• 検索結果がありません。

真宗研究15号 004真岡光磨「アメリカの教育と宗教々育」

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "真宗研究15号 004真岡光磨「アメリカの教育と宗教々育」"

Copied!
12
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

アメリカの教育と宗教教育

︵ 十 口 問 回

芭 麿

現在わが国では、物質的発展の目ざましきに反して、精神面の向上が忘却されてきたことが、 クローズアザプされ る に 及 び 、 その結果、国家的な大問題として、人間回復が絶叫されている。 わが国より、社会的、産業的な面におけ どのように受けとめられているか る科学化や機械化が更に進んでいるアメリカにおいて、人間教育がどのように位置ずけられ、人間教育と宗教教育が ① 一九六入年にアメリカへ留学した折に訪問したセントグレア高等学校、ベセル高 等 学 校 、 フ ォ ! ト カ ウ チ 中 学 校 、 ストリームズ小学校を中心に、実際に体験した学校教育と宗教教育の関係を考えて み た い と 思 う 。

学校とキリスト教の歴史

② 十七世紀における最初の移住者達によってもち込まれたキリスト教の伝統 ︵宗教的理由にもとずく熱烈な実験精 神︶は社会の各層に浸透し、十八世紀に入るやキリスト教各派は自派における聖書の解釈を絶対に正しいと信じたた ア メ リ カ の 教 育 と 宗 教 々 育

(2)

ア メ リ カ の 教 育 と 宗 教 々 育 四 めに、激しい宗派心が生れてきた。この宗派心が最初から教育に大きな影響を与えたのである。どの宗派でも自分の 立場を維持するために教育に最も力を入れ、教会はきそって学校を設立した。叉地域社会の設立した公立学校でも、 そ の 教 育 方 針 は 、 その地域で正統と認められた宗派が担当した。その上高等教育の普及を一般に教会の仕事と考える よ う に な っ て き た 。 牧師達は地域社会における知性の代表的な指導者になっていた。その牧師達を多数教育して世におくり出すため、 牧師を教育する大学の必要性が急激に高まり、次々と大学が設立された。 一 ュ l イ ン グ ラ シ ド で は 、 ハ ー バ ー ド 大 学 、 イ ェ l ル大学、プリンストンのニュ l ジ ャ ー ジ ー 大 学 、 オランダ改革教会派のラトガ l ズ大学、英国々教派のウイリ アムアンドイエリイ大学やコロンビア大学等である。これらの植民地の大学は、ことごとく牧師としての教育を施す ために設立されたものであった。 その後中等学校教育の義務制がとなえられるようになったが、これもやはり、 キリスト教神学の話を受け入れさせ る の が 目 的 で あ っ た 。 このようにアメリカの学校設立の目的は、 キリスト教の教理を説く場合に、市民にそれだけの学力と英語能力をつ けさせるためであり、大学は、 キリスト教を伝導するための牧師を養成する場として必要であった。

アメリカの教育目標

アメリカの高校及び小・中学校の教育目標や方針はどのようになっているかを知ることは、著しく困難である。殆 @ どの学校が出しているハンドブック︵生徒心得︶にも目標や方針など見当らない。ルイジアナ州バトンルージュ市内 の中学校でも生徒心得の中に教育目標をのせているのは一校にすぎないほどである。 セントクレア高校でもただ﹁真

(3)

理と正義﹂公

EF

白 ロ 円 四 円 目 的 宮 ︶ と だ け 単 語 を 三 つ 使 用 し て い る だ け で 、 @ はなはだ要領を得ない。プレスコット中学校 を例にとってみると、教育目標は

ω

ふさわしい技術と望ましい理解力、態度の育成 (2) 健康の維持と増進の助長

ω

市民としての権利、義務の理解 例経済社会の奉仕を賢明に得たり、利用したりする知識の習得

ω

他人と一緒に働くことにおいての倫理観、価値観の尊重 川

w

J

帥 省 略 と掲げ、教育者側と保護者のアンケートを見ると、教育者側は ︶ 4 i ︵ 個人としての正しさをもち、人間関係の良好なよき市民

ω

個性豊かで信頼しうる人間 制自分の生き方が追求でき、親しみと協力的態度を備えた人間 (7) 知性と責任をもって尊敬される人間 (9) 敬度の念をもった人間

正直で、親切で、寛容で他人を尊敬する人間

ω

w ω ω

省略 と言い、保護者側でも、敬愛しあえる人間、罪意識をもち、自分と他人に正直な人間、社会に役立つ人間等で教育者 側とほぼ一致している。すなわち、 よき市民として尊敬され、社会の一員としての責任を果しうる人聞を望んでいる ア メ リ カ の 教 育 と 宗 教 々 育 二 五

(4)

ア メ リ カ の 教 育 と 宗 教 々 育 一 一 六 ょ う で あ る 。 セ ン ト ク レ ア 高 校 の 校 長 も 、 ﹁人間として恥ずかしくない市民、権利と共に責任のとれる人間﹂を目標 に し て い る と 述 べ て い た 。 これらを総合的に判断してみると、 それぞれの学校や立場でその目標も多様ではあるが、その中に流れている基調 は﹁よき市民として尊敬され、社会に役立つ人間であり、個人の自立心と責任感を育成する全人教育﹂である。

ーコ 仁3 に し て 言 え ば 、 ﹁ 良 き 市 民 の 育 成 ﹂ で あ る 。 しかしこういう目標や方針が特に生徒心得に列記してなかったり、学校 や教育に掲示してないことは、全人教育に重きを置いていないことを意味するのではなくて、教育において、全人教 育の必要性は理の当然であって、こと更掲示したり、列記するまでもないことと、もう一つには、 アメリカの国民性 として抽象的項目よりも、具体的生活体験の場を通して、即ち、教科、教科外活動の学校生活を通して、直接それが 全うされるべきことを示していると思う。

四、宗教々育の定義

宗教々育という語には多面的な響きがある。 ︶ 4 A ︵ 宗教教理を教えるもの (2) 宗教的、道徳的規律によって導くもの (3) 宗教的信念をもって教育するもの アメリカの教育と宗教々育を考察する場合、右の項目が全て該当するようである。だから広義の意味において、即 ち道徳的、全人的教育を含めて、それが宗教と何らかの関連をもっ場合は、すべて宗教々育と解し、ここでは取り扱 っ て 行 こ う と 思 う 。

(5)

五、公立学校及び私立学校の宗教々育観

先に考察した如く、教育目標も定式化されていないが、その意図する所は、市民として尊敬される人間の育成にあ る。その市民としての態度とは、民主的な遺産・アメリカの歴史と伝統、義務と責任を尊敬することであり、権利、 所有物、他人の意見を尊重する立場である。精神的には敬度の念をもった人間、喜こんで奉仕できる人間である。、、へ スル地区の教育長が指摘するように、 ﹁公立学校の場合には、宗教的教義を教えることは実際上許可されていないが、 宗教を教えることは、人間教育のために必要である﹂と発言し、 ﹁宗教上の教訓をたれる全能の神に対して敬意を表 する﹂という精神的基礎の上に立つてのよき市民を意味していることを強調しているのである。 一 方 私 立 高 校 に は

ω

教会系と

ω

非教会系の種類があり、教会系がその大部分を占め、非教会系は全私立校の

5

⑤ %にすぎない。非教会系の私立校の設立目的は、大学進学を白指す優秀校であるので、学校存立の目標は

ω

良い大 学 へ 入 学 す る 。

ω

科 目 、 か 公 立 よ り 多 い 。 (3) 一学級当りの生徒数が公立より少ない。 判全人教育となっていて、 第四番目に全人教育を揚げている。教育方針としては仙どの宗派にも属していないが、 キリスト教主義教育をする、

ω

高 度 の 学 問 的 訓 練 、

ω

正 課 と し て 労 働 を 課 し 、 正 し い 価 値 観 を 育 て る 、 判自分のことだけを考えず、むしろ 他人を満足させることに喜びを感ずる人間にする、 といって四項目のうち学問的向上を主張しているのは第二番目一 項 だ け で あ っ て 、 その他の項は全部何らかの意味で、宗教々育を意図していることが注目される。この学校では叉聖 童日が正課に入っており、他に選択科目にも聖書が設けられている。 @ 教会系私立校の場合は、きびしい規律、礼儀正しいしつけをモヅト l にし、毎週一時間の宗教の時間がある。又逓 時間の宗教や礼拝が行なわれている高校もある。 ア メ リ カ の 教 育 と 宗 教 々 育 七

(6)

ア メ リ カ の 教 育 と 宗 教 々 育 二 八 公立校の場合には、宗教が一宗一派に偏してはならないのでという点では同じであるが、 それでも宗教という言葉 を表面に出して、それが必要なものと考えられ、教育者の精神的支柱となっているのである。 日本では宗教という言 葉すら使わず、倫理とか、道徳とか、又はもっとあいまいに精神的という言葉にすりかえられ、具体的意味をもって いない。又教育者の精神的支柱に宗教が関与していないように思われる。これがアメリカの私立校になると公立校よ り も 、 一層具体的に宗教とはキリスト教であると宗派を全面に打ち出し、人間教育はキリスト教で行なうことを明確 にし、宗教々育が具現しているのであ唱。 六 、 学 校 生 活 上 に 現 わ れ た 道 徳 、 人 間 教 育 アメリカの従来からの基本的考え方として、学校は学習を、家庭は情操を、教会で宗教々育をというのがある。こ の分化された考え方は今でも根本において変りがない。しかし現今の世相の急激な変化によって、多少はこれが崩れ てきており、家庭の分野でなされなければならないものが、学校にもち込まれてきている。特に貧困家庭や夫婦共働 き の 家 庭 が 増 加 し 、 そのような家庭では、親が親としての責任を放棄し、家庭の教育がおろそかになる場合が多い。 そ の た め 、 しつけについて、学校がその代りをする必要性に迫まられ、学校におけるしつけの面の指導が重要視され て 会 ﹂ て い る 。 小学校においては、道徳を組織的に教えている学校はなく、専ら﹁しつけ﹂教育に専念している。このしつけ教育 は想像以上に厳しいものでアメリカ全土の小学校は殆ど大同小異である。 ストリームズ小学校も例外にもれ、ずきびし い も の で あ っ た 。 小学校一年生が国語の時間に二班に分れて先生の指導を受ける時、他の班は自習になる。この時は静かに自習する

(7)

ことを先生が要求する。少しでも話し声が聞えたりすると、先生はすかさず注意する。 一方の班は学習であるが、私 が参観している前を通って行かなければならない。その時一人一人は﹁エクスキューズミィ﹂を言って通る。 と こ ろ が、黙って通ったり、聞きとれぬような小戸で通過した生徒は、もう一度やりなおしを命ぜられるのであった。音楽 室へ行ったり、学校食堂へ行ったりする時でも一列に並び、先生の誘導に従って無言で廊下を歩くことを要求されて

R − o l v 中 れ このように小学校一年生の入学早々でも、常に個々別々の生徒として指導するのではなく、集団の一員として行動 ずるようにしつけられる。個人の行動は他人に迷惑をかけないという根本的方針に従い、具体的な日常の問題から習 慣ずけられ、従来のよき市民としてのモラルを低学年の間に徹底してゆこうというきびしい態度が教師側に一貫して 流れているのである。その学校の校長先生の話によると、 ﹁規則尊重、公共のために働く人への感謝といったものを、 宗教的倫理として教えて行きたい﹂ということで、単なる表面的モラルではなく、 そこに宗教的なものとのつながり を持って、倫理観の奥に宗教的心情を育てようというところに大きな特徴をもっている。 アメリカ教育の実際は即ち、抽象的な言葉による忠告ではなく、行動を通して、具体的な事を教えるところに特徴 がある。そしてこれはデュ l イの思想が多大に影響を及ぼしていることも見逃がせない。 デ ュ l イのプログマティスム︵実証主義︶が教育を風麻酔した時代があった。それはその根底に、人間の尊厳、自由、 平等があり、児童中心主義、興味中心主義であって、残酷な訓練主義の教育に反対するものであった。 しかし今や現 場教師の中では、デュ l イを全面的に支持するものは少なくなってはいるが、デュ l イの良い面だけは教育上に生か されているのが現状である。 十八世紀にアメリカに興った信仰復興運動により、教育上にも幾多の影響を及ぼし、 @ ﹁神はおさなごを罪のないも ア メ リ カ の 教 育 と 宗 教 々 育 九

(8)

ア メ リ カ の 教 育 と 宗 教 々 育

のとは思っていない、子供達は生れつき、怒りを発しやすいものである。な、ぜなら、この怖ろしい罪悪は幼少の頃に 深く人間の心に宿る﹂から﹁子供には大人の邪悪な性質がしみ込んでいる。子供も大人と同じように訓練をほどこす べきだ﹂というキリスト教の教育観によって、青少年教育が一段と進展したのであるが、その弊害である訓練主義に デ ュ l イの反対があった。古い訓練主義とデュ l イの実証主義が、民主主義の精神と相まって、これらが、その各々 の長所を生かし、弊害を除き、止揚された立場が、 アメリカのしつけ教育の実際として現われている。そのしつけ習 慣形成の方法とは (1) 教 師 自 身 の 習 慣 を 高 め 、 それを見習わせる

ω

品 畳 間 悪 を 明 確 に し 、 賞 罰 を 与 え る (3) 行動を通して考える (4) きびしさと愛情を示す 教育者の態度となって現われている。小学校以前の習慣ずけも叉大切だとして、 @

ω

日 常 生 活 の 基 本 的 行 動 、 5才までの子供に身につけておきた い 態 度 や 習 慣 に は 、

ω

対 人 関 係 、 制家族の一員として、 判社会の一員として、

ω

宗 教 々 育 の た め に 、 の う ち 宗 教 々 育 の 項 で 、

ω

教会へ喜こんで行く習慣、 的判食前と就寝時の祈り、付動植物の 愛育を習慣形成上必要なことと認めており、幼児期、小学校の時代に習慣として教育しようとするのである。 中学、高校の場合も学校生活上に多様な方法で、人間教育、宗教々育が実施されているのを見ることができる。 セントクレア高校でも、毎朝のショートホ l ムの時間に、校長先生の放送を通じての諸注意がなされる。実際廊下 など歩いていても話し芦は殆ど聞かれぬ位静かであるが、 校長先生の注意に﹁廊下はもっと静かに歩いてほしい﹂ ﹁授業から授業へと教室を移動する時はもっと敏速に﹂と要求されていた。教室内でも私語はすかさず注意されるし、

(9)

遅刻した生徒は教室に入れてもらえず廊下に机を出して自習したり、別の自習室に一日入れられる学校もある。この 点実に厳格にしつけ教育が徹底されている。 シ ョ ー ト ホ l ムの傍頭には起立して、胸に手をあて、 ﹁ 誓 い の 言 葉 ﹂ を 大 き な 芦 で 合 唱 し て い た 。 ﹁私はすべてにおいて、自由と正義を共に神の下なる一国民として、 それが存するアメリカ合衆国国旗と共和制 に ’ 忠 誠 を 誓 う ﹂ と神のしもベである国民というところに宗教色濃厚なものを感じた。 生徒指導の元締は副校長がする。 セントクレア高校では四年制であるため、前半二年と後半二年で副校長も二人い る。副校長の役目は生徒の一般的、総括的生活指導が主たる役目である。毎朝の如く、生徒の登校ゲ 1 ト に 立 ち 頭 髪 、 服装のチエゲクをする。時には体罰︵バドルスティックこん捧︶も与えるようである。 アメリカの中学、高校の生徒指導、人間指導に於ける一大特徴は、 ガイダン’ス・カウンセリング︵教育相談︶であ る。これはアメリカ全土に殆ど普及しており、生徒の種々の問題解決に当たる。 セ ン ト ク レ ア 高 校 で は 、 四 人 い て 、 各々一学年ずつ担当しており、授業は一際行なわない。 カウンセラーの役割は ︶ 4 i ︵ 学習成績のテスト結果、興味、各種診断テストの書類作成 (2) 自学するための指導、大学進学の指導

ω

職業選択の助言 (4) 学校、家庭の個人的問題の解決 で あ り 、 そ の 方 法 に は 、 グループガイダンス、個人ガイダンスの両方がとられている。ガイダシスの時間は、昼食時、 放課後もあるが、多くは授業中である。授業中でさえも、生活上問題点のある生徒は随時呼出しをかけ、面接に当っ ア メ リ カ の 教 育 と 宗 教 々 育

(10)

ア メ リ カ の 教 育 と 宗 教 々 育

ている所に、学校生活は、勉学と共に生活指導にも同じ比重を置いていることが認められる。 カウンセラーの主たる 任務が勉学指導にあると言いながらも、生活指導、全人指導に特別な配慮がうかがえるのである。 自分の悩みを相談する相手はカウンセラーが半分以上を占め、 その次に両親、兄姉ということをみても、 カ ウ ン セ ラ l 活動が、人間教育に有効的に定着していることが認識されるのであった。 七 、 教 科 に お け る 全 人 指 導 教会系私立校は週に一回|三回の宗教の時聞が設置され、非教会系私立校でも聖書が必修になっていたり、その上 選択でも聖書が選べる。公立でも聖書の時聞があるところも多く、又心理学を選択出来る高校も多数ある。聖書の授 業は宗教的重々しい雰囲気ではなく、明るい、秩序正しい授業である。 授業形式も常に講義式の多い日本と違って、討論式、発問式である。人数も大グループ︵二十五、六人以上︶や小 グループ︵十人前後︶と変化に富んでいる。 チーム・ティ l チングも発達しており、数人の先生がチ l ムを作って指 導する方法も生徒の人気を集めている。 このように授業形式も実に多様であるが、 それ自体社会生活の集団に適するように考えられたもので、 そ の 根 幹 は 、 教師と生徒との人間対人間の接触、即ち全人教育に自ずとつながり、無味乾燥な講義式に対して、生々しい精神の結 合 、 が そ こ に 生 れ て い る の で あ る 。 なお通信簿の欄に評価の他に、市民性を評価する欄が設けられていることも付記しておく。

(11)

課外活動と宗教々育

課外活動の中では、奉仕の精神を重要視して、聖書部や、奉仕クラブがある。この奉仕クラブの中にも、ある学校 では二十もの種類がある。主なものは、校内諸行事の運営と援助、養老院、孤児院等の慰問等である。叉ナショナル −オーナー・ソサエティ︵奉仕委員︶のメンバーであることは大きな誇りなのである。 この奉仕クラブで生徒は、自己中心の狭いワクを破り、広い心で社会の為に尽すという奉仕の精神を育てる宗教々 育を、公立、私立を問わず、 どの学校でも奨励し、学校より賞が出る場合もある。

九、教会と宗教々育

教会本来の仕命は宗教々育であるため、教会自身も又、幼児から青少年に対する宗教々育に実に熱心である。 幼児期から教会の一厳粛な雰囲気の中で培かわれる敬度な宗教的感情は、 日曜学校で身につき、 それが青年期の教会 関係の奉仕活動となって現われてくる。 グ リ l − ブ ラ ン ド 市 の 私 立 、 ロ lデスアカデミー高校では、生徒の却%が病院 や教会の手伝い、家庭教師、 スラム施設へ無償の奉仕活動に出ており、 又ボーイスカウト、教会コーラス隊、

YMC

A 、

JRC

に加入している。ピッツパlグでは青年会を結成して、自分達の精神生活向上のための討論会を牧師を中 心にして語りあっている。これらは、教会の熱意もさることながら、親の教会に対する信頼感が、子供を教会に向わ ているせことを見逃すことができない。 ア メ リ カ の 教 育 と 宗 教 々 育

(12)

ア メ リ カ の 教 育 と 宗 教 々 育

十、結

び アメリカの教育と人間教育、宗教々育を考えてみるとき、 い る の に 気 ず く 。 四 一言で表現出来ない程、多様な形で教育の中へ浸透して すでに幼児期において、両親につれられて教会に参加するという習慣ずけがあり、理窟なしに敬度な雰囲気によっ て、宗教的情操が養なわれ、小学校に上ると、宗教的倫理観に基ずくきびしいしつけによって、行動の一つ一つがある 導方法も一段と多様性をおび、教科、授業形式、 ベき行動に矯正され、倫理観の基礎が骨組される。中学・高校と長ずるに従って、精神面の成長に伴なって、その指 カウンセリング、課外活動、教会を中心とする校外奉仕活動によっ て、奉仕の精神や聖書の内容、人間の尊厳を学んで行く。これらの指導や教育は宗教と別個のものではなく、すべて キリスト教的精神から出たものであって、この意味でアメリカの教育はそれ自体宗教々育とみなし得ることができる。 ③ ① 註 す べ て ペ ン シ ル パ ニ ア 川 一 六 二

O

年 ピ リ グ リ ム 、 フ プ l ザ ! ズ 、 パ l ジ ニ ア 州 ヘ メ イ フ ラ ワ ー 号 で ↑

O

二 名 。 一 六 三

O

年 清 教 徒 マ サ チ ュ ー セ ッ ツ 川 へ ③ ④ ア メ リ カ の 教 育 ︵ 文 教 室 田 院 ︶ ⑤マサチューセッツ川マウント校、ノ i ス フ ィ ー ル ド 女 子 高校 マ サ チ ュ ー セ ッ ツ 州 セ ン ト マ イ ケ ル 校 ク リ 1 、 ブ ラ ン ド ベ ネ デ ィ ク テ ィ ン 校 ⑦ ⑤ ③アメリカ社会文化史 ③アメリカの教育 参 考 文 献 ア メ リ カ の 教 育 ︵ 国 際 教 育 学 会 ︶ ア メ リ カ 社 会 文 化 史 上 ・ 中 ・ 下 ︵ M カ l チ 著 ﹀ 現 代 ア メ リ カ 教 育 の 批 判 ︵ ヒ ツ カ l ソ ン 著 ︶ ア メ リ カ の 思 想 ︵ 加 藤 秀 俊 著 ︶ ア メ リ カ と い う 国 ︵ 横 川 信 義 著 ︶ ﹀ 冨 何 百 の ﹀ 20

Q K J ζ 開

ω

何 日 関 d H J

参照

関連したドキュメント

専攻の枠を越えて自由な教育と研究を行える よう,教官は自然科学研究科棟に居住して学

ケイ・インターナショナルスクール東京( KIST )は、 1997 年に創立された、特定の宗教を基盤としない、普通教育を提供する

経済学類は「 経済学特別講義Ⅰ」 ( 石川 県,いしかわ学生定着推進協議会との共

インドの宗教に関して、合理主義的・人間中心主義的宗教理解がどちらかと言えば中

地方創生を成し遂げるため,人口,経済,地域社会 の課題に一体的に取り組むこと,また,そのために

バックスイングの小さい ことはミートの不安がある からで初心者の時には小さ い。その構えもスマッシュ

小牧市教育委員会 豊明市教育委員会 岩倉市教育委員会 知多市教育委員会 安城市教育委員会 西尾市教育委員会 知立市教育委員会

Analysis of the results suggested the following: (1) In boys, there was no clear trend with regard to their like and dislike of science, whereas in girls, it was significantly