新崎盛暉先生 追悼特集
出版者 法政大学沖縄文化研究所
雑誌名 沖縄文化研究
巻 47
ページ 383‑384
発行年 2020‑03‑31
URL http://hdl.handle.net/10114/00023262
382
「軍政」から「民政」へ 米国統治移行期における沖縄の保健医療システム
(
87) 前掲、沖縄県公衆衛生協会『保健所の歩み
保健所創立四十周年記念誌』一九九一年、一六九頁。
(
88) 公
衆衛生看護婦養成講座では、アメリカ公衆衛生看護学に基づいた公衆衛生看護事業十二の原則が教えら
れ、沖縄の公衆衛生看護婦の活動の拠り所となった(金城妙子『原点をみつめて—沖縄の公衆衛生看護事 業—』二〇〇一年、三二頁)。
(
89) 沖
縄群島政府公衆衛生部に看護課が設置されると看護婦の具志八重が課長となり、民政府で公衆衛生部長を
務めた大宜見朝計は、退任後沖縄県医師会長として活躍した。
(
90) 沖縄タイムス社編『沖縄の証言
下』一九七一年、九〜十頁。
(
91)ors, MemorandumNth Uern Ryukyu IslandndlaIsov.S. Naval Military Cernu ment Unit Ryukys, : Establishment of USN Military Government in.(From Officer in Charge, Northern Ryukyus Survey Party. To Deputy Commander for Military Government, 5 December 1945).(ワトキンス文書刊行委員会編『沖
縄戦後初期占領資料
第二五巻』緑林堂書店、一九九四年、二一〜二六頁)
。
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法政大学沖縄文化研究所は、沖縄が第二次世界大戦後の米軍占領下から日本に復帰した一九七二年に設立された。その母体となったのは、評論家・中野好夫が私費を投じて設けた沖縄資料センターが収集した復帰運動に関する膨大な史資料群であった。新崎盛暉氏は、中野の右腕となってそうした史資料の収集と整理にあたられた。つまり沖縄文化研究所の設立にもっとも実質的に貢献された方であったといっても過言ではない。氏は研究所設立後もずっと研究所に温かいまなざしを向けられ、私たちの活動を支援してくださった。氏が亡くなられてからすでに、二年近くが経つ。この時期に、氏の追悼を特集するのは遅きに失しているとのご批判を免れまいが、『沖縄文化研究』誌が年一回の刊行であるという足回りの悪さに起因するものとご了解いただきたい。これを機に改めて、氏のご冥福をお祈りし、その遺志を受け継ぐ研究所としてこれからも邁進していきたいと念じている。
法政大学沖縄文化研究所・所長 中 俣 均
385 新崎 盛暉 年譜
新崎
盛暉
年譜
一九三六年 一月二七日現在の東京都杉並区天沼で、父・新崎盛忠、母・タヲの長男として誕生。一九四二年 六歳高砂国民学校入学。一九四三年 七歳肺門リンパ腺炎で長期欠席のため、一年生を留年。一九四五年 九歳福岡を経て、熊本県葦北郡佐敷町に疎開、佐敷国民学校三年編入。一九四六年 一〇歳江戸川区小岩の父の友人宅で父と合流。小岩国民学校四年に編入。夏ごろ、現在の墨田区横川橋にあった専売局焼け跡の官舎に転居。柳島国民学校四年に編入。 一九四九年 一三歳日本大学第一中学校入学。一九五二年 一六歳都立小山台高校入学。一九五三年 一七歳高校で沖縄戦災校舎復興資金募集運動を行う。一九五六年 二〇歳東京大学教養学部文科二類入学。一九五八年 二二歳文学部社会学科進学、日高六郎ゼミに入る。新聞研究所研究生。一九五九年 二三歳戦後初めての沖縄訪問。豊平良顕、兼次佐一、平良幸市らと会う。