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スポーツ科学からスポーツ学へ

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Academic year: 2021

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Abstract

The  sociology  of  sport  used  to  be  treated  as  a  sub-discipline  of  physical  education.  This discipline  experienced  an  inter-discipline  expansion  and  more  researchers  from  different backgrounds are now involved in this field. The discussion about the methodology of sociology of  sport  was  occupied  with  the  dichotomy,  'Agency  or  Structure'.  However  some  newly emerged  methodologies  are  expected  to  engulf  this  gap.  Among  those  are  Cultural  Studies and  Figuration  Sociology.  Figuration  Sociology  is  versatile  in  depicting  the  process  of  social change.  Figurational  structure  of  human  relations  is  a  key  to  analyzing  society,  and unexpected  and  unplanned  social  changes  happened  through  the  web  of  interdependent humans, which are the main theme in this methodology. 

Review  of  the  development  of  modern  sports  and  sport  science  with  the  viewpoints  of figuration sociology gave the clear idea of a structured process of interplay between these two actors.

The  development  of  modern  sports  was  characterized  with  the  ideological  ethos  of modernization,  which  is  rationalization  in  pursuit  of  maximum  efficiency.  The  homologized approach  to  quest  for  peak  performance  was  enhanced  with  the  accumulated  wisdom acquired  by  the  achievement  of  sport  science.  Although  the  world  sport  scene  is  creating  a borderless  world,  the  competition  between  nations  in  world  sporting  events  becomes  more severe  and  each  nation  takes  a  more  serious  attitude  in  creating  better  conditions  for  elite athletes in order to gain a better position among the world sporting nations. Sport science is well-respected as a tool to meet this need. Initially the research methodology in sport science had been more closely related to natural science and this tendency was strengthened as the practical virtue of this discipline is increasingly acknowledged. 

However,  some  crucial  characteristics  of  sport  are  underestimated  as  a  research  topic  in sport  science,  such  as  humanistic  aspects  of  sport.  Over-involvement  of  researchers  in  the topic of efficient mechanism of the human body can lead to the loss of a wholistic view of the human  body  and  sports.  The  segmented  image  of  the  human  body,  as  a  machine,  could

スポーツ科学からスポーツ学へ

|社会学から見たパラダイムシフトの必要性

海老島 均1)

From Sport Science to Sport Study:

Sociological Perspective on the Paradigm Shift

Hitoshi EBISHIMA

1)生涯スポーツ学科  

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deteriorate the image of sport and the sport itself.

An  alternative  concept  for  sport  science  is  needed  for  restructuring  the  framework  of studying.  The  paradigm  shift,  introducing  the  new  framework  as Sport  Study ,  is  able  to bring a rebalanced weighting of research topics in the academic studies of sport.

Sociology  of  sport  is  believed  to  make  a  contribution  to  redirect  the  distorted  progress  of the study on sport.

Key words:Sport Science, Sport Study, Figuration Sociology, Globalization

はじめに

近年の国際的スポーツ・イベントにおける 競争の熾烈化および参加選手のパフォーマン スを最大限に引き出すためのスポーツに対す る科学的研究のニーズの高まりについては今 さらながら言及するまでもない。土着の身体 文化は近代のエッセンスを有する現代の洗練 されたスポーツの形へと変容し,またそのス タイルが収斂化する過程において,近代化イ デオロギーと合致しながら,近代社会の構造 を強化する装置としての機能を果たしてき た。しかしその反面独自の文化的性格からく るオートノミーにより異彩を放つ特殊性は,

スポーツが研究対象としてユニークな存在で ある理由であろう。

我が国では欧米からスポーツが輸入され,

学校体育という教育の文脈の中でスポーツの 普及・発展が実現していった。このようなス ポーツという対象に対する学問的研究は教育 学的領域から派生したものが多くを占め,体 育研究を中心視座に据えた日本体育学会,そ の学会誌である『体育学研究』がミッション を遂行してきた。しかし近年,教育という領 域ではカバーしきれない,学際的研究対象で ある「スポーツ」としての身体文化のとらえ 直しが進行してきた。例えば体育学会の専門 分科会であった「体育社会学」は,1992年に 日本スポーツ社会学会として独立した研究組 織を確立した。これによって理論社会学をは じめとする幅広い分野での社会科学研究者も

学会員として迎え,研究分野の裾野の拡大と ともに,その方法論にもさらなる質的充実が 期待されている。

スポーツに関連するその他の様々な分野で これと同様の動きがあり,スポーツ心理学,

スポーツ生理学なども今までの体育という研 究領域から,より学際的な広がりを見せてい った。こうした流れと呼応するかのように研 究を包括していた体育という概念は,様々な 領域(大学の研究科の名称等)でスポーツ科 学と名称を変えてきた。そのプロセスにおい て,研究対象の重みづけの変化という微妙な 学問領域における変容(意図的または意図し ないものを含む)が生じてきたという事実も 否定できない。

本論文では最初に,スポーツ社会学の研究 動向を概括し,次にこのスポーツ社会学の分 析方法を用いて近代スポーツの発展とスポー ツ科学の関係を論じ,スポーツ科学からスポ ーツ学へのパラダイムシフトに関して,スポ ーツ社会学の未来への展開と重ね合わせた議 論を導いていく。

1.スポーツ社会学研究の流れ

1-1.スポーツ活動を決定するものは自由意 志(エージェンシー)か社会構造か?

スポーツ社会学の研究は1960年代後半にそ の胎動を見るわけであるが,当初は社会現象 としてのスポーツの社会的機能の研究とスポ ーツの発展を支配する法則を強調したものが 主流だった。アプローチとしては機能主義的

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方法が主流となっていった。ケニヨン(G. S.

Kenyon)とロイ(J.  W.  Roy)は『スポーツ の社会学に向かって(Toward a sociology of sport)』の中で,もしも社会学が社会秩序,

すなわち人間の社会的行動の根本に係わる規 則性を研究するものであれば,スポーツ社会 学はスポーツに関与している人間の社会的行 動の規則性およびそれからの逸脱について研 究するものとなると述べ,社会心理学的手法 に傾倒したスタンスでスポーツ社会学の一局 面を切り開いていった。具体的には,スポー ツに参与する集団や個人的行動を説明するた めに理論的モデルを構築し,そのモデルに従 って,多変量解析等の統計的データの分類や 分析によって研究を展開していったのだ。ス ポーツ社会学は,その研究の基礎を「身体活 動は良い」という仮定に置かなくてはならず,

一つの没価値的社会科学であるとしている

[ロイとケニヨン,  1988]。社会的また経済的 不平等という現実はあるもの,究極的な選択 は個人の自由意志に基づいているとしたアプ ローチは,当然ながらその没価値的視点に関 して広範囲に批判を受けた。原因Aが結果B との一義的な作用関係を限定された条件の中 で,アンケート調査に代表される量的方法を 基に検証していくという自然科学に近い立場 は,様々な要素が複雑に絡み合った社会全体 の構造,そこで展開されている社会現象とし てのスポーツを研究するにはあまりにも縮減 傾向が強いと指摘された1。菊[1999]はス ポーツ文化システムという構造自体の全体的 構造が複雑化すればその内部でどのような縮 減の機能的戦略をとるのか,あるいは複雑化 した外部環境とのズレからスポーツ文化シス テム自体が構造的縮減やメディアと関連した 過程的縮減をどのように機能的序列において 作動させるかの2点が焦点になると,この方 法論の今後の変革の必要性について提言して いる。

これに対して個人レベルよりも既成の社 会・文化構造レベルに基礎を置いた研究の流

れが存在する。マルクス主義的アプローチ,

フェミニズム的アプローチ,エスニシティに 基礎を置いたアプローチなどである。初期の マルクス主義的なスポーツおよびレジャーに 関する研究は,スポーツを生産性向上のため の道具として扱っている資本主義的ブルジョ アジーのスポーツの積極的利用という観点に 焦点を当てた。また,スポーツもレジャーも 労働者の生産力向上だけでなく,市場の拡大 という点で消費対象であるという文化的自立 性を脅かす社会構造を暴いてきた。ブロム

(J. Brohm)は「余暇に行われる身体活動は,

大衆を鈍感にさせ,知的に中立化させる最良 の手段である」[Brohm,  1978:90]として いる。このように初期のマルクス主義的アプ ローチには,階級により搾取されるスポーツ の姿があった。

一方,フェミニズム的アプローチは,階級 の代わりに男性中心主義に焦点を当てて社会 構造を分析しようとしている。そこには文化 生成での男性優位性,特にレジャー活動の中 でスポーツにおいて男性が女性よりも時間,

機会という面でより優位なアクセス力を持っ てきたという歴史が存在する。この点でスポ ーツという環境は,女性が重大な不利益を被 ったり,性差別が生成された文化の中でも特 異な様相を呈しているというテーマが中心と なった[Hargreaves, 1989]。

またエスニシティに基盤を置いたアプロー チでは,組織的な人種間の搾取や抑圧といっ たテーマに焦点が当てられてきた。例えばス ポーツの世界での黒人の成功は,生理学的に 身体能力が優れている部分もあるかもしれな い。しかし,ヘゲモニーという視点で見ると,

社会的成功の機会を限定されている部分を補 うために,黒人の階級間移動(上昇)の抜け 道としてスポーツが用意され,それによって 黒人が搾取されている事実を隠蔽するために 利用されてきたという分析がある(例えば

[Cashmore, 1996])。

これら社会構造に基盤を置いた研究では,

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スポーツ活動参加は個人の選択や自由意志と いう要因に起因するのではなく,社会構造に 組み込まれた装置としてのスポーツの機能が 絶対的な力を持ってくるという視点が存在す る。スポーツとレジャーは権力構造の連関の 中で理解されなくてはならず,階級,ジェン ダー,エスニシティといった社会構造が,レ ジャー時間,レジャー空間においてもその特 徴づけに重要な役割を果たすという議論から 出発している。

こうした構造を主眼に置いた研究に対して の批判は主に以下の3点に集約される。

1)社会構造という概念の取り扱いが,とも すると一方的になるきらいがある。階級,

ジェンダー,エスニシティという要素が,

個人の意志決定に関して絶対的な因子であ り,個人の自由意志の存在がないに等しい ように扱われている。

2)構造が変化を経験することがないかのよ うに,社会生活の中で揺るぎない存在とし て扱われる傾向がある。

3)スポーツやレジャー活動の参加動機に関 して階級,ジェンダー,エスニシティの中 で一元的理由によって生じるという点を過 度に強調するあまり,権力構造の相互作用 についての視点が欠けている。

1-2.代替的方法論|自由意志(エージェン シー)か構造かの議論を超えて 自由意志(エージェンシー)または社会構 造を主眼に置いてのアプローチのいずれもの 欠点を補填する研究方法として,スポーツ社 会学研究で中心的役割を果たしつつある2つ のアプローチが存在する。それがカルチュラ ル・スタディーズ(文化研究)とフィギュレ ーション社会学である。

1)カルチュラル・スタディーズ(文化研究)

上記研究の批判として権力構造間の相互作 用の欠如という点に触れたが,マルクス主義 の流れをくむグラムシ(A.  Gramsci)のヘ ゲモニー論を起点としつつ,様々な権力構造

の連関性に焦点を当てた研究に問題解決の糸 口を発見しようとした動きがあった。一部で はネオマルクス主義と評されるこのアプロー チは,伝統的なマルクス主義が「土台|上部 構造」の関係に基盤を置き,この土台と上部 構造の間に因果関係があると主張するのに対 して,相互作用や弁証法的方法論により重き を置く手法をとる。

具体的な研究方法としては,エスノグラフ ィ(民族誌)がその代表例として挙げられる2。 前述のエージェンシー(自由意志)を基点と した機能主義的手法が,質問紙と数理統計で マスを対象とした研究より普遍性を導き出そ うとしたのに対して,エスノグラフィでは,

対象により深く接近し,当該者の事象に対す る解釈を調査者の参与観察という作業を通し て解釈し綴っていくという手法をとる。近年 の研究では清水[1998]の甲子園野球への詳 細なフィールドワークを経てその物語生成過 程に対するテキスト分析をした『甲子園のア ルケオロジー』が代表例である。甲子園野球 のテレビ中継に関しての記号論的分析により その物語生成のメカニズムを明らかにし,徳 島県立池田高校の監督,コーチ,選手等の関 係者,また池田町の住民へのインタビューを 通じて対象者の実生活と高校野球の間に生ま れた「物語性」という連関を明らかにしよう としている。またその後清水は,過激といわ れるJリーグ「浦和レッズ」のサポーターへ の参与観察を通してスポーツファンのサブ・

カ ル チ ャ ー に つ い て 分 析 し て い る [ 清 水 , 2001]。こうした清水の試みは日本における 身体文化を解き明かす上でカルチュラル・ス タディーズのアプローチが効力を発揮するこ とのひとつの証となっている。

2)フィギュレーション社会学

社会学者エリアス(N.  Elias)はその代表 作『文明化の過程(Civilizing Process)』で,

人間の習慣が宮廷社会の出現等で洗練化され ていくにつれて,つばを吐くなどの生理的行

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動が次第に見えない部分へと追いやられ,い わゆる理性的行動と称されている行為のウェ イトが増してくる過程について考察した。彼 は「暴力」も中心的テーマとして扱い,前述 のマナーの生成と同じように,「暴力」に対 する生理的嫌悪感が個人の中で内面化されて きたことを史実に基づいて検証した[Elias, 1994]。この嫌悪感が自己抑制機能を導き出 し,集合的に非暴力社会を作り出してきたわ けである。彼の研究は文化としてのスポーツ の生成にも及び,英国における近代スポーツ の社会発生は,議会政治の社会的発生と軌を 同一にするものであり,ルールに基づく競争 の構造化という点でのシンクロニシティを論 じた。

メネル(S.  Mennell)によれば,エリアス の社会学のキー概念は「相互依存(inter- dependence)」と「過程(process)」である

[Mennell,  1998]。人間は生まれた瞬間から 誰かに依存しているわけであり,一生を通し て必要なものを得るために相互依存という連 鎖の中に居続ける。しかし,「人々の依存の 度合いというものは平等でないため,この依 存に絡む権力の配分は異なってくる。そして この権力配分は時代とともに変化するのであ るが,単純にランダムに起こるのではなく,

構造化された過程の中に生じてくるのであ る」[Mennell,  1998:36]とされている。多 くの社会学の分野で,概念化に際して,たび たび過程(プロセス)が省略されてきた。エ リアスはこの傾向を変えるために,プロセス 社会学という分野を強調した。その方法論の 特徴から,他の学派より「フィギュレーショ ン(関係構造)社会学」とラベリングされた。

エリアス派社会学の流れを汲むダニング

(E.  Dunnig)によって,さらにスポーツは このフィギュレーション社会学の中心的研究 領域となった。ダニングの代表作『ラグビー とイギリス人(Barbarians,  Gentlemen  and Players)』では,イギリスの階級構造が変化 した産業革命後,ビジネスの成功によって社

会的に影響力を持ってきた中流階級層が貴 族・上流階級層とのせめぎ合いの中,新興の パブリック・スクールであるラグビー校の発 展に大きく関与していることを論じた。教育 としてのスポーツの採用による成功で学校の 社会的地位を上げ,すでに社会的認識を確立 していた既存のパブリック・スクールに対抗 していった状況の中で,ラグビーが競技とし ての成立していった過程がそこでは検証され ている。またラグビーの競技自体の性質も,

暴力をコントロールする内面的抑制が一般市 民の間で強くなるに従って,ハッキング(足 を蹴るプレー)などが規制され,この社会的 変化に呼応する形で変容した[ダニングとシ ャド, 1983]。

エリアスの説によると,社会変化(文明化 の過程)は目的を持った個人ないし集団に対 する教育という手段による合理性(rational- ity)によって生じたのではなく,おおむね予 期しない,計画されていないことによって生 じたのである。しかしそこにはある一定の法 則(文明化へと向かう流れ)が存在していた

[Elias,  1994:443]と人間の関係構造が醸し 出す予測不可能な,複雑な社会変化の過程が 強調されている。

スポーツはホイジンガ(J. Huizinga)らが 指摘するようにもともと「遊び」としての人 間本来の文化的活動から派生したものである

[ホイジンガ,  1973]。この活動が,様々な社 会変化の過程を経て,近代化のイデオロギー と合致した側面で,その形式は洗練化され,

一部エリートのための競技スポーツへと変容 していくわけであるが,その変容過程の大部 分は,計画されていなかった予期せざる近代 への移行のプロセスであるともいえるであろ う。この「予期せざる変容」を分析する手段 としてエリアスに代表されるフィギュレーシ ョン社会学者は,人と人との関係構造が様々 なパワーバランスの揺らぎを経験しつつ,意 図しない方向に進んでいく現象を史実に基づ いて丹念に読み解いていった。スポーツ社会

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学研究においてひとつの主流的流れと見なさ れる所以はまさしくこの局面である。とはい えフィギュレーション社会学に対する批判も 多様な側面よりなされている。その多くが,

今までの社会学領域での研究蓄積との関係論 から派生している。フィギュレーション社会 学が,「構造」と「自由意志(エージェンシ ー)」のギャップを埋める画期的な学派とし て注目されたことと裏腹に,他の学派と議論 を交わしたり対比したりして社会学の中での 位置づけをはっきりさせてないことは大きな 戦略上の失敗である[Rojek,  1992:1-35]と いう指摘がその代表例であろう。

社会学の分野でスポーツに対する研究の比 重はここ数年劇的に高まっているといえる。

スポーツ研究において高く評価されたフィギ ュレーション社会学が,他の領域でも認知を 受け,社会学研究の準拠枠組みにしっかりと 根を下ろし,新たな局面を展開する担い手と なっていくかどうかは,今後のスポーツ研究 を含めた多種の文化領域における研究成果に かかっていると思われる。

次にこのフィギュレーション社会学の視点 から,スポーツ科学の発展と研究対象への重 みづけが変化していく過程に注目してみた い。

2.近代スポーツへの変化とスポーツ 科学

近代スポーツの確立に際して,それ以前に 存在していたプリミティブな身体文化は構造 化された過程を経て,その形が洗練されてき たとされている。グットマン(A. Guttmann)

はその過程を5つに分類している。つまり

「世俗化」「機会の均等化」「専門化」「組織の 合理化」「数値化」である[Guttmann, 1978]。 またロジェック(C.  Rojek)は,「民営化」

「個性化」「商業化」「脱戦闘化」を挙げてい る[Rojek,  1985]。これらの過程は,様々な 分野における近代化のイデオロギーと多くの 共通項を有しており,スポーツが社会生活に

欠くことのできない要素であるという共通認 識を作り出す後ろ盾となってきた。

オリンピックを初めとする競技スポーツ は,国際化社会で重要なツールとなり,ナシ ョナリズムの過強調,商業主義による支配な どの問題を内包しつつ発展してきた。その発 展過程でオリンピック・モットーに見られる

「より速く,より強く,より高く」というよ うに人間の身体的パフォーマンスには限界は ないかとの幻想に人々を駆り立てられてき た。この限界への挑戦の中でスポーツ科学の 果たした役割は大きく,無限の可能性を秘め たツールとしてアスリートたちの関心を集め てきた。M.ウェーバーが近代化の条件とし て挙げた「能率化」「合理化」という過程が,

近代スポーツでは自然科学の力を借りて合理 的に究極のパフォーマンスを追求するという 図式に集約されてきた。情報化社会の国を超 えての広がりと共に,ますますボーダーレス 化する国際的なエリート・スポーツ界で,

様々な自然科学の研究成果の集積の共有によ り,最大限の効率が約束されるエリート・ス ポーツ選手の均質的育成方法が世界中至ると ころで採用される傾向にある。つまり共通の スポーツ価値とイデオロギーの下で,合理化 されたラインに沿って選手や選手のパフォー マンスが生産されていく[Maguire,  2002]

という懸念に代表されるように,大量商品の 生産過程と同様のプロセスがエリート・スポ ーツの育成・発展にも適用されることが危惧 される状況が存在する。

科学至上主義により人間疎外に陥ってしま った状態は,まさしくホイジンガが指摘した

「まじめ支配」3の中で公的世界に収斂され,

「遊び」という人類の文化において他に還元 しえない本源的性格が,スポーツの中から失 われていく過程であろう。

2-1.加速するグローバリゼーションとスポ ーツ科学の親和性

グローバリゼーションという言葉が現代を

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描写するキーワードであることは衆目の認め るところである。ITに代表されるようなテ クノロジーによって,人間が生活,さらに突 き詰めていけば生存するために必要とする相 互依存のウェブがますます肥大化し,世界レ ベルで起きていることの相互的な影響力を避 けては通れない現実が存在する。かつては 人々の社会認識も「国民国家」という準拠枠 にほとんど限定されていたのに対して,現在 ではそのようなシステムを超越する「人類」

という単位での枠組に取って代わろうとして いる。一部でグローバリゼーションに近い認 識で用いられたアメリカナイゼーションは,

文化帝国主義という異文化間交流のネガティ ブな側面として描かれ,アメリカ文化やその 価値観の一方的な押しつけとの批判的論調で とらえられている。同様にスポーツのグロー バリゼーションの過程でも,西洋で生まれた スポーツのヘゲモニーが非西洋圏に拡大して いく中で,帝国主義的な一方向的な伝播につ いて論じられてきた。しかしグローバリゼー ションの過程がそれほど単純でないことが指 摘される傾向にある。例えば山下[2002]は,

ギデンス(A. Giddens)が近代社会の特徴を 表現するのに使った「脱埋め込み」というキ ーワードを用い,近代スポーツがコスモポリ タニズムに向かう方向性のメカニズムについ て論じている。近代スポーツの主要な構成要 素の中に見られる抽象化,とりわけ数量化に よる時空間を超えた広がりや,前近代のフォ ーク・ゲームと異なった規範やルールの「脱 埋め込み」などは普遍化されたコードとして,

時空間を超えた人々の相互結合を常に意識化 させてきた[山下,  2002:382-383]。この場 合「脱埋め込み」とは,民族や地域文化にお いて歴史的に埋め込まれたコードに代わる,

固有の文化的な差異を横断して,相互理解し うる新たな記号を有する価値体系の準拠枠を 与えることによって,文化的差異を有する 人々の意識をつなげることを可能にするシス テムを表す。スポーツを通してこの「脱埋め

込み」されたコードを共有し,人々がコスモ ポリタニズムに向かう可能性を示唆している わけである。

国際的なスポーツ・イベントは,異文化を 超えることで生まれる相互理解や協調などポ ジティブな側面が強調されがちであるが,山 下はこのコスモポリタニズムに潜む新たな危 険性を指摘している。近代スポーツ発展の

「脱埋め込み」の過程でトランスナショナル な統轄機関であるFIFAやIOCなどを生み出 してきたわけであるが,同時にスポーツ=メ ディア複合体やスポーツ商品の生産・循環・

消費の連鎖のグローバルな展開によって,統 轄機関を媒介としてグローバルな水準でスポ ーツが再編されている[山下,  2002:383]。

つまり経済を中心とした世界資本によるシス テムの均一性の中にスポーツが編み込まれ,

それ以前の固有の地域,文化においてスポー ツを通して存在していた付加的な意味がそぎ 落とされていく傾向にあることが危惧される わけである。マグワィア(J.  Maguire)もこ の国際統括機関と多国籍企業などによるスポ ーツの再編には危機感を表明しており,スポ ーツ界の方向性に対する意志決定において,

一部の元エリート・スポーツ選手,メディア やマーケティング関係者,多国籍企業の経営 者の影響力がますます強くなり,「民主的コ ントロールや運営の透明性や説明責任に対す る要求は満たされなくなる」[Maguire,  2002

:12]と予見している。

国際統括機構および巨大化したスポーツ産 業界に支配され,相対化してきた「国家」で あるが,オリンピック,サッカーワールドカ ップに代表されるスポーツのメガ・イベント は「国家」としての認知を世界に広める大き なチャンスであり,冷戦時との構図は違って いるものの国際大会での競争力を渇望するナ ショナリズムはいまだに高いといえる。例え ばイギリスでは1996年に英国(GB)スポー ツ・カウンシルから競技スポーツ部門が独立 した形で,UKスポーツが政府組織として発

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足した。「2012年までに世界のスポーツ大国 5番以内に入る」4ことを大目標に,競技力向 上と国際大会での成功という目的を達成する ための戦略に従って,宝くじの収益を各競技 団体やスポーツ科学研究組織に分配した。会 長のウォーカー卿(Sir R. Walker)は,「我々 の役割は,イギリスの競技者に,それぞれの 目標を達成するための現実に即した機会を与 えることである。今後1年間にオリンピック 並びにパラリンピック競技者が1秒1センチ でも良い記録を出せるよう,サポートを続け ていくつもりである。世界のスポーツにおけ る競争はますます激しくなってきているの で,こうしたわずかな差が勝敗を分けるので ある」5と述べて,記録重視と業績重視の方向 性を打ち出している。競技別の予算配分に当 たっては,メダルの可能性,世界クラスの競 技者の数,目標メダル数が重要となった6。 とにかく,毎年3000万ポンド(約65億円)も の巨額の宝くじの収益金が有効かつ説明のつ く形で利用されるという点を明らかにしなく てはならなかった。このため研究助成に関し ては,スポーツ科学やスポーツ医学に基礎を 置いた研究に助成金が与えられることになっ た。というのは,こうした分野の研究成果は,

スポーツ団体が適切な恩恵を受けているのを 明示的に示しやすいからである。近年では競 技者のパフォーマンス向上を目標とするスポ ーツ科学,スポーツ医学の研究成果は,国際 的に共有されるものが多くなり,それぞれの 国家体制下で新たな知見を得るための研究環 境を確立することより,この研究成果を活用 するに値するトレーニング施設等の競技環境 を整えることの重要性が増している。また選 手のマネージメントに関しても,特にプロ選 手においては,国際的なマネージメント機構 が均質化かつ高度に効率化された方法で,

様々な国の選手をマネージメントする体制が 整っている。要するにスポーツの国際大会で の成功を希求するナショナリズムは根強く存 続しているものの,それに対するアプローチ

は,極めて均質的に画一化されつつあるとい う現実が顕在化しているのだ。スポーツで究 極的パフォーマンスを追求する上で,様々な 文化的差異を超越した単一文化が形成されつ つあるといっても過言ではない。我が国にお いてもエリート・スポーツの分野が,この単 一文化に収束しつつあるプロセスを経験して いることにおいて例外ではないが,エリー ト・スポーツ,そしてその選手の供給源とな るべきである大衆スポーツが全く独自の発展 形態を持ってきたことで,この両者には大き な溝があることが特徴であるといえよう。二 極化し,いわば歪んだ形でのスポーツ発展形 態を持つ我が国のスポーツ界の中で,スポー ツ科学に対する特徴づけの背景となった体制 に次のセクションでは焦点を当てる。

2-2.我が国のスポーツ科学の体制

我が国では1950年に日本体育学会が設立さ れ,戦後スポーツ発展のためのミッションを 担ってきた文部省と連携して,スポーツ科学 研究体制の制度的確立がなされていった。

1960年代に入って,東京オリンピックのため の競技力向上の科学体制が設立されたことを 機に,競技選手の強化対策が,オリンピック での成功という目的のために国策へと発展し ていった。選抜された選手の個人的パフォー マンス向上に研究課題の重点が置かれ,動員 された科学者の多数は自然科学者であった。

施設・諸条件が保証された一流選手の能力向 上に課題が一元化されたことによって,日本 のスポーツとスポーツ科学像を著しく自然科 学 に 傾 斜 し た も の と し て い っ た [ 山 下 , 1986:233]。一方,社会科学関連の研究分野 においては,「体力の養成にはスポーツが主 要な役割を果たすものであり,ここに体育・

スポーツ振興に新たな意義がある」7という音 頭の下で「体力向上運動」がテーマの中心と なり「スポーツ参加」をキーワードとして 様々な調査研究が展開されていった。また,

生産性の向上のための従業員の健康という観

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点から企業もスポーツを取り上げ,この「手 段化されたスポーツ」は経営科学を指向する 社会科学の分野においては重要なフィールド となっていった。山下[1986]は,こうした スポーツ科学の流れに対して3つの問題点を 指摘している。すなわち1)著しい自然科学 的傾斜,2)その自然科学自体の跛行性,3)

社会科学の経営科学化である。そこに欠落し ていたのは国民の自己教育主体,スポーツ文 化の享受=創造主体としての位置づけである と山下は批判している。こうした歪んだ構造 のツケは1990年代になって顕在化してきた。

つまり,一部のエリート選手育成の基盤を担 ってきた企業スポーツと,学校スポーツがそ れぞれ不況,少子化でその存在自体を脅かさ れてきたのである。1991年から2003年の間に 277もの企業スポーツクラブが休廃部に追い 込まれた8。学校スポーツでは少子化による 部員不足によりチーム(特に多くのメンバー を必要とする団体スポーツの場合)を形成す ることができなかったり,または指導者の高 齢化による活動の停滞などが見られ,大いに 危機的な状況にあるわけである。文部科学省 はこうした問題を一気に解決する理想郷とし ての「総合型地域スポーツクラブ」という考 え方を導入し,競技スポーツと大衆スポーツ を一元化するため,2000年9月に策定された スポーツ振興計画の下でスポーツ環境の再編 成を試みている。企業や学校主体による選手 育成では断絶していた大衆スポーツからエリ ートの競技スポーツへの流れを作れば,今ま で見向きもされなかった層に埋もれた原石を 発見できるかもしれないという点で,このプ ロジェクトは意義があるといえる。また,小 学校,中学校,高校という異なる段階で分断 された競技または指導体制から,長いスパン に渡るシステマティックな一貫した指導体制 という,競技者の長期的発展のために大きな 利点を生み出しうる競技環境を創出するとい う目標は,総合型地域スポーツクラブの根幹 的理念であるといえる。学校スポーツと企業

スポーツというスポーツ・エリートを輩出し てきたエージェントの脆弱化という状況を補 うための手段的スポーツ環境の民主化とも考 えられるが,「国民の週1回のスポーツ実施 率を現在の35%から50%に引き上げる」と

「オリンピックでのメダル獲得率を現在の 1.7%から3.5%に倍増させる」という目標項目 の共存は,市民スポーツを基盤とした真のエ リート・スポーツから大衆スポーツへの連続 したピラミッド構造の確立という可能性を秘 めているといえる。

具体策としては,2010年までに,基盤とな る総合型地域スポーツクラブの創設・運営活 動の支援を目的とする広域スポーツセンター を各都道府県に4〜5ヶ所設立し,全国で 300ヶ所設立することになっている。また総 合型地域スポーツクラブ自体は中学校区に1 ヶ所,全国で1万ヶ所の総合型地域スポーツ クラブを作ることが目標値として設定された。

2003年1月の時点で,全国で1,135の総合型 地域スポーツクラブが立ち上がった9。その 足取りは順調のように見えるが,実際には既 成の草の根クラブを単なる数そろえで総合型 地域スポーツクラブとして登録したものや,

補助金目当てで設立したものの補助金が打ち 切られたら存続が危ぶまれるクラブなどもあ る。多くの都道府県における総合型スポーツ クラブの発展が,地方公共団体の直接運営型 である広域スポーツセンターによる官主導型 の展開でしかない実情が明らかになってい る。多少悲観的な見方をすれば,今回のこの 総合型地域スポーツクラブのプロジェクト は,今まで自然発生的に生まれてきた,また はそれぞれの競技団体が独自に育成してきた 草の根レベルのスポーツクラブが官主導型で 再編成されているとも考えられる。欧州型の エリート競技者を輩出するような競技スポー ツとレクリエーション・スポーツの連続性の あるクラブづくりという官が描いている画一 的な鋳型に,補助金助成というフィルターを 使って多くの草の根クラブを押し込んでいる

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ともいえる。クラブ運営面でも,クラブ運営 の合理化モデルをクラブ・マネージャー等の 資格を浸透させることによる経営効率の画一 化,つまり均質的効率性の演出による管理体 制が見え隠れしてくる。これはある意味では 独自の形で発展してきた草の根クラブのオー トノミーを切り崩す危険性をはらんでいる。

3.スポーツ科学からスポーツ学へ

エリート競技を取り巻く環境に形成されつ つある単一の均質的文化,それを支えている スポーツ科学,我が国のスポーツ振興の根底 にある均質的管理体制について見てきた。こ の単一の均質文化および均質的管理体制によ って合理化,効率化が追求された暁に皮肉に も出現する現実は「人間の疎外」であろう。

藤井は稲垣[2001]が唱えているスポーツ 文化の脱構築論に依拠し,自然科学万能時代 に警鐘を鳴らしている[藤井,  2003]。そし てその行き着く先が人間の「モノ」化という 結末であり,スポーツ科学の有する未来像が 人間性の疎外へつつながっていることを論究 している。また,マグワィアは社会学の永遠 の課題である「参加|距離化」(Involvement- Detachment)の議論から,この「モノ」化 現象の過程を分析している。彼によると,自 然科学者はピーク・パフォーマンスや科学的 コーチングといったトピックを追求する際 に,自分の実験課題に対して全体像からの位 置づけを欠いたまま,過度に研究対象に「参 加」してしまうことが問題であるとしている。

この研究者を「参加|距離化」のバランスを 失わせるほど近視眼的に研究対象に参加させ る動機づけは,成功の社会的認知であったり,

一部の学術分野での評価であったりする。こ うして全体像としての人間を見失うことによ り,「モノ」化された人間像が創出されるわ けである。「モノ」化された人間像の危険性 をホバーマン(J.  Hoberman)は以下のよう に描写している。

「スポーツ科学は人間と機械の物理的なハ

イブリッドを生み出すことはない。(中略)

その代わりに,スポーツ科学は人間の身体器 官を機械のように,もしくは機械であるべき かのように扱っている。この機械化された人 間の身体器官も,心と体を持つのであり,二 つの異なったシステムから成り立っているわ けである。この実は二つの異なったシステム を持っているという要求は顕在化しないた め,人間のイメージは一元的に扱われ,単純 化されたものとなってしまう」[Hoberman, 1988:325]。つまり「こころ」不在のマシン 化された身体のデフォルメされたイメージが 強調されるわけである。

藤井はスポーツ学という総合学を提唱する ことによって,科学偏重の学問体系からの脱 皮,経験知を生かす学際的分野としての正常 な舵取りが可能であることを示唆している。

またスポーツ現場での知の積み重ねが生かさ れなかった理由として,それらが単なる「経 験知」であって,「科学的でない」という理 由から軽視されたということを挙げている

[藤井,  2003:2]。この「経験知」再確認と いう作業こそ,欠落した「こころ」を身体イ メージに取り戻すことにつながるものであ る。

社会科学の領域でも,特殊なハビトゥス

(社会的体質)を有するスポーツの世界は周 辺分野としての位置づけに甘んじてきた。マ グワィアはスポーツの世界の特殊な倫理体系 として,1)犠牲を厭わない,2)卓越性の ための努力,3)危険を容認したり,参加に よる苦痛の可能性を伴うこと,4)究極のパ フォーマンスの追求には限界がないことの暗 黙の了解[Maguire, 2002:3]を挙げている。

これらの倫理体系はスポーツ経験を通して 若年期に体得するので,スポーツ関係者にと っては自明の理となり彼らのハビトゥスとな る。この特殊性ゆえ社会科学者がスポーツと いうテーマに本腰を入れて取り組んでこなか ったために,自らスポーツ科学の中心領域と なることを潜在的に回避してきたという因果

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関係も存在する。しかしスポーツが一部のエ リート競技者だけでなく,多様な形で多くの 人の生活に浸透している現代,スポーツは社 会科学の研究領域として近年急激に重要度を 増し,中心的研究対象へのベクトルも出現し つつある。

またスポーツ科学領域での研究先鋭化の賜 である優生学や遺伝子工学によって人間の選 抜を強化したり,高度なスポーツ医学によっ てサイボーグ化された人間を作り出す技術 は,スポーツ倫理を飛び越えて人間性そのも のの倫理に対する挑戦であるともいえる。人 間や人間社会を全体像でとらえることのでき る社会学,スポーツ社会学はその舵取り役と してより大きな役割を担ってきているわけで ある。

しかし個人エージェント,多国籍企業,非 国家的エージェント,スポーツ組織などの複 合体から世界的な規模のスポーツ産業が構成 され,グローバリゼーションの過程において 著しく巨大化しているスポーツの姿がある。

スポーツの将来に対する意志決定や方針決定 に関して民意を反映することは極度に困難に なり,かつ複合体の運営母体から民衆への説 明責任はより実現不可能なものとなりつつあ る。スポーツ社会学者はスポーツ科学におけ る位置づけ同様,スポーツに関するポリシー 決定において,ますます蚊帳の外に追いやら れる傾向にある。

マグワィアはスポーツ科学の概念の代替的 概念形成を提唱し,この試みこそがエリー ト・スポーツに偏重しているグローバル・ス ポーツの世界において,ローカル・スポーツ のニーズと地球規模の相互依存性とのバラン スをとる手助けになるのではないかと主張し た10。私は,「スポーツ科学」において欠落 してきた部分を補完する可能性を秘めた代替 概念として,稲垣・藤井が構築しつつある

「スポーツ学」がこのマグワィアの要求にま さしく合致するものであると考える。藤井が 構成した「スポーツ学のコンセプト」には,

1)共生スポーツの観点,2)スポーツ文化 の観点,3)実践学の観点(経験知),4)

総合学の観点(総合知)という4つの側面が 挙げられている[藤井,  2002]。このうち共 生スポーツの観点には,高度化しグローバリ ゼーションの波にのみこまれつつあるエリー ト・スポーツと,地域文化を象徴するローカ ル・スポーツまたは地域を基盤に活動する生 涯型スポーツ(地域住民の交流を目的とした レクリエーション的動機が強いもの)のトー タルな形での発展という理念が表現されてい ると思われる。一方でエリート・スポーツで の達成への注目が地域の生涯スポーツ実践者 の動機づけになったり,エリート・スポーツ でのトレーニング法などの実践方法等の知識 が生涯スポーツの競技環境改善に役立ったり するという競技スポーツから生涯スポーツへ のプラスのストロークがある。また他方では,

多世代のスポーツ実践者と接し,人間として の成長の土壌を提供している地域スポーツで の経験が,その後エリート・スポーツへと発 展していく若年スポーツ選手の精神的発展の 礎となり,多くのスポーツ愛好家を生み出し,

生涯に渡ってエリート・スポーツを参加以外 の形態で支援する人々を生み出すなど,生涯 スポーツから競技スポーツへのプラスのスト ロークを生み出す。「スポーツ学」はこの両 者の共存はもちろんのことの,相乗効果でと もに成長していくという「共生」というパラ ダイムシフトへのキーワードを含有してい る。スポーツ科学は結果として特殊な範囲の スポーツ像に焦点を当ててきたが,スポーツ 学はトータルなスポーツ像(それがスポーツ 本来の姿だと思われる)に回帰させるバラン ス取りの役割を担うはずである。その過程に おいて,社会学がトータルな視点で人間社会 を分析する理論枠組みを提示してきたよう に,スポーツ社会学もこの「揺り戻し」の作 業に大きく貢献しうるものであると確信して いる。

(12)

1 例えばA.G.インガムはケニヨンのスポーツ の社会的区分に関して全体論的な関係を包摂 する理論化からの退却とし,J.  ハーグリーブ スはヘゲモニー論から,価値関与の明示の欠 如を指摘している。

2 清水[2001]が,スポーツ社会学の実証的 アプローチについて,エスノグラフィを主た る方法論として,松村[1997],リーヴァー

[1996],ビュフォード[1994]らの研究成果 を例示し,その有効性について論じている。

3 山下[1999]は『「まじめ支配」と近代スポ ーツ』の中で,ホイジンガ,バフチンの議論 を分析し,近代世界の中におけるスポーツの 近代性と「遊び」の固有の世界の関係性につ いて論じている。

4 UK Sport Annual Review, 2002/2003 5 UK Sport, Annual Review, 2002/2003 6 UK Sport, Annual Report, 2001,p.7 7 金田智成(前内閣審議官)「国民体力向上の

ための政府の施策」『体育の科学』19巻11号 8 株式会社スポーツデザイン研究所の2003年

度調査による。

9 黒須[2003]の調査による。

10 第2回国際スポーツ社会学会国際会議(於 ケルン・スポーツ大学,2003年6月18日から 21日)のテーマ別セッションでのMaguire氏 の発表:Sport  Science  and  Global  Processes:

Social  Capital,  Governance  and  Sustaina- bility)

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参照

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