繊維産業を支えた工女の役割と労働意識 : 製糸業 を中心として
著者名(日) 平井 郁子
雑誌名 大妻女子大学家政系研究紀要
巻 50
ページ 81‑86
発行年 2014‑03‑03
URL http://id.nii.ac.jp/1114/00005999/
Creative Commons : 表示 ‑ 非営利 ‑ 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by‑nc‑nd/3.0/deed.ja
・ 81
繊維産業を支えた工女の役割と労働意識
─ 製糸業を中心として ─
大妻女子大学短期大学部繊維消費科学研究室平井郁子
Role and labor Consciousness of the Female Worker Who Supported Textile Industry
── Mainly on Silk Industry ──
Ikuko Hirai
Key Words : Female worker, Textile industry, Labor consciousness, Silk mill, Education
1. はじめに
紀要第
43
号1)では、近代日本の産業の発展に多 大なる功績をもたらした幕末から明治中期における 製糸業が、高い生産力を持つ西欧の資本主義に対抗 し、いかに世界市場の中に参入していったのか、品 質や技術、社会的観点から製糸業の発展とその問題 点をまとめた。従来、繊維産業の労働条件の劣悪さ がクローズアップされ、そこで就労する工女が犠牲 となり、日本の繊維産業が発展を遂げたというよう なことが言われているが、本研究では繊維産業に就 労していた工女が日本の繊維産業の中でどのような 役割を担っていたのか、そして工女たちはどのよう な考えや意識を持ち、繊維産業の中で就労していた のかに焦点を当て検討する。2. 研究方法
繊維産業に就労していた工女が残した資料を参 考にして研究を行った。2006年〜2013年までに群 馬県富岡市の官営富岡製糸場、長野県岡谷市の岡谷 蚕糸博物館、岡谷市図書館、宮坂製糸場、横浜シル ク会館、大阪の紡績会館、京都のグンゼ博物苑・グ ンゼ記念館などの現地視察・調査を行った。この時 の視察・調査にて収集した資料を基にしている。
本研究は官営富岡製糸場における工女の役割と 就労、長野県諏訪地方の民間製糸場における工女の 役割と就労、京都府綾部地方の民間製糸場における 工女の役割と就労の
3
部分から成り立っている。3. 結果及び考察
(1) 官営富岡製糸場における工女の役割と就労 富岡製糸場は国内全体の生糸の品質を向上させ るため、富岡製糸場で洋式製糸技術を修得した工女 をできるだけ国内各地に拡散させ、その指導効果を 発揮させようとした。そのことは工女に
1
年以上3
年未満の年限で入場を許可し、帰郷を促したことか らも読み取れる。その結果、帰郷後国元において大 きな指導効果をあげた工女も多く存在した。工女募集は思うようにいかず、政府は明治
5
年(1872年)2月に工女募集の布達、さらに
9
月には『繰糸伝習工女雇入心得』を現在の宮城県、岩手県、
秋田県、福島県、山形県に布達し、『11月
29
日ま でに、年齢15〜30
歳まで、10人〜15人までの入 場』といった半強制的な募集をしている。その結 果、明治6
年4
月には合計556
人ほどまでに工女 が入場している。多い順から長野県(180人)、群 馬県(170人)、埼玉県(82人)、静岡県(43人)山口県(36人)、その他の県となっている。工女は 士族や地方の有力者の娘が多かった。いずれも新し い時代に向かって産業を興すために、新しい製糸の 技術を身に付けるという理想が娘たちを突き動かし たと言える。
労働時間はフランス人の指導の下に
1
日約8
時 間労働となっていた。給料(月給)は、1等(1円75
銭 )、2等(1円50
銭 )、3等(1円 ) 当 外(75 銭)となっていたが、富岡製糸場の工女の月給は、食費・住居費・医療費が保障されていたので、月給 は小遣いであり少額であった。参考までに富岡製糸 場の技術指導をしたブリューナの月給は
150
円と高大妻女子大学家政系研究紀要
―
第 50 号(2014.3)82 ・
額で、ブリューナをはじめとするフランス人技術 者への支払いが大きな比重を占め、フランス人が 滞在していた創業時から明治
8
年度までの欠損額 は−229,233円744
銭2)と、経済状況は赤字続きで あった。ただし、富岡製糸場での工女の労働条件 は、その当時の労働条件としては大変恵まれたもの であった。(2) 長野県諏訪地方の民間製糸場における工女の 役割と就労
1870
年代後半には各地に器機製糸場が設立し、1879
年(明治12
年)には、全国器機製糸場総数5)は
666
箇 所 と な り、 そ の う ち 長 野 県(358箇 所53.8%)、 岐 阜 県(143
箇 所 21.5%)、 山 梨 県(80 箇所 12.0%)と特に多くの製糸場が設立された。日本における器機製糸技術の発展は対米生糸輸 出の増加6)に依存していた。1880年代以降アメリ カへの輸出生糸割合は著しく伸びた。アメリカへの 輸出が多くなった理由は、力織機による大規模な生 産のために繊度(14中、15中)の均一な生糸を大 量に必要とした。このようなアメリカ絹織物業に対 して、粗悪乱造の批判を浴び、縦糸としての用途か ら締め出され、日本の器機製糸は織物緯糸用の普通 糸で対応した。
1880
年代(明治20
年代)から1890
年代(明治30
年代)にかけて生糸の輸出が飛躍的に伸びるに 従い、工女の手工的熟練に依存していた器機製糸業 は、募集競争7)が激しくなっていった。表
1
に長野県製糸工場の労働時間別工場数を示 す。表1
から工場数の違いはあるが労働時間が1888
年より1900
年の方が増加し、14時間、15時 間、16時間労働も見られる。日本製糸業の国際競 争力を支え、順調な資本蓄積を可能としたのは、20 歳以下の低賃金、長時間緊張労働と養蚕農民の低賃 金自家労働における原料繭の低価格化によるもので あることが分かる。諏訪地方の工女は貧しい農家の 娘たちが口減らしのために製糸工場で働いたという 記録9)もあるが、この時代日本全体が貧しい生活を 強いられていたこともあり、現金収入の少ない時 代、工女が生み出す現金収入は、貴重な生活資金で あり、それを得ることができた工女にとっては誇り であったように考える。(3) 京都府綾部地方の民間製糸場における工女の 役割と就労
1896
年(明治29
年)に創業の京都府綾部市の郡 是製糸株式会社について調査した。すでに述べたよ うに、長野県の製糸業がアメリカ市場で粗悪乱造の 批判を受け、織物の縦糸としての用途から締め出さ れ、緯糸の普通糸へと転落した。郡是製糸株式会社 は、縦糸用の『優等糸』の生産をめざした。『優等 糸』の生産には、優良な原料繭の確保と丁寧な繰糸 作業が必要である。郡是製糸は、養蚕組合との特約 取引により、優良繭を確保し、長時間労働を排しな がら、従業員教育を土台にして優等糸の生産を行っ ていった。1) 郡是製糸株式会社の方針
郡是は生糸の海外輸出を目的に「熟練と親切ヲ 以テ一定ノ優美ナル生糸ヲ多量ニ製造」10)つまり繰 糸技術は器械力よりも工女の精神的、肉体的労働に
表 1 長野県製糸工場の労働時間別工場数 労働時間
1888
年(明治21) 1900
年(明治33)
8
1 19
0 −10
945
11 15 44
12 48 194
13 17 78
14 10 176
15
152
16
−13
計
100 603
出所
:
岡谷蚕糸博物館紀要(2005) 図 1 郡是 40 年小史表紙(2013.8 撮影)・ 83 依存しており、「熟練」と「親切」が「優美なる生
糸」を繰糸する、ということである。「善い人が良 い糸を作る」という信念のもとに「愛を持って人の 心を動かす」ことを旨に人間尊重の経営に努めた。
優等糸の生産には、人材の養成や器械設備の改善を 進めた。まず、教婦の養成、新工女の養成、繰糸技 術、器機設備の改善により、優等糸製造の地位を確 立していった。図
1
に郡是40
年小史表紙写真を示 す。2) 創業当時の工女の採用と工女教育
創業当時の工女は、ほとんどを原料繭取引地域 内の養蚕家の子女から求め、各村の村長、区長が仲 介者、保証人となっている。工女規定11)には、工 女を経験者と未経験者に区分している。
甲種工女ハ他ノ製糸場ニ於テ修業シタルモノ
(旧工女)
乙種工女ハ新タニ本業ニ従事スルモノ(新工 女)
工女の採用に当たっては生産効率から旧工女を 優先しているが、他の製糸場に契約がないもの(工 女規定第
3
条)とし、工女在籍元の製糸家に確認を とり、争奪戦を避けている。郡内製糸家の多数が休 廃業し、これらの製糸家から引き継いだ旧工女12)は
161
人で、新工女24
人、付属工女7
人であった。旧工女の年齢は数え年で
14
歳〜27歳(15〜20歳 が中心)、新工女は、14歳〜17歳、付属工女は13
歳〜17歳であった。表
2
に創業時甲種工女の出身 地域と工女在籍元製糸家を示す。出身地域は郡内だ けで84%
をしめている。また、厳格な規制を定め て寄宿舎生活をさせている。1909
年(明治42
年)9月に教育部が発足した。教育部規定第
1
条には「人々向上、修業、勤労、忍 耐、同情、相助、以テ自ラ進ミ、他ヲ進メ、全体ヲ 融和シ、小天国ヲ形成セントスルニ在リ」とあり、高い理想を打ち出し、階層別に修養会、講演会、懇 話会、青年会、女学会、婦人会の会合を設けた。女 学会では、道徳、知識、技芸、健康兼備の女子を育 成する目的で、一般工女に修身、国語、家事、生 理、算術、習字、唱歌、裁縫、茶の湯、生花、体操 を教えた。授業期間は
7
月1
日から翌年5
月30
日 を1
年度として6
年間で卒業することとし、休日の うちの各半日と冬期の夜間を当てた。婦人会は、女 学会に学ばない年長婦人に対して、日常応用の道 徳、常識、技芸などを修めさせた。工女は全員が寄 宿舎生活をすると工女規定に定め、寄宿舎には舎頭 をおいて、しつけ教育を中心とした生活指導をして いる。郡是の工女教育は、創始者の信仰のもとキリス ト教の影響を大きく受けて成り立っていると言え る。「教育は事業の手段ではなく、事業の利害を超 え、人を愛する心を持ってするものである。工女が 会社に勤めている時だけではなく、一生涯幸福であ るように導くべきである。」という教育主任の言葉 からも分かるように、「善い人が良い糸を作る」を 実践していった。
3) 大正・昭和初期の工女の採用と工女教育
大正時代になると製糸業や紡績業が発展し、女 子労働の需要が増加する。農村景気も好調で女子の 出稼ぎが減少してくる。そのため雇用競争が激化し てゆく。従業員数も増加している。このころになる と工員の90%
が工女となる。表3
に従業員数13)の 推移を示す。1915年(大正4
年)には近隣地域か らの出身者で占めているが、1919年(大正8
年)以降には遠隔地からの募集を始め、工女の出身地域 も全国から入場するようになる。表
4
に1915
年(大正
4
年)の工女出身地域を、表5
に1935
年(昭 和10
年)の工女出身地域を示す。工女の採用は、幼年工女、勤続年数の低下、多 数の採用、未経験者の増加、生産性の低下といった 悪循環を繰り返すことになり、新工女の繰糸能力の 判別は難しく、優良工女を確保するため独自の検査 基準を設けるなど困難が続いた。表
6
に労働時間の 表 2 創業時甲種工女出身地域人数(人)
綾部
32
郡内
中筋
20
以久田・佐賀
11
小畑・物部・滋賀郷17
吉美
20
山家
15
東八田・西八田
15
口・中・奥上林 5天田
15
加佐・与謝・その他
11
合計
161
出所
:
郡是製糸株式会社創業事務所 應募工女名簿(1896年)大妻女子大学家政系研究紀要
―
第 50 号(2014.3)84 ・
推移を示す。このようなことから工女の教育制度の 整備を行っていく。
1913
年(大正2
年)師範科を設立し、教育係の 養成を行う1916
年(大正5
年)工女養成科を設立し、養成教育を強化した
修養年限 6か月(4月と
10
月開始の2
期に分ける)教科目
修身、読書、習字、珠算、体操、製糸法、製糸実習
授業時間 1
か月297
時間 定員 300人1916
年(大正 5年)衛生係養成科を設立し、1953
年(昭和28
年)私立郡是准看護婦学校 となり,1959年(昭和34
年)まで続く1917
年(大正 6年)私立郡是女学校を設立 1924
年(大正13
年)郡是女学校は誠修学院と改名する 表 3 従業員数の推移
(単位 : 人)
職員 工員 合計 明治 29
20 200 220
37 30 400 430
42 150 1,250 1,400
大正 1
250 2,200 2,430
4 230 2,500 2,750
5 480 4,250 4,730
10 1,091 9,250 10,341
昭和 1
1,641 12,269 13,910
5 2,024 14,560 16,584
10 1,872 19,578 21,450
16 1,257 14,364 15,621
24 1,410 7,947 9,357
27 1,677 7,183 8,860
31 1,574 6,699 8,273
*各年度末現在
工女数は工員数の約
90%を占める
出所
:
郡是製糸株式会社60
年史(1960年)表 4 1915 年(大正 4 年)工女出身地域 人数(人)
何鹿
418
天田
195
加佐
132
氷上
197
養父
71
朝来
49
その他*
15
* その他… 船井
3
人、與謝・熊野・多紀・多可
2
人出所
:
郡是製糸株式会社60
年史 (1960年)表 5 1935 年(昭和 10 年)工場所在地以外の工女 出身地域
人数(人) 人数(人)
三 重 34 富 山
135
奈 良 20 石 川10
和歌山 12 福 井120
滋 賀 2 山 梨34
大 阪 1 愛 知25
山 口 46 長 野 4 広 島 7 宮 城160
鹿児島
319
高 知56
佐 賀 1 愛 媛 6
新 潟
1,479
徳 島 1出所
:
郡是製糸株式会社60
年史(1960年)表 6 労働時間の推移
(単位 : 時間.分)
就業時間 休憩時間 実働時間
1917
年(大正 6年)14.00
― ―21年(大正
10
年)12.30 1.20 11.10
26年(大正
15
年)12.00 1.00 11.00
30年(昭和 5年)
11.00 1.05 9.55
40年(昭和
15
年)10.25 1.00 9.25
44年(昭和
19
年)10.00 1.00 9.00
46年(昭和
21
年)9.00 1.00 8.00
出所
:
グンゼ100
年史(1998)・ 85 師範科、教婦養成科、工女養成科を置く
師範科、教婦養成科の修了者は教育係、
教婦として工女の教育に当たった。
このころの郡是の教育は充実し、広く地域社会 から敬愛の目で見られていた企業であることが分か る。生活改善普及員の京都府綾部市睦寄町古屋につ いての記述14)に、明治
38
年生まれの姑は女学校を 卒業し郡是の誠修学院に学んだ後、学院の教師とし図 4 グンゼ博物苑(2013.8 撮影)
て勤め、「良いところの娘さんが、嫁入り仕度する まで裁縫や行儀を見習うべく郡是に入った。郡是は 他の製糸会社より格が上だった」と誇らしげに言っ たという回想録がある。
ここでの述べた製糸企業は、創立者が理想を掲 げ、優等糸を作ることを目標に工女の技術養成教育 をすることにより、生産技術や生産性を向上し、企 業も成長していった。
図
2
に現存する誠修学院の建物の写真、図3
に グンゼ記念館の写真、図4
にグンゼ博物苑の写真を 示す。4. まとめ
本研究では繊維産業に就労していた工女が日本 の繊維産業の中でどのような役割を担っていたの か、そして工女たちはどのような考えや意識を持 ち、繊維産業の中で就労していたのかに焦点を当 て、3つの製糸工場と工女の違いについて資料を基 に検討した。
(1) 官営富岡製糸場は国内全体の生糸の品質を向 上させるため、フランスから技術者を招き洋式製糸 技術を修得した工女をできるだけ国内各地に拡散さ せ、その指導効果を発揮させようとした。工女は士 族出の娘や有力者の娘たちで、今後の日本の産業を 担っていくために新しい製糸の技術を身に付けると いう女性の強い意識があった。
(2) 長野県諏訪地方の民間製糸場はアメリカへの 輸出を基に製糸業の飛躍的発展をもたらした。アメ リカの力織機による大規模な大衆的生産に対応する ため、安価な繭を大量に仕入れ、織物の緯糸用普通 糸で対応した。ここでの製糸業の発展は工女の低賃 金と長時間労働に支えられたものであった。工女は 貧しい農家の娘たちが多かったが、この時代日本全 体が貧しく、労働を強いられていた。そのため工女 の労働だけをクローズアップするのは問題があるよ うに考える。現金収入などなかった時代、現金収入 を得ることができた工女には、家族に対する慈愛や 誇り、そして自立という夢をいだかせたのではない かと考える。
(3) 京都府綾部地方の民間製糸場(郡是)は、縦 糸用の『優等糸』の生産をめざした。郡是製糸株式 会社は、養蚕組合との特約取引により、優良繭を確 保し、長時間労働を排しながら、従業員教育を土台 にして優等糸の生産を伸ばし、成長していった。
郡是の工女教育は、創始者の信仰のもとキリス 図 3 グンゼ記念館(2013.8 撮影)
図 2 誠修学院(2013.8 撮影)
大妻女子大学家政系研究紀要
―
第 50 号(2014.3)86 ・
ト教の影響を大きく受けて成り立っているが、工女 たちは教育により技術養成の向上、そして自分たち の教養を身に付けることであり、郡是製糸で働くこ とが、この地域で当たり前で、誇りでもあった。
5. 謝辞
本研究をまとめるに当たり、多くの資料を集め た。資料を提供いただいた富岡製糸場、宮坂製糸所 そしてグンゼ株式会社に感謝申し上げる。
6. 参考文献
1) 平井郁子 :
大妻女子大学家政系研究紀要,Vol.43, P. 1
-8
(2007)2) 今井幹夫 :
精解富岡日記,群馬県文化事業振興会(1999)
3) 今井幹夫,斉田朋雄 :
赤煉瓦物語,富岡市観光協会(1986)
4) 早田リツ子 :
工女への旅,かもがわ出版(1997)5) 石井寛治,原朗,武田晴人 :
日本経済史2 産
業革命期,東京大学出版会(2000)
6) 嶋崎,森川,鮎澤 :
岡谷蚕糸博物館紀要,Vol.10, P. 60
(2005)7) 細井和喜蔵 :
女工哀史,岩波文庫(1964)8) 武田 :
岡谷蚕糸博物館紀要,Vol. 10, P. 52 (2005)9) 山本茂美 :
あゝ野麦峠,角川文庫(1877)10) 郡是製糸株式会社 :
郡是40
年小史(1936)11) グンゼ株式会社 :
グンゼ100
年史(1998)12) 郡是製糸株式会社創業事務所 :
應募工女名簿(1896)
13) 郡是製糸株式会社 :
郡是製糸株式会社60
年史(1960)
14) 農林水産省農蚕園芸局普及部生活改善課編 :
村の歴史とくらし・V─農村漁家生活改善技術資 料収集 昭和
53
年度報告書─,P. 162
-170
(1979)15) 四方洋 :
宥座の器,あやべ市民新聞社(1997)Summary
In research bulletin 43rd1)
I stated the development of the spinning business and the problems from quality, technique and social point of view how spinning business in the middle Meiji from the late Tokugawa period entered into global market against the capitalism of Europe that had high production capacity.
Former it is said that Japanese textile industry was developed on the sacrifice by the female worker under inferior condition.
But in this research bulletin we studied about what kind of role the female worker played in Japanese textile industry and
what kind of thought and consciousness they set to work with.
This study is consisted of the following 3 parts.