奈良教育大学学術リポジトリNEAR
人間本性の問題(2)−ホッブズの利己的人間観を めぐって−
著者 若松 謙
雑誌名 奈良教育大学紀要. 人文・社会科学
巻 28
号 1
ページ 141‑160
発行年 1979‑11‑15
その他のタイトル The Problem of Human Nature (2) URL http://hdl.handle.net/10105/2473
奈良教育大学紀要 第28巻 第1号(人文・社会)昭和54年 Bull. Nara Univ. Educ, Vol.28, No.1 (cult. &soc.), 1979
人間本性の問題(2)
ホップズの利己的人間観をめぐって
告 b: 高二 (倫理学教室) (昭和54年4月28日受理)
I はじめに
Ⅱ シャフツベリのホップズ批判
Ⅲ バトラーのホップズ批判
Ⅳ シャフツベリ、バトラーの意義と問題点
Ⅴ おわりに
(前回は「Ⅳ シャフツベリ、バトラーの意義と問題点」のうち、シャフツベリ、バトラー両 者の思想の根底に共通に見出される道徳重視の考え方が、今日においても大いに意義があること を指摘したところで終った。従って今回は、彼らの具体的思想をとりあげ、その意義と問題点と を考察することより始める。)
1 自然感情の問題
ホップズは前号102貢で引用したように、他人の災難に対する憐みも、 「同様な災難が自分自身 にふりかかるかもしれないという想像から生じる。」と規定し、人間から一切の愛他的傾向を否 定しようとしていた。そしてたとえ人々の間に平和、秩序、友好関係が成立したにしても、それ は刑罰に対する恐怖や、自分にもたらされる利益‑の配慮に基ずいているのであり、人間が利害 を抜きにして、他人及び社会をそれ自体として愛するようなことはない、と主張した。これに対 してシャフツベリやバトラーは、人間本性そのものの内に他人との共存の感情、連帯感を認めて いた。親子の愛、友愛、社会に対する愛、憐み、相互援助などに向かう愛他的傾向がその例であ るが、これらが「自分の利益へ向かう情念にとって代わり、我々を我々の外へ連れ出し、我々自 身の便益や安全に考慮を払わないようにさせることは確かである。」 (前号99貢引用)と主張した のである。すでに述べたように、こうしたシャフツベリやバトラーの主張は真実だと思われる。
自分の利害を抜きにした友好、愛といったものが、人間に全くないと言い切ることはできないか らである。しかもシャフツベリが、こうした(利害を抜きにした)友好や愛を自然感情と規定し た時、これらが人間にとって極めて自然な在り方であり、それに較べれば、ホップズが主張した 利益日当の結合、連笛は、人為的で、真の友好,愛ではない、という考えが当然前提されている といってよいと思われる。そしてこれも真実だといえる面があることは否定できない。我々は誰
しも単なる利益日当だけの友好といったものに反機を感じるし、しかも道徳的に考えてみても、
それが極めて不十分で、危険な傾向を有することを認めざるを得ないからである(1)。従ってこう した友好を斥け、利害を抜きにして相手の身の上を配慮する友好、愛を強調する限り、シャフツ
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若 松 謙ベリやバトラーの考えに、それなりの意義があることは否定できない(,しかし叉、冊題もあると 思われる。そこで以下問題点を扱うことにするが、 (論点をはっきりさせるためには)ここでイ
エスの主張を予め取り上げておいた方が都合がよいと思われるので、先にそれを述べることにす
o ^
周知の如く、イエスは旧約以来の律法を「神‑の愛」と「隣人愛」とに総括し̀2'、しかも「敵 を愛し、憎む者に親切にせよ(3)。」と命じた。隣人愛には、敵を愛することが必然的に含まれて いると考えていたのである。ところが現実の世の中においては、事実としてさまざまな敵対関係 が見出される。敵を持たない人はないといってよいほどである。そして、恨みが積もっている敵 を愛せ、などと言うことは、全く現実離れしているように思われる。そこで(以下の議論に必要 な限り)現実に敵対関係を生ぜしめている原因を取り上げ、イエスが、敵を愛せ、と主張した理 由を考えてみることにするO ① 相違、区別O 現実の人間は、さまざまな相違、区別の中で 生きている。すべての人間が、それぞれ他の人問から区別される特性を具えていると言える。例 えば国籍の違い、皮膚の色の違い、体質、気質、容姿の違い、風俗、慣習の違い、階級、身分、
職業、貧富の違いなどである。そしてこれらのすべてが、人々の愛や憎しみの原因となり得ると いってよい。例えば或る人を外国人だから嫌う。色が黒いから嫌う。知識や教養があるから好む。
神転質だから嫌う。身分が高いから好む、といった具合であるOそしてこうしたも違い、に基ず いて生じる愛や憎しみは、現実には常に表裏一体の関係にある。我々がこうした特殊な違いだけ に心を囚われ、一定の特性を持った人を愛そうとすると、その愛は、その反面において、そうし た特性を持たない人‑の無関心、反頂などを必然的に伴なっている。例えば身分の高さだけに心 を奪われている限り、我々は身分の低い人に対しては、必然的に無関心、冷淡になり易い。又白 人を好む人は、その反面必然的に黒人に対しては冷淡になり易いといってよいO このように人々 の問に愛を生じさせるものが、同時に又人々の敵対関係を生じさせる原因にもなるのである。従
ってこうした違いだけに不必要に心を囚われ、それを絶対視する傾向というもの、それが特定の 人を愛したり、逆に嫌ったりする在り方に我々を導いているのである,。しかし前号で述べたよう に、道徳的に養いか否かが、人間にとって決定的に重要なことである。そしてそれに較べれば、
こうした違いは、すべて人間としての価値を決める上で、何ら決定的意義をもち得ない。 (これ らの違いは遺徳的善さと直接的な関係をもたない。)そして心に真の愛を抱いているか否かを人 間にとって決定的に重要なことだとしたイエスからしても、こうした違いは、すべて神の前にい わば、無、に等しい、どうでもよい違いにしかすぎない叫。そこでこうした本来、相対的で、ど うでもよい違いにしかすぎないものを、不必要に絶対視する我々白身の不十分さというもの、換 言すれば、本来人間にとって巌も大切な道徳的に善いことを本当に心の底から、それ自体として 尊重することができずに、こうした相対的な遠いだけに不必要に心を囚われている我々自身の遺 徳的不十分さというもの、それが特定の人を依活魚展したり、毛嫌いすることに我々を導いてい るといえるのである。そこで(本来すべての人間が神の前に平等であり、等しく神の子たる資格 者有すると考えた)イエスは、こうした違いだけに囚われて、人を差別する在り方を斥けるため に、 「敵を愛せ」 (その身の上を、自分の場合と同じように頁剣に配慮せよ)と述べたのだ、と思 われる。 ㊥ 利益への執着。 人々の間に敵、味方の違いを生じさせるもう一つ別の原因は、
自分の利益への執着だと思われる。我々自身が自分の利益に執着している限り、利益の共同や交 換が可能な人々に対しては、友好関係が成立する反面、それが不可能な人々に対しては、必然的 に敵対関係が生じざるを得ないからである(5)。しかし注(1)で述べたように、道徳的善さと自分の
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利益とが必ずしも‑致せず、しかも道舶用さの方が、人間にとって決定的に重要なことだとす れば、自分の利益だけに心を囚われて、敵、味方の違いをすること自体が、道徳的に許され得な い。人間にとって最も大切な、道徳的に勘、ことを本当に心の底から尊重することができず、自 分の利益だけに執着しすぎることが、敵、味方の違いを生じさせているからであるっ イエスから すれば、本来すべての人間が平等であり、等しく神の子たる資格を有している筈である。それな のに、自分自身の利益‑の過度な執着が、現実には人々の問に敵、味方の区別を作り出し、本来 等しいものを不当に分け隔てさせているのである。そこでイエスは、自分の利益への執着に囚わ れすぎて、差別する在り方を斥けるために、 「敵を愛せ」と戒めたのだと思われる。 ③ 過度 な自己愛。 人々の問の相違、利害の対立といったことは、この世の中において客観的にみられ る現象である。しかしこれらを媒介にして、敵対関係を決定的にするものは、人間の心自身に巣 喰う過度な自己愛であると思われるo イエスは、「自分を愛するように隣り人を愛せ」と述べてい たが、他人のこと以上に自分のことを配慮せずにいられない過度な自己愛が、事実として人間の 心の内に非常に根強く巣喰っている。そしてそれが(力で述べた特殊な相違のうち、自分の好みに 合うものだけを不当に依情愚FjL、合わないものを不当に毛嫌いすることに人間を導く。又自分 の求めている利益や価値だけを絶対視し、 (それを手に入れるためには)他人の意向を全く無視 するといった在り方にも導く:、さらに事の是非、善し悪しはどうあろうと、自分を肯定し、自分 の在り方を邪魔する者は、無条件に斥けよう、といった在り方にも導く。こうしたことを考えれ ば、他人以上に自分を愛し、自分を肯定しようとする過度な自己愛が、敵、味方の区別を生じさ せる、より一層究極的な原因であるといってよい。しかしこうした過度な自己愛が、道徳的に不 十分なことは言うまでもない。自分の気に入った特性を持った人だけを排他的に愛する在り方や、
自分を肯定し、自分の利益だけを絶対視する在り方に我々を導き、差別、他人の抑圧、虐待、搾 取、倣慢、自負、負欲など、一切の悪の究極的源泉となり得るからである。 「神を全身全霊をこ めて愛せ」とか、 「自分と同じように隣り人を愛せ」と命じた時、イエスが最も厳しく斥けたの が、この過変な目己愛であったと言ってよい。しかもこの過度な自己愛が、敵、味方の区別を作 り出し、敵を憎む在り方に導いている以上、敵、味方の分け隔てそのものが、こうした過度な自 己愛と相関的なものなのである。イエスからすれば,本来すべての人間が神の前に平等であり、
等しく尊重さるべき権利を有している。それなのに我々白身の心の内に巣喰う過度な自己愛が、
人々を気仙こ分け隔てさせる。しかも敵、味方といった区別を絶対視して、 「すべての人間が隣 り人である。」という本質的な事を等閑にさせているのである。こうした意味で過度な自己愛と いうものが、人間にとって本質的な事(すべての人間が平等であり、等しく尊重さるべきこと) と、相対的な事(敵、味方の適い)についての我々自身の判断を狂わせ、本末赦例に我々を導い ているのである。 (我々すべての人間は、いわば過度な自己愛という色メガネをつけて、この世 の中をみている。その色メガネを外すことができさえすれば、すべての人間が敵、味方の違いな く、全く同じように貴重な人間であることが見える筈である。しかし現実の我々は、その色メガ ネを外すことができないから、先程述べた特殊な違い、利害の対立などに心を囚われて、人を敵、
味方と区別せざるを得ないのである。)そこでイエスは、過度な自己愛を排除するためにも、 「敵 を愛せ」と命じたのだ、と思われるり
こうしたことを考えてみた時、イエスが「敵を愛せ」と命じたことの遺徳的理由は、十分に理 解できると思われる。むしろ「愛敵」は、隣人愛そのものの内に必然的に含まれており、 「愛敵」
が可能になって、初めて頁の隣人愛が成立するといえると思われる。勿論、こうした「愛敵」は、
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tt 謙簡単には連成されない。しかし道徳的に考えてみる根り、それが正しいと言える面があることは 否定できない。現実にさまざまな敵対関係が存在しているこの世の中において、人間として善く 生きるためには、このことが不可欠といえるからである。もしそれを極端だと感じるとすれば、
それは我々自身が人間として不十分であり、道徳的善を本当に心の底からそれ自体として尊重す ることができないために、そうなのであって、イエスの戒めが、道徳的に無意義だということに は決してならないと思われる。そこでこうしたイエスの主張を念頭におきながら、以下シャフツ ベリ、バトラーの思想の吟味に進みたい。
(1)愛他的傾向(自然感情)そのものの問題点
前にも述べたように、自分の利益を度外視して、他人の身の上を配慮する愛他的傾向が全くな いというホップズの主張は極端すぎる。現実には誰しも何らかの形で愛他的傾向を有していると 思われる。しかしそうした愛他的傾向そのものにも、いろいろと道徳的問題が含まれていること は否定できない。例えば(前号108頁で述べたように)シャフツベリ自身が、親の子供に対する 愛が、過度になりすぎることを認めていた。そしてそうした場合には、他の自然感情(例えば社 会への愛、友愛など)の本来の活動を妨げたり、或いはそれ自身の本来の活動(例えば子供の朕、
教育など)を妨げ、有害となり得るから、これら自然感情相互を正しく調和、釣合わさせること が、人間の道徳的課題だと考えていたのである。従って過度になった場合の自然感情の有害性に ついては、シャフツベリ自身が自覚していたといってよいのである。しかしそれ以外にも道徳的 問題がいろいろあると思われる。 ① 自分が愛を抱き、一体感を感じている対象が、何も常に 道徳的に望ましい在り方をするとは限らない。この世の中に存在するものは常に道徳的に不完全 であるから、不正や不合理さを完全に免れているものは一つもない。しかるに愛や一体感を抱い ている場合には、人間はとかく相手の道徳的欠陥に盲目になり易い。善悪、事の是非を問わず、
相手の言いなりになるといったことは、人間の抱いている愛、一体感には必然的につきまとって いると思われる。そこで愛や一体感を抱いているが故に、かえって相手の不正を許容したり、白 から積極的に不正に加担することが現実にあり得る。何も愛や一体感が常に道徳的に善いとは限
らないのである̀6)。このことは個人相互の問だけではなく、団体、国家などに対する愛にいたる まで、すべての自然感情について言えると思われる。自分の利害を度外視して、いくら相手に献 身的に奉仕したにしても、それが(結果として第三者を不当に無視、排除、抑圧する)依植原鼠 や排他性につながり、かえって不正を生じさせることがあり得るのである(7'。しかも愛他的傾向 そのものが、人々の問の不和、対立を助長する面があることにも注意する必要がある。人間の愛 他的傾向が、事の是非,善し悪しを問わず、自分が一体感,愛を抱いている対象を無条件に是認、
肯定する在り方を生じさせ易い以上、それは(偏狭な愛国心や党派心の場合において典型的にみ られるように)かえって集団同士の間の不和、対立を激化せしめるからである。ホップズが、
「人間は利己的であるが故に、国家などによる外的強制なくしては、必然的に不正が生じ、万人 の万人に対する戦いが生じる。」と主張したのに対して、シャフツベリやバトラーは、 「人間は愛 他的傾向を有する。それが故に、国家などの外的強制なしでも、人々の間には正義、一致、調和 がおのずから成り立つ。」と主張したといってよいが,愛他的傾向そのものに欠陥が含まれてい る以上、これは無条件には肯定できない。愛あるが故に、かえって不一致、敵対、不正が増大す るといえる面が現実にあるからである。 ④ 「愛敵」を命じた時、イエスは人間の過度な自己 愛を厳しく戒めていたが、こうした自己愛と愛他的傾向との関係そのものにも注意を払う必要が ある。人間の自己愛は、自分の好みに合うものを不当に依惜巌威し、合わないものを不当に毛嫌
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いすることに人間を導き易い。,さらに事の是非、善し悪しはどうあろうと、自分を 定し、自分 の邪魔をするものを無条件に斥けよう、といった在り方も生じさせfit′、O しかも現実の人間の愛 他的傾向そのものも、不当な依惜最屈や排他性を生じさせ易い以上、こうした愛他的傾向の欠陥 は、過度な自己愛に起因すると考えることもできる。即ち、人間にとって道徳的に善いか否かが、
決定的に重要であるにも拘わらず、それを無視してさえも自分を肯定し、自分の好むものを絶対 視する傾向、そうした傾向が人間の心の内に根強く巣喰っているが故に、愛他的在り方にも欠陥 が生じると考えることができる。従って現実の人間に愛他的傾向があったにしても、それが過度 な自己愛によって、たえず歪められる危険性をもっていることにも注意する必要があると思われ る(8)。
こうしたことを考えれば、愛他的傾向を有するからといって、人間が道徳的に善である、と単 純に主張できないことが分かると思われる。敵、味方の違いを超えて、すべての人間と心から一 体感を抱くといったところまで、現実の人間は、なかなか到達し得ない。しかも愛他的傾向その ものが、 (過度な自己愛の影響もあって)すべての人間を等しく尊重することに向かうよりも、
むしろ敵対関係の増大に拍車を加えることさえあり得るからである。
(2)利害の対立による自然感情の抑圧
人間は自分の力で自分の生活を維持、安定させてゆかねばならない以上、生命維持、快適さの 追求などに、誰もが本能的な傾向を有している。そこでホップズが述べていたように、 「力‑の 絶えざる、尽きることのない欲求」 (前号97貢引用)が誰の心にも根強く巣喰っている。しかも ホップズがさらに主張するように、 「富、名誉、支配、その他の力に対する競争は、争い、敵対、
戦争に向かいがちである(の。」何故ならば、富、名誉、支配などを得るためには、他人を無視し たり、排除したりすることが必然的に伴なうからである。そこで人々がこれらの獲得に強く執着 している限り、他人への思い遣り、愛といった自然感情は、当然弱められざるを得ない。ルソ‑
の『人間不平等起源論』の根本テ‑マの一つは、人間の非人問化の指摘であるが(10)、人々の利 害の対立、生存競争の激しさが、 (シャフツベリの主張する)自然感情を抑圧、麻排させる可能 性は、絶えずあるといってよい。人間が自分の生命維持や快適さの追求だけに固執し、富や名誉
などの獲得に奔走する限り、必然的にそうならざるを得ないのである。従って同情、愛、憐みと いった愛他的傾向があったにしても、 (そして又それが道徳的にも望ましい仕方で示されること があったにしても)それが自分の生命維持に向かう傾向よりも余りに弱すぎることが、当然問題
になる。イエスが隣人愛を命じた時、それは自分を愛するのと同じ切実さ、同じ真剣さで他人の 身の上を配慮せよ、という意味であったと思われるが、現実の人間は、他人のこと以上に自分の ことを配慮せずにはいられない、強くて激しい自己執着、自己愛を持っている。そしてそれが故 に、自分の身さえ安泰ならば、他人のことを捨てて顧りみない、といったことが現実に生じ得る のである。もしも本当の同情、愛というものがあるとするならば、それは相手の人がどんな人で あろうと(自分にとって価値がある人であろうとなかろうと、そうしたことを度外視して)、そ の人の苦しみが大きければ大きい程、それに比例して、それだけ真剣にその身の上を配慮し、し かもその苦しみが除去されるまで、助力を階しまない、といったことがなければならない。 (衣 々は、他人からすれば大した価値がある人問でもないのに、自分が苦しんでいる時には、現実に そうしている。)しかしこうした真の愛、真の同情といったものは、この世では殆ど見られない と言ってよい。 「人間に愛他的傾向が全く見出されない。」というホップズの主張を斥けるのは簡 単である。しかし、 「自分の利害を全く度外視して、心の底から本当に相手の身の上を配慮する
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若 松 謙真の愛が、この世にどれだけあるのか」ということになると、それも問題だと思われるo「人間 は単に利己的ではないo」という主張と、 「人間が徹底的に愛他的であるっ」という主張との問に は、余りに大きなギャップがありすぎるからである(ll)∩
(3)その他の問題
シャフツベリは、公共善にも、私的善にも導かない非自然感情(他人に対する憎悪、復讐、抑 圧、嫉妬,残虐などに導く感情がその例)が、時として人間を支配することがあるのを認めてい た。この非自然感情については、前号では簡単な概略を示しただけなので、シャフツベリの考え 方をもう少し細かく紹介しながら吟味したい。 ① 前回も述べたようにシャフツベリは、こう した非自然感情は、社会制度の不十分さ、野蛮な慣習、迷信などによって生じると考えている。
「このこと(不公平、怒り、復讐、残虐などを正当化すること‑筆者付記)は、自然的に忌ま わしく、憎むべき一定の諸行為が、慣習ないし政治制度によって、繰返し賞賛をもって見られ、
それらの行為に名誉が帰せられている国々において示されているように、自然に対立する慣習や 教育の力からのみ生じ得る(12)。」 「堕落した宗教や迷信によって、最も恐しく、非自然的で、非 人問的な多くの事柄が、それ自体で賞賛に値いするもの、車越せるもの、善として受け入れられ るようになる、ということは確かである(13)。」こうした引用文においてはっきり示されているよ うに,非自然感情は、人為的で不十分な政治制度、社会慣習、迷信などによる、とシャフツベリ は考えている。人間本性は何処までも善であるが、悪い制度の影響を受けて、人間が非自然感情 に支配されることがある、と主張されるのである。
ところでこうしたシャフツベリの主張は、例えば専制政治といった誤まった政治体制や偏狭な 民族宗教などが、人間性を歪曲するのだ、という考え方につながる限り、或る程度真理性を有し ていると思われる。不十分な政治制度や宗教信仰が、現実に人間を歪めさせる面があることは、
否定できないからである。そして人間性を歪めさせている外的諸制度を非難し、それらをより#.
いものに是正してゆく努力を鼓舞することに導く両を有する限り、シャフツベリの主張に、それ なりの意義があることは否定できないといえるQ しかし外的制度によって悪い影響を受けるから 人間が悪くなる、と言われる場合でも、人間が自由であり、自分で自分の在り方を選ぶことがで きることを前提するならば、単純に「外的制度だけが悪で、人間は善である。」という主張を支 持することはできない。もし人間が完全に善であるとするならば、悪い制度そのものが樹立され
ることもなかったであろうし(14)、又現実に悪い制度が存在する際、その影響を少しも受けずに、
それを斥けることも可能な筈だからである。従って例えば専制政治といった社会制度の意が承認 される場合でも、そうした体制の中で、他人に対する残虐、抑圧などに向かわざるを得ない人間 白身の本性も、単純に善であると言うことはできないと思われる(,むしろ人間本性の中に、残虐、
抑圧などに向かう傾向が、何らかの形で初めから存在するが故に、それが悪い制度そのものを作 り出したり、或いはそうした悪い制度の下で、非道に向かわざるを得ないのだ、と思われる。従 って人間の善性に対するシャフツベリの信頼は、こうした点で楽観的であったといえる。たとえ 外部からの悪い影響があったにせよ、それに刺戟されて有害な感情を抱く人間自身が無条件に善 とは言えないからである。 ⑧ 現実の人間は、他人のこと以上に自分のことを配慮せずにいら れない自己愛を誰もが有している。そして前に述べたように、それが自分の好みに合うものを不 当に依情感屈し、合わないものを不当に毛嫌いすることに人間を導き易い。又自分の求めている 価値や利益を絶対視し、それを得るためには、他人を無視、犠牲にしても構わない、といった在 り方に導いたりする。場合によっては自分の邪魔をするものは、事の是非を問わず、無条件に斥
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けよう、といった在り方にも導いたりする,̲,そこでこうした過度な自己愛と非自然感情との関係 が当然問題になるO例えば人間が過度な自己愛を持っているが故に、他人に対して激しい憎悪や 復讐心を抱き、その結果、自分がどうなろうと、相手さえ傷つければそれでよい、といった(他 人にとっても、自分にとっても有害な)在り方が生じると考えることができる。過度な自己愛が 非自然感情を生じさせると考えるのである。そこでこうした点に留意しながらシャフツベリの考 えを調べてみると、実は彼もそれを認めている箇所がある。 「ところで、これらの利己的な諸情 念が一一我々から自然感情を奪う確実な手段であるとするならば、それらの情念が、我々の内 に恐しくて非自然的な情念を生じさせ、気質の野蛮さを一一生じさせる確実な手段であることは
‑‑明らかである(15)。」このように過度になった自己感情が、自然感情を抑圧し、非自然感情を 生じさせることの承認は、シャフツベリの人間の善性の主張と、明白に対立する。他人や社会の 善さえも否定しようとする過度な自己愛が、現実に人間を支配することがある以上、人間は、最 早単純に善であるとは言えなくなるからである。前号99頁で引用したように、シャフツベリは、
「すべての社会愛、友情、感恩、或いはこの寛大な種類のもののすべてが、その本性上白分の利 益へ向かう情念にとって代わり、我々を我々の外‑連れ出し、我々自身の便益や安全に考慮を払 わないようにさせることは確かである。」と述べていた。 (そして私は、人間が単に利己的にしか すぎない、というホップズの主張に反対して述べられている限りにおいては、これを承認してお いた。現実に人間が時として愛他的行為を為すのは事実だからである。、)しかしシャフツベリ自 身が、過度な自己愛が自然感情を抑圧し、非自然感情を生じさせることを認める以上、上述の引 用文の内容は、彼自身によって制限を設けられたことになる。自分の利益へ向かう情念の方が、
社会愛、友愛などの自然感情を抑圧するほど圧倒的であり得ることを、彼が承認したからである。
こうした意味で非自然感情を承認したこと(しかも過度な自己愛からそれが生じることを承認し たこと)は、シャフツベリ白身の人間の善性‑の信頼と、明白に対立するといえる。 ④ シャ
フツベリは今述べた(過度な自己愛から生じる)非自然感情のほか、もう一つ別の種類の非自然 感情を認めている。 「同国人であろうと外国人であろうと・・‥‑又既知であろうとなかろうと、他 の人問の苦しみを無差別に喜ぶことは、一一上述の自分の利益ないし私的善によって説明できる ものを、その内に何も有していない(16)c」このように、自分の利害に関わりなくても、他人の苦 しみをみて喜ぶ非自然感情が現実に人間を支配することになれば、人間の善性の主張が、さらに 大きく崩れることは否定できない。たとえこれが不十分な外的制度などの悪い影響によって生じ るとされるにせよ、 (先程述べたように)人間の善性への無条件な信頼とは矛盾するからである。
ところでバトラーの思想にも同じ様な問題が見出される。例えば彼は、 「もし競争、憤慨とい ったものがなければ、他人に対する悪意といったものは存在しない。」とか、 「外的善‑の激しい 欲求が存在するだけであって、不正、抑圧、裏切り、忘恩‑の愛といったものは本来存在しな い(.」などと述べている(17)。富、権力、名誉などの外的善‑の激しい執着、それらを得るための 競争、対立が、人を敵対関係に導いたり、不正や裏切りを生じさせたりするだけであって、本来 人間は愛他的傾向を有し、他人や社会‑の愛を抱いているO又道徳的に善いものを是認、愛好し、
悪いものを否認、嫌悪する傾向を具えているとされるのである。人間が悪をそれ自体として肯定 し、それを愛好する悪魔的存在とは違う以上、こうしたバトラーの主張には勿論正当な一面もあ る。しかし又楽観的とも言わざるを得ない。現実に他人への愛や道徳的に善いものへの愛好を抱 いていたにしても、それが外的善への執着、競争などを介して、脆くも崩れ去る可能性をたえず 秘めている以上、人間が単純に善とは言えないからである。道徳的斉を本当にそれ自体で重んじ
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若 松 謙ることができない、人間自身の意志的在り方の1木上分さ、道徳的拝以日こ外的善に執着する過度 な自己愛が、結局は、他人に対する悪意、不正、裏切りなどを生ぜしめているのであるo そうで ある以上、単純に人間の善性を肯定することはできないと思われる。叉バトラーは恥辱shame について次の様に述べている。 「人間は一つの悪行を為した恥辱を避けるために、時折より一層 大きな悪行を為すとはいえ、しかし以下のことをみるのは容易である。即ち恥辱の本源的傾向は、
恥辱に値いする悪行を為すのを避けることにあること、そして恥辱が、為されてしまった悪行を 隠すことに人間を導くのは、恥辱の情念がその一次的目的に応じなかったために、悪行が為され てしまったことによるということ、こうしたことをみるのは容易である(18)。」恥辱は何処までも 悪を避けることに人間を導く情念であり、それが、たまたま(為されてしまった)不正を隠すと いう在り方に導くにすぎない、とされているのである。しかしこうした場合にも、人間の過度な 自己愛の恐しきについて、もっと厳しく自省する態度が必要だと思われる。道徳的善さを本当に それ自体で重んじることができない過度な自己愛が人間の内に根強く巣喰っているが故に、不正 が生じ、しかも(為されてしまった)不正や、自分に都合が悪いことを隠そうという在り方も生 じる、と考えられるからである。自分を正当化しよう、肯定しようとする過度な自己愛が、為さ れてしまった不正を隠そうとして、かえってますます不正を重ねるようになることは、現実によ く起こるのである。こうしたことを考えれば、 (非自然感情を悪い外的制度の影響に帰そうとし たシャフツベリと同様)バトラーの場合にも、悪そのものを人間自身の主体的努力の不十分さに 帰し、厳しく自省するといった態度が、欠けている面があることは否定できないと思われる。ホ
ップズの利己的人間観を否定しようとしたために、かえって人間について楽観的になり過ぎてい るように思われる0
2 徳と幸福との究極的一致の問題
前号で述べたように、シャフツベリやバトラーは、徳と幸福との究極的一致を主張していた,1 善を為す喜び、悪を自覚する惨めさ、苦痛、そして富や権力などの外的善の追求が、無用な帯立 ちや不安を惹き起こすだけだ、ということなどを痛感すれば、徳と幸福とは、おのずから一致す る、と考えていたのである。ところでこうした主張が成り立つためには、その根本前提として、
以下の二つのことが最低限必要であると思われる (1)人間の善性‑の信頼。 (ほうっておい ても人間はおのずから悪を斥け、善の実現に向かうo 悪それ自体を喜び求める傾向が、人間に はない。それ故善を為すことが、人間にとって他の如何なること以上に、限りない喜びを与え る(19>。) (2)個人が他人および社会に対して善を為せば、その個人白身の私的利益もおのずか ら確保できるように、社会そのものが構成されているO社会には秩序や調和が満ちているので、
個人の義務(善の実現)と権利(自分の生活の維持)とは完全に対応している(20)。
シャフツベリやバトラーが徳と幸福との究極的一致を主張する背後には、明らかにこうした二 つの根本前提があると思われる。そこで以下、順にその問題点を吟味し、最後に徳と幸福との一 致そのものについて論じることにするQ
(1)生命維持と遺徳的善との対立
すでに述べたように、シャフツベリ自身が、過度な自己愛によって, (他人を不当に抑圧,虐待 することに向かう)非自然感情が生じることを認めていたD又バトラー白身も、外的善への執着、
それらを得るための競争によって、人間が不正を犯しがちであることなどを認めていた。従って
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彼らの人間の善性‑の信頼が、問題を含むことは明らかであるが、ここでは、もう少し一般的に、
生命維持と遺徳的善との対立について考えておきたい。これに関連してカントは次の様に述べて いる。 「理性的被造物がいつか、すべての遺徳法則を完全に喜んで為すところまで到達し得ると
したならば、そのことは彼を道徳法則からの逸脱へと刺戟する欲求の可能性が披において全く見 出されない、ということを意味するであろう。 ‑‑=しかし遺徳的心術のこうした段階‑如何なる 被造物も決して到達することはできない。何となれば彼は被造物であり、自分の状態の完全な満 足に必要とするものに関しては常に依存的であるから、彼は決して欲求や傾向から全く離れるこ
とはできないからである。そうした欲求や傾向は自然的原因にもとずくから、それと全く別の源 を有する道徳法則とおのずから一致することはないのである(21)。」カントにとって人間の欲求と か傾向とかは、根底において自己中心的であり、自分の生命維持、快適さの追求に向かわざるを 得ないものである。生きている限り、人間は自分の力で自分の生活を維持してゆかねばならない 以上、どうしてもそれに役立つものを必然的に求めざるを得ないとされるのである。しかもこう した生命維持と、 (我々が理性を有することにその源を有する)遺徳的善の実現とは、二つの全 く異なった在り方であり、時として対立することは否定し得ない事実である。自分の生命維持や 快適さを確保しようという努力が、それだけ他人や社会全体への配慮を血かにし、それだけ道徳 的善‑の真剣な配慮も等閑にさせてしまうO そこで自分の生命維持や快適さの確保だけに没頭す ればする程、他人の意向を無視したり、その権利を侵害したりすることが生じがちだからである。
しかも道徳的に善い在り方も、生命維持、快適さの追求も、いずれも人間に必要なのである。生 きている限り、一方のために他方を完全に否定することはできないのである。従って生きている 限り、人間は心の内に対立とか葛藤とかを感じざるを得ない。人間が道徳的に善であろうとする
ことは、あたかも無人の野原を自由に駆け回るように、全く何の抵抗もなく、おのずから成立 するといったものでは決してあり得ない。むしろ自分の内そのものに人間は抵抗物をもっている のである。そしてそうした抵抗物に出会し、それを克服することによって初めて道徳的に善い在
り方が成立するのである。そこでカントからすれば、 (内的対立、葛藤を免れた) 「喜んで善を為 す」といったことは、現実の人間に即して考える限り、不可能なのである。これは確かに真実だ と思われる(22)。前号98貢で述べたように、シャフツベリは善に対する愛好、悪に対する嫌悪を 抱かず、善悪に対して全く無関心な人間などあり得ないと主張していた。こうした主張も、 (善 悪の区別を無視し、感を悪であると知りながら喜んでやる、といったことが正常な人間には不可 能な限り)貢実な面を有することは否定できない。しかし現実の人間が自分の生命維持、快適さ の追求に根強い本能的傾向を有する限り、いつでも喜んで善を為すことが不可能に近いことも、
又真実なのである。自分の心の在り方を内省してみれば、 (たとえ最終的には善を選ぶにせよ) その善に対する反感、悪に対する誘惑を一度も感じたことのない人など、あり得ないのではない かと思われる(23)。人間が置かれている状況について、シャフツベリやバトラーは、いささか楽 観的すぎると言えると思われる。
(2)社会における調和、秩序の問題
徳と幸福との究極的一致を支える第二の前提は、 「個人が他人および社会に対して善を為せば 為す程、その個人自身の私的利益もおのずから確保できるように、社会が構成されている。」と いう、社会そのものに対する道徳的信頼であると思われる。そしてこうした信鹿があれば、個人 の内面における(善の実現と、生命維持に向かう欲求との閲の)対立が、容易に解?Tiきれること は明白だと思われるo社会そのものが道徳的に秩序付けられており、個人が義務(ftの実現)に
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若 松 謙忠実であればある程、その権利(自分の生活の維持)もそれだけ十分に確保できるようになって いれば、誰しも喜んで善の実現に向かうからである。しかしこうした社会に対する信頼そのもの も、極めて楽観的な面を有することは否定できない。 ① シャフツベリらが主張する遺徳的秩 序が、この世界において本当にみられるとするならば、 (生命維持に必要な)富なら富を現実に 十分に有している人は、すべて道徳的に酌、人であり、しかも道徳的薄さの結果として、そうし た富を有しているのだ、ということになる。しかし現実にはそうしたことはない。ホップズは、
すべての人間が生命維持に必要な富、権力、名誉などの接待に向かわざるを得ない限り、 「万人 の万人に対する戦い」が必然的に生じざるを得ない、と述べていたが、こうした対立、競争を、
(自分の力や幸運に恵まれて)巧みに潜り抜け、勝ち残ることができた人が、現実に富を多く所 有しているのであって、何もその人が人並みすぐれて道徳的に善かったから、富を多く持ってい るとは限らない。場合によっては、他人の苦しみを無視する非情さ、自分に役立つものを巧みに 利用する抜け目なさ、法の網の目を悪賢く潜り抜ける校滑さといった、道徳的に好ましくないも のが、富を築くために決定的に役立った、ということさえあり得るのである。この世の中におい ては、善人が必ず栄え、恋人が必ず滅びるとは限らないのである。特に国家そのものが公平さを 欠き、一部の集団の私的利益だけを擁護する、といった不健全な在り方に陥っているとすれば、
権利と義務との対応どころか、むしろその不一致、分裂が国民の問でますます顕著にならざるを 得ないと思われる。従って、個人の義務と権利とが一致するように社会を秩序付けることが、む しろ人類に課せられた永遠の道徳的課題なのである。それが全面的に成り立っている、というの は、現実の社会をあるがままに直視するのを怠った楽観論にすぎないといえる(24)。 ④ しか も現実の社会においては、利害の対立が必然的に起こらざるを得ない。お互いに他人に依存し合 わなくては生きてゆけないのに、しかもそうした人々の問に利害の対立が生じ、一方の人々の利 益になることが、必然的に他方の人々の損失につながる、といったことが生じざるを得ない。こ のため人々が自分の生命維持に執着し、少しでも自分の利益を多くしようと努める限り、競争、
不和、対立が激化する。他人に進んで善行を為すよりも、むしろ他人を出し抜き、抑圧、排除し てまでも、自分の利益を図る、といった在り方も生じてくる。自由競争社会は必然的にそうした 面を有しているのである(25)。結果として社会の富を増大させ、人々の生活を豊かにさせている ことは確かにせよ、自由競争は、人々との連帯感や一体感の喪失、シャフツベリの主張した自然 感情の抑圧、 (道徳的善を無視してまでも自分の利益を追求する、といった)利己心の増大と、
必然的に結びついているのである。社会は人間の多くの善い素質を開化させる場であると同時に、
醜い感や不正を青くむ温床でもあるのである。こうした悪い側面を無視して、社会が人々の道徳 的在り方を促進するように秩序付けられている、と考えるのは、余りに楽観的すぎるといえる。
むしろそのように秩序付けることが、人間に課せられた課題だと思われる(26) (3)徳と幸福との一致の問題
徳と幸福との究極的一致を支える二つの前提が、ともに問題を含む以上、徳と幸福との一致そ のものが単純に成り立たないことは明らかだと思われる,3 しかし人間本性の問題を考察する意味 においても、これに関連してなお一つ補足しておきたいことがある。
シャフツベリもバトラーも、ともに遺徳的善を何よりも重んじ、それに私的善が従属する形で の調和、釣り合いを保つことが、人間の理想と考えていたo そしてそれを可能にする人間の能力 が、シャフツベ1)の場合には、道徳感、バトラ‑の場合には、良心であったとい一,てよい‑,彼ら は人rT掴ミ自/Jlの力でこうした調和、釣り合いを確立し得ると考えていたのである、しかしこれは
人間本性の問題(2)
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問題だと思われるo例えばAという行為を為そうと思い、それが道徳的善に反するが故に、我々 が別のBというIt為を選んだとする。又Cという行為を為そうと思い、それが遺徳的善に反しな いが故に為そうとしたとする,)こうした場合、道徳的観点からの反省を加え、それに基ずいてA という行為をやめ、叉Cという行為を為そうとする以上、我々は一見、道徳的善を本当にそれ自 体で尊重する立場に立っているように思えるかもしれない。道徳的洋を何よりも重んじ、それに 私的善が従属する形での調和、釣り合いが成り立っていると思われるかもしれない=。しかし実は 必らずLもそうとは限らない。何となれば最初にAなりCなりの行為を為そうと思った我々白身 は、無意識の内にも自分の利益や幸福を求めていたのかもしれないからである。こうした場合、
道徳的観点からの反省を加え、道徳的善に反するが故に、たとえAといった行為を為すのを思い とどまったにせよ、それは幸福追求的在り方に、道徳的観点からの制限を加えているにすぎず、
せいぜい遺徳的善に適った仕方で幸福を追求しているにすぎない、ともいえるのである。たとえ 個々の行為が遺徳的善に反するが故に為されないという事実があるにせよ、我々の日々の生活が 全体として自分の幸福を中心にして展開されている限り、我々が行為を為す究極の根拠は、むし ろ自分の幸福の方に大きく傾むいており、道徳的反省は、そうした幸福の実現に制限を加えてい るにすぎないといえる。バトラーやシャフツベリは、遺徳的善を優位にして、それに私的貴が従 属する形での調和、釣り合いを説いていたが、現実の人間は、道徳的に善い場合でも、そうした 調和、釣り合いを決して保っているとはいえないのではないかと思われる。日々の生活が自分の 幸福を中心に営まれている限り、結局我々は自分の幸福を主目標とし、それが道徳的善に反しな いように努力しているだけであって、遺徳的善の実現そのものを、自分の生きる目標としている 訳ではないからである。すでに述べたようにバトラー自身が、外的善‑の執着、それらを得るた めの競争によって、人間が不正を犯しがちであることを認めていた。シャフツベリも、過度な自 己愛によって、 (他人を不当に抑圧、虐待することに向かう)非自然感情が生じることを認めて いたのである。こうしたことは、遺徳的善に適った仕方で自分の幸福を追求するといった在り方 さえ、我々がなかなか実行し得ないことを示す証拠だと思われる。それ故、遺徳的善を優位にし、
それに私的善が従属する形での調和、釣り合いを保っている、と考えること自体が、 (自分の現 実を厳しくみつめることを怠たった)過信にもとずくと言える面があることは否定できないと思 われる(27)。イエスは聖書において、 「自分が道徳的にすぐれた善い人間だ。」という自負、誇り を厳しく戒めている(28)が、徳と幸福との究極的一致を主張しうる程、それ程自分が道徳的に善 い人間であるか否かが、問題だと思われる。すでに述べたように、人間の内には、自分を他人以
日こ重んじ、いたわろうとする自己愛が、非常に根強く巣喰っている。そしてそれが人間を安易 な自己i'j'定や自己信頼に導き易い。そこで、人間の善性への信頼といっても、その信頼そのもの が、過度な自己愛にもとずく、まやかしのものにすぎない可能性は常にあるのである。現実に幸 福な状態に置かれている人が、 「自分は道徳的にすぐれた善い人間だから、幸福も与えられてい るのだ,」と考えたとすれば、それは、 (道徳的に自分を厳しくみつめる)良心的在り方の欠如に
もとずく も思い上がり、といえる面が、絶えずあるのではないか、と思われるO (他人との相対 的な比較に甘んぜず、道徳的に責に善いものとの関係において、 「自分を義としうるか」を厳し く吟味するならば、結局白からの遺徳的不十分さを認めざるをえないと思われる。)むしろ自分 がそれ程道徳的に善くもないのに、しかも幸福を与えられていることに感謝し、自分よりも恵ま れていない人々のことを少しでも配慮するように努めることが、そうした人に 番ふさわしい在
り方ではないか、と思われ<J、いずれにせよ人間に過度な自己愛が根強く佃良っているl糾)、
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若 松 謙「自分が善い人間である。」という自己信頼や自己肯定そのものでさえ、偽りでないか否か、厳 しく吟味される必要がたえずあると思われる(29)。
V お わ り に
カントは、 『単なる理性の限界内における宗教』において、人間本性の善意を問題にしたが、
善を規定した道徳法則を現実に意識していなから、しかも人間がそれに何処までも忠実に従い得 ないという事実、たとえ道徳法則に従ったにしても、自分の利益‑の配慮といった打算的で不 純な動機にもとずいてそうするという事実(道徳法則を本当にそれ自体で尊重し得ないという事 実)、道徳的善よりも、 (例えば自分の利益といった)他の事をより一層重んじようとする性癖が 絶えず見出されるという事実、こうした三つの事実にもとずいて、人間本性が悪であると主張し た(30)。たとえ人間に愛他的傾向があるにしても、こうした三つの事実がすべての人間に見出さ れる限り、人間本性は悪であると主張したのである。そして私自身も、過度な自己愛がすべての 人間に見出される以上、矢張り人間は悪に傾き易いと考えている。シャフツベリは、仲間や国家 との一体感を求める感情を自然感情と規定し、それに対立する感情(仲間や社会に危害を加え、
結果として自分自身をも破滅させてしまう感情)を、非自然感情と規定していた。そして非自然 感情は、本来人間本性に内在しないかのように考えていた。しかし個人は自分で自分の生活を維 持してゆかねばならない以上、仲間や国家との一体感を求める傾向と同時に、それらに反摸、反 抗してまでも自分を"i"定し、主張しようとする傾向を、初めから有していると思われる。一回限 りの独自な生を営んでいる限り、個人は仲間や全体と自分を同一視し、それで完全に安らぎを見 出すことができないもの、それらの内に単純に解消され得ないものを、その本性上必然的に有し ていると思われる。そうした傾向を直視せず、一体感の方だけを強調するのは楽観的と言わざる を得ない。他人以上に(場合によっては他人を無視してまでも)自分を重んじようとする傾向、
自分の好みに合ったものだけを不当に依怯点屈する傾向、自分の求めている利益や価値だけを絶 対視する傾向、事の是非、善し悪しはどうあろうと自分を肯定し、自分の在り方を邪魔するもの は無条件に斥けようとする傾向、こうした傾向はすべての人間の内に存在していると思われる。
そしてそれらが、真の平和、本当に真実なものや善いものから我々を絶えず遠ざけ、偽りの生に 導いていると思われる。人間がこれまで長い間生存してきたにも拘らず、醜い争いや対立、不正, 不合理などを、なかなか除去できないのは、すべての人間の内にこうした傾向が根強く巣喰って いるからだと思われる。こうした傾向が、本当に真実なもの、善いものに対して、我々をたえず 盲目、鈍感にさせているのだと思われる。そこで(何もホップズの考えを再び復活させ、国家権 力の絶対性を肯定するためにではなく)、人々の間に真の平和が実現され、本当に真実なもの、
善いものが、少しでも多く受け入れられるようになるためにも、人間本性は窓であることを承認 した方がよい、と私は考えるO ホップズが主張したように、人間はとかく利己的在り方に傾き易 い存在であるが、しかしそうした自からを、悪いと自覚し得る道徳的能力も与えられている。そ れ故、 (ソクラテスが、 「自分は無知であることを知っているが故に、単に無知ではない。」と述 べた故事にならうならば)、人間は利己的である自分を悪いと知り得るだけ、それだけ利己的で はない、とも言い得る。そこでこうした人間にとっては、それぞれ自らの不十分さを身にしみて 実感することが、真の平和の実現のために、不可欠だと思われるからであるo
人間本性の問題(2)
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注
(1)その理由をまとめてみると次の様になる。 ① 利益日当の友好は、その利益が何であろうと、自分にと っての利益を何よりも重視し、それのために人と友好を結ぶのであるから、人を自分の利益を得るための 手段として利用しているにすぎない。本当に相手をそれ自体として尊重し、心からその身の上を配慮する 愛とは異なる。そのため例えば、相手が自分の利益にならなくなれば、たとえ困っていても無視するとい ったことが生じ易い。 ㊤ 利益日当の友好の場合には、自分の利益(例えば富、権力、名誉などを得る こと)への執着が、友好関係を生じさせる原因となっている。そこで自分の利益‑の執着そのものを吟味 してみると、二つばかり問題があると言える。 (i)道徳的善と自分にとっての利益とは、必ずしも同じ ではない。自分に有益なことが即道徳的善、不利なことが即道徳的悪だとは、単純に言えない。例えば 不正な取引きで富を貯えることは自分の利益にはなっても、道徳的には悪である。又道徳的に善い人と、
(自分に富なら富を与えてくれるという意味における)有益な人とは、必ずしも一致しない。しかも前号 で述べたように、人間にとって決定的に重要なことが、道徳的善さにあるとすれば、自分にとって有益か 否か、といったことも、 (例えば或る人が黒い皮膚をもっている、いないといった違いと同様に)本来相 対的な違いにしかすぎない。道徳的善と対立する限り、自分の利益を重んじてはならないし、逆に道徳的 に善いことならば、自分に不利なことも忍ばねばならない。従って自分の利益だけを(道徳的善以上に) 重んじたり、絶対視すること自体が、人間の本来在るべき在り方からの逸脱だといえる (ll)しかもこ
うした逸脱、本末新例は現実に人間の堕落を招き易い。例えば自分にもたらされる利益のために、不正を 働くといったことが生じ易く、しかも対人関係においては、必然的に平等性の否定につながるといえるか
らである。 (本来すべての人間が、国籍、皮膚の色、富、権力などのあらゆる違いを超えて平等である限 り、すべての人間を同じように尊重することが道徳的には正しい。しかも自分の利益になるか否かも、皮 膚の色の違い、職業の遠いといったものと同じく、単に相対的な違いにしかすぎない。従って、こうした 違いだけに心を奪われて、有利な人々だけを不当に優遇し、不利な人々を不当に差別、虐持しようとする ことは、人間の平等性の否定につながる。自分に有利か否かだけに心を囚われ、それによって人を色分け
しようとすること自体が、すでに道徳的には危険だと言ってよいのである。) (2)マタイによる福音書22、 37‑40
(3)ルカによる福音書6、 27
(4)例えばイエスは、ユダヤ人に固有な安息日を守る蛇を絶対視しなかった。 (マルコによる福音書2、 23‑
28)又律法に含まれていた、清い食物と汚れた食物との区別の規定を、人間にとって決定的に重要なこと ではない、として斥けた。 (マルコによる福音書7、 14‑23)こうしたことによって、イエスが風俗、慣 習の違いといったことを、人間にとってどうでもよいと考えていたことがはっきり分かる。さらにイエス は、ユダヤ人だけが天国にゆけるといった考えも明白に斥けている。 (マタイによる福音書8、 ll‑12) 民族の違いもイエスにとっては、どうでもよかったのである。そしてイエスは富の有無といったことにも 決定的意義を認めていない。むしろ富への執着を厳しく戒めている0 (マタイによる福音書6、 24)こう したことからイエスが、民族、風俗、慣習の違い、貧富の違いなどを、どうでもよいと考えていたことが 分かる。そしてこれはつきつめてゆけば、あらゆる違いを超えた、神の前における人間の平等性の主張に つながると思われる。心の内に愛を抱いているか否かが、人間にとって決定的に重要なことと考えていた にしても、イエスは、特殊な違い(風俗、慣習の違い、貧富、権力、身分などの違い)にとらわれない愛 を、真の愛と考えていたのである。
(5)先程、この世に見られる人々の相違、区別といったものが、人々の敵対関係を生じさせる原因の一つだと 述べた。しかし実はそうした区別、相違が、実質的に利害の対立や衝突と密接な関係をもっている。その ために敵対関係がますます激しく深刻なものになるといってよい。国籍の違い、身分、階級、職業の違い などについて、このことは典型l軸こ言えると思われる。
(6)シャフツベリは、悪人や暴君でさえも仲間を求め、互いに喜びを分かち合うことがある(An Inquiry