍の南進は、対米英との﹁自存 自衛﹂の戦争を遂行するための人的 .物的資源の調達を目的とする新た な植民地支配であることもはっきり していたはずである。 だが、﹁アジア解放﹂が単なるス ローガンにすぎないとしても、日本 に賭けた独立運動家たちもいた。そ れほど列強の支配はアジアの上に重 くのしかかっていたのである。とり あえず、日本軍の力を利用して欧米 を追い出し、やがて日本を追い出し て独立をかちとる。日本はその過波 フィリピンやビルマのように時には 独立を認めている場合もあるが、そ れは日本製独立国にすぎないことは 当事者が何よりも知っていたはずで あ る 。 虚構の﹁大東亜共栄圏﹂は一九四五 (昭初)年八月一五日をもってついえ 去った。日本の敗戦後、欧米帝国主 義列強は再ぴアジアへ侵略の歩を進 めた。だが、日本占領による支配の 流動化は、アジアに新しい動きを生 み出していた。欧米の再侵略に武器 をとって起ち上がる固さえあった。 アジアの民衆は、欧米植民地支配の 下に再ぴ組み込まれることを拒否し て戦いに参加していった。独立を求 めて幾多の人々がその熱い血を大地 期の支配者として利用する。スカル ノにもボ

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スにも、日本に協力しな がら、胸中には燃えあがる烈烈たる 思いがあったことだろう。﹁いつの日 か、この手で民族の独立を/・﹂との 思 い が 。 日本軍の南進の意図を見抜き、抗 日運動に起ち上った人々も多い。日 本の占領中に弾圧されながらも地下 運動をねばり強く続けてきた抗日独 立運動の闘士たち。かれらこそ独立 を担った闘士として真に称えられな ければならない。ベトナムのホ

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・ チミン、フィリピンのフクパラ・ハ ップ、インドネシアのタン・マラカ ・:。だが、歴史の女神は、常に闘う 人々に徴笑みかけるとは限らない。 妥協なき闘いには抑圧もまた厳しい。 タン・マラカが日本占領中のジャワ で、地下にもぐらざるをえなかった のに対し、スカルノは、日本軍に協 力しながら時期を待った。そして、 日本の敗戦で政治の表舞台に躍り出 たのは、スカルノたちだった。独立 をめざしながらも日本軍とどのよう な関係を維持するのか、抗日か日本 軍への協力か。アジアの独立逆動指 導者の内部では、日本軍政を輸に、 はげしい緊張と独立への胎動が生ま れていた。﹁解放者﹂を気どる日本 人に、アジアの地下に流れる独立へ の底流がどれだけ見えていたのだろ に流したことだろうか。独立運動で 艶れた先達を悼む人々の声を、私た ちは今なおアジアの各地で耳にする。 戦後アジアの独立は、まぎれもな くアジアの民衆が自らの手で克ちと ったものである。だが、東条の﹁大 東亜共栄圏﹂の亡霊は、今なお日本 人の間に根強く残っている。そして、 日本が再ぴアジアへ侵略│経済とい う名の侵略 1 を開始した現在、かつ ての大義名分は﹁援助﹂や﹁協力﹂ の名にかわっている。﹁大東亜共栄圏﹂ 芝居にカイライ政府の指導者が演じ た役割を、今またアジアの独裁政権 の指導者が演じている。そのタイト ルは﹁開発﹂や﹁近代化﹂と変つて はいるが::

台湾における

戦時動員体制づくりと女たち

とみざわよし二

日本の﹁近代化﹂と﹁膨脹政策﹂ とは一心同体だった。日本の侵略支 配の歴史は、沖縄を領有し、台湾を 植民地統治することから始まった。 台湾統治五

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年の問、台湾の中国人、 高山族(以下両者含めて台湾人とい う)に対する社会構造の破壊、経済 的略奪は、戦争の拡大に従い、民族 の文化、伝統を抹殺するまでいきつ いた。一九三

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年代から推進された 皇民化政策がそれである。言語をう ばい、徹底した精神の服従を日本民 族優位のもとに強いていった。この 統治施策はどのような方法で行なわ れ、そしてその中で女たちはどう翻 弄されて生きたのか。限られた資料 をもとに追ってみたい。 一、台湾の南進基地化 日本による台湾侵略の歴史は、近 代史の略、﹁近代化﹂の方策も定ま っていない一八七四年(明治七年) の台湾出兵に始まる。三年前の沖縄 島氏の殺害を根拠としたその出兵は 沖縄を強行に日本国土に組み入れる 過程と結びつき台湾東部の領有をは う か 。 ﹁ 大 東

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共同宣言﹂ ﹁ 大 東 亜 会 議 ﹂ は 六 日 、 ﹁ 共 同 宣 言 ﹂ を満場一致で採択して幕を閉じた。 宣言は五つの項目からなっているが、 その前文は東条首相の得意満面の笑 が見えてきそうなほど、空虚な美静 で飾られている。 ﹁抑々世界各国が各其の所を得相 侍り相扶けて万邦共栄の楽を借にす るは世界平和確立の根本要義なり 然るに米英は自国の繁栄の為には 他国家他民族を抑圧し特に大東亜に 対しては飽くなき侵略搾取を行い大 東亜隷属化の野望を這うし遂には大 東亜の安定を根紙より覆さんとせり 大東亜戦争の原因絃に存す 大東亜各国協同して大東亜を米英 の恒袷より解放して其の自存自衛を 全うし左の綱領に基き大東亜を建設 し以て世界平和の確立に寄与せん、﹄ と を 期 す ﹂ 南進が﹁大東亜の解放者﹂とすり かわり、大東亜戦争が米英の侵略搾 取への戦いと正当化されている。こ の宣言には日本の侵略が見事に穏さ れている。一正精衛や張景恵の演説は 他の出席者のなかでも特に空々しく、

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本 の カ イ ラ イ 国 家 の 宿 命 と も 一 一 一 一 同 う べき阿訣追従にみちたものだったと い 、 7 0 ﹃

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一 大 東 亜 共 同 宣 言 一 一(大東亙会蛾・一九四三年)⋮ 一 一 、 大 東 霊 各 国 は 協 同 し て 大 東 亜 の 一 一安定を確保道義に基く共存共栄一 一 の 秩 序 を 建 設 す 。 一 一 一 、 大 東 亜 各 国 は 相 に 自 主 独 立 を 尊 ﹄ 一重し互助教睦の実を挙げ大東量一 一 の 親 和 を 稽 立 す 。 一 一 一 、 大 東 亜 各 国 は 相 互 に 其 の 伝 統 を 一 一 尊 重 L 各 民 族 の 創 造 性 を 仲 暢 L 一 一 大 東 亜 の 文 化 を 昂 揚 す 。 一 一 一 、 大 東 霊 各 国 は 互 患 の 下 緊 密 に 捷 一 一携し其の経済発展を図り大東豆町 一 の 繁 栄 を 増 進 す 。 日 一 一 、 大 東 亜 各 国 は 万 邦 と の 交 誌 を 篤 一 F うし人種的差別を撤廃 L 普 ︿ 文 一 一化を交流し進んで資源を開放し一 ﹄ 以 て 世 界 の 進 軍 に 貢 献 す 。 一 r E i S E t -E p i t -E

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k かったものだった。その後、日清戦 争の戦利品として正当化された強奪 によって台湾が日本軍政下におかれ るど、民衆に対する徹底武力弾圧の 行為は﹁植民﹂と﹁開化﹂のための 必要なプロセスとしてはばかること なくなされた。 第一次大戦が始まる一九一四年ま での台湾統治は﹁民生の充実と安定﹂ が課題とされた。その聞は武力支配 のもとで、戸口調査、土地繋理事業、 旧慣行調査、そして米・砂糖業の育 成を名目に日本から資本を入れて台 湾人を糖業労働者へとかえてゆく農 業収奪中心の政策だった。日本支配 -6一 7

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竃置翠

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え え 層にとって、台湾の地位が重要とな るのは、﹁南進﹂が国策となる昭和 十 年 代 ( 一 九 三 五年以降)のことで 一 九 四 一 年に閣議決定で、﹁南方政 策における台湾の地位に関する件﹂ が確認され、東南アジアの資源確保 の た めの基地として台湾の役割が公 認される。これまでの聞に、台湾で は抗日運動は分断され、大中地主層 は地方自治を許され、 一 方民族解放 運動をになう人々には弾圧が加えら れていた F 台湾が ﹁ 南方における前進基地﹂ として活用される際、まず最も重要 な資源として着目されたのが、人的 資源であった。﹁その量は内地人七 千万、朝鮮人の 二 千数百万人に比べ 丹 " も 土山凡;..~,;:.~-;ぜ 引 九山岨叫一一叫山山~::~J_~:;'~<:引い・ム叫叫Jiu山由叫ヰ~凶:~-c;-;.;,,;.;j~~I~牛込~~・叫泊;t.;:..~.~斗ムムム山山 す る ﹂ と 、 中 凶への 出 兵を正当な行 為として記述している 。 事実にもと つく正しい情報かとさされている 中 で、台湾人のある者たちは 、 そ の 中 同語力をも っ て、大陸へも動員され つまり 同 胞と戦うことを強いられた 。 兵士として、徴用しるか っ た の は 、 直接台湾人に銃を持たせて寝返る、﹂ とをおそれたか‘円であった 。 一 五年 戦争で、車夫、軍属、軍人として狩 り出された台湾人は、約 六

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万 七 千 人といわれている 。 南方戦域は直接 、 台湾人に銃を与 える場の山川切だ っ た 。 青 年 間 川 に は 直 接的な戦力増強のための機関として、 青年学校を設立、より年若い用に対 しては、皇民錬成所を五千余力所設 置し、内 五 日比教育を粁者たちにはどこ すことが全仏にわたり徹底されてい っ た 。 しかし、山 J 民奉公起動遂れの う、えから、見すごしておくことがで きないのが、がんこで昏迷な婚とみ られていた火性たちだった。 三 、 動 員 さ れ る 女 た ち いくら山下校や職場組織で け 本語を 強 川 しでも、家・妊にいて 川 態依然と している久たちによ っ て、山氏化が はばまれていると、しばしば統治名 がもげいている 。 この久の引け以のた めにとられた応策の 小 で 、 日 本人の 女が判 っ た点任と役刑は大きい 。 台 湾 の 女性仁 け に出版 さ れ た 本 極めて貧弱であるが、統治以後 二倍 となり、増殖力がめざましいので将 米性がある﹂と統治者によ っ て分析 された六

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万の中国人と問 。 万の 日 本 人 、 一 六万の高山族をいかに活 用するか 。 そして遅れた、未開発の 資源である女性をどのように利用す るかを、この頃統治者は論じている 。 国防要員と生虐要員として、どうし てもこの人的資源は命令に服従し、 生命を捨てることに諾とする人間で なければならない。では、いかにそ ういう人間をつくるか 。 この工作の ために行なわれたのが皇民化巡動で ゐ め ヲ 心 。 二 、 皇 民 奉 公 運 動 の 展 開 一 九四 一 年 、 H 中戦争から大平洋 戦争へと戦域を拡大させたこの年に、 ﹁ 皇民奉公会﹂が発会し、その直後に は志願兵制の実施が決められている。 この皇民奉公運動はそれまでの皇民 化運動を徹底させるために、全島ヘ 及ぶ機構を未端まではりめぐらせた ものだった。この運動を日本内地で 行なわれている大政索、韓日運動の台湾 版であると規定しながらも、台湾に おける運動の特色として、内・台 ・ 高 ﹃ 三 兄弟 ﹄ ( 内 地 人

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日本人、台湾 人

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中国人、尚砂︹古同山︺族)の融和 による ﹃ 台湾 一 家 ﹄ の建設が強調さ れた 。 運動の 三 大

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標には、訓練、 内 平 一民挙公会の組織の 中 で、運動の 中 核として位地づけられたものに、 村 傾倶楽部がある 。 未 川 町 有 識 女 性 の 結合体として、六七回、 一 一 九八 三 人 の女が参加し、女たちへの働きかけ、 宣伝に効果をあげたという 。 ま た 、 奉公会の 中 の文化 同 体として位置づ けられた大日本州人会台湾本部(会 員 、 二-万八千名 │ 愛同州人会と 同防相町人会を統合)では、 一 九

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同 年 以 降 、 一 貫して軍事後援卒業の活 動をしてきた実績にもとづいて、授 産活動や神棚設置を推進する担い手 とな っ た 。 東南アジア 一 帯への戦域が拡大す るにしたがい、台湾は兵 刈 補給基 地 と自給自足、工業 化 が使命となり、 男が兵員、東南アシア文配の工作 一 安 以 として供山させられてゆくと、従 米、女に押しつけられていた役割に 変則にかせまられた 。 引 のいなくなっ た生産労働の場を補山元し、新たら一中 市産業へ入り、かつ銃後 の 家を文え る担い手となることである 。 民業労 働に対しては、女﹁勤労本仕隊や部 治ごとの女イ別応隊を組織し、職場 では、引﹁行年の就労を然 J H し 、

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に よ る 代 比 九 円が実胞された 。 e 九問 問年に-じ 峨科を引

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-小 山 必 中 I と指定 し、これによ っ て -力五千人のぷい 川﹁にかわ っ て火が就労したという 。 その職桁とそれぞれの転進名数は 卜 増産、銃後生活がかかげられた 。 こ の皇民化運動が、朝鮮、満州におけ るそれと比較してまさ っ ていると台 湾統治者に自負させたものは、組織 化と、台湾人を登用した臼発性の鼓 舞だ っ た 。 ﹁ 朝 鮮 ﹃ 同 氏 総 力 聯 刷 出 ﹄ は愛凶庇 に宅るまで組織整備し、然も行政と 二 位 一 体となっている点、相共に外 地型機怖の特質を顕示しているので あって、その限りに於て恵まれたる 地盤を持つわけであるが、機構が行 政に 一 偏り気味なのは同氏運動の観点 に立つ限り未しの感が深い 。 : : : 満州帝国に於ける同民隣保組織は 直ちに協和会機精となり、えない 。 ・ : か く し て 、 ι 長泰運動の成功は組織化 の完備、特に未端組織の強き把握が 有力な 一 閃をなしていると考えて宜 いと忠ふ 。 ﹂ ( ﹁ 皇 民 奉 公 運 動 の 進 展 ﹂ ﹃ 台湾経済年報 ﹄ 昭和 4 九年版) 未端組織としてつくられた奉公斑 (全島六万八 三三 凹)を単位として、 日常的な日本語の使用、家々へ神棚 をまつらせ、中国服、音楽、芝居ま で禁じ、中同人として、あるいは高 山族としての民族意識を捨てるよう 強要した 。 村々の指導者たち(保甲 壮]団幹部)への教材として 出 版し た ﹃ 台湾保甲皇民 化 読本 ﹄ ( 昭 和 て ハ 年)の中では、朝鮮人をひきあいに 出して競わせるかのように、台湾人 表のとおりである 。 女たちは突如としてひろげられた これらの職場を前にしてとんな感概 を持ったのだろうか 。 また、従来の 女の限られた就労の坊であったお手 伝い(家事使用人)は 一 世慌で 二 人 以 上 使刑する場合に認可を要す 、 ﹂ と として 人 数を 制 限し、芸妓 ・ 女給に 対しては転業をはか っ た 。 良妻賢母をよしとしていた女子教 育の 内 容も、高等女学校では実務 的 、 事務 的 訓練の強化がはかられ、家政 火山平校は女子商業学校へと転換され た 。 家の内にあ っ ての服従から、生 産の第 一 戦で働くように求められる ことが、新たる奉仕でしかなくても、 それが公認された坊であるから 一 府 、 女たちの 中 には必死で自己変不に努 めようとする者もあらわれる 。 台 北 州

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寸挺身隊員として -九 山 一 年に 内地 農業視原 川 に加わ っ た ム

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の少 女 が 伊 勢 神 山 丹 、 山 内 城 、 明 治神町、精 男 子 不 適 当 の17職 種(1抑制 の皇民化に対する熱志が足りるいこ とを叱責している 。 ﹁少しでも文郎 が忽しいように忠われる気分がおき る﹂ょうではいくら H 本人のまねを しても皇民化といえないと述べ、 ﹁ 今 は文郎とは路傍のわほどの関係もな いのである﹂から、心から﹁自分たち は立派な日本人だ、 H 本帝倒の為に 忠誠を尽してみせるのだ﹂という考 えを抱かなければならないと説いて い ヲ ② 。 またこの本の 中 では、﹁粁し日本が 無かったら、東洋は英米の納民 地 ﹂ で あ る と し 、 小 国人、将介石、 中 国 共産党に対する訓訪、﹁こういう困が 隣りにいるために日本はいつも迷惑

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J 一 閣 議 決定﹁南方政策に於ける 一 ⋮ 台 湾 の地位に関する件﹂ 一 一 二 九 四 一 年 ) 一 一 一 、 台 湾 は 其 の 地 理 的 其 の 他 の 特 長 一 一 を 勘 案 L 帝 国 の 南 方 に 於 け る 前 一 一 進 基 地 の 一 と し て 之 を 活 用 す 。 一 ニ ‘ 之 に 伴 い 台 湾 総 督 府 は 中 央 の 定 一 む る 南 方 政 策 に 順 応 し 必 要 な る 一 島 内 諸 施 設 及 事 業 を 整 備 す る と 一 共 に 南 方 諸 池 方 に 於 け る 帝 国 出 一 先 官 憲 の 事 務 に 関 L 所 要 の 協 力 一 を 為 す 。 一 三 、 前 項 の 施 設 及 事 業 登 倫 並 に 協 力 一 に 関 し て は 軍 事 上 の 要 請 、 台 湾 一 統治上の心要台湾の地位、資源、一 経 験 等 の 活 用 、 関 係 各 斤 ど の 関 一 係 の 調 竪 其 の 他 を 総 合 的 に 考 察 一 し 之 の 具 現 を 図 る r 一

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1 L 凶神 祖 など参拝つくめのコ l ス の 抗 後に立寄った農 村 久子青年 同 との交 流を 体 験して得た感想を次のように 述べている 。 ﹁ 農 村 を 視 ー 療 し て 台 湾 に 川 市 っ たら 是 非 実行したいと感じた 点 を中し ﹂ げます 。 家庭を守り、家庭で働くの は 、 女の仕事であり外で働くのは、 男の 仕 事であると考えていた私でし た 。 けれとも 此 度内 地 の女の方が真 剣 に働いていられる様イを見て台湾 の女性は、余りに怠け過さる、も っ と も っ と真剣に真面

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に、明と 同 じ桜 に、いいえ或時は、切に負けるい様 に働かなければならない 。 働かなけ れば 申 訳がないと思いました 。 ﹂ ( 台 湾 州 民 会 報 ﹄附和イ六年) こ の少女の発 一 討 を奴隷のことばと 聞きながすことはできない 。 こ こ に は 梢 民 地干 で の U 本の女と台湾の女 との位置が諮られている 。 台湾の女 に と っ て 、 日 本の久はお手本として 9 -4,755名 482名 4,885名 4,231名 2,347名 586名 258名 96名 203名 400名 26名 10名 482名 552名 1,390名 2,106名 15名 事務補助者 現 金 出 納 係 給 仕 受 付 係 物 品 販 売 の 庖 員・売 子 行 商 、 呼 禿 外交員、注文取 集金人 電 話 交 換 手 出 改 札 係 車掌 踏 切 手 昇降機運転係 番 頭 客 引 給 仕 入 料理人 理髪師 携事事品?頁りf系) 案内係 } 下 足 番 j (出所)r台 湾 経 済 年 報 一 昭 和19年 版JI26頁

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あおぐ作ゐだ っ たのである 。 日本の 久たちは航民地台湾で、よきお手本 であろうと努めた 。 この敗、とりわ け気丈な久たちの﹁善行美談﹂が紙 而で制介されている 。 四 、 日 本 統 治 の 歴 史 と 現 在 台湾の久にもになわされ、

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供た ち を も ま き こ み 、 山 叫 ぷ す る と さ れ た い 米 州新秩序の即忽は、日本にと っ て ん た は台湾でっちか っ た制民地支配の経 験を前 川 し、東南アジア 一 帯を勢力ド に置くことでしかなか っ た 。 今 九 州 : 一 年、山県以で聞かれた大東亜会議で 美降で飾られた共 川 賞 JJ パが発ぷされ た同じ年に、台湾総作山川文教い川 u k 凶 村は維誌のインタビューに附合えて次 のように発九 一 川している c ﹁ 術 集 部

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同古川及の 川 組です が、南'刀の十日領地域では日本語の汗 放は相%急速度ですね 。 台湾の同副 将及の力法などが大部参院勺にな っ て いると忠われますが、ト陶ト刀のやり方 をみていると何か実川、正義が第今と い う 感 じ で 、 日 本 桁 M 仰 の 円 以 透 な ど は そ の あとというようにみうけられま す が ・ ・ ・ ・ ・ ・ 。 州村 │ │ そり ゃ そうだよ 。 レ 問 点 と 台湾とは政治的立昧が全然ちがう、 ここは日本だからね 。 日本人になる ために同一訟をおぼえさせるのであ っ て、それも一パ集だけではダメなんだ 。 精神をし っ かり つ ぎこまるきやね 。 そこに台湾の凶話枝川及 の 灯心がある わけだ 。 そ こ へ ゆくと耐方では簡単 に ・ パえば中犬 の 日本語ということに なるね、必安からきているのだから 。 朝鮮の.別何分などにくらべて台湾 の同話呼及率はすばらしいものだよ 。 羽たちも地方へ山娠していて決して よ小白山を感じないだろう 。 ﹂ ( ﹃ 台 湾 昨 日 W 怜 -EU 川 U E , A A A 一 一 ー川凶, z ' ' ' A J J 世 r ﹄ l J M t 仇 汁 刊 1 1 8 y j 、 日本人のあるおたちは人ーでも判鮮 の 制民統治には子こず っ た が 、 ム 日 間 十メ配は成功したと胸をはる 。 同化政策 にもと っ き以依的、主体を破収しつく す卜刀法に大きな遣いがあ っ たわけで はるか っ た 。 十 間 作 1H 十い時期に武力 抑正を、つけた台湾人がより支配に従 順であ っ たという烈 山 などない 。 し かし、台湾にと っ て 、 日 本文配のた めに、小同本

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からが附絶されてしま っ た歴火はあまりにも呪い。日本 の 敗戦によ っ て えた解欣の契機は、ムけ

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万にのぼ る H 本の女たちが居たといわれる 。 これだけの数の U 本の女たちが日た にもかかわらず、中 1 昨 の 判鮮総付府 の資料にはこの女たち の 存在がス ツ ポリと抜けおちている 。 恭虐の限りをつくした日帝支配ド の朝鮮で円本の女たち の 果した役割 は 一 体何だ っ たのだろうか 。 五%にもおよんでいた 。 日本の女たちは女学校や 夜学会などを作って、日本の修身

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徳。を、朝礼時、学科時、登校ド 校時、休憩時、食事時とい っ たあら ゆる場で時 川 させたり、礼法、 日 本 の風俗 ・ 宵償、愛国歌(おが代)を教 えるなど、教育刺訟の実践で皇国制 人としての役目を悟らせていく 。 チ どもたちにも同じように、日本精神 の教育には、 h x 民科 ・ 戦時家事科 ・ 仕奉科などの学科を設けて、その ・ 一 夫 践 は 、 日本 語使則から始められるべ き │ │ 日本 訴を訴えなければ訴も辿 じないし、教脊することも出米るい ー ー として、朝鮮人に日本語を教、え るか同認識別自会。などを附いたりし て普及させた 。 J 日 韓併合 。 ν 内 鮮 A 体。か八紘 一 宇“の歴史的必要性を 教えこんだ 。 下校教育だけではな く 、朝鮮 の 次 ﹁ 私共料人 の 子で内鮮 -体 の そ こ で 丘三...ム迄包温孟油当直品品並注品証書垣島&単語』凶~:,占泊ゐ占法雄~坦岨弘証踊孟:.,~~品川町 e たちに 完成をおたすけしましょ う ﹂とい う 校訴などによ っ て、山本嵯快活のす べ てを﹁ド八日時卜の御為に﹂ の 4 念で 作することを女たちの義務として、 そのような作仁川態度こそが同・家にト奉 仕する逃であると指導した 。 教育の坊では、山下午たちを か 治安 任 務 ω に忠実な日本人教帥たちが監 似をし、午前の場では、主人や ' K た ちを H 本 の総動以泌仙 の 以 ト 木 端 の ん え 什 取 近 に も っ て、や っ と位略戦争に おけ る

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たち の 加宵行としての側耐 を 、 ' K れか らの 手で刷リ起こす作業 が始め ら れ 、 川下同主義を判 っ ていた 愛同制入会、大日本同防い川人人 ぶ など の果たした加書性 の 具体的引業が明 らかにされ つ つある 。

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国 臣 民 化 。 を 担 う 女 た ち 践機構としての愛凶班 ・ 班常会と共 に婦人会などが、 日常 生活全般を監 視していたのである 。 総 動 員 を 担 っ た 女 た ち 朝鮮総行府 の 政策自体も、徹底的 に朝鮮人を日本(人) 化 して H 報国隊。 やか徴則 h η 徴兵 h H 学徒兵。など強 制的に動抗された朝鮮人を、天皇の ために 一 命を捧げる人間に仕立てあ げる こ とにあ っ た 。 このため、か国民 粘神総動以 。 迩動( 一 九 一 二 八年)をお こし、安心して戦争に動以・利川で きるように強行してい っ た 。 その機構は極々あるが、朝鮮谷 地 に神{円や神社を挫てて参拝を強要し たり、神棚を作家庭に強制的に託か せて朝夕礼拝させたり、

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本 の 国 防 叫 掲錫、毎朝の宮械迄拝、正午の黙と う、国民服(色服)の着用などを強要 し 、 ﹁ 皇 凶 臣 民 ‘ の 許詞﹂をす べ ての朝 鮮人に朗読させたりした 。 申 ーーお.::!司 朝 鮮 に も 婦 人 会 を 組 織 し 、 千 人 針 活 動 に 朝 鮮 女 性 を 動 員 し た。

すでに、日本 H 内地 。では峨々な い 川 人 会 設 立 、 軍 人 山 征 時 の 入 退 一 川 早 川 歓 迎、軍人造家政 ・ 似病任(松川、千人 針、日間袋・日川状 の 附 U R ・先送な どの 中 山 十 が 後 援

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川 や、報川 F法 制 、 勤 労 ト 本 社、節約辺引などを全同規模 で行な っ ていた 。 愛 国 対 人 会 は 、 ﹁ 小 川 時 一 中 の 方 々 が 忠 実な死を遂げてくれなければ、孜が

久 この政策を受けて

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本の女たちは、 愛凶班 ・ 班常会などと共に、自らそ の任をも っ て活眼した 。 朝鮮の股村などに入り込み、家いや 労 働 の ︿ 打 開 化 によ っ て浮かせた時間 とエネルギーを、天皇と国家のため に奉仕するための工夫をさせる H 生 活改善逆動勺愛国ヒマ裁常運動。な どをおこした 。 これによって、ご粒 のムダもないようにしましょう ﹂ と い っ たような宣伝ビラを各戸に配布 し、朝鮮の女たちを監視 ・動此 して L た 教行令によ っ て ん 厄 令 い る 朝 鮮 語 使 川 も禁止されると、制人会や愛国税な ど は 、 朝 鮮 家 庭 の ぷ L 治改普述動。 を更に広げていき、議出班を各道に 派遣してい っ た 。 そこでは、家庭報国としての生活 の 基本昨悼式(凶旗 印 加 紛 ・ 川 町 何 打 破 ・ 色 版奨励)を指導してい っ た 。 日 本の 火たち の

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には、あまりにも朝鮮人 が﹁無知と無自覚﹂な引活をしてい ると写 っ たようだ 。 それを交え、判 鮮人を救 っ てあげることが、朝鮮の 火たち の 姉としての日本の火たちの 役円だとして、﹁れ分の,﹁を必んで バ 正 中 平 。 に差し出す母親になりましょ う﹂などという教育 ・ 桁 導が、生活 における J 門 鮮 . 体化 。 を椛し進め ることにな っ た 。 日中戦争が拡大するに つ れ て 、 日 湾人自らが決定してゆくれ山を子に 人れぬまま、すくに同民党軍の支配 にと っ てかわった 。 精神的屈従を日 々強要した支配のシンボルだった神 社は、け本の敗戦を知 っ た台湾人民 血 液 に よ っ て破壊された 。 しかし、この抑正をはねのける エ ネ ル ギ ー の い け 川 ま リ を 組 織 す る 道 は ふ さ がれてしま っ た 。 その状態にの っ か つ て 、 A t もまた れ 本は、台湾を経済 的従属関係のもとにおいている 。 私 たちは戦前戦後を通じて日本がつく っ た台湾との関 係 を みすえることな しに、対等なアジアとのかかわり方 を号、えてゆくことはできるいだろう 。

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ハ U 日本何人は s H も安穏にしてはいら れません 。 山征 兵士が安心して戦争 をしていられるように、兵士たちの 後援と銃後をし っ かり務めることが 孜々船人の与、えありれた責務であり、 そ の ためにも い 州 人 の川結が必要であ る﹂として、その活動村川仰は貴かれ ていた 。 それをそのまま朝鮮に吋て はめ、い州人会本部 ・ 支部を全道に設 閉 山 . して入り込んでい っ た 。 朝鮮の儒教における男尊女卑の閃 裂は、朝鮮総督府に利用された 。 当 時の朝鮮の女たちの識字率は 、 九 ・ 本の戦争の後 卜 刀 基 地 としての朝鮮支 配を強めるため、朝鮮総督府は更に 砂 川 刷 氏 改 名 ω 政策を 打 ち 出 すことに な っ た 。 これによ っ て ん 元 全 に 日 本人 化 することをねら っ た の である 。 これでもかこれでもかと、や っ き にな っ てこれらのか主同臣 民化 。政 策を強力に 押 し進めてきた背景には、 朝鮮人の反 日民族 解放闘争の力を恐 れたという ことがあり、 そのために、 治安維持法の改恋と共に朝鮮人民と 独立運動者の抹殺を目的に増々蕗 M M にな っ て い っ た 。 朝鮮女子山下作らによる抗議デモに 此出して、﹁利鮮人のためになる﹂と 信じきり﹁同家のため﹂と使命感を 一 皇 国 臣 民 の 奮 詞 其 ノ 一 ( 小 学 生 用 ) 一 戸 一 、 私 ど も は 大 日 本 帝 国 の 臣 民 で あ

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ま 一 一 す 。 一 一 一 ・ 私 ど も は 心 を 合 わ せ て 天 皇 陛 下 に 忠 一 一 義 を つ く し ま す 。 一 一 一 、 私 ど も は 忽 誓 鍛 錬 し て 立 派 な 強 い 国 一 一 民 ど な り ま す 。 一 一 其 ノ ニ ( 青 年 以 上 ) 一 一 一 ・ 我 等 八 皇 国 臣 民 ナ リ 忠 誠 以 テ 君 国 ニ 一 一 報 ゼ ン 一 一 、 我 等 皇 国 臣 民 ハ 互 ニ 信 愛 協 力 シ 以 テ 一 一 団 結 ヲ 困 ク セ ン 一 一 一 、 我 等 皇 国 臣 民 ハ 忍 苦 鍛 錬 カ ヲ 養 ヒ 以 一 一 テ 皇 道 ヲ 宣 揚 セ ン 一 一判針人民に山 日 比 化 教 的 H を 実 施 し 、 a 九 一 一 一 一 仁 年 卜 ・ 川 、 ﹁ 内 L 同 MMM 比 の MRHML が 定 め 一 一 ら れ た 。 日f 校 で は U H f ど も た ち に 山 え 一

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持った日本の女たちも、その対応の 仕方は朝鮮総督府のそれと全く同じ で あ っ た 。 これら朝鮮総督府の指導による女 子教育方針のものと、民間組織とし てのものがあり、都市・村落を問わ ずに入り込んで日本の女たちは大き な役割を果たしてきたのだ。 いわゆる娘狩りといわれる女子動 口異から、日中戦争以後の本格的大動 員、女子挺身隊という名の従軍慰安 婦動員を楽に推し進めるための下地 をつくる役割を果たしたともいわれ て い る 。 そ し て 今 日本の韓国における経済侵略にお いて日本の女たちの担っている役割 と は ・ ・ ・ ・ ・ ・ 戦 争 で 犯 し た 誤 ち を 日 本 の 女たちは今、再ぴ繰り返していない と言い切れるだろうか。 かつて東南アジアの人々を侵略し た日本の男たちが買春観光に出かけ、 自分の夫、恋人を買春ツア

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に送り 出している日本の女たちがいる。そ の女の状況は、かつての銃後の妻の 状況と通ずるものがある。 現在のその構造を明らかにし、 日本の女たちは再び同じてつをふま ないために、韓国の女たちと、連帯 していかなければならないのではな い だ ろ う か 。 過 去 、

四一四・九一六キロメートル(東海 道の東京、大掃一間に相当)におよぶ 泰緬鉄道は、一九四二年七月から一 九四三年十月の一年四ヶ月という短 期間につくられた。普通なら五、六 年かかるといわれている難工事を一 日八九

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メートルという超スピード だ っ た 。 なぜそんなに急いでつくられたの AM - 12ー

東南アジアの民衆動員

ー泰緬鉄道における﹁ロ

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ムシャ﹂│

バンコクからタイの西部カンチャ ナブリめざしてパスで四時間も走る と、映画﹁戦場にかける橋﹂で有名 なクワイ川鉄橋に着いた。鉄橋には 観光客と地元のタイ人があふれでい た。自転車に野菜をつんだおじさん、 オートバイに乗った若者、買物かご をかかえたおばさん、カメラのポー ズをとる観光客などで鉄橋の上では 立ち止まることもできないほどだ。 一九八二年八月一五日、私はその たいめ λ クワイ川鉄橋で八人の元泰緬鉄道の ロ

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ムシャに会った。彼らは、日焼 けした顔、そげおちた頬、額に深い な病原菌の巣でもあった。栄養失調 に、マラリア、コレラ、赤痢などの 伝染病を併発し、充分な医療施設、 薬品などもなく、停虜とロ

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ムシヤ 四万六千人が死んでいった。

泰緬鉄道建設のため動員されたマ レーシア、インドネシア、タイ、ビ ルマ、ベトナムなどの民衆の数は今 なお明らかではないが、推定表ーの ようではなかったかと言われている。 泰緬鉄道建設になぜこんなに多く の民衆が動員されていくことになっ たのか、それは一九四二年の南方軍 命令と、それに基づく﹁大本営陸軍部 指示泰緬鉄道建設要網﹂の文書であ っ た 。 ﹁一、目的ビルマに対する陸上補 給路を確保し、泰緬両国閣の交易交 通路を確保す。(二以下略)八、労力 現地労務者及伴虜を充てる﹂ 建殴工事従事人員紋 従事した数 死亡者数 及日本び軍軍属人、 13

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000人 ロームシャ 約100

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しわを刻み疲れたような足どりであ った。その一人カムさん(インド人) はカンチャナブリ近くのパタラ村に 住む。﹁この腕の傷は、日本軍に銃 剣で刺されたものです﹂彼は左上腕 を貫通しているケロイド状の傷跡を みせた。シンガポールに出稼ぎに来・ ていたところ、日本軍のシンガポー ル占領によりタイに連れてこられ、 丸二日間というものインド人、マレ

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人、インドネシア人などといっし ょに詰めこまれた列車で泰緬鉄道建 設現場に送られてきた。 同じインド人のディアさんは﹁強 制連行のショックで自閉症になった らしい﹂ということで戦後三七年間 作業は鉄道を一日も早く完成させ るため、ビルマ側とタイ側、二子に 分かれて同時着工し、国境付近で連 結した。そのためロ

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ムシャの動員 方法もタイ側とビルマ側とに分かれ た 。

広池俊雄『泰緬鉄道』説売新聞社 より作成 ビルマ政府パ

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モウ首相は、日本 軍の﹁アジア統一の構想により隣核 諸国を物理的に近づけるために泰緬 鉄道をつくる﹂という話に賛同し、 協力して労働力を提供していった。 パ

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モウ首相は自伝﹃ビルマの夜 明け﹄の中でその想いを述べている。 ﹁ヨーロッパ帝国主義勢力によっ て、従来孤立化されていた歴史的誤 ちをアジア統一のダイナミックな構 想は正してくれると思った。久しく 夢みていたものを実現してくれると 思えたこの建設計画に魅せられた﹂ ロームシャは勤労奉仕隊形式でビ ルマ政府により集められ、奉仕隊の 管理もビルマ人の手によってされた。 この勤労奉仕隊の働きぶりを日本軍 の鉄道隊の記録でみると、﹁奉仕隊 の使用は、停虜以上の効果を上げた。 ビルマ人は真面目で、比較的勤勉だ った﹂と記きれ、﹁ドパマ(万才} とビルマ語でさけぴ山に入っていっ た﹂とも記されている。

一 言 葉 を し ゃ ぺ ら な い 。 イ ン ド ネ シ ア の ブ

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ンターンさ ん は 一 一 一 一 日 う 。 ﹁ 私 は イ ン ド ネ シ ア 軍 に いて日本軍の捕虜となりインドネシ アからタイの奥地の建設工事に連行 されてきました。﹂ 太平洋戦争中、日本軍がタイとビ ルマの問につくった軍事鉄道泰緬鉄 道で、日本一車に連行され、使い棄て られた伴虜やロームシャが、故郷に 帰るすべを知らず、あるいはタイ人 と結絡して帰る機会を失くし、 A ? な おタイに住み続けている。 日本は長引く中国大陸での戦闘を 有利にするため、ビルマにあった中 国蒋介石軍への援助ル

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卜を潰そう としてビルマに兵を進めていた。こ の鉄道はそのビルマ戦線で闘ってい る日本軍への軍需品や兵員の輸送確 保のためにつくられた﹁鉄の道路﹂ で あ っ た 。 鉄道建設工事は熱帯のジャングル を切り開き、大岩石地帯を通ってツ ルハシ、シャベルなどの人海戦術で 進められた。加えてこの地域は有名

鉄道工事はじまる

タイ国とビルマ国の国境をまたぎ

行されてきたサミさんなど、二幅契 約労働ではあったがタイの動員方法 は様々であったようだ。 しかし、強制連行された者はもち ろん、募集に応じて来た者も異口同 音に言ったのは工事条件の悪きだっ た。マレ

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人のサミさんは﹁はじめ の三ヵ月は食事もろくに与えられず、 ジャングルに入って木の実などを食 べた﹂という。賃金なども労務規定 により決まっていたが実際とは大違 いで、労働時間も十時間が十二時間 タイ側については一応契約労働の 形をとった。占領地であるマレーシ ア、インドネシアは軍政監部の下部 機構・州庁により募集され、タイ、 ベトナムの独立国は民間団体に募集 を依頼した。 マ レ

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人のモハマッドさんのよう に銃剣をちらつかせながら村に日本 軍が募集に来たので応じた人や、農 場で働いていたところをいきなり連 句 、 υ 唱 EA 泰緬連援鉄道路線図(全長

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:z1 あるいはそれ以上といった過酷さだ っ た 。 タイ側のロ!ムシャの例き、山りを 日本一阜の記録でみると、﹁ タイ 人 は持集しでも、応募者も少く、また 米る析も屯労働に地 へかねて 、忍 く 逃亡した﹂﹁マレ│人口 l ム シ ャ は 、 夫州共綜ぎがかなりいたが その能 力 はお話にならない位低い。無統制で 非能 率 的・・・﹂と記されてい る 。

過酷な労働

こ の鉄道娃設に従 事した人々 の 上 i 力を鉄道隊が記鈷したのによると、 一 日 六立方メー トル -H 一二立方メー トル 一

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-九立方 メ l ト パ 近衛工兵 鉄道兵 ! 揚 ロームシ ャ となっており、 ロームシ ャは一番び しかし、よ工力か低いと されたロ

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ムシャではあったが、鉄 道雄設期間以紡命令がたされた以後 は大切な労働力とされていった。 作業能率をあげるため、 さげておいて、 や る 。 りであ る 。 木に布 を 一 番 H T い名に布地を また作業能率のよい者にはタ バコ、アへンなとを与えるなど、ロ ームシ ャの競争 心をわきたて、作 業 能率を上げようとした。(広池俊雄 ﹃ 泰 緬 欽 道 戦場に 残る 橋 ﹄ ) 述 A H ) 阜の作虜として泰緬鉄道で働 かされた L ・ ローリングの若井﹃泰 緬欽道の奴隷たち﹄によると、﹁以容 所には 多くの 現地 労務省がいた。か れらは赤痢で死にかけていたが、日 本軍民税兵はわれわれに、もしかれ らを 助 けた り、食事 を与、えたりすれ ば 死な なければならないと威した。 日本兵 の姿がみえなくもると、 わ われの 足前 にはい寄ってきて、食物 をせがんだ。刊になると多くの労務 者は死んでいた﹂と述べられている。 過附 な労働でたおれていった ロ ー ムシャたちは、﹁米袋に入れられ火一日 底に姶てられたり、鉄道沿線にどん どん州められた ﹂ とあるタイ人は語 っていた。ロームシャを埋めた上ま んじゅうは鉄道沿線に無数にあった と い う が 、 そ の 数 さ 、 ぇ ム ー だ に 明 らか で は も い 。

泰緬鉄道はいま

戦後、枕木 の数ほど犠作者を 出 し た鉄道として﹁死の鉄路﹂と町ばれ 作曲明虐待の厳しい百任追求により多 くの 戦犯 が 山た 。 ( 表 2 ) 判鮮などの強制述訂における労働 の実態などについては少しづつでは あるが明らかにされつつあるにもか かわらず、京市アジアにおける労働 者の迎行についてはほとんど語られ る こ とがなかった。鉄道建設をはじ め 、 M m わ州場づくり、道路工事にと約 1可決))IJ イ í~1l の内訳 起 訴 千i ~ド 終 身 部隊月IJ YE !fl) 千iJYJ附l タイf'ì'!持~)(存 JiJ庁 66 6-1 25 39 (うち利鮮人) (30) (28) ( 9) (19) 必r,斬ijj五第19}}1 14 11 2 9 ~1Jr. 'Ijltl瓦'-l¥29旅[-1) 6 J 3 2 7レ一作成J以容liJ[ 5 3

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ムシャとしての京市 アジアの民衆がいたにもかかわらず、 これらロ l ムシャについては一切責 任を川われることなく今にいたって い ヲ 。 。 今、泰緬鉄道はタイ側のみ一じ

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キロあまりが伐っているだけで、あ とは徹以され広のジャングルに返っ た 鉄道沿線では、戦後放同に川市れず 今だにタイに住み続けているロ l ム シャがいるが、 何人 タイにいるのか はわからないが 、鉄道沿線 ではそん な話を 聞 くことがあると 地ぺ の 人は い っ た 。 日やけした顔に深いしわを寄せ、 部隊別 泰緬鉄道建設関係の戦犯裁判 表2

戦後世代からみだアジアへの侵略

﹁ で も 日 本 は 戦 争 中 マ レ シ 戸 を 占領していたのよし 突然彼女がそう言つだ時、その発言 がその場の話の脈絡からはずれてい だにもかかわらず、私はそれを無視 することガできなかっ疋。今思えば それが松ガマレーシ戸について蓄え るきっかけになっている。 彼女はマレ

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シ戸の中国系住民で コンピュータを勉強している大学生 定。二一歳の彼女、二三歳の私、戦 争を知らないこ人ガ戦争の話しをす る、一見対等な関係で話しているよ うに見えるが、彼女と私とでは決定 的に違う点がある。それは彼女が学 枝教育の中で過去の日本軍のマレ│ 半島占領の歴史を知り、私ガそれを 知らなかっ疋ことだ。これを知らな かっだこと自体は無知かもしれない が、それならばはだしてどれだけの 日本人ガ過去に日本軍ガマレーシ戸 ・ シンガポール(マレ│半島のマラ ヤ)を侵略し、三年間も占領しだ事 実を教わっている芝ろうか。戦後世 代といわれ、三十獄年前の戦争には

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誠司悦思想

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-d v 責任はないと思っていた自分ガ、同 じ戦後世代の彼女の部では依然とし て加害者である現実を私は知った。 一 九 四 二 年 二 月 シ ン ガ ポ ル 陥 落 直後の華僑大虐殺(五千人とも一万 人以上ともいわれている)をはじめ とし芝日本占領下のマレ

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半島のこ とを調べてみた。当時、中国大陸で 日本軍と戦争状態にあっ疋中国を祖 国とする中国系住民(華人)は、も ともと反目的であったことから厳重 な監視のもとにおかれ定。華人は多 くの家族を虐殺されだ上、外国人登 録、華僑学校の閉鎖、日本軍の作つ だ華僑協会への入会、軍への献金な どを強制されだ。後に華人の経済力 を必要とし疋日本軍は、数々の煩制 を緩和しつつ統治は販戦まで続いだ。 ﹃ 日本と中国は一九三七年以来、 戦争をしてきだ。その当時からマラ ヤにおいて、中国人ガ日本人に対し て抱いた敵対山が 、 日本軍の残忍な 行為の方便とはなり得ょう(しかし 正当化されるものではないごと高校 の歴史教料書の中で教えられるマレ

ーシ戸、シンガポルの若者たち、 片や﹁侵略 L を﹁進出 L と無相経に閣 も改ざんしようとしている教育の中町 で教えられる日本の若者疋ち、両者一 はお互いに戦後世代でありながら、ョ 絶対に被害者と加害者という関係以 外には芯れ広い。 経済発展をめざすマレ│シ戸政府 は日本政府に対して多額の経済援闘 を求めている。経済協力の美名のも とに、再ひ日本ガマレーシアを占領 下におき、そこに生活する者だちの 聞に 、 埋めることのでき広いき裂を 狐大するようなことがあっては芯ら ない。だとえ今、私とマレ

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シ戸人 の友人の関係ガ、加害者と被害者ぜ ったとしても、それを認めつつ協力 していくことこそ今の私に与えられ 疋ことだと思っている。 フーンターンさん (イ/ドネシア人) は一品った。﹁インドネシアには州り た い 。 し か し 、 A ー か ら州っても 私か かって耕していた刷はもう何もない だろう。タイには家肢もいる 。 もし 度 イ ン ド 、 一 不シアに似れば 川 びタイ の家族のもと には もど れない のでは な い か 。 L 彼らは外人税を払いながら タイに住み続けている 。 カンチャナ ブ リ のクワイ 川 のほと りにある戦争記念館には、日本軍に よる述人 H 軍捕虜虐待の資料がある。 その人 口 に は ・ ﹂ う 41 H か れ て い る 。 ﹁ 回 り O ﹁ m 三 巾 ∞ ロ 門 Z O 門 司 O ﹃ 肉 巾 門 ( 花 川 そ う 。 だ が 忘 れ る な ) ﹂ -14-I!目lよりfhk (,'l'd可)1ム池f'l:W r!"刷iAJllJ ,,~'ì:/è ~í ]lll H リil

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朝鮮人 B C 級戦犯一同八人、うち伴 吻 山 肌 血 管 耐 関 係 一 一 九 人 。 大東唖共栄 凶に散らばった似谷所で何が起って い た の か 。 ニ ニ

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円 千 澗 内 海 愛 子 ・ 村 井 士 ロ 敬

赤道下の朝鮮人叛乱

第 二 次大戦下の朝鮮人市以の軌跡を 川一い、従来知られていなかった尚鹿 独立汗年党による抗日叛乱の実態を 掘り起す 。 一 七

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円 干 抑 鈴木佑司

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インドネシア、マレ l ン ア な と ア セ アン諸凶の動き、その将兵な政治情 泣を盟富な現地休験にもとづいて解 明する 。 ニ ニ

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ー 15-加藤邦彦

一視同仁の果て

台湾人元軍属の境遇 日本の戦争に 川相刊させられた市属・高砂族・少年 工等からの聞き丹きと資料によるけ 念なルポ 。 一 五

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梶村秀樹編

朝鮮現代史の手引

近代から現代にわたる日本人の朝鮮 鋭、朝鮮戦争、化日朝鮮人問題等の 文献を紹介した本による朝鮮案内。 一 九

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参照

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