九州大学学術情報リポジトリ
Kyushu University Institutional Repository
On the Situation in the Si-shuan Region at the Stage of the Wu-hu Shi-liu-guo 五胡十六国 and the Nan-bei-chao age Seen by centering on the Race Problem
川本, 芳昭
https://doi.org/10.15017/1866570
出版情報:史淵. 136, pp.1-25, 1999-03-10. Faculty of Literature, Kyushu University バージョン:
権利関係:
民族問題を中心としてみた
五胡十六国南北朝期段階における四川地域の状況について
− I
BF
本 芳 昭
は じ め に
筆者は先に発表した拙稿において︑五胡十六国南北朝に先立つ貌晋段階における四川地域の諸民族の状況につ いて考察したが︑その際︑五胡十六国時代になると四川への猿族の大量な流入が生じ︑それ以前と以後との聞に 断層がみられることを指摘した︒本稿は︑それが知何なる変化を四川地域に生ぜしめたかを具体的史料に拠りつ つ明 らか にし て行 くこ とを 目的 とし てい る︒ さて︑趨宋の郭允踊﹃萄鑑﹄巻四に引く︑李膚﹁益州記﹂に︑
李雄 時︑ 嘗遣 李寿 朱攻 提︑ 遂有 南中 之地
︒寿 既纂 位︵ 在住 ニ三
八1
三四
三︶
︑以
郊旬
未賞
︑都
巴空
虚︑
乃徒
傍郡
戸三
千︑ 以上 貫成 都︒ 文従 枠桐 引猿 入萄 境︑ 自象 山以 尽北 為積 居︒ 萄本 無源
︒至 是始 出︒ 巴西
︑渠 川︑ 広漢
︑陽
︑安 資中︑健為︑梓撞︑布在山ハ合︑十齢万家︒猿遂挨山傍谷︑興土人参居︒参居者︑頗輸租賦︒在深山者不為編 戸︒ 種類 滋蔓
︑保 拠岩 盤︑ 林依 履険
︑若 履平 地︒ 性文 無知
︑殆 同禽 獣︒ 諸夷 之中
︑︵
?最
︶難 以道 義招 懐也
︒
民族
問題
を中
心と
して
みた
胡五
十六
国南
北朝
期段
階に
おけ
四る
川地
域の
状況
につ
いて
民族問題を中心としてみた五胡十六国南北朝期段階における四川地域の状況について とある︒右に拠れば︑五胡十六国の一である成漢の末に十余万家に及ぶ猿族が﹁象山﹂以北の地に徒民されたこ とが わか る︒ この
﹁象 山﹂
が現
在の 如何 なる 地に 比定 され
るの
か明 らか でな いが
︑右 に﹁
巴西
﹂︑
﹁渠 川﹂
︑﹁ 広漠
﹂︑
﹁陽 安﹂
︑﹁ 資中
﹂︑
﹁健 為﹂
︑﹁
梓撞
﹂な どの 地名 が記 され
てい
るこ とか ら︑ 猿の 大体 の分 布を おさ える こと はで き る︒西晋時代の郡県の配置に拠れば︑巴西は現在の嘉陵江︑巴河︑渠江の流域︑四川東北の山地地帯にあたる︒
広漢は四川の中央部︑成都の東方︑遂寧︑射洪︑塩亭を含む地域︑浩江中下流域︑梓撞河下流域にあたる︒資中 は︑四川の中央部︑浩江の中流︑成都の東南にあった︒樺為は︑四川の中央︑眠江︑浩江の中流にはさまれた平
野部︑成都の南方︑現在の眉山︑楽山を含む地域にあたる︒梓撞は浩江︑梓撞河上流の山地地帯にあたる︒なお︑
﹁渠 川﹂
︑﹁ 陽安
﹂が 現在 の如 何な る地 に比
定さ
れる のか は定 かで ない
︒﹁ 渠川
﹂が
﹁渠 州﹂ の誤 記と
すれ
ば︑ それ は四 川東 北の 渠江 中流
︑渠 県あ
たり
と比 定さ れる
︒ つま り︑
﹁巴 西︑ 渠川
︑広 漢︑ 陽安
︑資
中︑ 健為
︑梓 潰﹂ の地 は四 川の 大半 を包 含す るこ とに
なる
が︑ とす れば
︑
﹁自 象山 以北 尽為 猿居
﹂と みえ る﹁ 象山
﹂は 峨眉 山を 指す と考
えら
れ︑ 右の 記事 はこ の時 の猿 の流 入に よっ て︑ その﹁象山﹂以北の四川の山谷が占拠される事態が生じたことを伝えていることになる︒
また︑晋書巻二二李勢載記には︑右の益州記と同様の事柄を伝えて︑
初︑萄土無猿︒至此︑始従山而出︒北至慢為︑梓撞︑布在山谷︑十齢万落︒不可禁制︑大為百姓之患︒
とあ り︑ 資治 通鑑 巻九
七︑
晋紀 一九
︑穆 帝永 和二 年︵ 三四 六︶ 冬の 条に は︑
︵李︶勢騎淫︑・・・︒由是中外離心︒萄土先無獄︒至是始従山出︒自巴西至健為︑梓撞︑布満山谷十齢万
落︒不可禁制︑大為民患︒加以飢謹︑四境之内︑遂至粛僚︒
とあり︑資治通鑑巻一四六︑梁紀二︑武帝天監五年︵五
O六
︶十
一月
の条
には
︑ 初︑漢帰義侯︵李︶勢之末︑草猿始出︒北自漢中︑南至耳︑窄︑布満山谷︒勢既亡︑萄民多東徒︒山谷空地
皆為 積所 拠︒ とあ り︑
﹁不 可禁 制︑ 大為 百姓 之患
﹂︑
﹁四 境之 内︑ 至遂 粛僚
﹂︑
﹁山 谷空 地皆 為猿 所拠
﹂と する 記述 がみ える
︑が こ のことはこの猿の移動が当時の四川に極めて甚大な影響を及ぼしたことを伝えているとされよう︒さらに︑右の 資治通鑑︑梁武帝天監五年の条の記事は﹁北自漢中︑南至耳︑窄︑布満山谷︒勢既亡︑萄民多東徒︒山谷空地皆 為積 所拠
﹂︒ と伝 え︑ その 移動 領域 が前 述の 益州 記な どに みえ る範 囲を こえ
︑漢 中や 耳︑ 窄の
︑地 即ち 北は 現在 の 陳西省南鄭あたり︑南は四川省の西南・西昌あたりにまで及ぶものであったことを伝えているのである︒猿がこ の領 域に 成漢 末の 徒民 段階 にお いて 既に 広が って たい のか 否か は定 かで ない が︑ 周書 巻四 九猿 伝に
︑ 猿者
︑蓋 南蛮 之別 種也
︒自 漢中 達子 珂窄 川調 之問
︑在 所皆 有之
︒ とあるように︑猿の分布が先の﹁巴西︑渠川︑広漢︑陽安︑資中︑健為︑梓撞﹂などの地域より広い範囲に及ぶ こと を伝 えた 史料 は他 にも 存在 する
︒例 ばえ
︑南 斉書 巻一 五州 郡志
︑益 州の 条に
︑越 嵩猿 郡︵ 西昌 付近
︶︑ 沈禦 猿 郡︵ 峨眉 山西 の漢 源付 近︶
︑東 宕渠 猿郡
︵合 川付 近︶
︶な どの 郡名 がみ るえ こと など もそ うし たこ とを 示し てい る とい えよ う︒ つま り︑ 成漢 末の 猿の 動移
︑萄 民︵ 漢族
︶の 東徒
︵﹁ 勢既 亡︑ 萄民 多東 徒︒ 山谷 地空 皆為 猿所 拠︒
﹂前 掲資 治通 鑑巻一四六︑梁武帝天監五年条︶をへて猿族が四川地域の極めて広い範囲に拡大︑分布したことがわかるのであ るが
︑こ のこ とは 親︑ 書巻 一
O
一蛮 伝に
︑五 胡十 国六 時代 にな って
︑蛮 が中 の国 混乱 に乗 じて その 分布 領域 を拡 大し
︑洛 陽の 南辺 にま で追 った こと を伝 てえ
︑ 在江 准之 問︑ 依託 険阻
︑部 落滋 蔓︑ 布於 数州
︑東 連寿 春︑ 西通 上洛
︑北 接汝
︑頴 往往 有罵
︒其 於貌 氏之 時︑ 不甚 患為
︑至 晋之 末︑ 梢以 繁昌 漸︑ 為冠 暴失
︒自 劉石 乱後
︑諸 蛮無 所忌 揮︑ 故其 族類
︑漸 北得 遷︑ 陸揮 以南
︑ 満於 山谷
︑宛 洛粛 僚︑ 略為 櫨丘 実︒ 民族 問題 を中 心と して たみ 五胡 十六 園南 北朝 期段 階に けお る四 川地 域の 状況 につ いて
民族 問題
を中
心と
して
みた
五胡
十六
国南
北朝
期段
階に
おけ
る四
川地
域の
状況
につ
いて
四 とあるのと相似た南方非漢族の拡大現象が同時代の四川の地にあっても生じたことを示しているとされよう︒
このような状況にあった四川の地は︑成漢が東晋の将︑桓温の討伐を受け誠亡してから東晋の領有するところ となり︑さらに諜縦の支配をへて︑劉宋以後︑梁まで南朝の領域となり︑その後︑北朝の領有するところとなる が︑ではその聞における四川に対する各王朝の支配はどの様なものだったのであろうか︒当該時代の猿について は劉琳氏の﹁僚人入萄考﹂と題する高論がある︒しかし︑氏の論には︑劉宋︑南斉︑梁といった各時代ごとの王 朝支配の実態︑及びその変遷如何といった視点はみられない︒よって以下の考察では︑この点に視点を定めなが ら︑劉宋︑南斉︑梁︑及びその後の北朝諸朝の支配の実態について時代の順に考察して行くことにする︒
南 朝 期 の
四
J l l
宋書巻三八州郡志︑益州の条によれば︑宋時代の益州は萄郡以下二十九の郡と百二十二の県を領していたが︑
その属郡の一︑越嶺郡について︑宋書巻八七粛恵開伝に︑粛恵聞について︑
起為持節督青翼二州諸軍事輔国将軍青翼二州刺史︒不行︒改督益寧二州刺史︑持節将軍如故︒恵開素有大志︒
至罰︑欲広樹経略︑善於述事︑対賓僚及士人説︑収伴桐越嵩︑以為内地︑緩討蛮撲︑闘地増租︒聞其言者︑
以為大功可立︒太宗即位::−
とあり︑梓何︑越嵩を﹁内地﹂ではなく﹁蛮濃﹂の地としている︒宋書州郡志に拠れば︑越嶺は益州の属郡で︑
その領県は八︑戸数一三四九であったが︵鮮桐は当時寧州の属郡であり︑領県六︑戸数一九七
O
であったてこのことは︑州郡志には安定した郡県が置かれていたように記されているが︑当時の越嵩郡の実態が︑国家の把握の 殆ど 及ば ない
﹁外
地﹂
︑﹁ 蛮地
﹂で あっ たこ とを を示 して いる とい える
であ
ろう
︒ 当該時代の越嵩郡は四川西南の辺境地帯であり︑こうした状況にあったとしても︑ある意味では当然ともいう
べきかもしれないが︑これと相似た状況は益州内の他の地域にもみられるのである︒例えば︑元和郡県図志巻三 一︑ 剣南 道上
︑簡 州の 条に
︑ 再貢梁州之域︑秦為萄郡地︒漢武帝分置構為郡︒今州即健為郡之牛稗県也︒李雄拠覇︑夷糠内侵︒因葱荒廃︒
南斉 於此 置牛 騨成
︒陪 仁寿 三年
︵六 O三
︶︑ 於此 置簡 州︒ とあ
︒る
︵以 下の 記述 のお いて 考察 の対 象と する 六朝 から 唐宋 にか けて の四 川の 地名 につ てい は後 掲付 図参 照︒
︶ 唐時代の簡州の州治は︑現在の成都の東南六
O
加の簡
︵陽 当時 の名 称は 陽安
︶で あっ た︒ 宋書 の州 郡志 に拠 れば
︑ 牛碑は︑成都県と同じく益州の州治が置かれた萄郡の属県としてその名がみえる︒右の史料は︑その地に南斉に なって牛韓成が置かれ︑惰の仁寿三年になって簡州の設置をみたということを伝えているが︑猿との関係でその 意味するところを考えると︑右は牛稗成設置以前のこの地が全くの﹁夷猿﹂の地であったことを示しているとさ れよう︒また︑元和郡県補志巻四︑山南道︑渠州の条に︑
案再貢梁州之域︒・・・東晋末︑為蛮猿所侵︒地因荒廃︒・・・値李寿乱︑復為諸猿所侵︒郡県復廃︒至梁 普通 三年
︵五 二二
︑︶ 始子 漢旧 県西 南七 十里
︑置 宕北 渠郡
︒大 同三 年︵ 五三 七︶
︑於 郡治
︑置 渠州
︒ とある︒唐代の渠州は四川の東部︑渠江左岸の地に展開する山地地帯︑現在の渠︑広安︑鄭水︑大竹県を含む地 域であるが︑右の史料は東晋末からその地が糠によって占拠され︑梁の時代になって北宕渠郡︑渠州の設置をみ たことを伝えているのである︒つまり︑劉宋時代のこの地は郡県の設置をみない地域となっていた訳である︒ま た︑ 輿地 紀勝 巻一 四六
︑嘉 定府 の条 に︑ 晋時為夷猿所侵︒︵原注此拠元和郡県士山︒大抵韓為諸郡之地︑為夷猿所侵︒至梁招撫之︒後其地始再帰王化
耳 ︒ ︶
とある︒趨宋時代の嘉定府は現在の四川西南︑楽山市を中心とした地域である︒南朝における健為郡の治所は現
民族
題問
を中
心と
して
みた
五胡
十六
国南
北朝
期段
階に
おけ
る四
川地
域の
状況
につ
いて
五
民族問題を中心としてみた五胡十六国南北朝期段階における四川地域の状況について
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制州 五箇all!ll
書︑由太由に噂・道代民自酉崎県も
商各都
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時由申啓は庖州掠名峰
在の四川南部︑宜賓市にあった︒ここにみえる﹁健為諸郡之地﹂の指すところは暖昧であるが︑漢代の健為郡が︑
楽山市︑宜賓市という眠江流域の他にその東︑浩江流域の櫨州市︑内江︑資陽を含む地域︑宜賓市︑櫨州市の南 方に展開する山地地帯から雲南昭通までをも包含しており︑それが貌晋の時代になると髄為︑江陽︑朱提の三郡 に分割されていることをふまえると︑ほぼ漢代の犠為郡の地を指していると考えて大過ないであろう︒とすれば 右の輿地紀勝の記事は︑元和郡県志にみえる諸記事を総括しつつ︵その個別の史料については後論で考察する︶︑
これらの地域が梁になって始めて王化に帰したとしているのである︒つまり︑それより前における該地域は郡県 支配の及ばない夷猿の占拠する地となっていたわけである︒
また︑元和郡県図志巻三一︑剣南道上︑部州臨耳県の条に︑
本漢 県也
︒属 萄郡 晋︒ 末李 雄乱 後︑ 為猿 所侵
︒後 貌廃 帝二 年︵ 五五 二︶ 定萄 復︑ 於旧 域置 臨珂 県︒ 何置 臨部 郡︒ 陪開 皇三 年︵ 五八 三︶ 罷郡
︑以 県属 耳州
︒ とある︒耳州臨邦県は成都の西南西六
OM
の邦陳であるが︑右は漢の時代︑覇郡に属していたこの地が︑西晋末 の李雄の乱以後︑猿の侵すところとなり︑西貌の廃帝二年になって︑親の支配下に入ったことを伝えている︒この ことはこの地が貌の領有に帰す以前︑猿の支配するところとなっていたことを推定せしめる︒また︑新唐書巻四 二地 理志
︑剣 南道
︑真 州昭 徳郡 の条 に︑ 県四︒真符:::︒難川︵原注中下︒先天元年析翼水県地︑開生猿置︒本隷悉州︑天宝元年隷翼州︶︒昭徳
︵原注下︒本識臼︒顕慶元年︑開生猿置︑隷悉州︒天宝元年︑隷翼州︶︒
とある︒真州は成都の北北西約一八
OM
︑現在の阿胡戴族自治州に比定される︒すなわちこの地は西晋時代の波 山郡の地であるが︑右はそこに唐時代になっても﹁生﹂猿が存続していたことを伝えている︒
以上︑劉宋以後の時代の若干の史料を挙げて︑四川における猿の分布について概観したが︑これらのことは南
民族
問題
を中
心と
して
みた
胡五
十六
園南
北朝
期段
階に
おけ
る四
川地
域の
状況
につ
いて
七
民族問題を中心としてみた五胡十六国南北朝期段階における四川地域の状況について
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朝全般を通じて四川には猿が広範に存在し︑その居住地が郡県支配の及ばない王朝の支配外にあったことを示し ている︒つまり︑本節冒頭で宋書粛恵開伝の記事を挙げ︑当時の越嵩︑牌桐の地が王朝の支配外の地であったこ とを述べたが︑当該時代にあってはこうした地域に止まらず︑四川の全域にわたって猿による占拠状態が生じて おり︑当時の王朝による四川地域に対する郡県支配は︑宋書州郡志などが益州の属郡県として萄郡以下二十九の 郡と
百二
十二 の県 名を 整然 と掲 げ︑ 恰も そこ に王 朝の 支配 が末 端に まで 及ん だか の如 き記
述を
展開 して いる が︑ 実際には各拠点に対する支配に止まっており︑面的な支配の貫徹をなしえない極めて不安定なものであったと考 えら れる ので ある
︒
︵ 一 ︶ 劉宋 時代 の四 川 では︑宋時代において猿の支配する地域に対する郡県支配回復を企図した動きは全く存在しなかったのであろ うか
︒い
ま︑ この 点に つい て考 察し てみ よう
︒ 梁益二州土境豊富︑前後刺史︑莫不営衆蓄︒多者致万金︒所携賓僚︑並京邑貧士︑出為郡県︑皆以荷得自 資
︒
︵ 宋 書 巻 八 一 劉 秀 之 伝
︶
︵宋
︶明 帝擢
︵謙
︶為 明威 将軍
︑巴
束︑
建平 二郡 太守
︒・
・・ 至郡
︑布 恩恵 之化
︑蛮 猿懐 之︒
︵梁 書巻 五三 孫謙 伝︶ 巴州︒高貢梁州之域︒・・・李寿時有軍猿十齢万︑従南越入覇︑散居山谷︒此地遂為獄所有︒宋置帰化水 北 二 県
︒
︵ 元 和 郡 県 図 志 閥 巻 逸 文 巻 一
︑ 巴 州 条
︶ 案再貢梁州之域︑・・・地後至李特孫寿時有章旗十齢万︑従南越入萄漢問︑散居山ハ全因斯流布︑遂為所
拠︒歴代輯腰︑不置郡県︒至宋乃於巴嶺南置帰化郡︒斉梁因之︒︵元和郡県補志巻五山南道︑巴州条︶ 4 3 2 1
按四夷県道記云︑李特孫寿時有郡猿十鯨万︑従南越入萄漢問︑散居山谷︑因流布在此地︒後遂為積所拠︒
歴代輯腰︑不置郡県︒至宋乃於萄嶺南置帰化北水二県︒以領猿戸︒帰化郡即今理是也︒斉因之︑梁置帰化 木 門 二 郡
︒
︵ 太 平 嚢 字 記 巻 二 ニ 九
︑ 山 南 西 道 七
︑ 巴 州 条
︶ 案本 漢宕 渠県
︵現 達県 西南
︶地
︒宋 末子
此置
帰化 郡︑ 以撫 猿戸
︒梁 普通 六年
︵五 二五
︶於
郡治 置曾 口県
︒
︵元
和郡 県補 志巻 五︑ 山南 道︑ 巴州 曾口 県条
︶
曾口県︑本漢宕渠県地︒宋末子此置帰化郡︑以撫猿戸︒梁普通六年於郡理置曾口県︒
︵太 平賓 宇記 巻二 ニ九
︑巴 州曾 口県 条︶ 曾口県︑本漢宕渠県地︒宋末於此置帰化郡︑以撫猿戸︒無属県︒梁普通六年︑於郡置曾口県︒帰仁県︑後 為 猿 所 接
︒ 宋 置 平 州
︵ 県 名
︶
︒
︵ 元 和 郡 県 図 志 閥 巻 逸 文 巻 一
︑ 巴 州 条
︶ 以上は︑先に引用した若干の史料を除けば︑筆者が見出し得た宋時代における猿関係記事の全てである︒ーに みえる﹁梁益二州﹂のうち︑宋時代の梁州の属郡は漢中郡以下の十九郡︑益州は萄郡以下の二十九郡であるが︑
この史料は︑当時の嶺南などにもみられたのと同様の現象︑即ち官僚による不法な蓄財がこの地で生じていたの を伝えている︒この地域に猿が多数存在したことについては先に述べたが︑その猿とこの蓄財とがどの様に関連 していたのかということを窺わせるものとして︑北史巻九五猿伝に︑宋より後の時代のこととして︑
︵糠︶与夏人参居者︑頗輸租賦︒在深山者︑伺不為編戸︒︵粛街の︶梁益二州︑歳伐獄︑神潤公私︑頗籍為 利︒・・・及周文平梁益之後︑令在所撫慰︑其与華人雑居者︑亦頗従賦役︒然天性暴乱︑旋致擾動︒毎歳命 随近 州鎮
︑出 平討 之︒ 獲其 生口
︑以 充賎 隷︒ 謂之 圧旗 罵︒ 後有 商旅 往来 者︑ 亦資 以為 貨︒ 公卿
達子
人庶 之家
︑
有猿
口多
実︒
とある史料を挙げることが出来る︒つまり︑こうしたことが宋より後の時代と同様︑宋時代の梁益の地にも生じ
5 7 6
8
民族問題を中心としてみた五胡十六国南北朝期段階における四川地域の状況について
九
民族問題を中心としてみた五胡十六国南北朝期段階における四川地域の状況について
。
てい たと 考え て大 筋を す逸 るこ とは ない であ ろう
︒
2
は現在 の三 峡地 域で ある 四川 省奉 節県
︑紙 一山 県地 域の 明帝 の頃 にお ける の猿 招撫 を伝 えた もの であ る︒
3
以下の史料は各史料に若干の出入が見られ︑確定しがたい点があるが︑おおよそ四川東北の地︑現在の南江︑通江の合流する平昌県あたりの猿を撫して帰化郡︵県︶が設置され︑
それが斉梁にかけて拡充されていったことを伝えている︒
ところで︑右の史料を通観すると︑それらが四川東北の所謂巴地との関連で見出だされることに気づく︒これ が単なる史料の偏在に起因するものであるのか否かは︑さらに検討を要する課題であるが︑後述するように︑こ の地には梁時代以降︑集中的に郡県の設置がみられるようになる︒このことを踏まえると︑南朝における掠の招 撫︑鎮圧を通じての郡県設置がこの地域から出発したことが推定される︒一方︑後の時代と比較して︵南斉は除 く︶宋時代の猿関係史料は先にみたように少ないが︑このことをふまえると︑この時代には未だ四川地域への面 的支 配の 貫徹 を目 指し た王 朝側 かり する 動き は強 くな って はい なか たっ こと も想 定さ れて くる ので ある
︒
,,......
'‑./
南斉時代の四川 南斉時代の猿について伝えた史料は︑先に宋代の史料
4
︵﹁
章旗
十齢
万︑
従南
越入
萄漢
︑問
散居
山谷
︑因
斯流
布︑
遂為所拠︒歴代罵腰︑不置郡県︒至宋乃於巴嶺南置帰化郡︒斉梁因之︒﹂︶のようにその前後の時代の流れのなか で言及されたものを除けば︑極めて少ない︒南斉書巻二六陳顕達伝に︑陳顕達が益州刺史となったときのことと
して
益 ︑ 部山 険︑ 不多 賓服
︒大 度村 猿︑ 前後 刺史 不能 制︒
︵益 州刺 史︶ 顕達 遣使 責其 租賊
︒ とあ り︑ 元和 郡県 図志 巻三 一︑ 剣南 上道
︑簡 州の 条に
︑ 再貢梁州之域︑秦為罰郡地︒漢武帝分置健為郡︒今州即健為郡之牛韓県也︒李雄拠萄︑夷猿内侵︒因蕊荒廃︒
南斉於此置牛碑成︒陪仁寿三年︵六O
三︶
︑於
此置
簡州
︒
安県
︒
とあり︑南斉書巻一五州郡志︑益州の条に︑東右渠猿郡︑越嵩掠郡︑沈翠猿郡︑甘松猿郡︑始平掠郡などの名が
みえる事例などがそのわずかな例といえる︒このうちの陳顕達伝にみえる朕は本来︑蛮が臆罪のために国家にさ
しだした貨であったが︑この時期には陳顕達伝の記事に﹁租朕﹂とみえるように一定の税としての性格をもつよ
うになってきていた︒この点についてはかつて別稿で考察した︒大度村が現在の四川のいかなる地点に比定され
るのかは明らかでない︒また︑右の元和郡県図志の史料は︑成都を治所とする益州にその南東において隣接する
唐代の簡州のことを述べたものであるが︑これによれば︑南斉のとき︑牛韓︵現簡陽県︶にまず成が置かれ︑そ
の後州県の設置をみたことがわかる︒こうしたまず成を設置し︑その支配をへてのちに州県の設置をみることは︑
後の時代にもみられるパターンである︵他の例は後述︶︒また︑南斉書州郡志にみえる東宕渠猿郡は現在の四川西
部中央の合川あたりに︑越嵩糠郡は現在の四川西南の西昌市に︑沈察猿郡は峨眉山の西方︑現在の漢源あたりに︑
始平
積郡 は成 都の 東北 一
OO
畑︑浩江中流︑巴西地域の現在の三台あたりに比定される︒甘松猿郡は定かではないが︑四川北部︑西晋時代の波山郡あたりに置かれたものと想定される︒南斉書州郡志にみえる南斉支配下の各
郡にはその属県の名称が記載されているが︑右の東宕渠猿郡︑越昼間猿郡︑甘松猿郡︑始平猿郡には属県の記載が
ない︒唯一記載がみえる沈繋猿郡にしても︑僅かに︑
蚕陵
︑令
︑無 戸数
︒
という記述がみえるのみである︒太平嚢宇記巻八
O
︑剣 南道 九︑ 嶺州 の条 に︑
越嵩郡︑後漢至宋晋皆因之︑不朝貢︒十道志云︑貌晋以還︑蛮猿侍険紗縞︑乍服乍叛︒至斉︑夷長或納款︒
因為 越寵 猿郡
︑以 統之
︒
・・ 陽安 県・
・・ 後貌 恭帝 二年
︵五 五五
︶於
此置
陽
民族
問題
を中
心と
して
みた
五胡
十六
国南
北朝
期段
階に
おけ
る四
川地
域の
状況
につ
いて
民族
問題
を中
心と
して
みた
五胡
十六
国南
北朝
期段
階に
おけ
る四
川地
域の
状況
につ
いて
とあり︑右述の猿郡のうちの越寵猿郡についての記述がみえるが︑他の猿郡の場合もこれと相似た状況であった と考えて大過はないであろう︒すなわち︑当時の王朝による猿郡に対する支配は猿の族長︵右の記述にみえる﹁夷 長﹂︶のようなものを通じての間接支配であったと考えられるのである︒
以上の考察を通じて知りえた南斉の状況を先にみた宋の場合と比較した際︑南斉における猿の支配領域への権 力の浸透が︑宋の場合とそれほど質的に大きな変化を生じていたとは考え難い︒しかし︑微細な相違をも念頭に おいて南斉における猿の支配領域への王朝権力の浸透の問題を考えると︑そこに郡県の設置︑軍成︵牛韓成︶の 設置︑租肢の徴収等の面で宋時代の巴地中心から他地域への広がりの存在などの変化も見出せる︒この変化の存 在は南斉朝の積地への支配が︑宋朝に比べ拡大しつつあったことを想定せしめるものである︒
︵ 三 ︶
梁時代の四川
梁時代になると猿の支配領域への王朝権力の浸透が宋斉時代と比較して格段に進展した︒北史巻九五猿伝に︑
︵積
︶与 夏人 参居 者︑ 頗輸 租賦
︒在 深山 者︑ 何不 為編 戸︒
︵粛 街の
︶梁 益二 州︑ 歳伐 猿︑ 稗潤 公私
︑頗 籍為 利︒ とあるような史料の増加が︑そうした支配の進展を窺わせるのであるが︑以下それを他の具体的史料に拠りなが ら地 域別 に見 てみ るこ とに する
︒ まず四川南部︑西晋時代の江陽郡︑捜為郡の地について︒太平嚢宇記巻八八︑剣南東道七︑櫨州の条に︑
・・ 櫨川 県・
・・ 多摩
・気
・・ 合江 県・
・・ 梁於 安楽 渓置 安楽 成於 此︒ 周武 帝保 定四 年︵ 五六 四︶
︑改 為合 江 県 ︒ とある︒合江は浩江と長江が合流する現在の櫨州市の東四
O
加に位置する長江北岸の県であるが︑右はその地に 梁のとき安楽成が置かれ︑それが周武帝のとき県に昇格したことを伝えている︒また︑元和郡県図志巻三三︑剣
南道下︑櫨州の条には︑その合江県が属する櫨州について︑
温州・・・晋穆帝・・・︒後為猿所没︒梁大通初︑割江陽郡置撞川︒貌置櫨州︑取撞水為名︒
とある︒﹁大通初﹂は元年のこととすれば五二七年である︵大通は三年まで︶︒このことと先の太平賓字記︑剣南
東道︑温州の条の安楽成の設置を合わせ考えると︑大通年聞に四川盆地南部の江陽郡の地に梁の支配が浸透し始
めて いた こと が想 定さ れる であ ろう
︒
また︑元和郡県図志巻三一︑剣南道上︑戎州の条には︑
高貢 梁州 之域
・・
・古 購入 国也
︒・
・・ 今州 即購 入道 県也
︒戎 掠之 中最 有人 道︑ 故其 字従 人︒ 李雄 縞拠
︑此 地空
廃︒梁武帝大同十年︵五四四︶使先鉄︑討定夷積︒乃立戎州︒即以鉄為刺史︒後遂不改︒
とある︒焚道県は眠江と金沙江とが合流する点に位置する現在の宜賓市にあたる︒右の史料はその興道県に梁武
帝の大同十年に夷旗を鎮定し︑戎州を立てたことを伝えている︒ただ︑太平嚢字記巻七九︑剣南西道八︑戎州の
条に
は︑
︵漢武帝︶立健為郡︒十三州郡志有以・・・歴後漢晋宋斉皆因之︒梁大同十年︑於此置六同郡︒以六合所同
為郡之名︒尋又置戎州︑以鎮撫戎夷︒
とあることから︑初めは六同郡が置かれ︑その後戎州の設置をみたと考えられる︒つまり︑大通の初め江陽郡の
猿地に及んだ梁朝の支配は︑二十年たらず後の大同十年になると健為郡に及んでいることがわかるのである︒
この地への梁朝の支配の浸透は他の史料からも窺える︒すなわち︑旧唐書巻四一地理志︑普州安岳県の条に︑
漢健為︑巴郡地︑資中︑牛韓︑塾江三県地︒李雄乱後︑為積所拠︒梁招撫之︑置普慈郡︒
とあり︑太平嚢宇記巻八七︑剣南東道六︑普州の条に同様の事柄を伝えて︑
李雄乱後︑為猿所没︒梁置普慈郡於此︒
民族
問題
を中
心と
して
みた
五胡
十六
国南
北朝
期段
階に
おけ
る四
川地
域の
状況
につ
いて
民族問題を中心としてみた五胡十六国南北朝期段階における四川地域の状況について
四 とある︒普州は右の史料にみえるように漢の資中︑牛韓︑塾江県の地︑即ち先述の櫨州︑戎州の北方︑成都西南 の四川盆地の直中︑浩江下流右岸に位置する地であるが︑梁のときそこに猿を招撫して普慈郡を設置したことを 右の史料は伝えている︒太平嚢宇記巻八七︑剣南東道六︑普州の条にはまた︑
李雄 乱後
︑為 猿所 没︒ 梁置 普慈 郡於 此︒ 梁普 通中
︵五 二
01
七二
︶︑ 益州 刺史 臨汝 侯︑ 賜章 猿金 券鎮 書︒ 其文 云︑ 今為汝置普慈郡︑可率萄子弟︑奉官租︑以時輸送︒
とする当時の普慈郡の状況を具体的に伝えた記事もみえる︒因みに︑これらの史料は梁朝の支配の進展を示す史 料であるが︑一方で︑右の太平聾字記の記事にみえるような金券鐘書の賜与等の存在は︑その支配が漢族斉民に 対する通常の王朝支配のあり方と未だ相当な隔たりのあるものであったことにも注意しておく必要があるであろ
︐ っ
ま
︒
た︑ 元和 郡県 図志 三巻 一︑ 剣南 道上
︑嘉 州の 条に
︑ 高貢梁州之域︑秦為萄郡︒今州即漢健為郡之南安県地也︒後夷掠所侵︒梁武陵王粛紀開通外徹︑立青州︒逼 取漢 青衣 県︑ 以為 名也
︒周 宣帝 二年
︑改 嘉為 州︒ とあ り︑ 同図 志巻 三二
︑剣 南道 中︑ 眉州 の条 に︑ 再貢 梁州 之域
︑在 漢即 健為 郡武 陽県 之南 境︒ 梁太 清二 年︵ 五四 八︶
︑武 陵王 粛紀
︑開 通外 徹︑ 於此 立青 州︒ 取漢 青衣県為名也︒後貌廃清二年平罰︑改青州為眉州︒因蛾眉山︒為名也︒
とある︒前記事の嘉州は現在の楽山に︑後記事の眉州はその北方︑眉山に置かれた州である︒
本款で史料を挙げて考察した撞州︑戎州︑普州︑嘉州︑眉州の地は西晋時代の江陽郡︑健為郡の地︑漢時代の 健為郡北部の領域であるが︑以上の考察によって積地となっていたこの地域に︑梁の時代になって王朝の支配が 徐々に浸透しはじめてきていることがわかるのである︒輿地紀勝巻一四六︑嘉定府の条はこのことを端的に述べ
て ︑ 晋時 為夷 積所 侵︒
︵原 注
耳 ︒ ︶
此拠元和郡県志︒大抵慢為諸郡之地︑為夷猿所侵︒至梁招撫之︒後其地始再帰王化 としているが︑このことは右で述べた見通しを支えるところがあるであろう︒
梁朝における猿地への支配の浸透は︑四川南部の地域以外でも進展していることが確かめられるが︑次にそれ を四川東部について見てみよう︒元和郡県図志閥巻逸文巻一︑山南道︑壁州の条に︑
本漢宕渠県地︒李雄乱後︑為夷猿所拠︒梁末其地内属︒
とある︒壁州は四川東北部︑巴河の上流通江の沿岸︑巴中の西五
O
畑︑先に考察した宋の時代の帰化郡の地の東部である︒同書同巻︑山南道︑集州の条には︑
本漢宕渠県地︒晋自李特縞拠︑至李寿時︑夷猿散居其地︒梁武帝大同中︑於此立東巴州︒
とある︒集州はその南東において壁州に接し︑宋のとき帰化郡が置かれた巴州︵巴中の地︶に南接する州で︑現 在の南江県を中心とする地に位置する︒また︑元和郡県補志巻五︑蓬州良山県の条に︑
案本 漢宕 渠県 地︒ 東晋 李勢 時︑ 為猿 所拠
︒・
・・ 猿侍 蛾園
︑常 懐不 軌︒ 至梁 大同 元年
︵五 三五
︶︑ 始分 宕渠 之地
︑
置安
固県
︒ とある︒蓬州は帰化郡が置かれた巴州に北接し︑嘉陵江︑渠江に挟まれた地である︒また︑元和郡県補志巻四︑
州渠 の条 に︑ 案再貢梁州之域︒・・・東晋末︑為蛮猿所侵︒地因荒廃︒・・・値李寿乱︑復為諸積所侵︒郡県復廃︒至梁
普通三年︵五二二︶︑始子漢旧県西南七十里︑置北宕渠郡︒大同三年︵五三七︶於郡治︑置渠州︒
とあり︑太平賓宇記巻一三八︑山南道六︑渠州の条に︑
民族
問題
を中
心と
して
みた
五胡
十六
国南
北朝
期段
階に
おけ
る四
地川
域の
状況
につ
いて
五
民族
問題
を中
心と
して
みた
五胡
十六
国南
北朝
期段
階に
おけ
る四
川地
域の
状況
につ
いて
一 占 ハ
渠州︑高貢梁州之域︒・・・東晋末︑為蛮積所侵︒因而荒廃︒・・・値李寿乱後︑地為諸積所侵︒郡県悉廃︒
宋又自漢宕渠県︑移郡理安漢故域︒梁初文省︒梁普通三年︑又子漢宕渠県西南七十里︑置北宕渠郡︒即今州
是也︒大同三年於郡理︑置渠州︒後貌文帝十三年︑其地内属︒
とある︒渠州は渠河の中流︑現在の渠県を中心とする地で︑その北西で蓬州に接している︒また︑同じ渠州の郡
山県について︑元和郡県図志閥巻逸文巻一︑渠州鄭山県の条に︑
郡山県︑本漢宕渠県地︒自晋至斉並為夷猿所拠︒梁大同三年於此置鄭山県0
・ と ホ
U
ヲ
︒ ︒
以上の梁代の四川東部に関する史料を総合すると︑宋の時代︑巴州の地に帰化郡の設置をみた後︑梁代︑とり
わけその普通︑大周年聞になって猿地に対する王朝の支配が進展し︑新たに州郡県の設置をみていることがわか
る︒その際︑その進展が宋の時代に帰化郡の設置をみた巴州の地に接する周辺の地域へと広がっていっているこ
とは 注意 すべ き事 柄で あろ う︵ 前掲 付図 参照
︶︒
巴地について次の点を付言しておきたい︒陳書巻九侯環伝に︑梁末のこととして︑
侯現︑巴西充国人也︒父弘遠︑世為西萄酋豪︒:::萄賦張文尊拠白崖山︑有衆万人︒梁益州刺史都陽王粛
範命弘遠討之︒・・・因事範︒範委以将帥之任︒山谷夷猿不賓附者︑並遣現征之︒・・・侯景囲台城︒
とある︒粛範は益州刺史として夷猿の討伐を盛んに行った人物であるが︑そうした討伐が﹁酋豪﹂によって担わ
れていたことを右は伝えている︒先に発表した拙稿において考察したように︑六朝時代にあっては蛮と漢の接点
にあって在地の支配を行う蛮漢の豪強の存在があり︑王朝はそうした勢力の力を借りてその支配を拡大するということがあっ勺右は︑当時の巴の地にあってもそうした実態があったことを想定せしめる︒元和郡県図志巻三
一︑ 剣南 道上
︑耶 州の 条に
︑
高貢梁州之域︑秦為罰郡也︒今州即罰州之臨耳県地也︒宋及斉梁不置郡県︒唯豪家能服猿者︑名為保主︑総 属益州︒益州刺史粛範於蒲水口︑立柵為城︑以備生猿︒名為蒲口頓︒武陵王粛紀於蒲口頓︑改置邦州︒南接 部来 山︑ 因以 為名
︒ とあり︑太平嚢字記巻八四︑剣南東道三︑龍州の条に︑
晋於此置平武県︒宋斉皆因之︒至梁有楊李二姓︑最為豪族︒乃分拠其地︒周地図記一五︑江油郡楊李二姓︑各 自称藩於梁︒至後貌武帝︑得其地︑置江油郡︒西貌廃帝二年定罰︑於此立龍州︒
とある︒前記事にみえる耳州即ち臨耳県は現在の成都の西南六
OM
珂蝶にあたる︒この記事は前述の陳書巻九侯 現伝にみえる侯璃の父︑侯弘遠が活躍したのと同じときに︑在地豪強の力を借りてその地の支配が維持されてい たことを伝えており︑侯弘遠に夷猿の討伐を命じたのと同じ益州刺史繭範が蒲水頓をたて︑生績に備えていたの がわかる︒また︑後記事の龍州は浩江の上流︑現在の江油県にその地があったが︑梁の支配がその地の楊李二姓 の力を侯って維持されていたことを伝えている︒先に考察したように当時はこの地にも猿が居住したと考えられ るので︑前記事と同様の︑防御︑討伐が生じていたと考えられる︒つまり︑先の巴地において豪強の支配を通じ ての王朝権力の浸透があったとする私見は︑当該時代における他の地域におけるこうした勢力の存在からも想定 されることなのである︒以上︑四川南部︑四川東部の地における積地への王朝権力の浸透が︑梁の時代には︑そ れ以前の宋や南斉に比較して大きく進展しつつあったことを明らかにした︒ただ同時に右で取り上げた元和郡県 図志巻三一︑剣南道上︑部州の条の記事にみえるように︑梁の時代になっても萄の中枢たる成都の真近の地にお いてさえも﹁生﹂猿が存在し︑王朝が屯成をおいてそれに備えるような状況があったということは︵﹁立柵為城︑
以備生猿︒名為蒲口頓﹂︶︑この時代の四川の民族問題を考える上で注意しておくべき事柄ということが出来るで
あろ
う︒
族民
問題
を中
心と
して
みた
五胡
十六
国南
北朝
期段
階に
おけ
る四
川地
域の
状況
につ
いて
七
民族問題を中心としてみた五胡十六国南北朝期段階における四川地域の状況について
八
北 朝 期 の
四
J I I
本節では北朝期の四川に対する王朝の支配がどのようなものであったのかを︑猿の問題を中心としながら考察
する
周知のように侯景の乱をへて南朝は弱体化し︑荊州や本稿で考察の対象としている四川の地は北朝の領有する ︒
ところとなった︒四川の地を把握することは南北の王朝にとって軍事上極めて重要な意味をもっていた︒それ故 四川の地への侵攻は華北の政権によって早くから企図されている︒元和郡県図志巻三一︑剣南道上︑成都府の条 に︑五胡十六国から南北朝時代にかけての四川の歴史の概略を伝え︑
恵帝時︑李雄縞拠︒桓温討平之︒簡文帝時︑荷堅遣将郵完楊安伐萄︒益州並没於秦︒孝武帝太元八年︵三八三︶
平萄︒安帝時︑諜縦文拠益州叛︒朱齢石討平之︒至梁︑武陵王粛紀籍号於萄︒其兄湘東王鐸討之︑斬於白帝︒
西貌廃帝二年︵五五三︶︑地並入於説︑益州置総管︒至周併省︑郡輿州同理成都︒陪開皇二年︵五八二︶︑置西南
道行台︒大業三年︵六O
七︶
︑罷
州為
萄郡
︒ とある︒前秦の時代に四川は一時︑前秦の領有するところとなったが︑周知の如くそれは長くは続かなかった︒
前秦についで華北を統一した北貌はその安定した勢力を背景にして︑徐々に四川の地へとその勢力を拡大し︑遂 に西貌廃帝二年︑四川の全域は北貌の東西分裂をへて出現した西貌の領有するところとなった︒本節ではまずそ の北貌・西貌時代における四川の領有がどの様に進展していったのかを考察し︑ついで領有を果たした北周・陪 時代の対猿対策がどの様なものであったのかについて考察することにする︒
︵ 一 ︶ 北貌・西貌時代の四川 貌の 梁益 地の への 拡大 は︑ 北貌 宣武 帝の 正始 元年
︵五
O四
︶閏 二十 月に 梁の 行梁 州事 であ たっ 夏侯 道遷 が漢 中を 挙げて内附してきたことによって始まった︒北貌はこれを入れ︑珊轡を派遣し︑創閣の存在する要地・南安︑そ の西南・梓撞をも傘下におさめ︑さらに成都と指呼の間にある浩城に迫った︒その一端を伝えて︑説書巻六五邪 轡伝 にみ える 上表 に︑ 萄之 所博
︑唯 剣閤
︒今 既克 南安
︑巳 其導 除︑ 拠彼 界内
︑三 分己 一︒
・・
・今 王足
︵邪 轡の 配下 将の 軍︶ 前進
︑己 迫浩 域︒ 附肌 得措 城︑ 則益 州便 是成 檎之 物︑ 但得 之有 早晩 耳︒ 且梓 撞既 附︑ 戸民 数万
︑朝 廷量 得不 守之 也︒ とあるが︑この領土拡大は北貌が同時に梁益の地の大量な猿族を配下に収めることを意味した︒そのことを伝え て︑ 北史 巻九 五猿 伝に
︑ 朝廷以梁益二州控摂除遠︑乃立巴州以統諸積︒後以巴酋巌始欣為刺史︒文立隆域鎮︑所轄積二十寓戸︒彼調 北積︒歳輸租布︑文興外人交通貿易︒巴州生猿並皆不順︒其諸頭王毎於時節謁見刺史而巳︒
とある︒右の隆城鎮の現在地がいかなる地に比定されるかは不明である︒ただ右の巴州は現在の巴中に比定され るので︑恐らく巴中にあった︑或いはその近辺に設置されていたと考えて誤りないであろう︒この際︑巴州刺史 に任ぜられた巴酋巌始欣が猿族であるのか漢族であるのかは明らかでないが︑親書の珊轡伝に︑巴州について︑
巴西南鄭相離千四百︑去州遁遁︑恒多生動︒昔在南之日︑以其統結勢難︑故増立巴州︑鎮静夷猿︒・・・彼 土民望︑巌︑蒲︑何︑楊︑非唯五三︑族落雄在山居︑而多有豪右︒文学筆啓︑往往可観︒冠帯風流︑亦為不 少 ︒ とあ るこ とを 踏ま える と︑ 猿で はな い可 能性 強が い︒ ただ
︑﹁ 巴酋
﹂の 語を もっ て指 称さ れ︑ 現に 多く の猿 を束 ね
民族
問題
を中
心と
して
みた
五胡
十六
国南
北朝
期段
階に
おけ
る四
川地
域の
状況
につ
てい
九
民族
問題
を中
心と
して
みた
五胡
十六
国南
北朝
期段
階に
おけ
る四
川地
域の
状況
につ
いて
二
O
ていたことを考えれば︑半ば﹁蛮族﹂化した豪強と考えて大過ないであろう︒この巴酋巌始欣について︑前掲の 北史 の記 事に 続け て︑ 孝昌初・・・︒時梁南梁州刺史陰子春扇惑辺陸︑始欣謀将南叛︒始欣族子憧時為隆城鎮将︒密知之︑巌設選 候︑遂禽梁使人︑井封始欣詔書︑鉄券︑万剣︑衣冠之属︑表送行台︒・・・始欣乃起衆攻憧︑屠誠之︑拠城 南叛
︒梁 将粛 玩︑ 率衆 援接
︒ とあるように︑この地は以後も南北抗争の舞台となるが︑この巴州の地が先に劉宋の郡県設置について考察した 帰化郡等の地と重なり合う地であることを踏まえると︑劉宋が四川地域のなかで︑彼の地にまずもって郡県支配 を及ぼしたことの意味が明らかになるであろう︒すなわちそこに対北朝との関係で︑まずもってその南北対立の 西部における前線たる北巴の地を掌握しておくことが必要とされたことが想定されるのである︒
こうした四川における南北抗争に終止符がうたれるのは︑本節官頭において元和郡県図志の記事を引用し述べ たように︑西貌廃帝二年︵五五三︶のことである︒当時︑江南は侯景の乱によって生じた混乱の中にあり︑都督梁 益等 十三 州諸 軍事
︑益 州刺 史︑ 征西 大将 軍と
して
成都 にあ った 梁武 帝の 八男
︑武 陵王 紀は 太費 三年
︵五
五二
︶三 月︑ 侯景が平らぐと四月乙巳僧号して︑太清から天正へと年号を改め︑八月︑自ら箪を率いて東下し荊州を図ろうと した︵梁書本紀︑ただし同書巻五五武陵王紀伝には四月のこととする︶︒当時︑荊州江陵には武帝の七男︑湘東王 縛︵後の元帝︶があったが︑彼は憂懐して︑救いを西貌に求め︑萄を背後から討つことを求めた︒これに対し︑
西貌では尉遅廻を総督として伐萄の計を定め︑翌年の西貌廃帝二年三月に軍を起こした︒武陵王はその南梁州刺 史諜掩を回軍せしめ︑益州刺史の粛捕と防戦に努めたが八月戊成︑成都は陥落した︵周書︑梁書本紀︑及び周書 巻二一尉遅週伝︶︒以後西貌は積極的に罰の経営に乗り出して行くが︑それは本稿で考察している猿との関連でい えば︑成漢以降の猿による実効支配を排し︑四川の地を郡県支配体制に復帰せしめるという︑梁以降の動きをさ
らに展開する形で現れた︒次にそれがどのような地域に︑どの様な形で及んで行ったのかを具体的に見てみるこ
とに
する
︒ 元和 県郡 図志 巻三 二︑ 剣南 道中
︑雅 州の 条に
︑ 再貢梁州之域︒秦誠萄為郡︒即厳道県也︒李膚記日︑自晋永嘉崩離︑李雄縞拠︑此地荒廃︑持二十紀︑夷猿 之居
︒後 貌廃 帝二 年︑ 置蒙 山郡 於此
︒ とある︒雅州は成都の西南︑現在の雅安を中心とした地域︑西晋時代の漢嘉郡の地であるが︑右はその地が李雄 縞拠以後︑二十紀すなわち二百四十年の永きにわたって﹁荒廃﹂し︑夷猿の拠るところとなっていたが︑西貌廃 帝二年になって蒙山郡が設置されたことを伝えている︒旧唐書巻四一地理志︑創南道︑雅州厳道県の条には︑
晋末 大乱 夷︑ 猿拠 之︒ 後貌 開生 獄︑ 此於 置蒙 山郡
︑領 始陽
︑蒙 山二 県︒ とあり︑このとき始陽︑蒙山二県も付置されたことを伝え︑合わせてこの郡が﹁生﹂猿を聞き置かれたことを伝 えている︒このことは晋末以降この蒙山郡の設置まで︑この地には全く王朝の支配が及んでいなかったこと︑そ れがこのときになって初めて及ぶようになったことを示している︒太平賓宇記巻七七︑剣南西道六︑雅州の条に は︑ この 蒙山 郡の 設置 の状 況を さら に具 体的 伝に え︑ 李膚記日︑晋永嘉分崩︑李雄縞拠︑此地蕪廃勝二十紀︒夷人侵鞍︑猿文間之︒公私路絶︑無可推訪︒後貌廃 帝二年︑始更招移民︑漸墾植口因僑立蒙山郡︒於此領始陽蒙山二県︑属耳州︒自後人戸梢繁︑賦征有叙︒
とある︒ここからこの地の﹁荒廃﹂が猿のみによったのではなく︑夷︵売︶にもよったこと︑公私の道が絶え漢 地から全く断絶した状態にあったこと︑さらにこの地が西貌のときになって移民の招致によって開発されていっ たこ とな どが わか る︒ 成都西南にあって︑雅州よりさらに成都に近接する臨耶の地︑即ち西晋時代の萄郡臨耳県の地については︑元
民族
問題
中を
心と
して
みた
五胡
十六
国南
北朝
期段
階に
おけ
る四
川地
域の
状況
につ
いて
民族問題を中心としてみた五胡十六国南北朝期段階における四川地域の状況について 和郡 県図 志巻 三一
︑剣 南道 上︑
邦州
臨耶 県の 条に
︑ 本漢県也︒属萄郡︒晋末李雄乱後︑為猿所侵︒後貌廃帝二年定萄︑復於旧城置臨耶県︒前置臨耶郡︒開皇三 年︵ 五八 三︶ 罷郡
︑以
県属 邦州
︒ とあり︑西親によって萄が定められて旧城に臨邦県が置かれたことを伝えている︒また︑同図志向巻︑耳州依政
県の
条に
は︑
本秦臨耳県地︒後貌於此置依政県︑属蒲陽郡︒開皇三年罷郡︑以県属部州︒
とあ るが
︑同 様の 新県 設置 をつ げる 記載 が耳 州の 属県
︑臨 渓︑ 火井
︑蒲 江県 の条 にも みえ る︒
︵臨 渓県
の条
には
︑
﹁本 秦臨 耳県 地︒ 後貌 恭帝 於此 置臨 渓県
︑属
蒲陽 郡︒
﹂と あり
︑火 井の 条に は︑
﹁本
秦臨
耳県 地︒ 後貌 於此 置県
︑ 属雅 州︒
﹂と
あり
︑蒲 江県 の条 には
︑﹁ 本秦 臨耳 県地
︒後
貌恭
帝於 此置 贋定 県︒ 仁寄 元年
︑改 贋定 為蒲 江県
︒﹂ とあ る︒
︶先 に梁 時代 にお ける 状況 を考 察し た際
︑元 和郡 県図 志巻 三一
︑剣 南道 上︑
耳州
の条 に︑ 再貢梁州之域︑秦為萄郡也︒今州即萄州之臨邦県地也︒宋及斉梁不置郡県︒唯豪家能服猿者︑名為保主︑総 属益州︒益州刺史粛範於蒲水口︑立柵為城︑以備生猿︒名為蒲口頓︒武陵王粛紀於蒲口頓︑改置耳州︒南接 珂来
山︑
因以 為名
︒ とあ る記 事を 考察 した が︑ この 記事 に続 いて 元和 郡県 図志 には
︑
領依
政一
県︒
とある︒こうした事柄を勘案すると︑梁以前にあって﹁保主﹂を通じて支配されていた耳州の地の蒲口頓に︑武 陵王粛紀が邦州を設置した際の邦州の領県は依政県一県のみであり︑依政県が置かれた地もかつての依政県の旧 城ではない蒲水口に築かれた蒲口頓であったことがわかる︒つまり︑西貌の定罰によってこの地では依政県が蒲 口の地からかっての旧城に移され︑新たに臨渓︑火井︑蒲江県という三つの県が設置されたのである︒このこと
は成都に隣接するこの地における王朝の支配が梁時代に比較して更に一段の進展を示したことを伝えているとい
える
であ
ろう
︒ 成都に隣接する︑その東南の簡州︑南方の眉州︑陵州においても同様の事態が生じていた︒そのことを伝えて︑
元和 郡県 図志 巻三 一︑ 剣南 道上 簡︑ 州平 泉県 の条 に︑ 本漢牛韓︑及符県地也︒後為夷猿所居︒後貌恭帝二年於此置婆閏県︑属益州︒
とある︒唐時代の簡州は益州に隣接し︑その治所は成都の南東五
OM
の現 在の 簡陽 であ るが
︑そ の簡 州に いつ て︑ 元和 郡県 図志 巻三
︑一 剣南 道上
︑簡 州の 条に
︑ 再貢梁州之域︑秦為萄郡地︒漢武帝分置健為郡︒今州即慢為郡之牛碑県也︒李雄拠萄︑夷猿内侵︒因蕊荒廃︒
南斉於此置牛韓成︒惰仁寿三年︵六
O
一ニ︶
︑於 此置 簡州
︒・
・・ 陽安 県・
・・ 後貌 恭帝 二年 於此 置陽 安県
︒ とあることを踏まえると︑西貌のこの地に対する支配は南斉時代の牛碑成を基点にした支配から更に広がりを示 してきでいたことがわかる︒また︑元和郡県図志巻三二︑剣南道中︑眉州青神県の条には︑
青神県︑本漢南安県地︑李雄之後︑夷猿内侵︒西貌恭帝︑逼於此置青衣県︑属眉州之青城郡︒
とあり︑眉州の地における青衣県の設置を伝えている︒眉州は益州に隣接し︑その治所は成都の南南西七五回の 現眉山であるが︑これは同図志巻三二︑剣南道中︑眉州の条に︑
再貢 梁州 域之
︑在 漢即 健為 郡武 陽県 之南 境︒ 梁太 清二
︵年 五四 八︶
︑武 陵主 蒲紀
︑開 通外 徹︑ 於此 立青 州︒ 取漢 青衣県為名也︒後貌廃帝二年平萄︑改青州為眉州︒因蛾眉山為名世︒
とある梁の武陵王粛紀のときの﹁開通﹂を受け継いだものである︒また︑周書巻二八陸騰伝には︑
貌恭帝三年・・・陵州木寵旗持険晶旗︑毎行抄却︑詔騰討之︒猿既因山為城︑攻之未可抜︒騰遂於城下多設 聾楽及諸雑伎︑示無戦心︒諸賊果棄其兵杖︑或播妻子︑臨城観楽︒騰知其無備︑密令衆軍倶上︒諸賊憧催︑
民族
問題
を中
心と
して
みた
五胡
十六
国南
北朝
期段
階に
おけ
る四
地川
域の
状況
につ
いて
民族問題を中心としてみた五胡十六園南北朝期段階における四川地域の状況について
四 不知所為︒遂縦兵討撃︑壷破之︑斬首一高級︑停獲五千人︒
とあり︑陵州の木寵猿に対する征討を伝えている︒陵州は益州に隣接し︑その治所は成都の南方七五回の現仁寿
であ
る︒
以上の考察から︑成都周辺地域において西貌が平萄後︑南朝時代からの動きを受けて︑その支配を更に拡大し てきていることが窺える︒とりわけ該地域におけるそうした動きがいずれも廃帝の次の恭帝のときに生じている ことは︑萄の中枢たる成都を陥としたあと︑西貌の支配が確実に進展しつつあったことを窺わしめる︒
また
︑旧 唐書 巻四 一地 理士 山︑ 普州 安岳
県の
条に
︑ 漢健為︑巴郡地︑資中︑牛韓︑塾江三県地︒李雄乱後︑為獄所拠︒梁招撫之︑置普慈郡︒
とあり︑梁時代に普慈郡の設置をみた簡州︑陵州東方の詑江中流域にも︑元和郡県図志巻三一︑剣南道上︑資州
の条
に︑
高貢梁州之域︑秦併萄為萄郡︒在漢即健為郡資中県地︒李雄之乱︑夷猿居之︒後説廃帝二年︑析武康郡之陽 安県
︑置 資州
︒ とあるように︑普州に隣接した資州の設置を見︑確実にその支配が浸透しつつあったことが窺える︒
因みに︑太平嚢宇記巻八四︑剣南東道三︑龍州の条に︑
晋於此置平武県︒宋斉皆因之︒至架有楊李二姓︑最為豪族︒乃分拠其地︒周地図記云︑江油郡楊李二姓︑各 自称藩於梁︒至後貌武帝︑得其地︑置江油郡︒西貌廃帝二年定罰︑於此立龍州︒
とある︒ここにみえる龍州は四川北部︑浩江の上流︑龍門山中の平武県から江油県の地域を指す︒﹁後親武帝﹂と あるのが︑宣武帝をさすのか︑孝武帝をさすのか定かでないが︑この記事もまた︑梁に比べ︑西親の支配が一段 と 進 展 し た こ と を 示 す 事 例 と い う こ と が で き る で あ ろ う
︒ 完
︶
未