実業家の興味 : 日本人旅行者の見たイタリア (1)
著者 真銅 正宏
雑誌名 人文學
号 181
ページ 75‑96
発行年 2007‑11‑20
権利 同志社大学人文学会
URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000011304
実 業 家 の 興 味
││日本人旅行者の見たイタリア︵1︶││
真 銅 正 宏
大谷嘉兵衛
大谷嘉兵衛は︑全国茶業組合中央会議所の議長や会頭︑横浜商業会議所会頭などを歴任した︑日本の茶業界を一時
リードした人物である︒日本製茶株式会社や日本紅茶株式会社なども設立し︑貴族院議員にも選ばれている︒一八九
九年九月︑アメリカ合衆国で催された﹁万国商業大会﹂に日本を代表して出席するために横浜港を発ち︑引き続き欧
米各地を視察して回り︑翌一九〇〇年二月に横浜港へ帰着した︒﹃欧米漫遊日誌﹄︵大谷嘉兵衛︑一九〇〇年︶はこの
時の記録をまとめたものである︒イタリアには︑一八九九年一二月一二日にヴェニスに着き︑﹁ホテル・ローヤルダ
ニエル﹂に宿泊した︒漱石がヨーロッパを訪れる直前の時代である︒到着の翌日ヴェニスを見た後︑大谷はローマに
向かった︒以後の行程は﹃欧米漫遊日誌﹄によると次のとおりである︒
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実業家の興味
十二月十三日◎ヴェニスを一瞥して羅馬に向ふ
十二月十四日◎羅馬滞在
十二月十五日◎羅馬滞在
十二月十六日◎羅馬滞在午後ネープルスに向ふ
十二月十七日◎ネープルス滞在ポンペイを看る
十二月十八日◎ネープルス滞在午後ミラン直行の途に上る
十二月十九日◎美蘭を見てゼノアに入る
十二月二十日◎ゼノア滞在
一二月一七日にポンペイを訪れた際の記事には︑﹁午前八時︑ネープルス発車に搭じて九時十分ポンペイに着し直
にクーク会社の案内者を嚮導とし廃墟を看る﹂と書かれ︑トーマス・クック社のガイドを頼っていることがわかる︒
翌日︑ナポリで﹁ネープルス博物舘﹂を訪ね︑彫刻や絵画︑古代美術品およびポンペイ遺跡からの出土品を見て回っ
ている︒
彫刻物中の大作はアンギヤプライス作希臘古代の犠牲女を猛牛に蹂躙せしむるの大理石彫刻なり其他多神教時代
の人獣混合体の怪物を始め裸体像等一々枚挙するに勝たりポンペイ発掘品陳列区には種々珍奇なる器物︑粧飾貴
金属品少なからず中に男子に限り縦覧を許すの一区あり猥褻見るに忍びざるの絵画及彫刻物を置く又雑品中には 実業家の興味
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賭博用の骰子あり我邦のものと同一なるは奇なり要するに本舘は絵画彫刻を始め古代の珍品豊富なれば僅々の時
間を以て克く見尽すを能はざれば其大概を巡覧して舘を去り夫れより商品取引所内に至りネープルス商業会議所
を訪ふ
ここに︑実業家の訪問の典型例が見て取れる︒博物館に興味を示し︑一通りの見学は行うが︑やはり実業家とし
て︑また政治家でもあったことから︑﹁ネープルス商業会議所﹂訪問を主目的として果たすのである︒
また︑ミラノでもジェノバでもそれぞれの土地の﹁商業会議所﹂を訪れて︑その書記長にインタビューを試みてい
る︒
ミラノでは︑このインタビューの後︑﹁市内の大勢を巡察﹂している︒先ず﹁美蘭最勝最美の区たる王宮及ドウモ
即ちカセードラルの広場﹂に出て︑それから市内を一周し︑広場に戻り︑改めてドゥオーモを見た︒
ジェノバでは︑ここが交易の盛んな港湾都市であることを意識し︑まず港の様子を一覧し︑午後に商業会議所を訪
れている︒その後︑市街背後のリギ山に上り︑港の全貌を観察もしたのである︒
このように︑ある特定の目的をもってイタリアを眺めてみる時︑そこに観光地としての顔とは全く別の風貌が現れ
たであろうことは︑容易に推察される︒大谷は︑商工会議所の議員定数から﹁市府に等級あり最上市は議員定数を廿
一名となす即ちゼノア︑ミラン︑ネープルスの三大市は廿一名を有し最小の市は九名を置く﹂と書き︑この三市を列
挙している︒この視線はやはり特別といえよう︒実業家にとっては︑旅もまた﹁実業﹂であった︒
ところで︑大谷の旅行記には次のような興味深い記述が見える︒
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実業家の興味
伊国中に於て最も人気の悪しき地方はネープルスにして人に盗心あり性残忍を好む故に旅行者は戒て夜陰人なき
の裏街等は単身歩行すべからずとは或る案内記に云ふ所なり又聞く所によればシヽリー島と気脈を通ずる一種の
秘密結社ありて政治上に将た社会上に不平の輩相集りて徒党をなし人に危害を加へたることなきにあらず畢竟商
工業の振はざる結果偶々無頼の徒を生じたるに過ざることならん果して然らば此地方一般の良民に対して汚名を
負はすべき限に非ざるなり
ここには︑現在にも通じる旅行の情報についての特殊な性格が見て取れる︒後続の旅行者に用心を喚起するあま
り︑旅行案内は往々にして︑その土地について︑危険であるとの情報を過剰に流す︒これは︑悪い事例だけが特記さ
れるがために生じるそれぞれの土地のイメージの誇大化であり︑そのために旅行者は︑過敏になりすぎる場合が多々
ある︒大谷は︑このような旅行者一般のやや偏見に染まった視線からは自由だったようである︒おそらくこの土地に
おいて︑数多くの﹁良民﹂に出会えたこともその理由の一つであろう︒
山本博一
神戸で一九一一年に創業された輸出入国内卸売業山本博一商店の創業者山本博一は︑一九二〇年八月一三日にフラ
ンス郵船アマゾン号で日本を出発し︑欧米を周り︑一九二一年七月二〇日に帰朝した︒﹃欧米漫遊日誌﹄︵山本博一︑
一九二一年︶はその旅日誌である︒ 実業家の興味
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この書の﹁序﹂には︑﹁日常欧米と頻繁な取引をしてゐる我輩が倫敦がどんな所で︑漢堡がどちらを向いてゐるや
も知らんではと思つて︑﹂欧米旅行に出たことが書かれているが︑その一方で︑﹁元来我輩の欧米漫遊は商取引関係を
主としたものであるが︑其肝心の商取引に関しても何等の記事がなく︑︵略︶﹂と書かれ︑それが商取引の日誌ではな
く︑旅日記に過ぎないことも断られている︒もちろん︑謙辞であることを承知の上で︑日誌にその跡を探ってみた
い︒イタリア関係の目次は以下のとおりである︒
第八伊太利
ゼノア
ミラン
一寸羅馬を
ナポリ
再び羅馬
ベニス
なお︑これら目次については︑章の扉にはもう少し詳しい内容が加えられている︒
ゼノア││不規則な町││セメタリー││墓場見物││徹底せぬ肉無日││ミラン││基督磔刑の釘││オペラ
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実業家の興味
と柴田環││広告のビラに税金││公然と請求する給仕料││一寸羅馬を││カステロ・サンタンゼロ││コロ
ツセオ││ナポリ││ポンペイ││鰻が人を食う││博物舘││酔生夢死││再び羅馬││法王と皇帝││素敵
に大きいカラカラ浴場││ベニス││水の都にゴンドラ││
これだけみても︑商業都市として重要なジェノバとミラノとナポリが訪問先として重要であったことが想像され
る︒
一九二一年三月一日にニースからジェノバに向かった山本は︑﹁
Hotel M iramare
﹂に投宿した︒三月三日の記事に﹁杉村楚人冠氏の﹁半球周遊﹂の中に当ゼノアの事が書いてあつたが︑全く其の通りで如何にもや
ゝ !
こ !
し !
い !
町である﹂ !
とあり︑先人の旅行記が参照されていたことがわかる︒
三月五日にはミラノに向かい︑﹁メトロポール・ホテル﹂に宿泊した︒六日が日曜だったので︑﹁為す事も無く一日
名所見物に費した﹂と書き︑七日の日誌は︑﹁其処此処の取引先を訪問し俗用にて日を送る﹂︑八日は﹁前日同断﹂
と︑やはりこの旅行が取引先訪問を主目的とするものであったことが窺える︒九日になり︑﹁日中は俗用にて日を送
る﹂が︑夜はオペラを見に出かけている︒その案内人が振るっていた︒以下のとおりである︒
当地にオペラの研究に来て居る藤原某といふ青年が居る︑同氏は曾て伊庭孝氏などゝ一座になつて居たが︑一年
程前から当地で教師に就いて音楽︑唄歌ひなどを学び︑本年五六月頃倫敦で音楽会出演を機会にオペラ俳優とし
て立ち︑欧米を打つて廻る抱負を持つて居るとの事である 実業家の興味
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これは若き日の藤原義江のことであろう︒藤原義江記念館友の会編﹃藤原義江﹄︵藤原義江記念館︑二〇〇二年︶
所収の﹁藤原義江年譜﹂の一九二〇年の項には︑﹁三月︑浅草オペラに別れを告げ︑単身外遊︒﹂﹁五月︑イタリー︑
ミラノに落着く︒スカラ座をはじめオペラハウスは戦後の痛手未だ癒えず︑閉鎖のままに失望する︒﹂との記事が見
える︒山本が藤原に案内されたことも﹁目下世界一といはるる
“Scala”
座は普請中なので其次のへ行つた﹂﹃欧米巡遊日誌﹄と書かれている︒山本と会ったのは二二歳の頃である︒
ジェノバとミラノとの印象は︑三月一一日の記事によると︑以下のとおりであった︒
伊太利の第一の開港場たるゼノアといひ︑第一の商工業中心地たるミラノといひ︑見ぬ前は生馬の目を抜く敏活
さと繁激さが想像されてたが︑来て見れば何となく物足らぬ心地がする
これに対して︑ローマとナポリには︑最初から見物気分ででかけたようである︒当初は︑まずナポリを見て︑その
後ゆっくりローマを見物するつもりが︑列車が遅れ︑連絡が無く︑とりあえず先にローマを見たのが︑﹁一寸羅馬を﹂
という題になった︒
ナポリについては︑意外にも﹁此地と日本とは商業上に於ては何等の関係も無いやうである︑が見物する所は中々
多い︑﹂﹁折角ナポリに来たのだからと二三の取引先を訪問して見たが︑矢張り日本などゝ商売の出来る所では無い﹂
と書いている︒
近くのポンペイも訪れた︒その際には︑併せてナポリの考古学博物館のポンペイからの出土品についても記述して
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実業家の興味
いる︒これも多くの旅行記に見られるところであるが︑﹁中には失笑すやうなものもあるが其当時は余程風儀が廃頽
して居つたに相違ない﹂との感想を付すことも例の如くである︒
ナポリでは︑﹁
Excelsior
﹂で泊まった︒当時ヨーロッパの各地にあったホテルであり︑ローマのホテルについても︑ナポリの﹁エキスセルシアー・ホテル﹂から連絡してあったはずが︑行ってみると満室で︑仕方なしに﹁自動車
を雇つて羅馬中のホテルといふホテルを片ツ端から走り廻つた末︑漸く﹁
Regina Hotel
﹂で部屋を得るという体験もしている︒
三日間ローマに滞在した後︑三月一九日にヴェニスに移り︑﹁
Danieli
ホテル﹂に入った︒これは日本人が多く訪れたホテル・ダニエルのことであろう︒ここでも︑荷物が到着しないというアクシデントに見舞われ︑予定を変更して
しばらく滞在することとなった︒二〇日の記事は﹁為す事も無くゴンドラに乗つて其処此処を見物したが此記事も書
かずに置かう﹂︑二一日の日記は﹁為す事も無く日を送つた﹂と︑実に素っ気ない︒二二日︑待ちかねたように︑ウ
ィーンに向かったのである︒
石田美喜蔵
﹁安全索道商会専務取締役﹂という肩書が付された石田美喜蔵の﹃実業家の見たる現今之欧米﹄︵文翫堂︑一九二二
年︶は︑題名どおり︑正しく実業家の見た欧米の実情の記録である︒株式会社安全索道商会は︑一九一五年に大阪で
創業されたロープウェイやリフトを中心に扱う会社で︑後には一九七〇年の大阪万博の循環式ロープウェイや同年の 実業家の興味
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札幌オリンピックのロープウェイ︑同じく大阪万博の動く歩道などを設置したことで知られる︒現在は安全索道とい
う名となっている︒石田はその創業者で︑社長も務めた︒
この書のイタリア関係記事の目次は以下のとおりである︒イタリアを訪れたのは︑一九二〇年のことである︒
巴里よりトリノ迄
トリノより羅馬迄
羅馬見物
タイバー河
法王宮殿
王城内の美術館
王宮宝殿
聖ペテロ大伽藍
羅馬の古跡
コロシアム
凱旋門︑水道
古寺院
廃墟
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実業家の興味
クオーバヂス
墓穴
ナポリ市
屍市ポンペイ
ヴエシピヤス火山
安堵仁翁
下位先生
フロレンス市
ミラノ市
ベニシヤ︵ベニス︶の一
ベニシヤ︵ベニス︶の二
ベニシヤ︵ベニス︶の三
ミラノより倫敦へ
同書の﹁序﹂には︑﹁勿論商用でアチラへ参つたので実に九十四箇所の工場と百二十二箇所の会社商店を訪問視察
致しましたが営業上に関する事は一切茲には省きました﹂と書かれている︒それでも︑他の旅行記との印象はかなり
相違している︒ 実業家の興味
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石田のイタリア入りのルートは︑パリから一九二〇年の﹁十一月三日午後二時ゴーモンド駅より巴里羅馬間急行列
車に乗り﹂︑ローマに向かうという予定のものであった︒この急行列車は﹁一週二回双方より出発し︑現今では欧洲
大陸に於ける最良のものにして︑車内の設備万端到れり尽せり﹂のものであったが︑アルプス山中で鉄橋が雪のため
に落ち︑しかたなくトリノ行きの﹁豚箱より臭く汚ない伊太利の三等車﹂に乗り換えて入るという散々なものであっ
た︒﹁トリノホテル﹂に泊まり︑ジェノバを経て一一月五日の午前三時にローマの﹁ローヤルホテル﹂に入った石田
は︑イタリアの印象について︑日本人に似ていることを先ず第一に書き付けている︒
伊太利に入り俄かに目に立つた事は︑農家も︑商家も宮殿も皆な黄褐色である事と男女毛髪黒く︑身長は日本
人位で︑顔色も日本人に能く似て居り︑何となく心安く感じました︒︵略︶
伊太利へ来て日本に似た物事を沢山見ましたが︑其中て目に立つたのは
盛んに米食する事︑章魚や鰻を食ふ事︑男は短気な事︑女は威張らぬ事︑家は高けれども町は一体に汚ない
事︑殊に辻便所の汚ない事︑屋根の瓦に塀垣の工合︑道路の悪い事︑金持が尊大振る事︑美術心の在ること︑
商売に掛引のあること︑掏摸と小盗の多いこと︑電車や汽車に乗客を満員以上に詰め込むこと︑自働車の少な
いこと汽車は時間より遅れ勝のこと︑農業は小組織のことゝ︑桑を作る事︒
等日本に似たる事多々にして︑物の売り声︑喧嘩の口調等は日本とソツクリ相似たり︑其他楽書きを好く事︑
壁へベタ
! "
何処へ行つても︑帯の剣兵隊さんが撒いたよ様同本もと広告紙を貼る事似日て居りますが︑第一うに居ります︒
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実業家の興味
この後︑ローマを一通り見学し︑一一月六日の午後八時にローマを出発し︑翌日の深夜一時頃︑ナポリに着いた︒
﹁幸に案内人のア
ン !
ト !
ニ !
オ !
う君に﹁アントニオ﹂事を依頼していたよ前︑君まは迎ゐに来て居りしりた︑﹂とあるとお !
である︒﹁コンチネンタルホテル﹂に泊まった︒翌日の記事に﹁ホテルの前面にある古城砦に上りました之れは七百
年前に築かれたオーボ城と曰ふ廃砦です﹂とあるので︑ホテルがサンタ・ルチア港近くであることがわかる︒オーボ
城とは卵城で︑海に突き出た古城である︒
さて︑この﹁安堵仁翁﹂こと﹁アントニオ君﹂については︑わざわざ一節を設けて次のように記述している︒
アントニオ君は日本人の案内を専業とする人で年歯六十五六実に親切な︑金銭に淡泊な︑落ち着いた熱心な案
内者です︑今はナポリ市の名物男で大抵の日本人は此人の世話になります︑日本人の名刺も沢山所持し礼状も少
からず持つて居ります︑軽薄なるナポリ人の様でなく︑丁度日本の田舎の村長の風姿です︑
また﹁下位先生﹂とは︑教育家および口演童話家で︑イタリア通としても知られていた下位春吉を指す︒下位は東
京外国語大学伊太利語科に学んだ後︑イタリアのナポリ国立東洋語学校︵後のナポリ東洋大学︶の日本語教授として
招かれた人物である︒譬えば日本郵船のパンフレット﹃渡欧案内﹄︵日本郵船︑一九三一年改訂新版︒なお︑同書に
挟み込まれた﹁欧洲航路改正船客運賃表﹂には︑﹁昭和七年十月﹂の日付がある︶にも︑﹁此ポムペイ及びナポリ市内
と郊外の見物に就ては︑当代の伊太利通下位春吉氏が当社欧洲航路船客の便宜の為めに﹃死都ポムペイを訪ふ為め
に﹄と云ふパムフレツトを編述され︑当社で公刊に附したものがありますから︑詳細に亘つてはこれに依つて御覧を 実業家の興味
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願ひます︒﹂と書かれている︒石田は︑下位について︑﹁筑前の産で名を春吉と云ひ三十五六歳の紳士で伊太利語学者
で終世此地に留まり日伊親善のためにプロパカンダを行つて居る愛国者です︑伊太利亜の大新聞に執筆し︑月刊雑誌
等を発刊して日伊の為め盛んに気焔を吐いて居ります︑﹂と紹介している︒
また︑﹁ヴエシビヤス火山﹂については︑﹁ナポリの市外より﹃トーマスクツク社﹄の経営に係る登山鉄道がありま
す︑四哩は電鉄︑一哩はアプト式︑半哩はケーブルカーで︑︵略︶﹂という記事が見えるが︑﹁安全索道商会﹂の﹁専
務取締役﹂としては︑実に淡白な記述ではある︒
この後︑﹁フロレンス市﹂すなわちフィレンツェを経てミラノを訪れたが︑この﹁人口五十万伊太利亜王国第二の
大都で商工業及経済の中心地﹂と自らも紹介する都市については︑﹁市街は美麗で︑繁華で巴里のようです︑此市に
は﹃ドム﹄と云ふ世界第二の大伽藍があります︑商用の為め此処に三日間滞在しました︒﹂という記述があるのみで
ある︒本来の目的である﹁商用﹂がここでは優先されたのであろう︒ここにやはり︑実業家の旅行記の特徴が窺え
る︒
この後石田は︑ヴェニスを訪れ︑﹁ホテル・ダニエル﹂に滞在している︒彼が最後にまとめたイタリアの印象は︑
次のようなものであった︒
私共は羅馬にて極楽宮殿を見︑ポンペイにて二千年前の都市の屍を見︑ヴエシビヤスにて生けたる地獄を見︑
今又た此ベニシヤにて竜宮城を見ました︑之れで現世の天辺とドン底まで見ました︑私共の旅行は行詰りまし
た︑之れより引返して︑倫敦︑巴里へ戻りませう︒
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実業家の興味
こうして︑一一月一三日午後にミラノを出て︑シンプロン大トンネル経由で︑スイスに向かったのである︒
石津作次郎
石津作次郎は︑大阪の道修町で石津製薬という医薬品会社を営んでいた︒道修町といえば日本の薬業のメッカであ
る︒一九二四年七月二〇日︑急に思い立って渡欧を決意する︒﹃欧羅巴の旅﹄︵内外出版︑一九二五年︶の第一編の冒
頭﹁渡欧に際して﹂には︑箱崎丸船上で書かれた﹁果然渡欧の決心を堅め︑他日成長の上渡航留学せしむべき子供の
ために充分なる観察を試み︑一面業界方面には未聞の見学をせんと茲に箱崎丸にて出帆する︒﹂という文章が掲げら
れている︒
同書のイタリア記述の目次は以下のとおりである︒
第十二編伊太利の部
ベニス・ゴンドラ││サン・マルコ寺院││ベニス博物館││ドーゲス・パレース││レース工場││硝子
モザイツク工場││フロレンス││ピザの斜塔のローマンス││ド・オ・モ││ダンテ・ハウス││ウフイチ
ー博物館││ピツチー博物館││ボハリー公園││大理石モザイツク工場││サン・ロレンヅオ││ローマ
││パンテオン││フオルオ・ロマノ││パラチノ││ボルケーゼ博物館││ルクルス公園││サン・ヨハネ
寺院││イタリー国歌の合唱││サン・ポーロ寺院││チヤピタリー博物館││サン・マリア・マギオル寺院 実業家の興味
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││サン・ピエトル寺院││人骨堂││バチカノ宮殿││シスチン・チヤペルス││コルセオ││カラカラ浴
場││基督の足跡││カタコンブ││パラチノとフオルロマノ││イタリー料理││ローマ郊外の夕焼け││
ナポリ││名物男アントニオ││ナポリ水族館││ナポリ博物館││ビヱスビオ火山││ポンペイ││ポンペ
イ博物館││ローマのスポンデジオネ
このとおり︑日本人の旅行コースの典型をなぞっている︒
一九二五年一月三日︑オーストリアから列車でヴェニスに着き︑﹁ホテル・レギナ﹂を指定してゴンドラでホテル
に向かった︒見物に際しては︑同行のM氏とともに︑﹁サン︑マルコ寺院前の鳩の群れ︑カフヱーの前の見物人の群
衆を眺めつゝクツク社に這入る﹂と書かれるとおり︑これからクック社をずっと頼っている︒
ヴェニスの印象として︑﹁日本に似た点が多い﹂と書きつけている︒また︑このホテルは先にも書いたように日本
人客が多かったようで︑食堂で鉄道院の一団とも出会っている︒
一月五日には︑朝食後﹁トーマス・クツク社の事務所﹂を訪れ︑﹁クツク社の案内人と亜米利加人の夫婦と︑M氏
と私と四人で先づ近くのセント・マリースクエーアからカセドラルに這入つた︒﹂と書いているが︑これは現在と同
様の︑いわゆる現地ツアーであろう︒﹁今日は説明が英語で能く分るので︑大変都合が宜かつた︒﹂とも書いている︒
日本人にとっては︑トーマス・クック社は世界各地で頼りになるガイドだったようである︒
ヴェニスの名物である﹁レース工場﹂や﹁硝子モザイツク工場﹂なども見物しているが︑後者の見物の際にもクッ
ク社の案内を頼んでいる︒
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実業家の興味
一月六日︑フィレンツェに移った︒宿は﹁ホテル・イタリー﹂であった︒翌日︑ここでも︑﹁今日は一日でフロレ
ンスの見物を全部しなければならぬので非常に忙がしい︒取敢ずクツクの車に乗らうと云ふのでM君とクツク社に行
く︑一人六十リラー︵邦貨約六円六十銭︶である︒﹂と書き付けている︒
次にローマに移った︒宿は駅前の﹁ホテル・コンチネンタル﹂であった︒ここでも︑クック社で﹁三日間で百六十
リラー︵邦貨約十八円︶﹂の切符を買い︑見物をしてまわっている︒これでは︑全くのクック社のツアーである︒
次に向かったのはナポリで︑一月一一日の深夜に着き︑海岸通りの﹁サボイ・ホテル﹂に入った︒翌日︑ナポリの
名物男アントニオと出会っているが︑案内は頼まなかった︒
コンチネンタル・ホテルを出ようとすると︑一人の五十近い男が縮緬の袱紗に包んだ一冊のアルブムを出し
た︒其れが有名なアントニオ日本人専門の案内人で︑英語で通訳する男︑ナポリ見物に世話になつた沢山の人々
に︑色々と紀念のために揮毫して貰ふて居て︑本人の正真を証明して貰ふてる︒﹁是非御案内をさせて下さい!﹂
と云ふたが︑私は自分一人で行く主義だからと云ふて断つた︑がナポリに来る殆んど総ての日本人が︑この男を
案内人として見物すると云ふ有名なイタリー男︒
しかし︑ここでの﹁一人で行く主義﹂というのも︑クック社に頼り切りであることを考えれば︑アントニオに案内
を請うてもさほど差はなかったようにも思える︒
この後も︑例の如く︑クック社の小ツアーで﹁ビヱスビオ火山﹂やポンペイなどを見物し︑夜行列車でローマを発 実業家の興味
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ち︑一月一六日にニースに入った︒
赤松治部
赤松治部は︑貝島商業会社の重役で︑社命により︑一九二六年三月︑﹁ダラーラインのヱムプレス・オブ・クリー
ヴランド号﹂に乗って︑横浜から欧米視察の旅行に出た︒ダラーラインとはアメリカ合衆国の船会社である︒﹃外遊
漫筆﹄︵富文堂︑一九二七年︶は︑その際の見聞を集めたものである︒友人毛里保太郎の﹁序﹂には︑﹁大小の工場を
視ては︑其の長短を考覈し︑得失を検討して︑以て我が商工の資材に取り︑新古の戦場を弔しては︑治乱興亡の因て
来たる所以を探り︑以て我が政治の題材に供し︑観測の犀利︑着眼の奇警なる︑鑿々として其の肯綮を穿てり︑﹂と
書かれている︒
イタリアについては︑﹁伊太利所見﹂という章に書かれているが︑その目次は以下のとおりである︒
伊太利に入る││トリエスト市││トリエストよりヴエニスに至る間││水都ヴエニス││ヴエニス市に就て
││ヴエニスよりローマ︑ナポリへ││ナポリ市││ヴエスビヤス火山とポンペイ││ローマ市││市街の体裁
││ローマよりフロレンスへ││フロレンス││フロレンスに於けるモザイツクと大理石彫刻││フロレンス︑
ゼノア間││ゼノア市││ゼノア︑ミラン間││ミラン市││伊太利北部の湖水││伊太利の葡萄││伊太利の
松と杉││伊太利と宗教││伊太利の兵卒││伊太利の人口と国内旅行の危険││
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実業家の興味
ハンガリーのブタペスト発の夜行列車でイタリアに入った赤松は︑まずトリエストを見て︑ヴェニスに入った︒こ
こでは︑現在も土産物の代表的なものである︑﹁レース︑硝子細工︑モサイツク等繊細工業に富む﹂様子を視察して
いる︒ただし︑この観察は︑土産物目当ての一般旅行客とも共有されるものなので︑特別のものとも言えない︒
ヴェニスから南へ夜行列車で向かい︑先ずナポリを見物し︑ローマに入った︒これらを見た後の感想は以下のとお
りであった︒
何といふても美術の淵源︑古物保存は他の追随を許さない︒併し乞食多く︑亡国の気分を免れざるため︑長く
滞在する気にはなれない︒気候亦不良である︒
要するに伊太利は︑暑き国︑古き歴史の国︑古き宗教の国︑火山の国︑灰の国︑美術の国︑頽敗の国︑見物を
要する国︑而かも長く滞在するには気持良からぬ国である︒
このとおり︑かなり厳しい総合の仕方である︒
この後︑フィレンツェとジェノバを訪れ︑ミラノに到った︒ミラノについては︑﹁瑞西と相接す︒又それだけ伊太
利色が薄い︒フロレンスと同じく此国稀に見る風光の地である︒市中樹木多く公園亦美しい︒伊国第一の綺麗なる市
として推奨する︒﹂と絶賛している︒ローマに対する評と対照的である︒また︑次のような︑職業上の観察も忘れて
いない︒ 実業家の興味
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本市は工業上伊太利の重要都市である︒空中窒素︑機械類︑レーヨン等の工業の発達見るべきものが多い︒我
邦に於ても空中窒素の特許権を買収し︑出張員を派遣せる会社さへある︒
最後に﹁伊太利の人口と国内旅行の危険﹂という節を用意する︒
伊太利の旅は一人にては危険なりと伝へるものが多い︒田舎に入ると︑其の事実たるは勿論︑汽車中にて紙幣
入︑パスポートを瞬間に抜き取られたることを往々耳にした︒其ためか︑黒ネクタイ︑黒シヤツの兵卒及必ず二
人連の年若きナポレオン帽で帯剣し拳銃を持ちたる憲兵が警戒厳重に︑是等の取締に当つて居ることは︑戦時状
態を脱せざる感じもするが︑先づ適当なる措置である︒然し其警戒を我々旅行者に異様の眼を以て睨むことは︑
大なる見当違いである︒往々にして日本人を訊問し︑途中パスポートを取調ぶることは実に不可解である︒︵略︶
古く開けし国︑而かも欧洲に於て︑宗教上最古の歴史を有するに拘はらず︑実質に於て其効果の見るべきなく︑
却て退歩の状態にありと観察せらるる事は︑伊太利のために光栄ではなからう︒
この文章に見られるように︑赤松のイタリアへの視線は︑多分に負のイメージをもって染められていたようであ
る︒そこにはさまざまな要素の関与が窺える︒イタリアという国の︑第一次世界大戦以来の政治的な位置︑南北さま
ざまな都市の個性の相違︑過去と現在との文化の混在︑そして︑旅行者の個人的な体験などである︒おそらく赤松
は︑このような複雑で混淆的な国の様子を︑負のイメージでまとめあげたのであろう︒
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実業家の興味
この後赤松は︑スイスに向かっている︒
渡辺良助
渡辺良助の﹃周遊六万粁﹄︵東京開成館︑一九三七年︶の冒頭には︑﹁周遊六万粁︒その門出は︑忘れもしない昭和
四年七月四日︑夜の七時半であつた︒︵略︶旅行の目的は︑見聞を博く世界に求めると共に︑自分の関係してゐる出
版事業につき︑経営上の知識をば︑より豊かにすることにあつた︒﹂と書かれている︒
すなわち彼にも︑出版事業の経営上の知識を得るという明確な目的があった︒しかし︑イタリアにおいては︑この
目的よりも︑﹁見聞を博く世界に求める﹂ことの方が優先されたようである︒渡辺はイタリアには一九二九年九月二
二日に入った︒ルートは︑スイスのジュネーブからローヌ川の渓谷を東に向かい︑シンプロンのトンネルを通過し
て︑ミラノに着くというものであった︒同書はイタリアについて次の順で記述を続けている︒
未蘭とコモ湖︵九月二二日一覧︶
水都ヴェニス
ナポリと吉田御殿︵ホテル・ターミナス一泊︶
ヴェスヴィオ登山︵九月二五日︶
死都ポンペイ︵九月二五日一覧︶ 実業家の興味
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車掌と若夫婦
羅馬見物
!
︵ホテル・ローヤル二泊︶羅馬見物
"
ムッソリニ崇拝
出版事業という職業からか︑渡辺の記述は︑簡潔ながらも建築や美術などについてまんべんなく筆が費やされてい
る︒例えばミラノについては︑﹁市はこの国文芸の府で︑特に音楽が盛であり︑ファッシズムの発祥地とも思へぬ和
やかさを漂はせてゐる︒﹂と書き︑ドゥオーモやガレリア︑スカラ座を列挙している︒コモ湖における湖上遊覧飛行
については︑﹁料金一〇リラ﹂と資料的記述もある︒
次にヴェニスを訪れ︑﹁ホテル・ブリタニヤ﹂に宿泊している︒﹁サンマルコ寺﹂﹁鐘塔﹂﹁広場﹂の列挙の後に書か
れる次の文章などは︑その簡にして要を得た表現の代表的なものといえよう︒
ドージ寺に隣る昔の大統領の宮殿では︑貞操帯などの珍品が見られた︒宮殿と殿後の牢獄とを繋ぐ橋が︑即ち名高い
カンニング﹁溜息の橋﹂である︒土産物屋の多いのと︑その狡猾な点なども︑市の特色︵?︶に数へられる︒
ヴェニスからナポリに移り︑ここでも忙しく観光している︒﹁ヴェスヴィオ登山﹂の後︑ポンペイを訪れ︑ローマ
に向かい︑﹁ホテル・ローヤル﹂に二泊して︑ここでも実に精力的に見学している︒
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実業家の興味
九月二七日︑ローマからフランスのモナコへ向かった︒渡辺の行程は︑現在にも通じる︑イタリア観光ツアーの一
つの典型を示している︒
ところで︑この時期の記述の特徴として︑やはりムッソリーニへの言及が特筆される︒渡辺も例にもれず︑イタリ
ア国民の熱狂的なムッソリーニ崇拝に驚いている︒未だムッソリーニが英雄であった時代である︒渡辺は︑﹁本屋な
どは︑書籍︑絵葉書︑額面︑塑像等々︑氏に関する商品で店を埋め︑ムッソリニ様々といつた有様︒その他︑ラヂオ
に︑新聞紙に︑サロンの茶話に︑氏のニュースの出ないことがない︒﹂と書いているが︑ここには︑彼のジャーナリ
スト的な視線が少し顔を出しているとも見ることが出来よう︒
渡辺は﹁はしがき﹂において﹁欧米紀行などといふものは︑﹁読まない書物﹂と︑てんから世間の相場がきまつて
ゐる︒﹂と述べていた︒出版業に関わるものの言として︑これは重要である︒この時代において既に︑その言説は︑
類型化していたものと考えられる︒しかし︑実業家たちの視線は︑観光目的に止まらず︑やはりそれぞれの個性を担
保していたために︑少なくとも関係者にとっては︑興味深い著であったことが窺える︒
あらゆる興味は︑読者が自らの既知の部分に呼応させなければ︑発動されないものである︒当時多くの読者が未体
験であった欧州旅行の記などは︑やはりこの読書の入り口が重要であろう︒その意味で︑実業家の興味の視線は︑読
者の読書における共鳴のシステムを例示して︑旅行記の性格の一面を明らかにしてくれるものといえよう︒ 実業家の興味
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