首都圏外縁部における農村の地域生態:茨城県出島
村の事例
著者
山本 正三, 高橋 伸夫, 石井 英也, 手塚 章
雑誌名
筑波大学人文地理学研究
巻
7
ページ
53- 94
発行年
1983- 03
その他のタイトル
Regi onal Ec ol ogy i n Rur al Ar eas ar ound
M
et r opol i t an Tokyo: The Cas e of D
ej i m
a- m
ur a
首
都
│ 歪
i
外 縁 部 に お け る 農 村 の 地 域 生 態
一 一 茨 城 県 出 島 村 の 事 例 一 一
u
川
s :
正
三
・
高
橋
イ
1:1=1ラ!
ミ・石井英也-
手塚
l は じ め に
]
[
1
云統1'1引'iliJ或さj=iilo:][- 1 土 地 利 用 と 農 業 経 営 ]
[- 2 / 1 -: 活空間と人口の伝統的特質
E jゥャゥjQ jイセIjx
車 1 都 市 化 と 人 口j/ l f . 造の変化
]
[- 2 Jll1業 の 変 貌 J[ - 3 JJ
1
i
i
二j生 活 の 質 的 変 化lV
結 論 一 一 メ ガ ロ ポ リ ス 地;m
:
O)f.農村像一一I
は じ め にわれわれは3 霞 ヶ 捕 を め ぐ る 地 域 の 地 理 的 特 質 を 解 明 し よ う と し た 一 連 の 総 合 調 査 を 行 っ て き た
( 霞ヶ浦地域研究報告7 第I 号 第4 号) . こ の 報 告 は , と く に 重 点 的 に 調 査 を 行 っ て き た 茨 城 県 新
治郡出島村を例に, これまで指摘されてきた諸論点、をまとめ3 整理を試みたものである.
われわれの調査のテーマは多岐にわたっているが, われわれは一貫して地域を, 1 " 一定の領域で諸
要素が結合し, 作用し合って関連をもち,一要素に生じた変化はn寺間的vこず、れはあっても,結局は他
の要素に影響を与え, ついには全体が変化するようなまとまりJ と考え,最終的には地域の全体像を
描き出すことを目指してきた. 本報告で、はとくに,人口・産業・土地利用・生活空11dlという 4つの側
面を取りあけ それによって出品- 村の地域生態,つまりその地域的環境〈関係位置,自然環境および
社会環境〉と生活様式( 生産活動と生活行動) との関連を明らかにしようとするものである. その11祭,
動態的に分析することはいうまでもない. なぜなら,ある時代の地域生態的特質とは,言葉をかえて
いえば,そこに住む人々があるi時代の文化- 技術水準を背景ーとして,与えられた地域的条件を評価し,
資源化する様相のことであり, 一 度 成 立 し た そ の 特 質 は , 伝 統 と し て , 次 の 特 質 形 成 の 条 件 に な る か
らである,
f WPォュセ ゥ
ュセ H ャ Q) . 村のi二1=1央部には, 新治台地の主体をなす,
関東ローム屑におおわれた高度約
24
,...__,2 8 m
の 台 地 が 広 が っ て い る . こ の 台 地 を 西 か ら 束 へ , 北 側 を 菱木) [ 1,南
l
H1Jを一ノ瀬川がほぼ平行に貫流し, 複 雑 に 侵 蝕 谷 を つ く っ て い る . 西 部 に は 比 較 的 大 き な 平垣間が残されており〉 市
i
札 束 古¥1と北東部はr
8J] j苧{ 民地に取り問まれている.この地域は, jTZ ェ iセi N ここは第
2
次世界大戦後の高度経済成長期! 頃までは, セョ} [NGセi
1960
年代の都市化や工業化の仁iコで3 他の多くの農村と同僚,さまざまな変貌を経験してきた. それらの変化とは, 土 地 利 用 の 面 で の 工 業 団 地 の 造 成 ・ 宅 地 化 , 生
54 人 女 : 地 翌 日 学 研 究 明
ど)
n
寺間と空間! の利用の高度化? 関 係 国 の 広 域 化 で 特 徴 づ け ら れ る も の で あ る . そ れ ら の 変 化 の 地 域的 特 性 は ? 当 然 一 方 で は ? 地 形 や 土 壌 な ど の 自 然 的 条+':1二と結びついているがフ同時に首都! 習の近郊外
縁 に あ る と い う 関 係 位 置 を よ り 強 く 反 映 し た 性 格 を も っ と い え よ う . わ れ わ れ が
1
1
1
,島; 付を重点的な
iW
]i査 対 象 地 域 と し た の は7 ま さ に こ の 理 由 に よ る . ご く あ り ふ れ た 地 域 に こ そ 宅 地 域 生 態 の 村 民 と そ の
形成に関する, よ り 一 般 的 な メ カ ニ ズ ム を 看 取 し う る と 考 え た か ら で あ る .
と く に 詳 細 な 調 査 対 象 地 域 と し た 下 大 津 地 区 は3 j土iip島村の南西端; に位置するかつての
l
E
: l : ! 寸で)村ばかりでなく,霞ヶ浦地域全般のァ 既 に 述 べ た よ う な 特 徴 を 平 均 的 に 示 す 地 域 と 考 え ら れ る
。 !
第112i 研 究 対 象 地 域 (1]1土地盟! 院発行5]' j分の1地 形l立I
r王 J
:;1j )J
[
伝 統 的 地 域 生 態1 I - 1 . 土地利
JT
J
と1) 台 地 の と 湿 地 の 水 田 化
首 相¥?Al外 務ef!i¥)rに お け る 農 村 の 地 域主: .I¥
i
E
55聞 を狭 長 な 湖 岸 平 野 が 取 り 巻 い て い る . しかし ,南東日! ) のいくつかの沿岸集落を除くと3 漁 業 活 動 は
1
1
L
んでな く, この地J
D
l
の 卓1也
t
l'J
な:':1:.サセヲ ゥ@ エャセ
ゥ
ijh ]j
j
ャ ju
ェ j⦅N Nセ [ ェ
とj:IJl
ι
J
そ の 台 地 をi
非! 析ーする谷と (,li)JH
,: 低:J
ll!,の71
'く
E
!
J
を1
-1
:
1
心 に 民 間 さ れ て き た .この地j戒は
I
:
W
J
発 が古く, IU-ldirjl仰はえにはI人 11日glいく川j:I9
e
S
l
Um
の 平Jf t
な地 i1u
をi
徐い て,今[ ]の ごi
二i也利 用 の お お よ そ の 骨 !各が! 況に形成さ れ ていたことがn このj也 減 の 一 つ の 大 き な 特 徴 で あ る2) しか し3
ェbセ ェ N QQ Q ゥャゥャェセ 明 治
1
:1
コJ1JJに は ほ と んどの谷津に聞かれていたが,ーJ
1
1
や 菱 木)1
1
の 上i
J
!
Ei}j)で は ま だ 土 地 の 開 発 が 十 分 で‘ なく,対1 ] ) 也と混在して いた .
i i
l
J
J
J
半{ 民地 に も 水 旧 が1
m
か れ て いた が, 堤 防 が な く , 湖 岸 付 近 は よ し の 成 育 す る 荒 蕪j也で3ほ と ん ど の 水
1
1
1
は 排 水 不 良E
El や 水 害 常 習 旧 で あ っ た .7
2
7
地 上 で は ,rrU
J
むが現在のノミタ ーγ に 近 い 形 で関 恕 さ れ て い た 部 分 も あ っ た が ,近 年 の こ と 地 利 用 に 比 べ る と , 一 般 に 林 地 と 採 草 地 が 広 範 に 分 布 して
い た . そ れ ゆ え3 とりわけ 台 地 は ) 寸 の
,
j ミJm
s
に 存 在 す る フ ロγ テ ィ ア と し て の 意 義 を も ち3 そ の 後の さ ま ざま な開発に似たされて きた
R
ャ {Y ヲセャセ
↓ ゥ |エ
SI
A
N
E
況にみ、た出島村に昌
一
日
桑
関
白
畑
口
問
i也一一
己
3
同 樹 林ι ]
セᅩᅪᅩャ ェ 円城跡白 問 機 集 落
L
一
一
-
J o
m
56
人 文 地 理 学 研 究 班
おける 一 般 的 な 特 徴 が この地 域 の 土 地 利 用 に も読みと れ る. そ の後, iセ Zj
? 新進的に進められてきた . た と え ば ,下大津で、は
(W
l
判 民 地 に お い て │明 治 末 か ら 昭 和 初 期 に か け て 造団 事 業 ,Q Y U Uセ N こ れ ら の 事 業 に よ っ て 水
I
I
I
間 積 は20-
-
-
-
-30ha
ほ どふ え , 地 割 は 比 較 的整 然 とした もの になり , 水 稲の1)又主も 高まっ たと いう .北1 'm
の 採 草j也V
J:入 会 採 草 原 野 で ¥ 、ャ↓エゥ ェ シ iセュ TI
は地元住民に分割され, I明治末期までに
1
m
地 と し て 開 墾 さ れ た り ,あ る い は 植 林 化 さ れ た5) 林j也は南 部 と 西 部 で は 赤 松 の 植 林 が 進 ん で い た が , 東 部 か ら 北
2
m
にかけ ては 雑 木 林 が 多 か っ た . Q セセ ヲ ■ Z木林の利用法は異なり, Tft
ii/7
と も 住 民 の 生 活 に と っ て 不 可 欠 で あ っ た た め ,集 活 のJ1JU図 に はF
I
D
ブゴのタイプの 林 地 が 存 在 し てい た . これ らの平 地 林 は, R iセュ Z Q I
さ れ た り 下 大 津 で は , 北 西 部 の 林 地 約
25ha
が解放され, Q YTWセ Q S ゥ Wよって開拓が進められた. ほかにも,大正則の! 羽墾助成策や, 費、El}と 果 樹 栽 培 の 導 入 ・普 及 な ど に よ
って, 林 地 は 少 し づっ 耕 地 化 され てきた 7)
( ha l
6 0 0
-5 0 0
4 0 0
3 0 0
2 0 0
1 0 0
¥
、
¥
1 9 5 5 1 9 6 0 1 9 6 5 1 9 7 5 ヨ8 0HセGI
判
剖
築
品
情
首都! を
i
外縁者¥1における農村の地域生態 572) 伝 統 的 土 地 利J干j
iセュ j Qゥ■ /] : : ,島村における住民はp 水
i
壬i
と1:I
H
, そ れ に 林 地 の 利 用をお] み合わせるという, iセ [
3
[
玄 ! は , 大 津 に お け る 主 要 農 作 物 の 作 付 問 積 の 変 化 を 示 し た も の で あ る が ,1
1
1,島村で
J
立水! 壬i
は1965年 頃 ま で 一 貫 し て ほ と ん ど 稲 作 に あ て ら れ3 水 稲 作 が 長 い
I
I l i 最も重要な経済活動であった. しかし, Wjセiiャ 生 産 性 の 低 い 一 毛 作 田 で あ っ た . 一 般 に フ 新 し い 技 術 や 農j炭
具 の 導 入 は く , 1960年 頃 ま で 、 は 明 治 則 以 来 の 伝 統 的 農 法 に 強 く 依 存 す る 水 稲 作 が 行 わ れ て き た8)
近 年 で は 機 械 化 が 進 み ,
7
k
稲 作 技 著 し く 改 良 さ れ て き た が , ↓セャ Zエがより主主んになった
畑 作 の う ‘ ら 主 な 夏 作 物 は , さ つ ま い も ・ 大 豆 ・ 陸 稲 ・ と う も ろ こ し ・ 務 花 生 や た ば こ な ど で あ っ た .
2
次 世 界 大 戦 前l
こ は , 大 豆 や 稲 が 白 給 用 と し て , あ る い は 小 作 料 と し て 水 稲 に 代 替 し え た こ と から最も重要な夏作物であったが, こ れ ら は 生 産 性 が 低 く ? ま た 干 魁 lこ 弱 い た め , 戦 時 中 の 軍 需 用 の ア
ル コ ー ル 製 造 や 戦 後 の 食 料 増 産 策 に 伴 う さ つ ま い も 栽 培 の 奨 励 を 契 機 と し て , そ の 地 位 を さ つ ま い も
に 取 っ て 代 わ ら れ た . さ つ ま い も 栽 培 は , 戦 後 の 統 制 撤 廃 で 一 時 衰 退 気 味 に な っ た がn
の ほ か , 家 畜 の 飼 料 と し て 需 要 が 増 大 し , 干 魁 に 強 い こ と も あ っ て ? し て こ の 地 域 の 代 表 的
な 夏 作 物 と な っ て き た . し か し , 近 年 で は そ の 栽 倍 面 積 は 減 少 し て き た .
落 花 生 は 干j低に強く, 手 間 が か か ら な い う え , 収 益 の 安 定 し た 作 物 と し て , 1955年 頃 か ら 普 及 し た
が,述作を嫌うことなどがあって, こ の 地 域 で は さ つ ま い も を 追 い 越 す に は 至 ら な か っ た . た ば こ は
収益性が向く p 最 盛 期 の1955年 墳 に は 小 さ な 農 家 を 中 心 に か な り 栽 培 さ れ た が , 乾 燥 作 業 が 重 労 働
で , ま た こ の 地 域 で 盛 ん な 養 蚕 と の 相 性 が 惑 い こ と も あ っ て そ れ ほ ど 普 及 し な か っ た .
冬 作 物 と し て は , ほ と ん ど が 大 変 と 小 麦 の 栽 培 で あ っ た . 大 麦 は 米 と 混 ぜ て 自 家 食 用 に 供 せ ら れ た
ほ か , 家 畜 の 飼 料 に さ れ , そ の 残 り が 販 売 さ れ た . 一 方 , 小 麦 は ほ と ん ど が 販 売 さ れ , 水 稲 や さ つ ま
い も と と も に 重 要 な 現 金 収 入 源 で あ っ た . し か し , 大 変 の 栽 培 は1960年 以 降 , 小 麦 の 栽 培 は1970年 以
した.
このように, セZQi Q さ つ ま い も
期 間 が 長 く , 麦 の 栽 培11
寺
j誌が次第に遅れることになるので, 成 育 期11,1の短かい│¥ 窓稲 大 豆 や 落 花 生 を組 み 合 わ せ る こ と に よ っ て , そ の 遅 れ を 調 整 し て い た . こ の 地 域 で は ほ か に , 伝 統 的 な 営 農 と し て 養
ii6
(
・養蚕や架の栽培が行われ, そ れ ら が 特 徴 的 な 土 地 利 用 や 景 観 を つ く っ て き た ヨ ) とく盛 期 で あ っ た 大 正 末 Jj)] から昭和初期にかけては, 桑
i
認が最も重要な畑地利用形態、であった一方,林地の利用であるが, 赤 松 は 霞 ヶ 沿 岸 地 域 で は 江 戸 時 代 か ら 盛 ん に 植 林 さ れ , 建 築 用 材 と
して江戸ヰコ東京に搬出されたが, そ れ 以 ヒ に 地 元 住 民 に よ っ て さ ま ざ ま に 活 用 さ れ た . 赤 松 は 枯 枝 や
を 多 く 生 産 す る が , こ れ ら が 焚 付 け や 農 j刊に利用された. また,落葉が多く,
I
湯樹であることは,落 葉 の 分 解 を 平 め 肥 沃 な 土 擦 を つ く る . これは, 1947年 頃 ま で み ら れ た と い う 切 替 畑 を 行 う の に 好 都
あ っ た . 松 材 そ の も の はjり? としても重要であった. くぬぎを主とする雑木林は,
58 人 女 地 HU* : 研 究 明 !
1955年 の 下 大 津 の
U
J
林 の 利 用 状 況 を み る と10),1
1
1
林 .J京日ltの う ち ホ 松 が ほ と ん ど を 占 め る 針 葉 樹 林が6 1 %, 雑 木 林 が2 3 %, UE N TPE ZZセ
す べ て が 薪 炭 材 で あ っ た . lAセ UP。 ェ UPE
め, f当分の
1
1
1
*
*
で ト 分 な 新 ・ 落 葉 や 下 草 を 獲 得 で き る 家 は4 0 %位 で あ っ た11) 当 一 冬 のを 採 取 す る の はi;最低50aとも, H ヲ セG ji
そのため, 多くの良農‘ 家は, 山!
ι
林 管j出2
当主t
I
や決繁} 期哲羽jの汚労,働1動力の j淀定{官供j共七を代{ 償武に, 地主からi JJ林 を 借 り て い た この地j或 の 住 民 は 高 度 経 済 成 長 期 頃 ま で は . 同)]j芋 低 地 沿 い か , 台H1. 1! SQIJか の 立 地 差 に よ っ て そ の1如来上ヒに多少の違いはあるが,おおよそ0.5---
1
.
5 haの* 1
王i
での稲作と, 1--- 2ィ。 セZョャ j也 で 、 の 麦 と さ つ まい も , 落 花 生 な ど の 栽 培 を 基 本 と し , これに養蚕と自家用! H ] ' 菜の殺j若 と 林 地 の 利 用 を 組 み 合 わ せ て 生
営 ん で き た . そ れ ぞ れ の 経 済 活 動 は , 季 節 的 に 労 働 力 が 続 合 し な い よ う に
;
U
,l ,J 鮭されていた〈第4
I
Z
I
) . た ば こ 栽 培 と 養 蚕 は 共 に , 夏 に 多 量 の 労 働 を 必 要 と す る た め , 家政労働力の小さい民: 家では並( 1960年 頃 の 農 業 経 堂 )
月
「 ー で ー で プ で ?示 ナ 『 司
水稲{乍
主堅苦E
た ば こ 栽 培
さつまいも主主iき リJi士署長
[[イセ@ 4liQ 出品十j下 大 津 に お け る 労 { 動 力 レ ン ダ ー の -19]1(1王i林・主初出原[副)
存 す る こ と が で き な い と い っ た 速 い が あ っ た が , 一 般 に
っ た . こ れ が3 伝 統 的 農 村 と し て の も う 一 つ の 特 徴 で あ っ た .
]I
-
2
生 活 空 間 と 人 口 の 伝 統 的 特 質生活空間の伝統的特: 質
内容の く, CI )
生 産 基 盤 ところで, 伝 統 的 な 生 活 禄 式 と 土 地 利 用 は , ど ん な 生 活 空 間 の1=11で 民 間 さ れ て き た の で あ
ろ う か . 第5図はy 伝 統 的 な 生 活 空 間 を 生 産 基 践 と い う 側 面 か ら 検 討 す る た め に ,-1:;-大 沖 地 区 内 の 一
集 落 ・ 内 加 茂 の 明 治 初 期 の 地 引 絵 図 を も と に 作 成 し た 土 地 利 J =FJ図 で あ る12) 大J)JIJ此は大字)J r I ;交の1I1 心
集 落 で3 戸 数
8
6
戸を擁し,-f
大 津 地 区 内 で も 大 き なy 有力な集落の一つで、あるこの土地利用図によれば,内加茂は, 谷戸11: の谷頭が集中している部分に立jせする集治を核に, j;lJi
辺
に 谷 津 田 - 畑 地 ・ 林 地 と 採 草 地 を し , 集 落 の レ ベ ノ レ で 伝 統 的 生 活 を 営 ん で い く た め の 生 産 法 訟 を 備
えていた. 集落と谷津田は, セゥ ij
首 都 圏 外 縁 部 に お け る 農 村 の 地 域 生 態 59
入
比 ¥
。
3 0 0 m也
畑
宅地
ヰJド士也
入 会 主 也
原野
千::U也 ・ 宮 地
墓地
路
い
U
U
下
什
山
7]¥. EB
iJ; 5bZI IりJ di ネ月 WJにおけーる!人!JJlli) t のゴニj也手IJJFI ( 地ヲ │絵図による〉
谷主
i
土のm
J IR
I(
こI,:t, ゥ サャセij ZN こ れ は , 谷 津 田 の 日! 慣を確保するために, コサノ〈↑ 民行が
f
ごはっオしていたことを示している13) 畑地は集落に接して, 北 側と , と く に 市
i
H
l
Jに 分 布 し て い た 北)}I)H ゥ iセイオし,南部の
1
:m
地は志111分 化 が 進 ん で い た .1
1
:
U
J
む の 分 布 ノ ミ タ ー ン も , 今 日 の も の と 比 べ て 大 き く 違 わ な いが , 明 治 初
JU
l
に は 谷 E E ! に 加 す る 傾 斜 地 の 利 刑 が 盛 ん で あ っ た . 傾 斜 地 は I明治l判 明 以 降Aの リ ン 酸石j天のi阜 入 ・ 普 及 やp 民
2
次 大 戦 後 の 機 械 化 に よ っ て , ローム j習 に お お わjし た 酸 性 の 強 い 台 地 平の利用1 I!
I
i
i
i
立がi民主り,相士、JiY
ゴ( ,こその手i J J =FJ
価 値 を 減 じ た .60 人 文 地 理 学 研 究 刊
設する よ う に 分布 し て い た . 地 引 絵 図 か ら 樹 種 は 読 み と れ な いが, QQ QI セwセ
の と 考 え られ る. GャセGiI ゥRQI QQQ N
らも,
1888
年 ( 明 治21)
調 整 の 地 符j玄! によれば,制L
U
が 完 了 し て おり3 林 地 かj:I
I
I
J'
色化されていた. 内加茂は, 集 落 規 模 や 立 地 環 境 か ら み て も 自 己 完 結 性 が 強 い と 考 え ら れ る が , す で に 集 活 の レ ベ ル でEEI
.畑- 山林と い う 三 身 一 体 的 生 産 基 盤 を 備 え て い た
1960
年頃まで, 出 島 村 の 就 業 人口の8
0 %
, エj ャ WUE Z Q ZQ] Q エヲセ ] 次 産 業 に 従 事してい た. そこ で次にp セ↓hェ。 VQ I セ [ }Z@ , 下 大 津 の戸
セ
T
土
鴻
+
巾
。
。
大 字 界
C
コ 戸 崎 村 入 会i 也首 都 降
i
外縁詰)1における農村の地域生態 61Aャャヲ j i IセIュ■ S エ
5
]
戸. の農 家 をt
:iJI/ :l:11し そ れ ら 農 家 の 所 有地を 集落月 l J に示 したも の である14) このほ
l
で は 所 有 地 の う ち , と くに遠方にあるものが若干表現されていないが, 抽 出 農 家 の 所有地は全体的に集結の周辺に分布し, 集 結 と し て の ま と ま り が 認 め ら れ る . 戸 崎 と 大 前 は 混 在 度 が 大
t
r q
表 戸Ihif .大T)ir ・i六υJIIJ支出 家の ブミヰ i人! 外月JIJi)i有 土j山市fl'l CI
r
t
1¥'f 10a)州
I
FlI 州1I
林
地 │草
地 │
計戸 ! 大 字 内 面 積
I
180I
101I
95I
5I
381附 │ 大 字 外 1/ I 8 I 5I 0I 01 13
大 │ 大 字 │大
l
i
面積 I 186 I 159 I 184i
23 I 552 TliT1
大 約 半 ノII
14I
3I
11I
.lI
29 内! 大字 │大i面 積 100I
145I
167I
31I
443j JrIIセ Ni セjG[Bセi Gj jI ャャj G iyエ@ jN u セ@ J. .. Nエセ@ i⦅ セセ@ I カ Nセ@
立 !大 字 外 / /
I
3I
5I
34I
4I
46きい が , これ は両 者 が 伺じ 大 字 に 属し, 長 い 間同
一村を形成してきた経緯トζ よ る も の と 考 え ら れ よ
う. 内)Jllj支 は 独 立 性 が 強 い が , 同 じ よ う に み れ ば
特 干 の 土 地 が 同 じ大' 字内 の 御 殿 や 松 本 に 散 在 して
し、る.
そ こで , 調 査 農家の 所 有 地 を 大 字 内 外 別 に みる
と ( 第 ] 表 ) , 大 字 内 の 所 有 が 戸111奇 大前・内力f-I
j支 で そ れ ぞ れ9 6 .7 %,95 . 0タ{;, 90 . 6 %に達し,
i
可れ も9 0 %を越 える である15) セ ャ ゥエ■ゥセAセ 。
1
Hlは ,FJ
れ の 集 落に おいても95% 以 上 が 大宇内にある . 土 地 と 農 民 の 最 も 基 本 的 な 関 係 ,す な わ ち 「 ム ラ 」 結 合 の 紐 帯 と も い え る 土 地 所 有 か ら
みても,伝統的な生産基慌の' ! ; ; r;_11Jlは, 集 落 あ る い は , せ い ぜ い 大 字 内 と 考 え て 差 し 支 え な い16)
生 産 活 動 と 生 活 行 動 シ QRエ N エャセゥjャ Gi セ ャZZ S 農 業 へ の 依 存 度 の 強 か っ た1960年 頃 ま
でJ セ エ N N 下大津で は こ の 頃 ま で と く に3 農 業 経 営 に お け る 集
落外仰と の 接 触 や 制 作 聞 の 路 大 が み ら れ ず , ほ と ん どの 農 業 活 動 は , 集 溶 あ る い は 大 字のj弘 距 離 に
して約
2k m
のffli[I
Rl をでるものではなか った 浪士山への移動v
i
, 徒 歩 や 牛・馬 車 を 利 用 し て 行 わ れ た .農 閑 期 に な る 冬 季 に も , こ の 地 域 で は
I
:b
稼 ぎ が ほ と ん ど み ら れ な か った. 冬 季 に は , 農 業 必 需 品 を 生産 す る 挺仕 事や平地 林 で、の山 仕事ーが あった こ とや3 稲の 品 種 が 中i民生種で‘ 収 穫 が 遅 か った ことな どが
その原因の a昔1)で あ っ た . 農 外 就 業 の 機 会 が 増 大 し 始 め た の は , そ れ ら の 仕 事 の 価 値 が 減 じ , 一 方 で
は周辺での雇用機ー会やそピリティ ー の115大 が も た ら さ れ た 高 度 経 済 成 長 期 以 降 の こ と で あ っ た
住民の 生 活行動と して の 質 物 や 余 暇 行 動 を みても 同 保 であ った17) す な わ 、ら,
i
可れ の 集 落にも 数 軒の「よろず屋」があり, 住 民 は1960 年 頃 ま で , 食 品 - 雑 貨・衣 料 品 な ど の 日用 生 活 必 需 品 の ほ と ん ど
イ jセ , ある い は行商に 依 存し , 買 物 の た め に遠 方 に 出 かけ る こ と は あ ま り な か っ
た . ただし, 村 外 で の
F
t I 勿在i-t h
ーする「便利屋」が存在していた . 下 大 津 で は 戸111奇に,小Fi Jーを芹IJ刑 した 便 利 屋 が1
q
if
と, 馬:mE を 利 用 し た 便 利 屋 が4ilif
存在し,f
i iJれも毎日 1 回戸! 崎一土浦間を往復していた という . これら の 便 利 尿は, QYUP セセ N 住 民 が 白ら こ!こ
m
i
へ 足を 運 ぶ に は, 自転車 や,1954年 ま で
i
霞ヶlf Ii
を巡航していた「遊覧手LJ
を利月うした余 暇 活 動 は , テ レ ビ が 普 及 す る1960年 頃 ま で ラ ジ オ の 聴 取 が 最 大 の 恕 い で あ っ た . 季 節 的 な 余 暇 活
動 と し て 誹 や 祭 礼 が あ ったが ,そ の ほ と ん どの 行 動 領 域 はy 集 落 あ る い は 大 手: を越え る ものでは なか
った18) V ジ ャー 活 動 と し て 村 外 へ 此
1
か け る の は , 年 に 1,__,21
支, 祭 や花 見 に 土 浦 へ 出 か け る の が 主なもので あ った . つ 主 り7 セ G h セ} QQQ 休 養 の │玄別 が不明瞭・ 未 分化で, j民 むjが 休 養・余暇│ 時 期 に
相 当 す る と い 寸 た 状 態 で あ った . ifl!J
r
く1961 年 に な っ て ,下 大iil
γ C は7)' Cj二夜通からノミス交通への 一 大 転62
人 女 地 理 学 研 究 班
余lil支や買物行動も含めて3 この地域の住民のさ│ ミ活全般はかなり等質で,生活行動 は集} もあるいは大
学内で完結することが多く, そ の 行 動
l
習は狭小であった . す な わ ち3 こi
こj也 と 生 活 行 動 のjjlijTm
に わ たム
狭 長 範 囲 で の 地 縁 似 素 が 色 濃 く 存 在 し て い た こ と が , 従来の{ 伝云淵瑚統淵紛紛淵伽! ' 山1' 川7こ
2) 農 村 人 口 の 特 性
高 度 経 済fi支,長 期 頃 ま で の 出 島 村のたi (I! .民: 村としての性怖は, 人 口 の 剖Jきや その 間 述にも庄〉らオづ れ て い
る. 出 島 村 の 人 口 は, 明 治J 1;月以降 ,第
2
次 世 界 大 戦 時 の 混 乱 期 を 除 く と,1950
,-. _,55
年l
哀 まで ー-rf
してエ Aᅫᅬ ヲイ H
W IN
サ
iZjf j
セIiZj
j ェj x
j広 大 に 支 え ら れ て3 高 出 生 率 に 基 づ く 自 然 増 が3 都 会 へ の 人 口
i5
f
E
I :
L ¥による社会減を少しずつJ
二まわっていた状況が考えられる. 現に, QQZ
Q
QYRU QYUP ヲ| セ ゥェのに対して, 死 亡 者 数 は
1925
年 以 降 着 実 に 減 少 し 統け ,その自 然i l l JJ 態 は 多 産 少 死 型 に 向 か つ て 進 行 し て
きた . そ れ に 対 し て3 人 口 の 社 会 動 態 は , 資 料 がな
く長 期 に わ た っ て の 観 察 は 不 可 能 で あ る が , 常 に 転
出 超 過 で , そ の 主 因は ,
1960
年 代 の も の ほ ど で はないが , 一 貫 し て 若 年 人 口 の 村 外 流 出 で あ っ た と い わ
れ て い る19) 戦 時 中には人口 は滅少し3 終 戦 直 後 に
は 一 時 的 に 急 増 し た . 後 者 に は3 引 き 揚 げ 者 の 流 入
とベビ ー ブ ー ム が 大 き く あ ず か っ た
j セZ
れ てい る.
1955
年頃までのそれは, 1時代 に よ っ て 戦争などの影響や,
1
5
r-..J1
9
歳 の 若 年 人 口 の 流 出 の 影 響が み ら れ る が ,基本的には「ピラミッド型 」を 呈し て
いた . 人口の 就 業 構 造 の う ち ,生産年齢人口 に占める
就 業 者 の 割合は,
1960
年 頃 ま で 一 貫 し て 男 子 が9 0 %
,女 子 が
8 0 %
近 く を 占 め7 就学者と 高 齢 者 人 口 の 割 合が 大 き く な っ た 今 日 の も の と は 著 し い 相 濯 を 示 し て
いた. 産業yJjl従 事 者 数 の 割 合 も , 男 女 と も
8 0 %
以 上が第 1次 産業 化 従 事 し,大きな変動はみ、 られ なかっ
た . 世 帯 数 は 第
2
次 世 界 大 戦 前 に は 人 口 と は 逆 に 減少し, 1'主帯 規 模 は む し ろ 大 き く な る 傾 向 に あ っ た .
ζ の 傾 向 は 戦 後 も 続 き , 世 帯 規 模 の 縮 小 が 顕 著 に な
ったのは
1955
年 以 降 の こ と で あ った20)このように》高度経済成長期以前の出島村の人! コ
人
20. ufrfr r セ@
f
セ@
-。
L_
-1___l ,,_ _ j 一 一-U 人 口 の 艦 隊
人
l h!: 忠告白
1
400
h &
」
r
ご
! 。920
19 30 194( ) 1 % 0 1960 1970 !980 ゥヲ セ@
b) 色 紙 酌g
人 90 0
h出 初 段
位 入 訴 訟
500
ッ ャ⦅⦅⦅⦅ANN セ l一一」一一J 一一ー」 ー...J . _' 一一一L ーーーι一一一」
192 0 ) 9 30 I Q40 1950 : 9 60 11110 198 0( t む ) 行 合 動 総
貸 料 i固 め 調 合 人H 珂{ . l . !QU _ A U itl'o
Ili alj;J別人口動岨成!I
P N QQGZ エᅫセ サイ↓ェj ャ ij ャゥエ N NA ヲイ
nセ@ 71盟 出 島 村 に お け る 人仁iの行i:修おより: 副1)1伝
首都
l
想外縁部における農村の地域生態6
3
上の特徴
V
i
,両日三・低死亡のもとで、人口が漸増し,村内人口のほとん し, 後 継 者 以外の家族
v
:
)
:
良 地 を 求 め て よ そ へ 出 る か3 農 外 就 業 を:>1と め て 大 都 市 へ 転 出 す る と い っ た も の で あ っ たしかもp こ れ ら の 料 徴 は3 長 い
1
m
安 定 し て 存 続 し て き た . 終 戦 直 後 の 人 口 の 急 増 は 例 外 的 な も の で ,その背京会には未墾地の存在ばかりでなく) iセi QZQ iセ UI JIの1J:llj出 を み る こ と が で
きょう. すなわち, 農 村 は3 対者
w
m
-
関 係 と い う 点 で 従 属 的 で あ り ) 代 時 代 の 経 済 変 動 を 反r
0
そして,ある1寺1 は労働イ
J
七給源となり, ま た あ る 潜 在 的 過 剰 人 口 を 抱 え 込 む と い っ た 宿 命 を 背 負 っ て き たがy 終 戦 直 後 の 人i二iの急治は, この後にくる1960年 代 の 人 口 流 出 と と も に , そ の 一 例 を 端 的 に 示 し た
ものといえる.
セ{MQN@ 都 市 化 と 人 口 構 造 の 変 化
。
人口動態の新しい{ 頃向革 新 し い 地 域 生 態 の 形 成
1960年代以降における日本経済の高度成長は, !=lj島 村 の 農 民 生 活 に 大 き な 変 化 を も た ら し た . 多 く
の 農 民 が , 践 的 を 中 心 に ? 建 設 現 場 な ど で 農 外 兼 業 に 従 事 す る よ う に な り , 同 時 に ま たy
弟の多くが, 後 継 者 に あ た る も の ま で3 農 業 以 外 の 職 業 を 選 択 す る よ う に な っ た の で あ る . この結
果y 農家労働力の農外流出が急速に進行し, そのうちの一部は離村をともなったため, 1960年 代 を 通
じて人口の減少が続いた
しかし, 1970年代に入ってからは, 村 外 へ のi伝 出 傾 向 が 鈍 化 し , 逆 にy 外 部 か ら の 転 入 者 が 増 加 し
たことによって,人口の劫きは再び; 斬増傾向に転じている. 第
7
図 に 示 さ れ て い る よ う に , 転 出 者 数と転入者数の差〈すなわち人口の社会増減〉は, 1968年 ま で は 常 に 転 出lが 転 入 を 大 幅 に 上 ま わ っ て い
たが3 そ れ 以 後 , 両 者 は ほ ぼ 釣 り 合 っ た ま ま 現 在 に 至 っ て い る . この結果, 1968年 に 約 16 ,000人にま
で落ち込んでいた人口は, 1980年現在, 18 ,000人 近 く に 達 し て い る .
第
2
次!f
t
界大戦前においても, 出 島 村 の 人 口 は 一 貫 し て 漸 増 傾 向 を 示 し て い た . し か し , 同 じ 漸 増とはいえ,かつての
iiljf
r
t
旨則と現在とでは, そ の 内 容 が 大 き く 異 な っ て い る 。 す な わ ちs 農 家 労 働 力 の法外流出は引き続き活発であるが, 大 都 市 東 京 の 過 密 状 況 や そ ー ピ リ テ ィ ー の 向 上 に と も な っ て , 都
市 化 の 影 響 範 囲 が 守 に 拡 大 し , そ の 結 果 と し て , 人 口 増 ? と プ ラ ス に 作 用 す る 要 因 が 出 島 村 に お い
て 優 位 を 占 め る よ うに なったことが) 1970年 代 以 降 の 人 口 増 加 を も た ら し た と 考 え る こ と が で き る
そ れ ら の 要 因 は 大 き く 次 の
3
つ に 要 約 さ れ よ うまずp 主として平地林を買収することによって, 村 内 あ る い は 隣 接 地 区 に 工 場 用 地 が 造 成 さ れ ,
浜 地 区 の 企 業 を 主 休 と す る 工 場 進 出 が み ら れ た こ と で あ る . なかでも,子中立工業団地は規模が大き
し 社 宅 や 従 業 員 住 宅 の 建 設 に よ っ て , iセu ヲセャI N
村内の幹線道路沿いに,土1 n
i
,石l
百j 方自i
へ の 通 勤 者 住 宅 が し だ い にi迫力r I してきた. 多くの集落が現在なお外
g
-
I
I
か ら の 人 口 流 入 に 対 し て 石 定 的 な 対 応 を 示 し て は い る が , 分 散 的 な 住 宅 地 化 は 着 実 に 進 行 している. 近 隣 で の 法 外 雇 用 機 会 の 創 出 と , 自 家 用 車 所 有 に よ る 通 勤
i
習のj広大は,従来ーからの農村住民64 人 文 地 別 学 研 究 官 [
り,さらには農家の次三男が分家を通じて村│ノヲに定着するますJ きは ? 人にIJ訟を支 えてい る第
3
の 要 因 である . 土 浦 に │燐陵し,筑波研学究悶都市にも近い出島村↓ 丸 そ の 通 勤 可 能 な │主
i
域 内 に か な り 多 様 な 鹿用 機 会 を 有 し て い る . そ れ ゆ え ,通 勤 者
Ilt;M
干の陪住空r :n
と し て の 役 割(i;J:, 今 後 い っ そ う 高 ま っ て い くであろう .
2) 人 口 構 造 の 変 容
人 口 動 態 の こ の よ う な 変 化 は3 出 島 村 の 人 口 機 遣 を 大 き く 変 容 さ せ た . とり わ け , 住 民 の 年
i
t
i
叶bti.冶,と 就 業 構 造 の 変 容 が 著 し い21 ) 第
7
閣にみられるごとく, 高度成長期以前における出島村の人口は,多 産 少 死 型 の 自 然 動 態 を示すとと もに, A A Q]Q N セAヲ
ケ セセj これに対して,
1960
年 代 の 人 口 減 少期 に は ,若 年
f
曹 を 中 心 と す る 人 口 流 出Iが 一 段 と 活 発 に な り3 かつi
土il生 数 の 一 般 的 低 下 と い う 全 国 的 傾向 と も 相 ま っ て 出 生 者 数 が 急 速 に 減 少 し た た め , 人 口ピ ラミ y ドは 年
J
腎と幼 年j習の2
カJ
i
)Tに大 きなく ぼ み を 持 つ 「 ひ ょ う た ん 型 」 へ と 移 行 し た .
1970
年 代 に 入り, 1] =,鳥村の人口が再び増加傾向に転じた こ と は す で に 述 べ た がp こ れ に と も な って
人口ピ ラ ミットJ も,次第に「ひょうたん型」
から, 目立っ た く ぼ み を 持 た な い 「つり が ね
似 」 へ と移 行 し つ つ ある. こ れ は,
20
政 台930
段 台 の く ぼ み が , 村 内 若 年 人iコの相対的定着と7 新 興 住 宅 地 へ の 人 口 流 入 と に よ っ て 埋
め ら れ ? そ れ に つ れ て, i Z iZiセ i QQQ
加 し た た め で あ る
ゥ セ セ スェ@ II Njセ M
く社会・経 済 環 境 の変 化 は3 就 業 構 造 の 変 化
に さ ら に 如 実 に 反i決している . す な わ ち , 男
子 就 業 者の 第
1
次 産 業 従 事 率 は ,1960
年 に おいて
8 3 %
に 達 し て い た が , そ の 後 急 速 な 活 ち込みを示し,
1975
年 に は4 8 %
,1980
年 に は42
% にま で{ 底下して いる . これ に対 して,
2
次-安
;
l
3サjセ ェ i Q}が, 11
い
こ
U:I ,Ii ¥l ; 村: お よび そ の 周 辺 部 へ の 工 場 進出 に と も な い
2
次 産 業 従 事 者 の 比 率 が ,FIJN XQセQ
現 象 が ,ど、 の 年 で 起 こ ってい るかを 示 し
たものである.
1965
年 のl
時点では,30
歳 未l
,1
t
d
第
8
@
出島村における年齢別就業構成の変イヒ( 浅見原図〉 の 男 女 に す で に 農 業lllit
れが見られるものの,6 5 産量以ょ
6 0 -64
5 5 -5 9
5 0 -54
4 5 -4 9
4 0 -44
35 - 39
3 0 -34
2 5 -2古
20 -24
1 5 -19
1 0 -14
5- 官
。
-
4」一一-'
1. 000
.) 1965 年
9 5 -99鹿
9 0 -94
8 5 -8宮
、)..i"_v、4
7 o -'l1d
7 0 -1 4
6 5 -6 9
60-64
5 5 -59
5 0 -54
4 5 -<19
4 0 -4 4
35 - 3 9
3 0 -34
2 5 -29
2 0 -24
1 5 -19
10 --! 4
: ,- 9
o-- セ@
9月 立
[[N[N[NNセM⦅ZMNMZ
:
三
乙
J
云
;Ji;
「 ;i 三;鶴鱒手号証 、
第l次 訴2 次 第 31):
非 鉱 業
国1 WUl l セ 。」
一
:
呈
上
コ
7
1
・
L
b ) 1975 '1
1
.0 0 0人
_■ ZQ Au セGゥ
QGQ QQQQ ZZIQQQ セエュセ
就業者の大ミ! とはまだ してい
1
こ. ところのに1975
は? いくつかの点でブミきな変化が認められた
だことが j 別出できる. と り わ け ー , 令 j習が{ 目下するほどそ
6
5
なると, 出 島 村 の 年 就 業 構 造 に
あ ら ゆ る 年 齢 居 で 進 ん
2
に , 男 -:-)いては
2
ては
2
しており,占める1 : 仁平の大きなととが指摘さ) ,1 . ,る.
による
19651
1
三から19701
手にかけtど
市111]"1寸や
1
1
I1島 村 内 へ の
反映している
3
にp 農業: i. lH: れ現象の日u
産物として,iセA QYWUZサセ 約3分の 11 ; こ淫している.
このように)
U
J
島村のノ¥仁!RPセTT QZQ心に3 女
) '[ [ ! えた現在の
3
0
はp 近 年 そ の 内 容 が 大 き く 変 化 し て き た .
20歳 台 の 農 家 ILt若干員の大半
i十lし て お り , 支 成 長JUJ以内ーに
は, AセA
に も ? 兼 業 従 事 者 が 多 数 合 ま れ て い る . 近 年 に お け る 辺 勤 者 主 体 の 新 住 民 の 増 加 を こ れ に 合 わ せ 考 え
1
1
1
一一
i
っている. 主た, 1=1=1
るとy 住 民 の 就 業 料
1
;
'
生からみるかぎりにおいて,I
:U
lこ ラF
OセI@
もつに至っている.
車
- 2.
農 業 の 変 貌1) 兼 業 化 の 進 展
1960
年代以降, えつが匡i
経 j斉と で も い う べ
ともない, は 著 し い 変 貌 を 遂 げ て き た
しても, そ の 性 格 は 大 き く 変 化 し て い る . 近 年 に お い
にな iちる
た 農 業 の 変 化 は , 兼 業 化 の 進 行 で あ っ た とし
も目立つ
員 な ど の 恒
常 的 勤 務 従 事 者 の こ よ る も の で あ り ,
1960
年に{ ノ主専業農家が農家全体の5 5 %
を 占 め て い た の に 対し て , 現 在 で は 第
2
T
ill
恒 常 的 勤 務 兼 業 農 家 併 が 出 島 村 でj長 大 の 農 家 集 団 を 構 成 し て い る農 家 の 兼 業 化 は , 出 島 村 に お い て , 特 に
1960
r--'1975
年の
1
5
年 間 し く 進 行 し た ( 第9
[Z
! ).
fヨ本経済ーの成 長 が 農 家 の 経 営 形 態 を 大 き く 変 貌 さ せ る 以 前 の 出 島 村
では, 7}(13]稲 作 , さ つ ま い も や 洛 花 さ
i
三宮 とする知i
作, 架 栽 培 な ど を
家労{助力
と し て , 比 il交l :1内向
お い て 行 わ れ て き た .
よるl吸 収 の 度 合 も 地 域 的 に ほ ぼ 一
様に高く,
1960
年 に お け る 1戸当たり従 事 者 数22)を み て も , 出 島 村 の80農 業 集 落 の う ち68集 落
ま で が , 平 均
2
人 以 上 の ( 直 を 示 し て い た . と こ ろ が ,1960
年以降,た.
1
6
歳 以 上 の2
a
苫
1 9 1ら
;:p; 9悶 11:1
1鳥村における工! 日長業日!b1t=家
1
持n
止の推移口につ
v
、て,1960
年と1975
年 の2
機会の憎大と農業所得の低位性ーから, 農 業 労 働 力
でその就業状態を比較すると,
1960
年? とは,全休の
5 5 %
にあたる3
,009
人iO5 .農業:のみに: を主とするものを加えると, 総 数 の 約 3分の 2にあたる
法 外 部 門 へ と 流 出 し
しており, こ ヲ〆
66 人 文 地 理 学 研 究 班
に 対 し て 1975年 に は 農 業 の み に 従 事 し て い る も の の 比 率 が3分のl 以下の3 1 %へ と 激 減 し , こ れ に
主とする兼業従事者を合わせても,
4 2 %
と全体の半ばに達していない.高度経済成長期における兼業化の進) 畏I(';I, iェサセセI R
第2表 ゥ ュセ i[nヲj ij HQ YWUFt
a) 農 産 物 販 売 収 入 第 一 位 部 門 別112家 数
経 営 耕 地
I
販 売 な し農 家 数
│
雑
い
も
穀
類
│
工芸作物( 施設国芸I
llli-a
f9
J.!I
果jiJ j 知│ 的決! 主! I示 l3主主(jI
i
主 主 │ そ の 他。
吋
ポ
jI
206 I 257 60 12 3 42 40 1 J . 1 2 11O. Uセ@ L 0 9 I 387 65 8 10 36 46 7 71 22 22 18
1‘
o
セ@ 1. 5 2 247 41 20 15 55 42 35 88 12 40 151. 5セ@ 2. 0
。
213 19 19 39 32 36 67 6 36 102. 0ha以 上 !
。
111 ! 14 31i
30 68 31 38 4 26 13b) 農 業 就 業 状 態 別 農 家 数
経 営 耕j也 農 業 専 従 者 な し 専 従 者 は 女 子 だ け 男子司{走者1人 男 子111従 者2人 以 上
0. 5ha未j前 630 44 34 5
0. 5 - 1. 0 347 146 203
。
戸
1. 0 - 1. 5 96 114 333 69
1. 5- 2. 0 32 53 314 87
2. 0ha以 上 13 30 203 124
( l9751i三是正業センサンス〕
は,農家の経営耕地における面積規模の差異が, 上 の 差 と ど の よ う に 結 び つ い て い る か を み
たものである. この表から, 販売第一位部門の分布や労働力配分の状態、が3 各 農 家 の 有 す る 経 営 料 地
面 積 と か な り 強 く 関 連 し て い る こ と が 読 み と れ よ う . す な わ ち 2 --a表によれば, 0 .5 h a未 満
i
活
用
は 農 産 物 を 販 売 し な い 農 家 が2 0 6戸 に 達 し , 販 売 な し 農 家 の ほ と ん ど す べ て が こ の 階 層 に 集 ! 二1-1してい
る. これに対して, Qi ェZ ャセ
I
ヨJ
I
一位農家ネが次第に低下し,F
d
j
農 , 工 芸 作物 ( た ば こ , 落 花 生 な ど ) , 果 樹 類 ( 主 と し て 架 , 梨 ) ,養蚕など, あ ら ゆ る 生 産 部 門 に 第 一 位 部 門
が多様化する傾向がみられる. 施設園芸,養J l 瓦 養 潟 な ど の 部 門 は , そ れ の み で は 広 い 土 地 を 必 要 と
しない農業経営であるが, これらの部門以外に他の経営部門を複合している良二家が多いため,すべて
の階層に現われている. 労働力配分の面においても, 0 .5 h a未 満 の 小 規 模11間習で、!<CI, 業 専 従 者 が ] 人
しない第21蚕 兼 業 農 家 が 大 部 分 を 占 め て い る . こ の よ う な 家 は
o.
5---'1
.
Oh a QQサセQ@ J習においてもほぼ 半 ば を 占 め る . 農 業 専 従 者 が 女 子
i
止 帯 員 の み で あ る 農 家 を 合 め る と , 経 営 耕 地 が 1 .0 h a未jjilの 出 家のうちp 男 子 農 業 専 従 者 を も た な い 農 家 は , 全 体 の8セセヲ N
2) 自 立 型 農 業 経 営 の 展 開
l'iff 者!SIY
Jl外 務 部 に お け る 出 村 のj色jiJ!(:,:!=.!@ 67
った. 第四図は,
1960
年 以 降 に お け る 村 内 業 相 生 産 額 構 成 の 年 次 変 化 を 示 し た も の で あ る . 米 販 売額の占める1 : ヒ率がブζきく{底下し, それに代わって斐) J 友
r
fllF
'J
が,1960
年i-t
のゴミ以!涜p 全{本の3
害iJないし4
害1j の比率を占めるようになったことが, このJU
III¥
l
に お け ー る 最 も 大 き な 変 化 と い え る が , 細 か く 検 討す る と , こ れ ら 2
日
1)[lloJ以 外 に お い て も か な り の 変 化 が 認 め ら れ る .(' /0)
1965 1970 1975
セアo 出 島 村 に お け る 農 業
i
Tl 生産額以成の推移( 農業所得統計による〉その
1
つは)1960
年 に 農 業 組 生 産 額 の9
. 4% を占めていた麦類i)::,1960
年 代 を 通 じ て , そ の 比 率 を 激減させたことである。
1970
年における麦類の占める割合はわず、か2. 0%
でしかない. 国 際 競 争 力 の 欠如 に 基 づ く 麦 類 生 産 の こ の よ う な 減 少 は , 冬季の1. 1I l 地利用率を大に低下させた. また,
1970
年 代 に入 っ て か ら の 野 菜 類 比 率 の 伸 び は ) 1日 下 大 津 村 の 湖 岸 低 地 を 中 心 と す る 蓬 根 生 産 の { 中 び を 反 映 し て お
り
, QYWU セiャ TNWE N
調 整 下 に お け る 水 凶 利 用 と し て 急 成 長 し た も の で ,
1976
年 に お け る 稲 作 転 作 面 積179ha
の う ち155ha
が 蓮 田 に よ っ て 占 め ら れ て い る . こ れ ら 以 外 の 部 門 で は , 養 蚕 , 果 実 の 比 率 低 下 と , 養 鶏 , 賂 農 部 門
の
1
111び が 目 立 っ て い る . 養 J l 友の発展をはじめとする畜産各部門の比率上昇の結果,農業組生産額に占
め る 畜 全 体 の 割 合 は )
1975
年 に は ち ょ う ど5 0 %
の 値 を 示 す ま で に お ま っ たー ヲャセj R
的 大 き く , か つ 男 子 の 農 業 専 従 者 を 有 す る 専 業 的 な 農 家 群 で あ っ た . こ の よ う に , 一 方 で は 兼 業 化 が
進行するI =iこ1でp 一 部 の 専 業 的 な 農 家 は , 農 業 生 産 力 の 主 要 な に な い 手 と し て , 農 業 環 境 の 変 化 に 対 応
した自立可能な良: 業経営を模索してきた. 米- 麦・さつまいもを仁! コ心とし,自給生産部門を多量に含
んだ従来の農業経営に対して; 土日誌村で現在みられる自立型農業経営の多くは, 集 約13ヲな商品作物を新
た に 導 入 す る こ と で 業 所 得 の If! 大 を は か ろ う と し た も の で あ っ た . 大 規 模 養 紙 の 発 展 や , 蓮 根 を
1
-1= 1 心とする日
F
f
菜 生 産 の 急 速 な1
111び, 施 設
l
亙! 芸の発達などは,このような過程をはっきり示している.ijセiiii 狭い地区の仁j:1に 多 く の 異 な っ た 経 営 類
68
人 三ζ J
l
l
!
.
H1! セサjIヲ vi{iセ 大者15
-
ilf
W
-
U
辺 に 位 置 す る こ と か ら く る 経 営 選 以 の 多 絞 さ と い 与 ,メ ガ ロ ポ リ スl
B
l
1
W
1::'q
:W
セ iyjアw Q Z QZ QQ Q G以下では,
L
B
島 村 に お い て 近 年 苦 し く 発1
芸 右 遂 げ た 商 業"I 'J)J与来日1) 1 1 1]として, ij Q ZェHセNエサG[{AIス rt lJ
を概
l
:
i:Jil.し,次いで, GZQ S セIスiIr
H
J
こよって 支 え ら れ て い る1
'- .
¥
iZᅮセ QG Q M NIMて,そのj辿j或'':IIJな1411:質を) - l ることにしょっ.
養 豚 の 規 模 拡 大 OイNゥj wj QZQ ゥェエ i Iセ ゥゥ ャセ
2QEiの11家を飼 育する ,し、わ ゆる屋 敷1)守護1I友が 一 一 般 的 に 行 わ れ た 氏 : 家 数 は
1960
年 に し1
6
7
)" :i( ニ
ゴ
Jよび,全農家の3 8 %に 達 し て い た . 飼 料 と し て は ,
t
t
:
家 の 残 飯 を 与 え た り , ま た d JI
岸 地 域 で は ぬ ヶ おi
l
でとれた魚をお)1dlhし て 与 え る な ど , 主 と し て ! ヨ 給 飼 料 を 用 い た それゆえ, セZ}@ 1,1i:lの詑1 J
0
(
( J i|Gセi i@Y
I'i'-W 1:_+おの強い小規模なものがほとんどで,残飯養月家, 屋 敷 内 養 ! ほと して
4
守徴 づ け られ る . これ に 刈 し- c
,QYVP セG 他方, Q ヲセヲ[ Q N スjiゥ
な] t
i
f
l
l
家農家がH
見縫い 代 わって養11家を 専 業 あ る いじ
g3
表〉とす る農 家 に よ る! ほ の 多
0
JlW
i]
fY
が 逆1
'
i
し た第3表 ᅫセ[セGカ Q
│
英 まi版jぱI
Ej炉飼河i白E司i廷剥1版附家微数 (顎)I
肥Ii把巴目下育刊T刊刈刑I版I附!ぼ友勾牛二 氏
│ M
農似山家料刻数ザどA
Xi
M
繁叩h引畑殖船刺自ilill川
l家
刈
I IIEG ャA ゥコ iM[セヲェィ
Qエjヲヲ Q ヲヲャ ゥ
心
可
瓦
不
二
司
7
ι
戸
49 1Ui
5丙
瓦
戸
二
工
:石
司
司
函
司
両
1
下
i
…
而
三
斗
j
ふ一
叫ム副i
認
F
己
草
宅
?
j一
1965 1. 0771 6491 7,2271 6 1 3 1 171 4 7 1 251 141 2 1 0
1970 907 1 1. 753 1 20,445 1 1 7 8 1 181 ! 100 109 1 89 1 35 I 5
1975 I 596 I 2,215 ! 28,182 1 73 1 74 ! 5 6 I 74 i 83 ! 74 I 17
1 9 8 0 i 4 5 7 I 2,675 I 34,528 I 3 3I 50 1 3 5 4 4
I
89I
89I
2 8〈出業センサス〉
現在,
I
:B
島 村 の 養I
J
まは3 村j
或の東
g
lS
から南音! ) にかけての湖岸集落で;2
5
発 に 行 わ れ て い る . 特 に ,r
日牛 渡 村 の 有
iu
J
,兵庫11色 ! 日 佐 賀 村 の 西 方 な ど の 農 業 集 落 で は , 護 ! J 哀を主体とするg
l
立 山 成 業 経 営 治 三 多数 成 立 し て い る こ れ ら の 集 諮 で は , QセQMQセ
:
1
旨 導セ[iセ ャ iエゥャ ャj 自 立 志 向 山 の 民 家 に よ っ て
iセO[I fこ11ヌり入J:もられ た
養lぼ規模の拡大にともなって, I協 会 の 新 改 築 が 進 み , ま た f J 奈 の 糞 尿 や 悲 臭 , 蚊 ・ は え な ど の 苔
j
E
公害 問 題 が 表 面 化 し て き た 。 こ れ ら の問 題 に 対 タ さ す る た め ,
QQ
エMRM
uZ
セA jャ
QU
jセヲ
ャセュセ ャN ま丈こ,
ji
Qセ
iQ
QQ
サゥ○j
1:1:1伏, Iブヲ力
n
茂をはじめ, 村r
i,) の数カ所でみられる .j
セエエ
QQエh
こ れ は こ 養
I
J友農家の耕地で使用される他に,
j }ゥ⦅
ェャャゥゥ
QRセ
QQQl
HA
り
, QQセ@ )JJIJJJ,:
家 の 枠 を 越 え た 補 完 関 係 が 成 立 し て い る23)
蓮 根 生 産 の 矢 展
1
9
6
0
年 代 に 入 っ て か ら, 東ー万: zTl i ・j易に
jjZ
く,`サ
u↓セ M
?'iTi
iM
]
岸 地 域 は,新 しい; 出技生 産地と し て 注 目 さ1
t_,. るように なった.QYVU
ョ セ
ャG
J収で , 土 洲 市 は す で に3 0 5 h a
の を 根 栽 培 面 積 を 保 有 し て お り
J
1
9
6
5
年 以 降 ,iセ |セi 69
I
.
H
島 村のj泣111訪日責は20haを示してい る。しかし,出島村において悲↓ ミ庄が急速に発股したのは, 1970年 以 降3 米の生産制強がオミ j、各的に自主
行されてからのことであり, QYWPセQYWm ZQ T
/
J¥
島村の; 主111T
I
E
i
績は ,8
. 8
H
?i
の230haに明大した. 1974年 以 降 の3年
r
m
は, 米 の 生 産itli!J諮問機が緩和されたことも関与して,注E I 3に転換される水田町 績 は 大 き く 務 ち 込 ん でいる . しかし, . 9781 年 以 降 , 水EfJ利)=I:j再 編 対 策 が 大 規 模 に 施 行 さ れ る よ う に
セャャゥ 1王1Y{LjflQは再び; きり出 し) 1979{ドには335haに達; してい る.
これにともない)
@
1
県三 家は注II lmt英を急j主におム大し, eゥヲ ェZZ ェ QZQ ]Q iセャを 志 向 し てき た. 規 模 j広大を容易にした技術的要因としては, 1970年 代 初 頭 に 普 及 し た ヒ ェー ガノレポ
ン プ に よ る 法 恨 の 機 械 侃 り が あ げ ら れ る それ以前の万能鍬やすきによる手掘りにくらべて, 収 穫 能
率は飛昨日 IYJに向上し, ャi セヲ
が 一 挙vこ拡大 した24) 現 在 ,一組の 夫 婦 労 働 力 の み で ,QN UセRNPィ。 これを
実 現 している農 家 も 多 い .
このように, I日下 大 津 村 の 湖 岸 低 地 を仁jコ心に, 注 根 栽 培 地帯 で は1970年 代を通じ て3 水 稲 か ら 注 根
へ の 転 換 が 積 極 的 に お し 進 め ら れ て き た ( 第4表〉 さらに, 1970年 代 の 後 半 に は , 規 模 路 大 を 目 指
第4表 戸111奇 大ijiI 両
5
fH
容に おけるi i H
民生産 の 推 移!
遮
11年 次 I α O a) I 出 家 数
1
-
山 州 110- 30 a I 30- 50a 15ト 70 a 170- 1伽 ! 100 a以 上1965 11
I
9i
5 4 0 O ! 0 01970 100 48 11 22 14 1 0 0
1975 339 74 I 3 19 25 I 14 7 6
資 料 1965, 1970, 1975年農業セン サス, 1978年農業基木調査
す 農 家 に よ っ てp 借地による並ー根栽培が活発化した . 窪田 需要の強さと3 蓮 恨 の 地 代 支 払 い 能 力 の 高
あ い f:い
さ に よ り , 相 対 契 約 の 場 合 , 現 在 で は10。 UセV セ | その結果,
近 年 で
1
立水E
E
l
の 貸 借 に よ る 土 地 の 流 動 化 が , 一 部 で か な り 広 範 にみられる ま で に 至 っ て い るそ の 他 の 商 業 的 農 業 Z ャセゥセj I 1970年 代 に 発 展 を 示 し た 商 業 的 農 業 生 産
1}IS'11IJ と し て は , こ れ ら の 他 に 梨栽培, 施 設 国 芸 〈 花 井 お よ び 野 菜 〉 な ど がある去 は,
QYUPセZQ QZQZ Q ェ シ セゥV
が 発 達 し た の は ,1970年 代 に 入 っ て か ら で あ る . な か で も , 出 島 村 北 西 部 の 新 生
i
非j H5
に は , 酪 農 を 基般 と す る 自 立 型 農 家 が 多 数 存 在 し てい る25 ) 梨 栽 培 は 旧 下 大 津村の
a l
f
l j
殻) iii ェ iセZ iN ARQ ヲ ャセQ
H
ll
をililllt こ,1
h a前 後 の 梨i
l
l
i
.
l
を 経 営 す る 農 家 も 多 く , 出 島 村 に お け る 自 立 型 農j ャ セ N ieti Q ゥ ェ hャ QY VPセZQ
70 人 文 地 理 学 研 究 V1T
ェ iセャ N 近 年 に 発 達 を み た こ れ ら の 諸 部 門 に 対 し て
明 治 - 大 正 か ら 第
2
次11 t 界大戦以後十こ至るまで,‘ の: 芯な荷! 日i生産自I
I
I
"
I
J
であった.しかし, QYVP ゥ ヲZ ↓セェ そ れ
l ;U
' .
の 述j支 で 安 否 決 家 数 が 激 減している‘ このようなi一j十什
i
十二ら主業j的う拘句養蚕経古営捗へと移行している2掛6ω)
自 立 型 農 業 経 営 の 性 格 出 島 村 で 、 現 在 み ら れ る 自 立 型 農 業 経 営 の 諸 型 はy そのほとんと、がJ
山
立
1
0
数年 の
i
自 に 形 成 さ れ た も の ば か り で あ る . これらの自立型農家併は,このt I1¥における対 し て , み ず か ら の 農 業 経 営 を 大 き く 変 化 さ せ る こ と に よ っ て 対 応 し て き た
.
M
地 規 模 の 拡 大 が , 都市 化 の 進 行 に と も な う 地 価 の 上 昇 に よ っ て 制 約 さ れ て い る1=1:1で ,QQG ゥ iセi
ま ず 集 約 的 経 営 部 門 を 導 入 す る こ と で 農 業 収 入 の 向 上 を 目 指 し た
どは, みなその表われで、ある. これらの農業生産は? かつて大都市に
近 践 し た 近 郊 農 業 地 域 に 特 徴 的 に み ら れ た も の で あ る . 近 年 に お け る 都 市 化 の 著 し い 進 行 と 交 通 輸 送
条件の改善が, こ れ ら の 農 業 生 産 を 広 域 化 さ せ る 作 用 を お よ ぼ しp 近 郊 外 縁 に 位 置 す る 木 地 区 で の 経
営 選 択 の 多 様 さ を も た ら し た と ることができる. セュ S し,
そ の か わ り に じ ゃ が い も , そ ら 豆 , 加 工 用 ト マ ト を は じ め , ね ぎ , キ ャ ベ ツ , ほ う れ ん 草 な ど , 農 家
に よ っ て き わ め て 多 様 な 生 産 が 行 わ れ て い る . このように, 111,:島 村 に お け る 自 立 型 農 家 は3 護I1抗 野
菜 作3 施設園芸などとし、った集約的な経営
T
t
l)
1 可1' lこ3 経 営 む と 炭 業 労 働 力 と 法 家 資 金 の 大 半 を 集1:)二lさせ る こ と に よ っ て3 現 在 み ら れ る よ う な 自 立 型 農 業 経 営 を 尖 現 し て き た
それゆえ,一面ーから言えば, A Qセャェコ IjェセjャN
世 帯 の 農 地 を 吸 収 す る こ と に 依 存 せ ず3 自 家 の 従 来 の 経 営 也 を 集 約 的 に 利
JF
J
するという,土地利) 刊iセA N このことは,養! ほ農家や施設問芸農家において特
に顕著である. これらの農家では, 1こ1= 1 心経営うの拡大lこ と も な っ て . 耕 地 規 挟 そ の も の は 逆 に 縮 小
している. これは, ゥャセセ A
来の耕地に余剰を生じたためで, これらの農家では,それらのこと地を他の農家に貸し付けたり,荒地
と し て 放 棄 し た り し て い る . こ れ に 対 し て , 荏 恨 栽 培 農 家 の 場 合 は , 主 旧 の 集 積 に よ る 制
ω
j
如実の拡大が目立っている. このような現象は, 自 家 保 有 水 田 の 蓮EEl化がほぼ限界? と達した
1970
年 代 後 半 か ら活 発 化 し た も の で あ る . 現 在 で は , 各 農 家 と も ) 出 様 栽 培 突 と し て 1 .5,..__,2. Oh a を 目 出 し て お り , 従
来の自家保有水田では不足する部分を, 他の農家からの賃借二で補おうとしている.
集約的経営部門の導入と拡大を通じて, 自 立 型 農 家 は , 非 自 立 主 家 と 大 き く 異 な っ た 経 営 変 化 の
道 す じ を た ど っ て き た . こ の よ う な 白 立 型 農 業 経 営 形 成 の 過 程 に お い てp 個 別 農 家 の 枠 を 越 え た 地 域
組 織 や 制 度 な ど は 重 要 な 役 割 を 演 じ て き た . 養
l
!
家 農 家 に お け る 大 友 合 の 建 設 や , 花 ゴ1同友情決家におけ る 施 設 整 備 , 蓮 根 栽 培 に お け る 農 業 機 械 の 時 入 や 柴 山 主 設 の 建 設 な ど は , す べ て
l
主L
茨 城 県 , 出島 村 か ら の 資 金 援 助 と 結 び つ い て い る . ま た , 主 の 拡 整 備 や 排 水 路 設 の 整 備 は ,
L
l
芝山トラングの出入りや農業機械の利用を可能にすることで, 自 立 型 農 業 経 営 の 存 立 基 盤 を 保
0
1
1 : するものである首都{を
l
外縁部における; 農村の地域生態 71わらずy オ H\j Iセ|_ QQ イュ N
山氏: 家の経営分化にともなって, 主現: な経 営
1
5
1
) 1
"
'J
ご と に 組 織 さ れ る 機 能 的 農 家 集 団 が 成 立 しp 発 展 して い る . 出 向 村 農 業 協 同 組 合 に お い て も )住
1
良 ,、 護I l家,花3 '1j - とい った 主 要 部 門 ご と に 存 在 す る 部 会 のS セ Gャ[ゥセ GI j Hヲ[ ゥ Gセ Q A
3) 土 地 利 用 の 変 化
水
1
1
,1 セQ Qャャ 従 来の土地5 fUJ'j=Jを 構 成 してきた 基 本i切な3
つ の 要 素 のうち3 経 済 的 意義 に お い て 最 も 大 き な 変 化 を み せ た の は 平 地 林 で あ っ た . か つ て 林 地 は 農 用 や 生 活 の た め に 大 き な 意
義 を 有 し て い た . しかし) 1955年 頃 以 降 の 肥 料 ・ 新 し い 燃 料 問、の 普 及 やp そ れ に と も な う 農 家 の 生 活
改 善 運 動 な ど に よって3 平 地 林 の も っ て い た 経 済 的 意 義 の 大 き な 部 分 が 失 わ れ た . こ の た め , 一 部 に
は杉 が 植 林 さ れ て い るが ,乾燥した土壌のため成育が悪く, 赤 松 林 や 雑 木 林 を 中 心 と す る 林 地 は , 現
1 .響( 1 9 7 9.5)
2, 秋 ( 19 8 0, 10)
0 2餓h
軍基 ジ ャ ガ イ モ
ロー
巴
m
額. 農
家
:1: サ ツ マ イ モ
回クリ
回
タ
バ
コ
E 3
林地瞳
J 麦類回ナシ
日 一
トマト そ の 他 の 轡 溜 池 阻団内地前地