地
著者 布留川 正博
雑誌名 經濟學論叢
巻 57
号 4
ページ 77‑105
発行年 2006‑03‑20
権利 同志社大學經濟學會
URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000008586
【論 説】
イギリスのアボリショニズムと シエラ・レオネ植民地
布留川 正 博
目 次
1 はじめに
2 在英黒人問題をめぐって 3 シエラ・レオネへの黒人移送
4 シエラ・レオネ会社の創設とノヴァ・スコシアからの黒人移送 5 マルーン人の到着
6 奴隷貿易廃止とシエラ・レオネの直轄領化 7 解放アフリカ人の処遇
8 おわりに
1 は じ め に
イギリスの奴隷貿易廃止運動については,すでに拙稿1)において,1787 年のロンドンでの奴隷貿易廃止委員会(London Abolition Committee)結成から
1807
年3
月の奴隷貿易廃止法がイギリス議会で通過するまでの過程を中心に,その運動に参加した主体の側からまとめた.そのなかでとくに奴隷貿易廃止 を求める大衆的なキャンペーンが全国的な議会請願署名に結実し,それをバッ クに奴隷貿易廃止をめぐる議会での論戦が活発に展開され,最終的に奴隷貿
1 )拙稿,(1998)「イギリスにおける奴隷貿易廃止運動――London Abolition Committeeの活動を中 心に――」『龍谷大学経営学論集』第37巻 第4号.
易廃止法成立に導いたことを具体的に明らかにした.そのなかでこの委員会 が中心的な役割を果したことを強調した.
しかしじつは,この国内的な運動と並行して,かつそれと密接な関わりを もちながら,西アフリカ西南部のシエラ・レオネ(Sierra Leone)で植民地が 形成されつつあった.それは,あとで詳しく述べるように,在英黒人の問題 に端を発し,その問題の解決をはかるために立案されたシエラ・レオネ入植 計画に基づくものであった.それが実行に移されていく過程の主導者がまさ に奴隷貿易廃止運動を指導していた人々であった.すなわち,そのほとんど は奴隷貿易廃止委員会の主要な構成メンバーであったのである.グランヴィ ル・シャープ(Granville Sharp),ウィリアム・ウィルバーフォース(William
Wilberforce)
,ヘンリー・ソーントン(Henry Thornton)らがこれにあたる.とすれば,イギリス国内を舞台に展開された奴隷貿易廃止運動とアフリカ におけるシエラ・レオネ植民地形成とをどのように結びつけることができる のか.これが本稿の主題である.その際にこの課題をイギリス本国やアフリ カだけでなく,大英帝国全体の構造のなかに位置づける必要がある.なぜなら,
シエラ・レオネ植民地形成にはイギリスの帝国構造の多様な要素が入りこむ ことになるからである.
他方,シエラ・レオネ植民地形成史から本国の奴隷貿易廃止運動家の活動 形態やその意識をみるならば,すでに触れた拙稿でみたものとは違った像が 焦点を結ぶのである.すなわち,忌まわしき奴隷貿易に果敢に挑戦し,キリ スト教の旗の下に慈善にあふれる献身的な活動を展開した人道主義者という 像からイギリスおよびヨーロッパの文明を押しつけ,植民地形成・拡大をは かる帝国主義者としての像である.しかしじつは,人道主義者としての像と 帝国主義者としての像とはコインの表裏の関係にあったと言わねばならない.
さて,以上の主題に関して,先駆的な業績をあげているのが平田雅博氏で ある.平田氏は,少なくとも十数年前から在英黒人問題に関心をもち,彼(女) らにとっての「擬似故郷」としてのシエラ・レオネ植民地の形成史ならびに
その帝国主義的性格について数々の論考を発表され,最近それらをまとめて
『内なる帝国・内なる他者』として刊行された2).そこで開陳されている問題 意識は筆者のそれに近似しており,かつまたその内容も本稿のそれと重なり 合う部分も少なからずある.
しかしなお筆者なりの独自の視点をあげるならば,奴隷貿易廃止運動およ び奴隷制廃止運動,いわゆるアボリショニズムとシエラ・レオネ植民地形成 を同時代的なものとして,あるいはむしろ車の両輪のように相即不離の関係 にあるものとして捉えることである.ここであらかじめ強調したいことは,
アボリショニズムが一見帝国形成には何ら関係のない,あるいはむしろ帝国 に反抗する傾向をもちながら,じつは
19
世紀の新たな帝国形成にとって非常 に重要な役割を果したことである.以下の論考のなかでこの点を具体的に明 らかにしたい3).2 在英黒人問題をめぐって
イギリスは,17世紀初頭から北米植民地や西インド植民地を開発し,本国 とのあいだに独占的な通商体制を築くいわゆる重商主義帝国を形成した.こ うした植民地の枢要な地域には多くの黒人奴隷が導入され,砂糖,タバコ,米,
藍,コーヒー,綿花などをステイプルとするプランテーション経済体制が形 成された.また,その派生的な形態として家内奴隷も広範に存在した.黒人 奴隷の大部分は,植民地における基幹的労働力として使役され,そのため当 然のことながら植民地に留まっていた.しかし,例外的な存在として,主人 の従者として本国に渡ってくる黒人奴隷もいたのである.
この点に関して,平田氏は,
17
世紀後半から18
世紀初頭の『ロンドン・ガゼッ タ』紙の広告欄に掲載された逃亡奴隷探索の記事を材料に,在英黒人のプロ フィールの断面を明らかにしている.これには逃亡黒人の身体的特徴・性別・2 )平田雅博,(2004)『内なる帝国・内なる他者――在英黒人の歴史――』晃洋書房.
3 )この主題に関するイギリスの研究史については平田氏の前掲書の「序章」に詳しく触れられて いるので,それを参照されたい.
年齢・英語の上達度,主人の職業・住所,報奨金額などが記載されている.
ここで注意しておきたいことは,「黒人(blacks)」の範疇には,いわゆるアフ リカから連行された黒人あるいは植民地生まれのクレオールの黒人ばかりで なく,「ムーア人」や「インド人」などが含まれるということである.したがって,
環大西洋地域だけでなく,インドを含むアジア地域の住民にも「黒人」とい う言葉が使われたことに留意したい.すなわち,多様な非白人を一括りに「黒 人」と呼んでいたのである.一方,主人の職業は,記載がない場合が多いの ではあるが,明記されている場合は,船長や将校,貴族,商人,医師や薬剤 師など多様である.こうした人々は,直接・間接に海外との関係を密に持っ ていたと考えられる.4)
ところで,18世紀においてイギリスあるいはとくにロンドンにはどれほど の黒人が存在していたのか.マイヤーズは,在英黒人人口をめぐる研究史を ふりかえりながら,次のようにまとめている5).
まず,ドロシー・ジョージ(Dorothy George)が,マンスフィールド判決が 出た
1772
年における在英黒人の数を14,000
〜15,000
人としているのに対し て,スコウビー(E. Scobie)は,それよりもかなり多く,18
世紀末の在英黒人の人口を
45,000
〜50,000
人と推算している6).また,スティーブン・ブレイドウッド(Stephen Braidwood)は,
18
世紀末の在英黒人の人口を15,000
人以下 と見積もり,とくにロンドンの同人口が最大でも7,500
人であると推算した.マイヤーズは,最後のブレイドウッドの推算が,ロンドンの教区資料に部分 的に依拠して見積もった点を評価して,それにある程度推量を加えて,18世 紀終わりころのロンドンの黒人人口を
5,000
人以上とする結論に達した7).こ の結論は,いまのところ最も信頼できる数値であると思われるが,まだ推量 の域をでないものであることを断っておきたい.後述するように,このなか4 )平田雅博,前掲書,26-53ページ.
5 )Myers, Norma, (1996) Reconstructing the Black Past : Blacks in Britain 1780-1830, London : Frank Cass.
6 )Ibid., pp.7-8.
7 )Ibid., p.27.
にシエラ・レオネに行く黒人が含まれているわけである.
つぎに,在英黒人形成にとって直接的な歴史的背景について述べておかな くてはならない.それは,アメリカ独立戦争との関係である.この戦争にお いてイギリス軍の側で戦った多数の逃亡奴隷たちがいた.たとえば,
1775
年 にヴァージニア総督ダンモア卿(ジョン・マレー)が国王派に参加する奴隷に は自由を与えるとする「ダンモア宣言」を発表したことは有名である.また,1778
年後半以降にイギリス軍が南部諸地域,ジョージア・南北カロライナ,ヴァージニアへと平定作戦を展開した際,数万規模の逃亡奴隷が発生した.
イギリス軍は彼らを戦時捕獲物とみなし,さまざまな労働に使役した.その 一部がイギリス軍に組み入れられたわけである.黒人たちにとって自分の将 来の運命は定かではなかったが,少なくとも自身の解放の可能性を切り拓く ために生命を賭して軍隊に身を投じたのである.ちなみに,独立軍側に参加 した黒人もいたが,数としては少なかった.8)
アメリカ独立戦争が終わったとき,少なくとも
14,000
人の黒人がイギリス 軍と行動をともにしていたといわれている9).その一部が,サヴァンナ,チャー ルストン,ニューヨークなどからイギリス軍とともに撤退し,イギリスに行 くことになったのである10).ちなみに,これ以外に,後の叙述とも関係するが,カナダのノヴァ・スコシア(Nova Scotia)植民地に逃げのびた黒人たちが数千 人いたといわれる.こうしたことにより
1784
年ころからロンドンで黒人の存 在が目立ちはじめた.そして,その多くは仕事のない黒人貧民であった.こうした黒人貧民に対して何らかの対応策が施されなければならなかった.
1786
年初めに「黒人貧民救済委員会」(Committee for the Relief of the Black Poor)8 )以上の叙述は,池本幸三氏の未刊の著作『アメリカ独立革命の時代』(仮題)の一部を著者の許 可を得て参照させていただいた.
9 ) Fryer, Peter, (1984) Staying Power : The History of Black People in Britain, London : Plute Press, p.192.
10 )これらの黒人ロイヤリストのうち47人はイギリス政府に,戦争での損失に対して補償請求を行 なったが,財産の損失に対して相応の補償が与えられた者が1人,わずかの年金を受け取った者 が3人,5〜20ポンドの補償が与えられた者が20名で,同じ境遇の白人ロイヤリストに比べて 補償対象はきわめて狭く,補償額も低かったとされる.(平田,前掲書,62‐65ページ.)
が組織され,慈善活動が展開された.その年の
1
月24
日よりスープ,パン,肉を毎日
140
人の黒人貧民に配給しはじめた.2
月5
日には人数が210
人に 増加した.このころには食糧配給と並んで重病人にはパンを送り届け,また,病院も開設した.食事だけでなく,衣服も与えた.
4
月になるとさらに人数 は増加し,460人になっている.食事の配給が煩雑になってきたので,4月半 ばより現金6
ペンスが毎日支給されはじめた.この変更で,施しを受け取り にくる黒人貧民の数は一旦減少するが,6月には364
人,8月には736
人,9月末には
1,000
人近くに増加している.うえの組織は,半官半民の非営利の組織であったが,10月に活動が停止するまでにコストは
2
万ポンドにのぼっ た.民間の寄付もあったが,それは890
ポンドだけで,残りは政府から出費 されていた.11)3 シエラ・レオネへの黒人移送
黒人貧民を「救済」する活動と平行してあるいはそれに対応して,黒人を シエラ・レオネに入植させる計画が浮上した.このシエラ・レオネ計画を立 案したのが,ヘンリー・スミースマン(Henry Smeathman)である.彼は,す でに
1771
年から74
年にかけてシエラ・レオネとその周辺の入江や川を横断 したり,近くの島に居住していた.彼の目的は,キュー・ガーデンのジョゼフ・バンクス卿のために現地で植物の標本を集めることであった.じつは彼はア マチュアの生物学者なのであった.もちろん,こうした目的以外にも現地の さまざまな情報を得ることができた.12)
彼は,イギリスに帰る途中で西インドに立ち寄ったり,その後別の仕事で フランスに行ったりした.アメリカ独立戦争が終わったあとすぐにロンドン では奴隷貿易に批判的なクウェイカー教徒を中心とする活動が芽生えていた13). そのような空気に敏感であったスミースマンは
1783
年に,西アフリカの地に,11 )Fryer, op.cit., pp.194-195.
12 )Peterson, John, (1969) Province of Freedom : A History of Sierra Leone 1787-1870, London : Faber &
Faber, pp17-18.
13 )拙稿,24-31ページ.
西インドのように奴隷労働に基づくプランテーションではなく,自由労働に 基づく農業プランテーションを建設する構想をもっていた.それはまた,黒 人と白人が同等な,民主主義的・自由主義的原則に基づく自由共同体であった.
1786
年5
月にこの構想とロンドンの黒人貧民の存在とが結びつけられた.黒人貧民救済委員会がこの計画にとびついたのはいうまでもない.委員会 は,アフリカの穀物海岸(シエラ・レオネ)ほど黒人が生活するのに適した場 所はないとする宣伝用のチラシを作成し,黒人たちに配った.この計画に参 加する黒人移住者には
1
人当たり14
ポンドを支払うという呼び水まで用意し た.しかし,当の黒人自身がそのように判断するのは難しかった.なぜなら,当地は奴隷狩りで有名な地域であったからである.
この計画には,奴隷貿易・奴隷制廃止運動の指導者(アボリショニスト)も 積極的な支持を表明した.そのなかで当初もっとも積極的に支持を表明した 人物は,グランヴィル・シャープであった.彼はすでに
1772
年のサマーセッ ト事件の公判において黒人サマーセット支援の活動を展開したことで,在英 黒人と密接な関係をもっていた.スミースマンの計画を知ったとき,彼はそ れを黒人にとっては理想的な社会を構築するための青写真であるとみなした.黒人たちが文明化された条件のもとで生産的な生活をおくることができると して高く評価したのである.14)
すでに触れたように,この計画に懐疑的な黒人がいる一方で,多少のリス クはあっても自分の将来を保証するものとしてこの計画に乗り気の黒人もい た.救済委員会としては,移住候補者を増やすために強硬な手段に訴えた.
すなわち,毎日の施しを受ける代わりに移住契約に署名することを要請した.
また,救済委員会議長のジョナス・ハンウェイ(Jonas Hanway)は,この事業 をスムーズに行なうために,署名した黒人のなかから
8
人のリクルーターを 選んだ.このうち4
名が北米植民地生まれ,2人がアフリカ生まれ,その他14 )Lascelles, E.C.P., (1928) Granville Sharp and the Freedom of Slaves in England, London, Oxford Univ.
Press, p.82.
バルバドス生まれ,ベンガル生まれが
1
人ずつであった.しかし,
7
月に当のスミースマンが不慮の死をとげたことから,シエラ・レオネ計画は一旦棚上げされた.救済委員会は,移住地をシエラ・レオネか らバハマ諸島に変更しようとしたが,ここは奴隷制が支配的であり,黒人た ちはこの変更に強く抗議した.救済委員会は今度はカナダのニュー・ブラン ズウィックに変えようとしたが,寒冷の地であり,黒人たちはこれにも強く 反対した.結局,8月半ばに財務省は,シエラ・レオネ計画を復活させ,そ の責任者としてジョゼフ・アーウィン(Joseph Irwin)を当てた.15)
計画を実行に移す時が迫っていた.救済委員会は
10
月,シエラ・レオネ 計画の契約書に署名しないものにはもうこれ以上施しをしないことを決定し た.署名した黒人たちは,西アフリカの奴隷貿易業者の餌食にならないため に,イギリス臣民であることを示す証明書と武器を要求した.その他,警察官,駐留軍,鍛冶場,テント,食糧,ティーと砂糖なども併せて要求した.この 計画には黒人以外に海外で幸運をつかもうとする一部の白人にとって魅力の あるものにみえた.こうして,黒人,白人含めて約
700
人の入植希望者が署 名した.しかしその後,オーストラリアの囚人植民地に送られるのではない かと恐れて離脱するものも続出した.1787年2
月にポーツマス港から出帆し たときには,3
隻の輸送船に456
人しか乗りこんでいなかった16).このうち の100
人余りが白人の入植希望者であった.出航後しばらくして,激しい嵐に襲われ,船団がばらばらになったので,
急遽プリマス港で船団をたてなおさなければならなくなった.この過程で死 亡者が出たり,再度離脱者が出たりしたので,入植希望者を補充して,
4
月 に再出港したときの人数は411
人であった.船団がシエラ・レオネに到着し たのは5
月であった.航海中に34
人が死亡し,入植者は377
人に減っていた.この一行の団長を務めていたトムソン船長は
20
平方マイルの入植地を現地 のテムネ人の首長から購入した.じつはこの地は,何世紀にもわたって奴隷15 )Fryer, op.cit., pp.197-198.
16 )Peterson, op.cit., p.23.
業者が給水するために使用してきた湾の近くにあった.この最初の入植地を シャープに因んでグランヴィル・タウンと名づけた.ここに居住するための 住まいを建てる前に雨季が始まった.長い航海のために弱っていた入植者は 病気の犠牲になった.
9
月までに86
人が死亡し,15
人がここから立ち去った.しかし,次の年の初めまでにさらにその数は
130
人にまで減少した.1788年8
月にシャープによってイギリスから物資が届けられたが,入植地を破滅か ら救うことはできなかった.17)現地では奴隷狩りの犠牲になることもあった.たとえば,
1788
年にテムネ 人の副首長トム王は入植者2
人を奴隷として売りとばした,という記録があ る.あるいは逆に,入植者が奴隷貿易業者になるということもあった.すで に触れたように,この地域は以前から奴隷貿易業者の拠点のひとつであった からである.こういうこともあって,入植地では周囲の現地人とのあいだで 紛争がしばしば発生した.1789年末には最初のグランヴィル・タウンがトム 王の後継者であるジミー王によって焼き払われている18).4 シエラ・レオネ会社の創設とノヴァ・スコシアからの黒人移送
入植して
4
年後には最初の入植地に残っていた人々の人数はたったの60
人 であった.しかし,シエラ・レオネは,自由植民地としての理想をいまだ保 持していた.アフリカを文明化し,奴隷貿易に対する贖罪を行い,それに代わっ て合法貿易を推進するモデル・ケースとして位置づけられていた.1790年にグランヴィル・シャープ,ヘンリー・ソーントン,ウィリアム・ウィ ルバーフォースらが中心になって,セント・ジョージ湾協会(St. George s Bay
Association)
がアフリカでの合法貿易を遂行するために結成された.これには,1791
年6
月にイギリス政府から特許状が与えられ,シエラ・レオネ会社(SierraLeone Company)
として再組織された.この会社は13
人の取締役の下で組織され,会長にはシャープではなく,銀行家のソーントンが就任した.出資金は
17 )Ibid., p.23, p.26.
18 )Ibid., p.26.
2
万ポンドを超えた.会社の役割は,現地においてキリスト教とヨーロッパ 文明を浸透させることによって奴隷貿易を制圧し,それに代わって合法貿易 を推進することであった.ところで,この取締役会の構成メンバーの多くは,のちにクラパム派(Clapham
Sect)
といわれる英国国教会の福音主義者であった.クラパムとはロンドンの地区の名称であるが,この地区に住んでいた福音主義者や彼らと関係の深かっ た人々のグループをこのように呼ぶのである.クラパム派は国教会のなかの 改革派であり,信仰復興運動の中核であるとともに,多くの社会改革(ソーシャ ル・リフォーム)運動の推進母体であった.1787年に結成されたロンドン奴隷 貿易廃止委員会の構成メンバーにも多数のメンバーが入っているし,シエラ・
レオネその他におけるキリスト教布教で重要な役割を果した国教会伝道協会 が
1799
年に設立される際の中心メンバーでもあった19).クラパム派の中心にはソーントン家があった.ソーントン家はもとはヨー クシャーのハル(Hull)の出身で,ヘンリーの祖父ロバートはバルト海貿易の 商人であったといわれる.彼はイングランド銀行の取締役にもなり,クラパ ムに所領を購入した.ヘンリーの兄たち,サミュエルとロバートは父の死後 もその所領に住んでいたが,ヘンリーはその近くにバターシー・ライズを購 入し,そこに住んだ.ウィルバーフォースは,ヘンリー兄弟の従兄弟にあたり,
彼自身もハル出身であった.彼は,ヘンリーの誘いで,4年間ヘンリーの邸 宅に住んでいた.ウィルバーフォースの友人でインドから帰国したチャール ズ・グラント(Charles Grant)もこの所領に住んでいた.シャープは,旧所領,
サミュエルとロバートらとともに住んでいた.20)
一方,クラパム派の精神的支柱ジョン・ヴェン(John Venn)は,18世紀半 ばの福音主義の復活で,ジョン・ウェスレやジョージ・ホウィットフィール ドなどと共に大きな足跡を残したヘンリー・ヴェンの息子であった.彼は,
19 )並河葉子,(2000)「クラパム派のソーシャル・リフォーム運動――ジェントルマンのあたらし いパターナリズムのかたち――」山本正編『ジェントルマンであること』刀水書房,126-145ページ.
20 )Furneaux, Robin, (1974) William Wilberforce, London, Hamish Hamilton, pp.116-119.
ヘンリー・ソーントンの友人で,父と同じくクラパム地区の牧師であった.
その他,シエラ・レオネ植民地問題や奴隷貿易・奴隷制廃止運動で積極的な 役割を果したジェームズ・スティーブン(James Stephen)やザカリー・マコー リー(Zachary Macaulay)などもクラパムに住んでいた.ちなみに,ヘンリー・ソー ントンの邸宅には図書館が備え付けられてあり,会議はもっぱらこの図書館 で行なわれた.
ところで,セント・ジョージ湾協会の代理人としてアレクサンダー・ファル コンブリッジ(Alexander Falconbridge)21)は,若い妻と兄弟を連れて,
1791
年1
月にシエラ・レオネに派遣された.現地に到着するとすぐに彼は,まだ残って いた入植者から現地の状況について情報を得た.グランヴィル・タウンの再建 のためにはまず現地の支配者と接触し,その許可を得ることが先決であると考 え,彼はナイムバナ王の家を訪ねた.ファルコンブリッジは,王に,ラム酒,ワイン,チーズ,金のレースの帽子などの贈物を差し出した.王は彼の話に耳 を傾け,前向きの姿勢を示した.ただし,近隣のほかの王たちと話し合うため に会議を開くことが必要であった.ナイムバナ王は会議を召集し,合意をとり つけた.こうして,入植地の再建の許可を得ることができた.22)
ファルコンブリッジは時を移さず,住民を集め,衣服や道具を与え,入植 地を再建するよう促した.乾季の
3
ヶ月のあいだに家を建て,畑を整地し,種を蒔いた.こうして,グランヴィル・タウンが再建された.また,町を防 衛するために監視所も建設された.
ファルコンブリッジは,この年の
6
月に一旦帰国することになった.イギ リスでは,トマス・クラークソン(Thomas Clarkson)やシャープ,ソーントン らに会い,現地の様子を報告した.新生のシエラ・レオネ会社の取締役会は 彼を会社の貿易代理人に任命した.ファルコンブリッジ夫妻は,1792
年2
月に,8
人の会社の評議員のほかに牧師,会計士,医師,事務員などを含む59
人の21 )彼は以前,外科医として奴隷船に乗りこんでいた経験をもっていた.(Lascelles, op.cit., p.85.)
22 )Mackenzie-Grieve, op.cit., pp.215-219. このとき,ファルコンブリッジがイギリスに帰還する際,
ナイムバナ王の息子,ジョン・フレデリックをイギリスで勉強させるために一緒に連れていくこ とになった.
イギリス人とともにシエラ・レオネに到着した.
このとき新たな入植者がノヴァ・スコシアからシエラ・レオネに向かいつ つあった.
すでに述べたようにノヴァ・スコシアにはアメリカ独立戦争の際にイギリ ス軍側についた黒人ロイヤリストの一部が戦争後逃げのびた植民地であった.
黒人たちにはノヴァ・スコシアで土地保有が約束されていた.しかし,この 約束は反故にされていた.この黒人ロイヤリストのひとりトマス・ピーター ス(Thomas Peters)は,
1790
年にノヴァ・スコシアからイギリスに渡り,政 府にこのための補償を求めようとした.彼は翌年ロンドンに着き,このとき シャープやソーントンと接触した.ここでシエラ・レオネへの入植の話が持 ち出され,ピータースは,この話をノヴァ・スコシアに持ちかえった.これ に興味を示した黒人たちが結集し,1792
年1
月に1,131
人の黒人が16
隻の船 に乗り,3月にシエラ・レオネに到着した.航海中65
人が死亡した.この船 団を指揮していたのは,トマス・クラークソンの弟ジョン・クラークソンであっ た.彼は,シエラ・レオネの総督に任命されていた.23)しかし,これだけ大量の入植者が送りこまれても現地ではその準備ができ ていなかった.もとのグランヴィル・タウンの場所に新しい町(フリータウン)
を建設しようとしていたが,食糧が不足していた.シエラ・レオネ会社は食 糧船ヨーク号を派遣したが,不慮に事態が発生し,現地に着かなかった.こ うして,この年の
6
月にはすでに雨季に入っていて,入植者の700
人以上が 熱病に悩まされていた.とくにイギリス出身の白人住民の3/4
がその後死亡 した.ファルコンブリッジ夫人は,多くの同胞の命がもてあそばれていると して,シエラ・レオネ会社の取締役会を非難した.ファルコンブリッジ自身 も病気になり,その後死亡した.ノヴァ・スコシアからの入植者たちはフリー タウンに踏みとどまり,困難な事態を切り抜けた.ジョン・クラークソンは,
1793
年1
月にイギリスに帰国し,彼の代わりに23 ) ファルコンブリッジは自分がシエラ・レオネ植民地での最高責任者であると考えていたため,
ジョン・クラークソンとのあいだに確執が生じた.(Mackenzie-Grieve, ibid., pp.224-225.)
新しい総督としてウィリアム・ドーズ(William Dawes)が現地に着任した.こ の新しい総督に対してノヴァ・スコシア人は土地所有の問題をめぐって不満 の声をあげた.彼らはこの年の
11
月に2
人の代表をイギリスに送り,クラー クソンを探し,彼を通じてシエラ・レオネ会社の取締役に要求を申し入れた.すなわち,各家族に
20
エーカーの土地を与え,耕作用の道具を提供し,生活 必需品を安い価格で供給するように,また,白人と同等の権利を与えるよう に要望した.会社側はこうした要望を一応ききいれ,2ヶ月後2
人はシエラ・レオネに帰った.24)
ドーズは,1年数ヶ月間総督の職をつとめて,その後ザカリー・マコーリー があとを継いだ.彼が総督の時期にシエラ・レオネがフランス艦隊の攻撃と 略奪を受ける事件が発生した25).1794年
9
月末に7,8
隻の船がシエラ・レ オネに現れた.艦隊を先導していたのがアメリカの奴隷船の船長であった.総督の邸宅をはじめグランヴィル・タウンや奴隷貿易の拠点バンス(Bance)
島などを略奪した.住民は近くの森や現地人の村などに逃げ込んだ.イギリ スからシエラ・レオネに戻ってきた会社の船(The Harpy)も攻撃され,略奪 された.捕えられ,船に収容されていたヨーロッパ系の船員の数は
120
名近 くであったが,艦隊が立ち去ったあとしばらくして,そのうちの2/3
が病気 その他の原因で死亡した.会社が被った金銭上の損失は約4
万ポンド,建物 の損害が1
万5000
ポンドであったと見積もられている.このニュースがイギリスに届くとすぐに,会社の取締役会は
2
隻の船に物 品と人員を積んでシエラ・レオネに派遣した.取締役会は,こうした攻撃と 損失にもかかわらず,イギリスの名誉と人道の目標のために,また会社の利 益のために,真の貿易(Real Commerce)と文明化(Civilization)を推進する決 意を改めて表明した.その後,短期間に住居,学校 、 教会,病院が再建され24 )Ibid., pp.228-230. ただし,20エーカーの土地の要求は拒否された.その後,1794年8月にまた ノヴァ・スコシア人の2人の代表がイギリスに派遣されている.
25 )この事件の詳細は,1795年2月26日付けの会社の報告書で描かれている.(Substance of the Report of the Court of Directors of the Sierra Leone Company.)
ている.
シエラ・レオネ会社はロンドンのクラパム派を中心に組織され,シエラ・
レオネにおける植民地開発と文明化,奴隷貿易の制圧と合法貿易の推進を図 ることを目的にしていた.ノヴァ・スコシアから新たな入植者を導入したが,
1790
年代にはまだ植民地の制度化と安定化への道は遠かった.問題点として は,まず,植民地管理上の混乱があり,とくにシエラ・レオネ会社と政府と の関係が整備されていなかった.政府は会社に特許状を与えただけで,植民 地開発に直接関与することに躊躇していた.また,植民地と周囲の現地人と のあいだはまだぎくしゃくしていた.土壌の質が悪く,米の自給ができないで,慢性的な食糧不足に陥っていた.植民地政府の権威が不安定で,奴隷貿易は まだ禁止されておらず,その活動を制圧することはできなかった.
5 マルーン人の到着
ノヴァ・スコシアからの入植者は,もとのグランヴィル・タウンに住みつき,
そこをフリータウンと呼んだ.1796年ころまでにはこの町には
300
〜400
の 家が立ち並んでいた.グランヴィル・シャープは当初から入植者を十戸組に 組織し,互助的かつ防衛的な自治組織にしようと考えていたが,実際ノヴァ・スコシア人はそれを実践していた.しかし,彼らは,シエラ・レオネ会社に 対して土地所有権をめぐって不満を抱いていた.それに追い討ちをかけるよ うに,シエラ・レオネ会社は,フランス艦隊の略奪のあと,その損失を補填 するために植民地に免役地代の制度を導入した.これがノヴァ・スコシア人 と会社とのあいだの新たな火種となった.26)
1エーカー当たり1シリングの地代は,同時期のニューサウスウェールズ におけるそれの
50
倍で,極めて高いレートであった.以前から不満をつのら せていたノヴァ・スコシア人は,土地はあらゆる支出を免除されると約束さ れてきたと主張し,支払いを拒否した.マコーリー総督は,20
エーカーの約26 )Peterson, op.cit., p.31.
束された土地を与えるからと言って,懐柔しようとしたが,彼らはこの申し 入れが免役地代と結びついているかぎり受け入れられないとして,これを拒 否した.この対立関係は数年にわたって続いた.
会社の取締役会はこのままでは収拾がつかないとして,自らの権威を高め るために政府に対して新たな特許状を要請した.
1799
年7月に新特許状(チャー ター)が承認された.その内容は,フリータウンの統治に関してその総裁と評 議員を任命する権限は会社にあること,評議員会は行政権と裁判権を保有す ること,また,入植者には陪審員による裁判権があること,である.さらに 重要なのは,総裁や評議員に影響力をもっていた十戸組長や百戸組長を選ぶ ことのできる時代を終わらせたということである.新チャーターはシャープ が構想した住民自治の基本単位をも許さなかったわけである.27)こうした強圧的な姿勢に対抗して不穏な動きをみせていたノヴァ・スコシ ア人に不安をもっていた会社は,王立アフリカ連隊の分遣隊をフリータウン に派遣してくれるように政府に要請した.しかし,分遣隊が現地に着く前に,
ノヴァ・スコシア人は反乱を企てた.分遣隊は到着したが,反乱軍の方が数 で優っていた.分遣隊が敗走しはじめるまさにそのときに,西インドの第
24
連隊の兵士45
人とともに550
人のマルーン(逃亡奴隷)たちがノヴァ・スコ シアから到着し,会社側に与した.その結果,反乱はすぐに鎮圧された.捕 えられた反乱者35
人のうち2
人は死刑に処せられ,残りは追放された.28)ところで,マルーン(Maroon)とはプランテーションなどから逃げのびた逃 亡奴隷あるいはその共同体のことを指す.シエラ・レオネにやってきたマルー ンの出身地はジャマイカであった.ジャマイカではすでに
1730
年代に東部に ウィンドワード・マルーンと西部にリーワード・マルーンがあったといわれ る.10
ヶ所ほどの村に1,000
人以上の人口を抱え,自給自足の生活をおくっ ていた.ところが,ジャマイカでは1730
〜39
年に第1次マルーン戦争が起 こっている.その詳しい経緯についてはここでは措くとして,戦争の終結に27 )Ibid., pp.33-34.
28 )Ibid., p.34.
あたって植民地政府とマルーン側とのあいだで和平協定が結ばれた.その内 容は,マルーンに自治権を認め,土地を付与する代わりに,島外からの侵略 や奴隷反乱に対しては植民地政府と共同してその防衛にあたり,また,逃亡 奴隷がマルーンに逃げこんだ場合には即座に送還することであった.29)
その後
1795
年には第2
次マルーン戦争が起こった.これは,2人のマルー ンが盗みの罪で公開鞭打ち刑に処せられたのがきっかけになって,約700
人 の勢力を持つ西部のトレローニー・マルーンが決起したのである.マルーン の反徒はゲリラ戦を展開し,略奪を行ない,攻勢であったが,植民地軍はキュー バから戦争用猛犬を導入し,それを使ってマルーン兵を鎮圧した.約600
人 のマルーンが投降し,このうち約500
人がノヴァ・スコシアに追放されたと される.この黒人たちがシエラ・レオネに送られてきたわけである.6 奴隷貿易廃止とシエラ・レオネの直轄領化
イギリス議会での激しい論戦の末,奴隷貿易廃止法は
1807
年3
月までに両 院とも通過し,同年5
月1
日以降イギリスの港から奴隷船を出航させてはな らないし,1808
年3
月1
日以降植民地に奴隷を荷揚げしてはならないことに なった.また,同時期,すなわち,1807年8
月にシエラ・レオネをイギリス の直轄植民地にする法案が議会を通過した.このふたつの法律は密接に関連 していた.すなわちこれ以降,イギリス海軍は大西洋とりわけ西アフリカ沿 岸における奴隷船の監視と取り締まりにあたり,拿捕した奴隷船はシエラ・レオネに連行し,ここに設けられた海事裁判所で処理されたわけである.
シエラ・レオネには新たな役割が付加され,新たな入植者が導入されること になる.海事裁判所では,奴隷船の船長や乗組員は法律にしたがって処罰され,
それに乗せられていた黒人たちは原則として解放された.そして,彼(女)ら はシエラ・レオネの住民になった.こうした事態を捉えて,マコーリーとソー ントンは,アフリカ史の新時代の到来を準備する必要性を強調した.奴隷貿易
29 )西出敬一,(1997)「プランテーション奴隷の生と死」川北稔編『世界歴史17 環大西洋革命
――18世紀後半−1830年代――』岩波書店,297-301ページ.
廃止の利益を効果的に確保しなければならないし,効率的な雇用システムをシ エラ・レオネに確立しなければならなかった.また,イギリスと現地の首長と の同盟関係を追及しなければならないし,そのためには熱意のある適切な人物 がシエラ・レオネの責任ある地位に就かなければならないと考えた.30)
こ う し た 展 望 の な か で 新 た に 組 織 さ れ た の が ア フ リ カ 協 会(African
Institution)
であった.ロイヤル・プリンスのグロースター卿を名誉総裁に頂き,その他の委員のなかで目立っているのはシエラ・レオネ会社の取締役たちが この組織の中核になっていたことである.取締役
14
人のうち8
人がこの協会 の委員になっていた.すなわち,ジョン・ショア(John Shore, Lord Teignmouth), トマス・バビントン(Thomas Babington, MP),トマス・クラークソン,チャー ルズ・グラント(MP),ジョゼフ・ハードカスル(Joseph Hardcastle),グランヴィ ル・シャープ,ヘンリー・ソーントン(MP),ウィリアム・ウィルバーフォー ス(MP),らであった.また,ザカリー・マコーリーは事務局長に就任した.すなわち,この組織もクラパム派の主導する組織であった.その役割は,奴 隷貿易の監視を強化し,アフリカにおける合法貿易を推進することであった.
これはシエラ・レオネを拠点にして遂行されることになった.
「新たな時代」のシエラ・レオネで最初の総督になったのはトマス・ペロネッ ト・トムソン(Thomas Perronet Thompson)であった.この人物を推薦したのはウィ ルバーフォースであった.トムソンの父親は,ハルにおける有力な金融業者で,
のちに下院議員にもなるのであるが,ウィルバーフォースの親しい友人であっ た.ただし,ウィルバーフォースと違って,メソジストであった.こうした 縁で息子をよく知っていたと思われる.
ポートランド(Portland)政権は,1808年
3
月に彼を総督に任命した.彼は 当時25
歳で,ライフル連隊の中尉として同年1
月に南米から戻ったばかりで あった.シエラ・レオネに関する情報は,マコーリーから得た.また,イギ リスからシエラ・レオネに行く航海途上で同行したウィリアム・ドーズから30 )Turner, Michael J., (1997) The Limits of Abolition : Government, Saints and the African Question , c.1780-1820, English Historical Review, Vol.112, No.446, p.331.
も現地の事情に関する説明があった.ドーズは,延べ数年にわたってシエラ・
レオネの総督を務めた経験をもっていた.トムソンは同年
7
月に現地に到着 した.31)彼はすぐに現地の情報を集めはじめた.そのなかで分かったのは,彼がシ エラ・レオネに到着する
4
ヶ月前にいわゆるダーウェント号事件が起こっ ていたということである.アメリカ船2
隻から保護された奴隷が奉公人(apprentice)として
20
ドルで売却され,その一部が現地の公的サービスの管 理者によって留保されていた事実である.奴隷貿易および奴隷制の撲滅を自 らの最大の任務であると考えていたトムソンにとって,これは衝撃的な事件 であった.このまま放置すれば,シエラ・レオネは奴隷収容所となんら変わ らなくなるだろうと考えた.トムソンが現地に赴任してからも同様の事態が続いていた.しかも,シエラ・
レオネと関係が深く,以前に総督まで務めたドーズやラドラムらがその張本人 であった.ラドラムは解放アフリカ人を奴隷として売却していたし,ドーズも 奴隷貿易業者の手助けをしていたといわれている.これに対してトムソンは,
奉公人として働いていたり,逃亡して捕まり,監獄に入れられていた解放アフ リカ人を釈放した.こうして,現地ではトムソンとラドラム,ドーズが対立し た.現地での状況が本国のアフリカ協会の主だった人々に伝わった.32)
マコーリーは,不自由労働制は,シエラ・レオネでは適切な制度であると した.文明化を推進する手段として,
7
年を超えない範囲で奉公人になるこ とを是認し,ラドラム,ドーズ側についた.ウィルバーフォースも自分が推 薦したトムソンに反対して,彼のこれまでの行為は異常に敵対的であり,現 地での混乱は信頼にあたいする人々に対して彼が異議を申し立てたことに よって引き起こされているとした.また,奴隷貿易廃止法は奉公人条項を含 んでおり,これを入れることによって議会を通過したのだと強調した.ソー ントンも同じく,トムソンはラドラムとドーズの良好な性格について気づく31 )Ibid., pp.332-333.
32 )Ibid., pp.336-337 ; Peterson, op.cit., p.52.
べきだし,そもそも奴隷制と奉公人制は異なると主張した.
こうした反対意見にもかかわらずトムソンは引き下がらなかった.彼は,
アフリカ協会のメンバーであり,協会の趣旨を理解しているつもりであった.
奴隷貿易を制圧し,その代わりに合法貿易を推進し,アフリカを文明化する ことに,この組織の存在意義があると考えていた.もちろん,これはイギリ ス政府の基本的な政策でもあった.そのためにシエラ・レオネでは自由労働 者による耕作が必要であると痛感していた.トムソンは,自分の努力に対す るイギリス政府およびアフリカ協会の支持を期待していた.しかし,
1808
年12
月末に彼がシエラ・レオネに関する年次報告を仕上げたころ,イギリスで は彼を解任し,本国に召還する決定が下されていた33).ただし,トムソンが イギリスに帰還したのは,1810年5
月のことである.トムソンは,次の総督コランバイン(Edward Henry Columbine)が到着するま で活動を継続した.彼の権限で海事裁判を召集して,拿捕された奴隷船に乗 せられていた奴隷の処遇に関与したり,現地における奴隷売買の証拠を収集 しようとした.また,現地代理人のラドラム,ドーズに対する批判を強めた.
すなわち,彼らは奴隷制を制圧するつもりはないし,解放アフリカ人に耕作 を奨励する意思もない.彼らは,奴隷制の存続を黙認し,そればかりか奴隷 の売買に直接関与していると非難した.また,彼らを支持しているアフリカ 協会の主だった連中についても,口では奴隷貿易・奴隷制の制圧といいながら,
それを実践しなかったとして,非難した.
1811年,新総督コランバインのもとで主任判事としてシエラ・レオネに来 たソープ(Dr. Robert Thorp)もトムソンと同じ状況を現地で認識した.ソープ は数年前トムソンが行なった非難と同じ非難を繰り返した.ソープは,トム ソンの経験を利用し,またシャープを引き合いに出し,シエラ・レオネにお ける奴隷制の問題をめぐってシエラ・レオネ会社の取締役のなかに意見の違 いがあることを証明しようとした.すなわち,奴隷を購入し,シエラ・レオ
33 )Turner, ibid., pp.342-343.
ネで定住させるというマコーリーの計画が是認されることになれば,会社は 正真正銘の奴隷取引業者になってしまうであろう.マコーリーは,これをシ エラ・レオネの人口を増加させるための方法と考えているが,シャープやト マス・クラークソンその他は,人口を増加させる目標を認めるもののその方 法を認めなかった.彼らは,マコーリーの計画を頓挫させようとした.しかし,
それにもかかわらず植民地における奴隷取引は続いた.
ソープは,多くの関係者がシエラ・レオネにおける真の事態を見誤っている と主張した.しかし,アフリカ協会の指導者たちは,トムソンの異常な,ばか げた主張を繰り返しているとして,ソープを批判した.マコーリーは,奴隷制 や奴隷貿易に関する批判を拒否し,奉公人制に関する見解を明らかにした.す なわち,アフリカの状況を認識している人はだれでも,解放アフリカ人に
7
年 の年季を課すことがアフリカの文明化を推進するための有効な手段であること を知っていると表明した.ソープは,自分の立場を明確にするためにシエラ・レオネの状況とそれに対する見解をまとめた冊子を公刊した34).
7 解放アフリカ人の処遇
ところで,イギリス海軍(アフリカ艦隊)によって拿捕された奴隷船がシエラ・
レオネに曳航され,そこで解放されたアフリカ人はどれくらいの規模になっ ていたのであろうか.第1表をみるとその数は
1820
年代まで年々傾向的に上 昇していることが分かる.1830
年代前半にいったん減少するが,1834
年から また急増している.また,1838年から減少傾向にあるが,1840年代終わりか ら急増し,50
年代には収束傾向にある.こうした数値的傾向は,全般的な奴 隷貿易活動の規模と相関関係にあると思われる35).ちなみに,1850年代に解 放アフリカ人の数が収束傾向にあるのは,1851
年にブラジルで奴隷貿易が実34 )R. Thorp, (1815)A Letter to William Wilberforce Esq., London.
35 )D. Eltis, (1987)Economic Growth and the Ending of the Transatlantic Slave Trade, New York : Oxford
Univ. Press, pp.243-244. 拙稿,(1992)「近代奴隷制崩壊へのプレリュード――19世紀前半におけ
るブラジルの奴隷貿易とその廃止――」池本幸三編『近代世界における労働と移住――理論と歴 史の対話――』阿吽社,133-170ページ.
年 人 数 年 人 数
1808 78 1834 7,097
1809 280 1835 n.a.
1810 1,087 1836 6,904
1811 545 1837 6,083
1812 2,330 1838 5,341
1813 446 1839 3,232
1814 1,876 1840 2,298
1815 1,298 1841 4,207
1816 2,545 1842 2,470
1817 603 1843 2,684
1818 292 1844 2,992
1819 94 1845 3,970
1820 455 1846 2,001
1821 1,134 1847 6,012
1822 2,034 1848 6,154
1823 199 1849 n.a.
1824 1,245 1850 n.a.
1825 1,565 1851 n.a.
1826 2,567 1852 n.a.
1827 2,861 1853 n.a.
1828 n.a. 1854 n.a.
1829 4,617 1855 0
1830 3,273 1856 0
1831 1,701 1857 947
1832 1,701 1858 115
1833 1,838 1859 568
第1表 解放アフリカ人の人数(シエラ・レオネ,1808-1859年)
〔資料出所〕 British Parliamentary Papers : Slave Trade, Vol.76, pp.413-416 ; Vol.89, pp.291-294 ; Vol.90, pp.61-81 ; Vol.91, pp.117-120.
質的に禁止されたからである.
解放アフリカ人という新たな入植者がシエラ・レオネに継続的に導入され ることは,現地ではその処遇をめぐって多くの混乱をもたらした.最初の大 きな争点はすでに述べたように,彼らを奉公人という身分で定住させるかそ れとも最初から自由人として処遇するかという問題であった.トムソンは,
彼らを自由農民として処遇し,フリータウンの周囲に土地を確保し,植民地 に必要な農産物を生産させ,供給してもらおうと考えていた.また,現地人 の内陸部からの攻撃に対して防衛線としての役割も期待していた.
しかし,現地の代理人ラドラム,ドーズらの活動によって,トムソンおよ びソープらの批判にもかかわらず,シエラ・レオネでは解放アフリカ人を奉 公人として使役することが一般的な現象となった.トムソンの次の総督コラ ンバインのもとでも,さらに次の総督マクスウェル(Charles William Maxwell,
1811
年7
月就任)のもとでもこの傾向が強まった.先行した入植者(オールド カマー)が資金を用意して解放アフリカ人を雇ったのである.解放アフリカ人 は,奉公人として農業労働,港湾労働,ポーター,家事労働などに使役された.マクスウェル総督は,解放アフリカ人が増えることを見越して,もっとも 健康な解放アフリカ人(ニューカマー)を選んで,セネガルのゴレー島に送り,
兵士としての訓練を受けさせた.こうした試みがアフリカ人の軍隊を創設す る契機となった.イギリス海軍のもとにアフリカ艦隊と西インド連隊に所属 する解放アフリカ人が増加した.前者は,主として西アフリカ沿岸で奴隷船 の監視と拿捕を目的にしており,後者は,英領西インドの防衛と奴隷反乱の 鎮圧を任務としていた.
1814年までに約
6,500
人が解放されているが,そのうち約3,500
人がシエ ラ・レオネに留まり,2,000
人が軍隊に入り,残りは故郷に帰ったり,死亡し たりしている.シエラ・レオネに留まった人のほとんどはすでに述べたよう に奉公人になったが,一部は自らの意思で奉公人にもならず,軍隊にも入らず,自由人として自給自足の生活をおくるものもいた.ちなみに,1814年までに
植民地人口のうち解放アフリカ人が
3/5
以上を占めるようになり,これ以降,彼(女)らの比重はさらに急速に高まっていく.36)
ところで,解放アフリカ人の流入は
19
世紀半ばまで続くわけであるが,解 放アフリカ人の処遇のなかで,すでに述べた奉公人,兵士,帰郷者以外にど のようなものがあるであろうか.奴隷貿易が植民地内で依然として続いてい ることを考慮すれば,再び奴隷貿易の餌食になったものもいたであろう.そ れ以外に注目すべき処遇としてとくに1840
年代から顕著になった英領西イン ド,とりわけ,ガイアナ,トリニダード,ジャマイカへの移民がある.1840
年代末にはシエラ・レオネに運ばれた解放アフリカ人の3/4
が英領西インド に移送された.この事情を少し詳しくみてみよう.1833年にイギリス政府は奴隷制を廃止し,英領西インドのプランターに対 してその補償措置を講じた.ひとつは,総額
2,000
万ポンドにのぼる補償金 をプランターに支払った.これは当時の奴隷の市場価格の半分弱の価値であっ た.もうひとつは,6
歳以上の元奴隷には4
〜6
年の年季を課し,週に40.5
時間を元のプランター(奴隷主)のもとで働くこととした.いわゆる強制的年 季奉公人制を奴隷制に代わる制度として一時的に残したわけである.これに よってプランターは労働力を確保できたし,解放奴隷にとっても失業の憂き 身をみることはないとされたのである.37)しかし,この奉公人制も
1838
年に廃止された.その結果,多数の奴隷は,プランテーションから去っていったといわれている.たとえば,ジャマイカ の多くのプランテーションでは,解放
2
ヶ月後,以前の労働力の1/4
で操業 していた.そのため収穫したサトウキビの大半が腐ってしまった.解放奴隷 たちは自分の意思でプランテーション以外の土地にコミュニティーを形成し,自給的な生活をおくった.こうして,英領西インドではにわかに労働力が払 底しはじめるのである.
36 )Peterson, op.cit., pp.58-60.
37 )David Northrup, (1995)Indentured Labor in the Age of Imperialism, 1834-1922, Cambridge, Cambridge Univ. Press, p.19.
奴隷に代わる新たな労働力導入の模索が開始された.最初はヨーロッパか ら移民を導入しようとし,実際,トリニダードやジャマイカに約
5,000
人の 移民が導入された.しかし,移民たちは,プランテーションでの労働を嫌っ たり,熱帯の病気にかかったりして,この試みは定着しなかった38).つぎに,バルバドスやアメリカ合衆国の黒人を導入したが,その数は少なかった.3 番目の試みとしてシエラ・レオネから解放アフリカ人を導入しようとしたの である.
イギリス国内での事情をみておこう.有力なアボリショニストのバクスト ン(Thomas Fowell Buxton)が中心になって,1838年に奴隷貿易の根絶とアフリ カの文明化を推進する組織(
The Society for the Extinction of the Slave Trade and the
Civilization of Africa)
が創設された.彼はその前年に下院議員の座を失って以降,活動の中心をアフリカ問題に置いた.彼は,アフリカ文化は野蛮ではないに しても原始的であり,それを文明化するためにはキリスト教と合法貿易が必 要であると考えていた.これを達成するための根本的な障害は奴隷貿易であ ると認識していた.すなわち,奴隷貿易は現地人の社会を麻痺させ,農業,
産業,合法貿易の成長を阻害するとした.39)
バクストンは,この組織を立ち上げたときの具体的な認識はつぎのとおり であった.奴隷貿易の規模は,アフリカ艦隊がその活動を始めたときよりも
1838
年の方が大きくなっており,また,アフリカは人を輸出し,土地を無視 することによって富を失っている,と.実際,ブラジルはイギリスの外交的 圧力を受けて1830
年に奴隷貿易を全面的に非合法とする法律を制定し,30 年代前半は奴隷輸入数が激減したが,コーヒープランテーションの拡大に伴 う労働力不足によって30
年代後半には奴隷輸入数が急増するのである40).38 )例外はポルトガル人で,1840年代,50年代にマデイラ諸島から約3万人がガイアナに導入され ている.(Ibid., p.23.)
39 )William Green, (1983) Emancipation to Indenture : A Question of Imperial Morality, The Journal of British Studies, Vol.22, No.2, p.112.
40 )ブラジルへの奴隷輸入数は,1826-30年に25万人,1831-35年に9万人,1836-40年に24万人となっ ている.(David Eltis, op.cit., pp.243-244.)また,拙稿「近代奴隷制崩壊へのプレリュード」参照.
バクストンは,この状況を打破するためには,イギリス海軍を増強し,そ れをアフリカ沿岸に集中させ,かつ船は蒸気船を採用すべきであり,また,
西アフリカ全域にイギリスの代理人を配置し,現地支配者と条約を結び,合 法貿易を推進すべきであるとしている.さらに,農業のモデル拠点を創設し,
合法貿易のための商品を生産するための方法を現地の人々に教えなければな らないとした.
バクストンが創設したこのアフリカ文明化協会は,1839年
7
月までにイギ リスの諸都市や海外植民地に支部を結成し,多くの重要人物を会員,理事に 迎えた41).1840年6
月の総会にはロバート・ピール(Robert Peel)やダニエル・オコンネル(Daniel O Connell)らも参加した.この組織は,イギリス政界の特 徴的な断面を表していた.
この組織が周到に準備した探検隊が
1841
年8
月にニジェール川流域に派遣 された.145人のヨーロッパ人を乗せた3
隻の蒸気船であった.しかし,探 検隊は災難に見舞われ,マラリアが乗組員の1/3
の命を奪った.残った者も 探検を続けることが不可能になった.ニジェール川とベヌエ川の合流地点に モデル農場を創る予定であったが,近隣の部族のもてなしを誘っただけであっ た.1842年になってこの計画は突然停止された.バクストンが進めようとした計画がなぜ失敗したのかをめぐって,下院特 別委員会が
1842
年に開かれた.重要な証言がレアード(MacGregor Laird)によっ てなされた.彼は,バクストンの目的については賛成であったが,その方法 について批判した.彼は,ニジェール川流域ではヨーロッパ人は生き延びる ことができないと確信していた.その代わりに現地人の代理人(Native Agents)を養成することが重要であると主張した.しかも,何千人もの現地人の代理 人が必要であるとした.そして,多数のアフリカ人がヨーロッパ文明と接触 できる唯一の場所は,西インドであり,イギリス政府は,アフリカと西イン
41 )支部が結成された都市として,ヨーク,ダーラム,ニューカスル,ダービー,プリマス,エクセター,
ブリストル,チェルトナム,オクスフォード,があり,植民地として,ジャマイカ,アンティグ ア,がある.また,会員には,4人の大主教,18人の主教,5人の公爵,8人の侯爵,15人の伯爵,
が参加し,理事には,13人の上院議員と20人の下院議員がなった.(Green, op.cit., p.113)
ド植民地とのあいだの双方向の移民の大きな流れをつくりだすプログラムを 作成し,それに資金的な援助を与えることが重要である,と提案した.42)
この計画は,アフリカを文明化する手段を生み出すだけでなく,西インド プランターが必要とする労働力も供給することができるとした.さらに付加 するならば,この労働力供給によって奴隷が生産した砂糖よりも安く販売で き,その結果,全般的に奴隷貿易と奴隷制を崩壊させることができると楽観 的な展望を述べている.
その直後に開かれた西アフリカに関する下院特別委員会では,うえで示さ れた提案が可能であるかどうかが検討された.その結果,シエラ・レオネで は現在
4
万〜5
万の人口を抱え,移民を送り出す基地になりうること,また,その人口は解放アフリカ人の新たな参入によって増加するので,その可能性 がさらに拡大するとされた.また,解放アフリカ人にとって西インドに移民 することは望ましいことなのかどうかも併せて検討された.シエラ・レオネ の貧しい資源や投資を引きつける確率の低いことを考慮すると,西インドで 自由労働者になることは解放アフリカ人にとって好ましいことではないかと 肯定的な答を出した.さらに,一定期間を西インドで過ごしたのちにシエラ・
レオネに帰ってくることは,ヨーロッパ文明の恩恵とステイプルの耕作技術 をアフリカにもたらすことになるとされた.
しかし,この新たな大西洋政策は,多くのアフリカ人が大陸間移動を受け 入れるという見込みを前提にしていた.この見込みはあまりにも楽観的すぎ た.1843-46年の期間に移民したのは約
4,000
人だけであった.この理由は,シエラ・レオネでは飢えに苦しむ者はいなかったし,西インドで高賃金を得 るためにあえてきつい労働をしようと考えるアフリカ人が少なかった.その 他,ヨーロッパ人の動機を疑ったり,奴隷船での航海を思い出したり,砂糖 植民地のよくない噂を耳にしたりして,躊躇した者もいたのである.
この状況を打破するためシエラ・レオネ植民地政府は,人為的に移民を促す
42 )Ibid., pp.114-115.
要因を作りだした.ひとつは,これまで解放アフリカ人に与えていた半年分の 生活補償を
1844
年に打ち切った.これによって政策的に飢えが作りだされた.もうひとつは,1848年に解放アフリカ人を西インドに輸送するコストをイギ リス政府が支弁した.こうした政策によって
1840
年代終わりにはシエラ・レ オネから西インドに移民した人数は毎年約1,500
人に増加した.1834‐67
年の 期間の累計で約37,000
人の解放アフリカ人が英領西インドに渡った43).8 お わ り に
イギリス本国の奴隷貿易・奴隷制廃止運動と密接なつながりをもちながら 西アフリカのシエラ・レオネにおいて黒人にとっての「自由の国」が建設さ れるはずであった.しかし,その理想から遠くはずれて,大英帝国の植民地 の形成,維持,発展,および防衛のために黒人たちは利用されたのであった.
この点では,イギリス本国におけるアボリショニストの運動を見ていただけ では見えなかったものが,シエラ・レオネに焦点をあてることによって見え てくる.
イギリス国教会福音派のクラパム派は,アボリショニズムの中核部隊とし ての役割を果たし,人道主義の誉れ高い人々のグループとして賞賛されてき た.じじつ彼らは,自らの情熱と生命と財産をかけて,大衆的キャンペーン を指導し,議会での論戦を繰り広げてきた.その結果,奴隷貿易廃止法が
1807
年に成立し,奴隷制廃止法が1833
年に成立した.これは世界史的にみ ても重要な事件であり,歴史的なターニングポイントとなった.しかし,シ エラ・レオネに身をおいて,そこからアボリショニストを見ると,大英帝国 の植民地主義者としての像が大きく浮かび上がってくるのである.彼らは,旧来の支配階級,すなわち地主・貴族階級に対抗し,より開明的 な価値観を抱きながら,新しいエスタブリッシュメントとして政治経済的影
43 )Northrup, op.cit., pp.47-48