スポーツの教材化への再検
―スポーツが持つ「 プ レイ」の視点か
Reexamination to Put the Sports to Use as a Teaching Material
-From the Point of View of the "PIay" in Sport-
新 保 淳
Atsushi SHIMBo
(平成13年10月 9日 受理)
Abstrttt
Modern sport tends to turn an eye to only winning a victory. The physical education class in school also has been influenced by that tendency.
This research reexanlines the viewpoint which uses a sport as teaching materials and especially was considered from the play which is the characteristic of a sport。
The introduction of a computer in modern society tends to make ̀̀day―
to―day event"and
not day―to―
day event" ambiguous. And sport is the same as the social conditions, too.
That influence reaches a physical education class in school, too.
Fronl the above consideration,this research got the fo1lowing conclusion about the point of view to put the sports to use as a teaching material.
1)Teacher should recognize that the modern sport has deviated fronl
not day―to―day event" and therefore the play which is one of nature in sport are lost.
2) Teacher should distinguish between the usual physical education and the spedal physical education and how to use the suitable competition for each physical
education。
3)Teacher should think that a teaching material starts fronl the origin of sport.Teacher has to sufficiently provide both of a tool and an environment on sports to use in physical education. It is important that children fully ganllnock with those tools and environment.
1.緒言
「 ス ポ ー ツは、 非 日常 的 な活 動 で あ る」 とい うス ポ ー ツの一 つ の定 義 は、 これ まで多 くの ス ポ ー ツ 研 究 者 によ って用 い られ て きて い る。 この定義 が用 い られ るよ うにな ったの は歴 史 的 な背景 、 す なわ ち「 スポー ッ (sport)」 の語 源 を根拠 とす る説 明 に多大 な る影 響 を受 けて い る と考 え られ る。 概 略す るな らば、 それ は ラテ ン語 の<デポ ル ター レdepOrtare(de=away,portare=carry)>が 示 す よ う に、 人 間 の生 存 に必 要 不 可 欠 な真面 目な こ とが らか ら一 時 的 に離 れ る
(carry away)、
す なわ ち、気 晴 しす る、休 養 す る、 楽 しむ、 遊 ぶ な どを意 味 した とい う論 拠 によ って、 今 日 も多 くの人 々 に こ う
討 ら.
した考えが浸透 し、スポーッをすることによって、生存に必要不可欠な真面 目なことが ら、すなわち、
「 日常」的活動か ら一時離れ、 「気晴 し」や「休養」するためにといった「非 日常」の時空間において、
我々はスポーツを楽 しんでいると考え られる。
またホイジンガ以来、スポーツはその中核に「 プレイ
(遊び
)」が位置付けられ、スポーツは「 ゲー ムとして構造化 され、社会において文化 として組織 された身体活動」
(杉本、p.32)で あると考え ら れてきた。 こうした「 プレイ」をスポーッの中核 とする考え方 も、スポーツが「非 日常」 においてな される活動であるという前提があったか らこそ、説明可能であったと考えられる。 しか しなが ら、我々 が現在行 っているスポーツ活動について今一度考えるとき、果た して、現代においてスポーッをする
ことが、 イコール非 日常的活動であると言い切れるであろうか。
ホイ ジンガでさえ、「
19世紀の最後の 4半 世紀 このかた、 スポーッ制度の発達をみると、それは、
競技がだんだん真面 目なものとして受 け取 られる方向に向か っている」
(ホイジンガ、p.399)と して、
その傾向を以下のように捉えている。
スポーツの組織化 と訓練が絶えまな く強化 されてゆ くとともに、長いあいだには純粋な遊びの内容 がそこか ら失われてゆ くのである。 このことは、プロの競技者 とアマチュア愛好家の分離のなかにあ らわれている。遊びが もはや遊びではな くなっている人々、能力では高いものをもちなが らその地位 では真に遊ぶ人間の下 に位置 させ られる人々
(プロ遊戯者
)が区別 されて しまうのだ。 これ ら職業遊 戯者のあり方 には、 もはや真の遊びの精神 はない。そこには自然なもの、気楽な感 じが欠 けている。
こうして現代社会では、スポーツが しだいに純粋の遊び領域か ら遠去かってゆき、「 それ自体の
suigeneris」
一要素 となっている。つまり、それはもはや遊びではない し、それでいて真面 日で もない のだ。現代社会生活のなかではスポーッは本来の文化過程のかたわ らに、それか ら逸れたところに位 置を占めて しまった。本来の文化過程 は、スポーツ以外の場で進め られてゆ くのである
(ホイジンガ、
p.399)。
ホイジンガが ここで言及 している「 プロ遊戯者」 とは、今 日では多 くのスポーッ界において見受 け られるように、 自分のパ フォーマ ンスを人 に見せることで何 らかの報酬を得ている競技者の「原型」
を想定 しているようであるが、今 日において も、 アマチュアのマラソン 0ラ ンナーか らプロに転向 し た、有森、高橋の両選手を例に取 り上げるまで もなく、非 日常的活動 として始めたスポーッが、ホイ ジンガが述べ るように「 スポーツの組織化 と訓練が絶えまな く強化 され」、かつ「純粋な遊びの内容 がそこか ら失われて」 いった結果、「 プロ」 としての道を選択せざるを得な くなったスポーッ選手の プロセスとその結末については、多 くの人の知 るところとなっている。
問題なのは、 「 プロの競技者 とアマチュア愛好家の分離」 にあるのではな く、 「遊びが もはや遊びで はな くなっている」 というホイジンガの指摘が、スポーッ活動 にたずさわる様々な人々に及んでいる 可能性があるということである。それは、現代 においてスポーッをすることが、結果的にスポーツに おいて金銭だけでな く何 らかの報酬
(見返 り
)を得 ることを目的 とした、いわば日常的な「真面 目」
な活動 とな らざるを得ないという状況を、スポーッ活動そのもののプロセスに学んでいるということ であり、ある人が何 らかの報酬
(見返 り
)を得 ることを目的 としてスポーツを始めたわけではないに もかかわ らず、そのスポーッにおいて強 くなることが、イコール「真面 目」化、すなわち「非 日常」
的な活動か ら「 日常」化へとまきこむ可能性をスポーッ界が持 っているということである。 というの
も、特 にスポーツ界 は、様々な競技種 日において、全 くの底辺 レベルの大会か ら、それにつながる全
国大会へのプロセスが、他の文化的活動 に比べて整備 された「 トップ・ ダウン」の構造 として統一 さ れてお り、 このことが「非 日常」的なスポーツ活動を、「 日常」的な「真面 目な」世界へ と変化 させ る因子 として働 くと考え られる。 さらに言えば、強 くなればなるほど、 この「非 日常」か ら「 日常」
への変化 は急激なものとなるのである。そ してこのことは、特にそのスポーツ開始時期にあたる学校 教育において、 スポーツを素材 として教育活動を行 う児童・ 生徒にこそ、上記に述べたようなスポー
ツ界の状況が、多 くの影響を与えていると言わざるをえない。
上記の問題点 について視点を変えて考えてみるな らば、以下のような考察が可能であろう。すなわ ち、今 日のスポーツにおける「非 日常性」、「 プ レイ」の対立要素の特性の一つとしてあげられるのが
「競争性」であろう。 スポーツで勝利をおさめるためには、 この「競争性」 に満ちた多様な現実の一 つであるスポーツの世界にのめりこまねばならないのであり、またのめりこむことによってのみ、勝 利を獲得 しうるのである。 ここにホイジンガが看取 した「遊びが もはや遊びではな くなって」 い く状 況が存在す る。 またこのことは、 日常的なスポーツ以外の多様な現実、すなわち経済活動等における 人類の進歩 と幸福 という「真面 目」な目的を達成
(獲得
)するために「 日常」活動がある、 という考 え方 と基本的な部分で類似の様相を持つ と言わざるをえない。
このように考えるとき、今一度、我々は、 スポーツの持つ一つの定義、すなわち、「 スポーッは、
非 日常的な活動である」 という命題 と、 「 スポーッは、競争性を特性 とす る」 という命題が同時に成 立す るのか否かについて考えるとともに、学校体育の現状について検討す ることで、 スポーツを教育 の素材 として活用 してい くうえでの、すなわち「 教材化」の視点について再考察する必要があると考 え られる。
本論 においては、 まず 日常
=現実
(Reality)、非 日常
=非現実
(仮想現実 =Virtual Reality)と 捉え、 これ らの境界が曖昧にな りつつある状況を概観 した上で、スポーッにおいて も、両者を区別 し てきた人間の認識作用が、 スポーツにおける特性の一つである「競争性」の強化 によって、曖昧化あ るいは日常化の傾向にあることについて検討を加える。結果的に、現代スポーツが「 日常化」 しつつ あることを明 らかに してい くとともに、その影響が学校教育の現場 にどのような影響を与えているの かについて考察 したうえで、あ らためてスポーッの「教材化」の視点 について言及することを本研究 の目的 とす る。
2.現
実 と仮想現実
(非現実
)のポーダ レス化
我々の通常の感覚か らす るな らば、 日常
=現実 (Reality)で あ り、非 日常
=非現実
(仮想現実
=Virtu」 Reality)と 捉えることを前提 として生活 しているわけであるが、 コンピュータの出現以来、
その境界が曖昧になりつつある。
仮想現実 とは、 ア ミューズメントやゲーム、各種 シミュレータを中心 としたいわゆる「現実を模倣 すること」か らクローズアップされてきたものであり、コンピュータの発展に従 って「人間がコンピュー タ内に構築 された人工的な世界 と、視覚を中心 とした五感によって対話することにより、仮想的な世 界を疑似体験」
(三菱総合研究所先端科学研究所、p.219)す るものであると言われている。 いわばコ
ンピュータを基本 にすえた現代 テクノロジーは、「疑似体験」 という「通常の場合 とは
<別の在 り様
>」
で、誰 にで も体験可能な世界であるとも言えよう。 しか も今 日のテクノロジーの急速な発展を見
る限 り、それほど遠 くない将来において、直接体験 と仮想体験の差が縮 まるであろうことが予想 され
ている。そのプロセスについて考えるな らば、以下のような ものであろう。すなわち、現在のところ
仮想現実 は、西垣が「 モデルの恣意化」 (p.67)と 呼ぶように、製作者サイ ドでは現実の「世界をあ
る視座か らある粗 さで記述すること」
(西垣、p.66)に よって可能 となっている。例えば、あるシミュ レーションを使えば、実際に動物園に行かな くともオ リの中の動物を見ることは可能であるが、動物 園のごみ箱の中やベ ンチの下を覗 き込んだ りするような、人間特有の意外性のある視点
(その視点か ら見える世界 も動物園 という現実の一部を構成 しているわけであるが
)は、欠如せざるを得ないので ある。 しか しなが ら、仮想現実 は、誰 しもが「見たい」 という情報 については、鮮明に しか も迫力の ある視覚情報、あるいは聴覚情報 として、現実 よりもはるかに リアルに我々の感覚に訴えて くるので ある。 こうした感覚をたとえ疑似的であれ体験 した我々は、その素晴 しさを印象深 く心に残像 として 蓄積 させ、現実空間 もまたそ うであって欲 しいと望むようになると考え られる。 こうした現実 と仮想 現実の相互展開 という体験が繰 り返 されることによって、現実 と仮想現実 との差異 は縮小 されてい く であろう。実際、仮想現実を利用する人々は、 こうした想像力 と疑似体験が、社会 とテクノロジー、
生物学 とマシン、 自然 と人工の境界線の崩壊を示す と考えている。
また、吉岡が指摘す るように仮想現実 は、「 もうひとつの現実」であるという捉え方 もある。 これ は、「 チュー リング 0テ ス ト」で知 られるチュー リングのプラグマティックな哲学的判断を前提 とし てお り、 そ こか ら導 き出される考え方が「効果が同 じな らばそれは現実 とみな してよい」
(吉岡、
p.32)と いうものである。 またこうした視点か ら、飛行訂‖ 練用のフライ ト・ シミュレーションや外科 手術のための シミュレーションが考案 され、 まさしくその「効果」を獲得せんとするために、ボーダ
レスの世界を我々はさらに拡大 しようとしているのが現状であると言えよう。
いずれに して も、非 日常的な時空間で展開される事柄を、そこか らの連続性 として日常的な時空間 につなげようとする傾向が我々の心 に存在 していることは、以上の考察か ら理解できるであろう。
3.現
代 スポーツの日常化
こうして現実 と仮想現実の境界線が崩壊 しつつある中で、現代 スポーツにおける「非 日常性」 と
「 日常性」 とのボーダーラインは、いかなる影響を受 けているのであろうか。
吉岡は、スポーッのゲーム空間をコンピュータ文化以前の仮想現実 と捉え、以下のように述べてい る。
ゲームが行われていない野球場や芝居が演 じられていないステージは、 日常的な空間となん ら変わ ることのない、ただの空 き地である。だがそこで試合や演劇が始まるやいなや、非 日常的なもうひと つの空間が成立する。そこには、試合や劇に関係のない感覚情報は捨象されて しまい、 日常的現実に 比べると極度 に情報の制限された、そ してそのことによってはるかにク リアで強烈な、 もうひとつの 現実が成立 しているのである
(吉岡、
pp.32‑33)。このように吉岡はスポーツにおける非 日常性にも、 日常的現実か ら多 くの情報を差 し引いて成立す る、 より純粋 な「 もうひとつ」の現実があると述べている。吉岡はここで「現実」 という言葉を使 っ ているが、 しか しなが ら実際には、そこは現実空間における不要な情報がスポーツ独特のルールによっ て間引きされた非現実的空間であり、であるか らこそ、より強力な没入感をともなうという点におい て、先に見た仮想現実における疑似体験 と同様な様相を持つ と言えよう。
ところで、先 に仮想現実 とは「現実を模倣すること」であると述べたわけであるが、スポーッにお
いて模倣 される現実 とは何であろうか。前述 したように、 スポーツで勝利をおさめるためには、「競
争性」 に満ちたスポーッの世界にのめりこまねばな らないのであ り、 ここに、我々は「競争性」への
没入感 と、それが生み出す報酬
(見返 り
)の「獲得」 という日常的行為の関連を思い浮かべ うるであ ろう。 また、近代科学の成果を最大限に利用 し、現実ばなれ した研 ぎ澄まされた肉体 と、誰 にも真似 をすることが不可能な技術を創造す ること。そ して、それ らを武器 に他者 と競いあう現代のスポーツ は、まさに現代社会の「利益獲得競争」の模倣であると考えられる。そしてその現実をスポーツ・ ルー ルで限定 し特殊な状況にお くことによって、スポーツは、まさに「非 日常的」様相を呈するのである。
一方で この「利益獲得」 という日常の真面 目な時空間に存在するものを求める意識が強まれば強まる ほど、我々は、「遊びが もはや遊びではな くなっている」 というホイジンガが考察 した、 スポーツの 中核的要素である「 プ レイ
(遊び
)」という精神を見失 うことになっているのではないだろうか。
確かに、勝禾
Jを獲得 しようとす ることは、何にも変えがたいものであろう。 しか しなが ら、そのた めに「 プ レイ
(遊び
)」という要素が失われて しまうことは、 「 スポーツを しつつ も遊び心をな くして いる」 ことにな り、 ここに、スポーツにおける「非 日常性」が「 日常性」へとシフ トする傾向を読み 取 ることができると言えよう。よく、オ リンピック選手がイ ンタビューにおいて「 ゲーム
(スポーッ
)を楽 しむことができました」 という発言をするが、それは、いわば切磋琢磨 してきた「 日常」的であっ たそれまでの練習の日々を否定 しつつ、スポーツにおけるプ レイ精神を自ら再確認するためものであ ると考えるな らば、その発言に対 して、スポーツが「非 日常的」で「 プ レイ精神」を包含 しているの だという、我々の一般的理解を助 けるものである。 しか しなが らそれ故にこそ、現代スポーツが置か れている「 日常的」 と「非 日常的」の錯綜 したボーダレスの様相 もまた、浮かび上が って くるのでは ないだろうか。 さらに付 け加えるな らば、高校や大学 において実施 されている、 スポーツ推薦入学を 例 にとってみて も、一人の人間を「真面 目」な部分、すなわち「学業成績」等で評価 して きた時代か ら、 「不真面 目」 な部分 とされた領域、すなわち「 スポーツ」等の側面か らも一人の人間の個性
(価値
)として評価 しようとする制度変革 は、 日常 と非 日常の境界を突 き崩すための「曖昧 さ」が生 じて いる例であると言えよう。
いずれに して も、現代 スポーツの日常化傾向は、多 くの状況か らして否定 しがたい ものであ り、
「 スポーッは、非 日常的な活動である」 という命題 と、 「 スポーツは、競争性を特性 とす る」 という命 題が同時に成立するものではな く、 「 スポーツは、競争性を特性 とす る」傾向が強まるがゆえに、 「 ス ポーツは、 日常的な活動である
(にシフ トしている
)」という今 日的状況を生み出 していると言えよ う
4.教
育実践現場におけるスポーツ教材の日常化
学校教育において実践 される体育実践が、人間が創造 してきた様々なスポーツを用いて、子 ども達 の身体能力を引 き出すために利用 されていることは、誰 しもが知 るところである。 しか しなが ら、そ の体育実践の日標が、現代スポーツのボーダレスのあり方に、大 きく影響を受けていると思われる面 が多々ある。 というの も、教師自身の意識が これまで述べてきた日常 と非 日常の境界を曖昧化する方 向へ と向か っていることに、影響を受 けていると考え られるか らである。
筆者が出かけた教育実習の研究授業場面で、以下 に記述するような光景によ く出 くわす ことがある。
例えば、それがハー ドル走の授業であったとしよう。運動場 には、すでにハー ドルが何台 も並べ ら
れ、そのハー ドル間 も、長短、何 コースかが設定 されている。準備運動が終わ り、授業者である実習
生が子 ども達を集めて「 自分が跳べ るハー ドルを、 3歩 か 5歩 で リズ ミカルに跳び越えて走 ってみよ
う」 と指示す る。子 ども達 は、それぞれ自分が跳べそ うなハー ドル間のコースの前にたち、一斉にス
ター トす る。ハー ドルを次々に跳び越え、 3歩 でハー ドル間を リズ ミカルに走 る子 ども。ハー ドル間
を 4歩 で走 ったり、 5歩 で走 ったりすることで、 ぎくしゃくした走 りをする子 ども等々。そこには、
まさに子 どもの数だけの走 り方がある。 そ して子 ども達 にとっては、 ただ単 に「走 る
(徒競争
)」と いう単純 さがない「走 り」ができることにハー ドル走の面白さがあると思われる。
ここまでの授業の描写か らして、そこには一見、何 も問題が無いように思える光景であろう。 しか しなが ら、 この状況にス トップ・ ウオ ッチが用い られることで、 この授業の雰囲気は一変する。本来、
ハー ドル走で重要視すべき「ハー ドル間を リズ ミカルに越えていく」 という顕現化されるべき技能要 素 よりも、できるだけ速 く定め られた距離を走 りぬき、良いタイムを出す ことのみに子 ども達の眼が 向けられ、それが例え、手足 と身体全体の動 きがハー ドル間あるいは、ハー ドルを跳び越える時にバ
ラバ ラであろうとも、 ゴールに飛び込むまでのタイムの速 さのみに固執す る状況 となるのである。
このような授業風景を見 るたびに、 この授業の授業者が、 ここで取 り上 げたスポーツ種 目をどのよ うに捉え、何を目標 として この「教材」を扱 っているのかについて改めて疑間が生 じ、そこか ら、あ るスポーツ種 目を体育実践の教材 として扱 う際の全般的な問題点に対 して、筆者の意識が向 くことに なる。
すなわち、授業者がそのハー ドルを教材 として扱 うことによって、子 ども達が潜在的に持 っている
「身体的諸能力」のうち、 「障害物を走 りなが らリズ ミカルに跳び越えてい く」 という能力を引き出 し てやることに主眼が置かれているのか、あるいは、まさしくタイムを競い合 う、陸上競技 としてのハー ドル走を目指 して体育の授業の中で練習がなされているのか、 ということに疑間が生 じるのである。
特 に後者のそれは、授業 における個々の子 ども達の「評価」の客観的資料 として用いるための もので あったり、 またその先に、何 らかの大会のための選手選抜が想定 されているのではないか、 という極 端な愚問さえ感 じさせ られることがある。確かに、小学校学習指導要領解説
(体育編 :平 成
11年5月
)には、 「 ハー ドルを用いて、 リズ ミカルに越える技能を身に付 け、距離やルールを定めて競争 したり、
自己の記録の伸 びや日標 とする記録の到達を目指 した りす る
(第5学 年・ 第 6学 年の目標及び内容、
C:陸
上運動、 イ :ハ ー ドル走
)」とあるように、 ここか らは上記の両方が 日標になっているように も読めるが、 しか しなが ら、 「競争性」や「 目標記録の到達」 は、前者の技能を身に付 けさせ るため の練習に対する動機付けと捉えるならば、あくまで体育実践の主たる目標 となりえるものではないと 考え られるか らである。
「勝つ」 ことを獲得せん とするためだけな らば、 その方法論 は、 まさ しくトップ・ アス リー トを育 てようと目論むコーチの数だけあることになるであろう。そこでは、身体のバ ランスがたとえ崩れよ うとも、並べ られたハー ドルをがむ しゃらに跳び越え
(あるいは最近の例をあげるな らば、 ア レン・
ジョンソン選手のように全てのハー ドルをなぎ倒 して走ろうとも
)、とにもか くにもゴールに他の選 手 より少 しで も速 く走 りこめば「勝つ」 ことを達成できるのである。 もちろん、それが将来的に伸び ることを確約する技能の獲得がな くとも、「勝つ」 ことだけは可能なのである。 ここに至 って授業者 は、 あ らためて子 ども達 に「 フォーム」 の重要性を指示す ることがあるものの、子 ども達 にとって
「勝つ」 ことの現実
(日常
)と、 「 フォーム」 という技能を獲得せん とするためにタイムが劇的に伸び ないことの非現実
(非日常
)の狭間で葛藤することになる。 こうした葛藤を生み出す要因は、 まさし く授業者が このハー ドル走 というスポーツ種 日か ら何を子 ども達に「獲得」 させんとしたかに求める ことがで きるであろう。 ここにスポーツ種 目を「教材化」するうえで、授業者のスポーツに対する現 実認識が大 きく影響す ると言えよう。
現実のスポーッが「競争性」をその特性の一つ として含んでいることは、先にも述べたが、 これを
そのままの形で体育実践への「教材」 として導入 しそれを強調することは、結局のところ、子 ども達
が潜在的に持つ身体的諸能力を引き出す うえで、マイナスに働 くこともあることについて、 ここまで 述べてきたわけであるが、 もちろん子 ども達同士の「競争心」が、潜在的な身体的諸能力を十全に引 き出す うえでプラスに働 くことも、筆者 自身が経験す るところである。 しか しなが ら、佐藤が述べる ように一般的に学校 において行われる体育授業を「普通体育」 と考え、部活動やスポーツ少年団活動 のような、 自らが率先 してそのスポーツに関わ りを もちたいとして選択す るよ うなスポーツ活動を
「専門体育」 として区別す るな らば、 それぞれにおける教材の扱 い方 には、 自ず と違 いがあると思わ れる。言 うなれば、そのスポーツ種 目が持つルール、例えば、ハー ドルの高 さやハー ドル間の距離を 子 ども用に縮小 して、将来のハー ドル競技を目指す といった視点か ら生み出される専門体育用の方法 論を、 「人間能力の基礎的で広範な可能性の顕現化」
(佐藤、p.287)を 目指すための普通体育 に適用
しようとす るところに、そのマイナスの要因があると言えるであろう。
5。
スポーツの教材化への新たな視点
前節 までの考察か らは、あたか もスポーツの競争性そのものを否定するかのような印象を与えるか もしれない。 しか しなが ら、影 山 らが「 みんなで トロプス」
(風媒社、 1984)で 取 り上 げたような、
「 スポーツというものが民衆を抑圧する装置 として機能」
(影山、p.86)し てお り、その根源が従来か らの「競争性」 にあるという主張に、同調するものではない。筆者が ここで言わん とするところは、
その「競争性」が普通体育の授業展開において、 どのような使われ方をするかによっては、毒 にも薬 にもなりうるということである。 またそのためには、 「普通体育」 と「専門体育」の違いを授業者が 再認識することの必要性 について述べて きたわけだが、それだけでは払拭できないほど、現代 スポー ツの日常化の影響 は大 きいと考え られる。 とす るな らば、我々は「人間能力の基礎的で広範な可能性 の顕現化」 という「普通体育
(学校体育 における授業
)」を身体 という次元で達成するためには、 ど のような視点の導入が必要 となるであろうか。
暉瞬は、 ドイツで次のような体験を したことについて述べている。
ある朝、森を通 って仕事 に出かけたとき、休暇をとった中年の男性が、森の中の藤椅子 にね ころん で、ただ じっとしているのに出あった。 夕方、帰 りにその森を通 ると、同 じ人が同 じように じっとし ている。なん とな くおか しくて私 は声をかけてみた。
「 あなたは一 日中そこで何を しているのですか
?」その答えは次の通 りだ った。
「人間は能動的に、なにかに動 きかけ、仕事を しているときも、得 るものがある。 しか し、 目的に 向か って一所懸命に何かを しているときは、周 りにあるものは日にはいらない。 こうして何 もしてい ないと、小鳥の声、風のそよぎ、落葉の音、陽の光、そ ういうものが、黙 っていて もきこえ見えて く る。受身で、 自分をカラに して受 けとることもまた豊かだ。私 はこうして時々自然 と対話を し、交流 して、 イメージをいっばいにして都市 に戻 る。 自然 と共 に生 きること、支え合い与え合 うこと、平和 のこと、子孫 に残す社会の ことなどを、身体でかん じ自分の ものにするのです」
(暉瞬、
pp.241‑242)「 目的に向か って一所懸命に何かを しているときは、周 りにあるものは日にはい らない」状態。 そ
れが、 スポーツ活動においては「競争性」 にのめ り込み、勝利を獲得 しようとす る状態 と同 じである
言えるであろう。 また先 に、非 日常的な時空間で展開される事柄を、そこか らの連続性 として日常的
な時空間につなげようとす る傾向が我々の心 に存在 していると述べたが、 このことも、「競争性」の
先にある「勝つ」 ことを「 目的」 とするがゆえに、非 日常か ら日常への逸脱を促す ことになると考え られる。
とするな らば、現代 スポーツが「非 日常性」か ら逸脱するなかで、学校体育にそのスポーッを教材 として取 り込むには、 どのような視点が存在するだろうか。
我々の身体が誕生 した時点に思 いを馳せてみるとしよう。誕生時、我々人間は何 もできないわけで あるが、 しか しなが らその時点において も、あ らゆることができるようになる「可能性」を持 ってい ることは、あ らためて述べるまで もないであろう。いわばこの時点での我々の身体 は、「水」というも のを吸い込む「可能性」をもったか らっぽの「 スポンジ」のような存在 として、生まれてきているの である。そこに「水」である「身体文化」が注 ぎ込まれることで、歩いたり、走 ったり、ボールを投 げたり等々の「身体技法」 を獲得するのである。 ここで先の暉瞬の例にもどるならば、「受身で、 自 分をカラに して受 けとること」、そ して「身体でかん じ自分の ものにする」 ことを通 して、普通体育 の「人間能力の基礎的で広範な可能性の顕現化」を身体 という次元で達成することが、可能 となるの ではなかろうか。
そこで求め られるスポーツの教材化の視点は、そうした素材を子 ども達に対 して、 どのようにめ ぐ り合わせることがで きるのか、あるいは、 どのよ うに「 たわむれ
(戯れ
)」させることがで きるのか が、教材化の一つの視点 として浮かび上が って くる。例えば水泳においては、水 との「 たわむれ」方。
球技 においては、 ボールとの「 たわむれ」方など、すべての学年で教材 となるスポーツその ものに求 め られねばな らない視点であると思われる。 というのも、我々人間は、 自然や道具 との関係を持ちな が ら、そこに創意工夫を施す ことで、文化を構築 してきたとか らである。そうした「人間と環境」の
「 出会い」 という視点を「 スポーッの教材化」への視点 として導入するな らば、 スポーッその ものの
「非 日常性」 と「 プ レイ」 を有効 に活用す る方向へ とつなが る可能性を持つ と考え られる。 またこう した原初的なスポーッの導入か ら、子ども達の身体的可能性が顕現化 され、発育・ 発達の段階にそっ た技能の精選がそれぞれの子 ども自身のなかで行われることで、豊かな体験の蓄積がなされてい くと 考え られる。
ここに挙 げた「 たわむれ
(戯れ
)」とい う教材化への視点 は、平成
10年に出された「小学校学習指 導要領」の「第 9節 体育
(〔第一学年及び第二学年〕、 2内 容、
A基本の運動
)」の
(1)に「走・ 跳 の運動遊 び、力試 しの運動遊び…」見 られるように、「『基本の運動』については、児童にとって楽 し い『 運動遊び』 としての特性をより明確にするために、
(中略
)第1学 年・ 第 2学 年 において、従前 の『 …の運動』を『 …の運動遊び』 に改めることとした」
(文部省、
p.7)という考え方 と基本的に は同 じであるが、問題 はそれ以降、すなわち学年が進むに従 って、「仲間との競争」等、「競争性」に 重点が置かれるという傾向は、以前のままである。そこに、普通体育 としての視点が消失 し、学校体 育において も、専門性を重視 した教材化が多 くの教師によってなされる可能性を否定することはでき ないであろう。
物質に満たされた現代社会において、心の豊かさを取 り戻す ことが叫ばれて久 しい。そうした現状
において、スポーッの持つ「非 日常性」 は、多 くの人々にとって心の豊かさを取 り戻す上で、貴重な
文化の一つであると推奨 されている。 もし、人間の内部
(精神をともなった身体
)において繰 り広げ
られる世界 と、人間の外部
(科学、技術、生産
)において繰 り広げられる世界 との調和 によって心の
豊かさが追求できるとするな ら、学校体育におけるこうしたスポーッの教材化の視点は、有効性を持
つ と思われる。
6.結
論
以上、本研究においては、 まず実社会 において、 コンピュータの導入により、 日常 と非 日常の境界 が曖昧にな りつつある状況を概観 した上で、 スポーッにおいて も、「競争性」の強化 によって、現代 スポーツが「 日常化」 しつつあることを明 らかにした。また学校教育の現場において も、その影響が 及んでいることについて述べた。そ うした考察を踏 まえて、あ らためてスポーッの「教材化」の視点
について以下のような知見を得た。
1)教
師は、現代スポーツが「非 日常性」 という特性か ら逸脱す る状況 にあることを、認識すべ き であること。
2)教
師は、 「普通体育」 と「専門体育」 とでは、 スポーツの特性の一つである「競争性」 の扱 い 方を区別 して利用すべ きこと。
3)そ
れぞれのスポーッが持つ原点的動 きに立 ち戻 り、その道具や環境への子 ども達の関わ りを豊 かに提示 し、活動を促す ことによって、スポーツの持つ「非 日常性」や「 プレイ」 という、ス ポーツに期待 される可能性を利用す ることができる。
註及び参考文献
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,岩波新書
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,世界思想社 豊かさとは何か
,岩波書店
<思