北部の「独立」宣言に揺れるマリ共和国 (特集 不
安定化する「サヘル・アフリカ」)
著者
佐藤 章
権利
Copyrights 日本貿易振興機構(ジェトロ)アジア
経済研究所 / Institute of Developing
Economies, Japan External Trade Organization
(IDE-JETRO) http://www.ide.go.jp
雑誌名
アジ研ワールド・トレンド
巻
205
ページ
6-9
発行年
2012-10
出版者
日本貿易振興機構アジア経済研究所
URL
http://hdl.handle.net/2344/00003845
●はじめに
二〇一二年一月にマリ共和国北 部で武装蜂起したトゥアレグ人組 織 ﹁アザワド解放国民運動﹂ ︵M NLA︶は、強力な武力によって 支配地を拡大し、ついに四月六日 にマリ北部の﹁独立﹂を宣言する に至った。また、北部での戦闘拡 大と並行するかたちで、首都バマ コでは三月下旬にクーデタ未遂事 件が発生し、その後に設立された 暫定政権による不安定な統治が続 いている。 今回の事件は、一九九〇年代以 来、比較的安定的 に維持されてきた マリの民主主義を 大きく動揺させた のみならず、サハ ラ・サヘル地帯の 不安定化をもたら しかねないものと して、アフリカ諸 国から強く懸念さ れている。 さらに、 今回の﹁独立﹂宣 言 へ の 、 ア ル = カーイダに近いと される過激なイス ラーム主義組織の 関与は 、﹁ 対テロ戦争﹂に取り組 む欧米諸国の関心も引きつけてい る。すなわち今日のマリは、 一国、 地域、国際社会の各レベルが重層 的に関わりながら、紛争、民主主 義 、国家の分裂 、地域安全保障 、 グローバルなイスラーム主義など の様々な問題が結び付いた複合的 危機に直面しているといえるだろ う。 このような問題の広がりを念頭 に置きながら、本稿では、今回の 危機の発端となったMNLAの蜂 起に焦点をあて、独立以来のマリ が抱えてきたトゥアレグ問題の歴 史に照らしてその特徴を分析して みたい。今回の危機は、トゥアレ グ問題のみには還元できない大き な広がりを有しているが、危機の 今後の展開を展望し、解決策を考 えるうえでトゥアレグ問題が避け て通れない中心的な位置を占める ことは間違いないからである。一.
マリのトゥアレグ反乱の
歴史
今日のマリ共和国が位置するニ ジェール川の中上流域からサハラ 砂漠におよぶ地域では、過去一〇 〇〇年以上にわたり、河川域での 農耕と金の採掘、 ア ラブ ・ イスラー ム世界とのサハラ越え交易などを 背景に、数々の王国が勃興し、諸 民族の交流が起こってきた。一九 世紀末に進出してきたフランスの 植民地支配下で現在の国境が確定 され、一九六〇年にマリ共和国と して独立を果たした。 トゥアレグは、七世紀のアラブ の侵入以前から北アフリカに住む ベルベルと総称される人々のなか のひとつの民族であり、西アフリ カのサハラ・サヘル地帯でラクダ 牧畜と交易を生業としてきた遊牧 民である 。近年ではニジェール 、 マリ、アルジェリア、リビア、ブ ルキナファソの五カ国にまたがり およそ一五〇万人が生活している とされる。マリに居住するトゥア レグは約六〇万人とされ、その多 くは北部に集中している。二〇〇 九年のマリ共和国のセンサスでの 母語調査からの推計では、マリの 全人口に占めるトゥアレグの比率 は三%程度だが、 北部の三地域 ︵ト ンブクトゥ、ガオ、キダル。地域 キダル ガオ トンブクトゥ バマコ(首都) (出所)著者作成 マリ共和国と北部3地域の位置「サヘル・アフリカ」
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国
は県の上位の行政単位︶では人口 比で三〇%近くを占める。さらに キダル地域ではトゥアレグの比率 は八〇%を越える︵北部三地域の 位置は地図を参照︶ 。 独立後のマリでは、首都が置か れた南部で社会経済開発が先行し て進む一方、首都から遠く離れた 北部の開発は大きく立ち後れた 。 また、バンバラを中心とする南部 の諸民族が政治の実権を握り、北 部住民は地方行政の要職からも排 除された。北部に暮らす他の主な 民族集団︵ソンガイ、プル、アラ ブ︶とともにこのような南北格差 と南部支配に苦しんだのに加え 、 トゥアレグはさらに、独立後の国 境管理の厳格化により生業である 遊牧にも支障が生じていた。 このような状況を背景にマリで は、独立直後の一九六二年にトゥ アレグの武装蜂起が発生した。こ の蜂起は翌年までにマリ政府に よって鎮圧され、苛烈な弾圧を避 けて多くのトゥアレグがアルジェ リアとリビアに逃れた。これに追 い打ちをかけるように一九七〇∼ 七四年、一九八四∼八五年に相次 いで発生した旱 魃 は、トゥアレグ の生業基盤に壊滅的な打撃を与 え、多くのトゥアレグが家畜を喪 失 し て マ リ 南 部 や 隣 接 す る ニ ジェールに難民として流出するこ ととなった。このようにマリ北部 での苦境が続いたうえに、さらに 一九八〇年代後半には、アルジェ リアとリビアが国内経済の悪化を 背景にトゥアレグ難民の追放策を 取り、多くの者がマリへの帰還を 余儀なくされた。 旱魃による生計基盤の脆弱化と 難民帰還にともなう人口増を背景 に、マリ北部で大規模なトゥアレ グ反乱が発生したのは一九九〇年 のことである。よく組織された政 治集団が主導し、訓練・経験・装 備が豊富なゲリラ兵士︵リビアで の軍役経験者︶からなる軍事部門 を備えたこの反乱に対して、マリ 政府は交渉による解決を目指し た。一九九二年に和平協定が成立 し、トゥアレグ勢力側はキダル地 域の創設、税収の配分比率の引き 上げ、トゥアレグ兵の国軍への編 入などの成果を引き出した。マリ 政府との和平交渉締結後もトゥア レグ諸派間の対立が続いたが、一 九九六年には終息した。 マリ北部地域でのトゥアレグ勢 力による活動は、二〇〇六年から 二〇〇九年にかけて再び活発化し た。マリ政府はこのときも当初か ら交渉による解決を志向し、一九 九二年の和平協定の内容をさらに 拡充する形で、 地方分権化の推進、 開発投資、トゥアレグの軍事的権 限の拡大を骨子とする改革を約束 した。 一九九〇年代に続いて、二〇〇 〇年代にもマリ政府は交渉と譲歩 ︵利権誘導︶を基本的な組み合わ せとしてトゥアレグ反乱の解決を 図ってきた。そこには、強硬な鎮 圧は国軍側に多大なコストを強い るうえに、政府に対するトゥアレ グからの信頼の喪失にもつながり かねないという考慮が一貫してい た。加えて二〇〇〇年代には、サ ハラ地帯での活動が活発化してき たアルジェリアを発祥地とするア ル=カーイダ系組織︵後述︶の活 動を封じこめるため、トゥアレグ 勢力の協力を仰ぎたいというマリ 政府側の事情も﹁交渉と譲歩﹂の 背景となっていた。
二.今回の反乱の特徴
二〇一二年一月に始まった MN LAを中心とする反乱は、以上見 てきたようなこれまでの反乱とは 大きく異なる性格をいくつか備え ている。 第一の特徴は、トゥアレグ勢力 が、これまで以上にマリ国軍側を 大きく凌駕する軍事的能力を備え ていることである。反乱の中心で あるMNLAは、二〇一一年八月 に崩壊したカダフィ政権下でリビ ア国軍に参加していた者が多く参 加している。カダフィは、リビア に逃れていたトゥアレグ難民に保 護を与える一方、サハラ・サヘル 地域における軍事的影響力を確保 する狙いもあって、トゥアレグ兵 をリビア国軍の兵士として育成 温存してきた。アフガニスタンや レバノンでの戦闘経験を有すると されるこれらのトゥアレグ兵は 対空ミサイルなどを含む高性能の 武器とともにマリに帰還し、MN LAに参加した。さらにMNLA の参謀総長は元リビア国軍将校が 務めている。 今回の反乱の第二の特徴は、独 立を求める姿勢が当初から明確に 示されたことである。従来のトゥ アレグ反乱では 、主たる要求は マリ共和国内でのトゥアレグの地 位の向上、差別の撤廃、地域自立 のための政策実施にあり、自らを ﹁マリ共和国の一員﹂とする基本 姿勢が維持されてきた。今回の反 乱で、当初から﹁独立﹂が明確な 目標として掲げられたことは、高 度な軍事的能力に裏打ちされた ﹁強気﹂のあらわれと見ることが できる。 第三の特徴は、過激なイスラー北部の「独立」宣言に揺れる マリ共和国
、 ・ ディーン﹂ ︵AD︶ 。ADは 、 ︵AQI ︵G 。﹁ 対テ 拠地になるとの認識を持っていた とされる。AQIM系列のADが マリでのトゥアレグ反乱に参加し たのは、同盟者を求めるトゥアレ グ側と、安全な根拠地を求めるA QIM側の利害の一致の産物とい えるだろう。 マリ政府側の対応にもこれまで とは相違が見られる。前節でみた とおりマリ政府は、一九九〇年代 以降のトゥアレグ反乱に対して 、 交渉と譲歩を基本とする対応を 取ってきた。しかし、今回の反乱 に対しては蜂起後すぐに、MNL Aの複数の拠点に対して反撃を仕 掛けている。これは、MNLAが 二〇〇〇年代のトゥアレグ反乱の 際に最後まで和平を拒んだ派閥の 流れを汲む組織であることと、ア ル=カーイダ系組織が介在してい ることを背景にしている。
三.マリ政府の混乱
これまででもっとも強力なトゥ アレグ反乱は、思わぬ形でマリの 政権崩壊を惹き起こすことになっ た。マリ国軍がMNLAに大敗を 喫した二〇一二年一月半ばの戦い のあと、戦闘の跡地に入った国軍 兵士らは惨殺されている同僚兵士 を発見し、その写真を携帯電話で 首都バマコの家族らに送信した 。 この写真がメディアで公開され 、 マリ国軍の苦戦が南部で広く知ら れるようになると 、これまでA ・ T・トゥーレ大統領が進めてきた 交渉と譲歩を基本とする北部政策 に対する疑問の声があがるように なったという。また、国軍兵士の あいだでも、装備や人員の十分な 増強もなく強硬策に転じた政府に 対する不信感が強まったとされ る。 二〇一二年二月にバマコ近郊で 兵士たちに十分な弾薬を提供する よう求める軍人の妻たちの抗議行 動が起こり、同年三月二一日には 軍人自らが同じ理由で抗議行動を 起こした。兵士たちは説得のため に基地を来訪した国防相を投石で 追い払ったのち首都バマコに押し 寄せ、翌三月二二日までに大統領 宮 殿 と 国 営 放 送 局 を 占 拠 し て 、 トゥーレ大統領の打倒、憲法の停 止、 軍事委員会の発足を宣言した。 西アフリカ諸国経済共同体︵E COWAS︶は、非憲法的手段に よる権力の奪取は認められないと する姿勢を保ち、軍事委員会が政 権掌握したマリを資格停止にした うえで、制裁︵国境封鎖と中央銀 行の口座凍結︶を実施して圧力を かけた。クーデタ兵はこの圧力に 屈するかたちで兵営に帰ることを 約束し ︵ 四月六日︶ 、潜伏してい たトゥーレ大統領が公の場に姿を 現して辞任を表明し︵四月八日︶ 、 憲法規定に従ってD・トラオレ国 民議会議長が暫定大統領に就任し た︵四月一二日︶ 。 ﹁怒れる兵士たち﹂のクーデタ 劇が一応の終息を見るまでの三週 間あまりのあいだ、マリ国軍側の 北部での活動は停止し、この空白 を利する形でMNLAはADの協 力を受けながら北部で支配地を拡 大し、二〇一二年四月六日の﹁独 立﹂宣言に至った。トラオレ暫定 大統領は就任後すぐにMNLAの もとに特使を派遣し、北部問題解 決に取り組む意欲を示したもの の 、﹁マリの領土的一体性を堅持 する ︵=独立は認めない︶ ﹂こと と﹁外国の勢力[AQIMならび にこれに支援されたADを指す 筆者注]とは交渉しない﹂という 原則論的な見解を示すにとどま り、解決に向けた具体的な提案は 一切なされなかった。 本来マリでは、二〇一二年五月 にトゥーレ大統領が任期切れを迎 えるため、同月に後継の座を争う 大統領選挙が実施される予定で あった︵トゥーレ大統領はもとも と任期切れとともに退陣する意向 を表明していた︶ 。クーデタ未遂と北部の混乱によって大統領選挙 の実施が不可能になったため、改 めて選挙を実施することがトラオ レ暫定大統領に課せられた最大の 任務である。 しかし、いったん兵舎に帰ると 約束したクーデタ兵は、依然とし て実権掌握を狙っており、暫定政 権発足後も政治家を標的とした恣 意的な逮捕や暴行などの政治介入 を繰りかえしてきた。そのような なか二〇一二年五月二一日には クーデタ兵を支持する若者らが大 統領宮殿に乱入し、暫定大統領を 殴打する事件が発生した。暫定大 統領は精密検査の名目で翌日にパ リに渡ったが、異常なしとの所見 にもかかわらずその後二カ月あま りもパリの病院で﹁静養﹂を続け た。この事件は、暫定政権の正統 性をクーデタ兵が認めておらず 、 政権運営のうえで欠かせない治安 維持も十分に確立されていないこ とを示している。 二〇一二年七月末に暫定大統領 はようやくバマコに戻ったもの の、暫定政権が実質的に機能しな い状態は続いており、北部問題の 解決も大統領選挙の実施も展望が みえないままである。