ラオスのThat Luang仏塔について
古 山 健 一
1.はじめに
ラオス人民民主共和国の首都Vientiane
(またはViang Chan、 )に聳える大仏
塔That Luang
( 、写真2)(1)は、
〈ラオス仏教の最高の寺院で、ラオスの象徴とも言え る〉(2)ものであり、毎年この仏塔で開催されるThat Luang祭り
( )は、
同国における最大の仏教行事として知られる。
古い時代の状況は寡聞にして詳しくは知らないが、かつてVientianeの地を
治め、仏教を庇護してきた王朝においては、同地における仏教の普及・定着と
密接に連関しつつ、その存在と保護・維持が、王権を「仏教」の文脈から担保
する根拠の1つと意識されていたものと推測される
(3)。
1975
年、ラオス人民革命党
( 、Lao People’s Revolutionary Party)は、王制を廃して、社会主義国家「ラオス人民民主共和国」を樹立した。新国
家は、当初は仏教を社会主義国家建設のイデオロギーの従属下に置き、人民革
命党の綱領と方針に反しない限りにおいてサンガと僧侶の存在と活動を認めて
いた。しかしながら、1980年代に入ってからは、仏教をナショナリズム的な
文脈の中に置き直し、仏教を国家の文化的アイデンティティーとして位置づけ
るとともに、その位置づけをもとに多民族国家である同国の国民統合の求心力
と看做すようになった。そして、その「仏教」を、That Luangに象徴化した。
それは、1991年に発布された同国の新憲法において、星と槌・鎌が中心部に
配された国章が、That Luangを中心部に配したものに変更されたというところ
に垣間見ることができる
(4)。また、1992年以降に新造されたすべての紙幣
(1000Kip、2000Kip、5000Kip、10000Kipの各紙幣)には塔の姿が描かれるようになった。
この小稿では、このThat Luang仏塔について、創建の由来と歴史を紹介する。
依用する資料は、筆者
(古山)が2008年1月の上旬にラオスを訪問した際に入手
した、英語による書籍である。ラオ語・タイ語の古い年代記や碑文といった、
一次的史料は用いていないことを予め断っておきたい。この点も含めて、不十
分な点は多々あろうかと思うが、本稿がラオス仏教の理解に些かなりとも資す
るところがあれば幸いである。筆者
(古山)の無知については、識者諸賢のご
教示・ご指摘を乞いたい。なお、ラオ語・タイ語の固有名詞についてはアルフ
ァベットにより表記し、ラオ語に関しては適宜ラオ文字による表記も加えた。
2.That Luang仏塔の創建について
Ven.Maha Phong Samaleuk
の The Short History of Phra That Luang
Vientiane
によると、That Luangは、前307年
(ラオス仏暦236年)に、インドの王
舎城で学問を修めて帰国した5人のラオ人阿羅漢比丘
(5)がもたらした釈尊の胸
骨
(26の遺骨とも)を祀るものとして、Vientianeの創建者で最初の統治者Phraya
Chanthabury
(6)Pasithisak
(Chanthabury王Pasithisak)により建立されたとのことであ
る
[Mphs pp.28-29]。この創建縁起は、今日、ラオスにおいて広く語られているも
のである。
次に、Maha Khamyad Rasdavong編The History of Buddhism in Laos には、
建立年代が異なるが上のものと類似の内容を持つ創建縁起が示されている。同
書によると、That Luangは、メコン中流域のViang Chan
(=Vientiane)、Khammuan、
Nong Khai
、Udon、Nakhon Phanom、Champasak、Udon Rajadhaniを支配下に
置いていたSikhottabong王国
(7)のSumitthadhammavongsa王の治世期
(A.D.478-514: Cf. Ckh 1972 p.25)
に お い て 、 王 が Vientianeの Phraya Chanthaburi
(=Chanthabury)
にインド人比丘たちがもたらした仏舎利を安置するよう命じて、
建立されたとのことである
[Mkhr pp.29-31(8)]。
しかしながら、このような見方を疑問視する声もある。例えば、
〈That Luangに はChanthaburi王の仏塔の痕跡がないばかりか、年代を11世紀または約1000年前と見なすクメール寺 院の土台よりも古い何かを見出す考古学的な発掘物もないのである〉(9)といった見解である。
故に、上に紹介した創建縁起は、その史実性が証明されない限りにおいては、
「伝説」
(legend or folklore)と評されるべきであろう。ただし、こうした「伝説」
がラオスにおける歴史
(時間)と土地
(空間)において担ったであろう種々の意
義については、その史実性の問題とは別に、考察される必要があると思う
(ち なみに、ブッダの遺骨は、王国を聖別し、支配者に対して支配する権能を与えると言われている(cf. 森部一「タイの僧院についての考察─“仏陀の遺骨・仏塔崇拝”ならびに“僧院の経済的問題”との 関連において」『南方文化』第21輯p.56))。
なお、現在、That Luangの東側には、
“〔That Si〕Dhammahaysok”( 、 写真1)と呼ばれる小仏塔がある。これは、The Short History of Phra That
Luang Vientiane
によると、前218年から238年の間にインドのアソーカ王が建
立した84000の仏塔のうちの1つであるとのことである
[Mphs pp.7,32-33]。ラオス
には、自国への仏教の伝来をアソーカ王による伝道僧派遣と結びつける見方が
あり、この小仏塔の存在がその根拠の1つにもなっているようである
(10)。
この小仏塔とThat Luangの関係について、M.L.Manich JunsaiのHistory of
Laos
には、
〈1566年に、Setthathirat王は、有名なThat Luang仏塔の再建を始めた。この有名な霊 廟(shrine)は、2000年以上前に、アソーカ大帝が建立したと見做されている〉[Junsai p.129]と述
べられている。これによれば、That Luangの原形は
“Dhammahaysok”仏塔であり、
1566
年に再建されて形を変えたということになる。ただし、Martin Stuart-Fox
が
〈現存している形態の仏塔は、Xetthathirat王が1560年にXiang Dong Xiang Thong(Luang Prabang) からViang ChanにLan Xang王国の首都を移転した時に、彼によって建立された。伝説が偉大な仏教王 であるアソーカに帰しているところの、仏教の古い霊廟(shrine)の境内に建立された。実際のとこ ろ、それの創建は恐らくアンコール期以降の年代であろう〉[Stuart-Fox pp.343-344]と述べている
ように、That Luangは先行の
“Dhammahaysok”仏塔の境内に建設されたものであ
るとする見方もある。この両仏塔の関係は、考古学的な見地などから改めて仔
細に検討される必要があるであろう。
【写真1】Dhammahaysok小塔(撮影:古山) 【写真2】That Luang仏塔(撮影:古山)
3.Setthathirat王の改築
Lan Xan
王朝のSetthathirat王
(SetthathirajまたはXetthathiratとも、 )の時
期、ミャンマーToungoo王朝
(バイナウン王)は、東進してタイ北部地域に版図を
拡大し、さらにラオスにもその手を伸ばそうとしていた。王は、ミャンマー侵
入の対策として、1560年に王都をXiang Dong Xiang Thong
(後のLuang Prabang)か
ら南方のVientianeに移転した
(11)。そして1566年に、すでにVientianeにあった
“
Lokacu-l.aman.i”
( :世界の小さな摩尼珠;ちなみに、帝釈天が未来仏の頭を飾るため の宝石として須弥山の頂上に祀っているのも摩尼珠である(Cf.森部前掲論文p.56))との塔名を
付したと言う
[Cf. Mphs pp.5,29-30]。
改築された仏塔の第2層には、付属的な30の小仏塔が建てられたとのことで
ある
(この小仏塔は現存する、写真2参照。中心の高い角錐状尖塔部の周囲にあるのがそれである)。
これらは、釈尊が前生において菩薩として満たした30の波羅蜜
(12)を象徴して
いるのだと言う。そして、30の小仏塔の各々には、重さ4オンスほどの黄金仏
塔と、
「縁起法頌」
(13)を刻記した黄金の貝葉が蔵されていたとのことである
(た だし、これらは後代に略奪されたとのことである)[Cf. Mphs pp.5-7,30-31]。
後 述 す る よ う に 、 That Luang仏 塔 は 損 壊 と 修 築 を 繰 り 返 し て お り 、
Setthathirat
王が建立した当時のものと現存のものとが完全に同一であるとは
言い難い。故に、王が改築した仏塔の姿を今に知ることはできないのであるが、
20
世紀に入ってからおこなわれた尖塔部の造りかえを除くと、Setthathirat王
がおこなったような大規模な改築はおこなわれていないようであるので、
A.D.16c
の頃の塔の姿は、特に基壇部から第3層の基部のあたりについて、全同
とは言い難いものの、現存の仏塔に比較的近いものではなかったかと推察す
る。
4.損壊と修築
That Luang
仏塔は、Setthathirat王の改築後、度々損壊を被り、修築を繰り
返して今日に至っている
(以下、主にMphs pp.36-40を参考にして述べる)。最初の損壊は、
Setthathirat
王の没後のPhraya Sensoulintha Luxay Chanh王治世下の1574年に、
ミャンマーの軍勢が2度目のVientiane侵攻をおこなった際に被った
(14)。
後期Lan Xan王朝時代
(Luang Prabang王国、Vientiane王国、Champasak王国の3王国に分立 した時代)のVientiane王Phrachao Silibounyasane
(あるいはSiribunnyasan)の治世下
における1778年に、タイのラーマ1世
(当時はトンブリー王朝の士官)の軍勢がラオ
スに対する最初の侵攻を始めた時に、2回目の損壊を被った。
Vientiane
王Phrachao Anuvong王の治世期の1819年に、仏塔の大規模な修築
が お こ な わ れ 、 仏 塔 の 周 囲 に 廻 廊 が 建 立 さ れ た と の こ と で あ る。 同 じ く
Phrachao Anuvong
の治世下の1828年、タイのラーマ3世が2度目のラオス侵攻
をおこなった時に、3回目の損壊を被った。この時の攻撃で、Vientianeは灰燼
に帰したと言う。
1873
年に、現在の中国雲南省との境の地帯にいたHô
(イスラム教徒)の賊徒が
仏塔に入り、黄金仏塔や貝葉などの宝物を根こそぎ略奪した際に、4回目の損
壊を被った。
1896
年に落雷により5回目の損壊を被った。尖塔部が破壊されたと言う。
1900
年、すでにラオスを植民地統治下に置いていたフランスは、That Luang
仏塔の大々的な修築を計画した。これは、植民地政庁を置いたVientianeの都
市整備と平行して進められたVientianeの遺跡修復事業の一環としておこなわ
れたものである。ただし、この修築計画では、仏塔の上部が、フランス人の建
築家により西洋の様式に改変されたと言う。
1909
年に小規模な修築がなされた。
1930
年、西洋の様式に改変された修築計画に不満を抱いたラオス人たちの
要望により、仏塔上部の様式は再考されることとなった。この時はフランス極
東学院
(École Française d'Extrême-Orient)の助力により修築が進められ、1867年に
フランス人Louis Delaporteが描いた絵
[Vcra p.14]を勘案して設計がなされたとい
う
(15)。修築は1935年に完了した。現在のThat Luang仏塔の外観は、この修築に
よりできあがったものである。ただし、
〈三一年の工事開始以前の古写真(ルブランジェ 『仏領ラオス史』)の中央大塔と現大塔は大変様式が違う〉[綾部・石井pp.241-242]との指摘がな
されていることを付記しておきたい。
1976
年、落雷により6回目の損壊を被った。同年、ラオス人民民主共和国政
府によるThat Luang仏塔の修復と整備
(避雷針の設置など)が開始された。同仏塔
の護持のための委員会も設置された。1985年、
“
Dhammahaysok”仏塔が収められ
ている堂宇の再建がおこなわれた。
5.むすびにかえて
最後に、むすびにかえて、現存のThat Luang仏塔のかたちに関して述べてお
きたい。仏塔は、総延長360m程の正方形の廻廊に囲まれている。各辺の中央
に門がある。廻廊の内部には、周辺各地から見つかったクメール様式の古い仏
像や石碑、リンガなどが展示され、寄進の受付所もある。廻廊の西側の門の前
にはSetthathirat王の像がある。王の像の前は大きな広場となっており、国家
行事などに使用される。広場には国際会議場もある。廻廊の外の南北の側には
僧院がある。広場の北隣にはThammasapha Hallという名の大法堂が建設中で
あった。
廻廊の中庭中央に仏塔が聳える。仏塔は3層から成っており、各層が階段で
結ばれている。かつては、第1層
(基壇部)は一般参拝者のみ、第2層は僧侶、第
3
層は王のみが立ち入ることができたとのことである
(Cf.東南アジア諸国連合貿易投 資観光促進センター『ASEAN観光ガイド ラオス2007』p.16)が、現在は誰でも立ち入るこ
とができる。
第1層の基壇部は1辺が60m程の正方形で、縁には計323個のシーマー石
(結界 石、s ma-)が置かれている。また、基壇部の側壁には、仏像を祀った小堂が付
設されている。東側の礼拝堂の横には小さな堂宇があり、アソーカ王の建立と
伝える小仏塔
“Dhammahaysok”が収められている。第2層は1辺が48m程の正方形
で、その側壁は計120の蓮の花弁の造形により荘厳されている。側壁の縁には、
計288個の穴のあいたシーマー石が置かれ、穴の中には小仏像が安置されてい
る。この第2層には4つの隅に小仏塔があり、さらに前述の30の小仏塔がある。
小仏塔は高さ2.5m程である。第3層は1辺が約30mの正方形で、覆鉢型に隆起し
た形をしている。覆鉢の上部は蓮の花弁の造形で荘厳され、その上に独特な形
をした角錐状の尖塔がのっている。この尖塔は
〈周囲の村を照らす巨大なローソクに擬 せられ〉ていると言う
(藤吉慈海「ラオスの僧院―その瞑想法を中心として―」『禅文化研究所 紀要』(花園大学内禅文化研究所)、1969年p.148)。仏塔の全体には金色の塗装が施され
ており、地表から塔頂までの高さは45mに及ぶ。
(2008年6月22日脱稿) 参考文献とその略号Ckh : Champakeomany Kham , ed. A History of Buddhism in Laos . Vientiane : Institute of Buddhist Studies , 1972 (B.E. 2515) .
Junsai : M.L.Manich Junsai . History of Laos . 4th ed. Bangkok:Chalermnit , 2000 .
Kk 2001 : Kusalasaya Karuna . Buddhism in Thailand . 3rd ed. Bangkok : Mental Health Publishing House , 2001 .
LaoDict. : Khamphan Mingbuapha &Benjawan Poomsan Becker .Lao-English English-Lao Dictionary . Thailand : Paiboon Publishing , 2003 .
Mkhr : Maha Khamyad Rasdavong , ed. The History of Buddhism in Laos . Vientiane : Xangkhou Printing , 2006 .
Mphs : Ven.Maha Phong Samaleuk . The Short History of Phra That Luang Vientiane . Vientiane : Sub-Committee for the renovation of Phra That Luang , 1986 .
Ps&Phn : Pothisan Suned and Phomachan Nousai ,ed. . A History of Laos(Ancient Times to the
Rsng : Rodhoun Sa Ngon . Lao Buddhist Art .Bangkok:Saitharn Publication House , 2002 (B.E. 2545). SDRBT : Patrice Ladwig . Short Dictionary of Religious and Buddhist Terms , Lao-English . 2nd ed.
Luang Prabang : THE QUITE IN THE LAND , 2005 .
Stuart-Fox : Martin Stuart-Fox . Historical Dictionary of Laos , Historical Dictionary of Asia ,
Oceania and the Middle East , No.67. 3rd ed. Maryland : The Scarecrow Press,Inc. , 2008 .
Vs : Sila Viravong . The Phra That Luang Story . Vientiane : Ministry of Education , (not dated) . Vcra : Vientiane , Civil and Religious Architecture . Vientiane : l’Atelier du Patrimoine , 2003 .
綾部・石井 : 綾部恒雄・石井米雄編『もっと知りたいラオス』、弘文堂、1996年 星野 : 星野龍夫『濁流と満月―タイ民族史への招待―』、弘文堂、1990年
註
(1) 仏塔の呼称That Luang( )のうち、“That”( )はstupa , element , chemical
compoundを意味する名詞であり[LaoDict. p.666a]、“Luang”( / )はpublic , great ,
royal , officialを意味する形容詞である[LaoDict. p.755b]。全体で“The great stupa”との英訳語 が与えられている [Cf. SDRBT p.36]。「尊貴なもの」や「聖なるもの」を指す語に冠される “Phra”( )を付して、Phra That Luang( )とも呼ばれる。なお、“That” ( )の語に関しては、サンスクリットの“dha-tu”(舎利、遺骨)から派生(転訛)したとす
る見解がある(Cf. Martin Stuart-Fox . The Lao Kingdom of Lân Xâng : Rise and Decline .
Bangkok:White Lotus Co. Ltd. , 1998 . p.177 footnote35)。サンスクリットの“dha-tu”から派生し たラオ語としては、“ ”(element , natural condition ; relic especially that of the Buddha
or a holy monk ( for example bones or hairs ))がある[Cf. SDRBT p.36]が、“ ”も“dha-tu” からの派生語であるとすると、仏塔の名は「聖なる偉大な舎利」と解することもできる。 (2) ラオス政府観光局のWebページより(http://www.lao.jp/page_vien.html , accessed 2008-6-16)。
ただし、紹介文中の〈寺院〉との表現は再考を要するのではないかと考える。
(3) 後期Lan Xang王朝時代には、各々の王国の王都にThat Luangという名の仏塔が建立され、各国 の王から庇護を受けて、王家の宗教的シンボルとなっていたと言う[綾部・石井p.261]。 (4) 「ラオス人民民主共和国」成立後の、同国の仏教に対する政策に関しては、林行夫の解説(ラ オス文化研究所編『ラオス概説』、めこん、2003年(第1刷)pp.209-222)に詳しい。ちなみに、 憲法発布当時のラオス人民革命党書記長Kaysone Phomvihane(1975年から1991年まで首相、 1991年から1992年まで大統領)の名で、1992年3月30日付けで出された、党決議の“Religious Issues”には、〈・・・仏教が我々の国の国家的な文化の拠りどころの維持と発展に寄与してき たという事実に加えて、諸々の寺院は教授のための部分的な役割を演じることをならいとしてき た。寺院は、大衆に、法(dharma)においてふるまうよう、銘々の他者に対して親切で歓待的 であるあるよう、悪しきふるまいを避けるよう、教育する場であった。ゆえに、ラオスの民族グ ループの大半、特に低地ラオ族(Lao Loum)は、仏教を信じているのである。/革命の光のも と、僧侶たちと仏教徒たちは、ブッダの法(dharma)の諸々の道理によって厳格にふるまって
いる。彼らは、国家の解放のために帝国主義と植民地主義と闘争しながら、ナショナリズムの進 展に参加した〉(Maha Khampeuy Vannasopha . Religious Affairs in Lao P.D.R , Policies and
Tasks . Vientiane:Department of Religious Affairs Lao Front for National Construction , Central
Committee, 2005 . pp.18-19)云々と述べられいる。
(5) 5人のラオ人阿羅漢比丘の名は、①Rattana-thera(
)、②Chularattana-thera( )、③Suvannapasada-thera( )、 ④Chulasuvannapasada-thera( )、⑤Sangavija-thera(
)である[Cf. Mphs pp.4,28]。
(6) Chanthabury(Chanthaburi またはCandapuri、Chanthabouriとも、 =Candana-pura: 「旃檀の都」の意)とは、Vientianeの古名である。Phra Lak Phra Lamと呼ばれる、ブッダの前 生譚などを伝える土着文献には、昔Thaporamasouaneという名の王に、Thao Thattaradtha(兄) とThao Viloun Ha(弟)という名の息子がいたと言う。父王はThao Viloun Haに王位を譲ったた め、兄のThao Thattaradthaは国を去って北に向かい、メコン河右岸のPhan Phaoに至り、そこに
Maha Thani Si Phan Phaoという名の都を築いた。すると、そこに7頭龍の王がやって来て、都を 対岸の側に移せば子々孫々栄えると告げた。Thao Thattaradthaは、龍王の言葉に従った。新た に対岸に築かれた都はChanthabouri Si Sattanak(吉祥なる7頭龍の旃檀の都)と名づけられ、こ れが後のVientianeになったのだと言う(http://www.seasite.niu.edu/lao/otherTopics/
PhralakPhralam/page01. htm , accessed 2008-6-16)。Vientiane , Civil and Religious
Architectureによると、Vientianeは、かつて、Thao Khambangが見つけたSouvannaphoum(=
Suvan.n.abhu- mi)と呼ばれる移民地と、Thao Boulichanhが見つけたNong Kankae Seum Nam(現
在のHong kae)と呼ばれる移民地に分かれていたと言う。そして、Thao BoulichanhとThao
Khambangの娘が結婚し、この2つの移民地が合併され、Chanthabouly(=Chanthabury)となっ たとのことである。そして、A.D.6cからA.D.7cの間に、恐らくVientianeはSikhottabong王国の17 公国の1つとなり、その時代、VientianeはChanthabouly( )、Sisattanak( )、
Saisetha( )、Sikhotabong( )、Hatsayfong( )という5つの
Muang( 、土候国)で構成されていたと言う。また、A.D.8cからA.D.11cの間にVientianeは
Sikhottabongの王都となり、A.D.11cからA.D.13cまでにSikhottabongはクメールの配下に置かれ たとのことである[Vcra pp.1-2]。なお、Chanthaburyは、かつてはViang Khamという名のMuang であり、この“Viang”とChanthaburyの“Chan”が結合して“Viang Chan”(Vientiane)になっ たと言う[Mkhr pp.62-63]。また、「ヴィエン・タイ・マイ・チャン」が縮まったかたちで使われ たとも言う(上東輝夫『ラオスの歴史』、同文舘、1996年(3版)p.45)。
(7) Sikhottabong王国における中心的な仏塔であるThat Phanom仏塔(タイ東北部のNakhon
Phanom県のThat Phanom郡に所在)は、ブッダの胸骨を祀るものと言われている。この仏塔に は、Urangkha That( :『胸骨舎利』)という名の創建縁起書が伝えられている[Cf. 星野pp.154-157]。Nakhon Phanom県の西隣Sakon Nakhon県Phang KhwangにあるThat Narai
Cheng Weng仏塔には、That Phanomに関連する次のような伝承(the local folk tale)があると言 う:〈仏弟子のカッサパ長老が、Nakhon PhanomのPhra That Phanomに収めようと、インドの
王舎城からUrangkha That(仏世尊の胸骨舎利)をもたらしたとき、長老はSakon NakhonのHan 大湖のそばの都市を通過した。Phra Ya Suwanna Phingkharnの王妃であるPhra Nang Narai Cheng
Wengは、僧侶と舎利についての知らせを聞くと、分与を求めた。しかしながら、カッサパ長老 は、Urangkha Thatの全部分を同じ場所に一緒に保存したかったので、代わりの遺骨(ashes)を 王妃に与えた。すると王妃は、彼女の庭園にあった石のあなにそれらを収めた。舎利が保存され た場所の記念物が、王妃の亡き後、Phra That Narai Cheng Wengと名づけられた〉(Phra That
Narai Cheng Weng, Sakon Nakhon( http://www.ancientcity.com/?q=/en/location/
PhraThatNaraiChengWeng_SakonNakhon , accessed 2008-6-16))。この伝承によると、That
Phanomの胸骨舎利は、カッサパ長老がインドから伝来したものということになる。That Luang にブッダの胸骨が祀られているという伝説は、Sikhottabong王国のThat Phanom仏塔の縁起と何 らかの関係を有しているかもしれない。
(8) なお、The History of Buddhism in Laosには、Sumitthadhammavongsa王の治世期において、 王は、Phra That Phanom仏塔を修築せしめたと述べられている。また、Phra That Luang仏塔を 建立したPhraya Chanthaburiは、インド人比丘Phramaha BuddhavongsaとPhramaha Sassadiの 各々のために僧院を建立し、前者はWat Pa Buddhavongsaの住持に、後者はWat Sonの住持に就 いたと言う。さらに、同時期に、この2人の比丘のほかに、Buddharakkhit、Dhammarakkhit、
Sangharakkhitという3人のインド人比丘がVientianeを訪れたという。彼ら3人はVientianeに禅定 道場を設立して在家化導にあたった後、インドでの仏教学習を志すラオ人丘5名を伴って、イン ドに帰って行ったと言う[Cf. Mkhr pp.29-31]。
(9) That Luang: Vientiane’s Great Buddhist Temple (http://www.cpamedia.com/culture/that_luang/,
accessed 2008-6-16) : “According to legend, That Luang was first established in the year 236 of the Buddhist Era, corresponding to 307 B.C., when five Lao monks who had been studying at Rajgir, in India, returned home bearing a breastbone of the Buddha. ... /Be this as it may, there are no signs
of Phaya Chanthaburi’s stupa at That Luang today, nor have archaeological excavations turned up anything older than the foundations of a Khmer temple thought to date to the eleventh century A.D., or about a thousand years ago-which is still a venerable age. ”
(10) The History of Buddhism in Laosには、〈テーラワーダ仏教は、他の東南アジア諸国にもたら されたのと同じ時期、すなわちインドの偉大な王であるアソーカ王の治世期に、ラオスにもたら された。彼は、ソーナ(Sona)師とウッタラ(Uttara)師という長老比丘を、ちょうどインドの 第3結集[Cf. Vs p.23]の後に他国に向けて、スワンナブーミ(Suvannabhumi)へと派遣した。の みならず、王は、インドシナ半島の遠国へと、他の伝道比丘を派遣した。彼らのインドからの旅 において、彼らは恐らく、ビルマを通って東南アジアの他の地域への道を移動した(Cf. World
Fellowship of Buddhists . Buddhism in Thailand . Bangkok : World Fellowship of Buddhist Held , 1980 (B.E. 2523). p.5)。…このスワンナブーミという国の位置については異なる見解がある。タ イの学者たちは、スワンナブーミはタイであり、その王都はバンコクの西方約50kmのNakhon
Pathomであり、Nakhon Pathomでは大きな仏塔が見られる[Cf.Kk 7]、という見解を表明してい る。他方、ビルマの学者たちは、スワンナブーミはビルマにあり、その王都はタトンで、マルタ
バン湾に面する国の東部のモン族(ペグー人)の町である、と信じている。さらにまた、主にカ ンボジアの学者たちは、スワンナブーミは自分たちの国にあったと主張する。不幸にも、歴史的 な記録が乏しいので、実際の位置が知られることはないであろう[Cf.Kk p.7]。しかしながら、1 つのことは明確である。すなわち、スワンナブーミは、古い時代においては、広く東南アジアを 意味するものとして用いられる言葉であったということである。それは、現在の南ビルマ、カン ボジア、ラオス、マレーシア、タイを包含する地域である[Cf.Kk p.7]。幾人かのラオの学者たち はまた、スワンナブーミの王都は現在のViang Changであると信じている。彼らは、Urangha・
Sinsay・Khun-Borommarajadhirajの物語といった、Viang Changからの歴史的資料を提示する。 それらは、スワンナブーミの王都に言及している[Cf.Ckh pp.20-21]。のみならず、アソーカ王の 時代に年代と様式を持つ、諸々の仏塔(stupa)といった建築的な遺物がViang Changで発見され ている[Cf.Ckh pp.20-21]〉[Mkhr pp.25-26]と述べられている。
(11) Setthathirat王は、遷都を完了すると、都を“Nakhone chanthabury Sisattanakanahud Utama
Rajathani”( )と名づけたととのことである
[Mphs pp.5,29-30]。
(12) 30の波羅蜜とは、パーリ仏教で説く「十波羅蜜」を、その実践の深化の段階に応じた①波羅 蜜(pa-ram )、② 副次波羅蜜(upaa-qram )、③ 勝義波羅蜜(paramatthapa-ram )の3段階に展 開させたものである。
(13) Vinaya Maha-vaggaに見られる、“ye dhamma- hetuppabhava- , tesam. hetum. tatha-gato a-ha .
tesañca yo nirodho , ca evam. va-d maha-saman. o .”(PTS vol.1,p.40)との偈文に相等する。これは、 一般に「縁起法頌」と呼ばれ、東南アジアにおいては仏塔や仏像に法舎利として収められる。 (14) 1641年にVientianeを訪れたオランダ東インド会社のGerard Van Wuystoffは、角錐状の尖塔部
は約1000ポンドの重さの金箔で覆われていたと伝えている(That Luang: Vientiane’s Great
Buddhist Temple(http://www.cpamedia.com/culture/that_luang/ , accessed 2008-6-16))。 (15) Cf. That Luang: Vientiane’s Great Buddhist Temple(http://www.cpamedia.com/culture/
that_luang/, accessed 2008-6-16)。Delaporteは、1967年に、ジャングルに埋もれていたThat