平成20 年(2008 年)2 月 18 日 NO.2008-3
タイにおける民政復帰と今後の課題
タイでは、2 月 6 日、国民の力党のサマック党首を首相とする連立政権が発足し、 2006 年 9 月のクーデターから約 1 年 5 カ月ぶりに民政復帰が実現した。タクシン元首 相一族の株売却問題に端を発する反タクシン運動の高まりを受け、同年2 月の下院解 散以来2 年にわたり続いていた政治の混乱は、漸く収束に向けて動き出したといえる。 本稿では、選挙結果を踏まえたうえで、新政権の概要および今後の課題などについ てまとめてみたい。 1. 1 年 5 カ月ぶりに民政復帰が実現 (1)総選挙結果-旧タクシン派の躍進 昨年12 月 23 日に実施された下院総選挙(定数 480)では、クーデターで失脚した タクシン元首相支持派からなる「国民の力党(PPP)」が半数近い 233 議席を確保し第 一党となった(注)。今回の総選挙は、暫定政権下の昨年 8 月に成立した新憲法のも と初めて実施されるものであり、クーデターに対する国民の審判の意味合いを持つと いう点で注目されていた。 国民の力党は、大量輸送プロジェクトの大型公共事業や農村・貧困対策など、旧愛 国党の政策を踏襲する方針を示し、タクシン前首相への支持が依然根強い北部や東北 部の農村部を中心に躍進した。他方、前最大野党・民主党は、反タクシン色を打ち出 したものの、公約とする主な経済政策は、大量輸送プロジェクトや医療補助など国民 の力党と似通るなど独自性に欠けていたため、得票を伸ばすことができなかった。選 挙後、国民の力党を軸に民主党を除く6 政党が連立結成で合意し、下院議席の約 3 分 の2 を占める連立政権が誕生することになった。 この選挙結果については、クーデターを主導した軍部および反タクシン派の国民の 間でも概ね冷静に受け止められており、再クーデターの可能性は低いとみられる。 2006 年はじめのタクシン元首相一族の株売却問題に端を発する反タクシン運動の高 まりを受け、同年2 月に下院が解散されて以来 2 年を経て、漸く政治の正常化に向けて動き出した点は、前向きに評価される。 (注)「国民の力党」は、以前は小規模政党だったが、タクシン氏が党首を務めた旧タイ愛国党(2007 年 5 月、 憲法裁判所命令により解散)の議員が大量に移籍し、事実上の乗っ取りに成功した。また、旧タイ愛国党員 の一部は、タクシン支持派とは一定の距離を置くため、国家貢献党、中道主義党、団結国家発展党の新党を 結成した。 第1 図:下院選挙結果 (注)2008年1月28日現在。 (資料)新聞報道等より三菱東京UFJ銀行経済調査室作成 与党 316 野党 民主党 164 議席総数 480 タイ国党 34 国家貢献党 24 中道主義党 11 団結国家 発展党 9 王国民党 5 国民の力党 233 第1 表:タイの政局を巡る主な動き 年月日 主な動き 2006年1月23日 首相一族が保有する通信会社の株式をシンガポール政府系投資会社に733 億バーツ(約2,200億円)で売却 30日 タイ証券取引委員会所(SEC)、一族に株式取引の詳細報告を命令 23日 SEC、情報開示義務違反などで首相長男に罰金命令 2月24日 下院解散 27日 主要野党3党、選挙ボイコットを表明 4月2日 下院総選挙投開票、与党愛国党が過半数の票を獲得 4日 タクシン首相、プミポン国王のとの謁見後に退陣を表明 5月8日 憲法裁判所、4月2日の総選挙を違憲・無効と判断、選挙のやり直しを命令 6月12-13日 プミポン国王在位60周年記念式典 9月19日 クーデター発生 10月9日 暫定内閣発足 2007年1月22日 新憲法起草委員会設置 8月19日 新憲法の是非を問う国民投票実施 8月24日 新憲法草案奏上、国王が署名・承認 新憲法発効 12月23日 下院総選挙 2008年1月21日 選挙管理委員会、477人の当選確定 国会召集 1月27日 再選挙 1月28日 下院、国民の力党のサマック党首を第25代首相に選出 2月6日 新内閣発足 3月2日 上院選挙 (資料)各種報道等より三菱東京UFJ銀行経済調査室作成 (2)新内閣の概要-国民の力党を中心とする連立政権が発足 2 月 6 日には、国民の力党のサマック党首を首相とする新政権が発足した。サマッ ク首相が国防相を兼任し、財務相、外相など重要ポストもタクシン氏側近が確保。そ
の他閣僚も、ほとんどがタクシン氏の側近か、旧愛国党員またはその親族が占めるな ど、タクシン氏が強い影響力を保持できる布陣となっている。サマック首相自身は、 政治コラムニストから政界入りし、内相、副首相、バンコク知事(2000~2004 年)な どを歴任、昨年8 月、タクシン氏の要請で国民の力党の党首に就任し、昨年末の下院 選では「タクシン前首相の代理人」を公言していた。副首相にはタクシン氏の義弟ソ ムチャイ前法務次官、副首相兼財務相には元医師でタクシン氏の側近スラポン氏(国 民の力党幹事長)、外相にはタクシン一族の顧問弁護士ノパドン氏を起用したほか、 クーデターを主導した国軍との関係で重要な国防相はサマック首相自らが兼務する。 また、下院議長には、タクシン氏の側近のヨンユット氏(元国民の力党副党首)が選 出された。 約2 年ぶりの正式な政権発足はプラスに評価されるが、今後、政治の安定化実現に 向けては不安要素が少なくない。第一に、新政権の政策運営は、タクシン氏の強い影 響力が及ぶことが予想される反面、タクシン色を前面に打ち出せば、反タクシン派と の対立を強めかねない。また、今後、タクシン氏の帰国を巡って混乱が生じる可能性 が残るほか、暫定政権下で5 年間の公民権停止となった旧愛国党幹部 111 人に対する 恩赦の扱いについても議論となろう。第二に、サマック首相自身の汚職疑惑がある。 国家汚職追放委員会は、バンコック都知事時代の消防車やごみ処理契約を巡る汚職疑 惑について、現在も追及を進めており、今後、訴追により辞任に追い込まれるリスク を抱えている。 第2 表:新内閣の主な閣僚メンバー 役職 氏名 政党 過去の主な役職 首相 サマック・スントラウェート 国民の力党 バンコク都知事 副首相 ソムチャイ・ウォンサワット 国民の力党 国民の力党副党首、法務次官 ミンクワン・センスワン 国民の力党 MCOT社長 スラポン・スープウォンリー 国民の力党 国民の力党幹事長、情報通信技術相 スウィット・クンキッティ 国家貢献党 国家貢献党党首、副首相 サハス・バンディットクン 国民の力党 バンコク副都知事 サナン・カチョンプラサート タイ国党 副首相 首相府相 チューサック・シリニン 国民の力党 国民の力党副幹事長、大学学長 (政府報道官) チャクラポップ・ペンケー 国民の力党 政府報道官 国防相 サマック(首相兼任) 財務相 スラポン(副首相兼任) 外務相 ノパドン・パタマ 国民の力党 国民の力党副幹事長、弁護士 観光・スポーツ相 ウィラサック・コウスラット タイ国党 タイ国党副党首、副首相補佐官 社会開発・人間安全保障相 スター・チャンセーン 国民の力党 財務相補佐官 農業・協同組合相 ソムサック・プリサナナンタクン タイ国党 タイ国党副党首、教育相 運輸相 サンティ・プロムパット 国民の力党 下院議員 天然資源・環境相 アノンワン・テープスティン 中道主義党 文部省職員 情報通信技術(ICT)相 マン・パタノータイ 国家貢献党 上院議員 エネルギー相 プーンピロム・リタパンロップ 団結国家発展党 上院議員 商務相 ミンクワン(副首相兼任) 内務相 チャルーム・ユーバムルン 国民の力党 法相 法務相 ソムポン・アモンウィワット 国民の力党 労働相 労働相 ウライワン・ティアントーン 王国民党 文化相 文化相 アヌソン・ウォンワン 国民の力党 副工業相 科学技術相 ウティポン・チャイセン 国民の力党 下院議員 教育相 ソムチャイ(副首相兼任) 厚生相 チャイヤー・サソムサップ 国民の力党 副運輸相 工業相 スウィット(副首相兼任) (資料)各種報道等より三菱東京UFJ銀行経済調査室作成
2. 新政権の政策課題 新政権にとって当面の最優先課題は、景気対策の早期実現による経済の再建と対外 信認の回復である。 (1)景気対策の早期実現による内需の回復 クーデター後の暫定政権下では、政治の不透明感の強まりの影響などで、民間部門 では消費や投資を手控える動きが強まったほか、大型公共事業の延期などもあり、内 需が低迷した。 サマック首相は、2 月中旬に予定されている所信表明演説で、新政権の政策内容を 正式に明らかにするとみられるが、すでに旧愛国党の政策の多くを踏襲する方針を示 している。具体的には、①1 人 30 バーツ(約 114 円)の低額医療制度、②農民の生活 改善のための農村基金、③10 万戸の農家に対する 100 万頭の牛貸与など草の根的な政 策のほか、④バンコック首都圏における電鉄網建設や灌漑施設整備など大型のインフ ラ整備計画(「メガ・プロジェクト」)(注)の実施が挙げられる(第3 表)。サマック 首相は、電鉄網建設計画については、暫定政権が計画した総事業費2,500 億バーツか ら5,000 億バーツに予算拡充し、路線の本数も 5 本から 9 本に増やす意向を示してい る。 政府は、「メガ・プロジェクト」の財源として、財政支出および国内借入を主体と しつつも、国外からの調達なども予定している。このため、順調な資金調達はプロジ ェクトの行方を左右するという点で重要となろう。なお、今年度(2007 年 10 月~2008 年9 月)予算は▲1,650 億バーツ(対 GDP 比▲1.8%)とすでに過去最大規模の赤字予 算となっているが、スラポン副首相兼財務相は、対GDP 比 0.5~1.0%程度の補正予算 追加の可能性を示唆している(第2 図)。 (注)「メガ・プロジェクト」は、タクシン政権時代に打ち出された2009 年までの 5 年間わたる大型インフラ整 備事業(総額1.8 兆バーツ)で、当初計画通り実施されれば、毎年 0.2%ポイント程度の GDP 押し上げ効 果が期待されていた(政府試算)。 第3 表:新政権の主な経済政策 第2 図:財政収支 分野 主な政策 農村対策 農村基金 10万戸の農家に100万頭の牛貸与 一村一品運動 メガプロジェクト 首都圏における電鉄建設 バンコックにおける道路整備 灌漑施設 教育・福祉 低額医療制度(1人30バーツ) 低所得者に対する減税措置 貧困層の子供に対しPC100万台を無償提供 奨学金制度(1村につき1人) (資料)各種報道等より三菱東京UFJ銀行経済調査室作成 -5.0 -4.0 -3.0 -2.0 -1.0 -250 -200 -150 -100 -50 0.0 1.0 2.0 3.0 4.0 93 94 95 96 97 98 99 00 01 02 03 04 05 06 07* (%) 50 100 150 200 (10億バーツ) 財政収支(補正後) 財政収支 財政収支/GDP 財政収支/GDP(補正後) (資料)CEICなどより三菱東京UFJ銀行経済調査室作成
(2)対外信認の回復 暫定政権は、為替取引規制強化(外貨送金時の30%強制預託義務)や外国人事業法 改正案など、海外投資家の活動に関る規制を強化するような政策を相次いで打ち出し、 政権に対する対外的な不信感を強める結果となった。選挙後、政治の不透明感がやや 薄らいだことで、進出日系企業のビジネスマインドに改善の兆しがみられるが、新政 権に対しては、開放的で一貫性のある投資政策の持続性を期待する声が多い。 サマック首相は、経済政策を推進するにあたり、外資導入に積極的であり、暫定政 権が進めようとしていた外国人事業法改正案を撤回する方針を明言している。2006 年 12 月にバーツ高抑制を目的に導入された資本取引規制の扱いについても、今後、 政府と中央銀行との間で協議が行われる見込みである。 為替取引規制によるバーツ高抑制効果については、見方が分かれる。過剰な投機資 金流入の抑制につながった面もあるが、対内直接投資および輸出の堅調な拡大を背景 とした実需面からのバーツ買い圧力は根強く、またその後、段階的に導入された例外 措置により、全体として効果は限定的との見方もある。一方で、外貨保有規制や対外 投資規制の緩和など対外資本流出を促進させるバーツ高抑制政策は、資本収支上の証 券投資が、2006 年第 4 四半期以降、基調として流出超に転じており(第 3 図)、一定 の効果をあげているといえる。 第3 図:資本収支 -8,000 -6,000 -4,000 -2,000 0 2,000 4,000 6,000 8,000 97 98 99 00 01 02 03 04 05 06 07 (100万ドル) その他投資 証券投資 直接投資 資本収支 経常収支 (資料)タイ中銀資料より三菱東京UFJ銀行経済調査室作成 3. むすび サマック政権発足により、1 年 5 カ月ぶりに民政復帰が実現し、2006 年はじめの反 タクシン運動の高まりを受け、同年2 月の下院解散以来 2 年にわたり続いていた政治 の混乱が、漸く収束に向けて動き出した点はプラスに評価される。しかし、政治の安 定化が実現するまでにはまだ予断を許さない。今後、新政権の政策運営やタクシン氏 の帰国を巡り、反タクシン派との対立が再燃する可能性が残る。
また、経済面では、正式な政権の発足を受けたマインドの改善と大型公共投資の実 施などで、内需の回復が期待される一方、足元の原油高と減速感強まる米国景気の行 方は、景気への下振れリスクとして留意する必要がある。 中長期的課題としては、都市と農村の格差是正に向けた社会経済システムの再構築 があげられる。クーデターで失脚したタクシン元首相に対する農村部での根強い支持 から窺えるように、都市と農村の格差があらためて浮き彫りとなった。タイでは、都 市人口比率が徐々に上昇しているとはいえ、そのペースは極めて緩やかで、依然30% 台(2005 年)と周辺アジア諸国に比べて低水準にとどまっており(第 4 図)、就業人 口の約4 割が農業に従事している。近年は、都市と農村の所得格差に拡大傾向がみら れ、首都バンコクや外資進出などを背景に工業生産が拡大している東部や中部などで は所得水準が急速に高まる一方、農村地帯とされる東北部の所得水準の上昇は緩慢で ある(第5 図)。2006 年時点の 1 人当たり GDP でみると、バンコクの 32 万バーツに 対し、東北部のなかでも所得水準が低いノーンブアランポー県が1 万 8,000 バーツと、 その格差は2000 年時点の 13 倍から 2006 年には 18 倍にまで拡大している。持続的な 経済成長と政治の安定化実現のためには、バラマキ型の政策による短期的な景気刺激 に頼るのではなく、税財政改革を含め社会保障・医療制度の見直しにより、都市と農 村部の格差是正を図っていくことが不可欠といえよう。 第4 図:都市人口比率の推移 第5 図:地域別 1 人当たり GDP の推移 20 30 40 50 60 70 90 95 00 05 (%) マレーシア フィリピン インドネシア 中国 タイ (資料)国連資料より三菱東京UFJ銀行経済調査室作成 50 100 150 200 250 300 350 バンコク首都圏 東部 中部 西部 南部 北部 東北部 (千バーツ) 2000年 2006年 (資料)CEICより三菱東京UFJ銀行経済調査室作成 以 上 (H20.2.12 福地 亜希) 当資料は情報提供のみを目的として作成されたものであり、金融商品の売買や投資など何らかの行動を勧誘するものではありません。ご利用に関しては、 すべてお客様御自身でご判断下さいますよう、宜しくお願い申し上げます。当資料は信頼できると思われる情報に基づいて作成されていますが、当室はそ の正確性を保証するものではありません。内容は予告なしに変更することがありますので、予めご了承下さい。また、当資料は著作物であり、著作権法に より保護されております。全文または一部を転載する場合は出所を明記してください。 発行:株式会社 三菱東京 UFJ 銀行 企画部 経済調査室 〒100-8388 東京都千代田区丸の内 2-7-1