労働者を取り巻く「ヒト」としての環境と労働組合
著者 齋藤 敦
雑誌名 同志社商学
巻 64
号 5
ページ 352‑376
発行年 2013‑03‑15
権利 同志社大学商学会
URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000013202
労働者を取り巻く「ヒト」としての環境と労働組合
齋 藤 敦
Ⅰ 本稿の意図
Ⅱ ヒトとしての健康と職業病・労働災害
Ⅲ 日本の労働安全衛生の整備
Ⅳ 日本の労働安全衛生の現状
Ⅴ 労働安全衛生に対する政府と企業の対応と労働組合の重要度の高まり
Ⅵ 労働者を取り巻く「ヒト」としての環境と労働組合
Ⅰ 本稿の意図
日本は
1980
年代まで,日本型生産システムと日本的経営の利点を活かして,特にモ ノとヒトの面に関して有力先進国でも最良の状態になっていた。これに対して,1980 年代末以降のバブル経済の崩壊と海外(とくにアメリカ合衆国)での日本型生産システム の模倣(リーン生産方式の展開),「One to One Marketing」の展開などによって,日本経 済はヒトの面の強みが残されるものの,モノの面では有力先進国で最悪の状況に陥って しまっていた。さらに2000
年代に入って,小泉政権下での「聖域なき構造改革」路線 での新自由主義的規制緩和政策によって,日本経済はモノの面での状態は若干改善され るもののヒトの面での強みは完全に失われ,加えてカネの面でデフレに苦しむ状態とな っ1
た。つまり,1990年代の「失われた
10
年」と呼ばれる日本経済の悪2
化は,2000年 代以降深刻化しているといえるだろう。
そこで日本経済回復の可能性を考える上で,筆者は我々労働者の以下のような
3
つの 役割の重要性について考えている。すなわち,まず第一の役割として,労働者は技術力 をこれまで以上に高めるとともに,所属する組織の発展のための展望力を持つことが必 要といえる。これらの労働者によって支えられた組織は十分な競争力を持ち得るだろう し,そのような組織が多くなれば,日本経済の発展の可能性も高まるといえるだろ3
う。
次に第二の役割として,技術力を高め,展望力を持った我々労働者は,モノの善し悪し
────────────
1 拙稿「モノ・ヒト・カネに関する日本経済の推移」,徳島文理大学編『徳島文理大学研究紀要』第
80
号,徳島文理大学,2010年,66−69, 70−76ページ。2 吉川洋「1990年代の日本経済」,伊丹敬之,藤本隆宏,岡崎哲二,伊藤秀史,沼上幹編『日本の企業シ ステム第Ⅱ期 第
5
巻 企業と環境』有斐閣,2006年,274−291ページ。3 拙稿「日本経済回復のための労働者の役割」,徳島文理大学編『徳島文理大学研究紀要』第
83
号,徳島 文理大学,2012年,34−35ページ。58(352)
のわかる成熟した消費者となる必要がある。そのような成熟した消費者が,参加型経済 の中で自ら望む商品・サービスを生産者に作らせ,そのようにして生産された商品・サ ービスを購入していくとき,適切な商品・サービスが適量の売上をみせ,日本経済は適 正な発展をみせるといえるだろ
4
う。最後に第三の役割として,技術力を高め,展望力を 持った我々労働者は,成熟した消費者となる一方で,成熟した有権者となる必要があ る。そもそも日本の政治は官僚主導や政治家主導で展開されてきたが,いずれにしても 国民の民意が十分に反映されているとは言い難い面がみられることが多かった。これに 対して,我々労働者は,成熟した有権者となって,日本経済全体の発展の適切な方向性 に関する見識を高め,その見識を政治的主張として展開し,官僚や政治家に対して適切 な政治を行わせるよう監視するとき,日本経済は適切な発展をみせることになるといえ るだろ
5
う。つまり,日本経済回復の主役を担うのは,労働者・消費者・有権者の顔を持 つ我々であると筆者は考える。
そもそも企業の経営資源としてヒト,モノ,カネが想定されるが,その
3
つに関し て,我々労働者はどのような状況におかれているのであろうか。そこで本稿の課題とし て,上記3
つの経営資源の中で,特にヒトについて,労働者を取り巻く環境として本来 どのような状態が望ましいのかという視点から,労働者がヒトとしてどのような状況に 置かれているか,およびヒトとして望ましい状態に向かうように誰がどのような活動を 展開させてきているかを論じることにする。Ⅱ ヒトとしての健康と職業病・労働災害
(1)健康と職業病・労働災害の発生
そもそも人間のヒトとして望ましい状態は健康であることである。これは労働者も同 様である。世界保健機関(WHO)は,「健康とは身体的・精神的・霊的・社会的に完全 に良好な動的状態であり,たんに病気あるいは虚弱でないことではない」と定義してい る。このとき,とくに「身体的・精神的な健康」状態では,なにがしかの健康にマイナ スとなるような要因が生じても,身体内での生理作用によって,そのマイナス要因が打 ち消されて健康状態が維持されているというのであ
6
る。
ところが,身体内での生理作用によってそのマイナス要因を打ち消して健康状態を維
────────────
4 拙稿「日本経済回復のための参加型経済の可能性と成熟した消費者」,同志社大学商学部『同志社商学』
第
64
巻6
号,同志社大学,2013年,155−176ページ。5 拙稿「日本経済回復のための政策の展開と成熟した有権者」,徳島文理大学編『徳島文理大学研究紀要』
第
83
号,徳島文理大学,2012年,46−47ページ。6 井上洋士「健康生活とケアニーズ」,藤原康晴,本間博文編著『生活健康研究』放送大学教育振興会,2009 年,147−162ページ。
労働者を取り巻く「ヒト」としての環境と労働組合(齋藤) (353)59
持する仕組みが破綻してしまうほど大きなマイナス要因が生じてしまったとき,病気や ケガをすることになり,その人にとって医療が必要な状態となるのである。労働者も,
健康を害するようなマイナス要因が許容量を超えれば,医療が必要な状態に陥ってしま う。このとき,特定の職業に就く人に顕著に見られる病気が職業病であり,業務上の事 由で負傷,疾病,障害,死亡する災害を労働災害とい
7
う。そもそも人の身体・精神は,
大まかに分類すれば第
1
表のように区分される。これらの身体的・精神的区分ごとに,諸産業では例えば同表のような職業病,労働災害が生じてきているのである。
(2)様々な産業分野での職業病・労働災害
ここでは,産業ごとの職業病,労働災害の諸例をみることにする。まず化学工業分野 では,耐熱性,電気絶縁性,保温性に優れていることから,建物などの断熱材や防火 材,機械などの摩擦防止用に大量にアスベストが用いられていた。このとき,作業現場
────────────
7 飯島信子「現代産業と労働災害・職業病」,佐藤守弘,八木正編著『産業社会学』アカデミア出版会,1987 年,273ページ。
第
1
表 職業病・労働災害と改善運動職業病・労働災害 産業分野
呼吸器系 肺ガン 化学工業等
じん肺 鉱業,窯業,建設業等
循環器系 心筋梗塞 運送業等
血液・造血器系 再生不良性貧血 化学工業等
白血病 化学工業等
消化器系 疝痛 化学工業等
内分泌・代謝系 代謝亢進 化学工業等
脳・神経系 高山病 気象観測,航空等
脳梗塞 運送業等
整形外科系 腰痛 運送業等
腎・泌尿器系 膀胱ガン 染色業等
前立腺ガン 医療等
産婦人科系 乳ガン 医療等
感染症系
MRSA
医療等皮膚系 凍傷 倉庫業,食品加工業等
火傷 通信業等
眼系 白内障 製造業(ガラス等)
網膜火傷 製鉄業等
耳鼻・咽喉系 鼻腔ガン 木工業等
難聴 林業,製造業等
運動器系 頸肩腕症候群 諸産業
精神系 うつ病 諸産業
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で高濃度のアスベストが飛び散り,長期にわたって作業者がこれを吸引すると,気管支 の先端の肺胞にアスベスト繊維が入り込んでしまい,結果的に肺ガンを引き起こすので ある。さらに喫煙を伴えば,肺ガン誘発の可能性は高まってしま
8
う。また,当該分野で 用いられるベンゼン,無機砒素化合物などは再生不良性貧血を引き起こす可能性があ る。この再生不良性貧血は,骨髄中の造血幹細胞が減少することにより骨髄の造血能力 が低下し,末梢血中の全ての系統の血球が減少するものである。そして最終的に造血幹 細胞の減少した骨髄は,脂肪細胞に置き換えられてしま
9
う。さらに,このベンゼンなど の化学物質は白血病を発症させる要因ともなる。白血病とは,血液中の白血球の一群が 異常に増殖し,かつ通常とは形態が異なる白血球も現れてくる疾患である。この白血病 では,発熱をともなう感染症を引き起こしたり,赤血球減少による倦怠感,動悸,めま いなどが生じたり,血小板減少により出血症状が起こったりするのであ
10
る。
加えて当該分野では,鉛蓄電池の電極や光学レンズ,防音・制振シート,チタン酸 鉛,水道管やはんだ,顔料などに鉛が大量に用いられる場合がある。この鉛に関して呼 吸器などから排泄を上回る量を長期間摂取すると,体内に蓄積されて毒性をもつように なる。その結果,胃や腸などの空洞性臓器や胆道や腎盂などの管状臓器の壁を構成する 平滑筋の痙攣によって腹痛が起こることがあり,これが持続的に続くのが疝痛であ
11
る。
この他当該分野では,殺菌剤や除草剤などの生産過程で,それに含まれるジニトロフェ ノールやペンタクロルフェノールによって,生命保持に必要な最低のエネルギーを産出 するための基礎代謝が異常に亢進されてしまう代謝亢進が起こる場合がある。この場 合,症状として発熱,異常発汗,脱力等が現れ,さらに進むと低酸素血症,振せん等が みられ,昏睡を経て死に至ることがあ
12
る。
これに対して,鉱業や窯業,鋳物業,トンネル工事などの建設業等において粉塵が発 生する作業現場ではじん肺が起こっている。そもそも人の呼吸器では,比較的大きな粉 塵は鼻で,細かな粉塵は気管や気管支のせん毛で排除される。しかし非常に小さな粉塵 はこれらでは排除されずに肺胞に到達してしまう。このごく微小の粉塵の濃度が高い空 気を吸引し続けると,肺胞に粉塵がたまり,肺胞やその周囲で,正常な肺胞が壊れて線 維組織に置き換わった結果肺線維症を起こしたり,肺胞が膨らんだまま弾力を失う気腫 性変化が起こったりするのがじん肺である。このじん肺は症状が進行すると呼吸困難,
動悸を引き起こし,肺結核などの病気を合併しやすくなるのである。じん肺は,原因と
────────────
8 労働省化学物質調査課編『知っておきたい職場の化学物質』中央労働災害防止協会,1991年,36−37 ページ。
9 野村茂『産業医学
100
話−働く人の健康と病気−』労働科学研究所出版部,2010年,28−29ページ。10 中央労働災害防止協会編『特定化学物質障害予防規則の解説』中央労働災害防止協会,2010年,358ペ ージ。
11 中央労働災害防止協会編『職業性疾病事例集』中央労働災害防止協会,1995年,285−294ページ。
12 中央労働災害防止協会編『特定化学物質障害予防規則の解説』,前掲書,358ページ。
労働者を取り巻く「ヒト」としての環境と労働組合(齋藤) (355)61
なる粉塵の科学的な種類によって,珪肺,アルミ肺,セメント肺,鉄肺,炭肺などに区 分され
13
る。
一方,運送業では長距離輸送も少なくない。そのような場合,労働者は長時間運転し たり,荷物の送り手,受け手のところで待機する場合があるなど不規則で長時間にわた る勤務形態となることが多い。そのため,疲労とストレスによって冠動脈の血流量が下 がり,心筋が虚血状態になり壊死してしまう心筋梗塞が引き起こされたり,脳へとつな がる動脈の閉塞または狭窄のため脳虚血をきたし,脳組織が壊死してしまう脳梗塞が引 き起こされることがあ
14
る。さらに当該分野においては,輸送手段への重い荷物の積み込 み,荷下ろしなどの荷役もしなければならない場合がある。その際,作業姿勢の同一反 復化や腰など同一局所への多大な負担によって,椎間板ヘルニアや腰椎分離症,変形性 脊椎症などの腰痛となることがあ
15
る。
これらの他に気象観測業,航空業などの分野では,普段平地に居住している労働者が 作業のために急速に高地に到達した際に高山病になることがある。これは,高度の増加 に伴い吸入酸素分圧が低下し,低酸素血症が引き起こされて呼吸・循環・中枢神経に異 常をきたすものである。とくに疲労や脱水,睡眠不足,高地順応の程度や心肺機能など の個人差,寒冷や乾燥などの環境要因などによっても高山病発症が促進されてしまう恐 れがあ
16
る。また,染色業では,取り扱う染料が影響して膀胱ガンになってしまう場合が ある。この初発症状として最も多いのは血尿で,その後頻尿や排尿時の疼痛,尿の混濁 など膀胱炎の症状が出るなどして膀胱ガンが悪化するのであ
17
る。
これらに加えて医療分野にも職業病が存在する。そもそも医療現場は病気やケガを治 療する場であるが,その反面様々な病原体に感染した患者が集まってくる場所であり,
感染症が集団的に発症しやすい危険な場所でもある。そのため,患者に接する医療従事 者には感染症系の職業病,労働災害がある。その感染の経路としては,保菌者に触れる ことなどで感染する接触感染(メチシリン耐性黄色ブドウ球菌[MRSA]など)や病原体が 保菌者のクシャミ,咳などで飛ばされ感染する飛沫感染(インフルエンザウイルスなど), 針刺し事故などから感染する血液感染(C型肝炎など)などがあ
18
る。
────────────
13 市野宗彦,斎藤健吾,遠藤信編集,市野宗彦執筆『いのちの絆 トンネルじん肺根絶の闘い』全国トン ネルじん肺補償請求団,全国トンネルじん肺弁護団,全日本建設交運一般労働組合,2004年,31, 236−
241
ページ。14 労働調査会出版局編『労災保険 業務上疾病認定基準の医学的解説〈脳・心臓疾患編〉』労働調査会,2006 年,233−241ページ。
15 労働省安全衛生部労働衛生課編『腰痛を防ごう!「職場における腰痛予防対策指針」のポイント』中央 労働災害防止協会,1995年。9−10, 16−17ページ。
16 野村茂,前掲書,42−43, 200−201ページ。
17 吉田修,宮川美栄子,藤田潤,金岡俊雄「膀胱がんの原因」,倉恒匡徳編『職業がん/疫学的アプロー チ』篠原出版,1984年,41−47ページ。
18 村上正巳,小渕俊子,荻原貴之,桑原敦志,徳江豊,細谷隆一,四方田幸恵「群馬大学医学部附属病院 での取り組み−感染制御部の活動について−」,木村哲編『わが病院の感染対策』医薬ジャーナル社,!
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さらに,医療現場で働く医療従事者は,医師・看護師を中心に不規則な勤務形態を強 いられていることが多い。2010年
11
月3
日に行われた徳島県医療労働組合連合会主催 の「看護労働と夜勤問題を考えるシンポジウム」では,諸氏から以下のような報告がな された。まず,徳島県看護協会理事・看護師職能委員長の宮川操氏によると,看護職員 の70% 超が普段交代制勤務
(3交代・変則3
交代制または2
交代・変則2
交代制)において 月間複数回の夜勤をしており,さらには長時間の時間外労働をもしていて,大阪高等裁 判所判決が認定した過労死(脳血管疾患及び虚血性心疾患等)危険レベルの勤務に相当す る医療労働者も多くいるとのことである。そのため,日本医療労働組合連合会中央執行 委員の中野千香子氏によると,多くの医療従事者が日頃から「全身がだるい」,「イライ ラする」,「いつも眠い」,「憂うつな気分」などを感じており,疲労が慢性化していると のことである。その結果,労働科学研究所慢性疲労研究センターの佐々木司氏による と,過酷な夜勤労働をしている医療従事者は,男性では前立腺ガンに,女性では乳ガン になるリスクが高まるとのことである。この他,食品等を低温で保存しておく作業が行われるような倉庫業や食品加工業で は,凍傷が引き起こされたりする。そもそも人間の身体組織は,冷気にさらされると血 管が収縮する。その後,皮膚温度が下がり続けると組織の傷害が始まり,組織内の水分 が氷結していって傷害部分では感覚がなくなるのである。その後低温の場所から高温の 場所に移動して傷害部分を温めると,壊疽などが起こってしまうのである。これに対し て,通信業など強い赤外線が発生する作業が行われるところでは火傷が引き起こされる ことがある。この火傷の程度は,どこまで傷害が及んだか(「深さ」)とどの範囲に傷害 がわたっているか(「広さ」)によって重症度が決まるのであ
19
る。また,作業現場で強い 赤外線が発生するガラス工業などの製造業では,近赤外線に長期間さらされることによ って眼の水晶体が白濁して視力が低下するなどの視覚障害が起こる白内障が引き起こさ れることがあ
20
る。あるいはまた,同じように強い赤外線が発生する製鉄業では,とくに 遠赤外線を長期間受け続けることによって眼の網膜火傷が引き起こされることがあ
21
る。
また,木工業などの分野で木材の粉塵を長期間吸い込むような作業を行っている労働 者の中には,膿が副鼻腔にたまり慢性的に炎症を起こす慢性副鼻腔炎を発症し,さらに は鼻腔ガンになる人もいる。この場合,鼻がつまったり,血が混じったり,悪臭のする 鼻水が出たり,頭痛がするなどの症状が見られ,さらに進行すると眼や顎などの周辺部 位を侵すことになるのであ
22
る。さらに,チェーンソーなどで木材を切る林業やプレス,
────────────
"
2006
年,62−71ページ。19 労働省労働基準局補償課編『労働基準法施行規則第
35
条の解説』労務行政研究所,1996年,32−34, 47−49
ページ。20 和唐正勝「労働と疾病・健康」,内山源他『健康のための生活管理』家政教育社,1989年,186ページ。
21 労働省労働基準局補償課編,前掲書,32−34ページ。
22 吉村健清,酒井徹,馬場謙介「木工作業者と鼻腔・副鼻腔がん−病理剖検輯報を用いた症例・対照研! 労働者を取り巻く「ヒト」としての環境と労働組合(齋藤) (357)63
金型製作作業などを行う製造業では,作業で発生する音が難聴を引き起こすことがあ る。そもそも人の耳では,音が耳介で集められて外耳道に入り鼓膜を振動させる。そし てその鼓膜の振動は耳小骨をへて内耳に伝えられ,内耳の有毛細胞で電気的信号に変換 される。その音の信号は神経に伝達されて脳へと送られ,音として認識されるのであ る。このとき,この経路の中のどこかが異変をきたして難聴になってしまうのであ
23
る。
最後に,今日様々な産業の職場において頸肩腕症候群やうつ病が引き起こされる場合 が多くなってきている。まず,頸肩腕症候群とはコンピュータを使用するような仕事に おいて頸や肩,腕の痛みやこり,だるさなどが生じるものであ
24
る。また,うつ病は代謝 系が乱れてしまうなどの素因や仕事の強度の高まりや人間関係などの社会的な状況因,
身体疾患などの身体因によって引き起こされると考えられている。うつ病では,精神的 には気分が晴れないなどの抑うつ状態や興味・喜びが低下したりすることとなり,また 身体的には睡眠障害や食欲異常,疲れやすくなるなどの症状が出たりするのである。そ して最悪の場合自殺してしまうこともあ
25
る。
Ⅲ 日本の労働安全衛生の整備
(1)高度経済成長期以前の日本の労働安全衛生
上述のような労働者の職業病・労働災害に対処する活動が労働安全衛生である。この 労働安全衛生が日本においていかに行われたかをここではみることにする。
日本の諸産業の近代化は,「富国強兵・殖産興業」のスローガンの下,富岡製糸場に 代表される繊維産業を中心に展開された。当該産業の労働者は圧倒的多数が女性で,そ れも
10
代などの低年齢層が主であった。当該産業はこの低年齢層の女性労働者を農村 地域などから集め,寄宿舎に住まわせ,低賃金で長時間労働を課したのである。そのよ うな厳しい労働条件によって,当該産業では結核などの疾病が多く発生し26
た。したがっ て,日本では繊維産業において最も早く労働安全衛生が意識されたのである。
日本における本格的な労働安全衛生の整備は,1911年の工場法の制定を起源として いる。同法には,農商務省,警視庁などの監督機関に労働保護の専門監督官が配置さ れ,工場を臨検して,工場設備が危害を生じさせる恐れのあるときなどに行政処分,刑 罰制裁などを課すことや,職工が業務上で負傷したときなどの災害賠償が定められてい
────────────
! 究−」,倉恒匡徳編,前掲書,191−200ページ。
23 山田誠二『かけだし産業医の覚書』産業医学振興財団,2001年,93−96ページ。
24 三浦豊彦『はたらく人の健康学』大修館書店,1988年,216−219ページ。
25 上島国利「うつ病とはどのような疾病か 概念と特徴」,上島国利編『働く人のうつ病』中山書店,2008 年,15−26ページ。
26 福田眞人『結核の文化史』名古屋大学出版会,1995年,26−56ページ。
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27
た。その後,失業者の増加などから労働行政の統一が必要とされると,労働行政事務を 統合して管轄する部局として内務省に社会局が設置(1922年)されている。この社会局 の下で工場法改正(1923年公布,1926年施行)が行われ,工場法の適用範囲の工場の拡 張や,保護職工の就業時間の短縮などが行われた。その後,1929年には工場医の専任 などを規定した工場危害及び衛生規則の公布などが行わ
28
れ,これらの動きにより,繊維 産業では女性労働者の結核発症率は著しく改善されたのである。
このような行政側での労働者保護の動きに対して,倉敷紡績社長の大原孫三郎が労働 安全衛生に関する日本初の民間研究施設として倉敷労働科学研究所を設立した。ここで は,繊維産業における女性労働者の深夜勤務を含んだ
2
交替作業に関する労働負担の実 態などに関する専門的な研究が始められてい29
る。つまり,企業側の労働安全衛生の意識 が芽生えるのも繊維産業を起源としている。その後,第一次世界大戦による日本経済の 発展後には,工場労働者の多くが繊維産業の女性労働者という状況は少しずつ変化して きていた。この時期以降特に発展するのは金属,機械器具,化学などの重化学工業分野 である。しかし,それらの分野では産業の発展と共に労働災害が増え始めるのである。
そこで,古河鉱業足尾鉱業所や東京電気(現東芝),住友伸銅所(現住友金属工業)など 一部の民間企業において安全運動が起こされた。このような職業病・労働災害に前向き に取り組もうとする企業は,労働者やその家族への安全意識の高揚に努めるほか,安全 委員会を設置,安全靴などの各種安全装置・保護具の開発や労働災害の発生の少なさを 競う安全競争の実施など具体的な労働安全衛生活動にも自主的に取り組んだのである。
また,工場に専属の医局を設けて,職業病にかかったり,労働災害にあってケガをした 労働者を治療したり,場合によっては家庭の生活の扶助を行う企業もあっ
30
た。
このような企業側での動きに対して,行政側では,神戸高等工業学校(現神戸大学工 学部)に工場安全の講座を設けるなど,学校教育への労働安全衛生の導入も行われてい
31
る。しかし,第二次世界大戦の時期になると,戦争目的遂行のために
1938
年成立の国 家総動員法などに基づいて工場法などの労働安全衛生法令は停止され,各産業において 可能な限りの生産を行わせたため,労働安全衛生も停滞することとなっ32
た。
第二次世界大戦が終わると,日本占領連合軍総司令部(GHQ)によって,労働者が使 用者と対等な立場で団体交渉を行い,労働協約を結び,また労働者が争議行為を行うこ
────────────
27 井上浩『最新労働安全衛生法』中央経済社,2004年,2−3ページ。
28 野崎貞彦『保健・医療・栄養関係者のための精解衛生法規』第一出版,1993年,226−227ページ。
29 三浦豊彦「労働医学の歴史と現状」,河野友信編『産業ストレスの臨床』朝倉書店,1987年,23−24ペ ージ。
30 鎌形剛三編著『エピソード安全衛生運動史』中央労働災害防止協会,2002年,11−12, 57−58ページ。
31 同書,57−58ページ。
32 池上岳彦「日本・大正デモクラシー体制とファシズム体制」,馬渡尚憲他編著『現代の資本主義−構造 と動態』お茶の水書房,1992年,80−87ページ。
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とを保障する労働組合法が公布(1945年)されている。また
1946
年には,労働争議を 予防したり,斡旋・調停・仲裁によって解決することを目的とした労働関係調整法が公 布されている。さらに1947
年には,民主主義の下で労働者に経済的な生活の基礎を保 障するための労働基準法が成立してい33
る。
これら労働三法の成立にともなって戦後の労働行政事務が著しく増大していくことか ら,1947年に労働省が創設され,さらにその下に労働基準局と各都道府県に出先機関 として労働基準監督署が設けられた。このとき,厚生省労働基準局の指揮監督の下で各 都道府県労働局が管内の労働基準監督署を指揮監督する体制が作られた。しかし第二次 世界大戦直後は企業側の労働安全衛生に関する関心が一般的に薄かったことから,労働 安全衛生行政も上述の労働三法の周知徹底に努力が払われた。その後,産業界の復興と ともに,医師(産業医)以外の者も含めた衛生管理者選任の促進,衛生管理者等の特殊 技能者のための資格試験の実施,安全装置の性能認定,労働災害発生率の高い企業への 安全管理特別指導事業場の指定制度,一定期間無災害を継続した企業への安全表彰制度 の実施など,労働安全衛生行政の範囲も広がっていくのであ
34
る。
これに対し企業側の労働安全衛生運動が本格的に展開されるのは,1950年代半ばの 高度経済成長期以後まで待たなければならなかった。すなわち,諸産業の大企業は当該 時期になって始めて,次第に高まる賃上げ要求に対する原資を確保する必要に迫られ,
労働災害の費用を削減するために労働安全衛生に本格的に取り組むのであ
35
る。
このように,日本の労働安全衛生は繊維産業を皮切りにその後重化学工業など他の業 種へと広がっていく形であったが,高度経済成長期までは,その主導的な役割を果たす のは国家レベルの政治・行政であった。つまり,彼らが法整備と監督体制,教育体系の 構築を行って労働安全衛生の環境整備を行っていたのである。他方企業側で労働安全衛 生に関心を持つのは一部の大企業であり,多くの大企業が労働安全衛生に本腰を入れる のも高度経済成長期以降のことである。
(2)高度経済成長期以後の日本の労働安全衛生
そして,1950年代中頃から日本経済は高度経済成長期に入った。この成長の原動力 となったのは,鉄鋼業や造船業,石油化学工業,自動車産業などの分野における技術革 新であった。そして,この時期には,白黒テレビ,電気洗濯機,電気冷蔵庫の「三種の 神器」やカラーテレビ,クーラー,カー(自動車)の「3 C」といった耐久消費財が爆発
────────────
33 竹内宏『昭和経済史』筑摩書房,1994年,99−101ページ。
34 中央労働災害防止協会編『安全衛生運動史 労働保護から快適職場への
70
年』中央労働災害防止協会,1996
年,219−224, 260−269, 282−283, 296ページ。35 同書,270−280ページ。
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的に普及するなど,国民の生活様式は大きく変わるのであ
36
る。また,この高度経済成長 期はそれまでの就業構造を一変させた。すなわち,この時期以降多くの労働者が必要と されるようになり,中小企業では人手不足の傾向が強まり,大企業でも臨時工の採用が おぼつかなくなってきた。それにより,地方から都市へ出稼ぎに出る人が増え,加えて 女性の職場進出が加速したのである。特に,既婚女性のパートタイマー労働が増えてい っ
37
た。
高度経済成長期は物質的な豊かさをもたらしたが,他方で技術革新が行われた全国の 生産現場で大規模な労働災害を多発させた。さらに,鉄鋼業,機械金属工業,化学工業 などにおける雇用が急速に拡大したが,このことは,これらの産業で有害な化学物質を 扱う業務に従事する労働者の数を増加させ,工業中毒的な職業病を増大させることとな った。また,技術革新による機械化,自動化が進んで,コンピュータを使う仕事に就い ている労働者の頸肩腕症候群や神経感覚器に負担をかける作業による精神系のうつ病を 訴える患者が多くなったのである。また,大企業が次第に労働災害を減少させてきてい たのに対して,中小企業は労働災害がいっこうに減少していなかったのであ
38
る。
このような度重なる労働災害に対して,政治・行政側では,大企業以上に多発する中 小企業の労働災害に対処することをも含めて
1958
年に産業災害防止総合五カ年計画を 提起し,さらに1964
年に中央労働災害防止協会を結成している。加えて,1966年に安 全,衛生管理者の設置義務事業所の範囲を拡大したのであ39
る。また,1968年に労働災 害防止基本計画が成立し,機械設備に労働災害を防止するような安全対策がとられてい ること(フールプルーフ)や,機械設備自体災害が起きる前に停止すること(フェイル・
セーフ)が必要との方針が打ち出され
40
た。またこの時期には工業中毒的な職業病が増大 していたことから,港湾荷役作業における腐食性液体の取り扱いに関する法改正,有機 溶剤中毒予防規則,鉛中毒予防規則などの制定が行われてい
41
る。さらに,1955年に,
職業病の療養が開始されて以降必要な期間だけ長期療養補償を行うことを内容として含 むけい肺及び外傷性脊髄障害に関する特別保護法が成立している。さらに
1960
年には,適用対象を珪肺にとどまらず鉱山性粉塵の吸収によって起こる塵肺のすべてに拡大する じん肺法が成立している。つまり,この時期,労働安全衛生に関する具体的な法・制度
────────────
36 橘川武郎「戦後の経済成長と日本型企業経営 高度成長期以後の企業経営」,宮本又郎,阿部武司,宇 田川勝,沢井実,橘川武郎著『日本経営史−日本型企業経営の発展・江戸から平成へ』有斐閣,1999 年,263−266ページ。
37 三浦豊彦『はたらく人の健康学』,前掲書,62−66ページ。
38 飯島信子「現代産業と労働災害・職業病」,佐藤守弘,八木正編著,前掲書,279−289ページ。
39 鎌形剛三編著,前掲書,132−134ページ。
40 中央労働災害防止協会編『安全衛生運動史 労働保護から快適職場への
70
年』,前掲書,327−333ペー ジ。41 井上浩,前掲書,7−9, 198−199, 201−203ページ。
労働者を取り巻く「ヒト」としての環境と労働組合(齋藤) (361)67
の整備が進んだのであ
42
る。その後政治・行政側は,労働者の健康を守るとともに公害防 止にも寄与することを目的として,労働安全衛生に関する本格的な法律として労働安全 衛生法を成立(1972年)させている。同法の柱として,第一に危険な機械や有害物等が 使用される前の製造,流通段階での規制と労働災害防止の責任の所在の明確化,第二に 安全で快適な職場づくりの推進,第三には企業の労働安全衛生活動への援助の強化が企 図されてい
43
る。さらに,職業病の予防,診断,治療からリハビリまで一貫して研究する 体制をとるために産業医学総合研究所が設立(1976年)され,加えて,産業医の不足か ら産業医科大学が設立(1978年)されてい
44
る。
一方,企業レベルでは,高度経済成長期以降,鉄鋼業や造船業,化学工業,自動車工 業,鉱業などで,同業の大企業同士で企業幹部が相互に工場見学し,その後に労働安全 衛生上改善すべき点を互いに批評し合う形が取られるようになってきた。加えて,労働 安全衛生を研究する機関を持つ企業も多くなってきた。また
1960
年代以降日本では,QC
サークルのような小集団活動が行われるようになってきていた。その活動目標とし て,品質の向上,不良品の削減からコストダウン,作業能率の向上に加えて,労働災害 の防止なども掲げられるようになった。また,労働安全衛生法の成立後には,同法自体 に管理体制,労働安全衛生教育などに関するきめ細やかな措置を定められていたことも あり,大企業の労働安全衛生体制の基盤作りが進んだのであ45
る。また,民主主義社会に おける人命尊重の理念の浸透は国民の権利意識を高めたが,労働災害については,特に
1975
年の最高裁判所での自衛隊八戸工場事件判決において企業には労働者の安全に配 慮する義務があると認められて以降は,請求件数の増加と請求金額の高額化は顕著なも のとなった。したがって今日,企業は労働災害発生の可能性を予見し,事故の結果を回 避することが必要とされ,かつ,安全教育の内容を労働者に確実に実践させなければな らなくなってきてい46
る。
さらに,このような大企業の労働安全衛生が充実していく一方で,中小企業でも様々 な形で労働災害防止への努力が積み重ねられていくこととなった。例えば,中小企業に 対して
1974
年に労働安全コンサルタントの活動が開始され,加えて,産業医が衛生管 理の諸項目について事業者または総括安全衛生管理者に対して勧告できるようになった のである。これらの力を借りて,高い確率で労働災害が起きている事業場への安全指導────────────
42 三浦豊彦『−労働と健康の歴史 第
5
巻− 労働と健康の戦後史』労働科学研究所出版部,1991年,139−188
ページ。43 佐久間大輔『問題解決 労働法
7
安全衛生・労働災害』旬報社,2008年,12−13ページ。44 三浦豊彦『労働と健康の歴史 第
6
巻 −労働衛生通史・他−』労働科学研究所出版部,1991年,152−153
ページ。45 上嶋正博「職場の労務管理とその展開」,谷口茂他著『激動する産業社会と企業』東信堂,1992年,129
−137
ページ。46 外井浩志『知っておきたい職場のルール 健康・安全・衛生と補償・賠償』中央経済社,2001年,152
−159
ページ。同志社商学 第64巻 第5号(2013年3月)
68(362)
が行われる安全管理特別指導事業場の指定を返上しようとする中小企業側の努力も強ま っているのである。さらに,建設,鉄鋼,造船などの産業を中心に下請中小企業が協力 会を設立して労働安全衛生に取り組む形も見られるようになった。さらに,労働安全衛 生法で管理上の責任が元請企業にあることが明確にされたこともあり,元請企業と下請 中小企業との相互啓発が盛んになり,下請中小企業自身の自主的な活動も積極的になっ てきたのである。その結果,下請中小企業側の労働災害は減少してきているのであ
47
る。
また,高度経済成長期以後の度重なる労働災害は,労働組合が労働安全衛生に真剣に 取り組む契機となった。例えば,1966年に日本労働組合総評議会(総評)主唱で日本労 働者安全センターが,また日本労働総同盟(同盟)側でも産業災害防止特別委員会が発 足している。加えて,労働安全衛生法の成立後は,労働組合の側でも,日常的に労働安 全衛生に取り組む態勢を整備し,さらに労働者に対して労働安全衛生教育を充実させて いかなければならないという機運が高まってきているのであ
48
る。
すなわち,高度経済成長期以後になると,労働安全衛生に大きな役割を果たすのは依 然として国家レベルの政治・行政である一方で,大企業でも
QC
サークルの活動など もあり日常的に労働安全衛生に取り組まれる状況になるのである。さらに,大企業だけ でなく,中小企業や労働組合も労働安全衛生に積極的に取り組むようになってきてい る。Ⅳ 日本の労働安全衛生の現状
(1)労働災害の傾向
上述したように,日本の労働安全衛生は繊維産業を皮切りに,その後重化学工業など 他の業種へと広がっていく形であったが,高度経済成長期まではその主導的な役割を果 たすのは国家レベルの政治・行政であって,企業側で労働安全衛生に積極的に取り組む のは一部の企業にすぎなかった。これに対して高度経済成長期に入ると,国家レベルの 政治・行政だけではなく多くの大企業も労働安全衛生に大きな役割を果たすことにな る。さらにこの時期以降,大企業だけではなく,中小企業や労働組合も労働安全衛生に 取り組み始めるのである。
そのようなこともから,第
1
図にみられるように,高度経済成長のさなかの1962
年 までは労働災害による死傷者数は増加傾向を示すものの,その年以降今日までほぼ一貫 して減少傾向が見られるのである。また,労働災害による死亡者数についても,1961────────────
47 中央労働災害防止協会編『安全衛生運動史 労働保護から快適職場への
70
年』,前掲書,342−344, 382−387, 409−411
ページ。48 川上恕『安全衛生活動と労働組合』富士社会教育センター,2010年,16−28ページ。
労働者を取り巻く「ヒト」としての環境と労働組合(齋藤) (363)69
年までは増加傾向がみられるが,その後減少に転じ,1986年から
1996
年頃までの横這 い期はあるもののほぼ今日まで減少傾向は続いているのである。その意味で,高度経済 成長期以降の国家レベルの政治・行政や大企業を中心として中小企業や労働組合も含め た労働安全衛生活動の展開は,一定の成果をみせていると言えるだろう。しかしその一方で,第
2
図にみられるように,一時に3
人以上の労働者が業務上死傷 又は罹病した災害である重大災害に関して,1986年までは年ごとの増減はあるものの 減少傾向があったのに対して,その年以降は今日までほぼ増加傾向がみられるのであ る。この減少から増加へと傾向が転じる1980
年代半ば頃というのは,アメリカのレー ガン大統領やイギリスのサッチャー首相,日本の中曽根康弘首相らによって新自由主義第
1
図 労働災害による死傷者数と死亡者数の推移(単位:人)注
1:死傷者数は 1972
年までは休業8
日以上,1973年からは休業4
日以上。注
2:2011
年の死傷者数および死亡者数は東日本大震災以外の数値。出典:厚生労働省安全課調べ,厚生労働省『労災保険給付データ』,厚生労働省『労働者死傷 病報告』より筆者作成。
第
2
図 重大災害の発生件数出典:厚生労働省編『厚生労働白書(平成
22
年版)』日経印刷株式会社,2010
年,290ページより筆者作成。同志社商学 第64巻 第5号(2013年3月)
70(364)
的経済政策がとられた時期であ
49
る。また,第
2
図では,1998年以降2006
年まで重大災 害の発生件数が著しい増加をみせているが,この時期はワシントン・コンセンサスに基 づいてIMF
や世界銀行を通じて,新自由主義が当時アジア経済危機に苦しんでいた日 本を含むアジアを中心に世界中に広まっていく時期であ50
る。とくに日本では,2001年 に首相に就任した小泉純一郎がこの新自由主義の経済政策を推進しているのであ
51
る。
つまり,上述のような高度経済成長期以降の国家レベルの政治・行政や大企業を中心 として中小企業や労働組合も含めた労働安全衛生活動は,広く行き渡って成果をみせる 状況(前進の面)である一方で,1980年代半ば以降新自由主義経済の展開の中で,大規 模災害を想定しなくなるような労働安全衛生活動の質的変化(後退の面)もみられ,特 に
1990
年代末期以降ではその傾向がいっそう著しくなっているのである。(2)業務上疾病の傾向
上述のような労働災害の状況と合わせて,次に業務上疾病の発生状況をみることにす る。業務上疾病とは労働基準法が規定する「労働者が業務上負傷し,又は疾病にかかっ た場合」のことであり,本稿で上述した職業病のことである。この業務上疾病の発生状 況の推移を示しているのが第
2
表である。同表をみると,日本においては高度経済成長 期の1970
年頃までは業務上疾病(職業病)は増加しているが,その後は1999
年頃まで 年ごとの増減はあるもののほぼ一貫して減少している。しかし,1999年頃から2008
年 頃まで一定の増加傾向がみられるのである。この時期,とくに業種的には運輸交通業や 貨物取扱業,商業・金融・広告業,保健衛生業,接客娯楽業などで業務上疾病(職業 病)が大きく増加している。このような業務上疾病(職業病)の推移は,上述のような新自由主義経済の展開の中 で,労働災害に関して大規模災害を想定しなくなるような労働安全衛生活動の質的変化
(後退の面)が特に
1990
年代末期以降でいっそう著しくなっている状況と符合している と考えられる。すなわち,1990年代末期以降の労働安全衛生活動の質的な大幅後退に よって,特定の業種を中心に業務上疾病(職業病)に対処しきれない状況となってきて いるのである。(3)近年社会問題化している職業病の傾向
仕事の強度の高まりや人間関係などの社会的な状況因,身体疾患などの身体因によっ
────────────
49 小林正雄「現代資本主義の動態(1970−90年代)日本」,馬渡尚憲他編著,前掲書,353−354ページ。
50 ジョセフ・E・スティグリッツ著,鈴木主税訳『世界を不幸にしたグローバリズムの正体』徳間書店,
2002
年,29−39, 69−81ページ。51 上村敏之監修,「政策創見ネット
21」編「人口減少国家 日本の将来−「ポスト小泉改革」への指針」,
上村敏之,田中宏樹編著『「小泉改革」とは何だったのか』日本評論社,2006年,225−267ページ。
労働者を取り巻く「ヒト」としての環境と労働組合(齋藤) (365)71
て引き起こされると考えられる以下のこころの健康に関わるような職業病や過労死等が 近年様々な産業の職場において増加し,社会問題化してきている。とくに,1997年以 降日本の労働者の平均賃金は減少傾向にあ
52
り,その一方で労働時間の中でも所定外労働 時間が
1998
年以降ほぼ一貫して増加傾向にあって,日本の労働者は長時間労働を余儀 なくされてい53
ることが指摘されている。このような労働時間の長期化による仕事の強度 の高まりに対して賃金によって報われない状況が大きな要因として,それらの職業病は 近年増大してきていると考えられる。
まず第一にこころの健康に関わるような職業病として,データが少ないものの第
3
表 にみられるようにうつ病,そううつ病等の気分障害の患者数が,1999年以降2002
年ま での間から顕著な増加傾向が生じてきていることがわかる。また,この気分障害とも関 連すると思われるが,健康問題や経済・生活問題を主要因とし54
て,同表にみられるよう
────────────
52 雇用のあり方研究会,伍賀一道,西谷敏,鷲見賢一郎,後藤道夫編著『ディーセント・ワークと新福祉 国家構想 人間らしい労働と生活を実現するために』旬報社,2011年,157ページ。
53 小倉一哉「日本の長時間労働−国際比較と研究課題」,労働政策研究・研修機構編『日本労働研究雑誌』
No.575,労働政策研究・研修機構,2008
年,4−15ページ。54 警察庁生活安全局地域課『平成
18
年中における自殺の概要資料』警察庁,2007年,5ページ。第
2
表 業務上疾病の発生状況の推移1970年1975年1980年1985年1989年1990年1991年1992年1993年1994年1995年1996年1997年1998年
製造業 13,408 10,809 7,020 5,298 4,340 3,154 2,457
鉱業 2,034 1,416 1,394 974 615 462 468
建設業 5,735 4,618 3,965 2,679 2,162 1,661 1,364
運輸交通業 4,098 2,975 2,518 1,835 1,998 1,400 1,100
貨物取扱業 1,758 1,166 600 433 259 221 87
農林水産業 商業・金融・広告業 保健衛生業 接客娯楽業 清掃・と畜業 その他の事業
合計 30,796 24,953 18,644 14,588 12,464 11,415 11,951 10,842 9,630 9,915 9,230 9,250 8,557 8,574 1999年2000年2001年2002年2003年2004年2005年2006年2007年2008年2009年2010年2011年 製造業 2,136 2,208 2,054 1,853 1,965 1,853 2,032 2,152 2,160 1,965 1,485 1,745 1,624 鉱業 490 480 386 359 356 317 231 191 168 175 141 138 117
建設業 1,230 1,216 1,157 1,055 1,093 971 1,020 1,057 974 930 718 881 800
運輸交通業 963 971 1,062 998 969 915 991 917 995 1,097 927 956 922 貨物取扱業 82 107 85 73 99 93 74 74 97 93 82 88 87 農林水産業 184 180 158 169 183 174 188 190 商業・金融・広告業 1,120 1,391 1,294 1,346 1,427 1,220 1,322 1,242 保健衛生業 1,022 1,143 1,330 1,445 1,587 1,487 1,559 1,629 接客娯楽業 408 409 511 549 666 557 501 505 清掃・と畜業 368 386 330 412 395 333 350 324 その他の事業 358 369 355 369 356 367 383 339 合計 7,817 8,083 7,984 7,502 8,055 7,609 8,226 8,369 8,684 8,874 7,491 8,111 7,779 出典:厚生労働省『業務上疾病発生状況等調査』各年版。
同志社商学 第64巻 第5号(2013年3月)
72(366)
に
1998
年に自殺者数が大幅に増加して3
万人台になり,その後その水準にとどまって いる。同表からは,性別ではとくに男性の自殺者が増加してきており,また職業別では とくに無職者や被雇用者,自営者の自殺者が顕著に増加してきていることがわかる。これらに加えて,上述のような医療現場などでの不規則な勤務形態や長時間労働によ って,脳血管疾患及び虚血性心疾患等の過労死等事案が,第
3
表にみられるように1995
第
3
表 気分障害患者数(うつ病,そううつ病等)と自殺者数,過労死等労働災害補償状況の推移 1985年1986年1987年1988年1989年1990年1991年1992年1993年1994年1995年1996年1997年1998年気分障害患者数 433,000
うち男性 159,000
うち女性 274,000
自殺者数 23,599 25,524 24,460 23,742 22,436 21,346 21,084 22,104 21,851 21,679 22,445 23,104 24,391 32,863 男性自殺者数 15,624 16,497 15,802 14,934 13,818 13,102 13,242 14,296 14,468 14,560 14,874 15,393 16,416 23,013 女性自殺者数 7,975 9,027 8,658 8,808 8,618 8,244 7,842 7,808 7,383 7,119 7,571 7,711 7,975 9,850 自営者自殺者数 3,587 3,677 3,358 3,094 2,530 2,317 2,493 2,661 2,676 2,543 2,811 2,790 3,028 4,355 管理職自殺者数 449 487 390 362 335 355 382 371 422 407 411 478 516 713 被雇用者自殺者数 5,660 6,034 5,767 5,487 5,108 4,925 514 5,394 5,416 5,214 5,333 5,374 5,696 7,960 主婦・主夫自殺者数 2,402 2,568 2,543 2,509 2,463 2,346 2,194 2,299 2,247 2,069 2,249 2,178 2,191 2,684 無職者自殺者数 10,467 11,489 11,362 11,258 10,961 10,456 9,917 10,323 9,873 10,147 10,357 10,919 11,590 15,266 学生・生徒自殺者数 592 767 562 618 554 509 482 535 549 653 617 617 617 818 不詳自殺者数 442 502 478 414 485 438 472 521 668 646 667 748 753 1,067 過労死等事案(脳・心
臓疾患)労災申請数 676 777 597 555 458 380 405 558 578 594 521 うち認定件数 29 30 33 34 18 31 32 76 78 73 90 精神障害等労災申請数 8 2 3 2 2 7 13 13 18 41 42
うち認定件数 0 1 1 0 2 0 0 1 2 2 4
1999年2000年2001年2002年2003年2004年2005年2006年2007年2008年2009年2010年2011年 気分障害患者数 441,000 711,000 924,000 1,041,000
うち男性 162,000 243,000 338,000 386,000
うち女性 279,000 468,000 586,000 655,000
自殺者数 33,048 31,957 31,042 32,143 34,427 32,325 32,552 32,155 33,093 32,249 32,845 31,690 30,651 男性自殺者数 23,512 22,727 22,144 23,080 24,963 23,272 23,540 22,813 23,478 22,831 23,472 22,283 20,955 女性自殺者数 9,536 9,230 8,898 9,063 9,464 9,053 9,012 9,342 9,615 9,418 9,373 9,407 9,696 自営者自殺者数 4,280 4,366 4,149 4,089 4,215 3,858 3,700 3,567
管理職自殺者数 728 696 692 745 735 654 629 627 被雇用者自殺者数 7,890 7,301 7,307 7,470 8,474 7,893 8,312 8,163 主婦・主夫自殺者数 2,681 2,762 2,705 2,896 2,781 2,690 2,705 2,658 無職者自殺者数 15,467 14,959 14,443 15,117 16,307 15,463 15,409 15,412 学生・生徒自殺者数 825 756 749 673 788 784 861 886 不詳自殺者数 1,177 1,117 997 1,153 1,127 983 936 842 過労死等事案(脳・心
臓疾患)労災申請数 568 685 690 819 742 816 869 938 931 889 767 802 うち認定件数 81 85 143 317 314 294 330 355 392 377 293 285 精神障害等労災申請数 155 212 265 341 447 524 656 819 952 927 1,136 1,181 うち認定件数 14 36 70 100 108 130 127 205 268 269 234 308
注1:気分障害患者数を掲載している『患者調査』は3年に1度調査を実施しており,気分障害患者数(うち男性,うち女性
を含めて)は各年10月の推計値。
注2:自殺者数に関しては,2007年に職業分類が改められたため数値を入れていない。
出典:厚生労働省『患者調査』各年版,警察庁生活安全局地域課『平成18年中における自殺の概要資料』警察庁,2007年,
警察庁生活安全局生活安全企画課『平成22年中における自殺の概要資料』警察庁,2011年,内閣府自殺対策推進室
『警察庁の自殺統計に基づく自殺者数の推移等』内閣府,2012年,過労死・自死相談センター資料,厚生労働省『平 成22年度 脳・心臓疾患および精神障害などの労災補償状況まとめ』厚生労働省,2011年より筆者作成。
労働者を取り巻く「ヒト」としての環境と労働組合(齋藤) (367)73
年と
2001
年ごろに労働災害の申請件数と認定件数が大幅に増加してきていることがわ かる。また,精神障害等での労働災害の申請件数と認定件数についてみても,同表では1999
年ごろから急激な増加傾向がみられるのである。このようなこころの健康に関わるような職業病や過労死等の近年社会問題化している 職業病の発生の推移も,上述の労働災害や業務上疾病(職業病)の推移と同様に,新自 由主義経済の展開の中で労働安全衛生活動の質的変化(後退の面)が特に
1990
年代末期 以降でいっそう著しくなっている状況と符合していると考えられる。すなわち,1990 年代末期以降の労働安全衛生活動の質的な大幅後退によって,特定の業種を中心に労働 災害や業務上疾病(職業病)に対処しきれない状況となってきているのであり,近年社 会問題化している職業病を深刻な問題にしてしまっているのである。Ⅴ 労働安全衛生に対する政府と企業の対応と 労働組合の重要度の高まり
(1)国家と地方政府の労働安全衛生への対応の変化
ここでは,労働安全衛生に対する国家(日本政府)と地方政府の対応がいかに変化し てきているかをみることにする。まず国家(日本政府)の労働安全衛生に対する対応を 各年度の当初予算額の推移からみることにする。一般会計歳出当初予算額とそのうちの 社会保障関係費,さらにそのうちの失業対策費(2009年度より雇用労災対策費と名称変更 されている),およびそれぞれの割合,加えて労働保険特別会計当初予算額,そのうちの 労災勘定の額の推移を示しているのが第
4
表である。同表によれば,アメリカ合衆国で レーガン(新自由主義経済政策を打ち出している)が大統領に就任した1981
55
年以降に作成 された日本の
1982
年度の当初予算から,一般会計歳出に対する社会保障費の割合(B/A)は,それ以前の時期よりもぐっと低く抑えられてきている。つまり,社会保障を切
り下げるような新自由主義的政策が日本において策定されてきているのであり,その一 環で失業対策のような労働環境の整備も手薄になってきていたのである。その後,1995 年から一転して歳出の中で社会保障の割合を高めるような政策に転換され,今日までそ の割合は高まってきている。一方,失業対策費(そもそも社会保障関係費の中でも大きな 額ではない)も同じような傾向を示すことになるが,労働者派遣法が改正されて製造業 への派遣が解禁される2004
年56
度の予算からは,一時的な増額がなされるときはあるも のの失業対策費自体の当初予算額が削減されている。
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55 阿部斉「レーガン内政の特質と遺産」,阿部斉,五十嵐武士編『アメリカ現代政治の分析』東京大学出 版会,1991年,6−29ページ。
56 西谷敏『人権としてのディーセント・ワーク 働きがいのある人間らしい仕事』旬報社,2011年,126 ページ。
同志社商学 第64巻 第5号(2013年3月)
74(368)