161 倫理学年報第 70 集
生の形の理論における規範性の問題
五
味
竜
彦
はじめに
道徳判断がどのような種類の判断であるか、という問いはメタ倫 理学の主題の一つである 。 本稿で扱う生の形 ︵ life form ︶ の理論 は中でもいわゆる自然主義の立場に属し、その旨を述べるならば、 ﹁ ある人物の行為ないし人柄の価値評価は 、 人間という種 ︵ spe-cies ︶ ないし生の形についての事実に参照することで決定される ﹂ というものである。仮にこの主張が正しければ、妥当な道徳判断の 理由を、人間についての事実に求めることが可能になるだろう。そ こで問題となるのは、そもそも人間の生の形とはどのようなもので あり、いかにして成立するのか、どのように個々人は評価されるの か、なぜ個々人が人間の生の形と一致するような行為をすべきなの か、という問題である。本稿は順を追ってこれらの問いに取り組む が、その前に生の形の理論を採用する際に生じる、もう一つの難問 に触れておきたい。 二 十 世 紀 後 半 に 数 々 の 先 進 的 な 論 考 を 残 し た フ ッ ト ︵ Foot, Philippa ︶ は晩年の論考で 、 ナチス親衛隊に入隊するよりも 、 自 ら の死を選んだ少年の手紙を取り上げ 、 以下の様に問う 。﹁ はたして 、 それは合理的選択だったのか?どのように我々はそうした命題を定 義できるだろうか。いかなる実践合理性│選択の合理性の理論によ って、こうしたことは見極められるのだろうか︵ Foot. 2004, p2 ︶ 。 ﹂ 窮地に陥った少年、道徳的な困難だけでなく、生命の危機にした 少年の選択は合理的であったか。後に本稿では、こうした少年に対 して道徳判断や合理性の評価をすることとは、人間の生の形におい て、どのような種類の活動で、いかなる意義を有するかという問題 を論じていく。つまり、生の形の理論の規範性についての問題は、生の形の理論における規範性の問題 162 私たちが議題として当然視している道徳判断という概念の再考を迫 るのである。こうした観点はまた、生の形の理論が、人間とは何か、 という極めて普遍的な問題と、ひとりの人間として現実に生活を営 む私たち自身の日々の判断や活動が、どのように結びつくか、とい う難題とも結びつくことを暗示している。
第一節
人間の生の形と規範性
生の形や道徳判断についての大きな問題にとりかかる前に、まず 生の形の理論を概括する必要がある。そこで、生の形の理論の提唱 者であるトンプソン ︵ Thompson, Michael ︶ に則り 、 主要な理論 的特徴を記した後、人間の価値評価についてのフットの見解を示す。一.一
生の形の描像
トンプソンはある生物についての生の形がどのように生成される か を 、 架 空 の 海 洋 調 査 を モ デ ル に 説 明 す る ︵ Thompson. 2004, pp47 51 ︶。 海洋学者であるあなたは 、 とある岩礁の調査中に非常 に奇妙な体型のクラゲにであう。非常に小さい上に触手は極端に短 く、非常に薄いカサが全身を覆うように広がっていた。次々と同様 の個体が見つかったことから、海洋学的知見に基づき、ついにあな たはそれが新種のクラゲであると確定し 、﹁ カサクラゲ ﹂ と 名付け るに至った。この時から、一匹のクラゲを、カサクラゲというひと つの生の形に割り当てるような、 ﹁このクラゲはカサクラゲである﹂ という判断が可能となる。生の形の理論において最も基本的な判断 が、このように﹁XはSである﹂あるいは﹁個体Xは生の形Sの産 出者︵ bearer ︶である﹂といった形式で表現される。 さて、無数の個体を調査していくうちに、件のクラゲの数々の特 徴やライフサイクルが明らかになる 。 そこで 、﹁ カサクラゲは孵化 し、幼体なった後、成体となる﹂のように、単なる個体についての 記述ではなく、カサクラゲという生の形一般について当てはまる判 断が可能となる 。﹁ SはFである・ す る・ を有す る﹂や﹁ Sはその 特徴としてFである・する・を有する﹂等の形式で表現されるこう した判断は 、 ある生の形についての ﹁ 自然誌的判断 ︵ natural his-torical judgment ︶ ﹂ ︵ ibid. p49 ︶ と呼ばれる 。 注意すべきなのは 、 自然誌的判断に含まれる主語が 、﹁ 全て の﹂や﹁多 く の﹂ といった 、 統計的ないしフレーゲ的量化記号に変換可能な意味ではないという ことである ︵ ibid. pp50 51 ︶。 ほとんどのカゲロウの卵が成虫する までに死滅するように、カサクラゲの卵が成虫になり、産卵するに 至るケースはかであるだろう。しかしながら、クラゲが孵化し、 成虫になるという自然誌的判断が誤りであることにはならない。つ まり、生の形についての判断は、生の形に見出される﹁一般性の形 式﹂ ︵ ibid. p51 ︶を表示しているのである。 生の形一般についての判断が可能になるということは、目前の個163 倫理学年報第 70 集 体の動きや振る舞いを、より詳細に記述することに繫がる。クラゲ のカサの構造や動作の特徴をより詳しく知ることになれば、目前の クラゲが単に移動しているのか、それとも外敵から身を守る動作を とっているのか区別できる。こうした個体についての判断は、単に 目前の個体だけを観察するだけでは不可能であり、既知の自然誌的 知識を持っているからこそ可能となる。あなたは数多くの個体につ いてのノートを取り、それを集積していくことで、クラゲの生の形 の一般的な判断を形成する。同時に、そうした生の形一般について の知識を元に、目前の個体が何をしているかを理解する。こうした 個体についての記述と 、 生の形の自然誌的判断は 、﹁ 相互補完的な 従属関係 ︵ reciprocal mutual interdependence ︶﹂ あるいは単純に ﹁ 相 補 依 存 ︵ reciprocal dependence ︶﹂ と 呼 ば れ る 状 態 に あ る ︵ ibid. p52 ︶ 。 ある生の形についての様々な自然誌的判断が、目前の個体を理解 するために 、﹁ 解釈の枠組み ﹂ として参照される 。 こうした解釈の 一つは、ある個体に何か異常があるか否か、という判断も含まれる。 ネコに四本足があるのが通常であるように、カサクラゲに通常百四 十四本の触手があるとすると、それ以下の本数の触手しか持たない 個体には何か異常があると判断される。あるいは、口部が機能して おらず摂食活動が不十分ならば、口部に欠陥があると判断できるだ ろ う 。﹁ 自 然 的 善 悪 の 判 断 ︵ judgment o f natural goodness and badness ︶ ﹂ ︵ ibid. p54 ︶ と呼ばれるこうした判断では 、 ある生の形 の自然誌的判断に基づいて、特定の個体が健常か欠陥かといった評 価が下される。この自然的善悪の判断と類似していながら、決定的 に異なる特徴を持つ判断形式が 、﹁ 自然的基準の判断 ︵ judgement of natural standard ︶ ﹂ ︵ ibid. ︶で あ る。こ の 判 断 も、生 の 形 の 自 然誌的知識をもとに可能となるが、それらの知識から導かれるよう な、一般的な優越を評価する際に用いられる。例えば他の個体に比 べて効率よく移動できる、あるいは、繁殖力の強いクラゲがいるな らば、それらはカサクラゲについての一般的な基準から、優れた個 体であると判断されるだろう。つまり、この自然的基準の判断の段 階において、初めて個体への価値評価がなされるのである。自然的 善悪の判断と自然的基準の判断の違いは、触手の数が足りなくとも 優れた移動能力や捕食能力をもつ個体を想定すると明確になる。つ まりそのクラゲは、自然的善悪の判断において欠陥があるが、しか しながら、優れたクラゲでもあると評される。あるいは、自然的善 悪の判断においては健常であっても、自然的基準においては劣った 個体、何一つ異常はないが移動速度が遅いといった個体を想像する と、両者の判断の違いが判るだろう。 上記の内容は以下の通りに整理できるだろう。あらゆる生物は、 ある特定の生の形に分類され、生の形についての判断と、個体につ いての判断は相補依存的な関係を持ち、ある生の形の自然誌的判断
生の形の理論における規範性の問題 164 は集積され、個体への記述はより精巧なものとなる。無数の自然誌 的知識に基づくことにより、ある個体の健常さ・欠陥が判断される とともに、導き出された一般的な基準によって、個体の優越の価値 評価が可能となる。生の形の理論はこのように、主に生の形と個体 との関係についてのレベルと、個々の生の形や個体の具体的な内容 が問われるレベルという、大別して二つのレベルがあることがわか る︵ ibid. p61 ︶。 第 一 の レ ベ ル は﹁論 理 的 レ ベ ル﹂と 呼 ば れ、あ る 生の形に基づいて個体が理解・評価されること、そして、個体につ いての知識と生の形についての知識が相補依存関係にあると説明す る。第二のレベルは﹁実質的レベル﹂と称され、生の形の内容、個 体の判断の内容が、実際にどのようなものであるかが問われる。両 者の区別が重要になるのは、人間についての価値評価が問題となる 場面である。それは、カリクレスやニーチェといったインモラリス トたちが道徳を批判したとしても、それは彼らの議論の前提となる 共有された価値観を否定しているのであり、人間についての知識に 応じて個々人が評価されるという主張は否定していないからである。 道徳判断や価値評価それ自体が不可能だと主張する理論は除くとし ても、道徳的判断をめぐる理論的対立の多くが実質的レベルでの問 題であり、論理的レベルの生の形の理論は承諾されていることを示 している。 それでは、生の形の理論は、実質的レベルにおいて、人間という 生の形をどのように説明するのか。一概に人間といっても、地域や 時代によりその生活方法や価値観は多岐に渡ることは明白であり、 それにもかかわらず人間についての一般的な基準を設け、個々人の 価値評価や道徳判断が可能と主張するならば、一体どのように可能 であるのか。
一.二
人間の生の形における価値評価
生の形の理論は、人間の行動や人柄に対する価値評価を適切に説 明できるのだろうか。先に確認すると、生の形の理論における﹁人 間﹂とは、極めて偶然的に歴史的過程を経て生まれた自然の産物で あり、決して﹁理性的存在﹂や﹁人格﹂といった抽象的概念ではな い︵ ibid. pp57 58 ︶。 つまり 、 自然的存在という点において 、 他 の 動植物と人間は同格である。 こうした自然的存在である人間において、何が善悪の判断基準と なるのだろうか。トンプソンの考えでは、それは個々の人間の意志 ︵ will ︶ あるいは実践理性 ︵ practical reason ︶ と呼ばれる知的能力 の行使である ︵ ibid. p59 ︶。 ここで想定される意志とは 、 あ る程度 確定している生活プロセスのなかで主体となりうるような能力であ り︵ Thompson. 2008, p 2 ︶、 実践理性とは 、 端 的に言えば概念的思 考を行為に適用する能力である ︵ Thompson. 2003, p 4 ︶。 ここで重 要なのは、実践理性や意志が、視覚や聴覚などと同様に、自然的、165 倫理学年報第 70 集 歴史的に人間に備わった能力であるということである。そのため生 の形の理論において、実践理性の行使の善悪は、視力や脚力など他 の能力と同様の形式において判断の基準となりうるのである。 そこで問題となるのは、実践理性や意志が適切に機能するとは、 どのような場面を示すのか、そしてそもそも、なぜ数多ある人間の 能力の中で、実践理性や意志が人間の価値評価の基準となるのか、 という点である。以下ではこうした疑問に対し、より直接的に考察 したフットの見解を参照に説明する。 フットによれば、人間の実践理性ないし実践合理性は、様々な徳 との関係から説明可能である ︶1 ︵ 。まず、人間は実践理性を有するため、 単なる感覚的反応とは別に、何らかの理由に基づいて行為すること が可能である ︵ Foot. 2001, p55 ︶。 そして 、 優 れた実践理性をもつ 人、すなわち実践合理性をもつ人は、複数の考慮から最良のものを 自らの行為の理由として選択することができる。一方、正義や誠実 といった様々な徳は、それぞれに関する人間に特徴的な善をもたら すことを可能にする ︵ ibid. pp44 45 ︶。 例えば人間には 、 約束とい う行為を通じることによってのみ得られる特定の善がある。社会保 障や高度な共同作業の実現には約束遵守は不可欠であり、それらに よって人々にもたらされる善は、人間に特徴的な善であると言える だろう。一方、誠実な人とは、その徳に関する理由を適切に認識し、 行為することができる ︵ ibid. p12 ︶。 誠実な人が約束を守るのは 、 約束によって利益が得られるからではなく、まさに約束をしたとい う事実の考慮それ自体からである。つまり、諸々の徳とは、それぞ れの徳に対応する行為の理由に基づいて、人間に特徴的な善を達成 することを可能にするのである。 こうしてフットは、徳が人間に善をもたらす行為の理由に関する 卓越性であり、同時に、実践合理性が人間に善をもたらす行為の理 由に関する卓越性がであるとした ︵ ibid. p13 ︶。 つまり 、 十分な実 践合理性を有する行為者は、悪徳となる行為を選択せず、悪徳のあ る行為者は 、 誰もが実践合理性に反していると結論したのである ︵ ibid. p14 ︶ 。 上記のフットの主張と、前項のトンプソンの理論を複合すれば、 人間の生の形と個々人の行為の理由の関係は以下の様に要約できる。 人間の生の形についての自然誌的判断があり、それらの中には、人 間にとって善であるものの内容も含まれる。これらの善を獲得する ために諸々の徳は必要な能力であり、徳ある行為は必然的に実践理 性を適切に行使していることを意味する。ゆえに、個々の人間に対 する価値評価や道徳判断は、実践理性の適切な行使という基準によ ってなされるのである。
第二節
人間の生の形と行為の理由の問題
前節では生の形の理論における主要な判断形式を説明し、論理的生の形の理論における規範性の問題 166 レベルと実質的レベルの二つのレベルがあることを確認した後、人 間の価値評価がいかにして実践理性の行使により可能であるかにつ いての主張を整理した。以下ではそうした主張への代表的な批判で あるマクダウェル ︵ McDowell, John ︶ の指摘を取り上げ 、 それに 対する従来の生の理論からの応対と、さらなる問題点について論じ ていく。
二.一
生の形と個々人の合理性の乖離
人間の生の形から個々人の道徳的な価値評価が可能であるとする フットやトンプソンの主張に対し、マクダウェルは理性的オオカミ と い う 架 空 の 事 例 を も と に 、 以 下 の よ う に 論 じ る ︵ McDowell. 1995, pp153 155 ︶。 例えば自然誌的判断 ﹁ オオカミは群れで狩りを する﹂が妥当な時、通常のオオカミならば、そうする必要があるだ ろう。しかし仮に、理性を獲得したオオカミがいたならば、その自 然誌的判断を認識し、自分がオオカミであるという事実を認めたと しても、自分自身がそうせねばならないという結論には至らない。 オオカミに必要なものは何かという問いと、自分は何をすべきか という問いの連関は理性によっては保証されない。⋮理性は自然 本性と我々の実践上の問題との連関を問い直すという仕方で、自 然本性から距離をとることも可能にするし、またそれを義務付け さえする。 ︵ Ibid. p154 ︶ 理性を有する限り、問いに対する回答の妥当性は、常に合理性のテ ストにかけられる。そのため、件のオオカミによる﹁私自身が何を 必要とするか﹂という問いに対して、オオカミの自然本性に必要な 事柄を提示することは、不十分であるか、理性に反した回答となる。 同様のことが人間にも当てはまる。理性的存在である個々の人間は、 自らの実践と自然本性との関係を問い直す。それはすなわち、人間 としての生の形を参照するのみでは、個々人の行為の理由の問題へ、 十分な回答となりえないことを意味しているのである。二.二
生の形の理論からの応答
マクダウェルの批判によれば、人間の生の形と、個々の人間にと っての理由が乖離している。この問題にフットやトンプソンの理論 は、どのように答えられるか。 まず確認すべきなのは 、 第一節で記したように 、 自然誌的判断 ﹁ SはFである ﹂ の意味は 、 統計的な意味 、 あるいはフレーゲの用 いたような量化文的な意味ではない。クラゲの個体のほとんどは成 体となる途中で死滅するだろうが、クラゲが孵化し、幼体から成体 となることは紛れもない事実といえる。つまり、生の形の自然誌的 判断が表現するのは、その生の形の個体に対して理解と解釈を可能167 倫理学年報第 70 集 にする枠組みである︵ Thompson. 2004, p54 ︶ 。 以上の説明から自然誌的判断が、単にある生物の自然本性を表現 するわけではないことが明らかだろう。すなわち、生の形の理論に おいても、自然本性と自分自身の立場を概念的に吟味しうるような、 実践理性を人間は有しているのである ︵ Thompson. 2003, pp. 2 3 ︶。 確かに、実践理性はある種の言語能力に基づいており、そうした言 語能力の獲得は生物学的な進化の中でもたらされたものである。し かし、たとえ人間にとって実践理性の獲得が歴史的・偶然的であっ たとしても、それが人間という生の形を特徴づける性質であること とは全く矛盾しない 。 それは 、 ある人の一連の振舞いを見て 、﹁ 彼 女は推論した ﹂﹁ 彼は理由に則って行為した ﹂ と理解できることか らも明らかだろう。マクダウェルの理性的オオカミは、オオカミと しての必要と自らの必要との齟齬を認め、苦慮するだろうと描写さ れたが、これこそ実践理性という特徴に基づき、そのオオカミを解 釈した記述と言える。
二.三
生の形における合理性の循環問題
こうして生の形の理論においても人間が実践理性を有することが 認められるとしよう。しかし、そうした能力を参照になされる個々 人への価値評価と個々人の有する行為の理由の問題は、まだ解消さ れたわけではない。フットの主張を繰り返すと、合理的な人物とは 適切に行為の理由を認識し行為する人物であった。そしてその内容 が、例えば利害であれば深慮の徳、約束に関するものであれば誠実 といった徳の発揮となった。しかしながら、こうした主張はある強 固な循環を導く。つまり、実践合理性の意味が、人間的善ないし徳 によって定義され、同時に、人間的善ないし徳の意味が実践合理性 により説明されているのである ︶2 ︵ 。こうした循環構造は、ただちに次 の問いを生じる。実践合理性ないし実践理性の行使の優越は、個々 の人間の規範的価値評価の基準となるはずだ。しかしながら実践合 理性の意味が循環構造にあるならば、個人としての我々自身がそう した基準と一致した行為をする重要さが不明瞭となる。人間の生の 形と個々人の行為の理由を含めた規範性の問題が、ここで再び呼び 起こされる。 フットがこの問題に関してどれほど自覚的であったかは定かでは ない。むしろ彼女は、こうした問題は善を合理性の前提であると見 なすることにより解決済みであると考えているきらいがある。晩年 のフットは以下のような見解を示している︵ Foot. 2004, p8 ︶ 。 曰 く 、 合理的な行為とは、自己利益、欲求充足、そして道徳的善のいずれ かに一致する行為であり 、 最終的な理由をもたらす 。 つまり 、﹁ な ぜ私は 、 私の利益をもとめなければならないのか ﹂﹁ なぜ私は私の 欲求を満たさなねばならないのか﹂といった問いに、それ以上の回 答がないのと同様に 、﹁ なぜ私は道徳的善をなさねばらないのか ﹂生の形の理論における規範性の問題 168 という問いにそれ以上の回答はない。なぜならそれらは、人間の生 の形に必要不可欠だからである。しかし、彼女のこうした回答が不 十分であることは、マクダウェルがすでに示している。 一方、トンプソンは、フットの論じる実践理性が自己正当化的な ものだと擁護する ︵ Thompson. 2003, p 7 ︶。 例えば我々自身が 、 実 際に正義の考慮に従うことが人間の知性において合理的であると考 えるならば、そうした思考自体が人間の生の形に貢献するというの である。つまり、適切な実践理性には、正義などの徳についての考 慮を含むことが、いわば循環の内部の個々の人間の行為から実例を 持って示されるである。ただし、こうした実際になされる判断を通 じることによってのみ実践理性と善の関係が説明されるのならば、 両者の循環を外部から説明することはできない。それゆえ、正義を 含めた実践的思考の妥当性についての確信は 、﹁ ある特定のレベル において 、 無 根拠 ︵ groundless ︶ ﹂ ︵ ibid. ︶ で あらざるをえない 。 こうした考えは、実践理性や徳の概念が人間の生の形の実質的レベ ルにおいて登場し、既存の自然誌的判断の集合によってしか理解し えないことを顕していると言えるだろう。つまり、生の形の理論に おける示す道徳原理は 、﹁ もっとも高度な一般性の形式 ﹂ で しかあ りえないのだが ︵ Thompson. 2004, p62 ︶、 実際の個々人の行為を 評価するうえでは十分に有効であり、その点では道徳判断が全く無 意味であるという主張では決してない。しかし既存の自然誌的判断 以外の根拠づけは不可能であるならば、生の形とは本質的に、常に 修正の余地があり、また、人間の生の形の全体像は常に不明なまま であることになる。それはすなわち、生の形は常に流動的であり、 それを参照することによる価値評価もまた、常に流動的で曖昧なも のでしかありえないのではないか。
二.四
一人称的命題の問題
人間の生の形の、特に規範性に関する曖昧さを促進するような問 題は、実践理性を持つことにより生じる一人称命題に関する説明に も表れる ︵ ibid. pp66 68 ︶。 トンプソンはアンスコムに倣い 、 一 人 称や ﹁ 私概念 ︵ I-concept ︶﹂ を用いた一人称的な命題には観測によ らない知識が含まれており、そうした領域も人間の生の形に貢献す ると論じる。それによれば、 ﹁私は∼と考える﹂ ﹁私は∼と思う﹂と いった自己意識的あるいは反省的な思考を通じて、私たちは自らを 生きている者として表現し、同時に、そうした一人称的表現自体が、 私たち自身を人間の生の形に組み込むことになる。こうした種類の 思考は、例えばサクラやカサクラゲ等別の動植物の生の形を形成し てきたような、生物学的・経験科学的な観測によって実証されるよ うな類のものではない。要するにトンプソンの主張は、一人称的命 題で表現される個々人の思考が、直接的に人間という生の形に貢献 するというのである。169 倫理学年報第 70 集 自己意識的思考を ﹁ 非経験的ないしアプリオリな表現 ﹂︵ ibid. ︶ とし、経験的な実証とは切り離された何らかの適切さがあるという 指摘は、言語使用の中に、一人称を用いた表現が含まれることから 当然の帰結だと理解できる。しかしながら、あらゆる一人称的命題 が人間の生の形に貢献するという主張は、規範性の問題の重症化を 招きかねない。すなわち、 ﹁私は約束を守らなくてもよい﹂ ﹁私は割 に合うなら多少の契約に違反してもよい﹂等の判断が、手放しに人 間の生の形に組み込まれ、適切な価値評価とされてしまう危険があ る。 生の形と個々人との関係に対する対案は、他の論者たちが対応を 試みていないわけではない 。 ハ ッカーライト ︵ Hacker-Wright, John ︶ は個々の人間が主体となりうるための行為者性 ︵ agency ︶ の概念を想定し、各人が有する行為者性を保障するために、道徳的 善をなし、悪を避けるための普遍的な行為の理由が導けると主張し ている ︵ Hacker-Wright. 2013, pp126 131 ︶。 また 、 信念の整合説 を援用することで、人間の生の形に基づいた価値評価の正当化が可 能であるという見解が 、 ジョーダン ︵ Jordan, Jessy ︶ に より示さ れている ︵ Jordan. 2016 ︶。 これらの対応はフットやトンプソンの 見解も含め、ある程度までは有効であると言えるだろう。つまり、 彼らの見解に従えば、私の道徳的行為の理由を人間という生の形に より説明できるからである。これが、仮に他の生物の生の形につい ての判断であるならば、十分であるだろう。群れでの狩猟は必要な 食糧確保の方法だから、それを行うオオカミは健全と判断できる。 しかしながら、私たちは自身が人間の生の形に属する個体であり、 純粋な評価者ではない。つまり、ひとりの人間に対する価値評価や 道徳判断は、他の動植物に対する価値評価とは全く意味合いが異な るのである。それでは個々の道徳判断を、生の形の理論に基づいて 考え直す場合、どのような見解が得られ、また、生の形の理論をど のように改修することで、規範性の問題の解決の糸口を見つけられ るのか、次節において検討していく。
第三節
道徳的活動の歴史性と生の形の人格的
レベル
三.一
道徳的活動としての道徳判断と歴史的主体
私たちがひとりの人間であると考える時、価値評価や道徳判断と は、それ自体により完結するのではない。それはむしろ、一連の道 徳的プロセスとしてなされている。この点を理解するため、ひとつ の場面を想像しよう。冒頭で紹介した勇敢な少年に残された家族に、 あなたが面会の機会を得たとしよう。その時私たちが、決して道徳 判断だけをするわけではないことは明白である 。﹁ たいへんお気の 毒に﹂と労うだろうか、あるいは、ただ黙って哀悼の意を表すか。 近しい友人なら抱きしめるかもしれない 。 もちろん 、﹁ 彼は勇敢で生の形の理論における規範性の問題 170 正義ある少年でした﹂という道徳判断が皆無なわけでもない。労い、 沈黙、抱擁といった多様な行動の意味を理解しようとするとき、道 徳判断や価値評価が命題として顕在化してくる。それにより次にす べき行動が明確化され、あるいは、過去の自分の行動への反省が生 じる。つまり、道徳判断や価値評価や、それらの内容は、それら単 体で意味を成すのではなく、ある一連の道徳的活動の一部であり、 他の活動との関連の中において、初めて有意義なものとなる。ゆえ に、ある人の道徳判断が、単に命題としてのみ理解可能、あるいは 正当化可能だとしても、その判断の前後の活動と結びつくような規 範的な理由が示されていなければ、少なくとも生の形の理論におい ては、その道徳判断の意味ないし意義を理解することは不可能とな る。 一連の道徳的活動の推移や内容は、個々人が実際に成長し生活す る中で学んでいく 。 マッキンタイア ︵ MacIntyre, Alasdair ︶が 強 調したように、我々は全くの抽象的行為者ではありえず、他人から 一人の人間として接せられる中で生活を営む歴史的主体である ︵ MacIntyre. 2007, p266 ︶。 歴史的主体である個々人は 、 既存の共 同体や人間関係といった伝統の中で共有されてきた価値観や道徳規 範を、いわば所与のものとして請け負い、しかし成熟する中で今度 はそれらを合理的な観点から評価するようになる︵ ibid. p271 ︶ 。 つ まり道徳判断とは、こうした歴史的主体によって学び取られ行われ る道徳的活動のひとつである。 以上のように道徳判断や価値評価が、歴史的主体によってなされ る一連の道徳的活動の一部であると解釈することは、一人称的命題 の問題への解決策を示す。トンプソンが言及したような非観察的知 識について 、 リクール ︵ Ricoer, Paul ︶ は以下のような見解を示し ている ︵ Ricoeur. 1992, p72 ︶。 それによれば 、 確かにある行為の意 図の内容は、行為した本人のみが言えるような瞬間があることは認 められる。しかしながら、そうした自分自身の意図を表明すること は、宣誓の領域に属する。つまり、事実の記述のように、何らかの 方法で命題の真偽を実証できるような類の表現ではないのである。 その代わり、意図の表明として﹁私は∼しようとした﹂と公言する 際には、当人のその発言への誠実さが他人から問われることで、承 認ないし否定される。つまり、一人称的命題の内容は、他人からの 評議にかけられ、承認ないし否定という判決が出されるのである。 こうしたリクールの意図的行為に関する非観察的知識についての 分析は、一人称的な道徳判断の場合と見事な類比を成す。あなたは ﹁ 私は約束を破ってもよい ﹂ と純粋に道徳判断し 、 信じているとし よう。しかしその判断を公言する、あるいはそれに従って実際に知 人との約束を破り続けたとしよう。あなたの発言や行動は、それに 関連した周囲の人々からのあなたに対する評価や行動、言動を変化 させる。大事な約束事はなされなくなるだろうし、徐々に付き合い
171 倫理学年報第 70 集 は減っていくかもしれない。そうした結果により、あなたは最初の 判断を撤回し 、﹁ 私は約束を破るべきではない ﹂、 もしくは 、﹁ より 巧妙な方法でなら、約束を破ってもよい﹂と判断内容を修正するか もしれない。いずれにしろ、重要なのは、一人称的命題が純粋な道 徳判断としてのみ生じ、全く外的な活動との結びつきを持たないな らば、その判断内容は生の形において意味が不明なままということ である。一方、判断内容が具体的活動として周囲に影響を与えるな らば、何らかの形で応答があり、その判断の適切さが問われること になる。そうしたある人物とその周囲の人々との間でなされた一連 の相互的な活動は、人間の生の形の一部として理解可能なものであ る。また、一連の活動を踏まえたうえで、その人物の判断は生の形 に組み込まれることが可能になる。
三.二
生の形の人格的レベル
以上のように、人間の生の形の産出者である個々人が歴史的主体 であると理解した場合、一つの仮説的過程を描くことができる。あ る人物が生まれると、人々からしつけや教育を受け、様々な交流を 通じて、無数の社会的規範を認識、理解し、さらにそれらに対する 批判的考慮が可能なまでに成長する。その結果として得られるのは、 本人が理解可能な限りの人間の生の形についての自然誌的知識だろ う。これは、人間がどのような特徴を持ち、どのような行為をし、 さらに何をすべきかに関する、その人本人が把握する無数の命題の 体系といってよい。その中で、ある部分の命題間では整合性が取れ ているが、ある部分では不一致が生じているかもしれない。また、 他人から見れば不正確で不十分な内容であるだろうし、成熟するこ とで変化が生じるだろう。こうした内容を含む、個々人が理解し、 把握するような生の形を、生の形の人格的レベルと呼ぶとしよう。 この生の形の人格的レベルがもつ重要な特質とは、生の形の実質 的レベルとは異なり、個々人の価値評価や行為の理由と直接関係す るという点である。約束の例を考えるとよい。最初の教育では約束 を守るべきだと教えられたあなたは、実際に誰かと様々な約束をす る中で、いつ、どの程度の、どのような内容の約束ならば守る必要 があるかについての知識を得ることになる。あなたはその知識に応 じて状況を判断し行動の選択をするだろう。たしかに、人格的レベ ルでの知識が、実際に行動に表れるか否かは環境や能力の程度、あ るいは意志の弱さなどが影響するための状況次第である。しかしな がら、あなたは自分の知っている限りにおいて、どのような場面で どう行為すべきか理解しているため、仮にすべきことを実現できな かったとしても、そうすべきであった理由があったことも理解して いる。つまり、生の形の人格的レベルにおける知識は、本人自身の すべき行為の理由と必ず一致しているのであり、この時点において 生の形の規範性の問題は解消される。生の形の理論における規範性の問題 172 なお、人間の個々人の歴史性を強調することにより、生の形の人 格的レベルを設置するという見解は、従来の生の形の理論とも一致 する。先述の通り、トンプソンは、生の形の理論は人間概念が歴史 的であることを積極的に表明している ︵ Thompson. 2004, p59 ︶ 。 また、道徳的善と合理性の循環構造を外的に根拠づけられないとい う見解も、個々の人々が実際に道徳的な活動を相互的にしていく中 で、時に既存の価値観に準拠し、あるいはそれが理性的に問題を含 むと見なされた場合は、変更が加えられる、という考えと一致する。 価値観の変更は単に判断だけではなく、実際の多くの人々によるデ モや教育、法改正などを通じて徐々に可能となる。そしてこうした 変革は既存の価値体系に対する修正という形によってのみ可能であ り、それを外側から別の理論により根拠づけたり、合理性を担保し たりすることはできない。これらの点を踏まえて、生の形に人格的 レベルを取り入れるという着想は、先行する理論と齟齬を生じない ことが明らかとなる。
三.三
個人的相対主義と普遍的原理の問題
ここまでの議論のように、仮に生の形に人格的レベルを設け、そ れに従い個々の人間が道徳判断や価値評価を含んだ道徳的活動をし、 さらにそこから行為の理由が導かれると考えた場合、極めて独断的 な道徳判断が横行し、個人的な相対主義に陥るのではないかという 懸念が生じるかもしれない。そしてそれは、最初に生の形の理論が 目指していたであろう、道徳判断の客観性の担保という目標に著し く反するのではないか。 こうした指摘に対する本稿の回答はこうである。なるほど確かに 道徳判断それ自体を切り取るならば、個々人は独断的な道徳判断を 有しうるし、その点においては個人的相対主義の余地はある。しか しながら、先にも強調したが、道徳判断は、他人も含めた一連の道 徳的活動の中の一部であり、道徳判断の内容の適切さはそうした過 程全体を通じて評価にさらされる 。﹁ 約束を破っても構わない ﹂ と いう判断は、一切の活動に移されない限りその真意が明らかになら ないが、否定もされえない。しかし一度でもそれを公言する、ある いは実行するならば、その判断の意味が問われるであろう。また、 周囲の人々からの反応により、変化や修正、あるいは主張の強化が 生じるだろう。こうしたことはすべて約束についての規則や価値評 価の体系によりなされるのであり、ひとりの判断によりそれらが崩 されるわけではないし、約束の意味が変化するわけではない。その ため、生の形の人格的レベルにおいて、道徳的相対主義の問題は生 じないことが明らかとなる。 しかし、と別の観点からの疑問が生じるかもしれない。なぜあく まで規範性や行為の理由が、個人的な理解における人間の生の形に 依拠しなければならないのか。あらゆる人間に適用可能な普遍的原173 倫理学年報第 70 集 理や、理想的な立場に置かれれば誰しもが合意可能であるような判 断を想定すれば、規範性や行為の理由がそれらから導出可能である だろうし、従来の客観性を重視した生の形の理論とも協調する主張 ではないか。 普遍的原理との関係については、それぞれの人々にとって道徳的 概念の深化がどのように生じるかを示すことで明らかとなる。マー ドック ︵ Murdoch, Iris ︶ はかつて道徳的な認識能力を芸術的な批 評眼に類比しており ︵ Murdoch. 2001, p31 ︶、 その見解に則れば以 下のような場面が想像できる。評論家が、素人の客たちに対して目 前の絵画作品の注目すべき点を指摘し、その意味を教えたとしても、 その全てが、全ての客に伝わるわけではない。なぜなら、客にもあ る程度の知識と理解力が求められるからである。つまり、ある人物 や行為、あるいは出来事や作品の判断を、より正確に、より精緻に しようとするならば、判断主体である本人に何らかの用意や能力が 求められるのである。これは審美的問題に限ったことではない。件 の海洋学者は、素人の気付かないクラゲの生態を知り、一体のクラ ゲに対してより精緻な記述と評価が可能となる。彼らが同じ海中を 眺めたならば、素人はそのクラゲの存在すら気付かないかもしれな い。このように事実の判断もまた、個々人の知識の蓄積や観察力、 関心の影響を多大に受けている。たしかに、優れた認識力を持つ他 人からの助言を受けて、判断の内容を修正することは可能である。 しかし、その場合であっても、助言を受けた内容そのものをどこま で理解可能であるかは、本人の力量に依拠している。 事実の認識が世界についての理解に応じて豊かになるように、道 徳的事柄の認識は人間についての理解に応じて豊かになる。この主 張は、普遍的原理が成立不可能であると主張するわけではなく、む しろ完全に両立可能である。しかし、そうした原理が実際に個々人 の行為の理由を与え、道徳的活動に結びつくためには、各々の道徳 的理解力や成熟度に大きく依拠する。普遍的原理もまた、生の形の 人格的レベルにおいて理解され、実行に移されることにより、初め てその意味や重要性が明らかとなるのである。 最後に、生の形の理論に人格的レベルを採用する利点を挙げてお こう。本稿では生の形と個々人の行為の理由が結びつき、また、生 の形を形成する要素を判断に限らず道徳的活動全体も含まれると論 じてきた。これらの見解がもたらすのは、生の形の流動性について の知見である。人間がどのような存在で、どのように関わりあって いくべきか、こうした人間そのものへの定義は、現在に至るまで常 に未完成であるが、常に改変されてきた。奴隷制が廃止され、和平 協定が各国で結ばれてきたのは、常に人間の生の形を適切に表した 数多くの先進的な理論と、それに触発された無数の活動の相互関係 の集積の結果だと言えるだろう。無論、紛争に差別問題、経済格差 に限らず、倫理的問題は無限に存在している。生の形の理論は、誰
生の形の理論における規範性の問題 174 もがそれに従うことであらゆる倫理的問題を解決するような特効薬 を処方する類の思想ではない。むしろ徹底した自己治療を要請して いると言ってもいい。どのような道徳原理を受け入れるか、それは あなた次第である。しかし明らかなのは、あなたはあなたの理解し うる人間概念しか有しえないことであり、それを根拠に実際に活動 を重ねていくしかないことである。そうした活動の集積を経ること によってのみ、あなたは自分自身や他人にとっての善や合理性をよ りよく理解し、それらをよりよく達成することが可能となり、ひい ては、人間の生の形をより善いものへと変革する可能性とも繫がり うるだろう。このように生の形の理論は、実生活での私たちの些細 な判断や行動と、大きな社会的活動とが結びつきうること、さらに それらが人間全体の理念的変革とも地続きであることを示しうるよ うな、理論的可能性を秘めていると言える。
おわりに
本稿で論じたのは、生の形の理論の規範性の問題であった。個々 人は人間の生の形と照合されることで道徳判断や価値評価を受ける が、従来の生の形の理論では、なぜ生の形と一致することが個々人 の行為の理由と結びつくかを、十分に説明されてこなかった。本稿 では道徳判断が一連の道徳的活動のプロセスの一つであるとし、ま た、そうした道徳的活動を行う人間が、歴史的背景を伴った主体で あることを指摘した。こうした考えは生の形の人格的レベルが想定 可能であることを示し、このレベルにおける人間についての自然誌 的知識は、個々人の行為の理由と直接結びついており、規範性の問 題はここにおいて解消される。最後にこうした人格的レベルが個人 的相対主義の主張とは別物であり、普遍的道徳原理の可能性とも両 立しうることを示した後、実際の社会変革を説明しうるような理論 的可能性に言及した。 注 ︵ 1︶ フットは上記の適切な実践理性の行使に該当する用語として、合理 的な意志 ︵ rational will, Foot. 2001, p66 ︶ や 実践合理性 ︵ practical rationality, ibid. Ch4 ︶といった語を用いている。 ︵ 2︶ 循環構造についてはマクダウェルとハッカーライトが言及している。 ﹁ 徳とはそれなしでは善が達成できないものであるという主張を利用 して倫理的考慮のもつ理性への影響力を基礎づけようとするならば、 その基礎付けが実践的なものの領域でなされる場合 、 ある循環 ︵ de-pendence ︶ が必ず導出されてしまう ︵ McDowell. 1995, p138 ︶ 。 ﹂ ﹁ 人 間的善が実践合理性を要求し、今度は実践合理性が人間的善に訴えか けるという非常に堅固な循環︵ Hacker-Wright. 2009, p314 ︶﹂がある。 参照文献Foot, Philippa. . Clarendon Press, 2001.
“Rationality and Goodness ” in . Ed. O ’Hear,
175 倫理学年報第 70 集 MacIntyre, Alasdair. . 3rd ed., University o f Notre Dame Press, 2007. McDowell, J ohn. “ Two Sorts o f Naturalism ” in ed. Hursthouse, Rosalind and Lawrence, Gavin and Quinn,
War-ren. Clarendon Paperbooks, Oxford 1995.
Murdoch, Iris. . Routledge Classics, 200
1. Hacker-Wright, John. “ What I s Natural About Foot ’s Ethical Natu-ralism? ” , vol. 22, no. 3, 2009. ’. Bloomsbury, 2013. Jordan, Jessy. “ Ethical N aturalism and the Justification o f Claims
about Human Form.
” , vol. 55, no. 3, 2016. Ricoeur, Paul. . Tr. Blamey, Katheleen. The U
ni-versity of Chicago Press, 1992.
Thompson, Michael. “ Apprehending Human Form, ” in . Ed. O ’Hear, Anthony. Cambridge University Press, 2004. “Three Degrees o f Natural Goodness ” originally i n Italian i n , 2003, English text a t http :www.pitt.edu%7emthompsothree.pdf ︵
Last accessed September 30, 2017
︶
︵ごみ
10
The outcome of this series of readings that this paper gains is, first, to show that for Levinas, history and its violence were not just an example of totality to be critiqued, but an important concern closely linked to ethics. Secondly, by ana-lyzing his later writings, this paper illustrates that wary of the violence of toriography, Levinas was seeking a positive relationship with the past and his-tory and that he was once again grappling with the difficulties of the debate
faced in .
On Problem of Normativity in the Theory of Life Form
Tatsuhiko GOMI
The theory of life form, which is mainly proposed by Phillipa Foot and Mi-chael Thompson, claims that each individual human being is evaluated according to natural historical knowledge of human life form. If the claim is true, we can make a moral judgment objectively, but there is a big problem about its norma-tivity: because of the gap between human goods and rationality in general and those of individual persons, theory of life form has to explain that there are necessary reasons for everyone to obey or act in concordance with human life form.In order to tackle the problem, this paper proposes three suggestions. First, if we think of the theory of human life form sincerely, we should regard moral judgments or moral evaluation as a part of a proceeding moral activity; a pure moral judgment completely independent of other activities cannot be meaningful in human life. Second, moral judgment is made by a historical person, which is not a merely abstract concept of an agent but was born in a preceding social normative system. Third, when a historical person makes a set of moral activity, she does it in accordance with natural historical knowledge on the personal level of human life form, that means, a life form fully understands and acted on by oneself. On this level of life form, every person seems to obtain a reason for ac-tion for oneself in each situaac-tion, not just understanding it. Here, we can see a solution about the problem of normativity in the theory of life form, and the theory can get more compelling.