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⑦口達町別当共江

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(1)

卿じ肱に

︵1︶近世後期の都市行政は︑社会対策を中心に展開する︒

本稿は︑熊本城下町を素材として︑窮民の救済問題を中

心に進展する城下町の社会対策について検討しようとする

ものである︒

近世都市における社会対策のなかでも︑特に窮民の救

︵2︶済が問題となるのは飢鐘の時期である︒大坂b江戸への

廻米を経済の基盤とした近世社会では︑大飢鯉がひとた

び発生すると全国市場のもと米価の高騰が各地に大量の窮

民を生み出すこととなり︑諸藩の城下町でもその対策が

必要となった︒このことは全国的な米の生産地である熊

本藩でも同様であり︑三大飢鐘とされる享保・天明・天

保飢鐘を経験することで窮民を救済するしくみが完成する

と︑熊本城下町では生活に困窮する人々は社会保障とい 熊本城下町における窮民の救涜と社会保障

購える吋淑剖瀧を浮くけてvた︲そこて本寺稀て胸能岬卑叩靭下町における窮民の救済問題を中心に次の三点について検討する︒

まず窮民を救済するしくみについて明らかにするQ財

源をともなう救済制度は一時期にできあがったものではな

い︒熊本城下町では﹁五歩銀﹂という住民の負担金が基

盤となっている︒地子が免除されていた熊本城下町では

土地台帳である﹁軒帳﹂をもとに︑住民が間口を基準に

﹁惣町︵町全体の運営組織︶l懸︵中間行政区域︶1丁

︵個別の町︶﹂という内部編成に対応する﹁惣町入用l懸

入用1丁入用﹂という諸費用を負担することで運営され

︵3︶ていた︒そしてこれとは別に︑家屋敷が売買されると新

たな所有者は軒帳の記載内容を訂正して所有権の書き換え

をしたが︑ここで新しい所有者は不動産取得税といえる

五歩銀を負担した︒この五歩銀をもとに救済のしくみが

松崎範子

− 5 9 −

(2)

徴について考察する︒ できる過程をみることで︑城下町における社会対策の特

第二として︑天保期に完成する窮民救済制度について

︵4︶検討する︒天保期以降︑熊本城下町では窮民の救済は懸

ごとに﹁窮民御救伽根帳﹂を作成して行われた︒そこで

︵5︶﹁西古町懸窮民御救仙根帳﹂に記されている人々に着目し

て︑天保期に完成する窮民救済制度の内容を明らかにす

る︒

第三として︑天保期に完成した窮民への救済制度がど

のように社会に定着するのかをみるp熊本城下町では天

保飢餓の時期に窮民救済制度が完成したが︑米価の高騰

が落ち着くと窮民への救済は終了した︒ところが弘化期

になると再び﹁窮民御救伽根帳﹂を用いて窮民の救済が

行われている︒天保期に完成した窮民救済制度をどのよ

うに継続させているのかを明らかにする︒

︵1︶江戸では天明飢鐘によって七分積金が成立してお

り︵吉田伸之﹁近世巨大都市の社会構造﹄︑東京大学

出版会︑一九九一年︶︑天明期は都市政策の転換期と

なる︵塚本明﹁都市構造の転換﹂﹁岩波講座日本通史﹂

第哩巻︑岩波書店︑一九九五年︶︒ 第一鎌社会刻策の進展近世期の社会対策は︑領主の政策のなかで行われた︒

本節では享保・天明飢儀の各段階において熊本城下町では

どのように窮民が救済されたのかをみながら︑飢謹を経

験することで社会対策が進展する過程をみることにする︒ ︵2︶寺来拙崖︽・天一過冊﹄α削謡閏﹄士回Ⅱ﹃駆掴又雛一九力七鉦︐︲︵3︶拙稿﹁近世城下町の財政システムと町人﹂︵﹁熊本

大学社会文化研究﹂7︑二○○八年︶︒

︵4︶幕領の八王寺町では︑天保八年に町役人が中心と

なって救済仕法を作成して窮民の救済をした︵馬場憲一﹁天保期における八王寺町の動向﹂︑豊田武編

﹃近世の都市と在郷商人﹂︑巌南堂書店︑二九七九年︶︒

︵5︶熊本県立図書館所蔵﹁県政史料モコァ躯13﹂︒

﹁西古町懸窮民御救伽根帳﹂自体の検討は繰り返され

ている︒天保期以降の窮民救済は富裕層の資金で行

われていたことが明らかにされ︵山内由紀﹁近世後

期熊本町における窮民救済﹂﹁熊本史学﹄第八○・八

一号合併号︑二○○二年︶︑また﹁惣町l懸1丁﹂の

各段階で救済の取り組みがみられることが指摘されて

いる︵本田秀人﹁窮民救済と取救備銭﹂﹃近世都市熊

本の社会﹂︑熊本出版文化会館︑二○一○年︶︒

(3)

一︑社会対策の財源

熊本城下町における社会対策のための財源は五歩銀であっ

た︒熊本城下町には軒帳という土地台帳があり︑家屋敷

が売買されるとその名義が書きかえられたが︑その際に

取得者から購入費用の五%を徴収したものが五歩銀である︒

五歩銀の徴収が始まった時期は判明しないが一七世紀末にば確認で錘︑その徴収目的は﹁五歩銀取立被仰付候儀ハ︑

︵2︶其所之便利二成候ため﹂と町の資産とすることにあった︒

しかし一八世紀初頭までは徴収された五歩銀は藩に納めら

れており︑住民の管理下にはなかった︒

したがって享保飢鐘の際には︑五歩銀による救済は行

われていないq享保一七年︵一七三三︶に熊本城下町で

飢人を救済したのは︑表1にみるように妙解寺以下の城

下町や近郊に所在する寺院と細工町懸光絵屋喜左衛門以下

六名の町人や本坪井町懸布屋甚四郎で︑救済は特定の寺

︵3︶院や富裕町人を中心とする民間の合力・施行で行われた︒

ところが飢越が終息すると︑五歩銀は住民の管理下に

移されている︒享保九年︵一七二四︶に家屋敷の売買で

所有者が交代すると︑町役人が軒帳の記載内容を訂正し

てこれに熊本町奉行の﹁御印﹂を受けるという事務処理形態ができていたこと壷︑飢瞳が落ち着いた同二一年に

藩では好帳の訂正と五歩銀の徴収とを一体化して︑集まつ

享保飢霞における救済

(※)「御家老中江不時窺帳之内抜書」より作成

た五歩銀は懸ごとに一ヶ月に

二五○目を熊本城下町の別当

を代表する中古町懸別当のも

とに集めて︑残りは各懸で

︵5︶管理するようにしたことで︑

惣町と各懸はそれぞれ運営費

とは異なる資金を保有するよ

うになった︒

藩政改革が行なわれた宝暦

期には︑同二年︵一七五二︶

から翌年にかけて町入用の徴収システムが整備される漉︑

次いて五歩銀についても同四

年一○月に惣町を代表する中

古町懸別当に半分を納めて︑

残りの半分を各懸の別当のも

とに置いて︑藩の許可を受

けながら家が壊れて難渋する

困窮者などに貸し与えるよう

にしたことで︑これ以降︑

惣町が保有する分を﹁市中

用銭﹂︑懸が保有する分を

− 6 1 −

飢人を数日救済 妙解寺・泰勝寺・成就院・大慈寺・西福寺・西岸寺・本妙寺 托鉢に出かけ飢人を救済 延寿寺

所々飢人を数か月救済

細工町懸光絵屋喜左衛門・中古町懸塩屋庄九郎・中古町懸五 穀屋伊七・西古町懸塩屋惣三郎・新坪井町伊勢屋又四郎・同 筑後屋喜左衛門

飢人に寒中衣類を配る 本坪井町懸布屋甚四郎

(4)

一三m兎や床α進展

その後も五歩銀のほかに社会対策費を確保するため︑

明和二年︵一七六五︶に藩では家持町人から五銅︑借家

人から二銅の徴収を始めて︑穀類を備蓄するようになっ

︵9︶ていた・では天明飢餓の段階になると︑窮民の救済はど

のように行われたのであろうか︒

天明飢鐘は同三年︵一七八三︶の東北地方の冷害によ

る大凶作を発端とする全国的な飢鐘である︒天明期には

米不足と米価の高騰によって全国各地で米騒動が起きたが︑

熊本城下町でも同七年五月に打ちこわしが発生しており窮

乏状況は同じであった︒熊本藩の天明飢鯉はすでに同元

年の自然災害によって始まっており︑翌二年から三年に

かけては米価の高騰を食い止めるために御蔵米売買の仕法

を定めて︑町人から徴収した五銅・二銅による備蓄米を

︵肥︶市中に放出して米価の安定につとめている︒またそれで

は行き渡らない窮民に対しては︑富裕層による救済も行われた︒藩庁奉行所の記録である﹁達臓﹂には︑その内

容が記載されているので整理したものが表2である︒表

の作成においては救済をした人数が多いので︑別当によ ︵7︶﹁懸用銭﹂と称して︑五歩銀が社会対策費であるという認

︵8︶識が広く定着するようになる︒ る救済をまとめて表21①とし︑個別町人による救済を表

21②︑さらに個別の丁ごとにも救済がみられるのでそ

の内容を表21③とした︒以上の三つの表から享保期と

天明期の救済を比べて︑判明することを次に述べる︒

第一には︑天明期には多くの有力町人が救済に参加す

るようになっていることである︒第二には︑そのうち別

当・丁頭という町役人が多数を占めるようになっており︑

町役人が受け持ち区域の住民を救済しようとする動きが確認される点である︒そして第三には︑城下と農村との境

となる白川中河原に集まる飢人には︑地理的に近い新坪

井町懸の別当や有力町人が中心となって救済資金を提供す

るだけでなく︑米などの食料を持ち出して炊き出しをす

る一方︑各懸では別当が受け持ち区域に所在する物貰い

に食料を施与して︑町内の治安に心がけている︒しかし

天明期の段階はまだ不特定多数への救済であって︑城下

町内部に所在する窮民が等しく救済された訳ではないため︑

結果的には天明七年に打ちこわしが発生することとなる︒

しかしその後の対策には進展がみられず︑寛政八年

︵一七九六︶の大水害では備蓄米を保管していた米蔵が破

︵腿︶損して︑熊本城下町ではいつ起こるか分からない災害に

備えて救済システムの構築に迫られていたというのが︑

一八世紀末の状況であったといえる︒

(5)

表2−①天明飢鐘における別当の救済

(※)「達帳」より作成

−63−

懸 内 ハ 物 貰 ハ 中 河 原 ヂ

新坪井町懸釘沢市三郎

吉井惣三I

永山甚次良I

平嶋寿元

〃 筑 後 屋 又 右 衛 門

中尾佐次目I

米17石1斗 11.1

米17.:

8.2.〔

白米2.1 米 5 俵 米17.:

銭37匁 3

2630

3

3 450 香物1イ

米 7 石 2 斗 粟 1 5 石 分白小太摺白粟 米麦米粟米 365316

米14石3斗7チ . 2 . 0 . 1 米4.0.0.1 摺粟1.5.0.1 白米3.6.0.1

銭1貫500目 米 7 石

銭800目(町方へ)

白米1石1斗7升8合 摺 粟 8 . 5 . 8 味 噌 3 . 7 薪425把

本坪井懸小山善十郎 2.45 東古町懸松田理兵衛

西村伊右衛門

吉村肋次郎

中古町懸友枝太郎左衛門

市原惣五郎

市原佐次郎

若圃理兵衛 西古町懸財津九十郎

〃 山 田 伊 十 帥

73662●●●●.●2122俵3粟3米米Ⅷ摺米米米白

1.246 1373 545

336

343 87 250

● 毎 ● 、 ● ● ● ● 毎 ●

574子子子布布布

p ● 寺 ● d 寺 ● 。 ● ● 。 。

摺粟4.7.0.1 米5.5.0.(

・白米5俵

米 5 . 2 . 0 . 0

。 ● ● p ● ● ● ● ● ● ・ ● ●● ○ b ● ④ ■ ● ● ● ウ 。 ■ ● 七 色 。 ● ②

白米9.4.0.(

白米2.4.0.(

白米5.2.0.(

白米7.0.0.(

紺屋町懸白木茂七郎

守口屋利兵衛

784 866

布子4 白米15魁 細工町懸斎膜茂左衛F1

光絵伊兵衛 194

白米1.8.0.(

新1丁目懸松本弥吉 職人町懸早川又右衛門

125

2

■ ご ● ● 。 ■ 。 ■ 凸 ■ ■ ●

古布子I

白米2.5.0.(

摺米1.2.0.(

蔚山町懸甲斐弥左衛門

渡辺吉郎、 米1.4.剣 1

1156米米

米白米白 凸司a刃︒口■■口0可 0000 0000

京1.2丁目懸 津屋岩三郎

〃 ′ 字 兵 備

蝋 九 蛾

今京町懸伊勢屋儀兵衛 出京町懸大久保八右衛門

米5.5.4 粟75俵

粟4.5ず 摺粟3斗

345

6 古布子1

白米24.7.0.1

白米1.5.0.{

(6)

表2−②天明飢鱗における個別町人の救箔

(※)「達帳」より作成

懸 . へ 物 貰 へ 中河原ハ

新坪井町懸金屋弥三郎

〃 、 辺 源 撒 ・ 万 屋 平 兵 術

唐津屋源次郎・

伊躯彦四郎・個馴三A

田辺吉兵#

美作九平次

広島屋儀兵徽

米2石7斗Oチ 白米1石7斗O升

白米5俵 白米1.2.1 白 米 4 . 1

白米3卯mm汁

東古町懸船場町永田七右衛f

向宝町国津九平次

古川町八代屋栄助

矢野儀平次

薩摩屋政七

数珠屋惣三郎

宝町香具屋庄右衛P 米屋十x

西古町懸唐人町代物屋惣兵衛 中 古 町 懸 市 原 屋 惣 七 郎

油屋久左術門

呉服町秀島屋七右衛P

古鍛冶屋町代物屋惣左術門

■ ■ 一 一 一 ■ ■ ■ q ■ ■ − ー 一 − ー 一 一 ー 一 一 一 一 ー − − − − − .

紺屋町懸紺屋2丁目倉岡屋新右術門

出田弥平次

細工町懸細工4丁目内田屋吉兵衛

躯七鮒懸山

米 5 . 3 . 〔 米 1 . 4 . 4

米 2 . 7 . :

古布子31

〃 2 1

一一一一一一一一一一一一

253 281 151 101

15 5 301

151

101

8

2 101

餌Ⅱ︑FHL〃日︑グコL●●●●6688

●●53粟粟粟米摺摺摺

白 米 6 . 0 摺粟1.8.f 米 1 . 6 . ( 白米1.2.8

■ 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 ■ ■ ■ q ■ ■ 一 ■ q ■

米 7 . 0

■ q ■ ■ ■ ■ ■ − ■ ■ ■ − ■ ■ ■ 一 一 ■ ■ ■ 一 一 ■ ■ ■ 一 一 ■ ■

白 米 8 . 白米1.6.1 白 米 6 . 1 白米1.0.0

■ 一 一 q ■ ■ ー − − − − q ■ ■ ■ ■ ■ 一 一 一 一 l ■ ■

吟 ■ ■ 画 一 ー 一 ■ ■ ■ ■ ■ ■ ー ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ 一 q ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ー

白米1.0.1 白米・摺粟7石2斗

一一一一一一一一一一一一一一一一幸一

= ー ー ー − − − − −

B ■ ■ q ■ ■ ー ■ ■ ■ ■ ■ ■ ー ■ ■ ■ ー q ■ ■

新 1 丁 目 懸 米 屋 勘 平 次 新 2 丁 目 懸 万 屋 太 平 次 職 人 町 懸 木 津 屋 庄 兵 術 新 3 丁 目 懸 小 脇 屋 捕 兵 衛 蔚 山 町 懸 米 屋 惣 牝

菊屋勘七郎

香具屋庄兵衛

新 1 丁 目 懸 米 屋 勘 平 次

●●●

2232

米白米米

布子12 151

40, 37.5

15

︒●●●●55660●●●41俵2俵俵1米・6米5米8米・臼米米・日米白米白

京 町 懸 自 薗 犀 嬰 右 衛 P

会津屋妙仙

今 京 町 懸 測 田 屋 儀 平

河内屋仁三創

出 京 町 懸 茶 屋 勘 十 郎

白 米 8 . : 摺 粟 2 . 1 米 1 . 1 . 1

白米1.5.(

白 米 3 . 1 白 米 5 . ( 香り 町名不明.吉村仙太夫屋f

甲斐善平次

子ノ字屋伝蔵 油屋伊兵術

求摩屋宇平次・油屋梢兵備

香具屋砺市 米 1 .

50 10

15 1036

摺 粟 8 . ( 米 5 . 1

白米2.5.(

太米1.5.〈

味噌汁

(7)

したがって文化期以降は財政難に苦しむ藩に代わって︑

文化四年︵一八○四︶に開設された熊本町会所︵惣町会

所︶における別当の合議によって具体的な対策が実行さ

れるようになる︒対策の財源である五歩銀の管理は厳密

になり︑同六年八月からは懸が保有していた懸用銭の使途については﹁受払陸の作成を始めて︑町方部局の役

表2−③天明飢鐘における丁内への救済

(※)「達帳」より作月

を始めて︑町方部局の役人がその出し入れに立ち

会うようにするとともに︑

文化期には懸用銭を﹁錬

寡孤独為御救別段御用銭

︵M︶備﹂とする︒また惣町に

集まった市中用銭では米

穀を買い入れて﹁非常救

棚之御備﹂として︑本坪

井町の米蔵のほかに文政

五年︵一八二二︶からは

新町・古町・京町にも新

たに蔵を設けて地区ごと

に備蓄米の確保をする︒

そして翌六年からは別当

のなかでも家業が造酒屋

である別当を特に﹁御備 米受込別当﹂に任命して︑米価高騰の際に対応できる体

︵蝿︶制をつくる︒

また藩では社会対策の財源不足を補うために︑文化九

年二月に﹁一衣不着者﹂を救済した者を﹁奇特之至候﹂

︵肥︶として奨励し︑翌一○年一○月には城下町の町人に対して﹁民力強メニ相成候程之寸蒜巨を募って︑富裕層に

﹁寸志﹂という名目で積極的に資金提供を求めるようにな

る︒こうして文化・文政期にかけて住民の負担で社会対

策ができるしくみが進展することとなった︒

︵1︶元禄六年︵一六九三︶には︑﹁五歩銀﹂の徴収が確

認できる︵﹁惣月行事記録抜書﹂︵﹃熊本藩町政史料こ

六頁︑細川藩政史研究会︑一九八五年︶︒

︵2︶前同一七頁︑正徳四年の項︒

︵3︶永青文庫蔵﹁御家老中不時窺帳之内抜書﹂8︐5︑

〃辻◎︵4︶前掲﹃熊本藩町政史料二三四頁︑この時期︑町

側で﹁軒帳﹂の管理が厳正に行われるように︑藩で

は指導を繰り返している︒

︵5︶前同四九頁︒

︵6︶前掲﹁近世城下町の財政システムと町人﹂︒

−65−

東古町懸山崎町丁頭喜兵術

〃新鳥屋町丁頭板屋伊右衛F¥

〃 新 大 工 町 縄 屋 善 次 郎

町名不明扇屋長右衛門・高瀬屋安兵術 松屋儀三次・扇屋伊四償I 伊勢屋伝蔵・綿屋伝九郎・

泉屋武吉・たはこ屋吉右衛Pヲ 小国屋七右衛門・油屋又次郎 秀嶋屋新次郎・塩屋伊七 高瀬屋勘兵繍

米 1 石 4 斗 { 米 1 . 3 . (

851

'50

1235

(8)

簾二節簾民救済制度の完成天保飢餓とは︑天保四年︵一八三三︶から同七年にか

けての全国的な凶作をいう︒天保八年二月に大坂でおき ︵7︶永青文庫蔵﹁御奉行所局々取計之規律大綱を記し

上江指上可被置由︑大奉行嶋田嘉津次殿以指図寺社

町より相達候書付写﹂9︑岨︑邪︒

︵8︶宝暦四年から天明九年にかけては十歩銀として︑

社会対策費の確保を急いでいる︵前掲﹃熊本藩町政

史料こ一三○頁︶︒なお銀表示は次第に匁銭へと変

化していることをあらかじめ述べておく︒

︵9︶前掲﹃熊本藩町政史料二二七三頁︒

︵︑︶前同四一○〜四二○頁︒

︵u︶永青文庫蔵9︐8︑︑︒

︵胆︶前掲﹃熊本藩町政史料三一○○頁︒

︵焔︶前同三二四頁︒

︵必︶前掲﹁御奉行所局々取計之規律大綱を記し上江指

上可被置由︑大奉行嶋田嘉津次殿以指図寺社町より

相達候書付写﹂︒

︵焔︶前掲﹃熊本藩町政史料二﹂三八五頁︒

︵焔︶前同四一五頁︒

︵Ⅳ︶岡崎家文書﹁覚帳﹂︒ た大塩平八郎による窮民を救済するための抗議活動がよく知られているが︑この時期には全国各地で激しい打ちこわしが発生している︒ところで天保期の熊本藩は飢篭ではなかった︒逆に凶作ではなかったことで︑米の産地である熊本藩には天保六年から一○年までの五ヶ年間に大坂での米価の値上がりが収益をもたらし崎むしろ破綻に瀕

︵1︶した藩の財政は救われている︒

ところが城下町に暮らす人々は︑米の産地にいながら

米価が高騰して飢鐘の影響を受けている︒表3は羊領内の

米価を一石当りに換算したものである︒これをみると西

国から東海にかけての大風雨がもたらした災害によって︑

︵2︶熊本藩では損毛高三七万石を記録した文政二年︵一八

二八︶に米価が一石当り銀八○匁まで上昇したが︑その

後は落ち着きを取り戻していた︒しかし天保四年から再

び米価は上昇をみせて︑同七年から八年にかけては特に

高騰している︒これは飢鐘による凶作の影響を受けて全

国市場で投機的な米の売買が行われたためであった︒し

たがって米価の高騰は藩内にも多くの飢人をうむこととな

り︑同七年から翌八年七月の間に御国者二三人・他国者

九九人・生所不明者一五四人︑御救小屋でも九一人と︑

︵3︶合計三六七人の死亡が藩に報告されている︒

つまり熊本城下町では︑享保・天明飢鐘を経験するこ

(9)

LL︾烏劉佃ムエ余︵鉦牙糸〃毎基恥秒聖こ抄却z七秒卦拐ノ鵬い季忽hソ晶〆加肌・竹課耐哩剛蝿猫恥は備蓄米の確保も進んでいたにもかかわらず︑天保期に

は全国的な飢鐘の影響を受けて米価が高騰したことで︑

この時期に窮民救済制度が完成するという経過をとってい

る︒本節では﹁西古町懸窮民御救伽根帳﹂をもとに︑天

保期に完成する窮民救済制度の内容について検討する︒

一簾目淵︶旗個湛αz蒲

天保期の熊本城下町に窮民救済制度が完成していること

は︑﹁西古町懸窮民御救伽根帳﹂の冒頭に綴じ込まれてい

る次の藩の通達で知ることができる︒︲長文であるが以下

の検討に必要となるので提示する︒

史料1

⑦口達町別当共江

表 3 領内の米佃

︾辺狂︐下斗力一切糊縫い冊錆鄭測こ烹求よりⅢ望雰斗オ々二王声順一旧

︵懸︑以下同︶者飢寒凌兼候鉢之もの多く︑裏家・借屋Q端々掛

人数等之内二者朝夕之煙立兼︑雨露之防さへ無之程之破家・片庇なと床之有無を茂しらす︑酷寒二つ樹

れ単衣位を着用いたし︑破蒲団・紙ふすま等二三人

二而引張︑夫さへ調兼候ものハ錘俵等見二纏︑夏内

者蚊遣火等にて終夜相苦︑年分困窮を不免者茂不少

有之哉相聞︑尤其身之不所存より零落二至候もの茂

可有之候得とも︑右之内二者老年二およひ︑妻子を

失い︑夫二放れ数人幼年之子供相手二後家暮いたし︑

幼年にして父母兄弟を失︑無寄方窮民も有之︑或家

内大勢二而病災・不幸打重り︑不具・病者等老人・

子供之育出来兼︑却而孤独之者より難渋強貧困茂有

之候由︑不便之至候︑右鉢之者ハ掛々町役富有之者

(※)「新熊本市史史料編近世Ⅱ 679頁より米価を1石当&

に換算して作成

− 6 7 −

1石当り

文政8年〃〃〃〃 9mu理 年︐年年年︐

天保元年〃〃〃〃〃︲〃〃〃″〃〃〃〃 234.56789m︑哩鯛M 年年年年年年年年年年年年年

弘化元4〃″〃 のる︑︒刈坐 年年年

嘉永元年〃〃〃〃〃 の凸︑︒4坐巨凹戸0 年年年年年

安政元勾〃〃″″〃〃 の色︑.︑4FDか0f 年年年年年年 11111111 匁銘団諏帥的刀肥開田布団u叩虹縄師能閃卯汚妬別田認的如卯%卯銘布氾諏妬迦認 ●●●︒●●ゅ●●●●●●●︒●●●●■ひ︒︑●②●●︒●●■●●■●●● 分074044979730003597011333889194717098

(10)

いふレツ参コノ︑圭乍︑却釧翌雁Hj川夢24小〃P郡は塗回恥不問剛宅茸弓二土乍施旧︿州ア螺寡孤独之類者誠二可憐もの二而︑此節御詮議之筋

有之︑御救伽之御仕法被付下︑毎冬難渋之厚薄人数

之多少二応し米銭増減割合を以被渡下旨候条︑各初

丁頭巳下御趣意筋篤斗奉感戴︑懸人数端々迄普御取

救筋行届候様精実二致世話︑暑寒永雨之節者猶又平

日二茂心を付︑飢寒之凌せ不申候而者難相済事候︑

将又掛々より是迄取救之儀者綿入又者米銭等区々施二

而︑掛々異同厚薄茂有之候由︑勿論何品二よらす多

少となく貧民之身二請候所者一廉成事二候得共︑往々

共上より者米銭を以被渡下候筈二付︑掛々より之取

救者以来成丈綿入を以施︑猶有余有之候分ハ白米を

以差出候様有之候得者︑先者衣食共取救筋相立候ト

申もの二而︑貧困之もの共誠以御仁沢之程難有かり

・可申︑依而格別取救手厚く世話筋行届候ものハ吃ト

様掛々富家之面々申談有之︑町頭巳下江者各より篤

斗申談有之︑若所柄二而取賄相調御救伽二およひ不

申程之掛茂候ハ︑︑前廉二其段相達候様右御救伽一

件取救筋左之通

︵中略︶

右之通可被相心得候事 御賞美を茂被仰付筈二付︑弥以取救筋厚く心を用候 天保五年十月

①右御達之趣奉得其意︑裏家・借屋・懸人数二至まて

不行届之儀無之様夫々心を付世話いたし︑御達申上

候︑以上

天保六年未正月

西古町別当白垣茂次郎⑳同光永太兵衛⑳同財津熊三郎同小寺捻左衛門⑳寺弥三郎⑳同財津九十郎⑨

吉田鷹之允殿圃山城藤市殿⑳下津久馬殿回佐田右平殿④西村半助殿画

坂本庄左衛門殿⑳

この史料は﹁西古町懸窮民御救棚根帳﹂の冒頭に綴じ

込まれているものであるが︑⑦と①の作成者は異なる︒

⑦の文書は天保五年︵一八三四︶一○月に藩庁奉行所が

熊本城下町のすべての懸の別当に対して通達した窮民救済

に関する﹁口達﹂の写しで︑内容は窮民救済仕法といえ

(11)

るものである︒次に④の部分﹁右御達之趣奉得其意﹂以

下の文書について︑これは翌六年正月に西古町懸の別当

白垣茂次郎以下五名の別当が﹁夫々心を付︑世話いたし

御達申上候﹂と記して押印しているように︑⑦の奉行所

の﹁口達﹂に対して別当が受け持ち区域の窮民を救済す

ることを誓約したものである︒つまり天保五年一○月に

窮民救済仕法が公布されて︑翌六年正月に別当が救済の

実行を誓約したことで窮民救済制度は完成する︒こうし

て天保六年から熊本城下町のすべての懸でいっせいに窮民

の救済が実施されることとなった︒

ところで熊本城下町では窮民救済仕法が通達される前年

の天保四年に︑すでに窮民の救済は行われていた︒それ

にもかかわらず窮民救済仕法が公布されたのには事情があつ

︵4︶た︒これについては次の史料に記されている︒

一市中末々螺寡孤独或ハ不具病災等二て至困之者有之

段相聞︑不便之至二付︑此節御余儀之趣有之︑人

別白米を以御救被下置筈候︑尤人別多少二寄り増

減割合を以被渡下候間︑町方御横目立会夫々配当

之可有取斗候

但︑本行至困之者之内ニハ塩味薪等之手当無之

ものも有之様子二付︑其分ハ塩薪料を以添被下

置候︑是又人数之多少二寄割合増減を以被渡筈 一市中連年取救筋手厚被取斗来候段ハ尤之事二候得共︑

是迄取救筋綿入又は米銭を被施来候懸も有之︑内

ニハ志らへ之仕法懸り々々二て異同有之︑幸不幸

等も有之由︑左候てハ御救棚之御主趣二致剛鵬候

間︑以来ハ成丈ケ綿入を以相施し︑猶有余有之分

ハ猶白米をも指遣候様︑勿論右御救伽ハ当年ニ限

り不申往々共二此節之振合を以被下置筈二付︑懸

り々々富家之面々へは各より弥以厚申談有之所柄二

て取賄相調︑以来上より之御救二及不申懸も有之

候ハ︑︑其段は前廉に可被達候一右御救伽一件ハ永々二係り事と申︑年々人数志ら

へ等精密々行届不申候てハ難相成︑各ハ不及申丁

頭以下も厚心配いたし候様二︑因て来春以後之儀

ハ前廉各丁頭町会所二惣寄合有之︑勿論町方御横

目廻役をも列席二て委細申談有之筈二付︑当年之

通を以取志らへ御救渡等夫々相済候上︑其年々惣

人数井御出方之員数共精々帳面仕立︑皆共井町方

御横目中印を以御分職御見届之御印形被受置候様︑

右之通被仰付候間︑可有其取斗候︑巳上十二月九日町方根取中

これは熊本城下町を担当する奉行所町方部局の根取が︑

天保四年一二月九日に熊本城下町の別当に出した窮民救済

−69−

(12)

に砥碑寸/鳥井涯万吠昨霧︼て方︽そ︲吠肋桑彰包塑エ測一で/そと淫二心殊に脳困窮者に対して藩では町方根取の配下である横目の立ち会

いのもと米を支給するようにしたことが記されている︒

そして第二条では懸ごとに行なわれている救済について︑

﹁志らへ之仕法懸り々々二て異同有之﹂と救済の内容が懸

によって異なるため︑﹁御救伽之御主趣二致棚酪候﹂と窮

民が等しく救済されていないとある︒したがって第三条

で︑来年春からは﹁其年々惣人数井御出方之員数共精々

帳面仕立︑皆共井町方御横目中印を以御分職御見届之御

印形被受置候﹂と懸ごとに困窮者の調査をして窮民とし

て認定した︾?えで救済し︑その結果を﹁窮民御救伽恨帳﹂

にまとめて御分職︵町方奉行︶に届けて︑﹁印形﹂で確認

するようにしたと伝えている︒

つまり天保四年に米価の高騰が始まるとともに︑熊本

城下町では窮民救済が始まっていた︒しかし懸によって

救済の内容が異なるため︑城下町全域で平準的な救済が

行われるように同五年一○月に窮民救済仕法を公布して︑

同六年からすべての懸で等しく窮民を救済するようにした

のである︒

二︑救済方法

では窮民救済仕法によって窮民はどのように救済を受け るようになったのか︑その方法については史料1の︵中略︶の部分に記されているので︑ここで改めて文章を提示する︒

︽囚︑以下両︶一例年十一月朔日掛々別当壱人宛町会所江被集会︑

勿論町方御横目茂出役有之︑至貧之者しらへ方之儀掛々異同無之様彼是篤斗申談︑翌二日よりしら

へ方二取掛り委細別紙案文相渡候通軒別貧家之有様

但書二顕シ︑同十日迄之内右帳面相達可申事︲

但︑右しらへ方之儀︑去年之帳面を踏候茂可有

之候へ共︑其内二者難渋薄らき候もの欠人等茂可有之︑又其年孤独至困等二至候新面も可有之

候間︑町々裏家・借家掛人数等二至迄精々軒別

二吟味を遂︑螺寡孤独之ものを初︑其侭難差置

貧困等不洩様取しらへ相達可申事

一右しらへ方帳相達候上︑町方御横目井別当巳下立

会︑貧家悉く被遂見聞︑雌渋之厚薄︑人数之多少

増減茂可有之事

但︑御救米銭渡之位者難渋之厚薄︑人数之多少

二応し掛々別当より軒別夫々二見込を付候之帳面

御横目手前二差出︑御横目より惣掛り見撫シ御

出方積彼是篤斗勘考二成︑掛酌を茂加見込之趣

達可有之事

(13)

|禍救米銭浪之儒者年二笥寛急二可有之候得共︑大体十二月中旬頃可被渡下候之条︑町方御横目立会

二て掛々別当より夫々配当之取計可有之事

但︑御救米銭頂戴二罷出得不申ものハ︑町頭・

組頭より受取︑貧困之もの宅々江罷越相渡可申︑

尤御救米銭被渡下候分一同二相渡候而者︑一過

遁二て宜敷カル間敷見込之ケ所々々等者︑被渡

下候米銭一応其もの江見せ︑其程を見計︑半方又ハ三ヶ一茂渡置︑残分者町頭・組頭等手元江

預り置︑永雨等別段難渋之節々相渡候而も可然

候間︑左様之取計有之候ヶ所々々者其段御横目

江致内意候ハ︑︑御横目より寄々見聞も可有之

一年々掛々町役富家之面々申談︑至貧之取救之儀精

密之しらヘニ至兼候掛も有之§幸不幸茂有之候由︑

右付而者町役中内輪勘酌之稜茂有之哉之様子二付︑

以来者所柄より取救之ヶ所々々茂町方御横目より見

聞可被仰付候間︑前以取救之名前等書付二認︑御

横目手元江可差出申事

一年々御救棚之人数・名前︑御出方之員数等精く帳

面二仕立︑所柄取救も右同断︑翌正月中右帳面町

方江差出︑町方根取井御横目致中印︑分職中見届 之印形請置可申事

史料の内容は︑以下のようにまとめることができる︒

・毎年二月朔日に各懸から別当一名が熊本町会所に

集まって︑町方横目とともにその年の救済基準に

ついての打ち合わせをする︒そして二日から懸ご

とに困窮者の調査を始めて︑一○日までに救済予

定者を記した帳面を提出する︒

.次に別当は町方横目とともに困窮者のもとに実際に

出向いて︑難渋の程度を確認したうえで窮民とし

て認定する︒・窮民として認定された人々には︑一二月中旬ごろ吟

から町方横目の立会いのもとに︑別当が米銭を支﹃

給する︒・懸ごとの調査から洩れる転居者についても救済が必

要と推測される者は︑前もって名前を町方横目に

届け出ることで救済を受けることができるようにす

る︒

・米銭などの支給が終了したら懸ごとに救済を受けた

者の名前とその内容を帳面に記して︑翌年正月ま

でに奉行所へ提出する︒

窮民救済仕法によって以上のような救済の方法が示され

ると︑熊本城下町では天保六年から藩の役人と町役人と

(14)

一二吋郡︾形α・賦溶引き続き﹁西古町懸窮民御救伽根帳﹂をもとに︑窮民

への救済内容についてみることにする︒ただし﹁西古町

懸窮民御救伽根帳﹂には天保四年から明治二年にかけて

の救済が記されているが︑ここでは天保飢繊の際の同四

年から一○年にかけての内容を中心に検討する︒

救済の種類としては三種類が確認されるので︑それぞ

れ⑦④︑として整理したものが表41①・②である︒ま

ず表41①の⑦﹁御救被為拝領者名前﹂として記載されて

いる内容であるが︑これは藩による救済であり︑表41

②の④.衣不着者取救候名前﹂と︑﹁衣類相渡候名前﹂

とは懸による救済であることを確認しておく︒

では表の検討に入る︒窮民の救済は表にみるように︑

藩が口達を出す前年︑同四年に米価の高騰がみられると

すぐに始まっており︑米価が落ち着きをみせた同九年に

は救済が行なわれていないが︑同一○年まで実施されて

いる︒この間︑藩では白米または銭を窮民として認定さ

れた人々に支給し︑いつぽう懸では天保四年から同六年

までは④.衣不着者取救候名前﹂として記された人々に で困窮者の調査をして︑窮民として認められた人々は等しく救済を受けることが可能となった︒

波候名前﹂にある人々に衣舞代を支給したか︲霊七年力

らは①﹁一衣不着者取救候名前﹂での救済は行われなくな

り︑同六年を境に︑﹁衣類相渡候名前﹂での救済に一本化

表4−①藩から西古町懸への救済⑦「御救被為拝領候者一

(※)「西古町懸窮民御救仙根帳」より作成

救 表 4 − ② 西 古 町 懸 の 救 済救済金を支給して︑同六年

から同一○年には︑﹁衣類相

(※)「西古町懸窮民御救仙根帳」より作成

年 タ 救 済 人 嬰 救 済 内 容

天保4年 57 男19.女33.幼児! 白米3石7斗8升 銭97次 同 5 年 6s 25 38 4 . 1 . : 13

同 6 年 12 24 io; 5 . 3 . 1 19

同 7 年 12 36 87 5 . 8 . 1 200.§

同 8 年 13 39 93 5 . 6 . : 207.E

同 9 年 I■■

同10年 11 4 3 . 7 0 . 4 5 . 4 . 1 189.f

①「一I冨不蒲者取救候名前 @「衣類相渡候名前.

年 代 救済人数 金 翻 救 済 人 数 金 額 天保4年 149人 銀1賞281久

同 5 4 50 53

同 6 4 22 22 28人 銭552匁5分

同 7 4 26 587

同 8 年 34 7 7 2 . 5

同 9 年 』■■

同10年 54 1貫229.

(15)

されている︒

次にどういう人々が救済されたのかを表51①と②でみ

ることにする︒用いる史料は⑦〜︑の救済がすべて行わ

れた天保六年のものである︒熊本藩の領民は農村では村

ごとに︑町域では丁ごとに﹁影踏帳﹂を作成して登録さ

れていたが︑表51①で藩が救済した人々をみると︑西

古町懸の丁で登録されて実際に居住している人々︑西古

町懸以外の場所で登録されたが実際には西古町懸に居住し

ている人々︑また西古町懸の丁で登録されたが別の場所

に居住している人々まで西古町懸に関係するすべての

窮民が救済されている︒その人数は天保四年の五七名が

一番少なく︑同八年には一三二名と最も多い︒これらの

人々は老人・身寄りなし・病気・家内大勢などという生活

不安を抱える世帯であることが︑表の内容から明らかと

なる︒

また表51②で西古町懸が救済した人々をみると︑特

に呉服三丁目と東阿弥陀寺町に多い︒④︒衣不着者取救

候名前﹂には呉服三丁目・古桶屋町・西阿弥陀寺町・東

阿弥陀寺町・中唐人町で二二名の記載があり︑そのうち

一九名は女性である︒@﹁衣類相渡候名前﹂には呉服三丁

目と東阿弥陀寺町の二五名の記載があり︑そのうち一五

歳以下が一八名・六○歳以上が三名であるので︑藩では り篤斗申談有之﹂とあったように︑富裕層に資金提供を

求めた︒つまり天保五年の窮民救済仕法によって熊本城 心を用候様掛々富家之面々申談有之︑町頭巳下江者各ょ 催ものか雌ト樹賞美を茂被仇付筈二付跡似即淵餓厚く 世帯を対象に救済したのに対して︑懸では個人を対象として配偶者のいない女性や老人・子供という生活弱者を中心に救済していることが判明する︒

さらに表41①.②で救済内容についてみると︑藩は

白米と銭を支給したが︑その金額は天保八年の銭二○七

匁五分が最高であるのに対して︑懸による救済は天保四

年の銀一貫二八一匁をはじめとして︑その金額は藩より

はるかに多い︒懸ではその費用をどのように準備したの

であろうか︒﹁西古町懸窮民御救伽根帳﹂にはそのすべて

を﹁懸り備救銭﹂︑つまり懸用銭から支出したとある︒西古町懸は城下商業の中心地に位置しており︑物資を輸送朱

する水運にも恵まれていたため︑藩の経済政策によって﹃産物の取り引きが盛んとなると︑商売の順調な商人は不

動産を増やして五歩銀を負担したため懸用銭の確保ができ

ていた︒したがって西古町懸では懸用銭で窮民を救済す

ることができた︒

しかし西古町懸のように懸用銭に余裕のない懸ではどう

したかというと︑史料1に﹁格別取救手厚く世話筋行届

I

(16)

表5−①藩が救済した西古町懸の⑦「御救被為拝領候者一 (天保6年

(※)「西古町懸窮民御救仙根帳」より作成

登 録 地 居住側 名 前 人嬰 理 ロ 備 裂

呉服1丁

呉服2丁[

不明

呉 服 3 丁 古桶屋H

高 橋 町 古桶屋、

川端iff

西阿弥陀寺町

東阿弥陀寺町

古鍛冶屋I 中唐人、

西唐人、

長者冊

北岡村″″〃

本庄村 呉服3丁I

4422

J

j

'

9

4〃〃﹄卓

釈将寺坊

古桶屋、

米屋3丁I 卿匠小閏

船場3丁信 新馬借、

裏京町中ノ小I 船 場 3 丁 E 不リ

新五目I 幸吉 金次郎後家 やを他:

りそ

貞次良I理藤藤ち善も 助助市そ作せ

辰次自 みね 貞吉 きち 伊太良 宇平 宇平次後諒 仁平次後謙 藤兵衛母他i すの 源蔵後家きせ 太三良1 次太良I

藤八 松次良l

りき 市之剛 喜平次他 伊八 利兵衛後家みよ 伊助後家え;

福次償|

喜作 嘉次間 きき 後家 宇平後身 幾次女房ミつ

きく他1 熊次郎後家やく 吉次郎f 彦蹴 茂平

刻刻勤勤幻幻刻刻勤測幻勤勤幻勤幻幻例 jjjjjくくくくI 男女女女男女くくくくくくくくく偶くくくくくくく1616117761666131111141623111163423111111323331 升57585555880005808555850588855050007878758000戸︻﹄●︒■eBG●●●●●白●●︒︑●●●●●ひ●●●●●●●凸●●●●︑白●□G●●●︒①●斗11111111111111111111111111

2匁5分 2.

2.

2.

2.I

4

︲︲11●︒︒︲●●22222

2.,I 111734 l︲ll︲︲︲0●●●2222

4 5

ヴト$FPL■し里FbL■①田r守q●eG◆●︑222222

3

4 2 . 1

極度老蕊 幸吉病身・家内大勢 老衰・身寄なL難眼難 恕掠別

家内大雪 家内大 家内大勢 病身 家内大事 女・子供のみ 老母・子供大勢 病身・子供あI 病身・子供あ《

不項

病身・幼児あり 極老・身寄な1 子供大勢 子供大勢 家内大勢 病乱9物貰射 幼年の子供あ《

伸幼4 大病・娘不具難難難難 渋渋渋渋

家内大勢 不 具 中風煩 幼年の子供あり 幼年の子供あり 足痛

幼年より病気 病 乱 身寄なし 身寄なし 身寄なし 幾次病気・幼年子供 難渋

幼年の子供 幼年の子供 病気・体幼年 一人者

71歳

魚触売 馬口労 日用

馬商売

馬口弓

裏厘 塗、

挑灯張替

l職、、#鋤I

(17)

表5−②西古町懸が救済した窮民 (天保6年

(※)「西古町懸窮民御救仙根帳」より作成

下町では窮民とし

て認定された人々

は懸ごとに漏れな

く救済を受けるこ

とができるようになったが︑五歩

銀による財源には限界があり︑現

実には富裕層の経

済力に頼らざるを

得ないのが実情で

あったといえる︒

ここまで天保飢

鐘を契機に熊本城

下町に完成した窮

民救済制度につい

てみてきたが︑

表3にみるように

同一○年に米価の

高騰が落ちつきを

みせると天保期の

救済はいったん終 一︑窮民救済の自主的再開

米価が落ち着いたことで窮民への救済は天保一○年

︵一八三九︶にいったん終了したことを﹁西古町懸窮民御

救伽根帳﹂は示している︒しかし﹁西古町懸窮民御救伽

根帳﹂の記載は弘化元年︵一八四四︶から再び始まって

明治二年二八六九︶年まで続いている︒これは熊本城 第三節社会保障の実現熊本城下町では天保飢鐘によって窮民への救済制度が完成することとなった︒しかし救済制度ができたことで浮き彫りとなったのは︑継続的な救済が必要とされる生活弱者の問題であった︒引き続き﹁西古町懸窮民御救伽根帳﹂に記載されている内容をもとに︑弘化期以降の救済について明らかにする︒ 了することになるcではこの後︑窮民の救済はどのように継続されていくのか︑これについては次節で検討する︒

︵1︶﹁新熊本市史通史編近世I﹄三三八頁︒

︵2︶﹁肥後近世史年表﹄一四九頁︒

︵3︶永青文庫蔵﹁草稿本﹂︒

︵4︶前掲﹁熊本藩町政史料三﹂二七三頁︒

−75−

⑦「一衣不蒲者取救候名前」 @「衣類相渡候名前」()は年齢 呉服3丁

古桶屋、

西阿弥陀寺町 東阿弥陀寺町 中唐人I

の・すか.みつ・清吉。

よれ・しけ・初三郎・は つ・林右衛門後家・とせ・

源太・のふ・公次・なそ 伊八母・伊八

宇 吉 母 ・ 同 人 女 房 ・ 伊 四 郎女房・同人娘やち・恵 吉女房

利助

呉服3丁I

東阿弥陀寺、

男源太(14)・七蔵(9)・百蔵(7)

円蔵(58)・十五郎(9)・円蔵(68)・

権八(9)・嘉八(6)・弥十(11)・

弥吉(4)・伊助(9)・膝兵衛(9)。

宇作(15)・作次郎(12)・伝助(9)

女やの(16)・りか(40)・るい(65)

かそ(9)・しな(9)・辰次郎母(72)・

仁平次後家(40)・ひて(13)・ちよ (6

男福次郎(不明

合 計 22 合 計 25

(18)

下町では窮民の救済が社会制度として根付いていたことを

示すものである︒そこで天保期の窮民救済が終了した天

保二年から救済が再開される弘化元年にかけての社会状

況について︑町方部局の根取が天保二年四月に城下町

の物価について奉行所に報告した次の史料をもとにみるこ

︲︵1︶とにする︒

諸色之直段者多ク米価二基候もの二て︑近年米穀無

類之高貴二乗︑諸色都而ほとに引上居候処︑去秋巳

来漸々米価下落いたし︑諸色之直段不対二有之候付︑直段下之儀追々町方御横目江申談置候処︑夫々しら

へ相済︑別冊相添本文之通達有之候

ここには天保飢鯉によって米価の高騰が諸品の価格を上

昇させていたが︑同一○年の秋に米価が下落したにもか

かわらず︑今度は米価と諸品との価格が釣り合っていな

いため︑物価の調査を町方横目に命じたとある︒奉行所

ではこの報告を受けるとすぐに︑すべての業種を対象に同二年四月から同翌年にかけて三回の物価調査をす窪︒

それとともに天保一二年四月に三ヶ年間の格別倹約を通

︵3︶達したのを手始めに︑藩では次々と著移を禁止する通達

を出す︒これは富裕町人の華美な生活が目立ち︑一般町

人との生活格差が歴然となっていたからであった︒同年

二月には﹁町屋風儀﹂に関する通達をして富裕層に対 戸亘4国して華箸な生活を諌め︑翌一三年一二月には﹁市中之儀逐年風俗悪敷相成︵中略︶町役之者共ハ身を以先二〆誠実二奉報国御候儀︑深心を用風俗改り奉安尊慮を候様無

︵5︶之ては難相済﹂と︑まず町役人に風俗を改めさせたうえ

︵6︶で︑翌年三月には﹁市井取締ヶ条書﹂を通達する︒その

内容は︑①身分による衣服の規定︑②祝事b葬式年回茶

事i酒宴の制限︑③男女縁約の進め方︑④町内の風呂屋

の営業規定︑⑤若者組の禁止︑⑥歌舞伎雑芸の規定︑⑦

三味線稽古・料理茶屋風の煮売り商売が菓子類・女子の髪

飾り類・子供翫の人形類の制限︑⑧焼うなぎすしの禁止︑

⑨山野海辺での遊興の禁止などである︒藩では富裕層の

賛沢な生活に庶民がつられていることが︑物価が落ち着

かない要因と考えたからであった︒

こうした状況のなかで︑表3にみるように天保一四年

に米価が銀九○匁に上昇して再び高騰のきざしがみえると︑

藩では同年九月二○日に新穀ができるまでは価格を安定さ

︵7︶せるようにと通達する︒するとこれに伴ない翌弘化元年

から窮民の救済が再開されている︒

しかし天保期の救済と弘化期以降の救済を比べると︑

各所に相違がみられる︒それは第一に︑表41①でみた

ような藩による救済が行われていないことであり︑第二

に懸の救済は.衣不着者取救﹂として記録されている

参照

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2001年度 2002年度 2003年度 2004年度 2005年度 2006年度 2007年度 2008年度 2009年度 2010年度 2011年度 2012年度 2013年度 2014年度 2015年度 2016年度

これまで社会状況に合わせて実態把握の対象を見直しており、東京都公害防止条例(以下「公 害防止条例」という。 )では、

■実 施 日: 2014年5月~2017年3月.. ■実施場所: 福島県

□公害防止管理者(都):都民の健康と安全を確保する環境に関する条例第105条に基づき、規則で定める工場の区分に従い規則で定め

平成 26 年度 東田端地区 平成 26 年6月~令和元年6月 平成 26 年度 昭和町地区 平成 26 年6月~令和元年6月 平成 28 年度 東十条1丁目地区 平成 29 年3月~令和4年3月

今年度は 2015

■実 施 日: 2014年5月~2017年3月.. ■実施場所: 福島県

■実 施 日: 2014年5月~2017年3月.. ■実施場所: 福島県