ニュルンベルク裁判と同時通訳
The Nuremberg Trials and Simultaneous Interpreting
吉 村 謙 輔
要 旨
1945年の11月にニュルンベルクで開廷された国際軍事法廷においてドイツ
語,英語,フランス語,ロシア語の4言語での本格的同時通訳が導入された。
同時通訳者達は様々な困難を克服して公正な裁判の実現に貢献した。本論で は通訳者達の「当事者性」と「プレゼンス」に注目して,同時通訳の原点を 明らかにする。
キーワード 同時通訳史
導 入
ナチスによる「人道に対する犯罪」と「平和に対する犯罪」を裁くべ
く,1945 年
11月
20日,ニュルンベルクの
Justizpalast(司法の殿堂)で国際
軍事法廷が開廷された。ニュルンベルクといえばナチス党が毎年恒例の大
行進を行った町であり,1935 年にユダヤ人差別を合法化する法律
1)を発
布した場所でもある。このニュルンベルクでの国際裁判において多言語同
時通訳が歴史上初めて,本格的に導入された。ドイツ語,英語,フランス
語,ロシア語の4 言語
2)での同時通訳である。この裁判で通訳者として活
躍した通訳者の多くは正式の同時通訳訓練を受けてはいなかった。しかし
多言語永世中立国であるスイス連邦のフランス語圏にあるジュネーブ大
学
3)では第二次大戦のさなかの
1943年にすでに通訳翻訳学科(ETI)が設
立され,国際法,経済学,財政学,社会政策,統計学,憲法,文献学など の幅広い知識を身につけた通訳翻訳者の養成が行われていた。通訳実技訓 練は基本的に逐時通訳方式であったが,同時の訓練もすでに部分的には行 われていたと思われる
4)。Peter Lessや
Marie-France Skunke (旧姓Rosé)のようにETI で通訳者としての専門教育を受けた人達も米陸軍大佐
LéonDostert5)
によってリクルートされ,ニュルンベルク裁判の同時通訳チー
ムに加わっていた。彼らはニュルンベルク国際軍事裁判でパイオニアとし ての役割りを担い,同時通訳という通訳方式の実用性を世界に向けて証明 した。
当時の国際会議ではまだ逐時通訳が主流であり,著名な通訳者の中にも
同時通訳方式に懐疑的な人も少なくなかった。ヘッドフォンから聞こえて
来たスピーチを原稿なしで「同時」
6)に他言語に訳出する同時通訳方式で
正確な通訳が可能なのかという疑問である
7)。一方,政治状況は予断を許
さなかった。終戦の年である
1945年の夏,ソ連と西側連合軍諸国との間の緊張はすでに高まりつつあり,国際軍事裁判そのものの実現すら危ぶま
れる状況であった。同時通訳でなければ4 言語での審理には膨大な時間が
かかり,裁判は長期化することは明らかであった。冷戦によって裁判は中
断され,おそらく終結に至っていなかったであろうとさえ言われる。ニュ
ルンベルクの中心部は英米の爆撃によってほとんどの建物が破壊され,瓦
礫がまだ道路を塞いでいた。米軍のジープでしか安全に移動できず,資材
の調達も困難な状況の中で,不完全ながらもその有効性が実証された同時
通訳という通訳方式はその後,急速に発展・普及し,国際連合や欧州評議
会,欧州共同体,OSCE,OECD,G8,G20 サミットなど様々な場で不可
欠な存在としてその地位を確立することになる。クラウド技術を使った仮
想空間でのテレビ会議が普及しつつある今日こそ,同時通訳の原点を振り
返ってみることが有益と思われる。ニュルンベルク裁判での同時通訳は現
代の同時通訳と共通の特徴,すなわち「高度な言語能力と異文化理解能力 に根ざした高速言語仲介」としての特徴と共に,現在では失われつつある 二つの重要な要素を持つ。それは通訳者の「当事者性」と「プレゼンス」
である。ニュルンベルクの同時通訳者達の第一の特徴は「当事者性」であ ったと言える。彼らは傍観者ではなく,その時代を実際に生きた人達であ り,戦争をかろうじて生き延びた人達であり,時代の証人であった。ニュ ルンベルクで開催されるナチス党大会でヒトラーが誇らしげに演説するの をラジオで聞かされていた。空襲の恐怖を自ら体験していた。ユダヤ人や 社会民主主義者,ナチス政権に批判的なキリスト教会指導者達など反体制 派の人達への容赦ない弾圧を目の当たりにした人もいた。ドイツでの迫害 を逃れて海外に亡命した人もいた。同時通訳者の中にはアウシュヴィッツ の強制収用所で自分の肉親を失った人さえいた。彼らにとって,正義と平 和,「法の支配」は抽象的な概念ではなく,当事者としての切実な願いで あった。彼らは同時に法廷通訳者として厳しい中立性義務を担っていた。
ゲシュタポ
8)などナチスの凶悪な組織を代表する被告人の言葉も正確に,
そして忠実に訳すことが彼らの使命であった。当事者性が使命感に直結し ていたことを彼らの言葉は伝えている
9)。
ニュルンベルクのもう一つの特徴は同時通訳者の「プレゼンス」であ る。彼らは六百号法廷という広い空間にあらゆる意味で実存していた。そ の様子は当時の映像に生き生きと記録されている
10)。裁判官,被告人,
検事,弁護人,報道関係者,米軍憲兵など,法廷にいる全ての人が彼らの 聴衆であり,彼らは全ての聴衆と文字通り空間を共有していた。
本稿は当時の映像記録,通訳者の証言,法律家のメモワールなどからニ
ュルンベルク裁判における同時通訳のそのような要素が,言語と価値のイ
ンターフェースとしての同時通訳の原点であることを指摘するものであ
る。
同時通訳の前身
第一次世界大戦以前のヨーロッパではフランス語が外交における共通語 であり,英国人であれドイツ人であれ,ロシア人であれ外交官はフランス 語に堪能であった。しかし第一次大戦後の戦後処理のためにパリ郊外のヴ ェルサイユで開かれた和平会議では,言語的伝統の異なる米国が主要参加 国となったため,英語とフランス語の逐時通訳が行われた
11)。 会議の使 用言語が2つであればまだ逐時通訳も不可能ではない。
同時通訳は1920 年代の終わり頃に始まった。同時通訳装置を発明した のはアメリカの実業家Edward Filene とされる。彼は
IBM社の
Thomas Watsonの支援を得,電気技術者Gordon-Finlayと共同で,世界初の同時通訳装置を開発した。この装置はポータブル電話キットのようなものであっ た。ヘッドフォンが付属しており,言語チャンネルを選ぶことができた。
この同時通訳装置は多くの複雑なケーブルを要するもので,頻繁に断線・
故障した
12)。 IBMは当時の国際連盟にこの装置を売り込み,1927年の国
際労働機関
(ILO)総会で初めて使用された。ただしその会議での「同時
通訳」は予め用意された訳文を読み上げる時にのみ使われ,自由な討論に
使われることはなかった。1930 年には類似した装置が
SiemensとHalskeによって開発され,ベルリンで開かれた世界エネルギー会議で使用され
た。1935 年にはレニングラードの第
15回国際生理学会議で同時通訳が行
われた。そこでは開会の辞がロシア語からドイツ語,英語,フランス語に
同時通訳された。ILO は第二次世界大戦中,スイスのジュネーブから北米
に本部を移し,1944年の国際労働総会は米国のフィラデルフィアで開か
れた。そこでもIBM 社の同時通訳装置が使用された。1945年のニュルン
ベルク裁判では,判事や検察官が被告の発言を中断し,より的確な回答を
求めるなど,米国式刑事訴訟の即興的な審理のやりとりにも耐えうる真の
同時通訳が行われた。ニュルンベルクは本来の意味で同時通訳生誕の地と 言える。
通訳者の訓練
1941
年にジュネーブ大学で設立された通訳翻訳学科
(ETI)は
2年間の通訳翻訳者養成コースを提供していた。そこではガラス張りのブースが用 意され,最初はゆっくりとした速度で,数週間後にはテンポを上げて同時 の訓練をしたと言われる
13)。 徐々にスピードを上げながら「聴きながら 喋る」ことを身につける注意配分訓練の先駆けである。通訳訓練では単に 機械的に言葉を訳すのではなく「感情表現」が重視されていた。同じ1つ の文でも無表情に淡々と語る場合もあれば,訴えかける場合もあれば,遺 憾の念をこめて語る場合もある。同時通訳の演技的要素である。演技には 感情移入が必要であり,ホロコーストの体験者がナチスの指導者の立場に 立って,彼らの感情を汲み取る努力をすることで公正な裁判は実現し た
14)。
ETI
では実務経験豊富な国際会議通訳者であるAntoine Vellemanの主導
のもとに学際性と実技を重視したカリキュラムが提供されていた。ETIの
学生達は国際法,ローマ法,コモン・ロー,軍事用語,米軍とフランス軍
の軍人階級の対応,独特のナチス用語を含む政治用語,法律用語など,通
訳者に必要な専門知識を身につけていた。そこでは国際都市ジュネーブで
活動する様々な分野の実務家とベテラン通訳者達が教鞭をとっていた。し
かしETI の卒業生達も同時通訳経験は十分とは言えなかった。彼らはニュ
ルンベルクでの短期間の現地研修の後,すぐに法廷のガラスブースの中に
送り込まれた
15)。
重圧のなかでの通訳
ニュルンベルク裁判での同時通訳は様々な技術的,法的,政治的困難に 対応しつつ行われた。
技術的困難
ニュルンベルク裁判の同時通訳装置に使われたマイクロフォンやヘッド フォン,アンプなどの音響機器はすでに老朽化しており,音質は古いレコ ードのようであった
16)。大きくて重いマイクは机の真ん中にボルトで固 定されていて通訳者は不自然な姿勢を強いられた
17)。ヘッドフォンは大 きく,重くて頭を強く締め付ける。1時間半のシフト
18)を終えてヘッド フォンを外すといつも耳が赤くなっていた。彼らは狭い空間で長時間不自 然な姿勢を強いられることになった。その時点ですでに同時通訳は極度の 集中を要し,同時通訳者の集中力は最大30 分程度しか持続せず,それを 過ぎると急速にパフォーマンスが落ちることが確認されている
19)。
法 的 困 難
法的困難の多くは大陸法と英米系のコモン・ローとの法体系の違いに起
因していた。弁護人として任命されたドイツ人の法律家達はローマ法に根
ざした欧州大陸法の専門家であった。フランスの法律家はドイツと同じ大
陸法の教育を受けていた。それに対し,英米の法律家達は慣習法を重んじ
るコモン・ローの教育を受けていた。さらには同じコモン・ローの伝統が
ある英国と米国の間にも刑事訴訟法には大きな違いがあり,裁判の進め方
について意見が食い違うことがあった。したがって単に言葉を訳しても通
じない。法的な発想,概念そのものの違いを法律家に理解させるという任
務も通訳者には課せられた。刑事訴訟のあり方においても国ごとに大きな
隔たりがあった。フランスなどのローマ法型では「審問型」の手続きであ り,証拠文書と証言はほとんど全て裁判所に事前に提出され,審査され る。裁判所はそれをまとめてファイルにする。その過程で起訴に値すると 判断された場合はファイルと起訴状の写本が被告と裁判関係者に提示され る。つまり被告を含め全員が,不利な証拠も有利な証拠も全て事前に把握 していることになる。追加的な証人喚問を行う場合,証人は必ず事前に裁 判官からの聴取を受け,法廷で弁護士からいきなり問い詰められることは ない。これに対し英米の「対抗型」の制度では起訴状は要点のみの簡潔な ものであり,証拠を添付する必要もない。証拠は法廷での審理で弁護人か ら提示され,弁護人は相手方の証人に対する質問,すなわち反対尋問を好 んで行う。英米型では意外な展開の要素が重視される。通訳者自身は例え ばドイツの大陸法と英国のコモン・ローの違いを理解していたとしても法 廷での同時通訳で,英国の法律家にドイツの刑事訴訟法を理解させること は容易ではなかった。法廷外で通訳者が法律家に説明することもあった。
通訳者と法律家達との連携で法的困難を克服する努力がなされた
20)。 政治的困難
米国の
Robert Jackson主任検事は国際軍事裁判の目的についてソ連と根 本的に対立していた。裁判の進め方については英国とも見解の相違があっ た。Jackson の法治主義についての理念は1945 年
4月13日の米国国際法学 会で彼が行った「国際レベルでの法治主義」と題した演説に顕われてい る。
「敗戦国の指導者達を今後の見せしめにしようとすれば,逆にその
国の殉教者を作り出すことになりかねない。それが未来の平和のため
に役立つか否かをしっかりと考えねばならない。それが公正な裁判で
ありさえすれば,私は現行法に一致しているか否かという事や,判例 に則っているか否かという事にはそれほどこだわらない。裁判所は事 件を裁くが,また逆に事件が裁判所を裁くのである。有罪が立証され ない時にはその被告を無罪放免にする覚悟がなければ,いかなる人を も裁判所と名のつくところで裁いてはならない。」
21)Jackson
は欧州での国際軍事裁判がナチス・ドイツやスターリン型の大
衆向け見世物のような裁判であってはならない,復讐のための裁判であっ てはならないと考えていた。公正であり,未来の平和の礎となるような,
新たな国際秩序の出発点になるような裁判をめざしていた。「攻撃的戦争」
そのものを国際法上の犯罪とみなすべきだというJackson の考えに対して
は
1945年夏にロンドンで開かれた準備会議においてソ連とフランスが強く反対していた。ソ連はポーランドの分割に関わっていた。またフィンラ
ンドを侵略していた。フランスは1923 年にルール地方に進駐した過去を
持っていた。攻撃的戦争そのものを戦争犯罪として追求すると第一次戦争
後のヴェルサイユ条約に基づく英仏の行動,第一次大戦戦勝国の軍縮不履
行などに批判の矛先が向けられる可能性があった
22)。この問題を巡って7
月のロンドン会議は難航した。Jacksonはソ連側に対して強い不信感を抱
いていた
23)。英国はこの裁判で新たな国際法原則と手続きを確立しよう
と言うアメリカの目標には消極的であった。より迅速で簡易なアプローチ
を願っていた
24)。英国代表の
Sir Thomas Barnesは長くても2 週間の裁判
を要求していた
25)。ソ連代表のNikichenko は「我々は重要な戦争犯罪者
を裁こうとしているのであって,彼の有罪はすでに確定している。連合国
首脳のモスクワ会談,ヤルタ会談でもそれはすでに公表されている。今回
の裁判の目的は単にそれぞれの被告の量刑を決めることだけである。」と
語った。欧州での終戦と同時に英国では総選挙を求める声が高まり,6月
15
日に国王が議会の解散を承認していた。6月
15日から
7月
26日までチャ ーチルは暫定政権の首相であり,Fyfe 司法長官の任期は労働党が勝てば 終わる見込みであった。総選挙では実際に労働党が勝利し,英国の政局不 安定も裁判の準備を困難にしていた。
通訳者の当事者性
米軍はすでに終戦前から捜査部隊を編成してナチスの戦争犯罪の証拠と なる文書などをドイツ各地で徹底的に探していた。膨大な証拠がニュルン ベルクに集められた。ニュルンベルク裁判では開廷から間も無い1945年
11月
29日,米軍が撮影したBelsen,
Dachau, Buchenwaldなどの映像が裁判官席の右側の大型スクリーン
26)に映写された。その後,ソ連軍が
1945年
1月にポーランドに侵攻した時に撮影したアウシュヴッツの大量殺戮の映像も証拠として映写された。その生々しい映像には被告人達さえも衝撃 を受けた様子であり,通訳者,報道関係者を含め法廷にいた人全員が強い 衝撃を受けた。通訳者達も人道に対する犯罪,国際法の無力,正義への切 望,法治主義への願いを強く感じた。生存権をはじめとする人権を守らな ければならない。そしてそこには被告人達の人権も含まれる。公正な裁判 でなければならない
27)。被告に弁護人をつけ,十分に弁明の機会を与え,
その弁明が正確に他の言語に通訳されるように最善を尽くすことが不可欠 であった。通訳のあり方からは被告の人権と言語正義を尊重する姿勢が見 られる。被告の中でリーダー格であったゲーリンク元帥は「私は弁護士な ど必要としない。私は弁護士の世話になったことはない。この裁判では弁 護士は役に立たない。私に本当に必要なのは有能な通訳者だ!」と語っ た
28)。
通訳者の中には
Peter Less(英語からドイツ語への通訳)のような若いユ
ダヤ系ドイツ人が含まれていた。1920 年にOstpreussen の
Königsbergで生まれたLess は肉親をホロコーストで失っていた。2歳年下の妹Eva はナ チスによるKindertransport
(児童移住と称した児童連行)によって多くのユ ダヤ系家庭の子供達と共にバルト海地方に連行され,おそらくRigaの近 郊で殺害されたと思われる。彼の父は第一次世界大戦で軍人としてドイツ 帝国のために戦い,負傷して勲章を受章していた。母は看護師として第一 次大戦中ドイツ人を介護していた。1933年にヒトラーが政権を掌握した 時,弁護士であった父は「このような政権は長続きせず,やがて社会民主 主義者達が政権を奪還するに違いない」と考えていた。結果的にヒトラー は独裁体制を固め,ユダヤ系ドイツ人への迫害を強めた。Peter Less 自身 はスイスの学校に留学することができたので迫害を免れた。1942年,父 と母は
Theresienstadtの強制収用所に送られ,その後1944年の秋にアウシ ュヴィッツに移された後,消息が途絶えた。父と母,そして妹までを殺害 した組織の指導者達が,彼の同時通訳ブースの直ぐ左前方に座っていた。
そして彼らは
Lessの同時通訳をヘッドフォンを通じて聴いていた。別の
同時通訳者は,強いトラウマがフラッシュバックして,通訳作業を続ける
ことができず,止むを得ず退席を願い出た。大量虐殺の加害者として起訴
された人達と同じ空間に座し,人間としての感情を可能な限り抑えながら
同時通訳に必要な集中力を維持し,被告人達の明らかに虚偽と判る弁明を
も忠実に通訳することが同時通訳者達に与えられた使命であった。通訳者
の職業倫理としての中立性が極度に試される時であった。通訳者達は直接
的には米軍やソ連軍などそれぞれの軍に任命されて通訳業務に当たっては
いた。しかし彼らの真のクライエントはナチスによって名前を奪われ,抹
殺された犠牲者達,そして新しい国際秩序と世界平和のもとで自由と尊厳
が保障される未来の人々である。
通訳者のプレゼンス
ニュルンベルクでの最初の国際軍事法廷では
4つの言語のためにそれぞれ
3人チームが編成され,12人からなるシフトが
3つ編成された。合計36名の同時通訳体制であった。
発言者の話す速度は1 分間最大60 語に制限されていた。通常の会話の半 分から
1/3の速度であり欧米での伝統的ディクテーション速度である。年 配の被告人が古いドイツ語に特有の複雑な文法構造の長文で発言すると,
なかなか動詞が出てこないので通訳が困難になり,裁判官がシンプルで明
瞭な文章を用いるように被告に注意した
29)。裁判長自身が効果的な通訳
の担保のために配慮していた例と言える。通訳者は法廷の裁判官席に向か
って左側後方に配置し,遮音のためのガラス越しに,裁判官はもちろん検
察官,弁護人などほとんどの参加者が見え,またほとんどの参加者から通
訳者が見えるレイアウトになっていた
30)。文字どおりその場にいて人間
として衝撃,加害者への怒り,驚き,被害者への共感,正義への願いを共
にする存在であった。ブースは前方と側面はガラスで遮蔽されているが上
方にはガラスはなく,換気面では有利であるが通訳者の声は法廷の全員に
聞こえている。現在の同時通訳訓練では通訳者のアウトプットの声量を抑
える方向で指導することが多いが,ニュルンベルクの通訳者達はかなりの
声量で訳している。通訳者の声をブース外のマイクが拾っていて,彼らの
仕事ぶりを全員が体験している。例えばソ連の裁判官は常にロシア語通訳
者の声をヘッドフォンを通して聞いているが,同時に英語通訳の声も聞こ
えている。裁判官も検事も被告も弁護士も通訳者の存在を常に意識してい
る。逆に通訳者達には会場の雰囲気が直接的に伝わって来る。当時の映像
はニュルンベルク裁判での通訳者のプレゼンスを伝える
31)。1つのコミュ
ニケーション空間において通訳者を含め,全ての当事者が互いの存在を意
識している。
米国検事の
Telford Taylor准将は回想録の中で次のように語っている。「法廷の後方の床は3 段高くなっていて,将校席に隣接して同時通 訳を担当する語学エキスパートたちのボックスが設けられている。彼 らは皆,利発であり,最高レベルの教育を受けた人達であり,それぞ れが非常に個性的である。法廷では他の誰にも優って彼らの声が響 き,彼らの仕事ぶりが目立つ。常に
12名が通訳にあたり,左前方に 座している通訳チーフが,判事席とポディウムにある黄色と赤のラン プを操作している。黄色は発言者の話す速度が速すぎる,赤は装置が 故障したという合図である
32)。絨毯の下に這わせた電線が断線する など故障は時々起こった。通訳者が何らかの理由で急に退出しなけれ ばならない時も,チーフが赤の電球を点灯した。通訳者の中でも特に 目立つ存在は
Wolfe Frankであった。彼は若くてハンサムなバヴァリア人であり,戦争が始まる前に英国に亡命し,英語をあまりにも完璧 にマスターしていたため,他の通訳者とは違って,英語からドイツ語 のみならず,ドイツ語から英語への通訳も担当していた。ロシア語通 訳の
Georgi Vassilitchikoffは普段の会話では吃音であったが,通訳の 時は決して吃らなかった。」
33)ニュルンベルク裁判の法律家達は通訳者をよく観察しており,通訳者達 の中にも晩年までニュルンベルクで出会った法律家達と交流を保った者が いる
34)。
現在の
CNNやBBCの日本語同時通訳では通訳者のプレゼンスを意識しない傾向がある。ライブ座談会などでは複数の参加者が高速で話すことが
多く,また他の発言者の発言を途中で遮って話し始めるパネリストなども
珍しくない。国際会議でも複雑で凝縮された文章が高速かつ平坦なプロソ ディー
35)で棒読みされることがある。ドイツやフランスなど多言語主義 の伝統のある欧州大陸の政治家やジャーナリストは今日も通訳者を意識し て話す傾向がある。今後,クラウド技術を使ったテレビ会議が増加する過 程において,同時通訳の本質的要件への配慮が不可欠である。
結 論
ニュルンベルク裁判において多言語同時通訳の有効性が実証された。そ こでは通訳者たちの当事者性とプレゼンスが技術的,法的,政治的,文化 的困難を克服するための要因となった。
注
1) Nürnberger Rassengesetz
2) これ以外に,ポーランド語,リトアニア語,ウクライナ語が同時ではない
が用いられた。これらの言語での証言は事前に書面で提出され,まず英語に 翻訳された。そして英語から3つの言語に翻訳され,正式な訳が裁判記録に 残された。証人の使用言語に関しては厳格ではなく,イディッシュが混ざっ たドイツ語で証言する証人もいた。
3) Ecole de Traduction et Interprétation(ETI)
4) Gesse p. 2
5) アイゼンハワー大統領の独仏英通訳官。
6) 実際には多少のタイム・ラグが発生する。
7) ヨーロッパ言語間でも同時通訳は不可能と考えられていたことは興味深
い。ましてや日本語と欧州言語間の同時通訳は言語構造的に不可能というの が1960年代の終わりまで定説であった。
8) 国家秘密警察
9) Peter Less Testimony 34:20
10) Der Spiegel Geschichte “Der Nürnberger Prozess“
11) Herbert 1978 von Kurz p. 20 12) Kurz p. 20
13) Gesse p. 4
14) Peter Less Testimony 15) Skuncke p. 3 16) Gesse p. 2 17) Gesse p. 2
18) 3人チームで90分のセッションを1日2つ担当するシステムは現在の国際 機関でも採用されている。
19) 30分は欧州言語間であり,英日,独日などの場合は20分とされる。
20) Gesse p. 3 21) Taylor No.1022 22) Taylor No.1153 23) Taylor No.1544 24) Taylor No.1299 25) Taylor No.1303
26) Spiegel Geschichte Doku www.dokus.ws Der Nürnberger Prozess
27) 無論,死刑そのものが非人道的であり,その非人道性は21世紀の国際社
会においてようやく認知されつつある。
28) Taylor No.2944
29) Spiegel Geschichte Doku www.dokus.ws Der Nürnberger Prozess
30) 残念ながらスクリーンと証人席は通訳者のブースからは見えにくい位置に
あった。
31) Spiegel Geschichte Doku www.dokus.ws Der Nürnberger Prozess
32) 赤い電球の点灯は発言者にもう一度同じことを繰り返すようにという意味
でもあった。
33) Taylor No.4978 34) Gesse p. 3
35) 発話におけるリズムとメロディー
参 考 文 献
Ingrid Kurz(1996)“Simultandolmetschen als Gegenstand der interdisziplinäran Forschung, Wien: WUV-Univ.-Verl., ISBN 3-85114-262-4
Jean Herbert (1978) “How Conference Intrpretation Grew”, in: Gerver D./Sinaiko W.H. (edis.). Language, Interpretation and Communication, New York: Plenum Press, 5 9
Marie-France Skuncke(2019)“It all began in Nuremberg” Marie-France Skuncke.
“It all began in Nuremberg...” aiic.et.April 3
Spiegel Geschichte Doku www.dokus.ws Der Nürnberger Prozess Tanya Gesse (2005)“Lunch with a legend: Peter Less”, aiic.net January 20
Telford Taylor (1992)“The Anatomy of the Nuremberg Trials” Aflred A. Knopf, New York, Knopf e-book, ISBN 9780394583556
USC Shoa Foundation Institue “Jewish Survivor Peter Less testimony”