• 検索結果がありません。

―文学

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "―文学"

Copied!
22
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

始業講演

今問われることばの力

―文学は何を伝えてきたか

篠 目 清 美

ことばから行動へ

私たちが日々、コミュニケーションの手段としてあたりまえのように使っ ていることばについて、その力、特に文学のことばの力についてお話しした いと思います。ことばには人を勇気づける力がある一方で、その無力さを感 じたり、時には子供たちを死へと追い込んでしまうことばによるいじめ、暴 力、また異なる民族や思想の持ち主へのヘイトスピーチ、ツイッターなどで 見られる心無い誹謗中傷など、ことばには否定的な力があることも事実で す。また政治家や役人のことばの空虚さ、誤魔化しに怒りを覚えることもし ばしばです。

しかし最近、私は若い人たちのことばの力に感銘を受けました。例えば、

今年、ピョンチャン・オリンピック、パラリンピックがありましたが、選手 たちの活躍はもちろんのこと、そのことばも心に残りました。特に印象的 だったのはスピードスケートの小平奈緒選手でした。最近、朝日新聞に小平 選手へのインタビューが載り、そこでも「ことば」が話題となっていまし た。1

彼女は自分のことばが注目されたことに驚きを覚えながら、こう語ってい ます。「不思議ですね。普通のことを話しているのに、皆さんの受け止めが 何だか大きくて。ただ自分の思いを言葉で表現することが、人とのつながり を深めるのにとても大切なことだと思うんです。」また「小平さんにとって、

言葉とはどんな存在ですか」という問いには次のように答えています。

(2)

自分自身を人として成長させてくれる元です。いろんな価値観の人と 話すことで育まれ、物の見方も変わってきました。(インド独立の父の)

ガンジーの言葉に「明日死ぬかのように生きよ。永遠に生きるかのよう に学べ」がありますが、こうした言葉に出会うと、自分の中に種をまか れたようで。自力で解釈し、行動に移して、その種を成長させることに も楽しみを感じています。

小平選手の場合、ことばがことばで終わらず、行動へとつながっているこ とに心打たれました。ことばの力がスケートの技術を高めることになってい ることも彼女は説明しています。毎日の練習で感じたこと、発見したことを

「技術カルテ」として書き残すことをしているそうです。「技術の言語化は自 己観察につながるから」とのことです。そして小平さんは、競技人生が終 わったとき、「指導者として自分の言葉で子どもたちに教えたい。置物みた いな言葉じゃなくて、動きのある言葉で、心の中でまた違った動きをして、

子どもたちの考えが広がるきっかけになればいいな、と」と語っています。

まさにことばの力を体現している小平選手です。

ことばから行動へ、ということでもうひとつご紹介したいのが、アメリカ の高校生たちが発信したSNSです。今年、フロリダの高校での銃乱射事件 で多くの犠牲者が出ました。銃社会のアメリカで何度も繰り返されている悲 劇です。そのたびに銃規制の動きが出るものの、様々な利害関係によって実 現していません。そんな大人たちに高校生を中心とする若者たちが立ち上が りました。“Enough is enough”「もうたくさん」「銃による暴力にストップを」

というメッセージがSNSにより世界中に発信され、“March for Lives”とい う大きなデモへと発展しました。SNSという新しいコミュニケーションの 手段が社会を動かす一歩になったのではないでしょうか。

ただ、その一方で残念ながら、読書を通してことばの力を感じることが 減ってきていることも否めません。学生生活実態調査によると、1日の読書 時間がゼロ、という大学生の割合が昨年度ついに半数を超えたことが報道さ

(3)

れました。正確な数字は、読書時間ゼロの学生が531%、前年度より4% 増えています。これは大学で教鞭をとる私たちにとってはショッキングな数 字です。もちろん現代は本を読まなくてもインターネット、若者にとっての 必須アイテム、スマホでも多くの情報が得られますから、大学生の知識欲が 衰えたというわけではないと思います。読書以外の様々な手段が増えたから とも言えるかもしれません。ではそれでも人はなぜ本を読むのでしょうか?

しかも私たちの生活に役立つ実学重視の現代、私が専門とする文学作品を読 む意味はどこにあるのでしょうか?文学に携わる者として、文学は社会とど うつながっているのか、どんな役割があるのだろうか、という思いは常に抱 いています。

坑内カナリア芸術論

ことばの担い手である作家自身はどう考えているのでしょうか?作家高村 薫さんは、SNSの時代の文学の行方についてこう語っています。誰もが SNSで発信できる時代、求められるのは、「面白い、楽しい、ためになる、

すぐにわかる」情報で、「しかめっ面した思弁的な小説が入る余地がない」

とし、「SNSの言葉が人間の言葉の大半を占めるようになれば、文体に固執 する人間は化石扱いされるでしょう。あえて固執する者が純文学を書き、読 むのです」2と小説家としての覚悟を語っています。

またカート・ヴォネガット(1922–2007)というアメリカ作家が面白いこ とを言っています。ヴォネガットはサイエンス・フィクションのファンの間 では、日本でも人気の作家で、作品のほとんどが日本語にも翻訳されていま す。物理学者の兄を持つヴォネガット自身も化学を学びましたが、彼曰く、

「役にも立たない作家になってしまい、」ハウツーものが人気のアメリカの大 学で、「作家の卵たちに創作方法を教えるというこれまた役にも立たない教 師の経験をした」人です。そんな彼が、アメリカ物理学会で1969年に行っ た講演において、大変興味深い発言をしています。常にユーモアに満ち、そ して辛辣な彼は、「もし文学を含む芸術に何か効用があるとしたら、それは

(4)

炭坑内のカナリアのような役目であろう、と次のように言っています。

I was perplexed as to what the usefulness of any of the arts might be, with the possible exception of interior decoration. The most positive no- tion I could come up with was what I call the canary-in-the-coal-mine theory of the arts. This theory argues that artists are useful to society be- cause they are so sensitive. They are supersensitive. They keel over like canaries in coal mines filled with poison gas, long before more robust types realize that any danger is there. Vonnegut Jr. 99–100

この「坑内カナリア芸術論」(“the canary- in-the- coal- mine theory of arts”)

は彼が1984年にペン大会に出席するために来日したときにも話題になりま した。炭坑内の有毒ガスを人間より早く察知するカナリアのように、芸術家 は非力でも感受性が強いので、危険を他の人間よりも敏感に感じ取り、警告 できるというのです。芸術家にはカナリアくらいの効用しかない、というや や自虐的な発言ですが、実は重要なことではないでしょうか?「ペンは剣よ り強し」といえども現実にはペンで剣を制することは容易いことではありま せん。でも炭坑内カナリアのように、何かおかしいよ、と伝えることは文学 にできるかもしれません。いやむしろ文学だからこそできることがある、と 信じたいと思います。

では、アメリカの作家はどのようにカナリアの役割を果たしてきたでしょ うか?若い国、アメリカ建国の理念は、“All men are created equal.”「すべて の人間は平等に生まれついている」というように、建前は自由と平等を謳っ ているアメリカですが、皮肉にもこの“all men”には女性も有色人種も含ま れていないというのが現実でした。そんなアメリカ社会でかよわいカナリア たちが声を上げてきました。そこできょうはメスのカナリア、女性作家たち のことばを通して、文学は何を伝えてきたか考えてみたいと思います。

(5)

大きな戦争を引き起こした小さなレディ

メスのカナリアはオスのカナリアより無視されたり、批判されることが多 かったのですが、珍しく社会に大きな影響を与えたのが、ハリエット・ビー チャー・ストウ(1811–1896)が1852年に発表した『アンクル・トムの小 屋』(Uncle Tomʼs Cabin)です。アメリカ北部出身のストウによる南部の奴 隷制度の残酷さを描いたこの作品はベストセラーとなり、国の内外で大きな 反響を呼びました。19世紀アメリカのベストセラーのナンバーワンが聖書、

ナンバー2がこの作品です。当時のアメリカは、早く工業化、都市化が進 み、奴隷制度に反対の北部と、農業中心で、黒人奴隷の労働に依存していた 南部が対立していました。この作品は奴隷制度廃止への大きな後押しとなり ました。この『アンクル・トムの小屋』の出版から9年後の1861年、奴隷 制度をめぐって対立していた北部と南部は分裂し、南北戦争が勃発します。

戦争中、時の大統領リンカーンはホワイトハウスにストウを招き、「こん な小さなレディが大きな戦争を引き起こしたのですね」と言ったという逸話 が残っています。南北戦争の原因は奴隷制度の是非だけではありませんし、

ストウがリンカーンに招かれたのは事実ですが、リンカーンのこのせりふが 実際に発せられたかどうかは確かではありません。また南北戦争前にアメリ カでも奴隷制度廃止論者は少なくありませんでしたし、逃亡奴隷をカナダに 逃がす地下組織の援助をする白人もいました。ストウだけが世間を動かした わけではありません。ただ一冊の本が社会に大きな影響を及ぼした一例と言 えるでしょう。

私が初めてこの作品に出会ったのは小学生の時で、それは少年少女世界文 学全集に収められていたいわゆる子供版『アンクル・トムの小屋』でした。

皆さんのなかにも同じようにダイジェスト版を子供の時に読んだという方が いらっしゃるかもしれませんね。大学で英米文学を専攻するようになって原 作を読むことになり、この作品がかなり大部で、登場人物も多く、ダイジェ スト版にはなかった多くのエピソードがあることを知りました。

これは皆さんにお薦めしたいことですが、読書の面白さのひとつに、ひと

(6)

つの作品を繰り返し読むことがあります。多くの作品に触れることも大切で すが、子供の時に読んで感動した作品を大学生になってもう一度読んでみ る、そして将来、年齢を重ねて、再読する。すると新たな発見があったり、

理解度が深まったりするのはもちろんのことですが、自分の成長を感じた り、私ぐらいの年齢になると残念ながら老いを感じたりすることもありま す。例えば、かつては理解できなかった人生に疲れた中年女性の登場人物に 共感したり、一方でただ感情移入して読んでいた若いヒロインを客観的に分 析できるようになったりなかなか面白いものです。

さて話を『アンクル・トムの小屋』へ戻しまして、この大作のごく一部で すが、皆さんに幾つかのポイントをお示ししたいと思います。アメリカ北部 コネチカット州生まれのストウは21歳の時オハイオ州のシンシナティに移 り住みます。オハイオはアメリカ北東部の州ですが、オハイオ川を挟んで向 こう側、ケンタッキー州は当時、奴隷制度を認めている州でした。ストウは ケンタッキー州には一度旅をしたことがあるだけですが、オハイオ川を命が けで渡り、自由州の町、シンシナティに逃れてくる逃亡奴隷との接触によっ て、奴隷制度の残酷さを実感しました。それに加え、彼女が『アンクル・ト ムの小屋』を執筆するきっかけとなったのが、1850年に議会で法制化され た逃亡奴隷法(the Fugitive Slave Law)です。これは逃亡した奴隷を元の所 有者に返還することを義務付け、また奴隷の逃亡を助けた者も処罰するとい う法案です。

女性作家ストウは奴隷制度に対しても、この逃亡奴隷法に対しても政治的 なメッセージというより、これらの制度が奴隷たちの家庭を崩壊し、母性を 踏みにじるいかに非人道的なものか、キリスト教徒として、家庭人として、

母親としての立場から訴えています。

作中、明確に奴隷制廃止を表明したり、逃亡奴隷法に異議を唱えるのは 19世紀のアメリカ社会では、無力な存在である女性と子供です。だからこ そ作品の主人公である黒人奴隷アンクル・トムが3人目の残虐な所有者に 虐待され命を落とすという悲劇を招いてしまいます。

(7)

奴隷制度の残酷さを強調するストウのペンも、現代の私たちからすれば、

黒人を白人と同等と見做していたわけではなく、無力で哀れな存在であるの だから保護すべきという白人優位の考え方が明らかです。作中、繰り返し

poor”ということばが黒人を描写するのに使われていますが、白人による 紋切り型の黒人描写と言えるでしょう。それでもこの作品の優れている点 は、当時としては珍しく、黒人を一人の人間として描いていることです。具 体例を見てみましょう。主人公である黒人奴隷アンクル・トムの最初の所有 者シェルビー氏はトムを完全に信頼し、慈しんでいます。不運にも多額の負 債を抱え、働き者のトムと女奴隷イライザの幼い息子を売らざるを得なく なったとき、所有者の夫人は猛反対します。

O, Mr. Shelby, I have tried̶tried most faithfully, as a Christian woman should̶to do my duty to these poor, simple, dependent creatures. I have cared for them, instructed them, watched over them, and known all their little cares and joys, for years; and how can I ever hold up my head again among them, if, for the sake of a little gain, we sell such a faithful, excel- lent, confiding creature as poor Tom, and tear from him in a moment all we have taught him to love and value? I have taught them the duties of the family, of parent and child, and husband and wife; and how can I bear to have this open acknowledgment that we care for no tie, no duty, no re- lation, however sacred, compared with money? . . . I have told Elizathat one soul is worth more than all the money in the world; Stowe 30

このように、シェルビー夫人の黒人奴隷は「可哀相な、単純で、頼りない」

存在だから「世話をし、教育し、保護してきたのだ」という発言は白人優位 主義の表れではありますが、黒人が物のように売買されていた時代に、奴隷 も含め、「ひとりの人間の魂は世界中のお金全部合わせたより尊い」とする 夫人のことばはキリスト教徒、ハリエット・ビーチャー・ストウの心情を表

(8)

しているといえるでしょう。夫人はまた、「私は奴隷制度が正しいと考えた こともないし、奴隷を所有したいと思ったこともありません」と夫に主張し ます。しかし夫人の主張は聞き入れられず、トムは売られていきます。

逃亡奴隷法にノーを突きつける女性も登場します。上院議員の妻、メア リー・バードです。彼女は恥ずかしがり屋で、可愛らしい、並はずれて心優 しい女性であると描かれていますが、この法案が通ったことに日頃の彼女か らは想像もできないほどの激しい怒りにかられます。彼女は逃亡奴隷たち を、“Poor, homeless, houseless creatures”(Stowe 72)と呼び、彼らを保護す るのはキリスト教徒として当然のことであると主張します。

I donʼt know anything about politics, but I can read my Bible; and there I see that I must feed the hungry, clothe the naked, and comfort the deso- late; and that Bible I mean to follow. Stowe 72

彼女の奴隷を保護すべきという気持ちは純粋ですが、シェルビー夫人と同 様、それは黒人奴隷は無力で可哀相な存在だからであって、決して白人と同 等であると考えているわけではありません。ただシェルビー氏と異なり、

バード氏は妻の熱意に動かされ、議員という立場でありながら、奴隷エライ ザと息子の逃亡を助け、エライザをめぐる物語はハッピーエンドを迎えます。

奴隷制度に反対する子供たちの思いはさらに純粋なものです。まず アン クル・トムの小屋を覗いてみましょう。

A table, somewhat rheumatic in its limbs, was drawn out in front of the fire, and covered with a cloth, displaying cups and saucers of a decid- edly brilliant pattern, with other symptoms of an approaching meal. At this table was seated Uncle Tom, Mr. Shelbyʼs best hand, . . .

He was very busily intent at this moment on a slate lying before him, on which he was carefully and slowly endeavoring to accomplish a copy

(9)

of some letters, in which operation he was overlooked by young Masʼr George, a smart, bright boy of thirteen, who appeared fully to realize the dignity of his position as instructor.

Not that way, Uncle Tom,–not that way, said he, briskly, as Uncle Tom laboriously brought up the tail of his g the wrong side out; that makes a q, you see.”(Stowe 19

一見、幸せそうな、そしてユーモラスでもある黒人の家庭の描写、そして黒 人奴隷アンクル・トムと白人の主人の息子ジョージとの信頼関係が窺える シーンです。ただ読者はすでにトムが家族から引き離され、売られていく運 命にあることを知らされているだけに、この暖かい家庭のシーンが奴隷制度 の残酷さを際立たせます。もうひとつここで注目すべきことは、白人少年 ジョージがトムに文字を教えている点です。当時、奴隷に文字を教えること は禁じられていました。奴隷が読み書きを覚えること、それは力を得ること で、奴隷所有者からすると不都合なこととなります。ということは所有者と 奴隷という枠内ではありますが、トムが主人とその家族から信頼され、大切 にされていたことがこのシーンだけでもわかります。現実にも、違法であり ながら、白人所有者、特に主人の妻が奴隷に文字を教えることがありまし た。例えば、元奴隷で、解放後に奴隷体験記を出版し、政治家としても活動 したフレデリック・ダグラス(1818–1895)は奴隷時代、所有者の妻から読 み書きを学ぶのですが、それを知った主人がそうした行為は危険だと妻に禁 じているのを小耳にはさみ、文字を獲得することが力の獲得につながるのだ と知り、その後ひそかに独学で読み書きを学びます。彼はこんなことばを残 しています。“Once you learn to read, you will be forever free.” 「ひとたび 文字を学べば、永遠に自由になれる」と。

トムの場合は、読み書きを学び聖書を読めるようにもなりますが、敬虔な キリスト教徒になることは彼を無抵抗の人間へと仕立て、皮肉にも彼が悲劇 的な最期を遂げることにつながってしまいます。

(10)

次の引用は売られていくトムと、彼のもとに駆けつけるシェルビーの息子 ジョージとの別れのシーンですが、ジョージ自身が「もしぼくが大人だった らこんなこと許さない」と言っているように、子供である彼には大人たちへ の怒りを露わにする以外なす術はありません。

I declare, itʼs real mean! I donʼt care what they say, any of ʻem! Itʼs a nas- ty, mean shame! If I was a man, they shouldnʼt do it,–they should not, so! said, George, with a kind of subdued howl. Stowe 90

アンクル・トムを鎖につなぎ、連れ去ろうとする大人たちの行為を“mean

nasty”“shame”とジョージは罵りますが、彼の無念さが伝わることばです。

奴隷を解放すべきと主張する子供がもうひとり登場します。トムの2番 目の所有者となるセント・クレア氏の娘エヴァンジェリンです。福音を意味 するその名前が象徴しているように天使のように美しく、心優しいエヴァン ジェリン、愛称エヴァと奴隷トムとの間にはかつてのジョージ少年とのよう に信頼関係が築かれますが、病弱なエヴァには死に際に、次のように父親に 奴隷を解放することを約束させることしかできませんでした。

. . . You want me to live so happy, and never to have any pain,–never suffer anything,–not even hear a sad story, when other poor creatures have nothing but pain and sorrow, all their lives;–it seems selfish. . . . Papa, isnʼt there any way to have all slaves made free?

Thatʼs a difficult question, dearest. Thereʼs no doubt that this way is a very bad one; a great many people think so; I do myself. I heartily wish that there were not a slave in the land; but, then, I donʼt know what is to be done about it!

Papa, you are such a good man, and so noble, and kind, and you al- ways have a way of saying things that is so pleasant, couldnʼt you go all

(11)

round and try to persuade people to do right about this? When I am dead, papa, then you will think of me, and do it for my sake. I would do it, if I could.”(Stowe 254

ここでもエヴァがシェルビー夫人やバード夫人と同様、黒人奴隷たちを

poor creatures”と呼んでいることが目を引きます。娘の死後、その遺志を

継ぎ、トムたち奴隷を自由の身にすることを決心するセント・クレア氏です が、実行する前に事件に巻き込まれ、命を落とします。結局、トムは3人目 で最後の所有者となる残酷な男、サイモン・レグリーの暴力の犠牲となって しまうのです。

このように奴隷制度や逃亡奴隷法に反対を唱える人物が登場するものの、

トムを解放することは誰にもできませんでした。死の床に横たわるトムのも とに、成長を遂げたかつての所有者の息子ジョージが駆けつけます。「いつ か連れ戻す」と約束したジョージが迎えにきたのですが、トムは再会を喜び ながらも息絶えます。

O, dear Uncle Tom! Do wake,–do speak once more! Look up! Hereʼs Masʼr George,–your own little Masʼr George. Donʼt you know me?

Masʼr George! said Tom, opening his eyes, and speaking in a feeble voice; Masʼr George! He looked bewildered.

Slowly the idea seemed to fill his soul; and the vacant eye became fixed and brightened, the whole face lighted up, the hard hands clasped, and tears ran down the cheeks.

Bless the Lord! It is,–it is̶itʼs all I wanted! They havenʼt forgot me. It warms my soul; it does my old heart good! Now I shall die content! Bless the Lord, oh my soul!

You shanʼt die! you mustnʼt die, nor think of it! Iʼve come to buy you, and take you home, said George, with impetuous vehemence.

(12)

O, Masʼr George, yeʼre too late. The Lordʼs bought me, and is going to take me home,–and I long to go. Heaven is better than Kintuck.”(Stowe 380–1

ここでジョージは、「おまえを買い戻しに来たんだ、家に連れ帰るんだよ」

と言います。そう、まだ、トムは売買される身分なのです。“Iʼve come to buy you, and take you home”の“buy”ということばが何と悲しく響くことで しょう。どんなに不当な扱いを受けようと、過酷な状況に置かれようと、白 人を憎むこともせず無抵抗のまま生涯を終えるという受難の人生を歩んだこ

とから、Black Christ(黒いキリスト)とも称されたアンクル・トムですが、

この名称はアメリカで黒人解放運動が台頭する1960年代ごろからは、「白 人に迎合する黒人、白人にとって都合の良い黒人」という意味で黒人の間 で、否定的に使われることも多くなりました。しかし家族がトムの帰りをひ たすら待っている「ケンタッキーより天国のほうがいいとこだ」というトム のことばは、この世には真の幸福はないという彼の唯一の抵抗の表現ではな いでしょうか。

「いつかトムを連れ戻す」という少年ジョージの願いはかないませんでし たが、成長し、農園を引き継いだジョージは、トムの死後、農園の奴隷たち を解放します。自由の身になることを喜ぶどころかうろたえる奴隷たちに、

ジョージは彼らが望むのなら、今後も農園での仕事を続け、自由人としての 彼らに給金を払うことを宣言します。これまで見てきたように、大人の男性 登場人物たちは、夫であれ、父親であれ、妻や娘が唱える理想と現実の板挟 みになって困惑するやや情けない存在のようなところもありましたが、ここ で成長したジョージがストウの思いを実現させていることが、せめてもの救 いです。

黒いカナリアの歌

さて、次に『アンクルトムの小屋』から約110年後の1970年に出版され

(13)

たトニ・モリスン(1931-)の『青い眼がほしい』(The Bluest Eye)について お話します。モリスンはアフリカ系アメリカ人、つまり黒人の女性作家で す。かつてストウは黒人を「可哀相な無力な人たち、保護すべき存在」とし て描きましたが、その黒人自身の声で語られた作品です。モリスンは1993 年にノーベル文学賞を受賞しましたが、その際、「この賞は私だけでなく、

黒人の姉妹たちに与えられたものだから、大変嬉しい」と述べています。

アメリカ社会において、最も存在を無視されてきたともいえる黒人女性の 立場を如実に表したのも文学のことばでした。モリスンたち現代黒人女性作 家たちがロール・モデルとする先輩作家ゾラ・ニール・ハーストン(1891–

1960)はその代表作『彼らの眼は神を見ていた』Their Eyes Were Watching God 1937)のなかで、ヒロインの祖母に次のように語らせています。

Honey, de white man is de ruler of everything as fur as Ah been able tuh find out. Maybe itʼs some place way off in de ocean where de black man is in power, but we donʼt know nothinʼ but what we see. So de white man throw down de load and tell de nigger man tuh pick it up. He pick it up because he have to, but he donʼt tote it. He hand it to his womenfolks.

De nigger woman is de mule uh de world so fur Ah can see. Hurston 14

「この世の支配者である白人」は荷を投げ出し、黒人の男に拾わせる。黒人 の男は拾わざるを得ないが、自分でその荷を運ぶことはせず、黒人の女にさ せる。黒人の女は「この世の騾馬」なんだ、との祖母のことばはまさにアメ リカ社会の人種・性差別を表わしています。

しかしヒロインの男性関係を通しての自己探求が中心となるこの作品は発 表当初、深刻な社会問題を扱っていないとして、黒人男性作家や批評家の間 では不評でした。大雑把な説明になりますが、アメリカの伝統的な黒人文学 とは、人種差別を摘発する抵抗文学で、その中心は黒人男性でした。それに 対し、黒人女性作家の場合、むしろ自分たちの住む黒人共同体の中の問題を

(14)

描くことが多く見られます。一見、人種という大きな社会問題よりも、家族 や個人の問題を扱っているように見えますが、個を描くことで、その個人が 作り上げている社会の問題が浮き彫りにされます。ハーストンの作品と同じ く、これからご紹介するモリスンの『青い眼がほしい』もその一例です。

この作品の舞台はモリスンの故郷でもあるオハイオの町で、時代はまだ人 種差別の厳しい1940年代です。誰もが美しいという白い肌、金髪、そして なんといっても青い眼を手に入れれば幸せになれると思い込んだ貧しく、醜 いピコーラという黒人少女の話を、同様に貧しい黒人少女クローディアが語 るという形を取っています。

白人の美の基準を受けいれ、それを手に入れたいと願うピコーラと対照的 に、クローディアのほうはなぜ白人のような外見でないと美しいとされない のかと疑問を抱き、白人の外見をした青い眼の人形を解体し、その正体を暴 こうするユニークな女の子です。このふたりを比較してみましょう。

まずピコーラ。彼女は父親にも母親にも慈しまれることもなく、級友のい じめにあい、教師からも無視され、蔑まれ、“Please God, . . . Please make me disappear”(Morrison 45)と、自分の存在を消してしまいたいと思うほ ど、自分を愛せない少女です。彼女はその原因は自分の醜さにあるとし、白 人のような外見、特に青い眼になれば、みんなに愛されるようになると信じ 込んでしまいます。そんな彼女は毎晩、「青い眼をください」と神に祈るの です。

Each night, without fail, she prayed for blue eyes. Fervently, for a year she had prayed. Although somewhat discouraged, she was not without hope. To have something as wonderful as that happens would take a long, long time.

Thrown, in this way, into the binding conviction that only a miracle could relieve her, she would never know her beauty. She would see only what there was to see: the eyes of other people. Morrison 46–7

(15)

彼女の悲劇は、白人のように美しくないからではなく、自分の眼でものを見る ことなく、他人の眼で見る、他人の見方を受け入れてしまったからでしょう。

一方、クローディアは「なぜ」と問うことのできる少女です。白人も黒人 も、大人も子供も、みんなが美しいと可愛がる「青い眼のお人形さん」をば らばらにして、その正体を探ろうとするクローディアの行為は象徴的です。

I had only one desire; to dismember a big blue-eyed Baby Doll].To see of what it was made, to discover the dearness, to find the beauty, the de- sirability that had escaped me, but apparently only me. Adults, older girls, shops, magazines, newspapers, window signs̶all the world had agreed that a blue-eyed, yellow-haired, pink-skinned doll was what every girl child treasured. Morrison 20

しかもクローディアは青い眼の人形を解体したいという自分の願望は、実 は白人の女の子への憎しみの現れてあることを見抜く力も持っています。ピ コーラと同様に貧しい黒人少女であるクローディアが生き抜いていくのは、

そうした洞察力によるものでしょう。

このふたりの違いの要因は、その家族にもあります。貧しい黒人という点 では同様の境遇でも、クローディアには自分を守ってくれる両親がいます。

ピコーラの場合は両親はいるものの、彼ら自身が親に愛されたことのない悲 しい過去を持ち、子供をどのように愛してよいかわからないという状況で す。ピコーラが白人の外見にあこがれたのも母親譲りなのかもしれません。

母親は現実を直視せず、映画の中の白人の夢の世界に逃避します。また自分 の家庭を顧みず、メイドとして働いている裕福な白人家庭のなかに慰めを見 出そうとします。彼女個人としては相手にもしてくれない人々が、白人家庭 の代理としてなら彼女を敬ってくれるのです。ピコーラも兄も、母親を「ミ セス・ブリードラヴ」と他人行儀に呼ぶのも、彼女が母親の役割を果たして いないことの表れです。

(16)

父親チョリーは飲んだくれで、妻との喧嘩が絶えません。娘を愛おしいと 思う瞬間もあるのですが、生後4日目に母親に捨てられ、父親のこともそ の名前すら漠然としか知らないという生い立ちの彼は、哀れなことに、娘を レイプするという許しがたい行為でしか愛情を表現できません。娘は父親の 子供をみごもった末、死産となり、やがて自分は青い眼を手に入れたという 妄想にかられ、狂気へと陥るという悲惨な物語です。 このように要約する と、娘に対して全く愛情をもって接することのない母親、そして娘をレイプ する父親は悪人と見えるかもしれません。しかしモリスンは彼らを加害者と して断罪することはありません。彼女はこの作品の「あとがき」で、“I did not want to dehumanize the characters who trashed Pecola and contributed to her collapse”(Morrison 211)「ピコーラをごみくずのように扱い、彼女の 崩壊の一因となった登場人物たちを非人間的にはしたくなかった」と語って います。なぜ母親も父親もそのような行動しかとれなかったのか、彼らの過 去まで遡って物語ることで、彼らを取り巻く環境、ひいてはアメリカ社会の 人種差別や、黒人の共同体内の問題が浮かび上がってきます。またモリスン は直接的に人種差別のアメリカ社会を批判するのではなく、白人の基準を受 け入れ、本来の自分の美しさに盲目的な黒人の悲劇を描くことで、人種差別 というアメリカの特異な問題にとどまらず、この作品を普遍性をもつ名作に 仕立てているのだと思います。

モリスン自身はこの作品のきっかけは、彼女の子供時代の体験にあったこ とも「あとがき」で説明しています。小学校に入ったばかりのころ、クラス メートの女の子が「青い眼がほしい」と言ったことに対し、その願いがか なった時のその子の姿を想像して嫌悪感を抱いたというのです。小説『青い 眼がほしい』は青い眼をほしがった女の子はなぜ自分が持っている美しさが わからなかったのか、どうして根本的にそんなにも自分を変えてもらいたい と願ったのかについて、何か言おうとした結果です、と述べています。「青 い眼の人形ばかりが可愛がられるのはなぜ?」と疑問を発し、人形をバラバ ラにしたクローディアの姿とモリスンのことばが重なります。

(17)

ところでこの作品の冒頭に不思議な引用があります。アメリカの子供なら だれでも読んだことのある「ディック・アンド・ジェーン」というシリーズ からの引用です。

Here is the house. It is green and white. It has a red door. It is very pretty.

Here is the family. Mother, Father, Dick, and Jane live in the green-and- white house. They are very happy. See, Jane. She has a red dress. She wants to play. Who will play with Jane? See the cat. It goes meow-meow.

Come and play. Come play with Jane. The kitten will not play. See Moth- er. Mother is very nice. Mother, will you play with Jane? Mother laughs.

Laugh, Mother, laugh. See Father. He is big and strong. Father, will you play with Jane? Father is smiling. Smile, Father, smile. See the dog. Bow- wow goes the dog. Do you want to play with Jane? See the dog run. Run, dog, run. Look, look. Here comes a friend. The friend will play with Jane.

They will play a good game. Play, Jane, play.

Here is the house it is green and white it has a red door it is very pretty here is the family mother father dick and jane live in the green-and- white house they are very happy see jane she has a red dress she wants to play who will play with jane see the cat it goes meow-meow come and play. Come play with jane the kitten will not play see mother mother is very nice mother will you play with jane mother laughs laugh mother laugh see father he is big and strong father will you play with jane father is smiling smile father smile see the dog bowwow goes the dog do you want to play with jane see the dog run run dog run look look here comes a friend the friend will play with jane they will play a good game play jane play

(18)

Hereisthehouseitisgreenandwhiteithasareddooritisveryprettyhereisthe- familymotherfatherdickandjaneliveinthegreenandwhitehousetheyarev- eryhappyseejaneshehasareddressshewantstoplaywhowillplaywithjane- seethecatitgoesmeowmeowcomeandplaycomeplaywithjanethekittenwilln otplayseemothermotherisverynicemother,willyouplaywithjanemotherlau ghslaughmotherlaughseefatherheisbigandstrongfatherwillyouplaywith- janefatherissmilingsmilefathersmileseethedogbowwowgoesthedogdoy- ouwanttoplaywithjaneseethedogrunrundogrunlooklookherecomesaf- riendthefriendwillplaywithjanetheywillplayagoodgameplayjaneplay

まず、最初の段落です。きれいなお家、優しいお母さん、強いお父さん、

男の子と女の子、猫も犬もお友達もいるまさに幸福な家族像です。明記され てはいませんが、もちろん白人家庭です。次の段落です。最初のhereとい う言葉の初めが大文字なだけで、すべて小文字。カンマもピリオドもありま せん。読みにくい段落ですが、何とか読めますね。内容は第一段落と同じで あることがわかります。最後の段落はどうでしょうか?最初のHだけが大 文字で、スペースは全くなく、ただ文字の羅列のように見えます。でもよく 見てみると、なんと中身はこれまた第一段落と同じです。モリスンはなぜこ んなことをしたのでしょうか?

この点に関して、様々な解釈があります。一般的なのは、フィリス・R・ クロットマンの論に代表されるような、一つ目は文字通り、理想のハッ ピー・ファミリー。二つ目は貧しいけれど、家族愛によってかろうじて保た れているクローデイアの家族を表している、そして最後はとても家庭とはい えない崩壊したピコーラの家族であるという見解です。3なるほど、と思え る解釈ですね。でもこう考えることもできるのではないでしょうか。モリス ンは「ディック・アンド・ジェーン」のような理想のファミリーという幻想 はぶち壊してごらんなさい。こんな風に解体してみると何の意味もないで しょう、と訴えているのだ、と。この冒頭だけでも異なった読みが可能なの

(19)

が文学の面白さです。

アメリカを代表する名作とはいえ、あまりにも悲劇的な作品ばかりでは皆 さんの門出を祝うにはふさわしくないので、最後に元気のでる作品に簡単に 触れたいと思います。

クレイジーなおばさんたちの物語

今 年1月、88歳で亡く な っ た ア ー シ ュ ラ・K・ル=グ ゥ イ ン(1929–

2018)が1982年に発表した短編小説「スール(南)」“Sur”です。彼女は ヴォネガットと同様にサイエンス・フクション作家として、ファンタジー作 家として高い評価を受けてきました。『ゲド戦記』シリーズをお読みになっ た方もいるでしょう。代表作は1969年に発表された『闇の左手』The Left

Hand of Darknessで、両性具有の世界を描き、性差、ジェンダーの問題を追

求しています。

「スール」は南米の主婦による南極大陸探検の話ですが、ノルウェーのア ムンゼンよりも、イギリスのスコットよりも早く南極点に到達したのは、彼 女たち南米の主婦たちだったというなんとも奇想天外な物語です。この作品 の主人公と親友は、イギリスの南極探検隊のスコット隊長の最初の南極探検 記(この1回目のスコット隊による試みは失敗に終わったのですが)に魅せ られ、自分たちも南極に行ってみたいと強い願望を抱くようになります。

Well, if Captain Scott can do it, why canʼt we?”(Le Guin 346)「スコット隊 長にできるのなら、どうしてあたしたちがやっちゃいけないのよ」と勇まし い女性たちです。しかし国の威信をかけ、国家予算をふんだんに使ったス コットやアムンゼンの探検隊のように国のバックアップなど彼女たちにはあ りません。幸い資金は、篤志家の寄付で調達できました。とはいえ女性たち は親の介護、子育て、病気の夫の看病など多くの問題を日常的に抱えていま す。そもそも主婦の身で、何か月も家をあけることなど許されません。物語 は1910年代という設定ですから、今よりずっと女性の行動は制約されてい た時代でした。それでも9名の女性たちが南極を目指します。ル=グウィ

(20)

ンは自らを「ハンドバッグを振り回して戦う怒れるおばさん」と称している ように、性差別に対しては敢然とペンの力で戦いを挑むフェミニストです が、決して、男性を攻撃するばかりではありません。女性に理解を示す男性 たちとはともに生きるという姿勢の作家でした。この作品にも、主婦たちの 無謀ともいえる計画を金銭的に援助してくれた篤志家や、南極大陸まで船に 乗せてくる男性船員たちが登場します。

南極大陸に船で到着してから、南極点を目指す旅は冒険家としては全くの 素人である主婦たちにとって、当然のことながら大変厳しいものですが、彼 女たちは、例えば、南米に古くから伝わる、栄養価が高く、重量は軽い乾燥 食品を持参するなど、主婦としての知恵でそれを乗り越え、ついに南極点に 到達します。しかもアムンゼンよりも、スコットよりも早く着いてしまった のです。しかし彼女たちは国旗を掲げたり、何らかの印を残すことはしませ んでした。この南極探検隊の隊員のひとりである作品の語り手はこう語って います。“I was glad even then we had left no sign there, for some man long- ing to be first might come some day, and find it, and know then what a fool he had been and break his heart”(Le Guin 364)「あそこに何の目印も残して こなかったので、ほっとしている。いつかなにがなんでも一番乗りしないと 気のすまない男があそこへやってきて、目印を見つけたら、自分がどんなバ カだったかわかって、がっくりくるではないか」と。無事帰国して、南極点 到達の報告も彼女たちはしません。ただ、あとで孫たちが「クレイジーなお ばあちゃん」に呆れながらも、楽しんでくれるかもしれない、と手記を屋根 裏部屋のトランクに残します。しかし、語り手の女性はこう言います。

they must not let Mr. Amundsen know! He would be terribly embarrassed and disappointed”(Le Guin 368)「絶対にアムンゼン氏には知らせてはなら ない。そんなことになれば、彼はすっかり困惑し、がっかりしてしまうだろ う」と。南極探検の英雄をちょっと茶化しているのが愉快です。

男性の冒険物語の場合、フィクションにせよノンフィクションにせよ、

「未開地を征服」とか「自然との闘い」といった勇ましいイメージがつきも

(21)

のですが、この作品の女性たちは、自分たちが南極点に到達できたのは、

「自然に恵まれた」とあくまで謙虚なことも印象的です。

世界で初めて南極点に到達しながら、そのことを秘密にしているというこ の女性たちの物語について、批評家たちはフェミニスト的読みを展開しま す。男性であれば、当然その偉業を公にし、英雄になるところを、この女性 たちは自分たちの探検を公表しないのはつねに女性が沈黙を強いられてきた ことを示している、と。また、実は作中、隊員のひとりで新婚の若い女性が 妊娠していることがわかり、なんと南極大陸で出産するという出来事がある のですが、この「出産」を南極点到達よりこの作品のクライマックスである とし、産む性としての女性の力について論じるというアプローチもありま す。

物語の結末では、南極で無事生まれた女の子は5歳のとき、しょう紅熱に かかり亡くなったこと、また仲間であり親友だった人物も亡くなったこと、

修道院に入ったものがいることなどが明かされます。こうしたことすべて含 む手記が収められた語り手の屋根裏部屋のトランクには他に、子供が洗礼を 受けた時の服や、おもちゃ、自分の婚礼の際の靴などが入っています。つま り彼女の結婚や出産と同様、彼女が人生で辿ってきたもののひとつがあの南 極探検という旅だったのでしょう。男性でしたら、世界中に発信されるビッ グ・ニュースになるところですが、屋根裏のトランクに密かにしまわれた手 記、それも家族の思い出の品と一緒に、というところが、女性の行動はあく まで公的な男性のそれと異なり、私的なものであると、ル=グウィンはあえ て主張したかったのかもしれません。ただ、それは先ほどのフェミニスト批 評家たちが指摘するような、女性が沈黙を強いられたことへの怒り、という より、スコット隊長の体験記に魅せられて、「私たちも南極に行ってみたい、

どうして行っちゃいけないの?」という主婦たちの純粋な夢の実現は、彼女 たちにとって、結婚、出産、家事、子育て、家族の介護と同じく、懸命に生 きてきた彼女たちの人生の一部であって、それをあえて公にしないことは

「男たちのように自慢し、英雄気取りになる必要なんてないのよ」という女

(22)

性の誇りの証と言えるのではないでしょうか。一見、非現実的な冒険物語の ように見えるこの作品ですが、ユーモラスでありながら、ちょっと切ない、

そして何といっても、清々しい女性の人生の物語だと思えるのです。物語は

We left no footprints, even”(Le Guin 368)という文で終わっています。あ とから来た男性探検家たちががっかりしないように、南極点に足跡さえ残さ なかった、というエンディングですが、私の心にはこの女性たちの心意気が しっかり跡を残してくれました。

現代では、この作中の女性たちに比べれば、私たちの行動が女性だからと いう理由で制限されることははるかに少なくなりました。それでも理不尽な 差別に直面することもないわけではありません。そんな時、「スール」の女

性たちの“Why canʼt we?”「どうして私たちがやっちゃいけないの?」という

ことばはいつも私の背中を押してくれるのです。

「注」

1朝日新聞「オピニオン&フォーラム:『遠回り』の金メダル」2018330 朝刊、13 17

2)朝日新聞「SNS時代でも『身体に響く言葉、執拗につづる』」201848日 朝刊、12 27

3 Phyllis R. Klotman, Dick-and-Jane and Shirley Temple Sensibility in The Bluest Eye, in Black American Literature Forum, Vol. 13, No 4, winter, 1979, pp. 123–

25.

テクスト

Hurston, Zora Neale. Their Eyes Were Watching God. New York: Harper & Row, 1990.

Le Guin, Ursula K. Sur. The Compass Rose. New York: Harper Collins, 1991. 343–368.

Morrison, Toni. The Bluest Eye. New York: Plume, 1994.

Vonnegut Jr., Kurt. Address to the American Physical Society.Wampeters Foma &

Granfalloons. St Albans: Panther, 1976. 99–108.

参照

関連したドキュメント

Although PM method has very similar smoothing results to the shock filter, their behavior has two differences: one is the PM method will not stop diffusion at corner while shock

Functional and neutral differential equations play an important role in many applications and have a long and rich history with a substantial contribution of Hungarian

For several classes of pseudodifferential operators with operator- valued symbol analytic index formulas are found1. The common feature is that usual index formulas are not valid

The CrM operational characteristics will be similar to any conventional critical conduction mode boost PFC or flyback converter, namely the switching frequency will vary with line

(0 10 - 0 25) Mazolin™ applications should begin prior to disease development and continue throughout the season on a 7- to 14-day schedule, following the resistance

Refer to appropriate Table for reduced rate directions for the control of small annual grasses. The addition of AMS has shown improved grass control for difficult to control species

TEPCO is advancing technological development toward the realization of “smarter” power system networks through such initiatives as establishing power system networks that enable the

during power up, then there are chances that the leakage inductance ringing is internally interpreted as a demagnetization signal and the SOFA will restart the switch: you enter CCM