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︱ 詠 ま れ た 植 物 の 部 位 ︑ 集 ま り ︑ 空 間 を 視 点 と し て ︱ 石   井   翔   子

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(1)

正 岡 子 規 自 筆 ﹃ 竹 乃 里 歌 ﹄ 短 歌 の 植 物 語 彙 に つ い て

︱ 詠 ま れ た 植 物 の 部 位 ︑ 集 ま り ︑ 空 間 を 視 点 と し て ︱ 石   井   翔   子

一︑はじめに

正岡子規の短歌に詠まれた植物語彙について︑植物の部位︵枝や葉など︶と集まり︵桑の田など︶︑植物によって作られた空間︵木陰など︶を表す語について調査することで︑子規の短歌の写生の姿勢が期間毎にどのような変化をするのかを明らかにしたい︒子規は生涯二四五三首︵作歌した時期が判明しているものは二四三二首︶の短歌を作成しており︑作歌の期間は明治十五年以前から明治三五年までである︒

この作歌の期間を︑明治三十年以前︵短歌革新前︶と明治三一年︑三二年︑三三年︑三四年︑三五年の六つに分けた︒六つに分けた理由は︑次のとおりである︒多くの先行研究において︑短歌革新発表以前︵明治三十年以前︶と革新後から晩年︵明治三一〜三三年︶︑晩年︵明治三四︑三五年︶の三つに大きく分けている︒一方で︑短歌革新発表の作品と︑晩年の作品では︑その歌風が異なっ

ており︑年毎に変化が見られるとの指摘もある︒また︑明治三十年以前︑三一年︑三二年︑三三年と分けることで︑それぞれの期間の作品数のバランスがとれると考えられる︒

(2)

本研究で植物の部位と集まり︑空間に注目するのは︑次の三つの理由からである︒一つに︑植物に注目するのは︑子規の生涯を通しての特に身近な存在が︑植物であったと考えられるからである︒二つに︑短歌における﹁枝﹂などの植物の部位の調査をすることで︑植物の歌への写生の際の微細な表現の有無についてを︑検討することが出来ると考えたからである︒左に歌の例を挙げる︒歌の引用に際して︑該当語を四角で囲

み︑﹃竹乃里歌﹄﹃竹乃里歌﹄拾遺の初出順に歌番号を私に記し︑作歌年次も附して示した︒︵以降の作品例も同様である︶

から國ゆ歸りし船の舳に立ちて須磨の濱松見ればうれしも︵一七四八・三三年︶靑松の横はふにふる雨に露の白玉ぬかぬもなし︵一七六〇・三三年︶右の﹁から國ゆ﹂の歌は植物の部位を表す語が使用されていないものである︒それに対して﹁青松の﹂の歌は︑﹁枝﹂や﹁葉﹂という語を使用することで︑﹁から國の﹂の歌よりも︑歌に詠まれる植物の表現が微細なものとなっている︒

また表現が微細になっていることで︑雨が松に降っている様子や松葉から雨粒が滴っている様子が明瞭に感じられる︒三つに︑短歌における﹁森﹂などの植物の集まりや︑﹁木陰﹂などの植物によって生まれた空間を調査することで︑植物の短歌への写生の方法の変化と︑体調による行動範囲の変化との対応について検討できると考えたからである︒

桑の田は靑海原となりぬべし末の松山波は越えじな︵四六九・三一年︶我庭の松の木陰に菊さけば昔の人し思ほゆるかも︵一九一一・三三年︶右の﹁桑の田は﹂の歌のように田畑や森林など大規模な植物の集まりを歌に詠む例は︑晩年︵明治三四︑三五年︶には見られない︒

(3)

﹁我庭の﹂の歌の﹁木陰﹂と﹁︵木陰の中の︶菊﹂というように︑陰と陰の中にあるものの組み合わせ方についても︑期間ごとに特徴が現れた︒ちなみに︑陰の中のものについて︑次のような子規の主張がある

ある者なり︒薄暗き恐ろしき森の中に一本の赤椿を見つくれば非常にうつくしく且つ愉快な感じを起す︒此時に 最美極感の處は必ずしも常に大なる處著き處必要なる處にあらずして︑往々物陰に半面を現すが如き隠微の間に ︒ 1

は椿を中心として書くに宜しけれど︑椿を中心とするとは必ずしも椿を詳叙するの謂にあらず︒森の薄暗き恐ろしき様を稍〻詳に叙して後に赤き椿を點出せば一言にして著き感動を読者に与へ得べし︒

さて︑子規は写生について︑次のように述べている

実際の有のまゝを写すを仮に写実といふ︒又写生ともいふ︒写生は画家の語を借りたるなり︒ ︒ 2

また︑短歌に詠む対象の表現の仕方について︑次のように述べている

短歌における写生の対象となるものとして︑長谷川孝士氏は次のように指摘している 只自己が美と感じたる趣味をなるべく善く分かるやうに現すが本来の主意に御座候︒ ︒ 3

子規の写生短歌の題材は︑属目の風景や事物に限定されることなく︑昔話や古典︑絵画などをも対象としてい ︒ 4

て︑極めて自由であった︒このように︑子規が美と感じたもの︵嘱目でないものも含む︶をありのままに印象明瞭に詠むことが︑子規の短歌

における写生であると考えられる︒ただし︑次の子規の主張から読み取れるように︑写生に際しての取捨選択は行われている

或る景色又は或る人事を叙するに最も美なる處又は極めて感じたる處を中心として描けば其景色其事自ら活動 写生といひ写実といふは実際有のまゝに写すに相違ないけれども固より多少の取捨選択を要す︒⁝︵中略︶⁝ ︒ 5

(4)

すべし︒子規が写生の対象である植物をどの様に歌に詠み込んでいるのかを明らかにすることで︑子規の写生の方法の変化

を使用語彙の面から確認することが出来るのではないかと考える︒子規の短歌に詠まれた植物の部位と集まり︑植物によって作られた空間を表す語の使用実態を以下報告する︒

二︑調査資料

植物語彙の採録は︑以下の三点で行った︒自筆本﹁竹乃里歌﹂の複製本︵講談社  一九七六年九月六日出版︶講談社版﹃子規全集  第六巻﹄収録

調査対象となった短歌は作歌年が分かる二四三二首とした︒    正岡子規自筆﹃竹乃里歌﹄﹃竹乃里歌﹄拾遺語彙総索引稿︵金子彰・石井翔子編私家版︶   ﹁  竹乃里歌﹂と﹁竹乃里歌﹂拾遺︵講談社一九七七年五月十八日発行︶

三︑調査方法

植物語彙の分類に当っては︑子規の編集した語彙集﹁たね本

独自に作成した索引から抽出した植物語彙は次の八種類に分けることができた︒ 本稿で独自に抽出した短歌の植物語彙は︑﹁たね本﹂にみえる語彙とみえない語彙とがあった︒﹁たね本﹂を基準に︑ ﹂で﹁植物﹂の項目に分類された語彙を基準にした︒ 6

(5)

八種類の分類に︑短歌で使用された語彙の例を挙げた︒総称⁝﹁木﹂﹁草﹂

をひしぎ巖を碎く響きして木曾の深山は雪なたれせり︵五九四・三一年︶ふりつゞくさみだれ時となりにけり長うして葵咲く庭︵一一一八・三二年︶植物の名前⁝﹁紫陽花﹂﹁桜﹂等

紫陽花の花咲く山の山の奥に惡魔こめたる窟ありけり︵一一九八・三二年︶隅田川堤のさくころよ花のにしきをきて歸るらん︵一・十五年︶植物の部分⁝﹁梅枝﹂﹁花﹂等年の内になとかはさかぬさけりとも雪にやうつむ庭の梅か枝︵二一二・二五年︶手習の草紙干すなる寺子屋の庭の紅梅咲きにけり︵四三六・三一年︶食料となるもの⁝﹁黒茸﹂﹁唐茄子﹂等しばし住むめのとの宿は山近みともしくもあらず茶蕈黑蕈︵七六八・三一年︶神鳴のわつかに鳴れば唐茄子の臍とられじと葉隱れて居り︵七一五・三一年︶植物の集合体⁝﹁要垣﹂﹁夏野﹂等亡き友を埋めし墓のかねめ垣茂るを見れば我老いにけり︵一〇六一・三二年︶牛むれて歸る夏野の夕はえのかゝやく色をたくみにかきぬ︵一五〇六・三三年︶植物によって生起した自然現象の起きた空間⁝﹁木陰﹂﹁葉隠れ﹂等

木陰にもしのきかねたるあつさには扇の風も何ならぬかな︵二〇・十八年︶

(6)

道のへに捨てし刈藻の葉かくれに螢光りて小雨ふるなり︵六八〇・三一年︶植物を基準にした場所⁝﹁木末﹂﹁木の間﹂等椎の木の木末に蝉の聲老いてはつかに赤き雞頭の花︵一一八八・三二年︶住吉ノ神ノソリ橋夕サレハ松ノ木ノ間ニ細キ月見ユ︵一八七七・三三年︶植物の香り⁝﹁梅が香﹂﹁香﹂﹁花の香﹂﹁薔薇の香﹂いつのよの庭のかたみそ賤か家の垣ねつゝきに匂ふ梅かゝ︵二四五・二六年︶紅の薄色匂ふ薔薇の花を折りて手にもちてを嗅く少女︵一五四一・三三年︶

花の香を若葉にこめてかくはしき櫻の餠家つとにせよ︵拾遺五六・二一年︶

くれなゐのとばり垂れたる窓の内に薔薇の香滿ちてひとり寐る少女︵一五四〇・三三年︶本稿で植物語彙としたものは︑前出の八つの基準の何れかに当てはまるものとした︒一方で︑植物語彙として認めなかったものは以下のものである︒飲食が目的で収穫されたもの・食材となっているもの

瓜茄子あきなふ店をめつらしみ車ゆるめて小道より行く︵八八五・三一年︶花の香を若葉にこめてかくはしき櫻の餠家つとにせよ︵拾遺五六・二一年︶飲食が目的で収穫されているもの牛かひは菫の小路歸りけり摘むをとめはたんほゝの畔︵五三七・三一年︶植物が材料となっているもの裏口の木戸のかたへの竹垣にたばねられたる山吹の花︵拾遺三七三・三四年︶

(7)

植物としての意味が読み取れないもの君か代の流久しき古川に泥鰌のの盡くる時しらに︵一三四〇・三三年︶植物の特徴が捉えられないと判断したものくれ竹のうき節しけきよの中を菅の小笠にかくれてそ行く︵拾遺二二九・二五年︶植物語彙の含まれる作品数は︑次のとおりである︒なおこれ以降︑これらの作品数を﹁植物歌数﹂とする︒明治三十年以前⁝一九八首  明治三一年⁝三二三首  明治三二年⁝一四〇首明治三三年⁝⁝⁝三一五首  明治三四年⁝五四首   明治三五年⁝四五首植物の部位を表す語とは﹁梅枝﹂﹁種﹂等のものであり︑植物の一部を表している語とした︒

またそれ以外にも︑﹁花菫﹂のように植物の一部を表す語が含まれる語や︑﹁梢︵木末︶﹂のように語としての意味が植物の部位を指しているものも︑植物の部位を表す語に入れた︒植物の部位を表す語を使用した作品数は︑次のとおりである︒なお︑以降はこの作品数を﹁部位歌数﹂とする︒明治三十年以前⁝一一八首  明治三一年⁝一四〇首  明治三二年⁝六三首明治三三年⁝⁝⁝一五八首  明治三四年⁝四二首   明治三五年⁝二四首植物の集まりを表す語とは﹁要垣﹂﹁桑の田﹂等のものであり︑生きた植物が集合して群生している様を表現して

いるものとした︒また︑﹁百菫﹂や﹁諸枝﹂など植物や植物の部位が複数あると読み取れるものと︑﹁草むら隠れ﹂のように語の一部

に植物の集まりを表す語が含まれるものも︑植物の集まりを表す語とした︒植物の集まりを表す語を使用した作品数に︑﹁︵桑の︶畑﹂のように一語では植物語彙としなかったものや︑﹁︵荻︶

(8)

分けゆく﹂﹁さわに﹂等のように︑植物が複数存在することが読み取れる語を使用した作品数を加えると︑次のようになる︒なお以降は次の作品数を﹁集まり歌数﹂とした︒明治三十年以前⁝五七首  明治三一年⁝八八首  明治三二年⁝四二首明治三三年⁝⁝⁝八八首  明治三四年⁝四首   明治三五年⁝二首植物によって生まれた空間を表す語とは︑﹁木陰﹂﹁葉隠れ﹂等のものであり︑植物を原因の一つとして自然現象の生起する場所を表すものとした︒植物によって生まれた空間を表す語を使用した作品数に︑﹁︵葉廣柏の︶陰﹂のように一語では植物語彙とならないが︑植物によって生まれた空間を表していると読み取れる語を使用した作品数を加えると︑次のようになる︒なお以降はこの作品数を﹁空間歌数﹂とした︒明治三十年以前⁝十八首  明治三一年⁝二〇首  明治三二年⁝一首明治三三年⁝⁝⁝十四首  明治三四年⁝二首   明治三五年⁝〇首

四︑植物の部位・集まり・空間について

以上の﹁部位歌数﹂と﹁集まり歌数﹂︑﹁空間歌数﹂の︑﹁植物歌数﹂に対する割合︵単位は%︑少数第二位以下四捨五入  以降の表も同様︶を︑期間毎にまとめた︒

(9)

一つに︑明治三十年以前の作品は植物の部位を詠み込む傾向が大きく︑明治三一年の革新直後の作品では植物の部位を詠み込むことが少なくなり︑晩年の作品で再度植物の部位を多く詠み込むようになっていること︒二つに︑明治三十年以前から三三年までの期間において植物の集まりを表す植物語彙を使用する傾向が強く︑晩年︵明治三四︑三五年︶では植物の集まりを表す植物語彙を使用する傾向が弱いこと︒三つに︑革新前︵明治三十年以前︶から晩年へと年が下って行くに従って︑植物によって生起した自然現象が起きた空間を詠むことが少なくなり︑最晩年︵明治三五年︶では全く詠まれなくなっていること︒ 部位歌数 集まり歌数 空間歌数 ︵表 1︶

30 以前 59.6

(118 28.8

(57 9.1

(18

31 43.3

(140 27.2

(88 6.2

(20

32 45

(63 30

(42 0.7

(1

33 50.2

(158 27.9

(88 4.4

(14

34 77.8

(42 7.4

(4 3.7

(2

35 53.3

(24 4.4

(2 0

(0

(10)

︵ 明治三一年から三三年の期間で︑植物の部位を歌に詠み込む傾向が小さくなったことについて︑明治三十年以前よ

1

︶植物の部位 り︑対象物を細かく描写する意識が減ったためではないかと考える︒その理由は次の二つの考えからである︒①  明治三一年から三三年における写生の対象を印象明瞭にする方法として︑部位を描写するのではなく︑歌材の配合によっていると考えられる②  植物を観察する際の視線が︑他の期間よりも上下していると考えられる

①について︑長谷川孝士氏による次の指摘がある

治三十二年五月︶の文章で子規は︑天然界における赤の必要性に言及している︒そして家屋の装飾の場合も︑す 焼の乳の色なす花瓶に梅と椿と共に活けたり︶においても︑三点が達成されている︒⁝︵中略︶⁝随筆﹁赤﹂︵明 子規は俳句を作る上で大事なこととして写生︑配合︑客観描写の三点を強調したといわれるが︑この短歌︵砥部 ︒ 7

べて白との﹁配合﹂﹁対照﹂において赤が生きると述べている︒この短歌の場合も﹁配合﹂が生きている︒明治三一年の時点では︑子規は﹁歌俳同一﹂の立場におり︑﹁俳句を作る上で大事なこととして写生︑配合︑客観描写の三点を強調した﹂ように︑三一年の短歌にもその考えを取り入れることが多かったと考えられる︒また︑今西幹一氏は︑﹁既製の自己の俳句から短歌への焼き直し﹂が﹁百中十首﹂で行われていたことを指摘して

いる

例えば今西氏は﹁人住まぬいくさのあとの崩れ家杏の花の咲きてけるかな﹂の歌を作る前に︑﹁梨咲くやいくさの 98

(11)

あとの崩れ家﹂という俳句が作られていることを指摘している︒このように﹁焼き直し﹂された短歌には︑俳句で扱われていた材料と新たに加えられた材料の配合がみられ︑その配合によって歌材の印象が明瞭なものになっているのではないか︒そしてこのような﹁歌俳同一﹂の考えが明治三二年に改められたとされるが︑複数の歌材の配合をもつ作品は︑三二年と三三年にもみられる︒門並に柳植ゑたる家つゞき春雨細く燕飛ぶなり︵一〇四五・三二年︶春雨をふくめる空の薄曇山吹の花の枝も動かず︵一七〇一・三三年︶このような歌材の配合による︑写生の対象を印象明瞭にする方法が︑明治三一年から三三年の間の期間で︑他の期間より多く用いられたのではないかと考える︒②について︑歌に詠み込んだ植物の部位の種類が︑明治三一年から三三年の期間で多くなったことから考えた︒植物の部位について︑子規の短歌作品に詠まれた部位は十六種類に分類でき︑それを大きく四つに分類する︒地下の根の部分から地上の上部に存在する部分として︑﹁地下に生えている根・茎や幹の根元︵以下﹁根﹂︶﹂﹁種﹂﹁﹃部位︵中︶﹄と同じ高さではない芽︵以下﹁芽

1

﹂︶

﹂を﹁部位︵下︶﹂とした︒淺からぬ根さしも見する深綠思ましなの池のあやめは︵拾遺三四・十八年︶菓物のを小庭に蒔き置きて花咲き實のる年を待つわれは︵九四〇・三一年︶古庭の萩も芒もをふきぬ病癒ゆべき時は來にけり︵三四五・三一年︶次の作品の﹁芽﹂は﹁芽

くれなゐの二尺伸びたる薔薇の芽の針やはらかに春雨のふる︵一六九六・三三年︶

1

﹂としなかった︒

(12)

地上であり且つ植物の先端ではない植物の部位として︑﹁殻

﹂﹁棘﹂﹁草の葉︵以下﹁葉 10

1

﹂︶

﹂﹁節﹂﹁﹃部位︵中︶﹄と同じ高さの芽︵以下﹁芽

2

﹂︶

﹂を﹁部位︵中︶﹂とした︒亡き親の來るとはかりを庭の石にひとりひさまつき麻のを焚く︵四〇〇・三一年︶くれなゐの二尺伸びたる薔薇の芽のやはらかに春雨のふる︵一六九六・三三年︶川の端のをひしけりたる草の葉に夜しるむしの見えつかくれつ︵拾遺二・十七年︶呉竹のふしも直なる心もて葉分の風を雨とあさむく︵二一・十八年︶

くれなゐの二尺伸びたる薔薇の芽の針やはらかに春雨のふる︵一六九六・三三年︶植物の先端にある部位として︑﹁枝﹂﹁木の葉︵以下﹁葉

2

﹂︶

﹂﹁萼﹂﹁穂﹂﹁蕾﹂﹁花﹂﹁花弁﹂﹁実﹂を﹁部位︵上︶﹂

とした︒板塀に立枝ぞ見ゆる門構誰か思ひ者か梅に琴をひく︵三六二・三一年︶市人は櫻の上にながむらん杉の木末の春の夜の月︵六二九・三一年︶時雨ふる冬としなれは木枯のふくとも見えす木の葉ちる也︵六二・十八年︶花散りて葉はまだ萌えぬ小櫻の赤きうてなにふる雨やまず︵一六五七・三三年︶かたみたに今はなつのゝしの薄まだにいでぬ風の色哉︵二五二・二六年︶花いけにいけなんとする紅梅のあたらの玉をこぼしつ︵四三四・三一年︶手習の草紙干すなる寺子屋の庭の紅梅咲にけり︵四三六・三一年︶散り落ちし牡丹の花の花びらに君を思ふの歌書き贈る︵一七二一・三三年︶病みて臥す窓の橘花咲きて散りてになりて猶病みて臥す︵四六二・三一年︶

(13)

次の﹁紅葉﹂のように﹁散って地表にある葉︵以下﹁葉

3

﹂︶

﹂を﹁他﹂とした︒木枯の風吹きおろす大井川紅葉おしわけて筏さすなり︵拾遺二三三・二五年︶以上のように分類した植物の部位が詠まれている作品数を︑各期間でまとめたものが次の表

2

である︒

表より︑明治三一年から三三年の期間に植物の部位を詠む際︑他の期間の場合と比べて︑歌材を求めて目線を上下する必要がより多かったのではと考えられる︒明治三一年から三三年の期間では︑他の期間と比べ︑作歌の際に対象

30年以前

31年 32年 33年 34年 35年 表 2

部位

1

根 2 2 1

種 1 1 1

芽 3 1 2 1

部位

2

殻 1

棘 1

葉1 7 8 2 2 節 3

芽2 1 3 1

部位

3

枝 13 15 12 24 3 葉2 20 21 10 18 1

萼 1

穂 2 2

蕾 3 1 1 1 1 花 73 85 39 113 37 23

花弁 2

実 1 3 2 4 1 他 葉3 3 2 2

(14)

物全体を見ようとする意識が強く︑その為に対象物の一部を細かく描写しようとする意識が弱くなったのではないだろうか︒次に︑明治三四年以降に︑植物の部位を詠む傾向が再び大きくなり︑また﹁花﹂に偏っていることについて︑晩年の作品の多くが自己の死が意識されていることに︑影響していると考える︒次の﹁世の中は﹂の歌では﹁花﹂が散る

ことで無常を感じたり︑﹁なくさもる﹂の歌では﹁花﹂の様子の変化で時間の推移を感じているのではないか︒﹁花﹂の状態の変化は︑同じ﹁部位︵上︶﹂であり明治三三年まで多く詠まれていた﹁枝﹂﹁葉

なくさもるすべもあれとか花菫色あせたれとすてまくをしも︵拾遺四七八・三五年︶ 世の中は常なきものと我愛づる山吹の花散りにけるかも︵拾遺三八六・三四年︶ ているのではないだろうか︒ 確で且つ変化に必要な時間も短いのではないだろうか︒このことが︑より自己の死を子規に意識させることに繋がっ

2

﹂よりも︑変化の様子は明

また︑次の指摘

が上下していることから︑明治三一年から三三年の期間で︑植物の部位を歌に詠み込む傾向が小さくなったのではな 以上のように︑写生の対象を印象明瞭にする方法として歌材の配合によっていたことと︑植物を観察する際の視線 れは晩年に至ってもあまり衰えなかったのである︒ 力は非常に強く書生間に珍しき程なり﹂といっているように︑子規の目は若い時から︑眼力がきわめて強く︑そ のはたらき=視力ではないかと思う︒⁝︵中略︶⁝﹁多病才子﹂でも︑目の病について述べたあとに︑﹁併し眼 子規のからだのうちで︑少年期からその死まで︑人並み以上の働きに恵まれたのは︑その目︑正確にいえば︑目 捉えやすい﹁花﹂を歌材にしやすかったのではないかと考える︒ があるが︑晩年の子規は目の痛みを訴えていたことがあったことから︑視覚能力の面でも︑視覚で 11

(15)

いかと考える︒また︑晩年の作品の多くが自己の死が意識されていることと︑晩年の子規の視覚能力の限界によって︑植物の部位

を詠む傾向が再び大きくなり﹁花﹂に偏ったのではないかと考える︒

晩年︵明治三四︑三五年︶の作品では︑植物の集まりを歌に詠む傾向が弱くなったことについて︑晩年は﹁森﹂な

2

︶植物の集まり

どの大きな植物の集まりを詠む機会がなかったことが影響していると考える︒そこで︑各期間の作品で詠まれている植物の集まりがどの位の規模のものであるのかを調査した︒

る語は︑﹁上野の森﹂や﹁木立﹂といった森林をはじめとした木の集まり︑﹁夏野﹂﹁栗原﹂や﹁茂山﹂といった植物

3

の﹁大規模な集まり﹂とは大規模な植物の集まりを表す語彙を使用した作品数のことである︒ここに分類され 大規模な集まり その他 表 3

30

以前 34 11

31 50 18

32 27 10

33 55 28

34 0 4

35 0 2

(16)

の茂った野や原や山︑﹁麥畑﹂﹁青田﹂といった植物の茂った田畑︑﹁梅園﹂といった植物園を表すものである︒また︑大規模な植物の集まりを表す語が詠まれていなくても︑次の基準に該当するものも︑大規模な植物の集まりと判断し

た︒他の語から大規模な植物の集まりが詠まれていると判断できるもの

きのふこそ都いでしか山々は靑葉なりけり白河の關︵二五〇・二六年︶蕈狩の秋も暮れけり大堰川紅葉の波にみ舟はや浮け︵七六七・三一年︶足引の山のしけみの迷ひ路に人より高き白百合の花︵一一七三・三二年︶題によってそのように判断できるもの御佛のいとも尊とし紅の雲か櫻の花のうてなか︵二七四・二七年︶二七四の歌は﹁上野公園﹂という題で発表されており︑﹁櫻の花のうてな﹂は植物園に匹敵する規模のものである

と判断した︒また同じ題を持つ作品より大規模な植物の集まりを表していると判断した例もある︒次の九四六の﹁木のくれしけ﹂の規模は︑九四五の﹁谷中の杜﹂と同じ規模であると判断できる︒

ひくらしの谷中の杜の下陰を涼みところと茶屋立てにけり︵九四五・三一年︶蝉の鳴く木のくれしけに小屋立てゝ腰掛置きて氷水賣る︵九四六・三一年︶﹁その他﹂とは︑植物の集まりを詠んだ作品の内︑右の基準に該当しなかった作品の数である︒主にここに分類されたのは﹁枝毎﹂等といった植物の部位の集まりや︑庭や鉢等に植えられている植物の集まり︑野山といった大きな地形に生えているものでない植物の集まりを表すものである︒若松の立枝はひ枝の枝毎の葉毎に置ける露のしげゝく︵一七六四・三三年︶

(17)

杉垣をめくらす庭の狹けれと春も花咲く秋も花咲く︵一〇五八・三二年︶鉢植に二つ咲きたる牡丹の花くれなゐ深く夏立ちにけり︵一七一六・三三年︶

つく〳〵しひたと生ひける赤羽根にいさ君も往け道しるへせな︵拾遺四八六・三五年︶なお︑次の作品のように︑大規模な植物の集まりであるかの判断ができなかったものは除いた︒︵そのような例は四七例みられた︶言さへくとつ國人のめづるてふ椿の花のさはに咲く國︵四一七・三一年︶明治三三年までの期間の作品では︑森林や野や原や山︑田畑など大規模な植物の集まりの方が多く詠まれていたが︑三四年以降の晩年になると大規模な植物の集まりが詠まれなくなり︑次の歌のような小規模な植物の集まりが詠

まれている︒あら玉の年のはじめの七草を籠に植ゑて來し病めるわがため︵拾遺三六〇・三四年︶裏口の木戸のかたへの竹垣にたばねられたる山吹の花︵拾遺三七三・三四年︶小繩もてたばねあげられ諸枝の垂れがてにする山吹の花︵拾遺三七四・三四年︶我庭ノ三モト松伐リアハレ深キ千草ノ花ニ日ノ照ルヲ見ン︵拾遺四四三・三四年︶君か手につみし菫の百菫花紫の一たはねはや︵拾遺四七一・三五年︶晩年の作品における植物の集まりは︑前出の拾遺四八六以外の全てが子規の身辺である枕元や庭のものである︒明治三三年から三四年にかけての子規の短歌について︑今西幹一氏によって次の指摘がされている

⁝しかし︑その多様性の中にも﹁庭前即景﹂と言う爾後の子規短歌の辿る一つの方途を探り当てていること︑ 明治三十三年の時点では︑子規短歌の雑多とも言える多様性と︑幅広さを見ればいいことである︒⁝︵中略︶ ︒ 12

(18)

三十三年以後病状の篤さによって次第に作歌が減じていく中で︑その秋の﹁菊﹂一連から翌三十四年歌にかけて︑﹁病牀即時・即景﹂を取り入れつつこの﹁庭前即景﹂が子規短歌の軸になって純一化されてくること

また︑明治三五年の短歌については次の指摘もなされている

明治三十五年の年頭歌﹁御題新年梅﹂は﹁御題﹂に促された制作であり︑必ずしも即嘱目︑即経験に成るとは言 ︒ 13

いがたい︒しかし︑ともかくも歌材は庵庭の梅樹である︒この︿紅梅下土筆﹀と︿香菫﹀は病床枕頭の鉢物が対象である︒小庭とは言え︑従前の子規が示したあれほどの︿硝子戸の外﹀への執着︑関心は衰え︑歌においても次第にその世界が︿病床六尺﹀へと更に限定されて来ているようである︒右の二つの指摘より︑晩年の子規の短歌には﹁庭前即景﹂

と﹁病牀六尺﹂ 14

立したことと︑子規が病気で寝たきりになったことで子規の世界の範囲が﹁病牀六尺﹂へと限られてきたことが影響 晩年に子規が大規模な植物の集まりを歌に詠まなかったのは︑庭の景色をそのままに詠む﹁庭前即景﹂の歌風が確 の特徴が表れていると考えられる︒ 15

していると考えられる︒そのために︑晩年の作品では︑植物の集まりを歌に詠む傾向が弱くなったと考えられる︒

遠近に菜の花咲きて朝日さす榛の木かくれ群れて畑を打つ︵五九五・三一年︶ 人もなき木の下かげの春深み花ちりかゝるかひの黒駒︵一四九・二四年︶ ものであった︒ 植物によって生起した自然現象の起きた空間とは︑次に挙げた例のように﹁陰﹂﹁影﹂﹁〜隠れ﹂といった陰を表す

3

︶植物によって生まれた空間

(19)

野の中の竹むら陰の葱畑に寒さ殘りて梅散りにけり︵一四七九・三三年︶春雨のけならべ降れば葉がくれに黄色乏しき山吹の花︵拾遺三八二・三四年︶﹁一︑はじめに﹂で抜粋した﹁薄暗き恐ろしき森の中に一本の赤椿を見つくれば非常にうつくしく且つ愉快な感じを起す﹂とあるように︑子規の短歌で陰を詠む際は︑陰の中のものと一緒に詠まれることが多い︒﹁人もなき﹂の歌

では﹁木の下かげ︱花・黒駒﹂︑﹁遠近に﹂の歌では﹁榛の木かくれ︱︵人︶﹂︑﹁野の中の﹂の歌では﹁竹むら陰︱葱畑・梅﹂︑﹁春雨の﹂の歌では﹁葉がくれ︱山吹の花﹂である︒

そこで︑期間が下って行くにつれ︑植物によって生起した自然現象が起きた空間︵植物による陰︶を詠むことが少なくなり︑最晩年では全く詠まれなくなった理由を︑陰の中のものの変化という点で考えていく︒

まず陰の中に存在するものを色の明るいと判断できるもの︵表の﹁明るい﹂︶とそうでないもの︵表の﹁他﹂︶の二つに分けた︒なお次の作品のような﹁陰﹂﹁光﹂は﹁陰の中に存在するもの﹂と考えがたいとし除いた︒靜なる北の家陰の朝陰に鶯來鳴く竹藪にして︵一〇三五・三二年︶秋のよのさやけきほとは笹の葉のはかけにもるゝ宿の月影︵拾遺一六九・二三年︶﹁明るい﹂の中には花と﹁鯉﹂﹁蛍﹂など明るい色や光を放つ動物と﹁玉﹂といった光を反射する人工物︑﹁京の雛﹂など明るい色彩だと判断できる人工物の四つに分けた︒紫の一本やいづれむさし野の草むらかくれ咲く也︵二七七・二七年︶葉かくれにひれふるの過つらん蓮の露のこほれぬる哉︵二四・十八年︶尋ね來し古きわたりの柳陰人無き舟に飛ぶなり︵六八七・三一年︶二荒の山來てみれは光り黄金かゝやく杉の下陰︵七九二・三一年︶

(20)

京の雛江戸の雛と並べおきていづれこひしき桃の下陰︵五四六・三一年︶﹁他﹂の中には﹁藻﹂など花を表していない植物と﹁雀﹂といった明るい色ではない動物︵﹁鶴﹂のように明るい色

の動物であっても視覚ではなく聴覚による認知が主である場合もここに含めた︶︑﹁われ﹂﹁妹﹂などの着物の色が不明な人間︵﹁茶をすする﹂など人の動作を表すものも﹁人間﹂とした︶︑﹁雨﹂といった自然物︵﹁風﹂は自然現象とし自然物としなかった︶︑﹁氷店﹂﹁墓﹂といった色が不明な人工物の五つに分けた︒古萩の若葉の陰に子をつれてのあさる畫中の園︵六四六・三一年︶親やしたふ子やしたふらん和歌の浦の蘆間かくれにたづそなくなる︵一三一・二三年︶三かゝえの樅の下陰坐をしめて筑波の山にわれ向ひ居り︵九五〇・三一年︶故郷の梅の靑葉の下陰に衣浣ふの面影に立つ︵六三八・三一年︶テーブルの足高机うち圍み緑の蔭に茶をすゝる夏︵一三六五・三三年︶

そゝく櫻の陰のにはたつみよどむ花あり流るゝ花あり︵一六五〇・三三年︶夏なから秋葉の杜の下かけにふきくるそ涼しかりける︵拾遺六二・二一年︶公園の坂を登れば蝉さわぐ高木の陰に氷店あり︵一一八一・三二年︶谷中路の森の下闇我行けば花堆きうま人の︵一三七九・三三年︶

なお︑﹁明るい﹂若しくは﹁他﹂に分類できた作品数は四六首であった︵明治三十年以前十二首︑三一年十八首︑三二年一首︑三三年十三首︑三四年二首︶︒次の作品の﹁人﹂は無人︵視覚で捉えられない︶であるため除いた︒永き日をさふらふ人もなかりけり忍か岡の松の下蔭︵六三五・三一年︶月更くる忍が岡に犬吠えて櫻の影を踏む人もなし︵三七三・三一年︶

(21)

以上の基準で分類し︑それぞれの﹁陰の中のもの﹂を詠んだ作品数を期間ごとにまとめたものが︑次の表

4

である︒

表より︑次のように子規は植物語彙を意図して使用したのではないか︒一つに︑明治三十年以前では︑陰の中のものは明るい色彩のものとそうでないものの両方が使用され︑また﹁花﹂や﹁雨﹂などの﹁自然物﹂︑﹁鯉﹂など﹁動物﹂といった自然のものを多く詠む傾向がみられること︒二つに︑明治三一年では前期間と比べ︑陰の中のものは明るい色彩でないものや︑﹁われ﹂﹁妹﹂といった人間や﹁茶屋﹂などの人工物について積極的に用いていたこと︒明治三三年では︑人間のものを積極的に詠む姿勢︵明治三一年

と共通︶と︑﹁花﹂を多く使用する姿勢︵明治三十年以前と共通︶の両方がみられるようになったこと︒三つに︑明治三四年では植物の陰の中の花という組み合わせに限られるようになったこと︒

30年以前

31年 32年 33年 34年 表 4

明るい

花 4 1 0 7 2

動物 1 3 0 0 0

人工物 0 2 0 1 0

植物 1 2 0 1 0

動物 4 1 0 0 0

人間 3 6 0 3 0

自然物 3 1 0 1 0

人工物 0 5 1 5 0

(22)

この結果より︑期間が下って行くにつれ︑植物による陰を詠むことが少なくなる理由を次のように考える︒まず︑明治三十年以前が最も植物の陰を読む傾向が高かったことについて︑明治三一年以降と異なり︑﹁植物の陰︱陰の中のもの﹂という︑組み合わせのない歌を詠むことがあったためではないかと考える︒明治三十年以前の作品で︑植物の陰の中のものがない作品は五首みられた︒

木陰にもしのきかねたるあつさには扇の風も何ならぬかな︵二〇・十八年︶夏なから秋葉の杜の下かけにふきくる風そ涼しかりける︵拾遺六二・二一年︶同し樹のにやとるもさきの世のえにしと思へはをしき別れよ︵拾遺九二・二一年︶はし鷹のにらみて居れば枯草の葉かくれあへす飛ぶ小鳥かな︵三一九・二八年︶逆に明治三一年以降は︑三一年の次の二首を除いて︑全て﹁植物の陰︱陰の中のもの﹂の配合が詠まれていた︒永き日をさふらふ人もなかりけり忍か岡の松の下蔭︵六三五・三一年︶月更くる忍が岡に犬吠えて櫻の影を踏む人もなし︵三七三・三一年︶﹁薄暗き恐ろしき森の中に一本の赤椿を見つくれば非常にうつくしく且つ愉快な感じを起す﹂とあるように︑子規

が﹁美﹂と感じる配合だけを詠もうとしただけ︑明治三一年以降の植物の陰を読む傾向が︑明治三十年以前の場合よりも︑少なくなったのではないか︒配合について︑次の子規の主張を引用する

の外無之候︒それを何の配合物も無く﹁レールの上に風が吹く﹂などゝやられては殺風景の極に候︒せめては 文明の機械は多く不風流なる者にて歌に入り難く候へども若しこれを詠まんとならば他に趣味ある者を配合する ︒ 16

レールの傍に菫が咲いて居るとか︑又は滊車の過ぎた後で罌粟が散るとか薄がそよぐとか言ふやうに他物を配合すればいくらか見よくなるべく候︒

(23)

この主張のように︑歌材の配合には﹁趣味ある﹂ような配合となるように︑歌材の取捨選択を行う必要があった︒また︑﹁趣味ある﹂配合を行い続けた結果︑配合できる組み合わせに限界が訪れた可能性が考えられるのが︑晩年

の作品で植物の陰が詠まれる傾向が少なくなったという結果である︒有田静昭氏の指摘にあるように︑子規は﹁月並﹂を否定していた

六尺﹂へと限られてきたため︑歌材も限られていったと考えられる︒歌材が限られるということは︑配合の組み合わ 晩年には﹁庭前即景﹂の歌風が確立したことと︑子規が病気で寝たきりになったことで子規の世界の範囲が﹁病牀 り︑﹃平凡だっていい歌はあるさ﹄というのは︑新奇を衒うあまり嫌味に陥る事を戒めているのである︒ 何と何とでも配合出来るという子規の考は︑﹁梅に鶯﹂﹁萩に露﹂式の月並を排して︑新味を出そうというのであ ︒ 17

せに限界が生まれるということではないか︒子規自身によって繰り返し使い続けられた配合とは︑子規にとっての﹁月並﹂の表現になるのではないか︒子規にとっての﹁月並﹂の表現を使うことを避けるために︑晩年に植物の陰を詠むことが少なくなったのではないかと考える︒また︑晩年の作品で植物の陰が詠まれる傾向が少なくなったことについて︑明治三一年に人間のもの︑特に﹁人工物﹂が積極的に詠まれるようになったのが︑晩年に詠まれなくなったことが理由として考えられる︒ひくらしの谷中の杜の下陰を涼みところと茶屋立てにけり︵九四五・三一年︶公園の坂を登れば蝉さわぐ高木の陰に氷店あり︵一一八一・三二年︶公ノ園ノ木陰ニ旗カケテ氷アキナフヤスラヒ處︵一八五四・三三年︶明治三一年から三三年でこのような家屋を詠んだのは︑子規が涼しさに対して﹁美﹂を感じていたからではないかと考えられる︒それが晩年では病気によって涼しさに対する感覚が変化した為か︑涼しさを感じるだけの規模の木陰

(24)

が庭になかった為か︑またはそのような木陰の元に行くことが出来なかった為であるのか︑このような作品はみられなくなる︒趣味ある配合になるよう歌材の取捨選択を行ったこと︑晩年では﹁庭前即景﹂の歌風と子規の世界の範囲が﹁病牀六尺﹂へと限られたことによって配合を作ることが難しくなったこと︑また病気のために明治三三年までに詠まれて

いた﹁涼しさ﹂に対する﹁美﹂が詠まれなくなったことから︑期間が下って行くにつれ︑植物によって生起した自然現象が起きた空間を詠むことが少なくなり︑最晩年では全く詠まれなくなるという結果が出たと考えられる︒

なお︑植物によって生起した空間︵植物による陰︶の他に︑﹁山陰﹂など植物以外のものによって生起した陰を使用した作品が十五首みられる︒その一部を抄出する︒夕されは妻やまつらんまつしまの︽小嶋隠れ︾にいそく釣舟︵二五三・二六年︶靜なる北の︽家陰︾の︽朝陰︾に鶯來鳴く竹藪にして︵一〇三五・三二年︶夜淸き︽片山陰︾の梅林月照り滿ちて鶴啼きわたる︵一〇三七・三二年︶右の作品での﹁小嶋隠れー釣舟﹂のように明治三十年以前から陰の中にあるものとして﹁人工物﹂が詠まれていた

り︑﹁朝陰︱鶯・竹藪﹂や﹁片山陰︱梅林・鶴︵啼きわたる︶﹂のように明治三二年でも﹁明﹂に分類される﹁花﹂﹁動物﹂︑﹁他﹂に分類される﹁植物﹂﹁動物﹂の例がみられるといった点が︑表

4

と異なっている︒

五︑まとめ

以上︑表

1

での結果について︑その傾向を調査してきた︒その調査結果をまとめると次のようになる︒

(25)

明治三十年以前の作品は植物の部位を詠み込む傾向が大きく︑革新直後の作品では部位の種類は増えるが作品数が少なくなり︑晩年の作品で再度植物の部位を多く詠み込むようになった理由に︑次の四つが考えられる︒①  写生の対象を印象明瞭にする方法として歌材の配合によっていたこと②  植物を観察する際の視線が上下していること③  晩年では作品に自己の死が意識されていること④  晩年の子規の視覚能力の限界があったと考えられること明治三十年以前から三三年までの期間において植物の集まりを表す植物語彙を使用する傾向が強く︑大規模な植物の集まりが詠まれなくなった晩年︵明治三四︑三五年︶では︑植物の集まりを表す植物語彙を使用する傾向が弱くなっ

た理由に︑庭の景色をそのままに詠む﹁庭前即景﹂の歌風が確立したことと︑子規が病気で寝たきりになったことで子規の世界の範囲が﹁病牀六尺﹂へと限られたことが考えられる︒革新前︵明治三十年以前︶から晩年へと年が下って行くに従って︑植物によって生起した自然現象が起きた空間を詠むことが少なくなり︑最晩年では全く詠まれなくなった理由について︑次の三つが考えられる︒一つは︑趣味ある配合になるよう歌材の取捨選択を行ったこと二つは︑﹁庭前即景﹂の歌風と﹁病牀六尺﹂の世界になったことで配合を作ることが難しくなったこと三つは︑病気のため明治三三年までに詠まれていた﹁涼しさ﹂に対する﹁美﹂が詠まれなくなったこと本調査の植物語彙のみで︑子規短歌の写生の変化を論じるのは尚早ではあると考えるが︑最後に︑このような調査結果に基づいて︑子規の短歌における写生の期間ごとの変化について︑次にまとめる︒革新前︵明治三十年以前︶から革新後︵明治三一〜三三年︶の二つの期間での変化には︑子規の短歌革新の実践に

(26)

よるものが大きかった︒まず︑明治三一年以降に︑写生︵俳句革新で既に俳句に取り入れられたもの︶を短歌に取り入れたことで︑歌材を印象明瞭にするために︑﹁配合﹂という方法を用いていたということである︒それは植物の部位を詳細に描く方法ではなかったということから︑植物の部位を歌に詠むことが減ったことに現れたと考えた︒

また子規が短歌革新で主張したことの一つに﹁歌材の拡大﹂があるが︑その影響から歌に詠まれる植物の部位の種類は増加した︒また﹁植物による陰︱陰の中にあるもの﹂の配合の内︑﹁陰の中にあるもの﹂として人間や人工物に

ついて積極的に用いる姿勢が三三年までみられるようになったことも︑﹁歌材の拡大﹂の影響ではないか︒革新後から晩年への変化には︑子規の病状悪化によるところが大きかった︒

まず歌に詠む植物の部位が﹁花﹂に偏ったことについて︑晩年の作品の多くが自己の死が意識されていることと︑晩年の子規の視覚能力の限界があったのではないか︒

また︑﹁庭前即景﹂の歌風が確立した後に︑子規の世界が﹁病牀六尺﹂へと限られたことで︑大規模な植物の集まりを歌に詠まなくなったり︑﹁植物による陰︱陰の中にあるもの﹂の配合を作ることが難しくなり︑明治三三年まで

に詠まれていた﹁涼しさ﹂に対する﹁美﹂が詠まれなくなったのも︑病気によるものではないかと考える︒

1︶ 

﹁叙事文﹂︵﹃子規全集  第一四巻  評論  日記﹄︵講談社  一九七六年一月二十日発行︶二四八頁︶より抜粋した︒なお︑旧字体のほとんどは新字体で表記した︒︵

2︶ 

﹁叙事文﹂︵﹃子規全集  第一四巻  評論  日記﹄二四七頁︶より抜粋した︒旧字体のほとんどは新字体で表記した︒

(27)

︵ 3︶ 

﹁十たび歌よみに與ふる書﹂︵﹃子規全集  第七巻  歌論  選歌﹄︵講談社  一九七五年七月十八日発行︶四九頁︶より抜粋した︒なお︑旧字体のほとんどは新字体で表記し︑引用箇所に付されていた○印は省略した︒︵

4︶ 

﹃表現に生きる  正岡子規﹄︵長谷川孝士  新樹社  二〇〇七年九月一日発行︶一六二頁より抜粋した︒なお︑本文に付されていたルビは省略した︒︵

5︶ 

﹁叙事文﹂︵﹃子規全集  第一四巻  評論  日記﹄二四七〜二四八頁︶より抜粋した︒なお︑旧字体のほとんどは新字体で表記した︒︵

6︶ 

﹃子規全集  第二十巻  研究編著﹄︵講談社  一九七六年三月十八日発行︶に収録された﹁たね本﹂を使用した︒﹁たね本﹂とは二六項目に渡って︑一種の俳諧語辞典の性格を有しているものである︒﹁たね本﹂は俳諧語辞典であるが︑子規独自の植物の分類基準・配列がみられるものであると考えられる︒︵

7︶ 

﹃表現に生きる  正岡子規﹄一五六〜一五七頁より抜粋した︒なお︑引用箇所の︵  ︶内の短歌は︑私が補ったものである︒︵

8︶ 

﹃正岡子規の短歌の世界︱﹃竹乃里歌﹄の成立と本質︱﹄一二〇〜一二四頁より抜粋した︒︵

9︶ 

今西氏が引用した歌と同一の物であるが︑今西氏は﹁人住まぬいくさのあとの崩れ家杏の花の咲きて散りけり﹂という形で引用している︒これは︑自筆稿本に﹁けるかな﹂の所に﹁散りけり﹂が併記されているためである︒︵傍線石井︶︵

10︶ 

﹁︵麻の︶殻﹂について︑お盆の際に迎え火や送り火に使用されるものであり︑材料とも考えられるが︑今回は植物語彙として扱った︒︵

11︶ 

﹃子規と周辺の人々﹄︵和田茂樹編  愛媛文化双書刊行会  一九八三年八月十九日初版  一九九三年九月十九日増補版発行︶一五三頁より抜粋した︒当該文の執筆者である蒲地文雄氏は︑晩年に目の痛みを子規が訴えていたことや眼鏡を掛けて新聞を読んでいたことにも触れた上で︑引用した箇所のような主張をしている︒︵

12︶ 

今西幹一﹃正岡子規の短歌の世界︱﹃竹乃里歌﹄の成立と本質︱﹄︵今西幹一  有精堂出版  一九九〇年一月十日発行︶一八八頁より抜粋した︒︵

13︶ 

今西幹一﹃正岡子規の短歌の世界︱﹃竹乃里歌﹄の成立と本質︱﹄二二六頁より抜粋した︒︵

14︶ 

明治三三年四月二一日の作に﹁庭前即景﹂という題で次の連作がある︒歌の通し番号は省略した︒山吹は南垣根に菜の花は東堺に咲き向ひけり       

かな網の大鳥籠に木を植ゑてほつ枝下枝に鶸飛びわたる   ︵一六九四︶

(28)

くれなゐの二尺伸びたる薔薇の芽の針やはらかに春雨のふる汽車の音の走り過ぎたる垣の外の萌ゆる梢に煙うづまく杉垣をあさり靑菜の花をふみ松へ飛びたる四十雀二羽一うねの靑菜の花の咲き滿つる小庭の空に鳶舞ふ春日くれなゐの若菜ひろがる鉢植の牡丹の蕾いまだなかりけり春雨をふくめる空の薄曇山吹の花の枝も動かず家主の植ゑておきたる我庭の背低若松若綠立つ百草の萌えいづる庭のかたはらの松の木陰に菜の花咲きぬ︵

15︶ 

﹁病床六尺﹂について︑明治三五年五月五日から新聞﹃日本﹄に掲載されたものである︒その第一回︵五月五日︶の冒頭で次のように︑子規は述べている︒︵﹃子規全集  第十一巻  随筆一﹄︵講談社  一九七五年  四月十八日発行︶二三一頁より抜粋︶なお︑旧字体は新字体で表記した︒病牀六尺︑これが我世界である︒しかも此六尺の病床が余には広過ぎるのである︒僅かに手を延ばして畳に触れる事はあるが︑蒲団の外へ迄足を延ばして体をくつろぐ事も出来ない︒︵

16︶ 

﹁十たび歌よみに與ふる書﹂︵﹃子規全集  第七巻  歌論  選歌﹄五十頁︶より抜粋した︒︵

17︶ 

﹃子規歌論の展開﹄︵有田静昭  八木書店  一九八四年四月五日発行︶二五頁より抜粋した︒

︵東京女子大学大学院博士後期課程人間科学研究科在籍︶

キーワード正岡子規︑自筆﹃竹乃里歌﹄︑短歌の植物語彙︑短歌革新前後︑晩年前後

参照

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