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被爆体験の語り部として生きる ――広島在住のあるハルモニの語り――

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『日本アジア研究』第7号(20103月)

被爆体験の語り部として生きる

――広島在住のあるハルモニの語り――

崔明淑*・三井沙織**・福岡安則***

1928年生まれ,「在日2世」の李順徳(イ・スンドク)さんは,17歳のとき,

広島で被爆している。1987 年に,アメリカでの平和行動に参加したことをき っかけに,学校の生徒たちを相手に「被爆体験」を語る語り部として活動す るようになった。

「音もない,光もない。ほんとに衝撃も受けてない。ただ〔壊れた〕家の下 敷きになった,あらあら,なんじゃろうという感じ」と語る李順徳さんは,

爆心地からわずか 900 メートルのところで被爆したのだ。彼女が記憶のまま に語る原爆投下直後の広島は,まさに「地獄絵」そのものだが,そこに登場 する人びとは,文字どおり「素っ裸のひとたち」であり,日本人も朝鮮人も ない世界として語られている。

李順徳さんの語りが在日韓国人女性のライフストーリーにほかならないこ とは,彼女が広島で被爆するに至るまでの物語,つまりは植民地支配下に仕 事を求めて両親が渡日してきたがゆえに,彼女が〈そのとき,そこに〉存在 したのだということと,戦後復興後かなりの日にちが経ってから,やっと,

彼女たち在日韓国・朝鮮人被爆者には「被爆者手帳」の取得が可能になった という,日本人被爆者と在日被爆者とのあいだの行政的差別の存在が語られ ることで,明らかになる。――それだけに,被爆体験自体は,民族を超えた ところで記憶され,物語られていることが,いっそう象徴的に際立つ。

わたしたちは,李順徳さんのかけがえのない《記憶》が,語りをとおして ひとつの《記録》に転化する場面にたちあえたことをうれしく思う。

キーワード:被爆体験,在日コリアン,ライフストーリー

李順徳さんからの聞き取りは,2005818日,広島のご自宅にて,

崔明淑が聞き手となっておこなわれた。聞き取り時点で,李順徳さんは 771。彼女の語りはかなり膨大な量となったので,一人語りの形式で以

*チェ・ミョンスク,埼玉大学大学院文化科学研究科博士後期課程在学中,社会学。

** みつい・さおり,埼玉大学教養学部4年,社会学。

*** ふくおか・やすのり,埼玉大学教養学部教授,社会学。

1 語り手ご本人の希望によりお名前は仮名とした。同時に,彼女の語りに登場する人 びとの名前も匿名化した。必要におうじて,地名についても仮のものに変えたばあい がある。また,ご本人の意向により,語りの一部を削除した。

とはいえ,李順徳さんがある意味で饒舌なまでにみずからの人生の体験を語ってく ださっているのは,韓国からの留学生である崔明淑が,同胞であるだけでなく,孫の ような年齢であったからでもあろう。広島弁による語りのテープおこしは,韓国から

(2)

下に呈示する。

お勉強してないから話せるのは体験だけ

わたし,いま,被爆体験を話すいうことをやってるんですよね。それで,話 すことは嫌じゃないんですけどね。ただ,あなたのようなハングッ(韓国)で 生まれて育った人に対して,この,おばあさんがね,ハングンマル(韓国語)

あんまりできないんですよね。それがね,ちょっと恥ずかしいのと。それから,

みなさんは,植民地時代のこととかそんなの,お勉強されてるでしょ。ところ がわたしらは,そういうお勉強してないんですよね。お勉強でしてないんで,

そういう難しいことは,どっちかいや言えなくて,わたしの場合は,人と人と のかかわりあいで,感じたとか,見たとか,そういうものしか自分の中にはな いんですよね。たしかに,わたし,「李順徳」(り・じゅんとく)って名札つけて,

子どもたちの前では話すんですけど,わたしの話すのは,自分の体験だけです から。

1987年アメリカの平和行動に参加

いま〔民族団体の職員をしとる〕○○○っていうのが,わたしの末の息子な んですよ。その子が〔外国人登録の更新にさいして「人指し指の自由」を求め て〕指紋押捺拒否をして,警察に捕まったり,裁判が始まったりしたんですけ ど。そんときに,わたしも証言台に立たされたりしたときに,わたしが被爆し てるっていうことがわかってね。要は,支援してる日本の人たちがそれを知っ て,「被爆体験を語り継ぐという行動に参加してください」って言われたんだ けど,そんなん,わたし,できるはずもないと思いましたし。ましてや,教育 の場でしょ。「そこでわたしが,そんなこと言えません」言うて。嫌ですしね,

その,被爆体験話すのが。で,「嫌です嫌です」って,けっこう邪険に断った んですけど。断りきれなかったんです。

わたし〔民族団体の〕婦人会にかかわってましたんで。あの,昭和62年に,

アメリカで,平和行動があったんですよ。一般ツアーで参加した人もいたんで すけどね。〔その人たちは〕30万ぐらい出して,参加したんですけど。日本の 女性の被爆者と男性の被爆者と,それから韓国人の被爆者としてわたしが 1 人,そこへ行ってきなさいっていう命令が下りて,抵抗できなくて行ったんで すけど。そんとき,わたし,アメリカに何しに行くんかっていう認識がなかっ たんですよね。で,アメリカでの行動のなかでね,アーリントン墓地とか,ワ シントン広場のベトナム・メモリアルとか,戦争に行って犠牲になった人たち のメモリアルを,ずっとシャトルバスでまわりながらね,とっても目の塞がる 思いをしたんですよ。そんときに無名戦士の碑に花束捧げたりしたんですけど,

わたしらおばさんですのでね,ほんとに,多くの若い人たちが戦争で犠牲にな

の留学生である崔明淑には難しく,広島県で生活したことがあり,本人自身が「在日 韓国人4世」でもある三井沙織がトランスクリプトの作成をおこない,さらに,福岡 安則が語りの原稿の整理をおこなった。語りは,基本的に,生活史の時間の流れでは なくて,聞き取り場面での語りの流れをできるかぎり尊重するかたちで,整理した。

なお,〔 〕は,聞き手の問いに対応した部分,または,文意を通すために補ったも のである。また,語り手がどう発音したかを明示しつつ,意味を明確にするために,

「伯母(おかあさん)」といった表記法をしたところもある。

(3)

った,誰かのためみたいなかたちでね,そのほうがわたしは胸が痛かったんで す。

それで次に行ったのが,国務省へ。核実験反対の署名集めたもんとかね,そ れから,当時の〔広島〕市長さんの核実験反対のアピールとか,届けに行った んですよ。わたしはただついて行っただけなんですけど。役人がね,たった1 人だけ出てきて,あの,パイプの椅子ってのがあるでしょ,こうやって畳んだ り開いたりする,それを広げて……。そんとき,わたし,“ああ,かっこいい ー。映画にでも出てきそうな,かっこいい役人だ”と,最初思って,そう見て たんだけど。Hさんていう〔日本人の〕牧師さん,わたしより3歳ぐらい年下 の被爆者が,預かっていた署名集めたもんとかを渡して,それから,被爆した 者としての要望を言ったんですよ。「核実験をやめてください。地球がだめに なります。人類がだめになります」みたいなことを一生懸命言ってるのに,そ の役人はね,悠然と座ってね,正当化することばっかり言ったんですよね。そ れ聞きながらイライラしてたんです。“被爆して苦しんだ人がね,それも,自 分の人生返せ,言うんじゃない,地球が救いたい,人類が救いたい,いうこと を言いよるのに,その人に向かって,あんた,なんちゅうことを言いよるんね”

みたいなことを,心で,聞きながらイライラしてたんです。ほしたら,途中で,

「ヒロシマ,ナガサキへ原爆を落としたことはけっして間違いじゃなかったし,

そのために戦争が早う終わって,少なくとも20万という兵隊の命が救われた んだ」と言われたですよ。それ聞いたときに,わたしは髪の毛が,こう,バー ッと逆立ってね。外から見たらどうもないんでしょうけど,わたしは髪の毛が 全部逆立った思いをして。そしてわたしがそこでしたことは,泣くしかなかっ たんです。(泣き声になりながら)抗議もなんもようせんで。それを聞いてもう,

息ができんぐらい泣いて。その20万を聞いたときに,わたしはその20万って いう数字をずいぶん聞いたな,見たなっていうんがあったんですけどね,その 20万を自分のなかに取り込んで考えたことがなかったんです。その20万をそ の役人に言われたときに,「ヒロシマの20万」につながってしまったんですね。

で,そこで,ほんとに泣くしかなくて,無様(ぶざま)に,泣いて出てきて。

いろんな平和行動に参加しながらね,それまで,わたし,平和行動って特別 な人がするんだと思ってたんですよ。ところが,する意志さえあれば,どんな 形ででもできるんだっていうことに気づかされて。帰ってきて,報告集会では じめて,自分がせにゃならんこと,ずっと言われてたのに,ずっと断り続けた んだけど,アメリカに行かしてもろたんじゃけ,なんか,わたし,お返しのつ もりで,帰ってきた報告集会ではじめて,第一声,わたしの被爆体験を語るこ とが始まったんですね。それから,修学旅行生の前に立たされたんですけど,

話せんかったんですよ。話したら途中から泣き出してしまうんですね。泣いて しもうて,どうしても話せなくて。かっこ悪いわ,わたし,すごい泣くんです よ。〔うちに〕帰ってきてね,逆だな,と思ったのね。被爆体験を話して聞か すのがわたしの役目だったのに,話すこともようせんと泣いてしもうて,かえ って子どもたちに心配かけたり,慰められたり,励まされたり。逆でしょ。そ れがね,とっても〔辛かった〕。もう二度と話せん。でも,断れん。アメリカ に行かしてもろうたのにねぇ,どうやって返す……。お返しのつもりから始ま ったのに,どうやって断ろうかいうて悩んでたときにね,ちょうどテレビで,

男の子がね,大阪のほうの子が,いじめられて,生きられんで,自殺したって

(4)

いうのが出てたんです。それ見て,わたしは飛び上がったんですよ。その死ん だ子に向かって,大泣きしながら,怒って泣いたんですけど。そんときに,わ たし,小さいときの出会いを振り返ったんですね。

子ども時代の思い出

わたしが45歳のころ,母親に死なれて。その年,姉は,1年生入学の予 定でランドセル買ってたんですよ。だから,お父さんたちはたぶん昭和2年ご ろに〔日本に〕来たんじゃないかと思うんですよ。わたしが〔昭和〕3年,1928 年に生まれた。その3年ぐらい前に姉は生まれとるんですよ,韓国で。その韓 国から,姉を連れてきて,その明くる年にわたしが生まれたんだと思うんです ね。で,母親に死なれて。姉は,そのランドセルを背負って学校に行くことも できずに,子守奉公に出されたんです。で,わたしはクンジベ(父方の本家)

に預けられて。弟だけをお父さんが連れて旅回り。

あの頃のお父さんたちのお仕事は,工事現場から工事現場に移動して生活し てたんですけど。お母さんが病気したんでね……。あの,お産したんですよ。

お産をするので,現場から離れて,田舎の家の藁(わら)積んどるとこで,赤 ちゃん産んだと思うんですよ。ちいさいんであんまり記憶は残ってないんだけ ど,〔お母さんは〕そこで亡くなって。田舎の人たちが集まってきてね,棺桶 作ってくれて,白い障子紙で花作ったりして,いっぱい飾って,お葬式済まし て。で,そっから,家族は全部ばらばらになったんですけどね。だから,わた しらは母親の姿思い出せないんですよ。ひとつだけあるのが,お父さんと,ち ょっとこう,喧嘩して,お母さんが泣いてたとか,もうひとつは,赤ちゃんを 抱いて,わたしと外へ出て行って,わたしが田舎の農道の下のほう,水が流れ てるとこへ転げて落ちたんですよ。そしたら引き上げてくれてね,チマで包ん でくれたときのお母さんの匂い,ヤンニョン(薬味唐辛子)の匂い。それがお 母さんのわたしのなかの思い出なんですけどね。お母さんは,綿から糸とって,

それ自分で織って,黒に染めてチマを〔縫った〕。ほんじゃけ,あの生地,わ たしはいっつも懐かしい思い出になってるんですけどね。

それから,〔わたしは〕クンジベに預けられて,やっぱり,山の中で生活が あったんですけどね。たぶん工事現場で,クナボジ(父方の伯父)が怪我をし てね,山では用のない人になって,里の生活が始まったんです。クナボジがあ の,長男ですからね,長男だけは勉強さしてあったんですよね。立派な字,書 きよりました。それで,里の生活が始まったときに,生活費を担ってたのがオ バさんだったんです。たぶん,大変だったろうなってわたしは思うんよね。あ のころ,日本語もできんのにね,どうやって生活費稼いだんだろうかって,い ま痛い思いしますけどね。結局は,廃品回収が始まったんですよ。リヤカーで オバさんが廃品回収に行くんですよね。で,行って帰ったら,選(よ)り分け る作業を,伯父さんとわたしがお手伝いしてたんですよ。それで生活は成り立 ったらしいですけどね。その石川県で1年生入学したと同時にわたしの名前が 変わったんです。青山順子いうのに変わったんですよ。――〔伯父さんが〕わ たしを入学んとき学校に連れてって,「日本の名前にしてください」言われて,

ほで,伯父さんが慌てて付けたのが,故郷(ふるさと)の名前を付けとってんで す。いま考えたら,〔韓国の〕青松郡いうとこが本籍地なんですよ。じゃけぇ,

青松郡の青を取って,山をつけて,「青山」に。伯父さんのきょうだいは全部

(5)

「青山」だったんです。じゃけん,そっから,わたしはお嫁さんに行くまで「青 山」だったんですけど。

2年あまりその学校にいたときに,中国との戦争が始まったのね。その,中 国との戦争が始まった日の朝もね,とっても不気味な朝だったんですよ。夜が 明けきらんような,街じゅうが沈んでるような,異様な雰囲気の朝だったんで すけど。その朝,外に出て行ったら,ところどころのおうちの表に60キロ入 りの米俵が積んであって,お母さんがたが何人か集まって泣きながらお話しし てたんです。そばに近づいて聞いたらね,「ここのお父さんは日露戦争でも動 員令が下ったのに,また動員令が下った」いうて,泣いとられたんですよ。動 員令って,わたしそのとき理解できなくてね,なんかよっぽど怖いことが起き たんだみたいな思いをして,帰ってきて学校に行ったんですよ。そしたら,朝 礼で校長先生のお話があったんですね。盧溝橋いうとこで軍事衝突があって戦 争が始まったっていうお話をされたんですね。そんなん聞いても全然ぴんとこ なくてね。その日に覚えとることは,校長先生のお話がとっても長かったなっ ていうことと,先生の顔が異様に上気した顔だったなぁっていうのと。その日 を境にして,わたしらは戦争に行く人を見送るという行事が始まったんですけ どね。そんとき,わたしのオバさんも見送ってきてたんですよ。着物の着付け のできん人なんで,近所のおばさんたちが集まってね,一生懸命着物着せてく れて,白い割烹着をつけて,「大日本帝國國防婦人會」って書かれた襷(たすき)

をかけてね,見送ってきてたんです。

そんときのわたしは,その伯母(おかあさん)の姿がとっても嬉しかったいう のがあるんですよ。白い割烹着つけてると,着物どんなふうに着てるんかとか,

どんなええ着物着とるとか,見えんでしょ。白い割烹着で隠れるし,襷かけて るから,みなとおんなし姿してるっていうのが嬉しかったんですよ。――わた しらが親を否定しながら大きくなったいうのは,差別されたんですよね,やっ ぱり。いつのまにか,自分たちは韓国人だっていうことを〔まわりの日本人に〕

知らさんように生きてきたんですよ。だから,親たちを否定し,自分を否定し ながら,生きたんですけどね。――そうやって,そんときに,伯母(おかあさん)

が,見送った後,黙って帰〔ってくれ〕ればよかったんだけど,わたしを探し たんですよ。下手な日本語しゃべるもんですからね,とくにオバちゃんたち,

〔日本に〕来て間がなかったし,山の中で生活してたんで,日本語なんてしゃ べれる状態じゃなかったですから。それでも,いくらかの言葉で,「わたしの 娘です,仲良くしてください」みたいなことを言ったらね,それを珍しがって,

お友達が囲むでしょ。で,それからが,わたしの,困ることになったんですよ。

いつも伯母(おかあさん)の口真似をされて,はやしたてられて,なんかされる っていうのが始まったんですけどね。そんときに,ちゃんと助けてくれたお友 達,いたんですよ。その人のおかげで,わたしは,その後の生きる姿勢を,自 分で作ったと思ってるんですね。そんときに助けてくれた A さんていう人が ね,クラスでも誰もがあの人とお友達になりたいなぁみたいな,そういう日本 の女の子だったんですよ。その子が,いじめっ子たちの前に立ちはだかって,

「だめじゃないの!」って,やさしい声でね,怒ってくれてね。その子の言う ことは,みんな聞いたんですよね。ほで,わたし泣いてるとこへ来て,わたし の肩に手をかけてくれたときの,あの嬉しかった思い,ほんとに身が震うほど 嬉しかったっていう思いがあるんですよ。わたし,それからは,いじめるほう

(6)

が馬鹿なんよ,って思えたんです。たった2年生や3年生のときの出会いがね,

人の一生を豊かにできるんだっていうことに気がついて。――テレビ見てたら,

男の子が自殺したっていうときに,わたし,この出会いを振り返れたんですよ。

あんときわたしは,Aさんとの出会いがなかったら,自分も死にたいとか,よ う思ってましたんでね。〔死んだ〕親に会いたいし。この,Aさんの出会いが なかったら自分もどうなってたかなぁと思ったときに,“これって,立派な平 和行動だよね”っと思えたんですよ。ほぃで,これなら誰にでもできるわ,と 思ったんです。被爆体験,むごい話をしながらね,小学生なんかにだったら,

よけいね,こんなこと話して,この子たちどこまで理解できるんじゃろうかと か,そういうものがこっちにありましたからね。〔でも〕これなら誰にでもで きる平和行動だと思えたし。わたしは A さんに対する感謝の思いを込めて,

この行動を起こしてほしいっていうことをお願いしよう〔と〕,もう一度元気 とりもどして,語り始めて,いまに至ってるんですけどね。

だから,いつも最初に,自己紹介を兼ねて,そこらまでのことを話すんです。

何年に生まれて,何歳で親に死に別れて,ぜんぶ家族ばらばらになって,そっ から3年,石川県で小学校入ってっていうね,そこらへんまでのことを,最初 に自己紹介を兼ねて言うんです。ほしたら,これがね,けっこう,みんなに受 けてるんですよ。わたしは平和行動って,根本にやさしさがなかったらできる ことじゃないと思いますしね。要は,やさしさを身近に広げるというこの行動 がね,平和行動だよって。そのことなら誰にでもできると思うんでね。このこ とをしてほしいっていうことをお願いして,わたしの被爆体験〔の語り〕にい つも入るんですね。わたしはそれを一歩進めて,いじめっ子といじめられっ子 とね,損と得という言葉で2つに分けたらね,人をいじめてるほうがずっと損 な人生歩くと思うんですよ。そのことを,直(じか)に言うんです。人をいじ めたら自分のほうにも傷がつくんだよっていうこととね,人の悪口言うたら自 分が先に汚(よご)れるんだよっていうこととね。そんなことをわたし,わり と,どかんと言うんです。そっから,わたしの被爆体験に入るんですけど。

17歳で被爆

わたしは当時17歳でした。当時はもうね,日本じゅうが大爆撃受けてたん ですよ,大都会は。だけど広島とか遅かったんです。「京都とか広島は残して もらえるんだってぇ」みたいな噂もあったんですね。だけど,そういうことも あろうはずがなくて,「いよいよ広島も危ないぞ」いうことになってね。広島 がけっこう騒がしくなった。なんとなくざわざわしてきたんです。で,わたし 8月の5日に,町内の,家屋の立ち退き,疎開っていう勤労奉仕に駆り出さ れて,家潰したり,材木運んだりしてね。避難場所を作るっていう作業なんで すけど。作業が終わったときに,町内会長のご挨拶があったんです。「今日あ たり広島が危ないいう情報が入ってて,鉄道とか防諜のほうではそういう準備 してるんで,みなさんも気をつけてください」って。そんなん聞いても全然ぴ んとこなくてね,おばさんたちと帰りながら,「やっぱり,戦争しとっても,

スパイはおるんじゃね」みたいな。スパイがそんな情報を,こう,持ってくる んだと思ってたんです。そして,帰ってきて,警戒警報が鳴って,空襲警報が 鳴って,“今日こそが広島はやられる日じゃわぁ”思うてね,大事なもん持っ て,防空壕の中に逃げ込んで,待ってたんだけど,結局なんにもなかったんで

(7)

す。夜中ごろには,空襲警報が解除になって。そうやって8月の6日の朝を迎 えて,警戒警報解除という,太くて長(なぁが)いサイレンを合図に,わたした ちは普段の生活に戻ったんです。女の人の朝の一仕事ってありますよね,その 一仕事済ませて,8時すぎには一休みしてたんです。前の晩に,空襲〔への備 え〕でいくらも寝てなかったもんですから,いまから一眠りでもしようかなぁ とか思ってたときに,近所で――広大が近かったんで,けっこう下宿屋があっ たんですね――下宿屋を営んでたMさんっておばさんが,「お米の遅配,取り に行こう」って,誘いに来てくださったんですよ。当時は食べもんが全部配給 で,それも遅れ遅れになってて,その遅れた配給米取りに行こうって誘いに来 てくださったとき,わたしいまから寝よう思うときだったもんですから,ぜん ぶ武装解いてたんですね。おばさん,軒下に立たしといて,慌てて支度にかか ったんです。もんぺ履く前にトイレだけは済ましとこう思うて,トイレ飛び込 もうとしたときに,ラジオが,「広島県,警戒警報は解除になったけど,広島 上空を大型の1機が旋回中であるから,気をつけてください」って,そんな,

ラジオの放送があったんです,おばさんの声で。そんなん聞いても全然ぴんと こなくてね。いくら大型といえども1機ぐらいで爆撃に来るわけはないと思っ たし。それよりわたしは,人を待たしとることのほうが大事で,慌ててトイレ から飛び出してね,もんぺの前身頃(まえみごろ)を持って片足入れようとした ときに,家がぐらぐらと崩れ,そのまま家の下敷きになったんです。家の下敷 きになりながら,日ごろ聞いたことのない状態が起きたもんですから,何かが わからんで,そいでも爆弾かもしれん思うて,耳と目だけは,日ごろの訓練の 体勢はとったんですよ。「爆弾が落ちたら耳の鼓膜が破れたり目の玉が飛び出 したりするけぇ,目を押さえて,耳を押さえて,地面に伏せる」って,こんな 訓練いつもしてましたんで。家の下敷きになりながら,目と耳だけは塞いで,

そのまま家の下敷きになって,“うちだけかな,よそもかな。助けてもらわに ゃあ”思うてね,大きな声で,「助けてぇー!」いうて,怒鳴ったんですよ。

怒鳴った後,その声聞いた人が誰か助けに来てくれるかな思うて耳すましたん ですけど,僅かな時間だと思うんですけど,ものすごく静かな一時(いっとき)

があったんですね。静寂という言葉が当てはまるほど静かな一時(いっとき) あって,何回か叫んでるうちに,よそからも悲鳴が聞こえてきたんです。うち だけじゃない,よそもだっていうことで,自力で外へ出てきたんですよ。だけ ど,わたしいまでも,自分が外へどうやって出たんかっていうのは覚えてない のね。だから,火事場の馬鹿力みたいなのが作用して,外に出られたんだと思 ってるんですけど。そうやって外へ出てきたら,広島じゅうが真っ暗だったん です。暗さに目が慣れてきたら,目の届くかぎり全部家が潰れてて,もうあっ ちこっちから小さな火の手が上がってたんです。わたしが出てきて最初に見た のは,M のおばさん,わたしをお米買いに行こうって誘いにきてくれたおば さんが,真っ裸になって立ってたんです。おっぱいも全部だして。ほぃで,手 に皮膚のようなんが被ったような手でね,こう,顔を覆うようにして,びっく りした顔して,「熱かった!」言うて立っとられたんです。でも,そんとき,

血は流してるふうに見えなかったし,ちょっと暗かったけぇ,よう見えんかっ たんかもしれんのですけど,そのおばさんがそんな大変な怪我してると思わん かったんですよ。そんな頃にはもうすでにね,すっごい勢いで人が流れだした んです。

(8)

わたし,この話を〔するとき〕「李順徳(り・じゅんとく)」て名札つけとるで しょ。韓国人としての話をするいうたって,むつかしいですしね。だから,こ っちがいじめられたとか差別されたとか言わんでも,わたしの小さいときから そこまで話すことによって,それが全部入るでしょ。それで,わたし,山の飯 場の生活とか,飯場から飯場に移り住んだとか,結局は食べてこう思うたら廃 品回収しかなかったとか,そんなんは話のなかに全部入れて,こっちからなに か言わんでも,それで理解できると思いますしね。そこが,わたし,韓国人と しての話として,それを入れてるんです。

で,ものすごい勢いで人たちが薄暗いなかを流れ出したんですよ。ほしたら ね,M おばさんが裸で立ってたのに,人が流れ出したら人の流れに入って消 えてしまったんですね。おばさん逃げたんで,わたしも逃げたかったんだけど,

わたしは家の下敷きから出てきたもんですから,足になんにも履いてなくて,

地面が熱ぅて踏めなかったんですよ。で,つま先で立ったり,踵(かかと)で立 ったり,よろよろしたんじゃけど,これじゃあとうてい歩けそうもないと思っ たんで,わたしは,家の潰れたとこの板切れをとってきてね,足の裏ぐらい〔の 大きさ〕に板切れをぽきぽき折って,それを足の裏にひっつけて。もう,もん ぺは脱げてしもうてなかったですから,ワンピースが破れてぶらさがっとるの を引きちぎって,それで足の裏に板切れを結びつけて,どうにか熱さからはま ぬがれたんだけど。そんな状態で人の流れには入れなくてね。それこそ踏み潰 されそうな勢いだったもんですから,人の流れには入らんと,縁(へり)のほ うの,がらくたのとこをね,一歩一歩とその流れに沿って,西のほうに向かっ て逃げたんですけど。

逃げてる途中で,家の潰れたとこに畳が1枚引き出してあってね,そこへ褌 一丁(ふんどしいっちょう)のおじさんが,どろどろの血糊(ちのり)のなかで,声 も立てんで,のたうってたんですよ。ほしたら,その畳の縁(へり)で,お母 さんらしい人と娘さんらしい人がね,座って,流れてる人のほう向いて,なん とかしてもらえんだろうかぁみたいな顔して見てましたけど,あんなときって,

人の姿なんか見とめる人なんかいませんでしたしね。わたしもそのままそこを 見過ごして逃げたんですけど。逃げてる途中で今度は雨が降り出したんですよ。

雨が降り出したんで,わたしは一瞬心で,“ああ,雨が降ってくれたら火が燃 え広がらん。大事なもんが焼けんですむ”と思ったんですよ。ところが逃げて る人のなかから,おじさんの怒鳴り声がしたんです。「油が降りよるぞぉー!」

いう怒鳴り声がして。すぐその後から,「火が降るかわからんけん,気をつけ よぉー!」ていう声がしたのね。“油が降ってきて,火が降ってきたら,それ こそ自分が火だるまになるな”みたいな怖い思いしたんですけど,そういうこ とはなかったんですけど,逃げてる人の姿がだんだん黒くなっていったんです。

だから,わたしも黒くなったと思うんですけど,そんときの雨粒が,ちょうど 泥粒のような雨が降ってきたんですよ。だから,あれがいま〔言うところ〕の

「黒い雨」だと思ってるんですけど。そうやって逃げたんで,いくらも逃げら れなくて。こっから〔国道〕2号線のほうへ行ったとこに,観音橋いうのがあ るんですけどね,その観音橋の東詰めまで来たときに,もう,観音橋の西詰め はものすごく火の手が上がってたんで,あんな火の下くぐって逃げられそうも ないと思ったんで,観音橋の東詰めにやはりそういう避難場所が作ってあった んですよ。そこにとどまる人もいたんで,わたしもそこにとどまって1日を過

(9)

ごしたと思ってるんですけどね。広場といえども大した広場じゃないですから,

あたりがどんどん火の海になってくると,そこに立っておれんようなるんです。

熱うて。家の潰れたとこの板切れをとってきてね,電柱も全部倒れてるんで,

電線を引きちぎってきて,その板切れに結び付けて,川の下へ下ろして,その 板切れつかまえて,水ん中入って。入っとくんですけど,けっこう長(なご)

う入ってると,寒いんですよ。寒ぅなったら上へ出てきたり,熱ぅなったらま た川へ入ったりして,わたしは川ん中,出たり入ったりして,そこで1日を過 ごしたと思ってるんですけどね。

そういう避難場所には,たいてい防空壕いうのが作ってあって。当時は食べ 物ない時代だったんで,どんなすきまででも食べ物が植えてあったんですよ。

そこの防空壕にも南瓜(かぼちゃ)が植えてあったらしくて,葉っぱはもう被爆 と同時に散ってしもうて見当たりませんでしたけどね。1.5キロぐらいのとこ までわたし逃げてきていたんですよ。そんなんで,葉っぱはもう被爆と同時に 散ってしもうて見当たりませんでしたけど,その防空壕の屋根にね,このぐら いのちっちゃなかぼちゃが2つほど転がってたんですよ。ほしたら,その広場 に避難してた,2歳ぐらいの女の子連れた――わたしはおばあさんじゃと思っ てるんですけどね,子どもたちの前で話すときには,お母さんがね,そのかぼ ちゃを見つけて,取ってきて,潰れた家からお鍋とお味噌を出してきてね,そ のお鍋のへしゃがったのを石で叩いて伸ばして,そのかぼちゃを煮たんです。

煮て,わたしにも,一切れ,木切れに刺して,くださったのね。だけど,そん ときわたしは「ほしゅうない」って断ったんですよ。断っただけならよかった んですけど,わたし,心の中でそのお母さんの行動を非難してたんです。こん な大変なときに,よう,まぁ,食べ物なんか見つけてぇ,みたいに。お母さん が,自分がほしいけぇ,かぼちゃ取って煮たと思ったんです。ところが,ずう っと後になって,わたしも子ども生んで育てるようになったときに,そのこと が振り返れたんです。あんときの,あのお母さんがかぼちゃ取って煮たんは,

自分がほしいけぇじゃない。みんなも〔前の晩が〕空襲〔警報〕だったんで寝 てないんだと思うんですよ。だから〔朝になって〕子どもをしっかり寝せてた と思うんですね。で,なんも食べささんで,被爆して,そのまま抱えて逃げて きて,この子にいつになったら食べ物が与えられるかわからん,この子の命が 危ないという思いが,そのかぼちゃを見つけて取ってきて炊いて。そんな大事 なかぼちゃをね,自分たちだけで食べずに,わたしにも親切に一切れくださっ たのに,その人の親切を素直によう受けんでね,そんときのわたしのものの考 え方で,そのお母さんの行動を非難したっていうのが申し訳ないと思えたの。

あれは子どもの命を守るための行動だったんだぁっていうことに気がついて,

これもお詫びの思いを込めていつもお話ししてるんですけどね。

そうやって,夕方になって,「防空壕に入りましょう」っていう声がかかっ たんです。で,そこにいた人たちが防空壕の方向に移動し始めたんですけど。

当時は,馬とかが馬車車(ばしゃぐるま)いうのを牽(ひ)いて,荷物を運んでた 時代なんですね。馬はいなかったんだけど,そこの広場に馬車車が1台引き出 してあったんですよ。その荷車に,朝避難してきたときから,背中をもたせて,

両足投げ出してね,一日中こうやって座ってたんですよ,おばさんが。みんな が防空壕のほうへ移動し始めても,身動きもせんもんですから,おじさんの人 がそのおばさんの肩に,こう手をかけて,「ああ,もう死んどってじゃあ」っ

(10)

て言われたのね。それも,そんとき,わたしは不思議に思いました。人があん なふうに死ぬとは思えなかったんですよ。息の切れるときって,苦しみながら,

もがきながら,死ぬもんだと思ってたのに,そのおばさん,朝座ったまんまの 姿で,顔の表情も変えんとね,そのまま息絶えてたっていうのが。わたしらは 水の中入ったり出たりしたし,あのおばさんは身動きもせんと座ってたのに,

そのまま息絶えてたっていうのが,とっても不思議だったんですけど。そのお ばさんは着物もきちっと着てましたし,下駄もちゃんと履いてたんです。きれ ぇにちびた下駄,履いてあったんですよ。わたしはあの下駄,とても印象にあ るんですね。わたしらは下駄をあんなきれいにちびたことがない。横にちびた り,履ききらんまに折ったり割ったり。よく親に叱られたもんですよ。だけど,

そのおばさんの下駄は,桐の上等の下駄だった,いま思うとね。だけど,ぺっ ちゃんこにちびてるのに,履いてるんですよ。そんな,履物はいてたし,着物 もぴしっと着てた人がね,そのまま息絶えてたっていうのがね,わたしは人間 ってあんなふうに死ねるもんだろうかぁって,そう思いました。そうやってわ たしたちは防空壕で一晩を過ごして。

ああ,それまでにもう一つあるんだ。ほんとに,燃え盛っとる火の中から2 人の男の子がね,背が違うだけがわかるぐらいで,あと全然見分けがつかんよ うな2人の男の子が,火の中から,肩並べて,急ぐでもなくてね,とぼとぼと 出てきて,その2人の子どもの姿は,全身真っ裸で,真っ黒で,おちんちんも 全部出てて,そして,顔なんかもぱんっぱんに腫れててね,目なんかもつぶっ たような目してて,唇なんかでも腫れて,ひっくり返ったような状態。目が見 えんもんですから,上向いたような状態で,2人が肩並べて出てきてね。そし て,そこにいたおじさんになにか話しかけたんです。そしたらおじさんが,そ の子の口元まで耳近づけて聞いて,立ち上がって,西のほう指差して,「五日 市は,これをまっすぐ行け! これをまっすぐ行けよぉ!」言うたんですね。

そしたらその2人の子どもが,また肩並べて,とぼとぼと,橋を渡って,燃え 盛ってる火の中に消えてったんです。わたしいまでもあの2人の子どもが火の 中から出てきて,火の中に消えたと思ってるんですけど,その2人の子どもの 姿が全身真っ裸で,真っ黒で。黒い雨に打たれてね。おちんちんも全部出てて。

その2人の子どもの身についとんは,当時膝から下にね,ゲートルいうのが巻 いてあったんですよ。で,そのゲートルが巻いてあるのと,そこに自分の履い てあったズボンの切れ端(こんなん)23つぶら下がってて。足元は,軍隊 の靴のような革靴履いてたんですよ。革靴履いてたということは〔旧制の〕中 学生なんです。当時は,小学校の子だけが,田舎のほうに疎開さしたり,安全 なとこへ移動さしてあったんですけど,中学生以上は,お国の一大事。お勉強 じゃなかったんです。ぜんぶ勤労奉仕に駆り出されてね,朝の815分てい う時間帯がだいたい集合場所に着くか着かんかぐらいで,被爆して。真っ裸い うのは,丸焼けになってたんですよ。だけど,そんとき,わたしそれがわかん なかったんですよ。全身火傷したのに,それでもまだね,生きるために,燃え 盛っとる火の中を避難場所求めて出てきて,そこにいたおじさんに言われるま まに,また火の中に消えていったんですけど。全然感覚がなくなってたんだと 思うんですよ。そういう子どもを,言われるままに行かしてしもうたその大人 も,普通にものが考えられんようになっとったと思うのね。普通なら,わたし らがその広場におるわけですから,「あんたらもここへわしらと一緒におりん

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さい」言うて,引き止めてあげるんが普通じゃと思えるのに,そういう子ども をそのまま行かしてしもうたっていうのが,大人ももう正常にものが考えられ んようになっとったんじゃろうって,いま頃そう思うんですけど。

そうやって,わたしたちは防空壕で一晩を過ごして,夜が明けて,あらかた 火も鎮(しず)まって,それぞれに自分の住んでた家のほうに向かって帰って 行ったんですけど。そこまで逃げて,〔市の〕中心のほう見たときに,ほんと に火の海でしたから,あんな火の中に人がいると思えなかったんですよ。とこ ろが,わたしの住んでた近くの,明治橋いうのがあったんですけど,その明治 橋の上まで来ましたら,明治橋の上は地獄としか言いようのない姿があったん ですね。1人,人が通れるぐらいの隙間だけが空けてあって,あと,ぎっしり と,真っ裸の人たちがずらりと寝せられてて。その人たちがまだ息があって,

目つむったまま,「兵隊さん,水ください」とか,「助けてください」とか,「お 母さーん」とか,「熱いよ」「苦しいよ」って,それぞれに呻き声あげてたんで す。ほしたら,通りかかった人がね,水ほしがってる声を聞いて,「水ほしが りよるがのう,水あげりゃあどうかぁのう」とかいう声もしたのね。ところが,

それを止める声もしたんです。「水あげたら,いけんどー! 水あげたら,死ぬ るどー!」言われて,誰もお水あげることをしなかったんですけどね。わたし はいまでも,あの人たち絶対に生きてると思えないし,どうせ死ぬんならね,

最後にお水あげればよかったっていう,そんな思いはありますね。人によって はね,「水飲ましたら死ぬるいうのは,そんな人もおったかもしれんけど,わ しゃあ,水飲ましてもろうたけぇ,いま生きとるんじゃと思うとるでぇ」って いう人もいるんですよ。だからどっちがねぇ,そんときのその人に幸いだった かわかんないんですけど。

そうやってわたしは明治橋を渡って……。当時の大手町5丁目のね,〔町内 会の〕副会長さん親子3人,無傷だったんです。無傷だったために,副会長と いう責任を果たそうとして,防空壕で寝泊りしながら,りんご箱1つ据えて,

町内のお世話をしとられたんです。そこへ行ってわたしも,帰ってきたことを 報告して,そっから,約10キロあまりの郊外,矢野いうとこに親がおりまし たんで,そこに帰りますいうことを報告して帰ろうとしたときに,そこに焼け た瓦が2枚ぐらい,こう並べてあってね,その焼けた瓦1枚に,「町内の死亡 者」って書いてあったんですよ。そんなかに,わたしをお米買いに行こうって 誘いに来てくれたおばさんの名前があったんです。わたしびっくりしてね,わ たしより先に逃げたから,死んでるとは思えなかったんで,すぐ副会長さんと こ引き帰して,「M のおばさんは死んでません! わたしより先に五日市のほ うに逃げたんですよ!」言うてから報告したら,「避難先で,昨日の夕方の 6 時頃に亡くなりました」って言われたんですよ。それが,昨日いうのがね,〔原 爆が落ちてから〕何日経った昨日だったかわかんないんです。わたしは,そん とき,「昨日」言うたんで,前の日の昨日じゃと思ってたんですよ。ところが,

いま考えたら,違うんですね。親は,〔おまえを〕何日も捜して歩いたし,見 つからんけん,しまいには遺体をいっぱいひっくり返して見た」って言うんで すよ。だから,〔原爆が落ちた〕その明くる日でなかったかもしれんのです,

わたしが町内に帰ってきたのはね。

そうやってわたしは家路に着いたんですけど,家に帰るアスファルトの道端 にはね,やっぱりそういう人たちがずらりと,真っ裸な人たちよ。全身,服の

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きれっぱしも付いてないような人たちが全部,それはお医者さんがね,きれい に皮膚を剥ぎとってあったんかもわからんのんですけどね,ぶらさがってるよ うなのをね。その真っ裸な人たちがずらりと寝せられて。ほぃで,火傷の薬が 入った一斗缶にね,針金をこう通して,そこ棒通して,前と後ろに看護婦さん が担いで,移動しながら,道端に寝せられてる人に薬を塗ってくんですけど。

頭の先から足の先までね,全身真っ白に塗るんです。そして,目とか口とかこ のへんがちょっと赤いのが残ってるぐらいで,全身真っ白に塗った人を,今度 は,リヤカーが来てね,どっかに積んで運んでましたけど。わたしは当時の人 の姿を思い浮かべるときにね,真っ黒だったっていうのと,真っ裸だったって いうのと,治療された人が真っ白に塗られてどっかに運ばれてったって,こん なふうにしかわたしのなかから出てこないんですね。〔原爆〕資料館ができた ときに,資料館見に行ったときに,ぼろの服でも身についとったんですよ。穴 はぽこぽこあいてるんだけど,着物ちゃんと着てたんですよ,もんぺを履いて たんですよ。で,指のほうに皮膚がこう,ぐわぁっと被っとったんだけど,で も,そのお人形さん見た瞬間,“ああ,この子,ぼろの服でも身についとるい うことは,中の皮膚が助かってる”と,こういう見方をしたんですよ。だから,

あんな姿はわたしのなかからは出てきません。

そうやって,広島の駅前のほうに向かって帰って行ったんですけど。広島の 駅前のほうはね,家は潰れてるんだけど,水がかけられて,燃え残ったとこが あって,そこらへんがもう水浸しだったんですよ。その水溜まりの中に幼い男 の子が1人転がされててね,その子がまだ生きてて,ぶつぶつ言ってたんです よ,水溜まりの中で。小さい子だったんで,“かわいそうに”っていう思いが あって,かごんでから,“なに言いよるんじゃろうか”思うて聞いたのね。ほ したら,あんな幼い子が,恨み言をずうーっと続けて言いよるわけね。わたし も家の下敷きになったとき“自分だけかぁ”思うて助けを求めたっていうのが あったんで,この子も自分だけがこんなひどい目におうとるのに,大人たちが 誰も助けに来てくれんいうて恨み言を言いよる思うたけん,「あんただけじゃ ないんよ。いま,広島中が大変なんよ。もうちょっと辛抱しときんさい。誰か が来てくれてじゃけん」って,そんなことを言いおいて,その場から離れて,

わたしは家に帰ったと思ってるんですけど。親たちは「明くる日には帰ってき とらせんし,何日も探して歩いたし,見つからんけん,しまいにはいっぱい遺 体をひっくり返して見た」言うんですよ。でも,そんなん全然覚えてないし,

ある日の夕方,近所のひとが,わたしをリヤカーに乗せて,「青山さん,あん たがたの娘さんですか?」って,わざわざ連れて帰ってくれた言うんですよ。

だけどわたし,人にリヤカーに乗せられたとか,そんなんは覚えてないんです よ。だから,ほんとに覚えてることをお話しして……。こんなふうにしか言え ないんですね。じゃけぇ,これで役に立つんじゃろうかって思いをいつもして ましたけど。「それでいい」言われるんで,もう,わたしもこのごろは断るこ とをせずにね,〔頼まれれば,被爆体験の語りに〕行きよるんですけど。

そうやっていったん帰って,親たちが地理に疎い人で,〔親の代わりに〕親 戚を捜すっていう行動があってね,ある収容先を訪ねたんです。そしたら,収 容先に着いて,入り口のドア開けて入っていったら,入り口の近くに寝せられ てたおばさんがね,わたしを見るなり,「ちょっとちょっと」って呼ぶんです よ。そばに行ったら,わたしに割り箸をくれて,背中向けて,背中にかけてあ

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る新聞とってね,「そこに這いよるもんがおったら取ってくれ。かゆうてたま らんのんじゃ」言うてんです。背中向けられて,新聞はずしたら,背中一面,

真っ黄色に腐ってるんです。そこに,虫が,這ってるんじゃないんですよ,生 きてる人間の体に,虫が住みついてて。姿は見えんのじゃけど。膿(うみ) 表面がごちゃごちゃと動いとるとこめがけて,こう,割り箸でつまんで引き抜 いたらね,ほんとに,竹の割り箸ぐらい,よく肥えて,3センチもそれ以上あ るような蛆虫(うじむし)が取れるんですよ。それを,抜き取ってね,かけてあ った新聞を,少ぅし,このぐらい切って,半分ほど床に置いて,そこへ虫を置 いて,後の半分で上から押さえつけて。当時,藁草履(わらぞうり)履いてたん ですね。ほで,その藁草履の足で踏んづけては取り,踏んづけては取りしてあ げたんですけど。わたし,いまでも,藁草履の下で虫の潰れる感触とか,虫を 抜き取った後の,ぽかっと空いた穴にね,膿がだんだん流れ込んで,穴を埋め てったとか,そんなん,いまでも忘れられないんです。でも,このおばさんは 生きてるんじゃないかっていう思いがあるんですね。あのおばさんは,あんな 状態で,ちゃんと生きるための行動をとってましたし,意識もちゃんとしてる から,「痒(かい)い」いう言葉を訴えられたと思うんで。いまでもケロイドの 状態で生きてる人に会うとね,“あんときのあのおばさんも,こうやって生き てるかもしれんなぁ”って,そんな思いがあるんですよ。

そうやって,あの,広島って,川のたくさんある町なんですけど,川の中の 遺体は最後ごろに処理されたんですよ。大通りとか,あんなとこ早う片付けら れたんだけど,川の中の遺体は最後ごろにね。それを,星のマークのついてな い軍服着た,軍属の兵隊さんがね,筏(いかだ)に乗って,青い竹の先に,こう,

ひっかけるもんが付いた竿でね。あの,いま頃,竹藪(たけやぶ)に行くと青い 竹が伸びとるでしょ。あんとき,ちょうど8月なんでね,ここらの,竹の長い のを切って,それで,ああやって,使(つこ)たんじゃろうとか,青い竹見た ら,そんときの竿を思い出してしまうんですけどね。そうやって,遺体を引き 寄せて,戸板に乗せて,4人の人が担いで,上へ連れてって上がってね。上で は,焼け跡がずうっと整理してあってね,そこに人が入るぐらいの壕(ごう)

2本ぐらい掘ってあって,そこに遺体を並べるんです。そしてその上から僅 かな薪を置いて,一斗缶で油を撒いて,次から次,火をつけて燃やして。その 燃やした骨を,掌(てのひら)に乗るぐらいの僅かな骨をね,焼けた瓦に乗せて。

そこにはね,「性別,男子」とか,「身長どれくらい」とか,「年齢どれくらい」

とか,そんなんが書かれた骨がね,瓦に乗せて。そこの広場には,見渡す限り っていうほどね,ずうーっと瓦に乗せられた骨が並べてあって。そしてそれを,

身内を捜す人たちが,見つからんかった人たちが,そこへ来て,その骨を見て まわるんですけど,もうみな燃やしてしもうてね,僅かな骨で,これが自分が 探してる骨じゃってわかりようがないでしょ。そこをもうひとつ,忘れられな い姿があるんだけど,たぶん,お父さんとお母さんじゃろう思うんですけど,

何日も子ども捜して歩いて,見つからんで,そこへ来て,瓦に乗せてある骨を 見てまわってたんですけど,お母さんはその時点でもう諦めてしもうて,お父 さんに一生懸命言ってたんですよ。「どれでもええけん,ひとつ,もろうて帰 って,祀ろうやぁ」言うてね。「うちの子も,誰かが持って帰って祀ってくれ てじゃろうけん,どれでもええけん,ひとつもろうて帰って,祀ろう」って,

お母さん一生懸命お父さんに言ってたんだけど,お父さんは手後ろに組んだま

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ま,目線は瓦から離れませんでしたけどね。お母さんにいくら言われても,首 を振りながら,その場からいなくなったんですけど。

わたしも被爆後,ずいぶん後遺症に苦しみましたけどね。よく,下痢をした とか,そんな話があるんですけど,〔なぜかわたしは下痢はしなかった。〕わた し,どうしても原因を覚えてないんですよ。ていうのは,わたし,ものを食べ てないんだと思うんですね。食べんかったけぇ,よかったんじゃ,と思うんで す。水飲んだ記憶もないし。おむすびを――「五日市町役場」いうて幟(のぼ り)を立てて,トラックが救援物資積んで,広島市内に入って来たのに,その,

わたしを見とめてね,呼んだんですよ。そばに行ったら,わたしにおむすびく ださったんですよ。おむすびなんて,お目にかかれる時代じゃないでしょ。な のに,そのおむすびをもろうたいうのは,確かに覚えとるんだけど,そんとき の感情がなんにもないんです。嬉しい,とか,あ,おいしそう,とか,なんか ありそうなもんでしょ。なんにもないんです。ただ,もろうたっていうことだ けはあって,それを食べたのかどうしたのかも覚えてないんです。それをもろ うたとこが,観音橋の東詰めから動いとる――ひとつのわたしの記憶の中に,

それしかないんです――青い草の生えてるとこで,焼け跡じゃない,そういう とこで。そこまでわたしが行っとったいうことでしょ。青い草の生えたとこま で。ということは,観音橋から動いたなぁいう,自分で思い出せる部分はそれ しかないんですよ。何日もどこをうろついたんかっていうのは覚えてないんで すよ。だけど,おむすびもろうたとこだけは,青い草の生えてたとこだったな ぁって。あれを食べたかどうかは全然覚えてないんですよ。日本手ぬぐいいう の持っとったんですけどね。そんときに,海苔もなんにも付いてないおむすび だったと思うのに,それを手ぬぐいの端っこに結びつけたっていうのは覚えと る。それ,なんで,食べずに,ご飯粒が付くのに手ぬぐいに包んだんじゃろう か。その結んだのは覚えとるんですよ,自分で。じゃけぇ,それを食べたかど うかいうのは全然覚えてない。食べたっていう記憶がない。もろうたいうのだ けは覚えとるのに。食べんかったけぇよかったんかなって思うんですよ。かぼ ちゃも,あげる言うてもいらん言うたしね。それで,水を飲んだか……,どっ かで,喉かわいたけん,あんとき,お水ほしかったとかなんかがありそうなの に,それが一切ないんです。食べんかったけぇ,下痢がなかったんかなぁって いうふうに思うんだけど。

わたしの場合は,生理のような出血がずうっと続いたんですよ。1ヵ月ぐら い続いて。4,5日おさまったか思うたら,また続いてんが3ヵ月か4ヵ月ぐ らいあったんです。ほぃで,そんとき,いまみたいに,生理用品ってなかった でしょ。ぼろじゃったけんね。そのぼろをね,洗うて干しても乾かんのですよ。

9月からどんどん雨が降り出したんですよ。長雨だったんですよ。ほぃで,昔 は石鹸もなかったですからね。石鹸もなくて,きれいに洗いきらんかったんが 干してあると,ものすごい臭うんで,家も狭い家ですからね,干すとこがない。

とても困ったんですよ。そしたら,子育ての終わった人がね,浴衣とかあんな んで,昔,おしめで,オムツだったですから,それをきれいに畳んでしもうと るのを持ってきてくれて。ほんで,助けられたんですけどね。あんときのあの,

わたしらが使(つこ)うとるもの,雑巾みたいなね,ぼろでしたから。ぼろも,

そうないじゃないですか,あのころ何にもない時代じゃけん。それが何ヵ月も 続いて。それがいちばん思い出にあるね。困ったいうのが。洗うても干せんし。

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