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Classical ClaSSIoal Society SOOIety of Japan 122 であるが, 勿論, この書には, 彼がギリシアに覲して與えている興味ある見解が, こ の他にも數多く見られる. 例えぽ, 我々がギリシアから受繼いだものに, 感覺の信頼 性に關する懐疑 があるが, パル

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(1)

122 であるが,勿論, こ の書には, 彼が ギ リシ ア に覲し て與え てい る興味あ る 見 解 が,こ の 他に も數 多く見 られる.例 え ぽ,我々 がギ リシ アか ら受繼いだもの に , 「感覺の 信頼 性にる懐疑」 がある が, 「パ ル メニ デスは眞の實在 を馴 隹の 中に お く, つ ま り, 認 識主觀の 中へ 釋 しい る 事 な ど幾分,anachrOnis 皿 と言え るであ ろ うが, 又, ピタゴ ラ ス派を読 明し乍 ら, 「こ こで, あ る優れ た 科學者が 最 近 世界にある素 粒子 の 總數は

16

× 17×2256個っ た事,夊, 256 が 2 の平方の夲方の罕方で あ る事 を 想い起すのは ,大し み あ ろ う た り , 夊, ク セ ノ フ ァ ネ ス やヘ ラ ク レイ トス につ いて , 或いはエ ピ ク 卩 スやル ク レチ ウス につ い て, 彼等の 偉 大 な 業 績 や 愚劣な言行を,現代 科學者の態度と織 り合わ せ乍ら語つ た りし てい るので あつ て ,全體と して, 讃ん で退 屈 しない面 白い 「讀物」と言つて も差 麦 え ない と思 う.

 

もと よ り僅かな

fragments

を 手 がか りに , イオニ ア か らデモ ク リ トス に到る發 展 を述べ のだか ら,文獻の扱い につ い て は , かな り疑問視 されて よい所が多 く見られ る.例え ば先にげたパ ル メ ニ デス の 解釋 , デモ ク リトス の斷片 等の扱い方に は問 題がある が, しか し この 點につ い て は, 自旡に (

Classical

 

Review

, 

Dec

1955

, pp .

260

261

)にか な り糯 しく批 到さ れてい る.

 

だ が細部には殘るに し て も,「綜合 性の依復」 だと か, 或い は 「決 定論の由來を 蕁ね る事」と か い う事 が 古代研 究者に とつ ての 大 き な問題で ある事は確かなので, そ の點で , シ ユ レ ーヂ ソ ガーの ,こ の 試み は高く許價さるべ きであろ う.

 

尚 ,譯書につ いて 言 うと,表題が 「科學 とヒ ュ ーマ ニ ズ ム」となつ て い るの は ,表題 と同名の 論丈 が 「ギ リシ ア人の 自然觀」と共に ,一珊め られてい る か らであつ て, その 論文 も 現代 物につ い て獨特の展望 を與えてい て興 味深い.た X’

Wt

譯の點で 言 うと, 「ギ リシア入の 自然觀」(友 松 ・三 田)の方 が わか り易 く,「科學とヒ = − V ニ ズム は譯者伏 見氏の 言葉通 り, 自由ぎま まで, 一寸まごつ か さ れ ると こ ろがある.

 

尚, 校正上の ミ ス と思 わ れるものを少し擧 げると (これは 「科學とヒ ュ ーマ ニ の方 だ が). 1

唄 ・

・は ・ ・… …三分・一・・誤・だ ・肌 ・ ・

3

の ・

・ 露

」は 「

i

+乎+

の誤 りであ ろ う・        種 山 恭 子 (京都大學)

BoMAN

, 

Thorleif

Das

 

hebrdiische

 

1

)enleen 伽

Vergleich

嬲 銘

dem

  

Griechischen

 

2

. 

Auflage

 

Pp

186

, 

G5tt

量ngen :

 

Vanden

(2)

書 評 123  著者は ノル ウェ ーの セ ム 語學者である・

 

本書の課題は 「問題」にお い て著者の 語る ところに よると,ヘ ブ ライ 的思惟とギリ シ ャ 的丁 主と し て プラ トーンの一 思准の形式上の相 違と意味を明らか にする こ と にあり,こ の爲に實に多くの資料が特 に 言語心 理學 ・哲學の立 場か ら驅使さ れ てい る・ まず 本書の 内容を要 約し てみよ う.

 

第一部におい て は兩思惟が 「動的 ・靜 的」 と特徴づ け られて い る・こ のこと はまず

ヘ ブライ 語の

Stillstandsverben

, 次に

Zustandsverben

Eigenschaftsverben

, 更に進ん で所謂 ・ein 動詞に當る

h

互y自

h

の性格に よつ て論證 され る・ 皀防 これ らの 動 詞に は存 在 ・生成 ・作 用 を表わす 意味が結合さ れて含ま れてお り,更に作 用 する主 體と深い 關蓮を 持つ .例え ば神の

h

五yah は, 祚と して 出現し行動 し自己 を實現す る . ヘ ブライ人に とつ て は存在 さ え も動的 なの であ る.これにして ギ リシ ャ 的思惟は靜 的であ る.例え ばエ レ ア學派におい て , 不變不動の存 在のみが 實存し, 全て の生成變 化は單な る假 象 ・非存在に過ぎない .尤 もへ 一ラ ク レ トス は全ての 物の 可 變 性 を設 くが,彼 が その中に永遠の法則 ・調 和を求めて い る限 りに おい てギ リシ ャ 的であ る. ブ ラ トーンにおい て は最高の存在 そ れ 自身が眞善美であ り, 永遠に 一 止 的 よ りもむしろ一 靜穩なるもの であ る.

 

同樣の こ とが 「言」につ い て究め られ,

dlib

蚕r と 26r・g が分析されて ,一方に お い て は言の

  

特に バ ビ ロ ニ やエ ジ プ トに おける言の 自 然力, 乃 至は流 出と異つ た 意 味における一 人格的 動 的 作 用と, 他方に おい てはその理念的靜 的存在と深 く關 わ るこ とが結論さ れ る.尚 ,ヘ ブライ 人に とつ て一般 的 な ものが個別的な もの よ り も 根 源的で あ り,全體が まず在つ て個別は その顯現形體であ るの に 對し, ギリシ ャ人, 特 に ブラ トーソに おい て は理念が一般 的 な もの ・根源的 な もの を代表し,感性 的 なもの が その顯現形體であ るこ と 力

及 さ れてい る.

 

第二 で は 兩思惟の特微が 「印象と外觀」にある とされ,こ の事 實が建物 ・入間 ・ 物(自然物)・禪につ い て確か め られて い る.人間 ・自然にし ては, 主 と し て雅歌に おける比 喩 が, 外觀で は なくて 印象又は性質と關わ るも の で あるこ とが 指摘さ れてい る.從つ て美の理想 も一 兩者共に精碑性に關わ る と い うことで は 一致するが一 ヘ ブ ラ イにおい ては全ての 感覺で感 じ取 られ,そ れ が人 格的に 表現されるが, ギ リシ ャ に お い て は まず 目で見 られ,印物的に表現され る.氤 か X る立 場から, 創世 記 と饗

に おけ る創齲 話の 比較の中

V

,相粟 表 象の 方法と韻 上の類似性カミ て い る,更に こ の事は

Ptvc

つ い ても

Q

當し ヤハ ウー の 軆 の描寫は・ その外觀で は なく性質を記する具 象的表現であ り,所 謂

imago

 

Dei

も神が 如 何に 見 える か で はな くて ,神が如何に人間に現 わ れ 認識される か と い うこと X 關連して考え ら るべ であ

(3)

124

 

る・こ N にが 人間に 自 己を 示 す擬 人論生 ず な るし て ギリシ ャ のれ た と は最近の ミ ュ ケーナイ發掘に よ も明 ら か である.こ X に も當入 論 が 生 a ソボス の 抻々 の場合 も祚

 

との限界は踏 み越え られた こ とはなかつ た.皀卩ちゼ ウス は傍觀者 とし て此の世 を 麦 配 する.しか しこ の傍觀の立 場はギ リシ に とつ て そ自體的 な .神 祕 教の場 合, その祭儀に與る者は θεωρ

6g

と呼ば れる が,こ の 語は θε

6g

と關遽 る.プラ トーソは永遠 なるもの ・見 え ざるもの を 見よと し, そ れ を 見た .彼は神を 人 格 δη

PteOV

,Oγ

6g

と し ても.非人格 〜δ勲 として も把握し てい る が, い ずれに せ よ人 間の ら紳を 見よ うと し た努 力の結果であ る.

 

第三部で は 「聞と室間」の對稱が 問 題に され る.ギ リシ ャ人 も時間の 意識を 持つ て い た のであつ て, ヘ ーシ オ ドス は

i

琵に 五つ の世代を詩 作し てい た し プ ラ トーソや ア リス トテ レ ース も時間につ い て は思 索 していた .後者は時 間 を線 と し て 理解してお り, そ れ が客觀的 ・物理的 ・天交學的 ・可測的 時間の場合は圓環 とし て,過去 ・現 在・ 未 來とい う文 法 的時間の場 合は直 線 と し て表象されて い る,一方,プラ トーン に おい て時間は不變不 動 なる永 遠の動的摸 倣で ある.つ て時 間と變化と無 常は 同義語と な る.要 するに ,自 然科 學的,乃 至は宗 教 的li寺問の把握は共に塞 問 性を前提と して い る の で ある.これにし てヘ ブ ライ 人は時問をリ ズ ム ) 一) と し て理解す例 え ば 天膿 こよつ て時 間 を 測 る時 ,ギ リシ ャ 人はその 圓珱 運 動 を 基準とするが , ヘ ブ ライ人 は 明 ・暗 ・明と い うリズム 交替を 基

 

從つ て瞬間 ・出來事 とい う概念が 重 要 な意味を持つ こ と に なる.又 ヘ ブ時稱完了形 未 完 了形し か ないが,彼等が行動 を説明する時に は語 り手の意 識が その 立脚點 なの で ,行動 終結される か ,發展の 中にある かで過 去 ・未來が決 定さ れ るの で ある.「今」とい う概 念はギ リシ ャで は過 去と未來の接點であるが, ヘ ブラ イ語で は相 手の 行動 を促す 意 味 を 持 ち, 主軆 的同時性を表す .又, 前にあるものが過去で あ り,後にあるものが 未來 を意味 す る如 く,考え方が歴 史 的である.一方, 永遠を意味 するヘ ブラ イの 同義語 も, 彼岸的で は なく此岸的 なもの を表す限りにおいて時問的であ る,℃

1

百m “ Elam (蔽 う,隱す)か ら來てい る名詞であ るか ら,單純に限界の ない時間である.これ が禪に つ い て言われる場 含で さ えも,限界のない時 間 なの で ,決 して 超越性 ・彼 岸性 を意味 しない .こ の 意 昧におい て “61互m は ギ リシ ャ語の 一 特に ア ナ クシ マ ロ ス に よつ て嚴密に規 定 さ れた 一 τδ凝π αρo 對應する が , そ れに して も後者が全ての 物の根源 を規定すの にし て,前者は全て の生成と生成し た物のめ と終 りを規定 する とい う相

 

ヘ ブラ も室 リ シ ャ と 比較すれば こ の意義は稀薄であ る.例

(4)

       

     

      

125 え ばヘ ブライ 的思惟はギ リシ ャ に おける如 く形體 と内容の區別を前提しない.又 限 界 と云つ , 二 つ の 領域の接線を意 味するの で はなくて, 或る領域 の最端の部分, 乃 至は領域全體を意味 す るもの である・ 大きさと か數の概念につ い て も 一一一

fi

で は室間的 量 的であり・ 他方で は動的 ’質 的である.例え ば プラ トーソ に とつ て幾何學が重要な意味 を 持つ が,ヘ ブラ イ語には 幾何學的形を正確にわす言葉さ えない .夊 ,數

7

さ え も その原意に動的性格 を含む. し かも複數 ・言葉の繰 り返し は意 味の強 度を表わ す.

 

第四 部で は物の把握の仕方を 「象徴 と道 具」で特徴づる.ヘ ブ ラ イ語の keli は 主體の行動の爲の 手 段,印ち邁 具で ある.ギ リシ ャで は物が客體の認識の爲の手段 口 皀卩ち象徴と し て考え られてい る.

 

第五 部で は ギ リシ ャ 人は 「論理的思考」を, ヘ ブラ イ人は 「心 理 的 理解」 を その特 色と し て持つ ことを ♂初 砺 g

 

’ emeth の 分析に よつ て論證 す る. 

EP

ち一方は觀 相 的 存在と,他方で は主體的 信頼と關わ る もの で ある.夂,各々 の思惟の特徴として , 綜含 的對分析的とい うことを ?,

6

γog λξγω

1

bimE

(くbinか ら遵き出す .更 に , ヘ ブライにおい て 「見る」とい う場 合,見ゆ るもの はその所 有者 ,或は製作者の 性質を表わ す し る し となる.印ち見て 理解 す ることが 重要 な の で ある.以 上 要する に,ギ リシ ャ的 思惟は 明瞭な論理 的 認識であ り, ヘ ブ ラ イ的思 惟は深い心 理 的 理解を その 特 色 とする.

 

最後に著者 は, 兩思惟の後繼 者たる我 々が そ れ らを重 す るな ら,この 二つ の 思惟 の綜 含 (Synthese )を見 出すべ である と して論 を結ん でい

 

さて, 本書に對する批評は初 版 (

1952

)が出て以來今 日迄數多く現 われてい る.こ れ らの書評は大體一致して

Boman

の 豐富な資料に基いた 明解 な論證につ いて絶讚し てい ると共に , 一方,こ の 種の研 究にあ りが ち な, 著書の持 つ てい る Schema の強 制 的一般化に對し て警告して い る. 例え ば 第一部につ いて : ヤハ ウ=言も詩 篇

29

篇 や第ニ イ ザヤ に お い て は

Na

しurmacht でない と云 え ない

rP

・ 

Marcus

・ 

JBL

, LXXIII ・

1954

,p. 

lll

, その Hypostasierung も認め ざ る を 得 な い (淺 野順一 「イス ラエ ル 豫言者の研 究 」

1955

,23 頁 ),

26

γog の中に も Macht の 表現が 詔 められる ( N  W ・

Porteous

, 

VT

, VI , 

No

3

,1956 , 

P

.332), ヤ ハ ウ ニの存在が動的であるこ と か らそ の

Theophanie

の際 「石や 山 まで動 く」とす る のは誇張であ る (

J

Hempel

ZDMG

Bd

.・04, 

H

・ft 

U954

, 

S

.・94ff ・)・舊約 轍 こエ ゼ キエ ・嗜 の 収 も靜

・觀相 的’齢

惟が ある (

H

Bardtke

, 

OLZ

51

1956

, 

S

49

), 第二部につ い て :

Boman

は ヘ フ

ライの詩入を Expressionalismus として い る

th

:, 

lmpressionalismus

とした 方 が よ

い , 古代イス ラエ ル入の心 理に も明 らか に 見る こ とが聞 くこと よ りも客體と

(5)

126 接な接觸を意味し て い るの で, 抻前の怖れとい うこ とも,この接觸の危險から読 明さ るべ きであり, どの こ と が禪の擬人化を前提する,更に擬人 化 とい ことも古代東方 的 思惟に はし て 自明の 理 なの では なくて,動物の 形 を した祚との 對訣に おい て起つ た ものであり,從つ て

Boinan

に よる擬入 論は舊約固有の 擬人論の 「現代的 」評 價で あ る (以 上,

J

Hempe1

,  a.a. 

O

., 

S

.197,第三部に つ い て : ギ リシ ャ語で も未 來を後に δπ彡σ ω), 過 去を前に (πρ6)見て い る,ヘ ブラ イ に おい て も時の測定に太 陽の 出 沒 を 用い ない こと はない,言葉の繰 り返 し は 必ずしも

Intensittit

を表わす も の で はない。第四部につ い て : 物 を表わ す ギ リシ ャ 語の πρ

a

アμα に動 的意味 が ない か 以 上,

P

. 

Marcus

, a.a.

0

., 

S

. n3 ).  以上 が Boman の誇張に 對する反論であるが.尚 彼の方法論に 缺け た るところ な し と言え ない と思 わ れる.兩思 惟に おける形式的 (formal )相違を明 らか にこ と

 

’ に よつ て 實の (sachlich ・夂精紳的 (geistig) 類 似

示 し , 讀者にその 綜合 を迫る

  

綜合 ・混合 (

Vermengung

)の典型が新約聖書に 見 出 さ れる一 と い う著者の 方 法,乃至 は前提は ,兩思惟の 比 較析の 爲に果 して當 を得た もの で あ ろ う か・こ x か ら, Hempel も指 摘 する ご と く,「構造上 相違して い るもの 」「 “ struktu ・

el1 

Verschiedenes

 l l : こ の こ と は

J

. Hessen , Platonismus und  

Prophetismus

, 1939

にお いて基礎づ け られい る.殘念 なこ と に Boman が これ を讚んで い ない こと に は

Hempel

 Bartke 

も注 意を促して い る。 筒, 同著者に よ る

 Griechische

 oder

BibltScke

銑 召oJogゴ召

P

 1956, bes . 

Sr

 

100

 

ff

.參照 )を 同一の方法で扱 うとい う敏點」

Hempel

, a.a. 

O

., 

S

.195 . vg1 . 

ZAVV

64

192

, 

S

285

)を持つ た の では なかろ う か.又,か X る前提か ら

r

抻封人 間 ・永遠對時間の立 , 緊張の關係が殆ど説かれて い ない淺 野順 一 「神學」VI, 1953,

148

頁 )こ と になるのでは なかろ うか .一 方 ヘ ブ ライ 的 思惟資料舊 約全體 りあ げ る な ら ャ の場合, 特に ギ リシ ャ悲劇か らの資料を等閑に ふする こ と は許さ れ ない と思 う.こ の 意 味におい て最近の

論交で は

P

.Ricoeur , Culpabilit6 tragique et culpabilit6  

biblique

 

RHPR

1953

が 我々 示 を與 え る , 本誌

II

(1954 )に竭載された前田護郎氏の 論交 「古 典 古 リ ト 」も,直接的に で は ないが,こ の 問題にれて い るこ とを附 詑 し て, 拙 き書評 を擱 筆する.         荒  井   獻 (東 京大學)

BLucK

, 

R

. 

S

.:

Plato

s 

Phaedo

, a 

translat

ion

 of 

Plato

s 

Phaedo

 with

 

introduction

, notes  and  appendices .

 

Pp

. 

X

208

 

Londen

  

Routledge

Kegan

 

Paul

1955

参照

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