ホロコースト「現場」への考古学的アプローチ
――テクノロジーが開く新たな次元
武井 彩佳 これまでホロコースト研究は,主に歴史文書を検証し,裁判記録や生存者証言などから当時の出 来事を再構成することを中心に発展してきた。現在,従来の歴史学的手法による研究は,ホロコー ストの「現場」となった場所の物理的性格を明らかにする考古学研究からの大きな刺激を受け,新 たな次元が開けつつある。本稿は,近年進められている東欧のホロコーストの現場(大量銃殺地, 大量埋葬地,強制・絶滅収容所など)の現地調査の状況と,ここにおいて用いられる地中レーダー (GPR)などの新しいテクノロジーによって得られる新たな知見について紹介し,歴史研究はこう した新しいアプローチから何を取り込むことができるのか考える。また,犯罪が行われた「場所」 の性格を明らかにすることは,これを取り巻く現地社会にとって何を意味するのか。さらにはこれ が必然的に含意する司法訴追の可能性についても考察する(1)。 「場所」への回帰 ナチズム/ホロコーストの歴史において,犯罪が行われた「場所」への関心は,きわめて顕著な 特徴である(2)。ヨーロッパ各地で強制収容所は国家的な記念と保存の対象となっており,これら を通した歴史教育がなされ,また「負の」観光地として現地経済の重要な収入源となっている。学 術的にも,特定の地域や行政区に特化したホロコーストの「地域研究」が増加し(3),迫害プロセ スの中で場所そのものが有した意味が明らかにされてきた。代表的にはアウシュヴィッツの個別研 究だが,特定の場所の歴史をその始まりから拡大,統合,解体,再利用,そして保存まで,その変 遷を追うことで,これがナチ時代に果たした機能,ホロコースト全体における位置,戦後の社会 における役割などが分析されてきた。地理的側面への関心は,ワシントンのホロコースト博物館 (USHMM)やイスラエルのヤド・ヴァシェムにより,強制収容所とゲットーの百科事典の刊行が 続いていることにも示されるだろう(4)。 最近ではここに地理学からのアプローチが加わった。例えば米国の歴史地理学者である A. K. ノ ウルズらは,ホロコーストの「地理情報システム(GIS: Geographical Information System)」の制 作を試みている。GIS とは地図,航空写真,人工衛星による観測データ,人口,土地利用などの統 計データなど,位置に関する複数のデータを地図上に重ね合わせる情報システムの総称であり,一 部は国や自治体により公開されており,また商業的にも利用されている。ノウルズらは,第二次世界大戦期の地理情報に,ナチ史料や,生存者証言や日記などから得られる情報を重ねてゆくことで, ホロコーストに特化した GIS を作ろうというのである。 歴史地理学的アプローチは,地図をアニメーション化し,時間の経過による変化を可視化する場 合に最も効果が高い。例えば,ノウルズらの共編著『ホロコーストの地理学』(2014)の一論考は, ドイツ占領後のブダペシュト・ゲットーにおけるユダヤ人の経験を空間的に明らかにしようと試み ている(5)。ここではユダヤ人用に指定された住居を時間軸でマッピングすることで,どの時期に どの地域にユダヤ人が集中していたか可視化する。さらに地域における非ユダヤ人の割合から,ユ ダヤ人が利用できる社会的ネットワークの有無を考慮し,その上でユダヤ人にとって重要な場所― ―食料を調達する市場,ユダヤ人が受診可能な病院,ユダヤ人に対し「保護パス」を発行したスウェー デンやスイスの公使館――などを地図上に重ねる。こうした場所までの距離,アクセスに要する時 間を計算することで,同じゲットー内でも生き延びる可能性が場所により異なっていたことを明ら かにしている。これまでユダヤ人生存者個人の経験は,むしろ偶然の連続,もしくは場当たり的な 選択の結果として理解されてきたが,ここにある程度の蓋然性もしくは生き残りのためのロジック を読み取ることが可能となるのだ。 ノウルズらは他にも行動部隊の展開と犠牲者数の相関性などもアニメーション化しており,一部 は USHMM のサイトで公開されている(6)。しかし,ホロコーストの GIS は作成に莫大なコストが かかるため,これを実用化するにはまだ時間がかかるだろう。 東欧のホロコースト現場 こうした「場所への回帰」とも呼べる流れの中で,研究が比較的手薄であったのが,東欧の絶滅 収容所や大量銃殺地などのホロコーストの現場である。中でもラインハルト作戦の絶滅収容所(ベ ウジェツ,ソビブル,トレブリンカ)は,ほぼ完全に解体・破壊され,地表が均されて植樹された 上に,偽装のための民家が建てられるなど周到な隠蔽工作が行われたこと,また文書史料もあまり 残されておらず,生還者が極端に少ないなどの理由で,多くのことは知られていない。ラインハル ト作戦の絶滅収容所で殺害されたユダヤ人の数は約 150 万人とされるが(7),これに対して生存者 の数は囚人蜂起の際の脱出があったソビブルとトレブリンカでそれぞれ約 50 人と 60 人,ベウジェ ツに至っては8人のみであり,死亡率はほぼ 100 パーセントに近い。そもそもラインハルト作戦 の絶滅収容所は,当初から殺害のみを目的として建設されたため,労働収容所も併設したアウシュ ヴィッツやマイダネクとは異なり,特定の労働を課せられたユダヤ人用のバラックを除くと,囚人 の居住空間は設けられておらず,明らかに短期間の稼働とその後の解体が予定されていた。これは, 赤軍の到着直前まで多くの囚人が暮らしていたため,残存物の多いアウシュヴィッツやマイダネク とは大きく異なる点である。
犯罪の痕跡の抹消という点では,行動部隊らによる大量銃殺・埋葬の現場についても同じことが いえる。銃殺には森林や渓谷,河川敷,墓地,もしくは以前から掘られていた穴など,地形を利用 できる場所が選ばれ,死体はそこに埋められるか,もしくは単に遺棄された。こうした「殺害現場 (killing sites)」もしくは「大量埋葬地(mass graves)」は,特に独ソ不可侵条約でソ連が併合した 地域に多い(8)。旧ソ連領内の殺害現場のマッピングを進めているイスラエルのヤド・ヴァシェム によると,現在判明しているだけで旧ソ連内には大小 2571 カ所の殺害現場があり,ウクライナと ベラルーシでその7割以上を占める(9)。しかしこうした場所も,1942 年にヒムラーがパウル・ブ ローベルに遺体の掘り起こしと焼却を命じ,犯罪の痕跡を抹消する目的で6月に「1005 作戦」が 発動した。1005 部隊は各地でユダヤ人を使って焼却作業を行い,まさに死を証言するものとして の死体も失われた。もちろん 1005 部隊もすべての痕跡を消し去るような技術もマンパワーも持ち 合わせてはいなかったため,多くの場所で埋葬地はそのまま放置された。戦後の東欧の共産主義体 制がこうした場所の管理と保存に熱心ではなかったことに加え,90 年代の自由化後の再開発もあ り,現在では正確な場所さえわからないことが多い。 ただし,こうした場所でこれまで調査が行われてこなかったわけではない。まず,ソ連の「特別 国家委員会」(10)が 1943 年よりドイツ軍が退却した地域の絶滅収容所や各地の大量埋葬地で調査 を行い,証言を集め,一部遺体を発掘し,法医学的検証も行っている。だが特別国家委員会は政治 的理由からユダヤ人犠牲者をその民族性に言及せず「ソ連市民」としてひとくくりにし,ナチ犯罪 の人種的側面を過小評価した上,調査結果は長く封印されてきた(11)。また,ポーランドでも「ポー ランドにおけるドイツの戦争犯罪の調査のための中央委員会」が 1945 / 46 年に発掘調査を行っ ている(12)。だがこうした初期の調査はきわめて短期間でなされた上,基本的には戦犯の訴追の目 的で絶滅収容所や大量埋葬地が「実際に存在し,ここで大量殺戮がなされた」ことを示すことを主 眼としていた。 また,場所の管理にも問題がないわけではなかった。まず強制収容所は戦後に軍事施設や難民収 容所,戦犯収容所として再利用され,解体と増改築が繰り返されたため,原形をとどめないことが 多い。対して絶滅収容所跡地では,比較的早い時期にメモリアルが建設されているが,遺体や遺灰 が埋まる場所の明確なマーキングがされなかったため,上を人が歩き回る設計になっていたり,地 表がコンクリートで固められたり,明らかに配慮を欠く例があった。また追悼施設が作られたから といって,その境界が本来の場所と一致するとも限らない。例えばトレブリンカでは,中心的なメ モリアルの建つ場所がガス室のあった場所と長く誤解されてきた上に,近年の現地調査で実際の絶 滅収容所の境界線は,石によって示された現在の境界線より北にあったことが判明している(13)。 隠蔽工作ゆえに収容所の境界が曖昧であったことに加え,戦後の土地利用や再開発の中で引かれた 境界が本来のそれと錯覚され,史実と相容れない歴史的ナラティヴを生む原因となった例である。
ホロコーストの現場をめぐるこうした長年の放置や怠慢が,考古学的な再調査が近年進む背景に ある。90 年代以降,新しいメモリアルや記念館を建設するにあたり,施設の構造や正確な配置を 示す詳細な地図の作成が求められた。ここにおいて地上にはもはや当時の痕跡が残されていなかっ たため,地中へと目が向けられたのである。 新しいテクノロジーによる考古学的調査 過去 20 年ほど,ドイツ支配下に存在した主な強制収容所で考古学的な発掘調査が行われてきた (ヴェスターボルク,マウトハウゼン,ザクセンハウゼン,ブーヘンヴァルト,ダッハウ他多数)(14)。 多少遅れて,東欧の絶滅収容所でも再調査が始まった。まずヘウムノでは 1980 年代末より数回に わたり調査が行われ,次に 2000 年前後にベウジェツとソビブルで大規模なボーリング調査がなさ れている(15)。トレブリンカでは 2007 年よりイギリスのスタッフォードシャー大学の考古学チー ムが入り,ソビブルではイスラエルとポーランドの合同チームにより同年再調査が開始された。大 量埋葬地に関しては,後述するリトアニアのポナリで調査が進行中である。 考古学といえば,地中に埋まった古代の遺物を掘り起こしてゆくイメージがあるが,調査環境 は新しい技術の導入により近年大きく変化している。掘り返さずとも一定の情報の取得を可能と する,非侵襲的・非破壊的技術が発達したのである。最も注目されているのが,GPR(Ground Penetrating Radar:地中レーダー)である。電波を地中に照射し,反射波が戻ってくるまでの時間 や方向から,目標物の形状や地下構造を高速かつ高精度に分析できる。一定区域を地表からスキャ ンしデータを集めることで,地下構造の3Dモデルを得ることができるため,考古学においては地 中に埋没した建築物や地下墓所などの空洞を見つけるのに適している。GPR は代表的な非破壊的 技術であり,この点は後述するが,宗教的観点からホロコースト現場の調査において大きな意味を 持つ。ただし,GPR を用いて見つかるのはむしろ地層の乱れであり,大量埋葬地の人骨をレーダー が捉えることはできない。つまり死体の遺棄などの目的で掘られた穴や溝の大きさや形,深さなど がわかるが,実際に遺骨があるかどうかは発掘するまで確定しない(写真①)。 したがって,GPR はほかの技術と組み合わせて利用することで,より精度の高い情報を得るこ とができる。例えば,ライダー(LiDAR:light detection and ranging:光検出と測距)と呼ばれる, 光を用いたリモートセンシング技術がある。飛行機などで上空からパルス状に発光するレーザー照 射を行い,遠距離にある対象までの距離や対象物の性質を分析する(16)。1秒間に2万~ 10 万の 地点の測定が可能なため,土地の高低や陥没,突起など,広範囲な地理情報が明らかになる。ライ ダーの利点は,大量埋葬地が森林地帯や山間部にあるような場合,航空写真からは場所は分からず, また現場へのアクセスも困難だが,レーザー光線は森を貫通するため,木などの地表の障害物を取 り除いた地表そのものの形状を示す立体地図を得ることができる。つまり人為的な力により生まれ
た地表の高低差が可視化される。大量埋葬地は遺体の分解により陥没するが,こうした不規則性を 見つけることで,場所を特定することができるのである(写真②上中下)。実際に,2013 年にな されたトレブリンカにおけるライダー調査により,それまで知られていなかった埋葬地の存在が判 明している(17)。 もちろん,こうした技術にも弱点があり,GPR は現場の地形(山林地帯か平原か,岩や木など の障害物が多いか等)や地質(粘土層があるか,水が多く含まれるか等)によっては利用できない こともある。また,ライダーによる調査はコストが高いため,広域で実施することはできない。し たがってこうした技術は本質的に相互補完的に利用される。他には,地中に電流を流して抵抗値を 測定し,建物のコンクリートの土台など,強い抵抗を示す物体の存在もしくはその不在を見つける 比抵抗トモグラフィー(ERT : electrical resistivity tomography)や,磁力計を用いて鉄製の物質や 燃焼によって生じた地磁気の乱れを捉える磁気測定法(magnetometry)等がある(18)。また,銃殺
現場に残された薬莢に反応する金属探知機のような,古典的な機器も使われる。
写真①ドイツ軍の戦争捕虜収容所(Stalag 328,リヴィウ)の一角。大量埋葬地と推定される場所の GPR による地中 0.68m の平面図。テニスコートを斜めに走る白い帯のようなものとして捉えられてい るのが,大量埋葬地。(提供:http://www.geoscope-services.co.uk)
前述のように,こうした技術は地中の遺物や不規則性を 指し示すが,人骨の存在自体を可視化するわけではない。 データの「解釈」はあくまで人に任されており,したがっ て調査の前提は歴史学的知識の蓄積である。ドイツ側の文 書史料,生存者証言,終戦直後の調査報告書,裁判記録― ―まずこうした既存の情報を精査し,その上で物理的な情 報を集める。例えば軍や諜報機関により撮影された当時の 航空写真に,ドローンによる現在の写真を重ね,地表の陥 没具合や植生の変化なども考慮して(土を掘り返したため 土壌が空気を多く含む場所では,たいてい植生に変化が生 じる),大量埋葬地のおおよその位置を絞り込む。その上 に GPR やライダーで得られた情報をのせてゆくのである。 これらは GPS(全地球測位システム)と連動しており,正 確な位置も記録される。 場所の情報は,前述した地理情報システム(GIS)の巨 大データと接続すると,より総合的な理解が可能となる。 殺害・遺棄の現場となった場所の地理情報が GIS を通して 入手可能であれば,かなり時間の節約になるだろう。しか し軍事的な理由から地理情報が公開されない場所もあるた め,基本は個別の現地調査であり,最後はやはり発掘調査 に頼ることとなる。 このような調査は,歴史学においては長く知られていな がら,確定することができなかった事柄を,まさに物証で もって示すことを可能としている。例えば,ソビブルに は,「天国への道(Himmelsfahrtstraße)」と呼ばれたガス 室に直結する通路があったことが生存者証言から知られて いた。この通路は途中でほぼ直角に曲がり,追い立てられる犠牲者にはガス室へと向かっているこ とが分からないようになっていた。この痕跡が 2011 年に発見され,2014 年にはその先にあった と考えられてきたガス室のレンガが出土し,場所が確定している(19)。 より最近の例では,ヴィルニュス郊外のポナリ(パネレイ)の森における脱出トンネルの発見が ある。ポナリでは,ソ連が燃料貯蔵のために掘った直径 20 ~ 30 メートル,深さ7~8メートル の巨大な穴が複数存在し,ここで約 10 万人の民間人が殺害された。1943 年より,1005 部隊によっ 写真②上:トレブリンカの上空写真,中: 同じ場所のライダーによる立体地図, 下:立体地図の拡大上に読み取れる大 量埋葬地の陥没。(Colls, p.144, 146.)
て埋められていた遺体が掘り起こされ,6万体ほどが焼却されている。この時死体の焼却作業をさ せられたのが主にユダヤ人からなる特ゾ ン ダ ー コ マ ン ド別労務班であったが,彼らが住まわされていた穴からスプー ンなどを使って脱出トンネルが掘られ,実際に 1944 年4月に 80 名ほどが脱出し,大半がすぐに 発見されて殺害されたが,うち十数名が生きながらえて終戦を迎えている。このため,脱出トンネ ルの存在は知られていたものの,その後トンネルは崩壊し埋まってしまったため,場所が特定でき なくなっていた。そのトンネル跡が,リトアニアとイスラエルの調査チームにより 2016 年に発見 された(写真③)。GPR や比抵抗トモグラフィーを使うことで,地中に延びたトンネルの跡を地中 の「乱れ」として捉えることができた例である。 リトアニアのチームによるポナリ一帯の調査が続いているが,新しい技術を用いることによりこ れまで知られていなかった興味深い事実がいくつか明らかになっている。例えば,これまで銃殺に 使われた穴は5つ,死体を燃やした穴は1つと考えられてきたが,実際には8つの穴が銃殺に使わ れ,その他に長方形に掘られた長い溝が3箇所使われたこと,焼却のための一つの大きな穴に加え て,18 箇所で焼却が行われたことなどである。さらに当時の航空写真と現在の写真を重ねて一帯 を分析すると,鉄道や幹線道路への接続,看守の宿舎の配置,埋葬地の広がりなどから,ポナリは 写真③ポナリの脱出トンネルの出口周辺。地上からは判別できない(筆者撮影,2017 年3月)。
これまで信じられていたような,森の中の人知れぬ銃殺地であったのではなく,実際には一大殺人 工場と呼べる規模と構造を有していたことが明らかになってきたという。現にメモリアルのある場 所は 19 ヘクタールに過ぎないが,殺人工場としてのポナリは 86 ヘクタールに及んだ(20)。 このように,考古学的なアプローチから歴史学が得るものは多い。例えば,地中のガス室の遺物 の素材からは,これらが長期的な稼働を意図していたか,それとも暫定的な施設であったのかが分 かるし,また土台からその上部構造の大きさがわかれば,一日に何人ほどが殺害されたかある程度 推測することができる。強制収容所においてトイレと確定できる場所が極端に少なかったならば, それはその場所の不衛生な状況,疫病の蔓延の可能性を示すだろう。さらに土壌に残る科学的な痕 跡を調べれば,遺体の腐敗を進めるために石灰などの薬品が使用されたか,遺体の焼却がなされた か等,ナチによる隠蔽の試みについても判明する。つまり,考古学的調査は,歴史研究がこれまで 史料や証言から推論してきた事柄に対し,物理的な裏付けを与えるものなのである。 宗教的観点からの懸念 理論的には,新しい技術を用いた上で実際の発掘調査を行えば,殺害前後の状況について多くの ことが分かる。このため大量埋葬地に眠る犠牲者数など,長い論争に決着をつける可能性もある。 ところが,ホロコースト研究における考古学的調査の最大の障害となっているのが,実は宗教的理 由による禁止である。 ユダヤ教では,死者の眠りは永遠に妨げてはならないとされる。したがって墓地から遺体や遺骨 を掘り出して他の場所に移したりすることは禁じられている。死者の眠る場所は「永遠なる家」で あり,死者が所有するという理解から,どのような経緯でそこが墓所となったにせよ,遺骨の移転 は原則認められない。例外的に移転が認められるのは,移転がなされなかった場合,墓所が完全に 破壊される,もしくは崩落や冠水などの自然災害によって露出や紛失の危険があるなどの場合のみ である。ユダヤ人共同体は墓地の不動性を確保するために,大量埋葬地の自治体や国による管理を 訴え,不可能ならば自ら地所を買い取り,墓所として維持してきたのである。 このためユダヤ教の宗教的権威は,原則的に絶滅収容所や大量埋葬地の発掘調査を認めない(ソ ビブルは例外的に許可が下りた)。例えば,ポーランドのイェドヴァブネだが,この村におけるユ ダヤ人虐殺の実行者がドイツ人であったかポーランド人であったか長く論争が続き,ヤン・グロス の『隣人たち』(2001)の出版により,ポーランドは自らの歴史の再検証を強いられたことは知ら れているだろう。この本をきっかけに犠牲者数の確定と遺骨の移転が要請されたが,発掘調査は人 骨が出た時点でストップされ,最上層の人骨の写真撮影はなされたものの,それ以上掘り進められ ることなく墓所は閉じられた(21)。本来この調査の目的は,犠牲者の正確な数を知り,可能であれ ば犯罪者も訴追することにあったが,新たな訴追はなされず,死者数も確定していない。
宗教的観点からの規制は,欧州評議会の議員会議が 2012 年5月に決議第 1883 号で,ユダヤ人 墓地(埋葬地)の管理,維持,保護,そして修復を進めることを確認したことで,ヨーロッパの半 ば公的な指針となった。そこでは,ユダヤ教徒の墓地と大量埋葬地は,ヨーロッパの文化遺産であ ることがうたわれ,宗教戒律にのっとって死者の眠りが守られることは,広義における人間の尊厳 に関わるものであり,会議はその保護に責任を負うとする(22)。これはユダヤ人住民がもはやいな い東欧の村々などで,ユダヤ人墓地が荒れるに任され,大量埋葬地を含む場所で商業的開発が進め られる現状を憂慮したものだが,ラビはこの決議を根拠に,発掘調査は行政的にも禁じられたと見 なしている。決議に法的な拘束力はないものの,東欧諸国でもユダヤ人の意向を無視して発掘や開 発を行うことは政治的にも困難であり,学術調査も宗教的な要請に配慮した形で進められる。この ため GPR のような,発掘を回避できる技術の重要性が高まる。前述のポナリでも,調査はラビの 監督の下で行われており,人骨や遺灰の層が出た時点で発掘は中止される。 「現場」を取り巻く社会 本稿で紹介した技術がホロコースト現場の調査に応用されるようになったのは最近のことである が,犯罪捜査や法考古学(Forensic Archaeology)の分野では,早くから利用されてきた。例を挙 げると,90 年代のユーゴスラヴィア内戦時の大量埋葬地の発掘や,ルワンダ・ジェノサイドの検 証などに役立っている。こうした事例では刑事訴追の可能性が必然的に含意されるために,社会に 対する調査の意義はきわめて現在的だ。これに対しユダヤ人殺害の場合,出来事からの時間的距離 が大きいために,犯罪に関与した者が検挙される可能性は低い。しかし,その中でもルーマニアは, 現在もホロコーストは解明されるべき「殺人事件」であるという立場に立っている。この国では遺 体・人骨が発見された場合,それがいつの時代のものであれ,また事件性があるか不明な場合でも, 刑事捜査の対象となる。現に,2010 年にヤーシ近郊で第二次世界大戦中のものとされる大量埋葬 地が発見され,発掘調査の結果,子供を含む 36 体の遺骨が出土し,犠牲者がユダヤ人であったこと, 虐殺の実行者がルーマニア兵であったことが確定している(23)。ルーマニアは 1968 年に国連が採 択した「戦争犯罪及び人道に対する罪に対する時効不適用に関する条約」(時効不適用条約)の締 約国であり,これらの犯罪には国内法でも時効が廃止されており,加害者が存命している場合は, 現在も訴追対象となる。 また,加害者・犠牲者・傍観者というヒルバーグの三分類からすると,ホロコーストの現場につ いて知ることは,とりわけ傍観者であった東欧の現地住民に対する理解を深めると思われる。例え ば,大量銃殺地・埋葬地は村からどれくらいの距離があるのか。村の外れなのか,交通の要所なの か,元来あまり人が行かない場所なのか。ユダヤ人の処刑を,村人は目撃し得たのか。現地住民は, 時にホロコーストの間接的受益者であったとされるが,彼らは実際にホロコーストをどのように体
験したのか。また,戦後その場所は人々の生活においてどのような意味を持ったのだろうか。例え ば,絶滅収容所跡地では,ドイツ軍退却直後から村人が周辺を掘り返して,金歯や指輪など金目の ものを探したことが知られているし,現在でも貴金属目当ての「盗掘」は少なくないそうだ(24)。 つまり現場に着目することで,加害者・犠牲者・傍観者の関係性について新たな視座を得ること ができると思われる。現在,ホロコーストの当事者世代の物理的消滅を目前に,東欧各地で様々な 団体により大量埋葬地のマーキングとメモリアルの設置が進んでいる。中でも,旧ソ連内に点在 する大量埋葬地の場所を確定し,記録し,現地の目撃証言を収集しているのが,フランス人司祭パ トリック・デボワが始めた NGO,ヤハッド・イン・ウナム(Yahad In Unum)である。2004 年に 設立され,パリに拠点を置くヤハッドは,現在まで 2500 を超えるオーラルヒストリーを集め,大 量埋葬地の正確なマッピングを試みている。これまでオーラルヒストリーの対象となってきたのは もっぱら犠牲者であったが,ヤハッドが集めた現地住民の声からは,また異なるホロコースト像が 浮かんでくる。例えば,たいていの村や町でユダヤ人の処刑は公然と行われ,その際に多くの現地 住民が埋葬地の準備や集められたユダヤ人の監視,ドイツ人とその協力者への食事の提供,殺害後 の所持品の分別や穴の埋め立てなどに駆り出されていた事実である(25)。もちろんそこで住民がユ ダヤ人の所持品をわが物とすることは実際に発生したわけだが,こうした強いられた関与は,犠牲 者中心的にならざるを得なかった歴史的ナラティヴを修正するかもしれない。またデボワは,当時 を知る村人により犯罪の場所が正確に記憶されており,世代が代わっても埋葬地は一種のタブー として,子供が遊んではならない場所や不幸をもたらす場所として忌避され,「ユダヤ人の上の森」 などと呼ばれていたと記している(26)。長く訪れる者もなかったユダヤ人の大量埋葬地に印をつけ, 記念することは,犠牲者のみならず,その場所と共に生きてきた人々にとっても,遅れてきた「弔 い」であり,過去と現在と未来をつなぐ行為であるといえるだろう。 最後に,犯罪の現場に関する知識は,いわゆる歴史修正主義に対する防波堤としての役割も果た すかもしれない。歴史学は,ホロコースト否定やナチズムの矮小化など,確信犯的な行為を封じ込 める手段としては十分に機能してこなかった。それゆえにヨーロッパ諸国は,ホロコースト否定を 刑事処罰の対象として,修正主義者の発言を法で封じざるを得ない(27)。ここにおいて考古学が提 供する「可視的」かつ「科学的」データの意味は大きい。データの解釈は人に任せられているとは いえ,一定の条件下ならば類似の結果をもたらす技術は,必然的に曲解の余地を減じさせる。もち ろんこうした技術をもってしても修正主義に「とどめを刺す」ことはできないが,ホロコーストに 関する限り,考古学的アプローチが歴史研究の援護射撃となることは間違いない。
註
(1) 本 稿 は,2017 年 3 月 22 日,23 日 に リ ト ア ニ ア の ヴ ィ ル ニ ュ ス で 開 催 さ れ た IHRA (International Holocaust Remembrance Alliance) の国際会議,“As Mass Murder Began: Identifying and Remembering the Killing Sites of Summer-Fall 1941” に参加して得られた知見を取り入れている。IHRA(国際ホロコースト 記憶アライアンス)とは,2000 年にストックホルムで欧米諸国の首脳級クラスが参加するホロコースト教 育に関する国際会議が開催された際,各国の代表により構成される暫定的なタスクフォースとして始まり, 2012 年より IHRA として永続的な活動を行う団体となった。現在の参加国は 31 カ国で,事務局はベルリ ンにあるが,議長国は参加国の持ち回りとなっている。 (2) 本稿では,「現場」を実際に殺害や死体の遺棄がなされた物理的場として捉え,これに対し歴史的な記憶の 研究等でよく用いられる「場所(Ort/lieu/place)」は,「現場」を含む上部概念として,より広域かつ社会 的な次元を有するものとして使っている。 (3) ダン・ストーン著,武井彩佳訳『ホロコースト・スタディーズ―最新研究への手引き』白水社,2012 年, 94 - 100 頁。
(4) Geoffrey P. Megargee et. al. ed., The United States Holocaust Memorial Museum Encyclopedia of Camps and Ghettos, 1933-1945, Indiana UP, 2009-; Guy Miron, ed., The Yad Vashem Encyclopedia of the Ghettos during the Holocaust, New York: New York UP, 2010.
(5) Tim Cole/Alberto Girodano, “Bringing the Ghetto to the Jews: Spatialities of Ghettoization in Budapest,” in: Anne Kelly Knowles/Tim Cole/Alberto Girodano, ed., Geography of the Holocaust, Bloomington: Indiana UP, 2016, pp.120-157. 地理的視点からナチ体制を分析する Paolo Giaccaria/Claudio Minca, ed., Hitler’s Geographies: Spatialities of the Third Reich, Chicago: Chicago UP, 2016 も参照。.
(6) https://www.ushmm.org/learn/mapping-initiatives/geographies-of-the-holocaust.(2017 年7月 25 日最終 検索)
(7) 150 万人は保守的な数であり,絶滅収容所へ送られる過程で死亡した者も含めると,ラインハルト作戦の犠 牲者数は 180 万人程とされる。参照,Stephan Lehnstaedt, Der Kern des Holocaust: Bełz4
ec, Sobibór, Treblinka und die Aktion Reinhardt, München: C.H. Beck, 2017, S.185.
(8) IHRA は「殺害現場」の定義として,10 人以上の人間が殺害され,遺棄・埋葬された場所としている。 (9) http://www.yadvashem.org/research/research-projects/killing-sites/killing-sites-catalog(2017年7月 18 日
最終検索)
(10) 特別国家委員会の正式名称は,「ドイツ人ファシスト占領者とその共犯者がソ連領土で行った残虐行為と, ソ連市民・コルホーズ・公共団体・国営企業に対する損害を調査するための特別国家委員会」(Cherezvichainaya Gosudarstvennaya Kommissiya po ustanovleniyu i rassledovaniyu zlodeyanii nemetsko-fashistskich zachvatchikov i ich soobshnikov i prichinennogo imi usherba grazhdanam, obshestvennim organizaziyam, gosudarstvennim predpriyatiyam i uchrezhdeniyam SSSR) .
11) 参照,Kiril Feferman, “Soviet Investigation of Nazi Crimes in the USSR: Documenting the Holocaust,” Journal of Genocide Research, 5(4), 2003.
(12) 原語は Główna Komisja Badania Zbrodni Niemieckich w Polsce.
(13) 後述するスタッフォードシャー大学による考古学的調査により判明し,現在ではトレブリンカの資料館では 新しい知見に基づいたパネル展示がなされている。
Historische Archäologie, 2.2010, pp.1-14; Caroline Sturdy Colls, Holocaust Archaeologies: Approaches and Future Directions, London: Springer, 2014, pp.35-40.
(15) 参照,Isaac Gilead/Yoram Haimi/Wojciech Mazurek, “Excavating Nazi Extermination Centers”, Present Past, vol.1, 2009.
(16) 日常における応用としては,車の自動運転システムがある。周囲を高速スキャンすることで距離を測り,衝 突を避ける。
(17) Colls, op.cit., p.145 (18) Colls, chap.7 を参照。
(19) ガス室の一部の発見は,世界的なニュースとなった。例えば,“A Voice for the Dead: Recovering the Lost History of Sobibor,” Spiegel Online, Sept.26, 2014.(2017 年7月 20 日最終検索)
(20) 3月 22 / 23 日の IHRA 会議でのリトアニア文部省文化遺産課による報告と,24 日のポナリ訪問の際の説 明より。
(21) International Holocaust Remembrance Alliance, ed., Killing Sites: Research and Remembrance, Berlin: Metropol, 2015, p.83.
(22) Council of Europe, Parliamentary Assembly, Resolution 1883, adopted on 25 May 2012.
(23) Irinel Rotariu, “The Popricani Mass Grave. Legal Survey”, Institutul Nat¸ional pentru Studierea Holocaustului din România “Elie Wiesel”, HOLOCAUST STUDII S¸I CERCETǍRI, Vol. III, Nr. I (9), 2016.
(24) 例 え ば 次 を 参 照。Jan Gross, Golden Harvest: Events at the Periphery of the Holocaust, Oxford: Oxford UP, 2012; Gilead/Haimi/Mazurek, op.cit., p.15.
(25) ヤハッドのリサーチ部門を統括する P. ベンシモン氏も,2017 年8月 21 日の筆者とのインタヴューにおい てこうした側面を強調した。証言ビデオは,ヤハッドの HP から依頼すればリンクを送ってくれる(http:// www.yahadinunum.org/)。
(26) Patrick Desbois, Der vergessene Holocaust: Die Ermordung der ukrainischen Juden. Eine Spurensuche, Berlin: Berlin Verlag, 2009, p.74.
(27) 各国におけるホロコースト否定の刑事処罰については,武井彩佳『<和解>のリアルポリティクス―ドイツ 人とユダヤ人』みすず書房,2017 年,132 - 147 頁。