統計学講義とわが"第三の人生": 金沢大学法文学部 経済学科におけるサヨナラ講義
著者 安藤 次郎
雑誌名 金沢大学経済論集 = The Economic Review of Kanazawa University
巻 16
ページ 1‑18
発行年 1979‑03‑31
URL http://hdl.handle.net/2297/37172
− . 1 ‐ 一
月日は百代の過客にして行きかう人もまた旅人なり″と芭蕉は言いましたが︑人生はよく旅にたとえられます︒
いくさんが〃幾山河越えさりゆかば寂しさの
果てなん国ぞ今日も旅ゆく″
と若山牧水はうたいました︒
波潤にみちた生涯を回顧して︑河上肇は︑
〃たどりつきふりかへりみればやまかはを
こえてはこえてきつるものかな〃
とうたいました︒
私はまだ河上博士の心境ではありません︒敗余老残の身を老いの衰えのままに任かすというわけではありません︒
しかし︑本日︑金沢大学法文学部経済学科における最終講義の講壇に立って︑いささかの感慨にふけるのは︑当然
統計学講義とわが第三の人生〃
(−) l金沢大学法文学部経済学科におけるサョナラ講義I
安藤次
郎
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最高学府とよばれ︑学の濡奥を究める所とされていた昔の大学には︑えらい学者がいました︒一例をあげますと︑
大正年間の京都大学文学部の︑湖南と号した内藤虎次郎教授です︒
当時の学生であった吉川幸次郎先生の回顧談に︑こう語られていますl
﹃文学科の学生であるのをよいことにして︑史学科で行われる氏の講義にまれにしか出席しなかったが︑時間表
では十時からの講義が正午近くなって始るのは︑有名な朝寝坊のためであった︒メモをもたぬ講義が一時間弱で終
るのを︑だれも不平をいわなかった︒この学者からでなければ聞き得ない内容だったからである︒
朝寝坊は︑その書斎が毎夜十二時すぎまで客にあふれ︑夜半から早朝までが読書と研究の時間であったからであ
る︒﹄︵一九六七年九月十八日付朝日新聞学芸欄﹁折り折りの人﹂︶
このような昔の名物教授とよばれた碩学の大家︑豪傑学者の逸話をきくにつけて︑浅学非才︑デモ・シカ教師でし
かなかった私は︑自己嫌悪を感じないわけにはゆきませんでした︒
私は︑若いころから学問一筋の道を歩んだ人間ではありません︒そのような学者であれば︑定年退職を迎えること
は︑職責を立派に果して︑余生を第二の人生として送ることを意味することになりましょうが︑実を申すと︑私にと
りましては︑いまが第三の人生なのでありまして︑これからは第四の人生がはじまるのであります︒
私にとっての第一の人生は︑敗戦までの三十二年間の生活であり︑敗戦直後の混乱時代の約十年が第二の人生でし す︒ たのであります︒ のことでありましよう︒
私が本学に赴任して参りましたのは︑一九五五年の春でありましたから︑二十四年にわたって本学の御厄介になっ
この間に与えられた多くの先輩・同僚ならびに学生諸君の御指導・御協力・御支援に対して︑心から感謝いたしま
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だが︑やがて朝鮮戦争がはじまり︑その﹁米軍特需﹂でうるおったお蔭で日本経済の資本主義的復興を実現させた
資本の陣営が︾体制維持の自信を取り戻してゆくにつれて︑革命を指向していた労働運動にも転換期が到来して︑政
治運動にも波潤と混乱が起りました︒内部対立と内部抗争がしだいに深刻になってゆき︑政治信条を堅持すれば人間
性がこわれてしまう︑人間性を確保しようとすれば政治信条をつらぬくことができなくなる︑というような矛盾が鋭
くなり︑本来は世の中をきれいにする筈の反体制の実践活動が︑わが手と心とを泥まみれにする羽目になることを知
り︑やがて私は政治に幻滅し︑変革に挫折した傷ついた心で実践活動から退くことになりました︒
こどものころに︑教育ママ的なところのあった母親の過保護のために︑竹馬や空気銃は危いからいけないと禁じら
れ︑近所の悪童たちと泥まみれになって遊ぶことも十分には体験させてもらうことが出来なかったためでしょうか︑
私はあまり社交的でない人間に育ってしまい︑スポーツはきらいじゃなかったけれども勝負事は好きでなく︑他人と
争うこともきらいなのです︒
そういうわけで︑労働運働・政治運動から身をひきまして︑しばらく何も職業をもたぬ日をすごしておりましたけ
れども︑いつまでも遊んでいられる身でもありませんでしたので︑大学の先生にでもなろうか︑それしかできまいと
いうことで︑新制大学の教師になったわけであります︒
本学にとっては︑不幸なことであったと言わねばなりません︒まことに申しわけない次第であります︒したがいま れた楽しい生活でした︒ 敗戦後十年間の変動期に︑私はかねて念願であった労働運動の実践活動に身を投じて︑産別会議傘下の全日本印刷
出版労働組合の専属書記として︑つづいて書記長として︑賃金闘争やストライキ闘争や生産管理闘争や企業閉鎖反対
闘争などに明け暮れる生活を体験しました︒物質的には貧しい生活でしたが︑精神的には充実感と満足感とにみたさ た︒したがって︑本学における二十四年間はへ第三の人生にあたるのです︒
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して︑内藤湖南先生の逸話なぞを聞かされると︑肩身が狭くて身の置きどころがない思いがするわけであります︒
はじめて本学の教壇に立ったときには︑学生諸君が天下の秀才ぞろいであり︑同僚たちが頭脳明敏な学者ばかりの
ような感じを抱いておりました︒だが︑最初の一学期をおえ期末試験の答案を読んでみて︑天下の秀才が本学に集っ
ているわけでもなさそうだとわかり︑学部会や学会などに出席して論議をきいてみて︑学者必ずしも頭脳明敏とは限
らないようだということがわかって︑やや心の落着きを取戻すことが出来ました︒
私は︑教養部と経済学科とで︑統計学の講義を担当して参ったわけで︑はじめのころはかなり真面目に統計学の勉
強をしていたつもりであります︒講義をすることは︑楽しいことでもありました︒
ところが︑やがて友人に頼まれて︑北陸鉄道労働組合のために労働組合運動について講演をしました︒さきに申し
ひとあじましたとおり︑数年間労働運動の実践活動を体験しておりましたので︑私の講演はどこか一味ちがったところがあつ
きたらしい︒﹁大学の先生らしくない﹂l近ごろの言い方をすると︑ビートが利いているぞということであったらし
く︑だんだんあちこちの組合から︑賃金講座をやってくれ︑討論集会の講師をやってくれと︑労働講座の依頼がつづ
くようになりました︒
ちょうどMSA援助反対とか︑警職法案反対とか︑六○年安保反対闘争とかと︑闘争がつづき労働者階級の学習熱
が昂揚した時期でもありましたので︑多いときには一年間に百回近くも労働講座に引っぱり出されました︒
西は福井県の敦賀︑東は新潟県の糸魚川︑北は奥能登︑南は長野・名古屋くんだりまで︑さまざまな産業部門の労
働組合のために︑賃金や国際問題や雑多な時事問題について講演を重ねました︒
統計学の講義は学内だけで︑学外で統計の講義をすることは︑市役所や県庁からたまに依頼されただけでした︒
〔二)
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感じておりません︒ 大学の講義はアカデミズムの立場で︑すなわち︑特定の階級や党派に偏することなく︑あくまで客観的に冷静に心
を保った姿勢で学生諸君に接しなくてはなりません︒労働講座では︑組織労働者として行動する立場にいる活動家が
受講生なのでありますから︑実践から遊離した理論・行動から切り離された学説は︑何の役にも立たないことになっ
てしまう︒どっちを向いて話しているのかがわからないような説き方ではダメなのです︒行動の指針を含んだ講義を
しなければならず︑それは当然にある程度のアジテーションを伴います︒
確信と責任をもって断言しなければなりません︒
したがって︑大学の講義と労働講座の二足のわらじをはくということは︑たとえて申せば︑冷房のきいた部屋で静
かに話をしたあとで︑次にはカンヵン照りつける真夏の炎天下に大声をはり上げて演説することを︑出たり入ったり
してくり返すようなもので︑身体の調子も変調をまねきかねません︒どちらかがおかしくなるか︑どちらもが中途半
端になってしまうおそれがあるわけで︑今から思い返してみますと︑理論活動・教宣活動をする人が労働運動の内部
から育つまでの過渡期に要求された仕事としてやむをえなかったように思いますけれども︑あまり成功したようには したがって︑私の講義の受講生は︑本学の教養部と経済学科の学生の合計よりも︑学外の北陸三県を中心とする各
地の組織労働者の数の方がはるかに多いのであります︒統計学と労働講座と︑どちらが本職かわからないような状態●●●になった︒統計講義と労働者教育の﹁二足のわらじ﹂をはいてきたわけで︑このことは︑私自身にとってはこれも勉
強になったのでありますけれども︑学生諸君には気の毒をしたと思います︒
労働講座活動に時間と関心を奪われることがなかったら︑もう少し統計学の領域での業績を積み重ねることが出来
たかもしれませんが︑二兎を逐う者一兎をも獲ずにおわったわけであります︒
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階級構成の分析が必要だとか︑地方統計の問題を採り上げるべきだとか︑統計指標体系を主体的に構築することこ
そが統計学者の本来の任務だとかと︑いくつかテーマを掲げて仲間によびかけることはしたものの︑その主張を裏付
ける研究実践が伴わぬままで︑統計学講座の担当者として見るべき業績をあげていないことは︑相済まないことだと
自責いたしますけれども︑〃烏のまさに死なんとするやその声悲しく︑人のまさに死なんとするやその言やよし〃と
言いますから︑この機会に︑わが国の統計教育に対する根本的な疑問・批判を︑あからさまに言わせてもらうことに
元来︑統計調査という調査研究︑統計事業という行政的活動は︑集団作業として行われる仕事でありますから︑統
計学講義というものも︑講義をする者たちの集団によって担当されるべきものだと思います︒
私は︑統計学という学問は︑社会諸科学に奉仕する補助科学だと考えます︒﹃考古学という学問は︑地下から発掘
された物質的資料によって過去を組立てる歴史の補助学である﹄︵藤森栄一︶とされますが︑同じように︑社会科学
のあらゆる領域をカヴァーしている社会統計l時としては自然統計や技術計算統計をも含むl多種多様な統計資
料を主体的に組立てた統計指標体系を構築することをつうじて社会諸科学に奉仕するのが︑統計学プロパーの任務と
なるべきだ︑と考えるのであります︒しかし︑内外の統計学界の現状は︑﹁数字あれども統計なき統計学﹂と化した
数理統計学の花ざかりで︑統計学講義も人間不在の科学方法論として︑統計の内容でなく形式を論じるだけのものが
多い︒これは︑統計教育の根本的な誤謬だ︑と考えるのでありますが︑この誤謬乃至偏向は︑統計教育が集団作業と
して講義されずにあることから生じる必然的な結果であろう︑と思います︒ いたします︒
経済学がいろいろな専門科目に分かれて研究ざれ講義されているのに︑なぜ経済統計学はひとりの人間によって講
(三)
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義されれば足りるとされるのか?果してそれでよいのか?
経済統計だけについてみても︑農林水産から工業貿易︑交通運輸通信︑財政金融保険その他︑あらゆる産業部門に
わたって多種多様な統計が生産されており︑それぞれの統計を活用するためには︑それぞれの部門の専門知識を必要
とします︒
財政学者は︑財政学講義の中で財政統計にふれるでもありましよう︒金融学者は︑金融論の講義の中で金融統計に
ふれるでもありましょうけれども︑多分︑附随的に言及するにとどまり︑受講する学生も統計講義の一部分として受
けとめてはいないのではないか︑と思います︒
また︑経済統計を研究対象としている統計学者について見ましても︑それぞれの学者が特に興味を抱く部門統計に
ついて研究を深めるのがふつうであって︑あらゆる種類の経済統計に万遍なく関心を抱き注意を払うということはむ
ずかしいので︑そんな人はいないと申しても過言ではない︑と思います︒むしろ︑国民経済計算であるとか︑剰余価
値率の計算だとかIつまり︑経済学的研究であるテーマに取組む統計学者が多いのが実情であります︒
私は︑かねがね︑実践的な側面の多い統計学の講義のためには︑統計学者だけでなく︑統計行政および統計調査に
参加している統計実務家たちをも含む集団を編成して︑各メンバーが得意とする部門あるいは経験をゆたかにもつ部
面についての講義を分担して︑集団講義が組織される必要がある︑と考えてきました︒このような集団講義が実施さ
れないために︑大学での講義が具体的・実践的な内容に乏しいものになってしまうのだ︑と思います︒
大学教育の改革には︑こういう問題をも採り上げて︑講義の内容についても開らかれた大学を実現する必要がある
と思いますが︑ここでも﹃言うは易く︑行うは難し﹄で︑特に国公立の大学ではきわめて実現困難だと思います︒
経済学部が分離・独立する機会に︑初歩的なものであっても︑何か手を着けることが出来るようであれば︑研究し
ていただきたいものだと思います︒
−
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統計学の勉強のためにも︑認識論・科学方法論の勉強のためにも役に立つ本ですから︑︲平林馴を域照L咽刷も読み
はじめましたが︑間もなく平林訳が誤訳だらけであることがわかり︑おどろくとともに︑がっかりしましたが︑がっ
かりしただけでなくだんだん腹立たしくなりました︒立派な書物である原書が︑無責任な訳者と非良心的な出版社が
出した悪訳書のために読まれなくなってしまうことがしばしばあります︒そのことに憤慨して︑私はすっかり訳し直
すことを思い立ち︑京都大学の大橋隆憲教授に依頼して︑原書第二版を京大の図書館から貸出してもらい︑すっかり
自分で翻訳し直してしまいました︒自分の勉強のためにやった翻訳でしたから︑その出版は今日に至るまで実現して
.︒︒.︒︒︐︒︐︲・誌鄙啄全︒・・・おりませんが︑第三版上巻に当る部分だけは︑手製のプリントを作って友人たちに提供しました︒ もあります︒ 日▲■︽■▽色︒p②画■IooUg〃oUOa︒ゥG−o統計学の講義をはじめてまだ日の浅いころ︑ある日︑橋場の古本屋︑南陽堂書店屑偶燃カール・ピァスンの
皀掃毎画目愚門呉雰討poの︵科学の文法︶の第三版を見つけました︒カール・ピァスンは︑イギリスの統計学史の上
に名をとどめる業績をのこしている統計学者ですから︑当然私はそれを買求めて帰宅しました︒
曇の毎画目愚獄呉登goのという書物は︑一八九二年に初版が出され︑一八九九年に霊一版が出て︑一九三年
に第三版の上巻が出ましたが︑下巻はついに刊行されぬままピァスンが死んでしまったのです︒
戦前に春秋社という出版社が出した﹃世界大思想全集﹄の一冊として﹃科学概論﹄という書名で︑平林初之輔訳が
あります︒この訳書は第二版を底本にした翻訳です︒
この書物は︑レーニンが﹃唯物論と経験批判論﹄の中でくそみそにやっつけていることでも記憶されているもので
レーニンは︑ピアスンをイギリスでの代表的なマッハ主義者であるとして︑罵倒のかぎりをつくして論難している
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のですが︑この翻訳をする過程で︑私はレーニンよりもむしろピアスンに共感を覚えました︒レーニンの論難はいさ
さか見当外れのきらいがある︑と感じました︒なぜかと申しますと︑ピァスンは別段唯物論に反対しているわけでは
ないので︑ただ唯物論よりも﹁健全な観念論﹂のほうが科学の進歩に貢献する︑なぜなら批判こそが科学の生命だか
らだ︑と説いているのです︒
ピアスンは︑科学法則というものは︑ふつうは自然が人間に与えるものであるかのように説かれるが︑そうではな
い︒人間が外界からえた感官印象を分類し・整理し・順序立てて記述したものが科学法則なのだ︒だから︑人間が自
然に法則を与えるのだ︑と説きます︒
唯物論こそが科学であり.真理であり・善であって︑観念論は神学であり.虚妄であり・悪であるlこのように
考える人には︑レーニンがきめつけているように︑ピアスンは大間違いをしていることになりますが︑論争を判断す
る場合には︑私たちは︑それぞれの論者の主張をおのおのの立脚点に立って内在的に吟味する必要があります︒その
上で︑各自の論点︑立脚点の当・不当を問題とするのでなければなりません︒東から西を向いて見ている人と︑西か
ら東を向いて見ている人とでは︑話が一致しないのは当然だからです︒
﹁人間が自然に法則を与えるのだ﹂というピアスンの主張を唯物論を念頭において耳にすれば︑そんなバカなこと
があるかと反携したくもなるでしょうが︑ピアスンの真意はどこにあるかと申しますと︑科学法則は人間が自然に与
えた記述であるI←人間というものは完全なものではないから︑人間が自然に与えるところの法則もまた完全なもの
ではありえないl←だから︑科学法則というものも︑つねに批判の対象として吟味されつづける必要があるl←そこ
に科学の前進が保障されるのだI←この法則・理論の吟味の努力を忘れるところには︑科学法則は教条と化してしま
い︑科学の前進はストップしてしまうl←批判は科学の生命なのだ︒こういうのがピアスンの主張の根本精神なので
す︒ピアスンは観念論が正しくて唯物論がまちがいだ︑と言つているのではありません︒
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一九六四年八月から九月にかけて︑私は日本科学者代表団の一員として久しぶりに中国を訪れ︑北京科学討論会に
参加しました︒中国は私が生れた国であり︑少年のころと青年のころに数年間生活したことのある国ですが︑人民革
命勝利後の新中国を訪れるのははじめてでした︒旧中国の悲惨な状態のことを知っている私に︑人民中国の姿は深い 観念論であっても︑自己批判を忘れなければ︑誤りに気付き︑誤りをへらしてゆくことはできる︒唯物論であって
も︑自己批判を忘れていれば︑教条と化し︑観念論に転化してしまう︒したがって︑科学の前進を願う科学者精神が
健在であれば︑そうして自分の立脚点をわきまえているならば︑観念論か唯物論かはどうでもよくなる︒学問をする
者にとって︑最も大切なことは︑批判と自己批判である︒︑
目言⑦愚白目胃具のgg8を翻訳しながら︑同時にレーニンの﹃唯物論と経験批判論﹄をも読み返して批判と自
己批判の大切なことを深く思い知ったのででありました︒
自然科学の研究においては︑実験が主要な研究方法であり︑仮説的理論は実験によって検証されます︒成功した実
験も︑失敗した実験も︑それなりに役に立ちます︒
社会科学の研究においては︑原則として実験が役に立たない︒観察と実践とが重要になる︑そうして︑真理の基準
が実践であることが力説されます︒したがって︑特に注意されねばならないのが︑実践を対象とする検証において大
切なものが︑実践者の自己批判であります︒
プディングのうまさは食ってみればわかると言いますけれども︑食ってみればわかるのは︑それがプディングだと
いうことであって︑プディングとしてのうまさが食えばすぐわかるとは必ずしも言えません︒きき酒のためには︑酒
をのんでしまうことをしない︒ウィスキーのブランドをのみわけることは︑誰にでもできることではありません︒
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社会調査は人間を対象とする調査ですから︑調査の対象となる人びとが胸襟をひらいて真実を答えることをはばか
るようでは︑調査の成果をあげることはできません︒資本主義経済制度のもとでは︑私企業の秘密のために経済統計
の信頼性がゆがめられていることは︑周知の事実であります︒生産手段の社会的所有制が実現したのちには︑統計は
報告統計制度のもとで常時整備できるようになる筈だと考えられていましたが︑残念ながら社会主義諸国の統計およ
び統計学の実情は︑私たちの期待を裏切っております︒これは︑社会主義国における言論・報道の自由と︑官僚主義 はなりません︒ 感銘を与えました︒私は青年時代の夢であった社会主義が現実となっている中国を自分の眼でたしかめ︑社会革命によって人間の根性が一変することがありうることを確認することができました︒
毛沢東・朱徳・劉少奇・陳毅・都小平・最栄蕊・林楓・郭沫若・萢長江その他︑かねて名前をよく知っていた英雄
豪傑たちが︑綺羅星のごとくに人民大会堂の大会場に居並ぶ光景に圧倒されましたが︑もちろん︑とてもうれしかっ
た︒本当に涙がこぼれそうになるほどうれしかったのでした︒ちょうど休暇をとって静養中だということで︑周恩来
には会えませんでしたが︑騨暮橋とは言葉をかわすことができました︒
中華人民共和国の建国は︑東洋における数千年の歴史上最大の出来事です︒一九一七年のロシア大革命︑一九四九
年の中国大革命の勝利は︑﹃万国のプロレタリア団結せよ﹄のマルクス・エンゲルスの主張を裏付けたものです︒共
産主義は︑幽霊でも夢想でもなく︑歴史的な事実となっている︒学生時代にマルクス文献をよみ特高警察に弾圧され
つもりる辛い目に会ったけれども︑身体をはって社会科学を学んだことは正しかったのだ︑とうれしかったのです︒
しかし︑そうであっても︑その歴史的事実となった革命の実践を無批判的に受けいれてしまうのでは︑やはり科学
的ではないし︑マルクス主義でもレーニン主義でも毛沢東思想でもありません︒
統計学の問題にしぼって言うならば︑統計調査と統計の普及・活用のためには︑言論と報道の自由が存在しなくて
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となく︑①r
ません︒ 批判の自由に問題があるからであろうと思います︒
統計が政府機関の手の中で整備されても︑それらが公麦されて人民のものにならないかぎり︑統計は信頼されるこ
となく︑活用されるものにはなりません︒そうして︑統計が活用されることがなくては︑社会科学の発展も期待でき
私はわが国の統計学界で最も早く新中国の統計文献を紹介する仕事をした人間でありますけれども︑残念な毎b一
九五八年以後︑中国の統計文献にはほとんど見るべきものが見当らず︑私の仕事も中断したままなのです︒
中国の学界は︑ぼつぼつ再建されつつあるようですから︑いずれまた仕事を再開できるかと思います℃
私はケネディを特別に傑出した政治家だとは思っておりませんでしたから︑それほどびっくりも悲しみもしません
でしたが︑このときひじょうにおどろいたことが一つあったのを︑今も忘れません︒
それは︑ケネディが銃撃されてバタリと倒れたとき︑となりに坐っていたジャクリーヌ夫人が︑づぽ︾Z︒.苛呉︾
胃きぐ①言三感と叫んで取りすがった︑と当時の新聞に報道されたからです︒
︑○戸zo・言京二︒言苫屋.副lどう訳したらいいでしょうか?
﹁おお︑いけないわ︑ジャック︑わたしあなたを愛してるわよ﹂llこれではおかしい︒こんな訳し方はできませ た。
ん
0 アメリカの大統領ジョン・ケネディがテキサス州ダラスで暗殺されたのはや一九六三年十一月二十一百のことでし
﹁あっ︑たいへん︑ジャック︑しっかりしてちょうだい﹂とでも訳さなくてはなりますまい︒
(六)
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後に成人して有名な言語学者になった大島正健という人が︑五十年後にした回顧談では︑
﹃いよいよ別れの時が来た・先生は進み出て私達一人一人と握手をされた︒私達は誰も顔をあげることができな
かった︒あたかも慈父を失なう時のような思いであった︒別れは誠に辛いことであった︒先生は再び馬上の人とな
り︑手綱を片手に鞭を他の手にして私達の方を振りむき︑﹁青年よ︑この老人の如く大志を抱け﹂と叫ぶなり︑鞭
を馬腹にあて︑さっとばかり行ってしまわれた﹄
と語られており︑さらにそれから十年後には︑■同じ大島氏が︑少しちがった言い方をしているのです1.
︵クラーク先生は︶﹃先生をかこんで別れがたなの物語にふけっている教え子達一人一人その顔をのぞき込んで︑
﹁どうか一枚の端書でよいから時折消息を頼む︒常に祈ることを忘れないように︒では愈々御別れじゃ︑元気に暮
せよ﹂といわれて︑生徒と一人一人握手をかわすなり︑ヒラリと馬背に跨り︑由◎瀞.言画ヨご霞○塁葱と叫ぶなり
長鞭を馬腹にあて︑雪泥を蹴って疎林のかなたへ姿をかき消された﹄亨
こう語っております︒︵北海道大学図書刊行会刊﹃少ラーク﹄二四一一西二頁︶一瓦 実は︑
ります︒ それにしても︑こんなとっさのときに︑こんな形で胃ざぐ①言巨という言い方が使われるとは︑外国語というもの
は︑なんとむずかしいんだろう︑となげかわしく思ったのです︒
本国のアメリカよりも日本において有名なアメリカ人に︑ウィリァム・スミス・クラークという人がいます︒みな
さんご存知の由︒瀞.富四目豆蔵︒呈劉で有名な︑あのクラーク先生です︒
この国︒雷管冨画ヨロ三○量は︑﹃若者よ︑大志を抱け﹄と訳されて︑それが語りつがれておりますが︑正しい訳は
どうあるべきだったのだろうか?
実は︑クラーク先生の教えを受けていた札幌農業校の若者たちの一人が伝える当日の状景には︑二通りの説明があ
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大志を抱けと訳した文章が伝わったお蔭で︑クラークは︑ご当人が予想もしなかったほど日本において有名になり
今も記憶されることになったのだ︑と思います︒
しかし︑それでは︑ご①画ヨワ蔓︒崖里を大志を抱けと訳したことは︑まったくの誤訳だったのかと申しますと︑決し
て誤訳だとは断定できません︒なぜかというと︑やはり当時のクラークの教え子であったもう一人の人物が︑その傍
証を提供しているからです︒
後日︑大島正健よりもさらに有名になった内村鑑三です︒内村鑑三の名著﹃後世への最大遣物﹄の中で幽旦︺三○国
ということばが使われていますが︑内村鐘一●一は希望ということばに四三茸旨目という英語をあてているのでありま れるのです︒ そこで︑前後の模様から判断するとき︑国呈のの.富国ヨゥ三○匡里を﹁若者よ︑大志を抱け﹂と訳すことは必ずしも
適訳とは言えないように感じられます︒﹁みんな︑元気を出せ︑めそめそするな﹂という意味だったのだろうと思わ
す︒︵岩波文庫版一八頁︶
大志と訳すと︑大望・野心を連想しやすいわけですが︑内村鐘一尼とってはシヨワ三︒ロは希望であって︑大望でも野心
でもなかったようです︒冨画ヨゥ三○口の一とは︑志を持ちつづけることであり︑望みを失わないことを意味したのです︒
佐藤一斉の﹃言志録﹄の中に︑﹁血気有老少︑志気無老少﹂という句がありましたが︑この志気が言言婁目にあ
たるわけです︒中国の英漢大字典の中で私はシヨヮ三目の訳語として志気があるのを見つけました︒
これで︑﹁この老人のように画ヨワ三○崖のであれ﹂とクラークが言ったという︑さきの五十年後の回顧談がうなづけ ●●●●●●●●
ろわけであります︒︵クラークはこの時五十二才でした︒︶
それにしましても︑外国語というものは︑まことに厄介なものだと思います︒
− 1 5 −
戦前の大学生にくらべて︑いまの学生諸君の語学力が甚だしく低下していることを︑外書講読で痛感しましたので
特に︑もっと語学に力を入れてほしい︑と希望いたします︒
私は︑学生の語学力が低下している原因の一つとして︑日本語に注意を払わないことが大いに関係していると思い
ます︒どうか日本語を大切にしてください︒
国語を大事にすることは︑国を愛することと︑学問を愛することとの︑第一歩であります︒
私が旧制高等学校に入学したのは︑一九二九年四月でありましたから︑一九三一年九月十八日﹁満洲事変﹂が起っ
たときには︑高校三年目でした︒すでに社会科学すなわちマルクス主義の勉強に入っておりました︒したがって︑日
本の軍事行動が世界経済恐慌から脱け出そうとあがく日本帝国主義の侵略戦争であることを知っておりました︒だか
ら︑それ以後十五年間つづいた大戦争の間も︑戦争を支持する気持を持ってはおりませんでした︒そのために三度に
わたって特高警察の弾圧をくらいました︒
敗戦までの最後の一年半は︑自由を拘束される身でした︒だから︑一日もはやい敗戦を願ってやみませんでした︒
しかし︑いざ戦争がおわってみますと︑敗戦はやはり私の心をきずつけ︑私の心の中で何かが変化したのでした︒
それは︑福沢諭吉の脱亜論にみられたような︑明治初年以来百年にわたってつづいた日本のアジアばなれに対する
資本主義生産様式の発展していた欧米諸国を何の疑問も抱かないで先進国とよび︑それらいわゆる先進国に追いつ
き・追いこせと汗水流して努力することへの反省であり︑反携です︒
私が日中友好運動に参加し︑石川県日中友好協会の会長なんかを引き受けていたのは︑アメリカの新中国敵視政策 しかし︑それは︑
反省です︒
(七)
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四角号礪検字法は︑まだ日本では普及がおくれておりますけれども︑やがて大いに役に立つ日が来ると思います︒
本学における最後の三年間にこの仕事をまとめ上げることが出来たことは︑金沢大学法文学部に対する私の最大の思 を申し上げます︒ おりました︒ 白状いたしますと︑最近の三年間︑私は統計学講義を担当はしておりましたが︑心そこに在らざる状態であったのでありまして︑私の一切の時間は︑四角号礁漢字索引の作成に投入されていたのであります︒
この間︑私は︑学科打合せ会議にも欠席をつづけ︑教授会にも欠席勝ちで︑学部の分離独立問題やら︑共通一次試
験の問題やら︑ほとんどすべての学内行政・教務に関する業務を同僚のみなさんに押しつけて知らぬ顔をして過して に反対し︑それに同調していた日本政府・財界の対米追随外交に反対し︑・日中友好運動を通じて︑日本のアジアぱなれの歴史を清算させたいと願ったからでありました︒
幸いにして︑昨年夏︑日中平和友好条約は締結され︑本年一月一日から米中国交も正常化しましたので︑私の念願
も一応の目的を達成したことになります︒安んじて書斉外の活動から身をひくことが出来ますし︑そうしたいと思っ
ております︒
お蔭様で︑いま日本で出版され一
引を作り上げることができました︒ ります︒
まことに相済まぬことでございました︒寛大に私のわがままを見て見ぬふりをして下さったみなさんに︑厚くお礼 この日中友好運動とも関連する仕事だったのでありますが︑最後に一つ︑おわびを言っておかねばならぬことがあ
いま日本で出版されている主要な中国語字典と漢和字典のほとんどすべてのものについての四角号礁索
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結論であります︒ ずであります︒ これから後︑わが第四の人生においては何をやるか?いまのところ︑三つの仕事を予定しております︒一つは︑四角号礁学会をつくって︑四角号砺検字法を日本全国に普及させる努力をつづけたいと思っております︒二つには︑衆参両院の国会の委員会審議の速記録を資料に使って︑国会審議の中で統計がどのように利用されてい
るか︑国会議員たちの統計についての教養を吟味したいと思います︒
三つには︑日本という国の実態を明らかにするための統計指標体系をあらゆる種類の統計を使って立体的に作り上
げてみたい︑と考えております︒
いずれも︑すぐに出来上がる仕事ではありませんが︑毎日少しずつ積み上げてゆけば︑ある程度のものが出来るは
鶴という烏はやご承知のように︑渡り鳥です︒鶴はシベリアからヒマラヤの高い山々を飛び越えてインドにまで飛
びます︒若い鶴も︑年老いた鶴も︑同じように万里の旅をします︒〃老鶴万里心という一句を︑老境に入っても心
に抱きつづけたい︑と念願しております︒ 学問というものは︑たとえ頭脳明敏でなくても︑記憶力が乏しくとも︑たゆみなく少しずつ積み上げてゆけば︑次第に形が出来上ってゆくものだという信念を持つことが出来たのは︑本学における二十四年間の生活が教えてくれた い出となり︑感謝の念を抱きつづけるであろうと思います︒
和歌ではじめた本日のサョナラ講義を︑唐詩l有名な劉希夷の詩中の四句を結びとしておわることにいたしま
(八)
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年ごと花は似たれども歳ごと変るひとの身に若人たちよ心して白髪の翁あわれめや
﹁この翁白頭真にあわれむべし︑これ昔紅顔の美少年﹂とつづくわけですが︑﹁若人たちよ︑心して︑白髪の翁あ
われめや﹂lこれが言いたかったわけ︒ す︒
みなさん︑どうもありがとうございました︒ 倉石武四郎先生の訳で申しますと︑ 年々歳々花相似寄言全盛紅顔子
須 歳 憐 々 半 年 死 々
白 人 頭 不 翁 同
︵一九七九年二月五日︶