香 川 大 学 経 済 論 叢 第
81巻 第
4号
2008年
3月
137‑154研究ノート
中華民固 8 0 年の社会
一 『 少 年 大 頭 春 的 生 活 週 記 』 の 台 湾 両 岸 関 係 編 ー 一 ‑
高 橋 明 郎
0
は じ め に
台湾のベストセラー作家張大春の『少年大頭春的生活週記』は,新聞連載小説とし て作品が執筆された民國
80年
(1991)の 台 湾 社 会 の 動 き と 並 行 し て 話 が 進 行 し て い く。それらの事件について,筆者は國家中央図害館所蔵の『聯合報』マイクロフィル
(1) (2) (3)ムをもとに,内政編(その
1)‑(その
3)'社会事件編(その
1)(その
5),人物編を 示してきた。今回は,両岸関係記事を扱う。
1
大陸からの来台要件緩和
陸委會決簡化大陸人士申請来台手績。
《呉老師没収「蕎菱皮」》重要新聞
80, 6,, 30‑80,, 7,, 6(1)
高橋明郎,中華民園
80年の社会 〜『少年大頭春的生活週記』の台湾 内政絹
(その
1)香川大学経済論叢
73巻
4号
2001年
3月(その
2)香川大学経済論叢
78巻
4号
2006年
3月
(その
3)香川大学経済論叢
80巻
2号
2007年
8月
(2) 高橋明郎 中華民國
80年の社会 〜『少年大頭春的生活週記」の台湾 社会事件編
(その
1)香川大学経済論叢
74巻
4号
2002年
3月
(その
2)香川大学経済論叢
76巻
4号
2004年
3月
(その
3)香川大学経済論叢
77巻
4号
2005年
3月
(その
4)香川大学経済論叢
79巻
4号
2007年
3月
(その
5)香川大学経済論叢
80巻4 号
2008年
3月
(3) 高橋明郎.中華民國
80年の社会 〜『少年大頭春的生活週記』の台湾 人物編
香川大学経済論叢
75巻
4号
2003年
3月
‑138‑
香川大学経済論叢 6 7 6 1 . 1 経過
こうした手続を所管するのは政府の入国管理局(内政部警政署入出境管理局,以下
「境管局」)で,境管局の原案作成後大陸委員会で承認という手続きに進んだものであ る 。
この時期に改められたのは,次の 2点である。
1 ) 共産党に関する規定
この修正は,この時点では主として中国からの記者受け入れに対応することを主目 的としている。
修正は中国国務院台湾雛事処(以後「国台雛」)の要求に配慮したものである。国 台孵と中国の記者協会は,台湾の中国人記者受け入れ体制について,これまで,非幣 に面倒な条件を課されているとの不満を表明していた。
この時期の中国で,渡台海外取材を許される報道機関は,基本的に国営もしくは国 営並みの許可事業者による準国営で,ほぼ「政府機関」と言ってよく,記者は共産党 員であることもほとんど当然のことであった。一方,台湾は内戦の敵方である共産党 に対しては,それまで非常に神経質かつ厳しい扱いだったが,これも当然のことで あった。台湾は,共産党関係者(中国以外の共産党を含む)が入国する場合,離党宜 言を要求しており,これは,記者の台湾入国の障害となっていた。従って,「現段階 大陸人士来台参観訪問申請作業要点」(以下「作業要点」)では,「共産党およびその 海外組織に参加,もしくは党に従属し,或いは中共,党,政,軍機構に職を有する者 は,事実に即して全員組織離脱の宣告書を記載せねばならない。これは条例第
9条第
1
項の第一にしたがって処理される」と規定されていた。
ここに言う「条例第
9条」の指す条例とは,懲治叛乱条例のことで,民國
80年
(1991) 5月17日に廃止された。来台条件緩和は,この廃止と連動した作業だったと 言える。
加えて,「作業要点」に,共産党員入国完全排除のため置かれていた「申請人のう
ち国家安全法施行細則第
12条第
1款および第
4款のいずれかに該当するものは許可
しない」が「許可しない場合がある」に変更されて,場合によっては許可される道を
6 7 7 中華民國 8 0 年の社会
‑139‑開いた。
2 ) ビザ申請書に関する規定
改正されたのは次の諸点で,手続が大幅に簡略化されたことになる。
A
従来,他の公的申請書同様中華民固暦使用が求められていたが,以後は,生 年月日欄は漢字表記のまま「年,月,日」のみ残し「民国」「民前(中華民国 成立,所謂民国紀元元年前を示す)」を削除,民国紀元以外に西暦も使用して
よいことになった。
B
「参加党(団)派組織」という表記を,政治臭の薄い「参加党(団)名称」と することになった。これも国台辮が具体的に求めていた事項であった。
C
「参加学術団体名称」を「参加社団名称」に改める。この点は,将来的に学 術交流だけでなく他の分野へも交流拡大することを視野にいれたものと言え
る 。
D
注意事項中,国家安全法施行細則の定める
4つの状況に違反すれば入国でき ないという部分を,「申請書は申請人自身が事実に基づき記載し,もし隠匿し たり事実に反する記載を行った場合は入国を許可しない,申請人が自らの責任 で代理人に申請害を託す場合,委任状が確認できなければ申請を受理しな い」,と変更した。
また,申請書の他,台湾での保証人による保証書提出も必要である。保証書提出自 体は免除されないが,これまで含まれていた治安維持のための保障内容,即ち「被保 証人は在台期間,国家の安全もしくは社会の安定を妨害する活動に加わらない」とし た部分と,「被保証人ば法令規定に違反したり期限を超えて滞在しない」とした部分 については,削除の上
「被保証人は在台期間中華民国の法令を守り,また期限内に離台すること。もし
違反した場合は,保証人は所轄機関と協力し被保証人を返送するものとする」
‑140‑
香川大学経済論叢
678という表現に改められた。
先述のように,この規定改正は記者の入国を容易にするためというのが念頭にあっ たわけだが,同時に大陸委員会は将来的には中国大陸の学術,文化,運動,芸術など の分野に属する者や,留学生,民間放送の人間や民主化連動関係者にも拡大適用する 意向を表明した。
1 .
2両岸政策の動き
民國
80年
(1991)の両岸関係の動きを,まずピソクアップしておこう。
1
月
2日 「現宗教団体派員赴大陸地区従事宗教活動作業規定」で中国での宗教 活動が合法化される。ただし,北京政府の諾否は別の問題である。
2
月
14日 行政院,「国家統一綱領」発表。
この日記が始まる前,民國
79年 (1990) 10月に,発足したばかりの國家統 ー委員会(以下「國統會」)で総統府資政である陶百川が「國家統一綱領」制 定を提案,
12月には草案ができ,更に
9回の修正を経て,
80年
(1991) 2月
「國家統一綱領」が決定された。民國
75年
(1986)の解戒と
76年
(1987)の 大陸探親(里帰り旅行,後述)が解禁されて以降,今後の政策を模索し続けた 台湾当局は,この時点で,一応の方針を固めたのである。
3月
19日 両岸赤十字は密航者送還案で合意。
3
月
25日 大陸委員会 「大陸民衆非法入境遣送実施要点」を示す。
4
月
10日 大陸委員会は海外居住の大陸籍科学技術者の入国制限緩和に同意,
29日解除。
4
月
30日 李登輝総統が動員搬乱時期終結を宣言(国民大会も
5月に決議)。
これは取りも直さず内戦の終結宣言であり,大陸での中華人民共和国政府の 支配権を完全に認め,光復大陸,武力による大陸奪還という道を,公式に断念 したことになる。これにより,残る選択は,両岸の対等並存か独立,中国政府
(必ずしも人民共和国政府を意味しないが,中華民国ではない)による統一の
6 7 9 中華民國
80年の社会 いずれかに向かうことを意識せざるを得なくなった。
5
月
2日 大陸委員会は台商の大陸投資を集中管理し,過熱防止へ。
(5月 8日 ソ連人へのビザ全面解禁)
5
月
17日 懲治叛乱条例廃止。
‑]4]‑
懲治叛乱条例が廃止されると,中国共産党を叛乱団体とする根拠はなくな り,以後は特に非政府系の人員交流制限を次々に緩和していった。
中国政府の存在を容認する政策の下で,廃止や修正が迫られたのは,渡航実 務の細則だけではない。
例えば「国家総動員法」「妨害国家総動員懲罰暫行条例」「動員裁乱時期共匪 附匪及叛乱分子自首雛法」「検粛匪諜条例」などがこれに当たる。
5
月
27日 大陸委員会は,現段階での直航を無理と判断。
6
月
19日 境管局は,大陸探親申請は,赤十字経由でなく管理局に直接提出に簡 素化。
6
月
27日 新聞局は対等原則で,映画,放送を相手地域で行うことに同意すると
己ゴ吾至旦 口o
7
月
5日 海上基金会訪問団大陸訪問
(lo日間)。
8
月
26日 「要点」を通過。同時に「現階段蒙古人士来台申請作業要点」草案で,
一般蒙古人の制限は撤廃,港澳僑胞の台湾定住規定を緩和。
大陸委員会が
6月の意向通り,入国許可対象の拡大に動いたものである。
また「現段階大陸大衆伝播人士来台釆訪拍片製作節目申請作業要点」によっ て,主要紙記者の取材,映画関係者の撮影,テレビ関係者の番組作成に道が開 かれた。必要書類(取材または撮影計画害,第三地区再入境ビザか第三地区居 留証か香港の身分証)を添えて香港または他国の中華民国政府駐在機関に本人 が申請するか,台湾の民間放送局が代理人となって新聞局に申請するという形 式となった。
更に
9月
4日には,文化交流に限り,中国の政府関係者(党・軍も含む)の
入国を認める例外規定を作る。これらの人員は,原則不許可だが,高官以外で
文化事業に従事する場合,中国文化部の研究組織が学会やシンポジウムに参加
‑]42‑
香川大学経済論叢
680する場合,人民解放軍の軍医が医学関係の学術大会に参加する場合は,例外と
して許可する他,
OBも制限しない方向を示した。9
月
25日 大陸委員会,犯罪事件について両岸で共同捜査ができるプロジェクト チーム成立を宣言。
10
月
18日 大陸委員会,大陸配偶者の定住を月
10人,年間
120人に限り認める という規定を通過。
11
月
3日 海峡基金會,北京で両岸共同防犯を協議。
11
月
10日 新聞局は大陸の放送演芸界入国規定緩和は
11月
1日から施行されて いると認める。
11
月
17日
38項の両岸交流計画を発表。
11
月
25日 大陸委員会は両岸の探親探病緩和を決議。
12
月
18日
92年元旦から毎年
240名の,親族台湾定住を認めると境管局。
李登輝政権は,前年の民國
79年
(1990)に國家統一委員会(以下「國統會」)を置
(4)
き,以後大陸政策をここで決定していく。
圃統會は,当然国民党挙げての組織となり,李登輝総統が主任委員,行政院長(首 相)の祁柏村,副総統の李元族の他,高玉樹を副主任委員とした体制であった。
一方行政院には,政策を実行する大陸委員会が置かれた。
11月
22日には半官半民
(5)
(財団法人格)の海峡交流基金會(以下「海基會」)が置かれて,行政院大陸委員会の
(4)民國
80年
(1991)時占での大陸委員会のメンバーは以下の通り。
主任委貝:黄昆輝,副主任委員 馬英九,高孔廉,謝生富,委員:王昭明(行政院秘 杏長),呉伯雄(内政部長),銭復(外交部長),陳履安(国防部長),蓋萬長(経済部長),
王建熔(財政部長),簡又新(交通部長),毛高文(教育部長),呂有文(法務部長),呉 化鵬(蒙蔵委員会委員長),曽広順(僑務委員会委員長),郭婉容(経済建設委員会委員 長),余玉賢(農業委貝会主任委員),郭為藩(文化建設委貝会主任委貝),張剣寒(行 政院政務委員),胡志強(新聞局長),宋心廉(国家安全局長)
(5) 海基會発足時の各界代表は次の通り。文化呉静吉,学界王澤緊,朱堅章,高希 均,楊其銑,劉泰英,メデイア,王必成,王家騨,朱宗祠,呉盟山,余建新,武士窃,
唐胎粉,楚桜秋,スポーソ 張盟緒,企業'王又曽,王永在,李成家,呉東進,呉舜
文,何壽川,苗育秀,施振栄,殷之浩,徐旭東,高消願,張安平,睾振甫,許勝発,許
遠東,黄世恵,察萬森,彰蔭剛,社会王章清,徐立徳,徐亨,烏餓,陳長文,陳建
中,曹聖苓,特希平,謝学野
681
中華民圃
80年の社会
‑143‑方針下で動くことになった。基金会は,名前の通り基金を管轄し,その基金の
51.9%は圃の支出であった。
この会を構成したのは大陸委員会のほか,海峡両岸商務協調会,台湾外貿協会,紅 十字(赤十字)会などが加わっている。この年の
3月には,海峡交流基金協会(以下
「海基會」)が設立され,両岸の実務を行うこととなった。
設立時の海基會は,企業界の大物で,国民党の中央常務委員でもある睾振甫を理事 長(董事長),許勝発と陳長文を副理事長,陳栄傑を秘書長に発足,監事には子宗先,
(6)
王昭明,江兆申,馬英九,陳奇禄,張國安が当たり,理事には各界有力者を連ねた。
中国側は
26日に,国台雛が,交流促進につながるのであれば,台湾のいかなる組 織も認めるという表現で,この組織を認知した。
まだ三不政策を取る台湾政府は,既に台湾住民の里帰りやビジネスの形での大陸訪 問を解禁しながら,現地での様々なトラブルに対応する機関を持たず,民間の海基會 の形で,この機能を補った。この海基會は,
80年
(1991) 12月
16日,大陸でやはり
(7)
民間組織形態で置かれた海峡両岸関係協会(以下「海協会」)と対応する機関となる。
海協会の目的は「海峡両岸関係章程」という文書にまとめられているが,ほぽ海基会 と同じで,前者が大陸委員会の指示を得て活動するのと同様,海協会は国台雛からの 権限委託によって活動するという位置づけになっている。
81
年
(1992) 3月大陸委員会は大企業の大陸投資を条件付きで認め,
10月には公 営企業の対大陸輸出を認可する。また
7月には,「台湾地区和大陸地区人民関係条例」
を示し,共産党員の入国許可,大陸の法人が台湾に窓口を置くことも認めた。
(6) 國統會委員には林洋港,孔徳成,黄尊秋,蒋彦士(総統府秘書長),蒋緯國,劉槻オ,
趙自斉,馬樹證,陶百川,簡明屎,陳健治,陳田錨,林仁徳,孫震(台湾大学学長),
王楊吾,余紀忠,高育仁,殷允冗,鄭為元,翠振甫,李遠哲(ノーベル化学伐受伐者),
李海天,謝深山,宋楚瑶,康寧祥,劉松藩(立法院長),陳金譲,黄昆輝が当たり,宋 心漣(国家安全局長),馬英九ら
22名が研究委員として名を連ねている。
(7) 海協会は,当時の上海市長で上海市委員会杏記の汗道涵を会長に据えた。主要メンバ ーは次の通り。
名巻会長:栄毅仁(全人代常務委員会委員長),副会長 唐樹備(常務),経叔平,邸 開哲,顧問 張克輝(中華全国台湾同胞聯誼会会長)林麗楊(全人代華僑委員会副主任),
察子民(台湾民主自治同盟中央主席)
‑144‑
香川大学経済論叢
682一方,台湾から大陸へは,探親名目の里帰りが徐々に行われていた。既に「中華雑 誌」民圃
76年
(1987) 1月号に,
75年末に書かれた,所謂「老兵」の大陸探親を求 める公開書簡が掲載され,外省人探親促進会も発足,自由返郷運動が起こるなど大陸 行きは公然の要望になりつつあったこと,同じ
75年にはパイロ;;トの王錫爵が自分 の操縦する香港発台北行き中華航空貨物機で積み荷もろとも大陸に里帰りを強行した 事件まで発生し,蒋経國は大陸探親一部解禁を決断せざるをえなかった。国民の多く は,この動きを理解したものの,反対する勢力も大きかった。李明強は,この動きに
(8)
ついて三つの母体を示している。
一つは大陸出身ながら,反共という考えに強く支配されている国民党元老クラス,
次いで戒厳令下で暗躍した情報部門関係者,現状維持を最良とする官僚たちである。
総統の意向があっても,彼らは探親の条件を極めて厳しく設定することで,実質的に 指示を反古にせんばかりの方針を提案するので,業を煮やした蒋経國は,ついに若手 の馬英九に命じ,彼の手で「民衆往返大陸探親問題之分析」(民國
76年
(1987)6月 ) にまとめられた。その後具体的な方策が研究され,
11月から受付が開始された。
(9)
近年李登輝元総統が公表した,蒋経圃の指示のメモによれば,民薗
76年
(1987)7月
18日,赤十字に将来探親問題の作業を行わせるので,この問題に当たるに相応し い
30 40オの人間を選ぶよう指示,
7月
31日には,赤十字との摺り合わせ後,
8月
3日関係組織で探親を協議する指示が出されている。この時の関係機関の協議メンバ ーは,王章清(行政院秘書長),宋楚瑠,高銘輝,馬英久(いずれも中党部副秘書長),
丁懲時(外交部長),宋心漉(国家安全局長),張祖飴(総統府副秘書長)である。
赤十字は,察培火らが老齢を理由に自ら退き,李登輝の推薦を受けた秘書長の陳長 文を中心にこの仕事を担うこととなる。
9
月
16日の中央常務委員会で,蒋経國は大陸探親解禁に向かう意向を示したが,
同時に,前提は反共,光復だとも強調した。この頃蒋経國の病状は相当進み,総統府
(8) 「海峡西岸美系的松劫与緩和」 海峡南岸美系史 第四巻,, 福建人民出版社
2004.12 p. 949(9) 『見證台溝 蒋経園総統和我』李登輝,
2004國史館
683
中華民國 8 0年の社会
‑145‑に出られないことも多かったが,この週は比較的好調だったと,李登輝は記録してい る。翌
17日に,副総統だった李登輝を呼び,常務委員会での反応を尋ねている。翌 週
9月
21日,蒋経園は,李登輝から,許可を何親等からにするか,年齢,回 数滞在許可時間などで,まだ意見がまとまらないという報告を聞き,出来るだけ条 件を付けるな,問題が出たらその都度処理すればよい,民間関係団体は赤十字が良い と指示した。李登輝は,蒋経國が反対が出るのを予想しながら探親解禁に舵を切った
(10)
のは,宣伝効果が大きいからだと判断した。
李登輝は後日,この政策について,「発表時は多くの人が驚いた。一旦大陸に戻っ たら二度と台湾に戻らないと多くの人は予測したが,蒋経國は,多くの返郷希望者は
「老兵」で,年金が比較的手犀く保証されている台湾を棄てて大陸に残ることはない し,外省人も当時の中国の実情に触れれば,大陸に定住する筈がないと予測してい た。結局は数万の探親者で大陸に留まったのは本当に数人だった,蒋経國の判断に舌
(11)
を巻いた」と述べている。
この政策の特徴は,李明強の見方では,
3点あり,第一は,国策としては反共光復 の旗を降ろさず,探親を赤十字を中心とした民間に丸投げしたこと,第二は多くの制 限があり,特に公務員という多数の政府組織の人間(外省が多く含まれ,家族では探 親の要求が少なくなかったと見られる:筆者注)は,当初恩恵に浴せなかったこと,
第三は中国国民に繁栄した自由な台湾を,里帰り者を通じて間接的に宣伝するという 政治的な意図があり,決して逆方向,すなわち大陸から台湾への探親を認めなかった
(12)
こと,としている。
ただし,最後の点は,直ぐに変更された。民園
77年
(1988)年
6月,直系親族の 葬儀が理由であれば,三親等までの大陸の台胞帰国を認めた。そして,年内に世論に 押される形で四親等に資格が拡大された。また
10月,帰台目的に見舞いも追加,結 局
90年代に入る前に壱千人を超える大陸の人間が台湾入国を認められた。
(10)
「闘於此次大陸探親問題為宣側意義大於質質意義,其目的是否緩和台海緊張為目的,
尚待進一歩證質。」(『見證台溝』
p.244) (11)注
(9)書p.246(12)
注
(8)響
p952‑146‑
香川大学経済論叢
684これに対し,大陸側の台湾人組織である台湾民主自治同盟と中華全国台湾同胞聯誼 会は,いずれも歓迎と協力の意思を示し,
11月16日に国務院は「中年人民共和国国 各院か公庁美子台湾同胞来祖国大肺探楽旅滸接待か法的通知」を発表した。
(13)
小説の中で,大陸探親の際の見間を示す教員が登場するが,民園
80年までに大陸 探親を認められていたということは,この教師が
3親等以内の親族を大陸に持ってい
たことを示している。
1 .
3政府内の温度差
長年敵対していた大陸に対し,交流への政策転換で足並みを揃えることは簡単では ない。実質的に始まってしまった交流の現状に,政府は後追いしていた感がある。
そして産業界の思いとは別に,国民党で反共を国民に宣伝したたき込む立場だった 党や軍が,素直に変化についていけよう筈がない。
行政院長は祁柏村で,人民解放軍相手の金門島での八二三砲戦で前線にあり,長期 に参謀総長を務めた人物である。従って,交流が動き出していても,常に彼の内閣 は,中国相手に慎重な姿勢を崩していない。
(14)
この年,彼が政府で行った両岸に関する指示を見てみよう。
中国の現状分析と,対応については
1月31
日 大陸委員会の編成に際して,大陸委員会は多くの決定を行うが,実際 の執行は政府の各部局になるので,各部で大陸の現状把握のため資料を収集し ておくよう指示。
2月28
日 動員搬裔 L 期停止後中国をどう位置づけるかは,政府にとって難問で あった。そこで祁柏村院長は,結論が出るまで各部ではこの問題について外部 にコメントしないよう指示。
(13)
『少年大頭春的生活週記』《小恐龍出世》
p.39(14)
祁柏村の自伝や日記の類は,今のところ公表されていないが,八二三砲戦時の日記
と,行政院長時代の各部会への指示は,『不憫j(民園
84年
9月,五四害店)に含まれ
ている。
685
中華民國
80年の社会
‑147‑3月14
日 「国家統一綱領」成立の目途が立ったことから,今後はこれが大陸政 策の基盤であり,ますます増大するだろう両岸交流の実務の中で,きちんとし た制度を確立したいと表明。
4月25
日 動員裁胤期停止は,反共の国家政策自体の変更ではないので,各部門 ともそれを認識しておくよう注意。
5月9
日 金門馬祖に戒厳令をしいたことへの批判に,中国は武力で台湾を攻撃 する準備を解いていないので戒厳ぱ必要であり,大陸委員会の慎重な検討が望
まれる。各部会も大陸問題に注意をと呼びかけ。
5月23
日 動員裁胤期終結後の法改正作業を指示。
6
月
6日 上の改正は半年で解決するよう指示を加える。
6月20
日 大陸委員会の大陸工作簡報に書かれた次の諸点に注意を喚起する。
1 ) 中国は和平を拒否し思想統制を強めているが,共産主義の本質を改めぬま ま民主化しようとすれば,失敗するのは明らかだ。
2 ) 中国の外国企業への監視が進んでいて,台湾企業も例外ではない。経済 部,大陸委員会は注意を。
3)
大陸に投資した台商のほとんどは経営に失敗している,経済部は具体的事 例を集め台商に注意させよ。
(15)
4)
今回の隊王号事件は,大陸委員会,海峡基金会と郡部が適切に処置した。
今後も中国とは,中央機関とのみ交渉し,対等の原則をもって,善意の協力 という立場で解決していくのが重要だ。
5)
動員餓胤期停止後,中国の機構,人員,行政区域の名称について,大陸委 員会は現段階の統一呼称を検討すべきだ。
(15)
パナマ船箱の鷹王号が民巖
80年
6月
13日に貶門税関の関係者に停止を命しられた。
同船は台湾側に,海賊に襲われたと虚偽通報,駆けつけた台湾軍巡視艇は,既に乗船調 査に入っていた腹門税関職員ごと台中港に連行した。当該船の乗組員は結局腹門で聴取 を受けたが,船自体は台湾が押さえた。中国側国台緋は台湾の海上基金会と連携し,腹 門税関職員返還作業を進め,
18日職員は香港経由で腹門へ戻された。この際祁柏村は,
すべて国内法と国際法で処理するよう指示,事件は台中港警察から台中地検へ移され,
捜査の結果, 7月2 9日嫌疑不十分で不起訴となった。中国側は税関職員は戻されたが,
船を台湾が中国に提出しなかったのは捜査妨害と非難した。
‑148‑
香川大学経済論叢
6867月4日
中国共産党建党
70周年談話で,中国の社会主義を賛美し,国共の数 十年の党争を強調したのは,敵対意識が消えていない現れとし,同時に,平和 的解決には努力し,文化交流,大陸記者の取材訪問を解禁し,大陸の国民に台 湾の民主化,社会開放や発展の状況を知らせるのも重要との見解。
7
月18日浙江省の選挙で非共産党員が多く当選したことで,大陸住民の意識変 化を強調。
(16)
8月8日
大陸委員会の問獅漁事件処理は妥当で,国民に中国の実態をはっきり 知らせる意味があったと評価。
8
月22 日 ソ連のゴルバチョフ軟禁の政変失敗について,民主主義が世界の潮流 で,中国も天安門事件のようなことを繰り返さないよう望むと表明。
81年
3月5日
大陸に投資していた林智賢一家三人が海南島で殺害された事件で中国 側の処理が曖昧だとし,大陸委員会は海峡基金会を通じ真相究明を諮るべしと する。
6月18日
大陸簡報は,大陸で盲流増加を指摘,大陸の学者来訪を積極的に認め 自由社会の進歩を体感させることは有効とする。
9月10日
大陸記者団が来訪したのを受け,極めて有意義と強調。
10
月
8日「一個中国」は国家の基本で台湾海峡安定や二千萬国民の生命を守る ための最適な手段。「両個中国」や「一中一台」は,本質的に台獨であり,排 斥せねばならない,と表明。
10月15日
中国の一四回全人代に注意すべし,と表明。
11月15
日 海基会と海上協会が香港で実務関係の協議,成果は無いが,基金会 の原則に寄った協議方針を支持する。
11月19
日 大陸工作簡報が,中国で大学卒業生の分配廃止。青年の就職をコン
( 1 6 ) 福建省石獅市の漁船閑獅漁 2隻が台湾海峡で漁網を設置していた領域を,台湾漁船三
姦財号が通過し,漁網が破損,中国船側が台湾船に乗り込んで賠償を要求,台湾船の通
報で,中国船と乗組員が台中港に連行され,台中地検に起訴された。中国赤十字が台湾
に来て漁民の身柄引き取り交渉をした。中国漁民は一部が有罪判決を受けたが,全員婦
国を認められた。
687
中華民國 8 0 年の社会 トロールできなくなったものと判断。
‑149‑
政治に先んじて,片方向ながら実体交流が進んでしまっていた対中経済については,
2
月7日 大陸への投資は経済部への届け出が必要だが,実際に届ける者は多く ないことを指摘,経済部で実態把握するよう指示。
7月12
日 中国が台商の中国投資を積極的に誘導しようとしているのに対し警戒 感を表明。
9月5
日 大陸委員会の大陸工作簡報に,中国が新出した台湾資本の企業で共産 党組織を作ろうとしているとあったことで,商業投資は民間の商行為で,政治 性はなく,業者ははっきり拒むべきだとする。
那柏村行政院長は,交流拡大について,進めるが慎重に,という姿勢であったが,
中国の国力ヘの恐れと同時に,台湾の現体制への自信も明らかに有していた。彼本人 の趣味にどれだけ適っていたかは疑問だが,蒋経國最晩年から李登輝時代にかけて,
着実に進んだ自由化,民主化は,中国とのコントラストを際だたせる役目を果たして いた。
彼の自信の裏付けは,結局共産主義国家が次々減少していった世界情勢であり,非 共産主義,反共産主義を貫いた正当性が明らかになったと感じていたのは確かであ る 。
象徴的な事件,分断国家ドイツが,東独崩壊という形で統一されたのは,小説の前 年民國
79年
(1990)秋のことであった。
都柏村は,統一翌日の
10月4日の部会への指示で,分裂国家の最も望ましい統一 例であり,共産主義という悪い制度の側が民主主義という良い制度の側に統一される
(11)
のは,台湾と中国の関係でも同様のことになるだろうとしている。
1 .
4他分野への拡大
Ll
で触れたビザ手続改正で,具体的にどのような成果があったか。
‑150‑
香川大学経済論叢
688民國
81年
(1992),中 国 の 芸 術 団 が 台 湾 で
20日公演し,その後も中央バレー団,
雲南省歌舞団などの台湾公演があった。
或 い は ス ポ ー ツ 分 野 で は , 民 國
77年
(1988)第
13回国民党代表大会で,「参照 圃際奥委會等園際組織的規定,虞理海峡雨岸参輿園際奥委會骨豊育技能競賽事宜」が承
(18)
認された。翌
78年から,台湾から中国ヘスポーツ選手の渡航が認められるようになっ た 。
79年に北京で開催されたアジア大会で,中台選手は初めて顔を揃えることになっ た。これ以後も台湾選手が大陸へという片方向の交流が続いたが,前期手続改正で制 度 が 定 め ら れ た こ と か ら , 中 華 民 国 政 府 は 民 圃
81年
(1992)ス ポ ー ツ 選 手 の 台 湾 訪 問禁止を解除,ようやく大陸選手受け入れが始まり,中台関係の緊張や緩和に従って 波はあるものの,結果としては相当数の選手が台湾で競技参加することになった。
2
中台間の呼称問題
以後共匪二字宜改成中共。
《小恐龍出世》樽師評語
80., 9 8 80 .. 9.., 142. 1
経過
この教師の批評は,大頭春が,教師の大陸探親の際の見聞を記録した際,
2箇所に
(19)渡り「共匪」という単語を使ったことへの注意である。そして,この教師の指導は,
この年の呼称問題検討の結果を下敷きにしている。
( 1 7 ) 「 東 西徳昨日以和平,民主,自由,均富方式完成統一,這是分裂國家達成統一的最 佳例證。我國虞境雖不相同,但我側堅信,以和平,民主,自由,均富的方式,終必能完 成的匿家統一。
雨徳統一,同時證明了一個國家只有好的制度統一壊的制度。此即 経國先生所説,我 側不要一國雨制,而要「一國良制」的道理。
第二次世界大戦後,共産主義逐漸披張,至八
0年代盛極而衰,去年起,蘇聯及束獣許 多共産國家相緞改革,使整個共産主義陣螢崩祖。所以,我側鹿境雖輿東,西徳,南,北 韓不同,但本質上並無差異,我側相信,自己徳制度是好的制度,並且一定可以統一不好 的制度。」(都柏村 『不憫』「在行政院會到各部會工作之提示」
7910.4民國
84五四 害局)
(18)
この条項は,「現段階大陸政策」の一部を構成する。
(19)
「那時因為共匪旧美殿人用原子弾炸他側,。後来美國人和共匪建交, ''」(「小恐龍
出世」一週大事)
689
中華民圃 8 0 年の社会
‑151‑6
月
25日付『聯合報』は,
24日の大陸委員会の審議内容として,呼称問題を報道 した。
中学生の日記にも普通に使用されていることからも分かるように,「共匪」といっ
(20)
た呼び方は,台湾では公式に使われていた。僅か数ヶ月前
3月
18日には,呂有文法務部長は,中共は「叛乱団体」と明言しているくらいである。しかし,中国との交流 を視野に入れるにつれ,公的な場面で相手方をとう呼ぶべきかの指針を示す必要に迫 られ,馬英九副主任委員が表明したのである。
この時点で報じられた原則は,まず,文書では「中国の中央行政機関名,および個 人の役職名には等しく括弧をつける(加引号)ことを原則とする。ただし,国営企業
(国営事業機関)には括弧をつけない。」というものだった。
既に直近の大陸委員会発表の文書では,この原則が先行適用され,中央の機関や個 人には括弧付き,地方機関や個人は無印の区別を行っていた。
紛らわしいが,中国の共産党組織については,地方も含めて括弧付き原則をうたっ ていた。しかし,こちらの原則は
6月の,大陸委員会では合意されなかった。
また,中国については,今更「共匪」ではなく,「中共当局」あるいは「大陸当局」
に統一することを考えた。馬副主任委員の意向は,中国側が台湾側を「国民党当局」
というなら前者,「台湾当局」であれば後者を用いるという折衷案だが,どうも報道 によれば,委員の多くは「中共当局」に統一というのが主流だったらしい。
中国の官僚と接する場合,台湾側はその役職を呼ぶのに,中国側が役職を省きがち な点も,馬副主任委員は指摘しており,これを従来の台湾方式通り役職で呼ぶのを原 則とするか,中国方式で「先生」や「小姐」で済ませるかについても統一すべきだと
したが,この時点では結論を出すに至っていない。
既にこうした呼称への改変が議論されている。
( 2 0 ) 実にこの頃まで,「共匪」を初めとする中国への罵称は,公的文苫や論文に広く使わ れる人気用語だった。例えば台湾大学の政治系教授だった俯啓學の『三十年来中美俄胴 係的演愛』(民歴
69台混商務印蓄館)は民國
75年
(1986)の
2版に至っても表記を変 えていない。
「共匪」「毛匪」「匪煎」「中共匪軍」「周匪恩来」「華匪(華國鋒)」「部匪(部小平)」
などは普通で,米中国交樹立を示す「美匪建交」では,もはや中国は「匪賊」一字で代
表されている。
‑152‑
香川大学経済論叢
690括弧付き表記は,この頃中国でも既に採用している。例えば台湾研究会がまとめた
(21)
『台湾一九九ー』は多くの通常括弧が付されておかしくない「台獨牌」や「台湾憲法 草案」といった言葉以外に,「立法院」「行政院長」「経済部」「中華民国」「副総統」「大 使」なと多くの言葉を「""」付で標記している。
祁柏村が民甑
80年 に 示 し た 第
5)項
(147頁)のうち,行政区域については,小
四説の時点では改善を見ておらず,北京はなお「北平」と表記されている。
2.2
呼称問題
呼称問題は,国連脱退以降永く台湾を悩ませた問題である。中華民国総統を,その 国家元首としての職位で呼ぶことは,台湾を国家と認めることになると解釈する中国 が,執拗に監視しているからである。
たとえば,アジア開発銀行は,本来中華民国が中国代表権を有していたが,民国
75年
(1986) 3月,中国を代表とすることとし,台湾は「中国台北」と改称すること で,何とか機構内に留まった。そして
4月以降中国銀行長が中国代表として出席して いる。一方台湾は「不改称,不退出,正式会議への不参加(他の活動は参加)」とい う三不主義を取って三名の民間人を送った。台湾は,この会議への提出文書を全て「中 華民国」名で出していたが,配布される会議資料では,完全に「中国台北」と書き直
されていると言う。
また,今年度北京五輪があったが,民國
68年
(1979)国際オリンピ;;ク委員会が 台湾が委員会に止まる場合,国旗と国名変更の必要ありと決定したことによって,台 湾は中国台北オリンピ;;ク委員会と名乗ることとなり,ロサンゼルス五輪以降,この 形で参加してきた。中国は,そもそもこの決定に満足せず,その後
15年に渡り反対
(23)
し続けた。
李登輝総統が
95年に米国を訪問した際,国務省の報道官は記者会見で初めて台湾
(21)
中国友誼出版社,
1992,北京
(22)
「這一週地理課上到北平市,老師還把上次去大陸拍的録影帯放給我何看 」(『少年大 頭春的生活週記』
p.63「無名神功」學習心得)
(23)
その後,民極
78年
(1989)4月,中国と台湾双方で,今後台湾チームは正式な大会で
は「中華台北」の名前で参加することが同時に発表された。
691
中華民國
80年の社会
‑]53‑総統を
Misterでなく
Presidentと呼んで中国をいらだたせた。また,国際組織で,中 国は基本的に台湾排除方針を取り,中国より先行加盟した組織では中華民国を使わせ ない。
しかし,今年
APECで,台湾代表として出席した連戦前国民党主席は,中華民国 馬英九総統が派遣した代表と表現された。中華民国総統が,この会議で遂に総統と表 記されたことは,銘記されるべきだろう。
3
対中イメージ
最後に,この小説から,当時の台湾人が中国にどのようなイメージを持っていたか を拾おう。
一つには中国の社会主義体制に起因する経済停滞を背景に,中国を貧しく捉えてい ること,これは,老兵たちの出身地がほとんど都市部でなく,里帰りの際,中国の中 でも未発展の地域を目にすることが多く,その情報が婦国者から入ることで拡大され たであろう。正に
1..2で触れた故蒋経國の慧眼を証明するものである。
「小恐竜出世」で見られる,原爆よけ防空壕を便所に改築する村人の話や「恐怖的 口香糖」で,水害に遭った中国人を,アフリカ人並に可哀相とするコメントに,それ は見て取れる。
「大陸華東,華中地匿骰生厳重水患,造成雨千多人喪生,受害耕地達一千六百萬公 頃,災匿並出現癒疾,痢疾,傷寒等偲染病。"…大陸通報賓在太可憐了,差不多快要電
(24)
視上的非洲黒人一様可憐的様子。 ・ 」
更に,世界でも希なくらい急速に普及した衛星放送視聴で,反共教育を目一杯受け た父親世代が,オンタイムで見届けることになった天安門事件などの影響で,更に強 化された共産党への恐怖感である。
( 2 4 ) 『少年大頭春的生活週記』《恐怖的口香糖》重要新聞
p,1 5
‑154‑
香川大学経済論叢 6 9 2
「這一週地理課上到北平市,老師還把上次去大陸拍的録影帯放給我 1 門看,我側看到 根多穿制服的解放軍在天安門前面涎来涎去。老師説如果台漉蘭獨立,他{門就會胞到中 正紀念堂来涎了。想一想還有黙恐怖,釜釜常説他従小就會倣悪夢夢到共匪打来台湾,
依5)
毎個街口都姑了好多拿機閥槍的解放軍。」
しかしながら,軍人宰相祁柏村を引き合いに,次のコメントを加えているところは 傑作である。
(26)