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第 12 回主観的と主体的 主体的 は肯定的 主観的 は否定的? 通常の日本語の中で 主観的な考え という表現と 主体的な考え とい表現は かなり異なった意図で用いられているのではないだろうか 実際 あの人は主観的に物事をとらえる という文と あの人は主体的に物事をとらえる という二文を比べると 主

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第12回 主観的と主体的 ●「主体的」は肯定的、「主観的」は否定的? 通常の日本語の中で、「主観的な考え」という表現と、「主体的な考え」とい 表現は、かなり異なった意図で用いられているのではないだろうか。 実際、「あの人は主観的に物事をとらえる」という文と、「あの人は主体的に 物事をとらえる」という二文を比べると、「主観的」と「主体的」との相違が実 感できるだろう。つまり、「主体的」という語が肯定的な印象を与えるのとは対 照的に、「主観的」という表現には、むしろ否定的あるいは限定的な響きが伴う のである。 現に、「主観的」の用法に関しては、『使い方の分かる類語例解辞典』(小学館) の中で、「主観的な考えに陥る」という否定的な意味合いの例文が紹介されてい る。 これに対して、「主体的」という語に「陥る」という否定的な表現が結び付く ことは―—少なくとも通常の日本語用法において―—希有だと言えよう。 ただし、「主体的」と「主観的」の区別は、いつも明確であるわけではない。 その点を確認するために、「慎太郎さんは、他人の意見に耳を貸さず、自分の主 観で考える」という文と、「慎太郎さんは、他人の意見に惑わされず、自ら主体 的に考える」という文とを比べて考えてみよう。深く考えれば考えるほど、こ の両文の異同は曖昧だと感じられるに違いない。この場合、「主体的」と「主観 的」の違いは、それらに形容される「考え」自体の中にではなく、それを言葉 に表す者の受け止め方にあるとさえ思えるのである。 ●西洋語では同じ単語 なるほど、日常的な言語使用の中では、多くの単語が深い吟味を欠いたまま 流通している。だから、「主体的」と「主観的」の区別が曖昧であることもまた、 単に不正確な言語使用に起因すると思われるかも知れない。では、正しい日本 語において、「主体的」と「主観的」は、どのように定義されているのだろうか。 その点に関して、まずは『広辞苑』(第六版)の記述を参照しておこう。 【主体的】①ある活動や思考などをなす時、その主体になって働きかけるさま。 他のものによって導かれるのではなく、自己の純粋な立場において行うさま。「—

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な判断」「—に行動する」②「主観的」に同じ。 【主観的】主観による価値を第一に重んずるさま。主観に基づくさま。②俗に、 自分ひとりの考えや感じ方にかたよる態度であること。 もちろん、『広辞苑』による上記の解説は、国語辞典として何ら誤りではない のだろう。実際、それぞれの項目を単独で読めば、特に大きな疑問は感じられ まい。しかしながら、両者を読み比べてみると、その相違が分かりにくいのだ。 例えば、「他のものによって導かれるのではなく」(主体的)と、「主観による 価値を第一に重んずる」(主観的)とは、何がどう違うのであろうか。あるいは、 「自己の純粋な立場」(主体的)と、「自分ひとりの考えや感じ方」(主観的)は、 具体的にどう区別すれば良いのだろうか。 はっきり言ってしまえば、そんな区別は、非常に曖昧なものでしか有り得な いのだ。要するに、たとえ『広辞苑』で正しい語義を調べたところで、「主体的」 と「主観的」の相違を明確に説明するのは、それほど容易なことではないので ある。 この困難もまた、翻訳語を多用する日本語の宿命と無縁ではない。元を辿れ ば、「主観」も「主体」も、英語の「subject」やフランス語の「sujet」やドイ ツ語の「Subjekt」などの翻訳語であり、西洋語では同一単語なのである。おそ らく、『広辞苑』による「主体的」の語義②が、「『主観的』に同じ」となってい るのも、この事実を反映しているのであろう。とは言え、日本語の中で、「主観 的」と「主体的」との差異は、常に不明確だということも出来ない。むしろ、 多くの用例において、「主体的」と「主観的」は、互いに区別されている。先に 示したとおり、「主観的な考えに陥る」という表現は成立しても、「主体的な考 えに陥る」とは言わないのである。 ●漢語にもある「主体」 この問題を考えるに当たっては、「主観」と「主体」の意味を、基礎から再考 しておく必要があるだろう。その際、日本語を母語とする現代人にとって把握 し難いのは、「主観(的)」よりも、むしろ「主体(的)」であると思われる。た しかに、「主体」という語もまた、「主観」と同様、英語の「subject」やフラン ス語の「sujet」やドイツ語の「Subjekt」の翻訳語であるには違いない。 しかしながら、「主体」という単語そのものは漢語にも存在しており、古くか

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ら日本語にも入り込んでいた。そのことが、日本語の中で、「主体」という単語 の解釈を却って複雑にしてしまっているのである。 漢語の「主体」は、「君主の地位」という語義の他に、「主なもの、中心的部 分」といった意味を持つ。となると、『広辞苑』による「主体的」の語義①に、 「ある活動や思考などをなす時、その主体になって働きかけるさま」と記され ている事情が、何となく読み取れよう。なぜなら、この文の「主体」という箇 所を「中心的部分」と読み替えても、ほぼ同一の内容になるからである。この ことから見て、『広辞苑』による「主体的」という語の定義は、明らかに漢語か らの影響を含んでいると思われるのである。 なるほど、「主なもの、中心的部分」といった概念は、西洋語の「subject(英) /sujet(仏)/Subjekt(独)」等の名辞に少しばかり重なると言えなくもない。 だからこそ、その訳語の一つとして「主体」という漢語が選ばれたのであろう。 しかしながら、「subject」等々の訳語として、「主なもの、中心的部分」を意味 する「主体」を宛てるのは、やはり誤解を招く危険性の方が高い。そのことは、 「主なもの、中心的部分」の対義辞を考えてみれば理解し易い。具体的に例示 するならば、「主なもの、中心的部分」と対をなすのは、「付随するもの、周辺 的部分」といった事柄になろう。だが、翻訳語としての「主体」と対をなすの は、そんな事柄ではないのである。 周知のとおり、翻訳語としての「主体(的)」や「主観(的)」は、一語単独 で把握すべき単語ではない。周知のとおり、「主体」には「客体」という対義語 があり、「主観」には「客観」という対義語がある。要するに、西洋語からの翻 訳の場合、「主」と「客」が対なのだ。もちろん、この対義関係は、「中心」と 「周辺」といった区別と同じではない。つまり、「客観」との区別なしに「主観」 という語を定義することは出来ないし、「客体」との対比を抜きにして「主体」 という語を理解することは出来ないということなのである。 ●「主体的」はあっても、「客体的」はない おそらく、「主」と「客」の対義関係にしても、それが「主観的」と「客観的」 という―—認識論的な区分に基づく―—形で現れる場合は、普通の日本語の中で 把握することも難しくないだろう。だが、「主体的」の対義語を考えた場合は、 そうはゆかない。なるほど、型通りに言えば、「主体的」と対をなすのは「客体 的」だということになる。しかし、『広辞苑』(第六版)にも『大辞林』(第三版)

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にも「客体的」という項目は存在しないのだ。早い話、「客体的」という語は、 通常の日本語ではないのである。実際、哲学的な専門知識でも持ち出さない限 り、「客体的」なる日本語の意味を明確に規定することは不可能であろう。 歴史的に見ても、「subject(英)/sujet(仏)/Subjekt(独)」の和訳とし て、当初から「主体」という語が用いられていたわけではないし、「object(英) /objet(仏)/Objekt(独)」の和訳として「客体」という語が採用されていた わけでもない。例えば、一八八四(明治一七)年に再版された『改訂増補 哲学 字彙』を見ると、それらに関係する項目は、以下のようになっている。 subject:心、主観、題目、主意(論) subjective:主観的、心界的 object:物、志向、正鵠、客観、物象 objective:客観的、物界的 読めば明らかなように、「subject /subjective」は「主体(的)」とは訳され ていなかったし、「object /objective」の訳語は「客体(的)」ではなかったの である。むしろ、明治期の辞典の中で、「subject /subjective」と「object / objective」 は、「心(意識)」と「物」という対立軸で区別されていたことが見 て取れよう。この視点は、ある意味で、極めて的を射たものであった。西洋哲 学に由来する主客二元論を、明治前期にありながら、確実に捉えていたと言え るからである。しかしながら、そこで採用されていた訳語は、「主体」と「客体」 ではなかった。 ●「主体的」に含まれている意味 ここで、二一世紀の英和辞典————三省堂『コンサイス英和辞典(第13版)』 ————で名詞の「subject」を調べると、そこには、たしかに「〖哲〗主体、主観、 自我……」という語義が示されている。しかしながら、この辞典の「subjective」 の語義の中には、「主観の」や「主観的な」が登場する一方で、「主体(の/な /的)」という文字は見当たらないのである。実際、「subjective(英)/subjectif (仏)/subjektiv(独)」といった形容詞に対して、今日の日本語でいう「主体 的」という訳語を宛てるのは、少しばかり違和感を覚えざるを得ない。 例えば、英語の「subjective judgment」を和訳する際は、「主体的判断」より

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も、「主観的判断」の方が原意に近いと思われるの。あるいは、「慎太郎さんは、 他人の意見に惑わされず、自ら主体的に考える」という文の中の「主体的に」 という部分を英訳する際も、「subjectively」ではなく、むしろ「independently (独立的に)」や「voluntarily(自由意志で)」といった語を宛てる方が妥当で あろう。 結局、今日の日本語の中で常用される「主体的」という単語は、「subjective (英)/subjectif(仏)/subjektiv(独)」の――少なくとも直接的な――翻訳 語ではないと考えられる。なるほど、「主体」という日本語は、「subject(英) /sujet(仏)/Subjekt(独)」の訳語の一つであるに違いない。その点に関し て、『広辞苑』(第六版)は、「主体」の項目の中で次のように記している。 主観と同意味で、認識し、行為し、評価する我をさすが、主観を主として認 識主観の意味に用いる傾向があるので、個体性・実践性・身体性を強調するた めに、この訳語を用いるに至った。 いささか難解な解説であるが、結局のところ、主観の「観」という字が与え る印象が問題だったのであろう。すなわち――大雑把に言えばヘーゲル以後― ―「subject/Subjekt」に「個体性・実践性・身体性」といった含意が追加され たにも関わらず、「観察」や「観戦」や「観客」の「観」では、それを表現でき ないというわけである。 しかし、「subject/Subjekt」に追補された「個体性・実践性・身体性」とい った事柄は、自発性や積極性と同じではない。そのことは、特に哲学的な専門 知識を持ち出さなくとも、各語を注意深く眺めれば納得できるだろう。つまり、 「subject/Subjekt」が持つ「個体性・実践性・身体性」という含意は、今日の 日本語で言う「主体的」とは異なるものなのである。 おそらく、「主体的」という日本語は、「subject(英)/sujet(仏)/Subjekt (独)」の訳語として採用された「主体」から————日本語の内部において————派 生したものであるに違いない。となると、「主体的(な)」という語が、「subjective (英)/subjectif(仏)/subjektiv(独)」の直接的な翻訳語ではないことも理 解できよう。先述のとおり、日本語の「主体」には、「主なもの、中心的部分」 という漢語起源の意味が伴っている。そのことが、「主体的」という語に、「あ る活動や思考などをなす時、その主体になって働きかけるさま」という意味を

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与える契機になったと思われるのである。 ●本質は「下に置かれたもの」 いずれにせよ、通常の日本語の中で、「主観」と「主体」は、かなり異なった 語感を持っている。さらに、「的(てき)」を付けた場合は、その違いが強調さ れよう。これに対して、西洋語では、なぜ「主観」と「主体」が同一語で表現 されるのであろうか。その理由を知るために、今度は西洋語の側から「subjective (英)/subjectif(仏)/subjektiv(独)」等の意味を考えてみよう。 先出の『コンサイス英和辞典』で名詞の「subject」を調べると、その第一の 語義は、「臣民、臣下、領民、従属国の人民」となっている。これに対して、「主 体、主観」は、第六番目の語義なのである。この語義配列は、現代の使用頻度 順ではなく、古い意味から順に並べたものであろう。事実、「subject」の第一語 義に「臣民、臣下…」に宛てるのは、語源に照らしても自然である。 語源的に遡ると、「subject(英)/sujet(仏)/Subjekt(独)」は、ギリシ ャ語の「hypokeimenon」に由来しており、その原意を一語で言うと、「下に置 かれたもの」ということになろう。この「hypokeimenon」が、ラテン語では形 容詞の「subjectus」や動詞の「subjecio」、後には名詞の「subjectum」へと変 化してゆく。もちろん、ラテン語の「subjectus」もまた、「下に置かれた」とい う語義を受け継いでいる。 ※言語学的に見れば、「subject/sujet/Subjekt」には「主語」という意味がある。こちらは、 「subjectus」ではなく、むしろ名詞の「subjectum」に由来する語義である。また、「主題、題 目、テーマ」という語義も、「subjectum」の系列に属する。なお、哲学的な専門用語の世界で は、「subjective/subjectif/subjektiv」の訳語として「主体的」が採用されている。 となると、『コンサイス英和辞典』が、「subject」の第一の語義として「臣民、 臣下、領民、従属国の人民」を挙げている理由が理解できるであろう。それら は、まさに「下に置かれたもの」だからである。 その一方、「下に置かれたもの」は「台座、土台、基体、基礎」でもあり、そ こから「基本、根本、本来、本質」という意味が派生してゆく。ここまで来る と、もう「主観」や「主体」と紙一重であろう。そららは、まさに「本質」に 関わるものだからである。

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以上に挙げた事実を眺めてみると、西洋語の「subject(英)/sujet(仏)/ Subjekt(独)」もまた、実に多義的であることが理解できよう。実際、『コンサ イス英和辞典』は、「subject」の訳語として、題目、話題、科目、原因、理由と いったものも挙げられている。日本語を母語とする者は、たいていの場合、そ れらの訳語の間にある関連性が呑み込めず、ひたすら棒暗記しなければならな い。だが、例えばフランス語を母語とする者なら、 「sujet」という語が、「sub-(下/従)」という接頭辞と「jeter(置く/投入する)」との結合に由来すると 教えられれば、その語義を、ある程度は直感的に把握することが出来るだろう。 これに対して、今日の日本語で常用される「主体的」という語の意味は、多 義的であるというよりも、かなり曖昧なのである。この曖昧性は、日本語の中 で語源や由来を追跡しても解消されない。これもまた、多くの漢語や西洋語を、 よく呑み込めないまま輸入せざるを得なかった日本語の宿命なのであろう。 思い返せば、我々は、小学生の頃から「主体的に行動しなさい」と教えられ、 「日本人には主体性が欠けている」などと言われ続けてきたような気がする。 しかしながら、やたら「主体的」だの「主体性」だのを賞賛するような言説は、 それ自体、判で押したように画一的だとさえ感じられるのである。

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