『日本アジア研究』第12号(2015年3月)
違憲国賠訴訟を闘いぬいて
――あるハンセン病回復者聞き取り――
福岡安則*・黒坂愛衣**
ハンセン病療養所から社会復帰して生きる60代男性のライフストーリー。
竪山勲(たてやま・いさお)さんは,1948 年,鹿児島県生まれ。ハンセン病で あった母は,1960年,自宅で死亡。1962年,中学2年のときに,星塚敬愛園 に収容される。ハンセン病療養所入所者のために瀬戸内海の長島愛生園に作 られた4年制の高校,新良田教室を3年で中退,敬愛園に戻る。20歳のとき 脱走。東京で暮らすが,病気が騒いで多磨全生園に再入所。1975 年,敬愛園 に送り返される。1998年,「らい予防法違憲国賠訴訟」の第1次原告のひと りとして,国を相手取った闘いに立ち上がる。裁判に勝利したあと,2004年,
社会復帰。同年,衆院補欠選挙に民主党から立候補するも落選。2011年1月 の聞き取り時点で,62 歳。「ハンセン病違憲国賠訴訟全国原告団協議会」事 務局長。聞き手は,福岡安則,黒坂愛衣,北田有希。
竪山さんは,みずから「群れをなすのは好かん。おれは一匹狼」と語るが,
同時に,不条理を見抜く眼力の鋭さは天下一品。竪山さんを抜きには,あの
「らい予防法違憲国賠訴訟」は,ああは展開しなかったことは間違いない。
聞き手として,竪山さんの話を聞けてほんとによかったと思えることが,2 点ある。ひとつは,国に謝罪と賠償を求めるハンセン病訴訟が星塚敬愛園で 始まったのは,田中民市さんが園内放送で園内の入所者に呼びかけ,島比呂 志さんが手紙を書いて法曹界に訴えかけ,そして,竪山勲さんが放送界に訴 えかけたという,それぞれ独自の 3 つの動きが一つに合流することによる,
という話である。また,KKさんのハンストに言及しつつ,一人ひとりの命を 懸けた闘いが勝利をもたらしたのであり,「ハンセン病裁判にヒーローは要 らん」と言い切った竪山さんの言葉に,わたしたちはなるほどと得心した。
いまひとつは,竪山さんは,聞き取りの冒頭で「自分には差し障りになる ような個人情報はなにもない」と述べ,じっさいに,東京での「逃亡者のご とき」生活ぶり,多磨全生園に再入所せざるをえなかった経緯,さらには,
全生園から敬愛園に強制的に送り返された顛末まで,みずからのライフスト ーリーを率直に語ってくれた。竪山さん自身は,“自分はいつも道の真ん中を 歩いてきた。しかし,跳ねっ返りと言われるようになっていた”と語るが,
彼の人生のそれぞれの局面を規定づけていたものが強制隔離政策の「らい予 防法」体制であったことは,彼の語りから明らかであろう。
なお,〔 〕は聞き手による補筆である。
キーワード:ハンセン病,違憲国賠訴訟,ライフストーリー
* ふくおか・やすのり,埼玉大学名誉教授,社会学
** くろさか・あい,東北学院大学准教授,社会学
本稿はJSPS KAKENHI Grant Number 22330144,25285145の助成を受けた研究成果の 一部である。
MBCテレビの「人間として」
鹿児島っていうところが〔全国の他のところと〕ちょこっと違ってるのは何 かといったら,南日本放送テレビが訴訟前から,法律の廃止後から,ずうっと 入りこんで,このハンセン病問題を取り上げたんですよ。マスコミではいちば ん先に動いた。そこの陶山賢治(すやま・けんじ)っていうのと,新名主聡(しん みょうず・さとる),そういう連中が園内に入り込んだりして,特集を組んでいっ た。それで,「人間として」っていう〔特集番組で〕2001年にテレビの数々の 賞を取った1。それと,鹿児島テレビの野本記者。こういうひとたちがいて,
ハンセン病問題が世に問われて。そのひとたちも原告と同じように差別を受け たんや,園内で。もう大変な思いして取材,やったんです。そのひとたちがね,
ほんとにがんばってくれたよな。だから,その「人間として」という番組(も の)は,ぜひ観たほうがいい。これ観らンな,ハンセン病問題を語る資格はな いっちゅうぐらい。最初からなんですよ,〔1996 年に〕「らい予防法」が廃止 されたとたんにやってるから。そこに,どういうかたちで「らい予防法違憲国 賠訴訟」がスタートを切ったかというのがね,最初のときから出てる。上野正 子なんかが〔後遺症の残る〕手を隠して,うしろに腕を組んで,顔も見せんで っていうところから始まりますから。まだ原告団結成する以前,そういう時代 からのものなんですよ。島比呂志(しま・ひろし)もそこにはおるし。そういう 原点がそこにはあります。
おふくろもハンセン病だった/おれも堕胎の対象だったろう
〔前置きはそれぐらいにして,個人的なことを聞きたいと? 何を聞いてもい いですよ。〕差し障りはなんにもない,おれは。個人情報がないひとやから。
1948 年,〔鹿児島県伊佐郡〕大口(おおくち)〔の生まれ〕。〔親の仕事は〕農 業と博労(ばくろう)。農家はもう,どん百姓ですよ。博労は儲かった。腹巻の なかにカネがバラバラって入っとかンなぁ,博労って商売はできんですよ。カ ネを見たら,みんな欲しくなるが。目の前におカネ出されたら〔牛でも馬でも〕
売りたくなるがな。だから,見せガネだけでも持っとかにゃいかんです。〔親 父は〕そら,伊佐郡はぜんぶ回ったでしょ,自転車で。当時は自転車しかない から。毎晩,酔っぱらって帰ってくる。飲まないと商売にならない。おたがい に飲みながら,ワイワイ言いながら話をつけていくわけですよ。商談が成立す ればまた,そこで飲む。
〔おれが生まれた〕1948 年っていったら,食べ物があまりないころですよ。
〔うちには博労の〕仕事に使うおカネはあっても,贅沢するおカネはない。そ の当時の,ものすごくいい牛っていうのは,6万〔円〕ですよ。そういう牛を 売買するぐらいのおカネはあった。だけど,われわれが食うおカネはそうなか ったような気がするな。貧乏やったな。
おれ,5人きょうだいの末っ子だから,それはもう,養うのも大変じゃった だろうと思う。だから,〔おれは〕飯食うの,速いですよ。2 分あったら飯食
1 陶山賢治は,南日本放送(MBCテレビ)で土曜日夕方のローカルニュース番組「時 の風」を担当していた。そして,2001年の「人間として――ハンセン病訴訟原告たち の闘い」は,「日本民間放送連盟賞テレビ報道部門全国最優秀賞」「日本ジャーナリス ト会議賞」を受賞した。
うよ。それで,「ゆっくり食べたら」って。「ゆっくりしておれんとじゃ,おれ は」。ゆっくり食いおったら,なくなるんだから。ちっちゃいわけじゃが。ち っちゃければ,食い方も,なかなか思うようにいかんが。で,よく,〔母〕親 はこうしてね,椀に取ってくれよったですよ,先に。ありがたいことに。
兄姉(きょうだい)たちも大きくなっていけば,大阪に出て行ったりとか,宮 崎に行ったりとかって,都会へ出ていく。最後にはおれとおふくろと親父って いうような生活ですね。おふくろはハンセン病になってた。おれがもの心つい たころには手足が曲がってた。おれを宿してるころから悪かったんじゃないか なぁ。おれは,おそらくね,堕胎の対象だっただろうと思うな,〔おふくろが〕
そのころに療養所へ連れてこられておればな2。だから,おれは,おふくろが ね,あんだけ手足が曲がって,顔が崩れてるのに,よぉ,隔離されンやったな と思ってるんですよ。強制隔離があったわけだから。で,隔離される直前に死 んだ。わたしが11歳のとき。昭和35年です。
〔それまで収容されなかったのは〕隠しに隠して。うちのおふくろは,表に は出さなかったんですよ。田舎はね,縁側があるんですが,縁側の奥のほうに,
外(こっち)から見えないようにして囲ってたんですよ。子ども心に,それは,
異様な感じだったね。それで,だれかが来ても,おふくろは出てこないわけで すよ。だけど,隣近所はうすうすは知ってたと思うがな。〔それで〕強制隔離 の対象になったわけですよ,最後のころね。隠しきれない状況あったからね。
顔やら手がどうにもなってなかったらいいけれども,顔が崩れてきよったから ね。だから,よぉ,あんときまでおれたなって,おれはそう思ったね,ぎゃく にね。よっぽどうまいこと隠したんだろうなと思いますよ。
村一番の美女っていわれるぐらいのおふくろだったらしいんですよ。それを 嫁にもらったわけですよ,うちの親父は。もう,ほんとに大事にしたですよ,
〔病気に〕なっても。自分のうちで死なしたいという思いがあったんだと思う んですよ。だから,ハンセン病の治療も受けられないままに,痰が喉にからん で死んでいった。苦しみだしたんで医者〔を呼び〕に行ったんですよ。そした ら帰って来ンのじゃが,〔医者を呼びに行った〕親父が。なんで帰って来ンの やろうと思ったが,医者が来ンわけですよ。ハンセン病はハンセン病の療養所 でしか治療できないわけですから。それで親父がやっと,拝み倒して連れてき たときは,もう,わたしの目の前で息を引き取った後じゃった。
〔おふくろが〕痰が喉にからんで苦しみだして,親父はあわてて自転車漕い でね,町医者まで行ったわけですよ。しばらくして,もう死んでから帰ってき た。で,医者が脈を取って,「ご臨終です」って言っただけですよ。そういう 意味では,開放医療であったらね,うちのおふくろは死なないですんだ命やっ ただろうなと,わたしはいつもそう思っとるですよ。昭和35年つったらね,
もう隔離する必要なかったわけじゃから。だって,明治時代から,ハンセン病
2 ここでの竪山勲さんの語りが単なる杞憂ではないことを裏付ける聞き取りがある。
1923年生まれの女性HTさんは,19歳のとき,星塚敬愛園に入所。園内で結婚し,妊 娠9ヵ月目のとき,夫婦で逃走,故郷の種子島の実家へ戻り,男子を産んだ。1946 年のことである。家族の力を借りて,種子島での親子3人の生活を営む。しかし3年 後の1949年,強制収容にあい,親子3人は敬愛園に連れてこられる。このときHT さんは妊娠7ヵ月目だったが,強制的に堕胎させられた。
というのは感染力は弱い病気だってわかっていたわけだからな。だから,隔離 政策でなくって,社会に開かれた医療政策を取っとけばね,おふくろの命は死 なないですんだ命やった。ある意味では「らい予防法」に殺された命だ,と言 ってもわたしは過言じゃないと思ってます。
あの「隔離」っていう言葉から何思うかっていったら,これはもう「怖い」
っていうことになっちゃう。隔離されたら,社会復帰は難しいですよ。なかな かできんよ,これ。隔離の履歴があるちゅうことだけでも,大変なことですが。
田舎なんか特にな。
〔おふくろの葬式は〕普通にした。したんだけど,なんちゅうのかな,ムラ のひとたちも,なかなか来たがらないというのかな。来ても,サッと帰るとい う感じですよ。〔当時は〕土葬だったんだけど,うちの兄貴が大阪から帰って きて,火葬にしたんです。「これ,土葬じゃいかんじゃろう」っちことで。隣 近所のことも考えにゃいかんということでね,火葬にしたと思うんです。ムラ じゃ初めてですよ。――「火葬に行ってくる」ちゅうのは聞いてる。おれも行 こうとしたら,連れていかんわけですよ。「おまえは行かんほうがいい」ちゅ うことで,わたしだけ残ったんですよ。
〔おふくろが亡くなったのは〕53〔歳〕くらいじゃないですか。わたしはも う,最後までおっぱい放さなかった男。末っ子だから。学校から帰ってきたら,
ランドセル置いて,おふくろのおっぱいがおやつだったんですよ。それから,
赤胴鈴之助しに行ったんです。お母さんのおっぱい吸ってからね,チャンバラ しに行くんですよ。もう,そんなンで,乳離れが遅い子でね。それ,いちばん 末っ子の特権じゃろうな。だけど,やっぱり,そういうなかで母子感染ってい うのがあったんだろうな。
隔離と同時に名前を奪われて
〔わたし自身に症状が出はじめたのは〕小学校時代です。小学校の4,5年の ころから,なんかこう,腕が痛いなとかね。野球なんか,子どもやからやるわ けやから,「野球のやりすぎじゃないか」って言うて,よく怒られたんですよ。
それがハンセン病に起因する手の神経痛だったんですよね,いまで考えれば。
おれは足が速かったんですよ。めちゃくちゃ足が速くて,学校で運動会のあ るたんびに,とにかく走りさえすれば一番だった。ドーンって鳴って,で,親 の顔を見て,親に手を振ってから,いちばん最後からバーッと走っていって,
追い抜くんですよ。それぐらい足が速かった。だんだんだんだん,5 年生,6 年生,中学校1年生,中学校2年生ってなっていくにしたがって,友達のね,
関係がね,なんかおかしいんですよ。おれじゃなくして,おふくろのことだっ たんじゃないかなって思う。「あっこに遊びに行くな」とか,そういうのがあ ったんじゃないかと思うんですよね。うちにはあんまり来なかったですからね,
みんながね。
おれは,おふくろが「らい」だっていうことを知らんわけですよ。で,なん て思ってたかつったら,ほら,昔やったから,田植えなんかして,蛭(ひる)
が噛みついたりするじゃないですか。「そっからバイ菌が入って,こうなって るんだ」とおれは聞いてた。「らい」という言葉を知らんわけですよ。敬愛園 に来るまで,「らい病」「ハンセン病」って知らんとですよ。敬愛園(ここ)に 来るときも,〔病名を〕告げられないままに連れてこられたンやから。
勉強は,わたしはできたですよ,中学校2年生までは。昭和23年〔生まれ〕
ちゅうのは,団塊の世代で,いちばんベビーブームなんです。で,〔わたしの 学年は〕11 クラスできてしもうて,そのかわり,英語と数学は A,B,C,D というランクを付けたんですよ。かならず A におったんです,わたしは。そ れぐらい,また,勉強はおもしろかったんです。わたしの夢は,法廷(あっこ)
で証言でも言うたけども,「大口高校を出て,東大に行くのが夢だった」。東大 しか大学は知らんですよ。なんでかっつったら,1人だけムラにね,東大に行 ったひとがおったんです。神童って言われてな。「ヨシッ,おれも東大に行こ う」ということしか考えなかったですよ。わたし,一回も親に「勉強しろ」と 言われたことがない。普通の親はなんか言うんだろうけれども。そのかわり,
勉強したんです,自分で。言われんから,したです。帰ってきたら,とにかく 予習復習してね。
それで,中学校2年生でハンセンの療養所に入ったとたんに,ウワァと思っ てね。「らい病」っていうことを知り,もう前途がないことを知り,勉強した ってバカバカしいっていう思いですよね。同級生が3人しかいなくて。3回に いっぺんは当たる。昼寝してても,わたし,答えられたですよ。「どうして,
おまえ,わかる?」「それ,習った。先やってください」と,おれは生意気な こと言ったんですよ。それで,おれの通知表を見て,「これ,ほんとに,おま えの通知表か?」先生が言うわけよ。なんでかつったら,おれは「田中勲」に 名前を変えられてるから。隔離と同時にね。昭和37年の9月5日,強制隔離 したその日に,おれは名前を奪われちゃったわけです。〔事務〕別館というと ころに連れて行かれて,「おまえの名前は何にするか?」って言われて。「名前 はタテヤマですが」「おまえがタテヤマだちゅうのはわかっとるが。おまえが ここに来たら,親きょうだい親戚縁者がみんな困るんだから,名前を変えにゃ あいかん」「なんで変えにゃいかんですか?」「ここは,そうなっとるんじゃ」
「なんて変えればいいんですか?」ちょうどそこに田中ちゅう印鑑があった。
「ここに田中ちゅう印鑑があるから,きょうからおまえは田中にしろ」つって,
その印鑑をポンと渡されたんですよ。こんだ,紙っきれが前に置かれてね。「な んですか,これ?」「遺体解剖承諾書だ」「えっ? 何,それ?」って聞いたら,
面倒くさそうな顔してね,「おまえが死んだあと,遺体を解剖してもよろしい ていう承諾書だ。それに署名して,捺印して,こっちへ渡せばいい」。ことも なげに言うわけですよ。それは怖かったね,中学校2年生やから。それが隔離 の第1日目ですよ。
校長から「そのまま帰りなさい」と言われて
〔隔離に至る経緯? 中学2年の夏休み明けの〕9月の1日の日に,わたしは 学校に行った。そしたら校長室に呼ばれた。「竪山勲,校長室に来い」。校長室,
行ったことない。なんじゃろうなと思ってね,行ったんですよ。そうしたら,
大平(おおだいら)校長先生が,窓の〔際,デスクの〕向こう側におって,「竪 山,おまえ,体,きつくないか?」そのころほら,ハンセン病の初期症状,神 経痛があったり熱こぶが出たりしておったもんだから,きつかったんですよ,
体が。眠たかったし。「きついです」って言ったら,「もう帰っていい」って言 うんですよ。「いやぁ,中間テストも始まるんで,勉強さしてください」「いや,
もう,帰って休みなさい」。先生の顔みたら,青白いんですよ。マントヒヒと
いうあだ名の先生だったんですよ,赤ら顔で。そのひとが顔面蒼白だった。こ れはもう,なに言ってもムリやなと思ったんで,「それじゃ,帰ります。じゃ,
教室に帰って……」「いやいや,行かんでいい。そのまま帰れ」「あのぅ,ノー トや本があるんで」「それ,そのまま置いといて帰れ」。こっちはわからんわけ ですよ。とにかく帰れ,ですから。で,校長先生の命令だから,しょうがない から帰った,そのままね。
しかし,おれは怖かった,親父がね。ものすごい怖い親父やったから。こら 困ったな,親父になんて言えばいいんじゃろうと思ってね,言い訳を。もうそ ればっかり考えて帰ったですよ。帰ったら,親父が豚を世話しよった。「とう ちゃん,校長先生が帰れつったから,帰ってきた」って言ったら,親父はわた しの顔を見なかったですよ。いつも「なにぃ!」って言う親父がね。気性の激 しい親父で,暴れ馬でも自分で止めるぐらいの親父だったんですよ。その親父 がなんも言わん。それが,9月1日。
そして9月3日の日に,敬愛園の医務課長が来たんです。来て,わたしの顔 を見た。――そのときは医務課長ってわからんですよ。敬愛園に行ってからわ かった。――そのまま,なんも言わんで帰ったんですよ。で,4日の日に,県 から来て,親父に話をして3。その4日の晩に,親父が,「イサオな,鹿屋まで 行ってこい」と。親父に「何しに行くの?」とか「なんで行かにゃいかんの?」
とか,そういうこと聞けないんですよ。親父の顔みたら,とてもじゃないけど,
聞けるような顔じゃないんですよ。なんにもわかってないんだけど,もう親父 がそう言うんだったら,「わかった」。それで,9月5日の早朝に,県差し向け のタクシーが,うちから1キロぐらい離れた県道に停められてたんですよ。う ちのそばまでは来ない。〔地元の〕大口のタクシーは使わんで,鹿児島のほう からタクシーを持ってきた。あとのことを考えたんでしょうね。わたしを守る ためでなくして,タクシー業者を守るためですよ。大口のタクシーを使ったら,
それ,誰も使わんごとなるが。らい病患者が乗ったちゅうことが……。あとか ら考えればね。
1キロ離れたところへまで,わたしは歩かされるわけですよ。とうちゃんが,
わたしの前を歩いていく。県の係官がその前,歩く。そして,うちの親父のこ とやから,短気な親父やったから,「もう行かんでいい」って言ってくれるっ ち,おれはそう信頼してたね。どうも,親父がそう言わんのや。わたしと目を 合わさんのや。それでもう,しょうがなくそこまで行ったら,県差し向けのタ
3 竪山勲さんの「陳述書」(『ハンセン病違憲国賠裁判全史 第6巻 被害実態編 西日本 訴訟(Ⅰ)』皓星社,2006年,所収)では,つぎのように述べられている。
校長先生が私にとった態度の意味がわからないまま不安に過ごしていたとこ ろ,9月3日頃,鹿児島県の予防課の担当者の中野という人が私の家に来て,父 と話をしていました。「子どもまで殺して良いのか」という話し声が襖の向こう から聞こえてきました。実に,脅迫じみた言葉に聞こえました。今から思えば,
父は,県の担当者から,母をらい療養所に入所させるのを拒んで,ハンセン病に 起因する合併症のために母は死亡したけど,子どもである私までも療養所に入所 させないで,母と同じように死亡させて良いのかと,私をどうしてもらい療養所 に入所させるように説得していたのではないかと思われます。
さきに,竪山さんは,母親は最後のころは「強制隔離の対象」になっていたと語っ ていたが,ここでの陳述はそれが事実であったことを裏づけていよう。
クシーが待っとったんですよ。運転手が出てきて,ドアを開けて,「ここに乗 れ」ちゅうわけや,後部座席にね。わたし,乗った。そしたら,県の係官とう ちの親父とが一言二言,話をして,それで〔係官が〕わたしの前の助手席に乗 って,乗ったと同時に,車はスーッと出ちゃったわけですよ。
〔おやじは〕そこまで。大口っていうところはね,霧の深いところなんです よ。その霧の中にブゥーッて飲まれていくわけです。朝早い時間ですよ。外は 一面,霧のなか。みんなが起きる前に,隔離収容しようとしたんでしょうね。
〔うちが消毒されたかどうかは〕わたしは知らん。わたしが行ったあと,や ったんじゃないかと思うんですよ。あとから,〔保健体育を担当していた〕恩 師の坂元〔喜久子〕先生から聞いたら,「竪山君が使ってた椅子やら教科書っ ていうのは,いつのまにかなくなってたよ。おそらく焼却処分されたんだろう ね」って言われた。そうだろうなって,おれ思った。というのは,敬愛園に入 ったときに,車の中が真っ白になるぐらいね,粉の噴霧器がバァーッてね。こ れはもう,営業用として使えるんじゃろうかっち思うぐらい真っ白になったで すから,タクシーが。
〔9月 1日の出来事は〕ある日突然。まったく予告なし。だけどね,よく考 えたらね,中学校1年生,2年生のころかなぁ,自分のまわりの友達がね,机 1つずつ空けるんですよ。だから,おれが病気だちゅうことを,子どもたち知 ってたんじゃないかと思うんですよ。おれが知らんばっかり。おれ,敬愛園に 入ったときの体重が23キロじゃもん。〔背丈が〕いちばんちっちゃいの。とに かく小さくって〔席が〕一番前なんです。だから,みんな〔右〕隣のはこっち へ行く,〔左〕隣のはこっちへ行く,後ろのは後ろへ行く。
おれは,小学校の同窓会ちゅうの1回,招かれて行ったんですよ。行ったら,
みんなが病気のことはあんまり触れないんですよ。「イサオちゃんは足が速か ったもんなぁ」っていうことでね。国賠訴訟を起こしたあとですね。「イサオ ちゃん,挨拶してくれんか」ちゅうことやったんで,挨拶をさしていただいて。
同級生たちがねぇ,ものすごく大事に迎えてくれたんですよ,ふるさとにね。
おそらく,その当時,おれはなんらかのかたちで差別されてたかもしれんな,
と思うのよ。なんか悪かったちゅう思いで,みんなが呼んでくれたんですよ,
「同窓会にぜひ来てくれ」って。「ぜひ,イサオちゃん,話をしてくれ。そし て,みんなと一緒に飯を食うたりしながら,ひとときを過ごしてくれ」ちゅう ことでね,行ってきたことがあったんですね。
入所当初は怖くて泣いた
わたしが〔敬愛園に〕入ったときはもう,入ってまわりを見渡して,わたし 泣いたですもン,怖くって。腕がない。指がないのは当たり前。ブリキの義足 を枕にして寝てる。義足に軍足(ぐんそく)がかぶしてあるもんだから,足だと 思うわけですよ。足がこんな頭のほうに,なんであるのって。見てみたら,足 がないんですよ。怖かったなぁ。一晩眠れんやった。自分のおふくろも崩れた けど,顔がね。だけど,自分のおふくろは贔屓目(ひいきめ)に見てるんですよ。
いつもおれはそう思うんだけど,〔後遺症のある〕自分の手を見てて,怖いと 思わないんですよ。写真に撮ったら,怖いんですよ。こんなに曲がってンの,
って。写真ていうのは,そのものを映し出すからな。自分の目で見るぶんには 贔屓目で見てるんですよ,どっか。だから,おふくろもおそらく,徐々に徐々
に,崩れていってるから,そう怖さを感じなかったんだろうと思うんです。だ けど,よそのおじちゃん,おばちゃんたちの顔を見たとたんに,わたし,びっ くりしたですよ。ウワアッと。なんておふくろに似たようなひとたちがいっぱ いいるんだろうと思った。怖くって,泣いてたんですよ。そこではじめて,あ のおじちゃんたちに病気のことを教えてもらった。当時は「ハンセン病」って 言いませんから,「らい病で,みんな,こうして療養所(びょういん)に入って きとるんだ」って教えてくれた。それでも,やさしくは話すわけですよ,傷つ かんようにって。「おじちゃんは足が悪くなって,足を手術して,義足ってい うのを付けてるんだ」っちゅうことを教えてくれる。そんなひとが教えてくれ ても,怖いのは,もうね,ぬぐいされないですよ。
〔当時〕「鶴」一,二,三って〔いう病棟が〕あったんですよ。「鶴三」ちゅ う病棟に入らされて,大部屋で,12名ぐらいおったのかなぁ。ベッドが12ぐ らいあって。1週間なら1週間は,検査入院みたいなかたちなんですよ。検査 入院つっても,そんなもンは形だけ。
そこに,おれの隣に〔園の中の患者作業で〕隠坊さん〔をしてた人〕がいた んですよ。そのひとが義足でね,両手〔の指〕がない人で。それで単車に乗っ てた。くくりつけて。それで,おじさん,帰ってこんのですよ,9月5日の,
その夜。「おじさん,帰ってこんね?」って言ったとこが,「きょう亡くなった ひとがいるから,焼きに行ってる」って,教えてくれるわけですよ。そしたら,
怖くってな。死体を焼くひとの隣に,おれ,寝とるわけやから。中学校2年生 で,怖いよ,それは。したら,おじちゃんがね,夜遅く,鼻唄まじりで帰って くるんじゃが。お酒を飲んで。で,隣のベッドにもぐり込むわけですよ。そっ ちは見やらンとですよ。こっち見たまま,ブルンブルン震えてた。9月〔はじ め〕で暑いのに,ブルブル震えてた。したら看護婦が来て,「どうしたの?」
「泣いてるの?」ちゅうから,「怖い」って言ったら,わかってくれて。「ああ,
おじちゃんはね,仕事やからね」つって。で,猫を持ってきてくれたんです。
どこにおったかしらんけどな。こう,抱いて寝たですよ。そらぁ,怖かった。
もう,生きた心地しなかったね。
なんとも,おれはもう,怖くて怖くてたまらんで……。〔そのとき思い浮か んだ〕おふくろの思い出ちゅうのは何かつったら,おふくろが顔が崩れてから,
あの,親父が飲んだくれて帰ってくるじゃないですか。博労すんで。で,「煙 草,買うてこい」つって,煙草を買いに行かされるわけですよ。煙草を買いに 行く途中に,墓がある。田舎の墓じゃから,土葬やから,怖いんじゃが。で,
きのうおととい死んだような人たちのはね,幟(のぼり)が立ってるンじゃが。
青い旗,赤い旗とかな。旗がヒラヒラしてる。そこの側(そば)を通って,煙 草を買いに行かにゃいかん。すると,おれが行けんちゅうのを知ってるもんじ ゃから,かあちゃんが腫れた足をひきずってね,付いてきてくれるんですよ,
そこの墓場まで。で,墓場のがわを,お母さんを歩かせるわけですよ。おれは 反対側を歩いて。で,こっから坂になってて,「ここまででいいか? かあちゃ ん,ここで待っとくから」。待っといてもらって,目をつぶるようにしてバァ ーッと走るわけですよ。お店まで行って。ほして,買って,またバァーッと走 ってくるわけですよ。かあちゃんが,それ待っててくれるわけですよ。おふく ろの思い出って,そんなンやなぁ。ありがたかったな,あれは。
おれは入院していちばん先に,そういう一夜(ひとよ)を過ごしてね。それか
ら,こうやって見渡しすれば,ぜんぶ,みなさんがひどい顔してるわけですよ。
ああ,かあちゃんとよく似てるなぁと思ってね。こういう病気があったンだち ゅうこと,やっと,そこで朧(おぼろ)げにわかってきて。そして,1週間すぎ たら,少年舎に入っていくわけですよ。少年舎は12,3人やったかな。少女舎 が7,8人。そんなもんだったと思うね。
ハンセン病療養所の中に医学はなかった
治療は,すぐ始まったような気がするんだけどな。よく覚えてないんですよ。
なんか注射を打ったようなね。プロミンだろうと思うんですよ,おそらくな。
それで,注射を打てば,反応が出てくる。反応が出てくりゃ,こんど,DDS に変える。――いつも思うんだけど,難治らいをつくった原因がそこにあった と思うんですよ。難治らいを医者がつくってしまった。ていうのは,おれは肋 膜(ろくまく)やって,はじめて〔ハンセンの〕病気が治ったんですよ。昭和50 年以降,肋膜やったことによって,二渡(ふたわたり)〔久良〕所長というひと に遇ったわけですよ。「おまえは肋膜だ」。ハンセン病で〔社会から〕隔離され て,肋膜でまた,療養所のなかで隔離されたわけですよ。「どっかへ行っちゃ いかんのか?」つったら,「いかん。煙草もやめろ」って。おれは煙草はやめ ないで,煙草吸いながら,肋膜の薬を飲んだんですよ。リファンピシン4。「1 日3錠ずつ,空腹時に飲め。朝一番に」。「そんなことしたら,先生,おれは死 ぬ」つった。〔それまでの〕ハンセン病の医学のなかで,1日 3錠飲むちゅう ことはありえないんですよ。1週間に1錠,2錠とかっていうような感じ。「い や,竪山な。肋膜では死ぬことがある。ハンセン病じゃ,死なん。〔神経痛の〕
痛みで死んだやつはおらん。心配せんでいい。飲め」って言われて,もう破れ かぶれですよ。飲んだ。飲んだところが,半年で肋膜が治っちゃった。肋膜が 治ったころには神経痛がなかった。おれは「神経痛の親分」と言われた人間で すから。手は,こんなに,グローブみたいに腫れて。曲がって。あんまり痛い もんだから,そこを歩いてる人がいるだけで,その音で痛いんですよ。だれか が笑えば,笑い声で痛いんですよ。それでもう,お膳を,こうして,パーンっ て,天井へ投げよったですよ,わたしは。きつくて。それで,ソセゴンってい うね,注射があるんですよ,麻薬みたいな注射が。ソセゴンを打てば,ピタッ と止まるんじゃ,痛みが。スーッと引くんですよ。それを「打て!」つって,
よく言いよったですよ。「竪山さん,これはあんまり使ったら体によくないか ら,もうちょっと我慢して」。あまりにも,おれが言うもんだから,打ってく れる。ウソの注射を打つわけですよ。「これは違う!」わかるもの。〔ソセゴン なら〕針が入った瞬間に痛みが止まるんだから。ふわぁっとしてね。だからも う,ほんとに荒れたですよ,そのころはね。それぐらい,おれはもう「神経痛 の親分」って,みんなから言われて。わたしは夏でも長袖だったですよ。腕を 冷やさんようにって。冷やそうと冷やすまいと,痛みは一緒なんですよ,よく 考えてみたらな。だけど,冷やしちゃいかんと思って,そうしよったんですね。
それで,ほら,6ヵ月で肋膜が治って,ハンセン病まで治っちゃったんです よ。一石二鳥やが。だから,おれはいまだに言うのは何かつったら,「おれの らい病を,結核療養所の所長が治してくれた」「ハンセンの療養所の医者は治
4 リファンピシンは,結核の治療薬であると同時に,ハンセン病の治療薬でもある。
しきらンやった」って。何かつったら,薬の使い方がぜんぜん違う。とにかく,
少しやって,反応がでたら,「あ,病気が騒いだ」とか,「合わん」とかいう。
ほンなことやるもんだから,だんだんだんだん耐性菌をつくっていくんですよ。
この日本の国の,後遺症をいっぱい抱えた患者たちを残す原因は,そこにあっ たと思う。日本のらい医学ちゅうのは,医学じゃないよ,こんなものは。
昔からよく言ったんですよ。「結核をやった連中は,病気が落ち着いとるが な」って。よぉ聞いた言葉なんですよ。それがなんでだか〔ずっと〕わからん やった。〔じつは〕結核の場合は,徹底して治すから。――〔療養所の中に〕
結核病棟があった,前は。〔しかし〕先生がな,「ここでいい。こっから出るな」
ちゅうことで,個室に入れられて。結核療養所の所長ですから,わたしを診た 先生が。診療援助に来てて。「おまえは肋膜や」,それで「これを飲め」って言 ったのが,その先生なんですよ。二渡先生つって,ものすごい名医。――おれ が東京〔の全生園〕から帰ってきてから〔だから〕,昭和50年以降です。
東京で医療過誤の裁判をやったのは,誰だったかな? 山下ミサ子ちゃん。
ミサ子ちゃんだけじゃないよ。誰が裁判やっても勝てる。みんな医療過誤です よ,おれに言わしたら。だって,薬の使い方を知らんのやから,医者が。〔全 生園に〕国立大蔵病院から来たっていう医者がおったがな。有名な医者やが。
これが最初,わたしに「竪山さん,何の薬使ったらいいですか?」って聞いた ものね。「いや,医者はあんたですが」って,おれ言うたン。「いやぁ,わたし はハンセン病のことはよくわからんから。いままで,何つかってました?」「こ ういう薬を使ってた」「じゃ,それ出しときましょう」。これが医者ですよ。だ から,ほんとに,ハンセン病の医者っていうのはね,まぁ,言っちゃ悪いが,
外で使いものにならンやったような先生だとか,あるいは,外の病院を退職し た80なんぼの先生ちゅうの来たからね。医者がおらんとき。
まぁしかし,なんにしてもね,薬の使い方を知らない先生が多すぎた。そし てまた,敬愛園(うち)の副園長でね,わたしとおなじ年の副園長がおったん ですよ。「竪山君,ハンセン病は治らんのじゃ」。「そんなバカなことあるかぁ」
って,おれ言ったの。「なんで治らんのや?〔ハンセン病治療も〕医学のなか のひとつやろうが」「そうだ。だけど,治らんのだ。死んでも治らないんだ」
「ええっ? 菌がゼロになったら治ったんじゃないのか?〔治癒でなければ〕
何だい,これは?」「落ち着いた〔だけだ〕。また騒ぐ」「菌検査をおまえたち やって,菌を捜しきれんのに。〔菌が〕ゼロだったら治癒って言ってもいいん じゃないか?」「言っちゃいかんのや。隠れとる。どっかいる」って。「死んで も治らん」。それ,言ってる意味がわからんやったな,おれは。よくよく聞い てみたらね,治癒判定の基準がなかったちゅうことですよ。治癒判定の基準な んかいらなかったんですよ,ハンセン病はな。だって〔ねらいは〕絶滅やから。
その証拠が〔療養所の中に〕納骨堂があるわけやから。〔病気を治して外に〕
出す思いがないわけじゃから。出す思いがないから,断種堕胎しちゃうわけだ から。だから,「らい予防法という法律は,われわれの過去〔だけでなく〕未 来まで奪った」って,おれ言うけれどもね。優生保護法を適用したことによっ て……。あの優生保護法というのも,いいかげんなものですよ。あれは,遺伝 病に使われた法律(あれ)ですよね。それをハンセン病まで拡大適用しちゃっ たわけじゃから。それもまた問われなくちゃいかんわけじゃが。なんで,ここ までやったんだ! ってね。〔優生保護法が制定された〕1948 年以前は〔ハン
セン病患者の断種堕胎を根拠づける法律は〕なかったんですよ。不法行為。
まぁ,しかし,「ハンセン病療養所のなかには医学はなかった」って,おれ は言うんだけど。医学,科学の世界だったらね,当然のことながら,病気を治 して外に出すということを考えるのが,医学,科学ですよ。日本のらい政策と いうのは,そうじゃなくして,隔離して,死んでもらう。これは,医学,科学 じゃないなぁ。
夢に見たふるさとの空
おれはね,「3 ヵ月でいいから行ってこい」と親に言われとるンですよ。「3 ヵ月たったら,帰ってこれる」って。おれは絶対的に親の言うことを信頼しと るから,まわりの者が何言おうが,「あんたたちはそうかもしらんけど,おれ は違う」って。それで,少年舎にそのまま下がるわけですが。少年舎で,その 子たちがいろいろ話をしてくれるわけですよ。病気のことについてね。おれよ りも小さい子が,おにいちゃん,ああだよ,こうだよ,ああだよ,こうだよ,
教えてくれるわけ。で,「おれはな,3ヵ月たったら帰るんだ」って言ったら,
笑うんじゃが,その子らがね。子どもっていうのは残酷なもんでね,「ぼくも そう言われてきた。3 ヵ月たったら帰ってこれるって。もう何年たつよ」。そ れでもおれは,それを信じンわけですよ。「いや,おれは,親父が言ったんだ から」ってね。10日(とおか)たち,20日(はつか)たち,1ヵ月たち,2ヵ月た ちすればね,その子たちの言うことが真実味を帯びてくるわけですよ。だんだ んだんだん,事の重大さ,帰れんちゅうことのね。いやぁ,これは大変なとこ に来たなぁと思ったですね。
おれ,中学校2年生やから,下の子どもたちを,こうして抱っこして寝るん ですよ。したら,その子たちがね,「おにいちゃん,どっから来たの?」って 言うから,「伊佐郡の大口ちゅうとこから来た」「大口って,どっちにあるの?」
いろんな話をしながらね,眠るんですよ。そういうなかで,子どもたちがいろ んなことを教えてくれる。まぁ,しかし,きつい話ばっかりだったですね。聞 く話,聞く話ね。ウソみたいな話を言うんで,おれだけは違うって最初は思っ てても,だんだんだんだん,この子たちがウソをつくわけがないちゅうふうに 思うようになるわけですから。ほんとに隔離っちゅうのは,残酷なもンじゃな。
少年舎には〔子どもたちの世話係として〕お父さんとお兄さんがおる。少女 舎には,お母さんとお姉さんがおるわけ。みんな,いいひとたちでね。いいひ とたちだから,そこにね,患者作業として仕事してるわけですよね。ま,しか し,よく面倒をみてくださるひとたちだったですね。もうほんとに,「お父さ ん」「お母さん」「お兄さん」「お姉さん」って呼びよったわけですから。で,1 級先輩じゃったら「お兄さん」「お姉さん」と呼ぶ。そういう大家族みたいな ところがあってね。
やっぱり,さびしいですよ。子どもたちと遊んでるときはあれだけど,眠り につこうとしたときは,ふっと,ふるさとのことを思うしね,ふるさとの親父 のことを思う。おれは,いつもいつも,ふるさとの夢を見た。ふるさとのこと を頭の中に思い描いて,そして,大口東小学校のあの小高い丘の上から,空を 飛んでね,自分の親父に会いに行く。ずうっと飛ぶんですよ。鉄人28号みた いに。で,飛んでいって,上から下を見下ろすわけです。親父が,豚小屋の前 にある畑に瓜をつくってたり,カボチャをつくってたり,いろんなものをつく
ってる。季節によってね。そういうことを,いつもつも,頭の中で思い描きな がら,そこまで飛んでいくんです。で,飛んでいって,親父の懐のなかに飛び 込んでいく。親父の煙草の薫(かお)りが,ふぅっとするわけですよね。で,
親父とふたりで土手に腰掛けて,そのとき植えてある黄色いマクワウリを採っ てね,親父が鎌で半分に割って,半分をくれるわけです。それを,ふたりで食 べる。そんな夢をいつも見てた。連想してたんですね,夢を見るんじゃなくし て。もうほんとに,いつもいつも,いつもいつも,おんなじ。それが歌になっ ちゃったんですよ。〔北九州市のアマチュアバンド〕「願児我楽夢(がんじがらめ)」 の「時の響きて」っていう歌にね。「移りゆく季節の中で どれだけ夢を見たで しょう/故郷(ふるさと)の空を どれだけ飛んだでしょう」というフレーズに なる。ほんとに,わたしはふるさとのことばっか考えてたですね。
こいつら教師は敵だ/新良田教室は3年で中退
〔わたしは新良田教室に〕行った。10期生。1年生から4年生まで,だいた い30名平均で,〔ぜんぶで〕120名ぐらいいたんですかね,わたしたちのころ は,まだね。
おれ,行く気はなかったんです。もう,勉強なんかバカバカしくってって思 ってるから。〔敬愛園の分校の先生が,わたしの〕通知表を見たときは,「これ は,ほんとに,おまえの通知表か?」って。それは「田中勲」じゃなく,「竪 山勲」って書いてあるわけだから。「おまえの,これ,通知表か?」「はい,そ うです」「へぇー」。通知表,よかったんです,その当時までは。だけどもう,
目標がなんにもない。こんなとこで勉強やってたって,なんの役にも立たンと 思って。で,先生をバカにしよった。一生懸命,理科の実験やって,できない んですよ,先生が。笑いよったですよ,わたしは。「それで,先生じゃろうか」
ちってね。「なんで笑う!」「先生,ここは,こうこうこうです」。それぐらい 頭よかったんです。そして,大口中学校ちゅうのはもっと先端を行ってた,そ この療養所の分校(やつ)よりもね。だから,もう,わかりすぎるぐらいわか るんですよ。昼寝しててもわかる。
で,高校に行くにも,受験勉強なんにもしないんですよ。行く気ないから。
そしたら,患者の代用教員が,「いや,竪山な,勉強せんでもいいから,遊び に行ってこい」って言ったんですよ。「ここ,敬愛園におったってしょうがな い。若い連中と遊んでこい」って。「遊び? 遊びやったら行ってこようかね」
って言って,それで受験に受かって行ったわけですよ。
〔長島愛生園の新良田教室へ行くのには〕わたしの1級先輩まで「御召列車」
だった。〔昭和39年4月入学の〕わたしンときから,普通の客車になった。わ たしの1級前までは,貨物列車のいちばん最後だったんですよ。〔駅まで見送 りに行って〕何回も何回も手をふるんですよ。手をふるたんびに帰ってくるん ですよ。連結するから。行ったり来たり,行ったり来たりしながら,「また帰 ってくるが」つったら,もう帰ってこないんですよ。わたしたちから,普通列 車(きゃくしゃ)に乗れるようになった。でも,「ここを動くな。こっから歩い ちゃいかんぞ」という条件付きでね。
10期生はね,〔敬愛園から〕3人〔合格で〕,1人は〔一緒に〕行かなかった の。お父さんが亡くなって,遅れて来るちゅうことになって。おれと山口文翁 の2人だけ行ったんじゃないかな。そのとき,行く前に,鹿児島で,カレーラ
イスの専門店にね,先生が連れていってくれたんです。ほんまのカレーライス,
知らんわけですが。園内のカレーライスしか。そのカレーライス,辛くって辛 くってね。「先生,こんな辛いのを食うのか?」つったら,「いや,ほんまのカ レーライスって,こんなもんなんだ」って。うまいちゅうよりも,辛い。ヒリ ヒリしてね。もう,ハァハァ言いながら,半分食えなかったですね。そのこと だけしか覚えとらん。〔岡山まで〕何時間かかったかって,そんなことまで覚 えとらんですね。
いやぁ,長島(あっこ)に行ってみて,隔離っていうことを身をもって感じた ね。だって,おれは泳げンわけやが。山の人間じゃから,泳ぎをしたことない んですよ。で,神経痛持ちだから,泳ごうとも思わない。そしたらね,船がな ければ行けんわけでしょう。泳げたらね,泳いででも渡ろうかと思うじゃない ですか。ウワーッと思ったね。島の中に高校を作られたのは,ほんとに,もの すごいダメージだったね。高校生を島(あっこ)に押し込んだっちゅうことね。
いちばん多感な年ごろにね。
それで,そこで,ほら,売店に行っても売店にない品物があるもんだから,
先生に「これ,買ってきてくれんか」って頼んだところが,先生が「いいよ」
って言うて,おカネを持ってったんですよ。したら,「そこに置いといて」っ て言うから,「そこって,どこ?」先生が指差すほうを見れば,そこにはクレ ゾール液を張った白い洗面器しかないんですよ。「どこ?」「そこ」「ここ?」
「うん,そこに投げ入れて」「投げ入れるの?」驚いたなぁ。女の先生が「そ この中へ投げ入れとけばいい」って。千円札を持ってよ,百円硬貨を持ってで すよ,行ってるわけやン。「ここへ入れるの?」「うん」。こともなげに,そう 言うわけですわな。しょうがないから入れたよ,おれは。まぁ,しかし,アタ マ来たね。自分の持ってるおカネを消毒液の中に「浸けろ」って言われたとき の,この惨めさね。なんだ,これは,と思ったね。もう,震えたですよ,体が。
そして茫然と見てたら,先生がピンセットで,こうして洗うんじゃが。で,こ こに,すりガラスがあるんじゃが。すりガラスにピタッとくっつくんじゃが,
それがまた。癪(しゃく)に障るなぁ。おれは10期生やからね。その先生は,
10年やってる,それを。プロじゃが,プロ。おカネを洗って,こうやったら,
ピタッ。これはプロじゃ,と思ったなぁ。ほんとに,悔しかったね。涙が出た。
どっか置いといて,あとで,どうかするんじゃったら,まだ許せる。おれが 見てる前でそんなことする必要ないじゃろ,って思ったね。これは教育の現場 じゃないと思った。もうそれから,おれは,先生がたに対する反撥が強くなっ たですよ。こいつら敵だと思った。「らい予防法」って,そんなン知らんから。
「らい予防法」が見えないわけだから。「らい予防法」の条項を見てみりゃ,
たしかに,患者が使ったおカネにしてもなんにしても,消毒せにゃいかん。で も,「らい予防法」を忠実に履行していったら,偏見や差別に結びついていく わけですよ,われわれから見たらな。ハァ,しかし,目の前でやることはなか ろうがって。おれがおらんところでやってくれれば,まだアタマに来ようもな い。それから,わたしは変わったですよ,人間が。で,こいつら敵だ,と思っ た。もう,敵としか見えなかった。先生としては見たことなかったですよ。
だから,2年生のときやったかな。うちの〔クラスの〕Nちゅうのが煙草吸 うて,謹慎処分にさせられて,それで,停学処分になった。停学になったら帰 らにゃいかんですよ,出身療養所(ふるさと)に。そしたら,ホームルームの時
間に,うちの〔クラス担任の〕SYちゅうのがおった。〔わたしは〕そのことを 取り上げて,「Y,おまえがNを捕まえたんだな」つったら,「そうだ」って。
「おまえ,おれたちの担任じゃろう」「そうだ」「おまえ,それでも教師か! 自 分が担任だったら,『N,煙草を吸うな』って,そうして諭すのが,おまえの 立場だろうが」って言った。「N,おまえ,ゼニあるんか?」つったら,「ない」
って言う。「しかし,おまえ,停学処分やったら,帰らないかんのや。おい,
Y,おまえ,ゼニ出せ。おまえが見つけたんじゃ。おまえ,担任じゃ。それだ け責任取れ! おまえみたいな教師にめぐりあったわれわれは,どんなに不幸 なもんか」って言って,ものすごく怒ったんですよ,わたしは。したら,おれ から怒られて,その教師がバァッて泣いたんですよ。ポタポタポタッて,わた しの机の上の教科書に,涙がこぼれた。わたしは,その教科書をパァッと取っ て,「汚いから,舐めろ!」っち怒ったんですよ。もう許せんのですよ,すべ てが。敵だと思ってるから。こいつらに,おれたちの痛みがわかるはずがない,
って。痛みがわからんから,この連中はこういうことができるんだって。まし てや,「担任の先生でありながら,それを自分で探して停学処分にするって,
ナニゴトだ! おまえ,それ,教師がやる仕事か!」めちゃくちゃ怒ったんで すよ。普通,わたしはおとなしいんですよ。怒るときだけは,ひとの千倍怒る んですよ。それで,SYが泣きだして。結局は,おカネ出させたですよ,往復 のおカネをね。
先生とは,よぉ喧嘩したね。お茶の水女子大を出た国語のね,U先生って,
頭のいい先生がおったんですよ。おれは国語なんか勉強せんでもわかりよった。
で,先生が,おれが〔答案を〕出したらね,説教をしたんじゃが。〔彼女から したら〕バツだったんですよ,わたしの答えが。「先生,おれ納得できん」つ ってね。図書室に籠もって調べてみたら,国文学博士のなんとかちゅうひとが 書いた訳を見てみたら,おれとおんなじような訳し方してあるんですよ。それ で,それを持っていって,「先生,これ見てくれ」って。たら,「竪山さん,わ たしが教えたとおり解答してくれなかったらダメなんです」。プライドの高い 先生でな。「そう,あんたは,そういう先生? この国文学博士のなんとかちゅ うよりも,あんたは偉いんだ。わかった」。そこで,答案用紙をまるめて投げ たんですよ,わたしは。
それで,熊本の〔恵楓園から来た〕NKちゅうのが,漢文か古文の時間に―
―虎巻(とらかん)って知らんですか,虎の巻――それを持って,朗々と読んじ ゃったわけですよ。で,U先生はそれに気づかなかったんですよ。で,「はい,
次,竪山さん」。おれも,それを持って,堂々とやってやった。そしたら,先 生,それ,目にとまったんですよ。で,「竪山さん,あなたはわたしを小馬鹿 にしてるんですか?」って言われた。「小馬鹿にはしてませんよ,大馬鹿にし てますが」つったら,先生がもう泣きだしそうな顔して,「わたしの授業が,
そんなに受けられなかったら,外に出て行っていいですよ」つった。「わかっ た。あとで単位が足らんどうのこうの言うな。あんたが出て行っていいちゅう から,おれ,出て行くんやから」と。で,裏山に登って,昼寝してた。そんな こと,ザラだったですよ。そんなンでね,学校教育の現場なんちゅうのは,多 感なおれにとってみりゃ,とてもじゃないけど,耐えられん。ここでおったっ て,喧嘩しかせんなと思ったんで,もう帰ろうと思ったんですよ。で,行李(こ うり)を買いに行って,行李に荷物を詰めて,帰ってきたんです。