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マシャード・ジ・アシスと奴隷制

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(1)

マシャード・ジ・アシスと奴隷制

―『メモリアル・ジ・アイレス』における奴隷制廃止―

Machado de Assis: the slavery and its abolition in Memorial de Aires

武田千香

東京外国語大学大学院総合国際学研究院 

TAKEDA Chika

Institute of Global Studies, Tokyo University of Foreign Studies

はじめに

1.  垣間見える特権階級の利己主義 2.  語り手の共謀性

3.  人名と地名に潜む「裏切り」

おわりに

キーワード:マシャード・ジ・アシス、ブラジル文学、奴隷制廃止 Key Words: Machado de Assis, Brazilian Literature, abolition of slavery

ᮏ✏䛾ⴭసᶒ䛿ⴭ⪅䛜ᡤᣢ䛧䚸 䜽䝸䜶䜲䝔䜱䝤䞉 䝁䝰䞁䝈⾲♧㻠㻚㻜ᅜ㝿䝷䜲䝉䞁䝇䠄㻯㻯㻙㻮㼅㻕ୗ䛻ᥦ౪䛧䜎䛩䚹 https://creativecommons.org/licenses/by/4.0/deed.ja

(2)

要旨

メモリアル

アイレス

マシャード

アシスの絶筆となった作品で

引退した外交官アイ レスが遺した日記の

1888

年から1889年の約

2

年間に書かれたものの中から

連続性のある話

となる ような部分を抜粋して編んだという設定になっている

。 1888

年は

奴隷制廃止というブラジルにとっては 極めて重要な歴史的な出来事があった年である

それにもかかわらず

この小説においてはそれに関 する言及が比較的少ない

本論は

この少なさが何を意味するのかという疑問を起点に

この小説において奴隷制廃止がどのよ うに描かれ

そこにどのようなメッセージがこめられているのかを探るものである

日記が元外交官という エリートによって書かれたことを考えれば

奴隷制廃止への言及が少ないことは不自然ではない

この 小説に描かれているのは

支配階級の視線から見た奴隷制廃止であり

そこにブラジルの奴隷制廃 止のプロセスに対するマシャードの批判がうかがえる

Abstract

Memorial de Aires is Machado de Assis’ last novel, published in 1908

the same year of his death. It is composed of a series of diary entries written by Counselor Aires, between 1888 and 1889, describing his life as a retired diplomat. Although the novel covers the period in which a prominent historical event

the abolition of slavery

took place in Brazil, few are the references to it. Starting from the doubts posed by the relative absence of the issue, this article aims to bring the presence of this historical event to the surface and draw out the message left by Machado de Assis in the work.

The analysis is conducted from three angles: the characters’ speech and behavior, the nar- rator’s position and profession and the name of the characters and places appearing in the work.

Despite the fewer references to the abolition of slavery, Memorial de Aires conveys Machado de Assis’ severe criticisms of its process, which he cleverly incorporated into the novel.

はじめに

メモリアル

アイレス

ブラジルの文豪

マシャード

アシス

(Machado de Assis,

1839-1908)

死去する2か月前に上梓した

まさに絶筆となった小説である

元外交官のアイレス

が遺した日記から

、 M. de A.という人物が一部を抜き出してまとめたという設定で 、

合計

179

の断片か ら成り

その多くには日付が入っている

小説として読むには筋らしい筋がなく

とらえどころのない不思

議な印象を与える小説である

(3)

この小説の成り立ちに関して

M. de A.

、 「

警告

( Advertência )」

と題する序文で

次のように述 べている

いまこうして印刷する メモリアル約2年間 (1888

-

1889) に関わる部分についても しいくつかの経緯逸話描写考察を切り取ったならば日記という形をとりつつも 連 続性のある話として興味深いものになるかもしれないと思ったものである

1)

すなわち

アイレスの日記の中のうち

、 1888

年から

1889

年の約

2

年分の記録から

、 M. de A.

なる人 物が

興味深い

」 「

連続性のある話

になるべく

、 「

いくつかの経緯

逸話

描写

考察

を抜粋し てまとめたのがこの小説ということになる2)

さてこの

1888

年は

ブラジルにとってはきわめて重要な年である

ブラジルではこの年に奴隷制が廃 止され

なおかつその翌年の

1889

年には

、 1822

年の独立以来続いていた帝政が崩壊し

共和政に 移行している

したがってこの

2

のあいだにブラジルは歴史的大転換期を迎えた

このような 時期をわざわざ切り取ってまとめた

興味深い

」 「

連続性のある話

であれば

きっとそこには

奴隷 制廃止をめぐる激動のブラジルに焦点があてられていると想像するのが自然な発想であろう

ところが

この小説に見られる奴隷制廃止に関する言及は他の話題に比してきわめて少なく3)

流れている時間も

遊惰なものである

率直なところこの小説は

マシャード

アシスによって書かれたことを知っている からこそ最後まで読み切るが

物語性は希薄で退屈な内容が続くため

最初に読んだときには

なぜ これを読ませるのかという疑問が常につきまとった

こういう印象を抱いた人は少なくなく

アウグスト

メ イエルは

、 「

灰色の本

死んだ本

書かれたというよりあくびがつづった本

だと書き

イギリス人のブ ラジル文学研究者ジョン

グレッドソンに至ってはもっと手厳しく

、 「

感動したり面白く思うふりをしたりしろと 言う方が無理だ

」、 「

おそらく多くの人は礼をわきまえて言わないだけだろうが

なにやらマシャードはカロ リーナの死で

インスピレーションを失ってしまい

別人になってしまったようにも思える

と書いている4)

批評家の中には

そもそもこの小説のテーマ自体が

模糊

( inefável )」

だと考える人もいるという5)

だが

それはあまりに乱暴な言い方であろう

むしろそうであるところ

すなわちこの小説に流れる遊惰 な時や退屈な内容にこそ意味があると考えたほうがいい

。 1888

年から1889年と明確な時代設定をしな がら

その時期に起こった重大な歴史的事件にわずかしか触れていないのであれば

そこにこそ意味 があるのである

グレッドソンは

この小説を歴史的なコンテクストに位置づけ

そこにマシャードの奴隷 制廃止に対する批判を読み取る重要な研究を残している

またとくに奴隷制廃止との関係では

この 作品を奴隷制廃止というエリートの裏切り行為の歴史として読むべきだとしたペドロ

フラジェーリの研究 も重要である6)

本論では

とくにこの

2

つの研究を参照しながら

この小説と奴隷制廃止の関係につ いて考察していく

この小説において

なぜ奴隷制廃止という歴史的出来事に関する言及が比較的少 ないのか

またその少ない言及の中で奴隷制廃止がどのように描かれ

どのようなメッセージがこめられ ていくのかを探っていきたい

(4)

1.  垣間見える特権階級の利己主義 1. 1.  アギアール夫妻の無関心 

まずはこの小説で抜粋されているアイレスの日記から見えてくる

連続性のある物語

を確認しておこう

最初の日記は

1888

1

9日のもので 、

アイレスが姉妹のヒタと一緒に

ヒタの亡夫の墓参りをする ところから始まる

その日

やはり亡夫の墓参りにきていたフィデリアという女性をみかける

その後

ア イレスは

友人のアギアール夫妻の銀婚式の祝賀会でフィデリアと再会する

フィデリアは

パライーバ 川流域でコーヒー農場を経営するサンタ

ピア男爵の娘で

父親の政敵の息子と恋に落ち

両親の反 対を押し切って結婚したため

父とは縁を切ってポルトガルへ渡った

だが

夫は間もなく死に

一人 でブラジルへ戻ったものの

実家には戻れず叔父のカンポスの家に身を寄せていた

フィデリアは

子 どものいないアギアールと妻カルモから実の娘のように可愛がられていた

アギアール夫妻にはもう一人

以前から実子のように愛情を注いでいたトリスタンというポルトガル出身 の知人の息子がいた

だが彼は

両親とともにポルトガルへ行ったまま

しばらく音信が途絶えていた

そのトリスタンから突然手紙が届く

まさにそれは奴隷制が廃止された

1888

5

13

日のことだった

翌日

アイレスが夫妻を訪ねると

二人は奴隷制廃止には気にも留めずそのことを喜んでいた

その後

トリスタンがブラジルに戻ってきたため

アギアールとカルモは

しばらくのあいだ愛する二人 の

義子

と一緒に幸せな日々を送る

だが

フィデリアとトリスタンが再婚することになり

幸せ絶頂の まさにそのとき

トリスタンのポルトガルでの政界入りが決まり

フィデリアも一緒について行ってしまう

ア イレスが夫妻を訪ねると

アギアールとカルモは再び孤独な老境に引き戻され

彼らを慰めていたのは

自 身の懐旧の情

であった

以上が

作品全体に流れる

連続性のある物語

である

ご覧のように

話そのものに奴隷制廃止 は関係がない

ただ一か所

トリスタンの手紙が届いたのが奴隷制廃止の日だったところが重なっている

。 1888

5

月13日

奴隷制を廃止する

黄金法

(Lei Áurea)」

が発布された日

リオデジャネイロは街中

奴隷制廃止を祝う祝賀ムードに沸いていた

建物には旗が掲げられ

窓から花びらを蒔かれ

音楽隊 が繰り出し

人々は行列を作り

高々と鳴り響く教会の鐘の音の中で

歓声を上げ

歌い

踊った

アイレスも行列に参加するよう誘われたことを

その日の日記に書いている

翌日

アギアールを訪ねると

家には人が集まり

たしかに一同は喜びに包まれていた

アイレスは

当然奴隷制廃止を祝っているの だろうと思い

、 「

おめでとう

と声をかける

するとカルモからは

あら

もう知っていらっしゃるの

?」

と いう返事が返ってきた

そんな大事件を知らないわけがないではないかと不思議に思ってきょとんとしてい ると

しばらく音信不通だったトリスタンから手紙がきたことが告げられる

二人が喜んでいたのは奴隷 制廃止ではなく

トリスタンの手紙が久方ぶりに届いたことだったのである

これに対してアイレスは

、 「

私 的な喜びほど価値のある公の喜びはない

」 ( 1888/5/14 、

午前

0

と書いている

(5)

1. 2.  サンタ・ピア男爵の権威主義

アギアール夫妻にとって

奴隷制廃止は関心事ではなかったが

奴隷労働力に農場経営を頼ってい たフィデリアの父

サンタ

ピア男爵にとっては一大事であった

アイレスの日記には

この出来事に対 する男爵の対応がところどころに記されている

男爵は

奴隷制が正式に廃止される2か月前にその噂を聞きつけ

リオに上京してくる

目的は

奴隷が法律によって正式に解放される前に

自らの手で集団解放しようと

判事である兄弟カンポスに 解放証書の作成を依頼することだった

いずれ解放されることは見えているのに

なぜ今それをするの かと兄に問われ

男爵は次のように答える

俺は 政府がしようとしていることは搾取だと思うそれをちゃんと示してやりたいんだ 本来は所有者にのみ許されている権利に介入することじゃないか だから俺はたとえ損をし ても自分でその権利を行使する俺はそうしたいし俺にはそれができる。 (1888

/

4

/

10)

男爵は

政府に権利を奪われる前に

自らの手で権利を行使することを望んだのである

奴隷制廃 止に対してまったく無関心のアギアール夫妻と

積極的な行動に出るサンタ

ピア男爵は対照的だが

いずれも解放される奴隷のことは頭になく

もっぱら自らの利益を優先している点は共通している

ここで少し歴史的な背景を補足しておこう7)

先述したようにサンタ

ピア男爵は

パライーバ川流域で コーヒー栽培を営む農場主である

パライーバ川は

正式名称をパライーバ

スウ川といい、サンパ ウロ州の北西部からリオデジャネイロ州とミナスジェライス州の州境を沿うように流れ

リオデジャネイロ州北 西部を通って大西洋に注ぐ川である

パライーバ川はブラジルのコーヒー農業の発展に重要な役割を果 たし

ブラジルが現在の

コーヒー王国

の地位を築けたのはこの川のおかげと言っても過言ではない

そもそもブラジルにコーヒーが初めて伝えられたのは

1727

フランス領ギアナからパラに持ち込まれ たときだとされる

。 1760

年ごろにはすでにリオデジャネイロに伝わっていたが

周辺で細々と栽培される 程度だった

だが

19

世紀初頭にヨーロッパでコーヒーの需要が高まると

、 1830

年代から一気にその栽 培は広まる

。 1840

年にはもうブラジルの第一輸出産品となって

最盛期の

1860

年代には

リオデジャ ネイロがブラジルのコーヒー輸出高の

8

割を生産するまでになっていた8)

。 19

世紀のブラジル経済は

コ ーヒー農業の発展と軌を一にして成長し

ブラジル帝国はコーヒーに支えられた

パライーバ川流域は

ポルトガル語で

ヴァーリ

パライーバ

パライーバ渓谷

)」

と呼ばれるが

第二帝政時代

( 1840

~ 1889 )

には

、 「

帝国はコーヒーであり

コーヒーはヴァーリ

パライーバ

川流域

)]

である

とま で言われた

そして忘れてはならないことは

パライーバ川流域のコーヒー農業が奴隷労働力を基盤と していたことである

したがって

、 「

帝国はコーヒーであり

コーヒーはヴァーリ

であるばかりでなく

、 「

ーヒーは奴隷

でもあった

中でもヴァソウラスの町は

ヴァーリのコーヒー農業地帯の中心的存在で

、 「

コーヒーの首都

とも呼 ばれた9)

作品の冒頭でアイレスは

外交官を退官しブラジルに戻ってきてちょうど

1

年がたったことを思

(6)

い出したと綴っているが

それを思い出させたのは

箒はいかが

 はたきはいかが

!」

という物売り の声だった

。 「

ポルトガル語で

ヴァソウラス

である

ここでわざわざ箒

ヴァソウラス

の記 憶が選ばれているのは偶然ではないだろう

この小説は

奴隷制を基盤としたパライーバ川流域のコー ヒー農業を思い起こすことから読まれなくてはならないのである

1. 3.  奴隷制の廃止とパライーバ川流域の男爵らの斜陽

ブラジルは

アメリカ大陸で最後まで奴隷制を敷いていた国だったが

その背景には

パライーバ川 流域のコーヒー農業にとって奴隷労働力が不可欠だったことがある

。 19

世紀初期よりブラジルは

奴隷 制を早急に廃止するようにイギリスから圧力をかけられ続けていた

その圧力に屈していったんは

1831

年に

ブラジルへのアフリカ人奴隷の入国を禁止する法律を制定したが

機能することなく

イギリス人 に見せるための法律

として形骸化した

だが

ついに

1850

年にエウゼビオ

ケイロス法が制定 され

奴隷貿易は禁止され

、 1871

年には

それ以降に生まれた奴隷の子どもは自由とされる

出生自 由法

子宮の自由化法

Lei de Ventre Livre)」

が制定される10)

これは漸次的な廃止を図ったものだ ったが

これを機に奴隷制は急速に解体に向かう

。 1880

年代になると大規模な奴隷制反対運動も起 こったほか

混血や黒人がリーダーとなる廃止運動も盛んに起こるようになって

中にはセアラ州のように

独自に奴隷制廃止を宣言する州も現われた

さらにこの頃になると

奴隷制廃止をめぐる足並みにも乱れが生じ始めた

というのも

パライーバ川 流域では

従来の粗放的な耕作方法があだとなって土壌の疲弊が起こり

、 1870

年代を境に

徐々に コーヒー栽培の衰退が始まっていた一方

それに代わってサンパウロ西部が成長し始めていたからであ る

この地域の農場主は

奴隷ではなく賃金労働者を雇用し始めており

奴隷労働力には関心を持 たず

むしろ非近代的な奴隷制の廃止を支持するようになっていたのである

こうして奴隷制度の維持 に固執する伝統的なパライーバ川流域の大農場主らと

廃止を訴える新興勢力のあいだで利害の対立 が起こり

その綱引きの中

ついに

1888

5

13

日に

ペドロ二世の摂政イザベル皇女によって

奴隷制度の廃止を規定する

黄金法

が発布された

1888

年の奴隷制廃止は

即事無賠償の奴隷解放という形で行なわれた

なんの補償もなく財産を 奪う政府の措置に対し

どうせ奪われる資産と権利ならば

その前に自分でそれを行使するといういわ ば自暴自棄な抵抗の意思表示が

サンタ

ピア男爵の行動だったのである

実はサンタ

ピア男爵がとったのと同じような行動を

マシャードは新聞

ガゼッタ

ノチシアス

のコラム

おはよう

(Bons dias!)」

で書いている

このコラムは

1888

4

5

日から1889年

8

28

日 のあいだに連載されたもので

時期がちょうどこの小説の設定期間と重なるため

、 『

メモリアル

アイ レス

の解釈には重要な資料となる11)

そこに書かれているのは

下院議員選挙を控えたある人物が

黄金法の発布よりも前にパンクラシオという自らの奴隷を解放したというエピソードである

解放の前日に

(7)

友人たちを夕食に招き

その席で計画を披露し

記念の祝杯をあげる

そして翌朝

わずかな給金 を渡して解放を言い渡す

そればかりでなく

自分が正式な奴隷制廃止よりもはるか前に自主的に奴隷 の解放をしたことを

有権者向けの会報にも載せて送ったのである

だが

パンクラシオの待遇は変わ らず

その後も前と変わらず

ときにビンタを食らいながら働き続けることになったという

伝統的な農場主にとって奴隷制廃止は

資産を失うばかりでなく

権利とメンツを失うことでもあっ た12)

奴隷制廃止がもう避けられない現実ならば

せめて権利を自分の利益のために戦略的に有効活 用したわけである

逆に奴隷にしてみれば

法律によって解放されていれば何の代償もなく自由になれ たところ

奴隷主に権利を行使されたばかりに

一生恩を感じながら生きていくことになる13)

現に奴隷 制廃止を目前に解放してくれた

0 0 0

奴隷主に対し

それと引き換えにその年のコーヒーの収穫時に無償で働 くことを申し出たケースがあったという14)

マシャードは

、 『

ガゼッタ

ノチシアス

で批判的にとりあげ

たこのエピソードを

、 『

メモリアル

アイレス

にも織り込んだのである

サンタ

ピア男爵は

、 「

黄金法

制定の翌月

脳溢血で死去する

( 88/6/20 )。

奴隷制度を基盤と して成り立っていた旧式のコーヒー農業にとって

、 「

黄金法

が止めの一撃となったことを考えると

男 爵は

奴隷制とともに崩壊したパライーバ川流域の旧式の伝統的なコーヒー農業の没落の表象と考えて よいだろう15)

1. 4.  フィデリアの行動

男爵の死後

農場は

唯一の相続人である娘のフィデリアに相続される

だが

パライーバ川流域 のコーヒー農業はすでに衰退しており

サンタ

ピア農場の収穫量は激減していた

そのためフィデリア は

まずは売却を考える

( 88/7/2 )。

だが

トリスタンから農場を解放奴隷に譲渡することを提案され

最終的にはその選択肢を選ぶ

トリスタンはその提案の理由をアイレスには明かさなかったが

アイレス は

カルモから聞いた話として

財産目当ての結婚だと思われないためだった可能性があると記してい る

( 89/4/15 、 28 )。

では

フィデリアはどうか

なぜ最終的にトリスタンの提案を受け入れ

農場を元

奴隷たちに譲り渡したのだろうか

パライーバ川流域の農場は

生産性が大きく下がり

その価値も

、 1889

年当時には大幅に下落し

全盛期の

1860

年のわずか

10%にまで下がっていたという

16)

そして

多くの農場主が農場を手放し

新興地域のサンパウロへ向かったり

公務員などへの転職をめざしリオに出たりしていた17)

それを考え ればフィデリアが最初に売却を検討したのも無理はない

アイレスの記述によれば

買手は

5

日で

2

名 現われたが

1名は価格を聞いてやめたという

( 89/4/15)。

売却を諦めたのは

思ったほどの値で売 れる見込みがなかったからかもしれない

フィデリアは父親から相続した現金

300

コントほどを持っていた

から

( 88/6/16 )、

先ほどのエピソードにあった名声獲得のために奴隷制廃止を利用した人物と同じよう

二束三文で売るよりは

元奴隷たちに譲渡して慈善行為としたほうが恰好がつくと判断した可能性 はある

(8)

だが

それは体裁や恰好の問題だけではなかっただろう

痩せて生産も見込めない農園は持ち続け る価値はない

むしろ奴隷の扶養だけが続き

負担は重く損失も大きくなる

したがって元奴隷に譲渡 したほうが却ってフィデリアにとっては

その重荷から解放されるから得策だったということになる18)

この ように以前は奴隷制維持を強く主張していたヴァーリの農場主らにとっても

、 1880

年代になると奴隷制を 維持するほうが負担となっていた

すなわちブラジルの奴隷制廃止は

奴隷が解放されたというより

農場主支配階級のほうを奴隷制という負荷から解放する措置だったともいえ19)

フィデリアの行動は

こ れを象徴しているといえるだろう

一見

情愛に満ちた慈善的な篤行に見える行為でも

その裏には 農場主らのエゴが渦巻いている

。 『

メモリアル

アイレス

こうした支配階級の利己主義的な 行動や思考を暗示しているのである20)

2.  アイレスという語りの装置 2. 1.  アイレスの共謀性

このように

メモリアル

アイレス

には

奴隷制廃止に対して支配階級がとった利己主義的な 行動が描かれているのだが

ただ読んでいるだけでは

なかなかそれが批判として読者に伝わってこ ない

それがなぜなのか

この章では

これらを伝える語り手に焦点を当てて考えていこう

奴隷制廃止をよそに

久方ぶりに届いた義子の手紙に夢中になるアギアール夫妻を見て

アイレスが

私的な喜びほど価値のある公の喜びはない

と書いて理解を示したことはすでに述べた

アイレスは

二人の態度について次のように書いている

理解したつまりいかに私的な喜びが一般的な喜びの真っただ中に現れそれを支配して しまうかを私はそれを見て腹も立たなかったむしろ無理もないと思ったし誠実だと思っ たなんたって何年も不通だった義子から手紙が届きここに残された悲しみが報われ たのだから来るべき手紙が届いたのだちょうど奴隷らの自由が多少遅めではあったが 無事やってきたように。 (88

/

5

/

14

,

午前0

アイレスは

奴隷制廃止という一大事件のことがまったく頭にない二人に対して

多少驚きはしたもの の

腹を立てたり批判したりはしていない

むしろ理解し

表裏のない二人の

誠実な

態度に好感 すら示している

フラジェーリは

ここにアイレスの支配階級との

共謀性

を見る

つまりアイレスは

支配階級の利己主義的な言動を

違和感を以て書き留めてはいるが

それを批判はせず

逆にかば って正当化しているのである

フラジェーリは

アイレスには支配階級のイメージを損なわないようにする

意図もあるという21)

これはアギアール夫妻に対してばかりではない

フィデリアの農場に対する対応について記すときも

アイレスの姿勢はあいまいである

フィデリアが最初に農場の売却を考えたとき

元奴隷たちはそれを知 って

売らないでほしい

売るなら自分たちも一緒に連れていってほしいと懇願したとアイレスは書き留め

(9)

ている

そして続けて次のように書く

美しいとはこういうこと彼女には虜にする力があるのだこの虜の場合解放証書も法律 もないいうなれば永遠の絆彼女が帝都へ向かうとき後ろから解放奴隷があとをぞろ ぞろついていったらそれはなかなかの見物だろうだがなんのために それにどうやっ て養えというのだ彼女はこれからは働く必要があることを彼らに理解させるのに相当 苦労したがここに来ても彼らをすぐに雇ってくれるところはないだろうそうだから彼ら にはこう約束したのだわかったあなたたちのことは忘れないたとえ田舎に戻らなくても 新しい土地の主人に推薦してあげると。 (88

/

8

/

10)

つまりアイレスは

元奴隷たちが農場を売らないでほしいと言ったのは

フィデリアが美しいからだと書い ているのだが

そんな馬鹿げたことがあるのだろうか

。 1888

年に解放されるまで

奴隷たちは自らの肉 体すら自由にできず

ただ主人の意のままに酷使され続けてきた

当然

教育は受けていない

した がって彼らは

自活していくための経済的

精神的

文化的

政治的手段をもってはいない

学も技 術もなく

いきなり解放されたところで

無知と貧困の悲惨な境遇に押しやられることは明らかで

それ は支配階級にも見えていたはずである

ましてや長年外交に携わり

欧米での滞在経験も豊富なアイレ スならば

じゅうぶんに予見できたはずなのである

それにも拘わらず

そのことには触れないばかりか

奴隷たちはフィデリアの美しさに惹かれて農場に残りたがっていると書いてみたり

奴隷たちにとっての死 活問題を

、 「

をかけた言葉遊びで茶化したりしている

(「

彼女には虜にする力があるのだ

この虜 の場合

解放証書も法律もない

」)。

この書き方に

解放後の奴隷たちの境遇に対する憂慮や思いや りはいっさいうかがえない

解放奴隷がなぜフィデリアに農場を売らないように懇願し

売るならば自分た ちも連れていってほしいと嘆願したのかといえば

それは

彼らが農場に住めなくなった暁には

自力で 生きていく経済力も術もなかったからである

フラジェーリは

ここには

ブラス

クーバスの死後の回想

の悪辣な語り手ブラス

クーバスを髣髴させる

悪意に満ちた残虐

な態度がうかがえると指摘する22)

そればかりではない

アイレスは

フィデリアがリオに行くときに彼らを連れていくことについて

、 「

なんの ために

」、 「

どうやって養えというのか

と突き放している

ここにはアイレスのきわめて身勝手な態度が表 われているとフラジェーリは述べる23)

家父長制の発想であれば

路頭に迷うのを承知で郎党たちを見 捨てることはしない

。 「

これからは働く必要がある

と叱咤せんばかりに言うアイレスがここで見せているの は

特権階級のご都合主義

すなわち都合が悪くなったら

これまで依拠してきた家父長制的価値観 を捨て

資本主義的発想に乗り替える変わり身の早さである24)

家父長制的思考と資本主義的思考 を都合よく使い分ける支配階級らの無責任な利己主義を

アイレスは代表しているのである

結局ブラジルの奴隷制廃止の根本的な問題はここにあった

奴隷が他人の所有物でなくなるという意 味の自由を獲得できたこと自体は前進だったにせよ

その後解放された奴隷への支援はまったくなく

社 会に統合する方策はとられず

むしろ支配階級は代替労働力を欧米からの移民に頼った

元奴隷たち

(10)

何の賠償も保障も援助もないまま社会に放り出され

その結果

社会的周縁に追いやられ

貧困 と差別にいっそう苦しむことになったのである

奴隷制廃止によって

奴隷たちの境遇は改善されるどこ ろか

却って悪化した

2. 2.  元外交官アイレス

サンタ

ピア農場が解放奴隷たちの手に渡ったことを聞いたときも

アイレスは

次のように書く

こうしてサンタピアは解放奴隷たちのものになったがおそらく彼らはダンスと涙でそ れを受け取るだろう だがこの初めての新しい責任は……25)。 (1889

/

4

/

28)

農場を

ダンスと涙

で受け取ったとはどういうことなのだろう

経済力と政治力と知力のすべてを持 つエリートですら維持できない農場を

何の資源も持たない元奴隷にどうやって経営しろというのか

アイ レスは

元奴隷たちが農場をもらい受けても

明るい未来や希望がないことを承知している

だから解

放奴隷たちの喜びを言うのに

、 「

ダンス

だけではなく

、 「

を加えているのである

また彼らには

担う

初めての新しい責任

も全うできないことは百も承知だった

だから

新しい責 任は

……」

あえて言語化することを避けているのである

知っていても都合の悪いことは言わないとは

まさに外交辞令ではないか

アイレスが外交官として設定されている理由はこのあたりにもありそうである

彼は自らのキャリアについてこのように告白している

。 「

自分が人生で果たした外交は

ほかの何物でもな く

装飾的職務のようなものであった

私は商業協定や国境問題は扱わなかったし

戦争の同盟を祝 したこともない

」 (88/8/31)。

彼は

外交官は外交官でも

凄腕の実力派ではなく

うわべだけを飾り

立てる

中身が乏しく真実味もない言葉や文句だけを並べて生きてきた職業外交官だったのだろう

アイレスが外交官ぶりを発揮するのはこのときばかりではない

ブラジルのエリートは奴隷制を正当化す るために

ブラジルでは主人と奴隷は情愛関係で結ばれ

他国に比べて穏健な奴隷制を維持している という

外向きの言説を使っていた26)

アイレスの記述にもそれをふまえたものが散見される

サンタ

ピ ア男爵と奴隷の関係について

、 「

彼はよい主人であり

彼らもよい奴隷である

」 ( 88/4/13)

というフィデ リアの言葉を紹介しているし

解放された後も奴隷たちがサンタ

ピア農場で働き続けている姿を見て

解放奴隷たちは女主人への愛から鍬仕事を続けている

というトリスタンのコメントも記している

フラジ ェーリによれば

、 「

概して奴隷制度の不当性を隠すための美しいベールを織る仕事は

政府の金で成り 立っていたメディアや旅行作家や海外における王室の代表者の仕事だった

という

キャリア外交官で あるアイレスは

まさにその最前線にいた27)

サンタ

ピア農場の元奴隷たちがいまも元女主人のため に愛情ゆえに働き続けていると言って

ブラジルの奴隷制の好イメージの保持を図るのも

その延長線 上の言動なのである28)

したがってアイレスが奴隷制廃止に対して示した共感も

実は奴隷が自由を獲得したことを喜ぶという

(11)

よりも

国のイメージを気にしたものであったろう

アイレスは

奴隷制廃止が秒読み段階に入ったことを 受け

次のように書いている

(…) 議会が開かれある法案が出されるというついに来たいまでも海外にいたとき リンカーンが名演説をした折に我々のことに触れたのを覚えている。 「これにより今 アメリカ合衆国大統領アブラハムリンカーンは……」。複数の紙がブラジルを名指しし あとは唯一最後のキリスト教の人々がこれを模倣し彼らの奴隷に終止符を打ってくれれば すべてが終わると書いていた今日が我々を賛美してくれんことを。 (88

/

4

/

19)

南北戦争が終わり

アメリカ合衆国で奴隷制が廃止されると

アメリカ大陸で奴隷制を維持していたの はいよいよキューバ

プエルト

リコ

ブラジルの

3

国だけとなった

これにより

最後まで奴隷制を残 すのはどこかと

いわば野蛮な国からの脱出競争が始まっていた

。 1870

キューバで

60

歳以上と 子どもが解放された

ブラジルで

出生自由法

が公布されたのは

その

1

年後の

1871

年であった

そして

1873

ついにプエルト

リコで奴隷制が完全に廃止されると

残るはブラジルとキューバのみ の争いとなった

そのキューバで

1886

年に奴隷制が廃止される

とうとうブラジルはアメリカ大陸唯一奴 隷制を敷く国という汚名をとることとなった

奴隷制廃止に向けて世論が一斉に動いたのにはこうした国 際的背景もあったのである

ブラジルは対外的にも苦しい立場に追い込まれていた

海外で勤務してい た外交官アイレスはそれを痛切に感じていたに違いない

この記述には外交官アイレスとしての発想がう かがわれる

2. 3.  国家顧問官アイレス

アイレスという語り手のプロフィールを考えるとき

もうひとつ考慮に入れなくてはならないことがある

ア イレスの名前に冠されている

国家顧問官

という役職名である

国家顧問官で構成される国家顧問 会議は

皇帝の調整権の行使において補佐する諮問組織で

皇帝の要請に応じて国家の重大な事 項を協議し

意見書を提出した

奴隷制廃止が検討されたのも国家顧問会議であった29)

。 1865

上院議員で国家顧問官であるピメンタ

ブエーノが

ペドロ

2

世から要請を受けて草案を策定し

国 家顧問会議に提出した

だが

奴隷制擁護者らがそれに抵抗し

草案は棚上げされてしまう

ところ が

1866

フランスの奴隷制廃止委員会からブラジルの奴隷制廃止のために支援の申し出があり

当時の政府がすぐにも着手する旨回答を送ったことが明らかとなった

すると

反対派は危機感を強め

ようやく国家顧問会議で本格的に議論が始まったのであった

1860

年代はヴァーリのコーヒー農業は最盛期で

奴隷制の維持が不可欠な時期だった

このため 議論は政治的都合と奴隷制擁護のあいだで綱引きが続くこととなった

だが

綱引きといっても

賛成 派と反対派の両者が勝負をつけるために力一杯に正々堂々と綱を引く戦い方ではなかった

理想を言え ば賛成だが現実は反対と

同一人物の中に両方の意見が共存している人たちが

できるだけ決着を

(12)

先延ばしにするため漫然と引き合う

いや

引き合うふりをする状況だった

多くの国家顧問官らは

制度廃止の必要性は理解できたし

いずれ解放しなくてはならない時が来ることは十分に承知していた

だが

だからといって今この時点で何らかの方策がとられることだけは避けたかった

そのためほとんど の国家顧問官が微妙な立場をとり続けた

たとえば内閣首長も経験し国家顧問官の経験も長いペドロ

アラウージョ

リマ

オリンダ侯爵

奴隷制廃止には反対しないが

漸次的に解放していけば

いずれ奴隷は消滅する

だからその時期を待てばよいし

、 「

穏やかで善意ある

ブラジルの所有主のこ とだから

きっといつか解放するはずだ

国はこの件に介入すべきではなく

自然の成り行きに任せる べきだと曖昧な意見を述べた30)

このように国家顧問官のあいまいな論調をシジニー

シャリョゥビ

(Sidney Chalhoub )

、 「

レトリックで制度は批判するが

奴隷所有主の利害は擁護する調整芸

だとして

ジ グザグ歩きの芸術

(arte de bordejar)」

と表現している31)

これはまさに

支配者層の行動に対する批判が成り立つような内容を言いながらも

それをかばって 正当化し

結果的にうやむやにするアイレスの語りに通じる

アイレスには

国家顧問官として

この語 りを再現する役割が与えられているのである

フラジェーリは

アイレスの語りには

ブラジルの歴史のリ ズムが反映されていると指摘している32)

このようにテクストの動きと歴史社会の動きが呼応しているのは

メモリアル

アイレス

に限ったことではなく

、 『

ブラス

クーバスの死後の回想

の作品構造や文 体にもブラジルの社会や歴史に通底するリズムが反映されていることは

以前指摘したとおりである33)

さてもう一人

アイレスのプロフィールを考えるために参考になる国家顧問官の実例を挙げておきたい

外交官のジョゼ

マリア

シルヴァ

パラーニョス

後のリオ

ブランコ子爵である34)

彼は

この 一連の議論の終着点となった

1871

年の

出生自由法

が制定されたときに内閣の首長を務めた人物 で

そのためにその法律は

彼の名をとって別名

リオ

ブランコ法

とも呼ばれる

この人物が非 常に興味深い行動をとっているのである

やはりこのときの彼の主張もきわめてあいまいで

彼曰く

フ ランスやイギリスなど諸外国では長年かけて廃止に至っている

したがってブラジルではまだ議論は浅 いので

時期尚早だ

とはいえ奴隷制を廃止する状況にあるのもわかる

しかし奴隷の人口が漸次 減少しているところを見れば

いずれ消滅するはずだ

それにしても奴隷廃止に向けて博愛主義的方 策をとる必要があることもわかる

とはいえ奴隷の人口がわからずにそれを実施するのは困難だし

実 際に法律が策定されても適用は難しいのではないか

せめてパラグアイ戦争の終結を待つ必要がある などなど

……、

できるだけ先延ばしを主張し

どうやらこの人物こそ

ジグザグ歩きの芸術

を大いに発 揮していたらしいのである

ブラジルの奴隷制廃止へ向けた第一歩を飾る法律に名が冠せられた人物 ですらこのような言動をとっていたのである

アイレスという語り手を構想するときに

マシャードの頭の中 に

外交官であるこの人物のことがまったく頭になかったとは言えないのではないか

(13)

2. 4.  語り手というフィルター

このようにアイレスは無色透明の語り手ではない

特権階級に属し

その利害と価値観を共有する語 り手である

だからこそ

客観的に見れば違和感のあるアギアール夫妻の無頓着さも

フィデリアやサンタ

ピア男爵の利己主義的な行動も

中和され

無害になって読者に届くのである

考えてみれば

メモリアル

アイレス

に行動と意思を伴って登場する人物はすべて支配階級の 人間である

この小説には

農場主

コーヒーの仲買人

銀行家

判事と

コーヒー農業を成り立 たせるために必要な役者のほとんどが揃っているが

重要な役が欠けている

奴隷である

この小説 で奴隷は

主体性を伴って登場していない

つまり奴隷や奴隷制後に対し無関心だったのはアギアー ル夫妻ばかりではなく

アイレスとて同様だったのである

このようなことは

語り手とそれほど価値観が違わない人がこの小説を読んだ場合

読み過ごしてしま うだろう

しかし

語り手とは異なる立場に立ち

価値観も行動様式も異にする読者が読むと

彼らの 身勝手さと横暴さは突如として浮き上がってくる

語り手に逆らって読むことで

メモリアル

アイレス

に託されたメッセージは立ち上ってくるのである

このように特定の立場で偏った利害や価値観に縛られ た語り手に語らせることで

読者の属性に応じて多様な解釈を引き出す手法は

マシャードの文学では 初めてではなく

すでに

ドン

カズムッホ

において見られるものである35)

3.  人名と地名にひそむ「裏切り」

3. 1. 人名や地名から見えてくるコーヒー農業地帯の地理的広がり

これまで見てきたように一見遊惰な時が流れる静謐な小説に思える

メモリアル

アイレス

だが

そこにはさまざまな

批判のための兆候

36)がマシャードによって仕掛けられている

その兆候は

登場 人物の行動や語り手のプロフィールに留まらない

。 『

メモリアル

アイレス

を読んでいると

登場人 物の人名やところどころ言及されている地名にも

ヒントが隠されているように思えてならない

ブラジルのコーヒー農業は

先述したように

、 1830

年代から一気に広まっていったが

リオデジ ャネイロからは主に二方向に拡張していった

一つは

ヴァソウラスを中心としたヴァーリへ伸びて いく西ルートで

パライーバ

スウ川に当たった後は

川沿いを北西方向にパライーバ

スウ

ヴ ァレンサ

ヴァソウラス

バッハ

マンサ

ヘゼンジ

そしてサンパウロ側に入ってタウバテへと広がって いった

もう一つのルートは

北東部へ海岸沿いにカンポス

ゴイタカージスへと向かい

そこから 山岳地帯のカンタガーロやノーヴァ

フリブルゴにも広がった

メモリアル

アイレス

の登場人物の人名を見ていると

どうやら命名にはとくに後者の北東部の ルートが意識されているように思えてくる

このルート上にあるカンポス

ゴイタカージスは

後半部を 省略して

カンポス

と呼ばれることも多く

それはフィデリアの父の名前である

そのカンポスからパラ

(14)

イーバ川を上流へ行くと

サン

フィデーリスというコーヒーの積出港として発展した町がある

フィデーリ スと

登場人物の名前フィデリアはもちろん同根である37)

そしてさらに上っていくと

やはりコーヒー経 済に押されて発展したカルモという町もある

カンポス

( ・

ゴイタカージズ

)、

サン

フィデーリス

カ ルモ

すべてパライーバ川の沿岸域にあり

コーヒー農業で

19

世紀のブラジル経済を支えた町である

登場人物の名前を追うことで

この時代に栄えていた北東部のコーヒー農業地帯の地理的な広がりが 見えてくる

また地名の選定にも配慮があるだろう

サンタ

ピア男爵が農場を所有していたのは

パライーバ

スウという町である

パライーバ

スウは

ヴァソウラス

バッハ

マンサ

ヴァレンサ

ピライーと 並んで

1830

年代からコーヒー農業が栄えた町だが

ほかの町ではなくパライーバ

スウが選ばれた のは

やはりコーヒー農業を育み

ブラジルの帝政期を支えたパライーバ

スウ川の名前がそのまま 冠された町だからであろう

そしてパライーバ

スウは地理的にもちょうど北東部ルートと西ルートの中 間に位置する

この町を以てして

奴隷制を基盤とした

19

世紀の旧式のコーヒー農業が栄えた地帯 全域を代表していると考えられる38)

3. 2.  ノーヴァ・フリブルゴ:移民による奴隷労働代替実験の地

パライーバ

スウ以外に

登場人物に関係する場所として名が挙げられている地名にノーヴァ

フ リブルゴがある

ノーヴァ

フリブルゴは

カルモの出身地として設定され

その父親はスイス人で

そこで時計屋を営 んでいたとされている

単に地名を示すのみならず

わざわざ父親がスイス人の時計屋だったという詳 細までを特定したことにはなにか理由があるはずである

ノーヴァ

フリブルゴはたしかにその設定どおり

、 19

世紀初期にカンタガーロに作られたスイス移民の入植地で

ブラジルで初めて非ポルトガル系の人々 が移住した土地である

。 1818

5

月16日にジョアン

6

世が

スイス人入植地

サン

ジョアン

バチスタ

ノーヴァ

フリブルゴ

の創立に向けた王令に署名し

最初の移住者は

1819

年に到着している

カルモの父親の設定にはきっとその史実がふまえられていると考えられるが

それにしてもなぜそんなこと をする必要があったのか

イギリスは

、 1807

年に奴隷貿易法を定め

イギリス帝国全体で奴隷貿易を違法とした

これを機に 欧米で奴隷廃止運動が高まり

その影響はブラジルにも及んだ

実はノーヴァ

フリブルゴは

この機 運の中で

奴隷以外の代替労働力を模索する実験の場として設けられた移住地だったのである39)

つ まりいったんはブラジルでも

かなり早い時期に奴隷制廃止が検討され

その代替労働力として移民を 受け入れる新たな試みがなされていたわけである

ところが世界での急速なコーヒー需要の増加に押さ れ

パライーバ川流域では飛躍的にコーヒー農業が拡大する

このような情勢の中で奴隷制は廃止ど ころか

逆により強化されることとなった

ブラジルへ運ばれたアフリカ人奴隷はさらに増え

奴隷貿易

(15)

第二の奴隷制

40)と呼ばれるほど活発に繰り広げられ

イギリスの圧力をかわしながら

1850

年まで 続けられた

ピークの

1848

年には

6

万人の奴隷が荷揚げ0 0 0されたという41)

他方

奴隷労働力の代替として移住したスイス人はどうなったか

土地の条件がよくなく

多くの人 が農場を脱出し

ある記録によれば

42%の移住者が 、

経済が好調だったカンタガーロの町に移り住ん だという42)

ノーヴァ

フリブルゴという地名は

ブラジルが

19

世紀初めにも奴隷制廃止の議論を開始し

その代替労働力の措置までが開始されながら

結局は失敗に終わり

逆に奴隷制を基盤とする社会 が助長された史実を暗示しているのであろう

3. 3.  ノーヴァ・フリブルゴ男爵

そのカンタガーロはその後どうなったか

結局は

パライーバ川流域の他の町と同様に

、 「

コーヒー男 爵

と呼ばれる一握りの大農場主に牛耳られることになる

この意味でももうひとつ

わざわざノーヴァ

フリブルゴという地名がこの作品の中で引き合いに出されている理由があるように思われる

というのも

この地域には

コーヒー男爵の典型といってもよい人物がいたからである

それは

、 「

ノーヴァ

フリブルゴ男爵

ことアントニオ

クレメンチ

ピント

(1795-1869)、

アフリカから連 れてこられた人間を奴隷として搾取することで成り上がりながら

まさに奴隷の労働力の代替実験が失 敗に終わったスイス人移住地の名を爵位として与えられた農場主である

この皮肉な取り合わせにマシ ャードが気づかなかったはずはないだろう

そしてこの人物がカンタガーロ地域を支配する大農場主になるまでの経緯も

コーヒー男爵を絵に描 いたような典型的なものである

パライーバ川流域の歴史研究家のマリアーナ

ムアージによれば

パライーバ川流域の有力な大農場主らには共通項があるという

それはポルトガル出身で

金の採掘 による一獲千金目的でブラジルに渡来したものの結果が出ず

奴隷貿易や行商に転向して蓄財し

その富をセズマリア制により譲渡された土地でコーヒー農業に投資して成功した点である43)

まさに そのとおりの人生をアントニオ

クレメンチ

ピントは歩んだ

彼は

12

歳のときに

すでにブラジルに移 住していた親戚を頼って

ポルトガルから裸一貫で渡り

、 1811

年から

1830

年までの間に奴隷貿易に 携わり

財を築く44)

。 1827

年から

28

年のわずか

2

年間だけでも

1885

人もの奴隷をコーヒー農場に 送り込んだという45)

そして当時セルトンィス

マカクと呼ばれた地域46)

帝国政府からセズマリア 制により土地をもらい受けて金の採掘を行うが振るわず

コーヒー栽培に乗り換えると

たちまち出世し

大成功を収める

この小説では

コーヒーの仲買人をするポルトガル出身の父親を持ち

ブラジルのあ いだでアイデンティティの揺らぎを覚えながら

最後はポルトガルへ去ってしまうトリスタンをはじめとして

ポルトガルが存在感を放っている

ここには金やコーヒーに引きつけられてブラジルに渡り

富を築いたポ ルトガル移民への含みもあるのかもしれない47)

成功した農場主らの多くは

、 1850

年に奴隷貿易が禁止されると

それによって生まれた余剰資本を

(16)

投じて

生産から輸出に至るまで一連の流通に関わるプロセスを事業化し

単にコーヒーを生産するだ けの

fazendeiro (

農場主

から

、 fazendeiro-capitalista (

資本主義的農場主

になっている

アント ニオ

クレメンチ

ピントもその一人で

フリブルゴ

フィーリョス社を興し

金融業も手掛け

、 19

世 紀半ばの時点ですでに

20

ほどの農場を所有し

そのほとんどで三桁の数の奴隷を働かせるまでになっ ている48)

その筆頭に挙げられる農場の名前が

アイレスの妹の名前と共通するサンタ

ヒタ農場であ ることも注意を引く

そしてノーヴァ

フリブルゴ男爵も

サンタ

ピア男爵のように

奴隷制廃止直前に

1300

人の奴隷を自主解放している49)

コーヒー男爵らは

道路や橋や鉄道などの地域のインフラ整備にも貢献し

それと引き換えに爵位を 授与され

多くの家が

同族内に複数の爵位を持つコーヒー貴族を抱えていた

アントニオ

クレメンチ

ピントも1860年にカンタガーロ鉄道を敷設し

それまでの一連の地域貢献と併せて認められ

名誉男爵 号 Barão com Honras de Grandeza de Nova Friburgo を授与され

息子や孫も爵位を得ている50)

だが

単に多くのコーヒー男爵を代表するような経歴だけでは

マシャードがノーヴァ

フリブルゴ男爵 を選んだ理由としては十分でない

おそらく決定的だったのは

彼が

皇帝自身以上の富を築いた

51) とも言われるほどの富豪であったこと

そして所有する多くの不動産の中に

リオデジャネイロのカテッチ 地区に建つノーヴァ

フリブルゴ宮

(Palácio Nova Friburgo)」

があったからではないか

もともとはアン トニオ

クレメンチ

ピントのリオデジャネイロの住まいとして建てられたこの建物は

なんと共和政移行後 の

1897

年からは大統領官邸

(Palácio de Catete)

になっているのである52)

共和国大統領の官邸が

奴隷貿易と奴隷労働力を元手に築いた富で建てられたという事実を

マシャードはどう見ていたのだろう か

その建物は

、 1960

年まで官邸として使われ

現在は

共和政歴史博物館

(Museu Histórico da República )

として公開されている

3. 4.  カンタガーロ:裏切りの表象

実はスイス人の移住地ノーヴァ

フリブルゴが置かれたカンタガーロは

地名としては登場してはいな いが

マシャードは意外な形で小説に潜ませている

フィデリアに対しては

トリスタン以外にも心を寄せた男性がおり

その男性が親の病気で急遽故郷に 帰らなくてはならなくなったことがあった

後ろ髪引かれる思いで親元へ向かうその男性を見て

アイレス が想像力を膨らませる場面がある

男が旅立つ前

フィデリアに結婚を申し込む

するとフィデリアは断 わり

自分は結婚しないと伝える

もう一度

男性が決意は固いのかと訊くと

フィデリアはそのとおりだ とうなずく

それを見て男性はその場を立ち去る

フィデリアが後でその話を叔父にすると

叔父は

その男性を再婚相手として素晴らしいと勧める

それに対しフィデリアは

自分は結婚しないと断言する

アイレスは

フィデリアが結婚しないと言ったのは

その日

三度目

であったと書き

それにかこつけて

鶏が鳴く前に三度否認したと聖書に出てくるペドロの話53)を挿入している

参照

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