九州大学学術情報リポジトリ
Kyushu University Institutional Repository
On Peimien-chuanyunshih (北面転運使) in the Age of Five Dynasties (五代).
室永, 芳三
https://doi.org/10.15017/2329134
出版情報:史淵. 89, pp.97-118, 1962-12-01. Faculty of Literature, Kyushu University バージョン:
権利関係:
五 代 の 北 面 転 運 使 に つ い て
ド .....
・
主
ァ k
芳
目
次 序 言
一︑北面転運使設置の由来
二︑北高転運使の沿革
三︑
北
E
転運使の職掌四︑北面転運使の職権の拡大
五︑北面転運使の歴史的意義
結 語 序
百
五代後唐の頃から中央禁軍の強佑と共に︑次第に発展していったその屯駐︑就糧の制が︑藩鎮を中央への依存に押しや
る大きな要因となったこと等については︑既に菊池氏によって明らかにされている︒所で︑この禁軍の屯駐︑就糧に当つ
て特に筆者の注目を惹くのは︑その軍資補給のために添差された糧料使︑及び当初より予めその意味を以て︑
軍資輸送を管掌するものとして設置された某面転運使の制度である︒前者については既に卑見を開陳しら︸乙こでは後者
五代
の北
函転
運使
につ
いて
︵室
永︶
一定
地域
の 九 七
五代
の北
面転
逮使
につ
いて
︵室
永︶
九八
について︑北面転運使ぞ取り上げて考察してみる︒尚︑五代の某面転運使の性格については︑既に青山教授の﹁唐宋時代
の 転 運 使 及 び 発 運 使 に つ い て
﹂ 従 っ て 筆 者 の 問 題 視 角 か ら す る 飯 述 も
︑
加えるに過ぎないものであるが︑続稿に取って不可欠の前提でもあるので︑敢えて私見を発表し︑御批判を仰ぐ心算であ
︵史
学雑
誌併
ノ
9︶
中に
御高
論が
ある
︒
一蛇
足を
場
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︒
北 面 転 運 使 設 置 の 由 来
大唐の時︑東南財源地帯にて収納せる食糧・軽貨等を首都京兆及び東都洛陽方面に輸送するために設置された転運使
は︑大運河の漕運を管掌するに当り︑その漕費を塩利に仰ぐ関係から塩鉄使とは殆んど同一人の兼任で︑塩鉄転運使とし
この国家財政の運営上に大きな役割を果した転運伎は︑麿末より引紛いて諸道塩鉄転
運使の名額を以て五代にも荏続していた︒五代会要問一よ建国宮使︑長興四年正月の条勺
三司使奏︒当省有諸道塩鉄転運使額︒職員極多︒云々 て恰も一職名の如く扱われていた︒
とみ
える
のは
その
一例
であ
る︒
この転速使は諸道の名を冠してはいても︑ての主たる任務が准河以南を失ってより︑
fド
河︑黄河を中心に管掌するものであったことは︑五代の史書に多く作河︑洛河︑五丈河等の漕遥記事がみえることより推
察し
得る
所で
ある
︒
所で︑転運使はこの系統の転運使に限られたのではなく︑唐代以来他にも別系統の転運使が置廃せられていたのであ
る︒そのうちの一つに︑軍興の際に特設される所謂随寧転運使がある︒これは征討のため一地方に集中した軍隊の糧料補
給の任に当るものである︒叛乱抗争の続発した五代は︑この転運使の置出閣が市発で︑後唐荘宗の同光三年九月︑王萄討伐
の軍興の際に都供寧転運応接等使に任ぜられた鳳調節度使李継職︑叉明宗の長興一五年九月︑東川の董環討伐の軍興に当つ
ては︑西川の孟知祥が東川行蛍供簡応接使K任ずり札吃次いで同三年の単興に酉面水陸転巡使となった鳳州防禦使張延
播︑後晋の天福六年の鎮州安重栄討伐の時の鎮州行営転運使の設置︑後漢の乾祐元年七月︑鳳期王氏崇討伐の際に工部侍
郎 李 穀 を 西 南 面 行 襲 撃 信 任 じ た も の
U後周の顕徳五年十月︑世宗伐萄の役の西南東陸転運制震の設置控訴如き
は︑
皆そ
の例
であ
る︒
この行営転運使或は某面転逸使といわれたものは︑通例軍隊の撤収と共に廃されていたが︑ここに常置の転運使が現わ
れた︒北面転速使がそれである︒これはその名体が一出す如く北辺地域の遁怖を学るものであった︒この北面似巡使が常設
佑された理由は︑北万に於げる契丹の勃興によるものであるυ五代最初の後架ぞ除く後国以後の四朝は契丹と境を接し︑
その侵入に備えねばならなかった︒務鎖体制の原則によれば︑契丹の侵入防衛はその当直の端的叫の任務であるが︑当時の
務館︑一個の兵力を以てしては︑契丹の侵入軍事刀は撃退すべく余りにも強大であった︒ために中原王朝は諸滞を後援し︑
更に進んで自ら直接中心に立つこととならざるを得なかった︒中央の直轄にかかる重兵の河北︑河東沿辺への配駐︑即ち
屯駐禁寧の北辺要衝への普及︑増員は五代に入つての注目すべき傾向であつら︶この北辺防備に当った務兵及び屯駐禁軍
への軍資補給は歴代の中原王朝にとって国逗にかかわる一大問題となっていたQこの要務遂行のために設置むれたのが北
面転
逝使
であ
る︒
北面転運使は︑その主たる管轄地域が河北であったため官苧伊︸河北に置与えそのことから河北都転連句河北諸州水陸
転速使ともいわれた︒叉その職務柄から北面供迫使︑北面供償使︑北一血計度使︑或は北面供草転巡使ともいわれていた
初その名称は正しくは︑北面水陸転運使と称したようであおJ
二
︑ 北 面 転 運 使 の 沿 革
五代
の北
面転
運伎
につ
いて
︵室
︑氷
︶
ブL 九
五代の北面転運使について︵安永︶
−
00北高転運使創置の年代は明らかでないが︑旧五代史寸一二唐荘宗紀︑同光二年夏四月壬申の条に︑
以成徳軍節度行軍司馬権知府事任闘為検校右僕射権北面水陸転運制置使︒
とあるのを初見とする︒五代初の頃は︑北方の虚龍︑成徳︑義武の諸藩鎮の存在が契丹の南侵を阻み︑特に虚龍の劉民は
燕国皇帝を称してその富強を誇り︑十分に辺境防衛の任を果してい弘︸しかし︑河北が室田の手に帰し天下を争う梁︑晋
の抗争が黄河流域に移ると︑後梁と盟約した契丹が辺境をかえりみる暇のなくなった李晋の隙に乗じて中原侵略を開始し
た︒資治通鑑時二同光元年夏四月の条に︑
時契丹麗入冠︒紗掠償運︒胸州食不支半年︒
とみえ︑契丹の幽州への本格的攻撃が同光一克年より始まり︑これを防ぐための後唐の軍興が翌二年春正月より活濃化して
いるから︑北直転運使の創置も︑後唐建国後︑幾何もないこの頃とみてよいであろう︒
次に北面転運使に就任した者で︑今日明らかなものを挙げてみると左表の如くである︒
北 面 転 運 使 表 年
次 一 間 病
同光
二年
四月
九二
八
九二
四
同光
三年
二月
九二五
同光
三郎
神間
月
,
,
天成
元年
九月
九二六
天成
二年
正月
九二
七
天成
一二
年四
月
烏 婁 李 李 任 ! 人 嗣 紹 源 宏 紙
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延
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﹁権北商水陸哲旭川出使
北 面 転 運 使 名 称 園
芯面
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運制
問大
使
北面水陸転運使
英北函水陸転運制凶使
震
比面水陸転速招撫侠
光
北面水陸転運制限使
1長
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九巻八巻七巻二巻六巻一巻1
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山川 仙畑 中恥 節度 行軍 司馬 権知 府市 宇
資徽南院使判内侍省
成徳軍節度使
議州刺史
奨州刺史成徳軍節度使
磁州
刺史
︵前
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副使
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北面水陸転運使
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巻10一 八 二 四 六 一
天雄寧節度使
一 塁 二 年 八 月 九 四 五
一 弘 円 四 ほ 川
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この表より次の凹つの特色ある傾向が︑時代の推移と共に抽出出来るのであるο
,
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抱 延 光
必雨水陸転運制限使
十六
成四
年
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北両供軍転速使磁州刺史
応順
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年三
月
九三回
消泰元年六月
李 重 美
比一
凶水
陸転
運制
悦使
成徳軍節度使判六箪諸衛事
賛
北耐諸州水陸転巡使
刷︑後膚同光二年より一大成四年にかけての顕著な任命
料︑後庸長興年閣の未見と応順・消泰年聞の任命
料︑後晋天福年聞の未見
判︑後晋関連年間以降の三司副使よりの任命
以下乙の四点を中心に北面転運使の沿革を考察してみる︒
ω
︑後間同光・天成時代北面転運使は契丹防備体制のために設置されたものであるから︑これが顕著に任命・ロれていることは︑対契丹抗争の緊
張を反映していることになる︒後庸の同光・天成年聞には河北沿辺︑醐・易両州の聞に攻防の戦いが繰り返されている︒
資治通鑑暗記天成二年夏四月の条には︑
時契丹数犯塞︒朝廷多屯兵於幽易問︒
と︑契丹侵入路上に当る瓦橋関・慮台軍を中心とする幽州・易州の間への屯駐禁軍の布置が行われていたことを伝えてい
る︒こうした屯星雲多数の布置に対して霊補給も前漉佑した︒冊府元亀地位将帥部・立功門・王思聞の条に︑
五代
の北
面転
運伎
につ
いて
た阜
︑氷
︶
。
五代
の北
面転
運使
につ
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︵宝
永︶
。
同光中︒従明帝援糧入幽川︒
とみ
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同香
川一
一一
帝王
部・
求旧
門・
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の条
には
︑
同光三年︒明宗受詔︒以本道兵送糧入前向︒
とあり︑明宗即ち李刷源が︑同光三年︑期州へ策糧を低輸したことがみえている︒十字刷源が印刷徳川平郎皮使双北商水陸転辺
使であったことは︑前掲表に示す如くである︒
A−ha内凶司次いで︑明宗の天成時代に入ると︑冊府元亀川ヨ邦計部・褒悩門・烏震の条に︑
烏震︒明宗天成中︒為翼州刺史米北面水陸転運伺撫使︒契丹犯塞漁陽路便3
震一
平師
運糧
三人
約円
︒援
為河
北道
副招
討
遥領
宣州
節度
使︒
とあり︑資治通鑑山げた天成二年春正月の条の同文記事の胡註には︑
時契丹常以勤騎術律幽州四郊之外︒抄掠糧運︒故以三将兵運糧︒善達者為労積︒
とて︑胸州への軍糧輸送は梨丹の抄掠に古しみ︑一二度巡糧に成功した者は労総となしたとある︒こうしたことは︑汁時の
北面転運使の職務遂行の至難さをぶすと共に︑その亙要性を煩わしめるるのである︒ズ天成巾の北高松運使のぷ臓が多く
刺史であることも︵前掲表参照︶︑かかる事態に対処する事情によるものと思われる︒
しかし︑こうした抗争の巾にも︑契けでは︑天成元年秋七月︑契丹主阿保機の死と共に︑跡目相続問題︑及び契丹府龍
節度使慮文進並びに張希崇の裏切り鳴が生じた︒一方後唐では︑判三司任闘を中心に︑塩鉄判官趨季良が三川都制置転運
︵ 初︸
使として萄の金自十低を洛陽に転輸することが行われ︑明宗はそれをもとに内政改革の実をあげ︑天成二年十二月には︑
早くも物価高の辺境地時たる蔚・代諸州さへ米価毎斗十文の鶴を得るに至り︑国力充実化への道を歩みつつあったのであ
る︒こうした両国の同内事情が次の長興年間の北面転運使の未見となってくるのである︒
(ロ)
後麿長興・応順・清泰時代
天成三年五月︑庸末よりの自立溶鎮であった義武軍節度使王都は明宗の帝権強佑の日増しに進ひのをみて︑いち早く叛
諜を廻らすに若かずと考え色々両策して失敗した末︑最後に契丹柔酋長禿館を誘って叛いた︒明宗はこれを機会に︑先づ
t L
来侵せる契丹軍を撃滅して︑翌年二月には︑冊府元亀MU
外国
部・
征討
門に
︑
︵天成︶四年二月︒定州王都平︒檎禿館及余衆斬之︒自是︒契丹大挫︒数年不敢窺辺︒
とみえる如く︑王都を平げ︑契丹には数年の問︑再び辺境を窺い得さる打撃を与へ︑境上の確立に成功した︒こうした締
果が長興年聞の北面転運使名の未見となったものと考えられる︒
しかし︑長興年聞に於げる北面転運使名の未見を以て︑これが廃止されたものと考えることは誤りで︑契丹の勢力は依
然侮り難く︑これに対する防備体制は一層強佑されていたのである︒資治通鑑時店長興三年八月の筑間︑
初契丹脱彊︒冠抄虚龍諸州皆偏︒幽州城門之外3虜騎充斥︒毎自滅州運糧入幽州︒虜多伏兵於閣議掠取之︒及趨徳鈎
為節度使3城闇溝而成之︒為良郷県︒糧道梢通3幽州東十里之外3人不敢樵牧︒徳鈎於州東五十里︒域瀦県而成之︒
近州之民︒始得稼稽3至是︒叉於州東北百余里3
域三
河県
︒
以通制州連路︒虜騎来争︒徳鈎撃却之︒
九月
由民
辰期
︒
奏︒
城三
河畢
︒辺
人頼
之︒
とあり︑虚龍軍節度使趨徳鈎が糧道の確立に努めたことを記し︑叉︑冊府一手電池川邦計部・漕運門に同︑
長興二年間五月三日勅︒応縁沿河船糧︒依北面転運司船搬倉例︒云云
と︑北面転運使の官署たる北面転運司の機構を示す記事が見えていることは︑明らかに北面転運使の存続を一不すものでゐ
ろ ・ フ ︒
所で︑かかる長興年間の河北沿辺に於ける対契丹防備体制の確保維持は︑契丹をして河東方亜へ移住せしめている︒資
五代
の北
面転
運使
につ
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︵室
永︶
一
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j己 丹 ニ 面 屯 年 転 捺 冬 運 刺 十 停泊 且 与
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一
O凶とみえ︑その胡註に︑
時幽州有備︒契丹窟掠不得其志︒契丹主国徒横帳︒居捺刺泊︒出冠雲朋之問︒
とあ
り︑
契丹は幽州方面への侵入の至難さを知り︑河東万面への侵入を企てているのである︒明宗はこれに対処するた
め︑直ちに六軍副使石敬語を以て河東節度使兼大同・振武・彰国威塞等軍蕃漢馬歩総管に任じ︑河東沿辺の防備体制を固
︵ お︶
めているのである︒しかし︑翌四年十一月︑名君といわれた明宗死して︑幼少の閲帝が即位し︑応順と改元するが︑その
年の二月︑早くも末︐帝によって塞位される等の後唐朝廷の内紛は︑勢いを立直した契丹に中原侵略の好機会を与えるに至
った
υ
こう
した
事情
のも
と︑
再び北面転運使の活躍が史書に現われてくるのである︒応順元年三月の天雄寧節度使泊延
光︑次いで清泰元年六月の成徳軍節度使・判六軍諸衛事薬王重美の北直水陸転運使の兼任は︑これを一不すもので︑資治通
鑑控清泰二年六月の条には︑
時契
丹屡
冠北
辺︒
禁軍
多在
幽弁
︒︵
耐一
路報
酬一
秒間
︶石
敬璃
与︵
嶋一
剛一
器削
︶越
徳鈎
求益
兵運
糧
ο朝夕相献︒甲印︒詔借河
東人有蓄積者寂葉︒乙酉︒詔鎮州輸絹五万匹於総管府︒欄椴軍糧︒率鎮翼人車千五百柔連糧於代州︒叉詔説博市雑︒
とゐり︑河北・河東沿辺の屯駐禁軍への箪糧補給が俄かに重大問題となったことを伝えている︒所で︑この対契丹防備線
これまでの北面転運使司の組織では十分に賄い得なくなり︑ここに河東方直を管掌
する新たな使職の設置が行われているo旧五代史鴎九劉処譲伝に︑
応順初︒授析州刺史検校太保充西北面計度使︒備北冠也︒ の河北沿辺より河東沿辺への拡大は︑
とあり︑応順初︑即ち清泰元年に西北直計皮使を設置している︒そして︑同書佐七晋高祖紀・天福二年二月美己の条に︑
↑ ノ
︒ ︒
詔︒
停北
京西
北面
計一
度司
事
ο
とあるから︑西北面計度使の官署たる使司が北面馬歩率都総管のあった北京太原府に置かれていたことがわかMrr
がこ
の酉北面計度使は北面転運使の如︑喝さ運輸組織を持っていなかったようである︒同害時間唐末帝紀・出泰二年六月の条に︑
前掲資治通鑑と同内容の記事を掲げると共に︑
詔︒中断︒伺子鎖州支絹五万匹送河東︒充博粂之直ν
是月
u北商い私選副使劉福配鎖州百姓取子一千五百乗運糧至代
州︒時水年民飢︒河北諸州因子飛腕︒逃讃者甘四衆υ軍前使者継至3併促遥糧リ由是ω
生猛
者怨
︒
として︑鎮州の係省絹五万匹を阿東の総管府に輸送し︑太原方面に於いて軍糧ぞ雑買する代価にあてて︑そこで得た軍糧
を北面転連副使劉補が鋲州の百姓や京子を率い︑千五百乗の取を以て代州に転輸したと記し︑又糧速がほとんど河北諸州
乱始
兆突
︒﹂
と結
んで
い匂
山
の民に依存していたことがわかる︒前掲資治通鑑の記事も︑
最後
に﹁
山東
之民
流散
︒
従つ
て︑この西北面計皮使は恐らくその使職名が示す如く︑西北面に於ける事粧の鱒員等の宮中需品の計皮︑即ち必要物資の色
額を調整する任に当ったものであろう︒こうした西北面計度使の性格が河東と河北地域との生産力の差︑加うるに後唐初
より組織網を次第に確立して来た北面転運使の機構との差に由来することは明らかと思う︒
十守
後背天補時代
河東節度使・北商鳥歩軍都総管石敬語が契丹と結んで後唐を滅ぼしたのは︑清泰三年十一月である︒是月︑国を大晋︑
一刊
を天
福と
改め
︑契
丹と
の約
に従
い称
.白
して
歳貢
絹三
十余
万匹
を贈
り︑
印公
燕十
六州
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譲し
た︒
高組
の施
政方
針を
要一
一回
す
れば︑契丹に恭事して北辺を安泰にし︑専ら内般に集中して藩鎮の巌庖を抑えんとするにあった︒契丹に輸する所の絹三
十余万匹も中原数県の租賦に過いさず︑対契丹軍需買の巨額なことに比すれば︑財政的に何等の痛停を感ずるものでなく︑
ぃ服部一道及び脈問関以北の諦州を山政失したけれども︑天下の安砲︑中央権力の強仰をはかるためには必要なことであった
五代
の北
函転
運使
につ
いて
︵室
︑氷
︶
一
O五五代
の作
品一
面必
淫使
につ
いて
︵宅
永︶
一
O六のである︒この彊上獲安の方針が北面転運使及び西北高計度使に影響伊−与えたこと疑いない︒旧五代史地七晋高祖紀・天
福二年二月突己の条に︑
詔3停北京西北高計皮司事︒
とある北京の西北面計度司の廃止︑
及び
天福
年聞
に於
ける
北面
転運
使名
の未
見は
︵前
掲表
参照
︶︑
この
傾向
を一
店す
もの
であ
る︒これらは高祖の彊上獲安方針による当面の北辺防備が緩和された結果であること明らかである︒だが︑北面転運使の
場合︑その名が史書に検索し得ないからといって︑決してそれの廃止がなされたものではみのるまい3先の西北面計度使司
の廃止は︑その当初に設置された目的が非常時に於げる防備強佑にみったのであるから︑緊張の緩和した場合︑再び平常
時の防備体制に移るべく廃止されたものとみられる︒しかし︑北面転運使の設置は︑前述した如く︑河北に於ける屯駐禁
軍の財政的背最をなすものであったから︑屯駐禁箪が布置されている聞は︑依然在立すべきものである︒高祖は契丹との
抗争を避けてはいるものの︑決して北辺防備を弛めたのではない︒沿辺諸藩鎮に有能な藩帥を差遣し︑契丹の侵入を防が
n v
せて
お
h℃叉雲燕十六州喪失後の防衛線を戦略地理上黄河の線迄後退させ︑この方面の強佑に努め︑滑・瀦・相・衛等の
諸州へ屯駐禁軍を増強しているので︑北面転運使の存立意義が失われたものとは考えられない︒
所で︑後晋に至つての防衛線の後退と︑黄河地域への屯駐禁軍の増強は︑河北諸州をして中央から離れて手立すること
をいよいよ困難ならしめ︑河北に於げる中央の支配力は急速に強仰されたのであ引ゲそれと共に︑北面転運使の任用法に
も新たな展開がみられるのである︒
{ ゴ
後晋開運時代以降
後晋の高組に尋いで即位した少帝は︑開運と改元すると共に︑高組の屈辱外交を捨て︑契丹への歳幣を絶って抗争万針
に出た︒その結果は憤慨した契丹の大挙入冠による大戦乱が続くことになった︒そして再び北面転運使の活躍が目立って
くることになる︒資治通鑑ゆ口開運三年十一月の条に︑
晋兵
与契
丹爽
路神
山而
軍︒
中略
︒︵
献謙
一轍
縦一
院︶
社威
雄以
貴戚
為上
将︒
性儒
怯
o偏笠間節度使︒但日相承迎︒置酒作
楽コ翠議策事︒磁州刺史波北面転運使李穀︒判例威及李守貞目︒中略︒諸将地円以為然︒独杜威不可コ遣殺南至懐孟傍
軍糧
︒
とみえる磁川刺史兼北高転運使李殻が︑傑出の人物で︑後晋滅亡迄その職を良く全うしたことは有名な史実である︒この
ま言︑旧五代史鵬八晋少帝紀・開運二年八月の条によると︑
以三司副使給事巾学穀為硝州刺史充北百水陸転運使︒
として︑一ニ司副使ょう北面転運使に任ぜられている︒所で︑前掲表により開運二年八月︑李穀の就任以前の北面転運使の
兼任職名をみると︑ほんどが河北の大務の務帥の兼摂であることは注目される︒こうした傾向が︑後晋天福年間を経た閲
運年聞に入ると︑専門の財務宵で︑しかも巾央最高機関たる三川町の次官より任命されるに至っているのである︒そしてこ
の三司副使を以て任命することは︑後周に入っても行われている︒同書一Jh周懇話・顕徳六年九月内辰の条に︑
以三司副使王賛為内客省使兼北面諸州水陸転運使︒
とあり︑その来臨がコ可制使であったことがわかる︒王賛が三司副使より北面転遥使に就任する経緯は︑川水・史崎町一王質伝
l乙
、
︵周此宗︶及即位︒補東頭供奉官︒累選右臨衛将軍三司副使︒時張美為使︒世宗問京域衛兵歳煤幾何︒美不能対︒賛
代奏
甚悉
︒美
因回
一応
街之
ω及征関雨︒言於世宗︒以賛為客省使領河北諸州計度使︒中略Q
復為
三司
副使
︒
とて︑三司使張美の策動によったものであることを記しているが︑彼が後に再び三司副使となっていること︑及び北面転
運使が河北諸州計度使とも云われていたこと等を︑後晋天福の八年聞から軌道に乗って進展した中央集権化の成果という
五代
の必
商幅
運使
につ
いて
︵笠
永︶
一
O七五代
の北
市転
述快
につ
いて
︵室
永︶
一
O八視角よりみるとき︑北面転運使が唯単に屯駐禁軍への軍艦補給のみを任とするものでなくなって来ているのではないか︑
即ち河北浦州の財務行政を管掌する性格を具備したものになっているのではないか︑との極めて注目すべき傾向を推測し
得るのである︒そうした現実の動きについては改めて後述する︒
︑ 北 面 転 運 使 の 職 掌
北面転運使に属する主要な官職として︑副使・判官などがあり︑その下に前行等の属史が置かれていたυ
旧五
代史
北↑
↓一
山門
荘出
店紀
・同
光三
年夏
四月
丁亥
の条
に︑
以鎮州節度使李嗣源兼北面水陸転運使︒以徐州節度使李紹真為副︒
ム ト 川 目
︒
︒
とあ
り︑
又同
香川
M1
唐末帝紀・消泰二年六月の条には﹁北直転運副使劉福﹂として副使に関する記事がみえ︑
芦劉審交伝には︑
同光初ω越徳鈎鉱幽州︒朝廷以内官時制宏為北扇転運使︒酔審交為判官︒
旧 五 代 史
と﹈判官の記事がみえているυそしてそれらの下には属吏が置かれていた︒冊府元抱一副総録部・詐偽門に︑
張演︒河北転運司前行也心明宗長興元年七月ω
鎮州
奏︒
演偽
出宣
頭支
銭三
貫︒
令外
甥交
領︒
一五
云
と︑前行の名がみえている︒この何一花転運司は北面転運使の視事の庁であるυ所で︑当時の吏臓には︑孔目官・勾押官・
聞折官・勾覆官・抑司官・行首・雑事・前行・後行・貼司等があり︑それぞれの藩州によってその数に相異があったか
ら︑河北転運司にも当然前行以上の職次の人史がいたと考えて誤りあるまい︒こうした構成をもった転運司は︑後晋に入
って転運使が専任制となる迄︵後述︶︑当然兼技者たる節度使の会府に置かれていたのであろう︒
所で北面転運使が箪糧輸送を任とするものであったことは先述したが︑冊府元亀一四一川邦計部・糟運門に︑
︵ 升 ︶
長輿二年間五月三日勅︒応縁沿河船糧︒依北面転運司船搬倉例︒毎一石於数内与正鏑破二勝︒
とあり︑軍糧を漕運する際の耗に関する記事がある︒これと同内容の記事が︑五代会要時二糟運の条にもみえ﹁毎一石於
数内与正鋪破二升﹂とある︒さてこの文によれば北面転運司の管内に於いては︑他に先んじて一石につきニ升の運純が許
されていたことになる︒耗については︑日野教授の﹁五代の耗について﹂︵歴史学研究8ノ7
︶が
ある
︒
これ
によ
ると
般の運耗は乙の時より始まったとされ︑官の立場に立って運耗の損得を論ずれば︑その額の多き程官の損︑民の得となる
と指摘されている︒即ち運耗の公認はそれだけ宮の損失を公認することになるのである︒後唐明宗の治山が財政の比較的
裕かな時代であったために︑これが一般に支給されたとはいえ︑この時以前に既に北面転運司の管内に於いて巡粍が認可
されていることは︑北面転運司の漕運を重視し︑その輸送力の確保に努めていたからに外ならないであろう︒こうした水
運体制の確保と共に︑陸連体制の確保も重要である︒旧五代史時四唐末帝紀・清泰二年六月の条崎︑
詔︒中略︒白干鎮州支絹五万匹送河束︒充博粂之直︒是月︒北面転運副使劉福配鎮州百姓車子一千五百乗︒運糧五代
列
f
とあり︑鎮州成徳軍にある係省の絹五万匹を太原に輸送し︑それを代価に軍糧を鱒買し︑北面転運副使自ら鎮州の百姓や
車子を率い千五百乗の車を以て︑その軍糧を代州に転輸したとゐる︒元豊九域志によると︑鎮州より代州に至る距離だけ
で六百二十里と記しているから︑鎮州より太原府へ︑更に代州に至る水陸路の転還が如何に至難であったかが窺えよう︒
こうした水陸輸送のために必要な舟車の調整︑舟人車子の徴発︑水陸路の整備等色当然その職掌の一つであったであろ
ぅ︒だが北面転運使の沿革から徴して推察するに︑単に輸送補給の職務だけに止まらず︑それ迄に必要な輸送財物の調
達︑財源としての係省銭物の確保︑その必要物資への折変等も重要な職掌であったと考えられる︒こうした職務をすべて
完遂して始めて沿辺禁軍への軍資補給が確保されるのである︒それにはどうしても広範囲の職権なしには.不可能である︒
五代
の北
面転
運使
につ
いて
︵室
永︶
一
O九五代
の北
面転
運使
につ
いて
︵室
永︶
。
後唐時代に節度使中の宿将を選ぴ︑これに兼摂せしめたのは︑河北が燕・梁からの新収地であり︑州県官の協力を強く必
要とすることからも宿将の威力を必要としたためであると思われる︒叉北面転遥使が制置使或は招撫使を兼帯しているの
匂職掌に必要な権限の附与と思われる︒即ち必要に応じて監・院・場・務及び州県の指揮統督が行い得るものであろ
ぅ︒しかし︑宿将による兼摂ゃ︑制置使或は招撫使等の兼帯は︑後晋以降になるとみられなくなるが︑それは必ずしも権
限の縮少を示すものでなく︑かえってそれらの権限が北面転運使の権限の一部に固定していったとみられる︒これについ
ては
後述
する
︒
以上を要するに北面転運使の職掌は︑輸送力の確保のための舟車の調整︑舟人車子の徴発︑水陸路の整備と共に︑所要
軍需品の品目及びその数量の調整も重要な業務であった︒そのため所要軍需品の数量と︑それに対する傍辺地域にて調達
し得る係省銭物の数量との関係に精通し︑過不足について中央三司との連絡︑調整に当らねばならぬことは勿論のこと︑
殊に緊急事態に際しては︑近傍の道州県所属の財貨をも指揮統督せねばならなかったのである︒
四
︑ 北 面 転 運 使 の 職 権 の 拡 大
唐代に威容を誇った藩鎮も︑五代になると︑領域の狭い新置諸藩はもとより︑独立藩鎮も昔日の勢威はなく︑
HE
早節度
使一個の力で中央の朝廷に反抗するようなことは出来伝くなり︑自己の地位を保つために中央に依存する傾向を生じたυ
こうした藩鎮の弱佑は独力で境上の契丹の強圧を防ぐ力なく︑Eつ中央は藩鎮の連衡を防止したため︑諸藩は中央禁軍の
協力を伺いで契丹防備に当るようになった︒藩鎮の防戦体制の間際をうずめる屯駐禁箪の北辺要衝への普及増員が︑その
結果として軍政面に於ける中央集権佑の準備工作となってくると︑その屯駐禁寧の財政的背景を担った北面転運伎の職権
にも︑またそれを基盤として活動の方向乃至性格に変ル加をもたらすことになるのは容易に予測せられるであろう︒そうし
た傾向が北面転運使の任用に当り︑河北大藩の藩帥の兼任制から中央三司の次官たる三司副使への専任制に移行したこと
に見出されるのではないかという推定は前述した︒本節ではこうした傾向についていま少し愚見を述べてみたい︒
五代の節度使は昔日の面影を失っていたとはいえ︑些細な点についてみればまだ領内に根強い支配力を振っていて︑中
央朝廷の支配が直接領内に浸透するのを容易に許すものではなかった︒特に後唐時代の河北地域は燕・架からの新収地で
中央の末端機構が出来ていなく︑屯駐禁軍への軍糧の摺運その他すべての運営が務鎮州県の協力無くしては叶えられなか
ったこというまでもない︒殊に後唐の同光の頃には︑この藩鎮州県に非協力的傾向があったことは想像に難くなく︑
こ ﹀ つ
したことが河北諸藩州に脱みのきく大藩の宿将を北面転運使に任用して︑その威名を籍りるという消極的方法を取らざる
を得なかった理由であろう︒そして調達した軍糧を沿辺へ転運するためには︑長大な地域にわたって部鎖州県の協力を必
要としていた以上︑北面転運使がその職務遂行の範囲に於いてそれらの協力を要求し︑又指揮命令する権限を当然与えら
北面転運使の制置恥阿武は招撫使の兼帯はこうした職掌よりの権限の附与であろう︒
れて
いた
はず
であ
る︒
こう
みて
くる
と︑後晋時代の財務行政官からの任用及び兼帯使職の消滅等は︑北面転運使そのものに職権の拡大がめったためとみなけ
れば
なる
まい
︒
さて︑北面転運使の職権拡大花の根源には︑その契機として︑後唐の頃から禁寧の発達と共に強佑されてきた財務行政
制度上の側面があること明らかであるQそれは直達直下の一般佑︑三司軍将制の発達とその藩州分遣の普及鞍γ直接間接
に関係をもっ問題は頗る多いが︑ここでは北面転運使の職掌と密接な関係にある輸送財物調達財源とレての係省銭物の面
から
考察
して
みる
︒
係省銭物とは茶税・権利や両税上供を含み中央所属の在地方銭物を指す︒中央所属の銭物を地万に存留させることは︑
唐代に既にみえ︑殊に憲宗朝に於ける安史の乱以後失墜していた唐朝の権威を一再興せしめた財的意識については︑日野教
五代
の北
面転
速艇
につ
いて
︵安
永︶
五代
の北
面転
遥使
につ
いて
︵宝
永︶
授の﹁藩鎮体制下に於ける唐朝の振興と両税上供﹂︵東洋学報刊ノ3︶
に詳
論さ
れて
いる
︒
これ
によ
ると
︑
唐代の係省銭
物地方留貯の所以は︑的︑内外兵乱に備えたもの︑刷︑中央の在庫に裕りがあるために生じたもの︑料︑経常的な支出の
ためのものの三つによるとしておられる︒五代に於ける係省銭物の地方留貯も唐代以上に盛んで︑係省或は属省銭物の用
語は文献に多くみえるのである︒そして乙れが最急務の軍事対策のために生じたものであることは︑叛乱抗争の続発した
一たび契丹の入窟が始まると︑出動禁軍はもとより︑諸藩州の出
動兵の費用も中央が受持たねばならなかったので︑中央はこれの留貯に迫られたこと疑いない︒冊府元亀時一ト帝王部・姑 世相より推しても明らかである︒殊に河北にあっては︑
息門・清泰三年の条に︑
是年詔放一週州刺史潟障属省銭一百万︒障以縞軍為辞︒故有是命︒
とみえ︑後唐の清泰三年には撞州に百万以上の属省銭が儲備されており︑それが軍費の運営に備えての留貯であったこと
は︑刺史鴻障が稿軍に名を籍りて使い込んでいることより明らかである︒こうした属省︵係省︶銭の留貯と共に︑箪糧も非
常時
に償
えて
儲積
して
いた
︒資
治通
鑑崎
一一
一関
連元
年春
正月
の条
に︑
先是︒朝廷以員州水陸要衝︒多出来第葉︒為大軍数年之儲︒以備契丹︒
とあり︑契丹の入冠に備えて︑水陸の要衝たる貝川に大軍を数年間支養し得るだけの食糧を留貯していたとあるのはこれ
を示す一例である︒この戦乱に備えての軍糧の留貯及び戦乱に当つてのそれの転輸等の業務を広く指揮し統脅したのが北
面転運使であったこと論ずるまでもない︒所で︑係省銭物の地方留貯が年代を降るに従って普及累増したであろうこと
は︑禁軍発展の沿革に徴して推察され得るであろう︒冊府元亀一指将帥部・専殺門に︑
李俊為商州刺史︒少帝開運二年︒俊奏︒元随呉漢笥監軍資庫撞用官銭二十貫文︒己処斬詑︒云云
と︑後晋の開運二年に商州刺史李俊が軍資庫ぞ監督していた元随の呉漢簡を官銭︑即ち係省銭二十貫文を抱用した界で処
刑したことがみえている︒これは地方留貯の係省銭物が州の軍資障に保管され︑その責任は刺史に課せられていたことを
示してい持︒叉︑旧五代史時八晋少帝紀・開運三年八月の条に︑
様州刺史慕容彦超3削奪在身官爵房州安置︒坐前任濃州撞出省倉麦及私売官組︒云云
とあり︑濃州の省倉︷裂の記事がみえている︒これは資治通鑑竺周年月の条に﹁撞取官麦五百倒﹂とあるから係省物であ
ったこと明らかである︒こうして軍資庫或は省倉に保管会れた係省銭物は︑五代末には各州に於いて留貯されるに到って
いる
o旧
五代
史唯
一一
一周
太祖
紀・
広順
二年
冬十
月の
条に
︑
先是︒諸道州府各有作院︒毎月課造軍器︒逐季搬送京師進納︒其逐州毎年占留繋省銭用不少︒謂之甲料︒云云
とあり︒後周初には︑諸道州府すべてに武器製作のための地方寄留があったとみえる︒この係省銭物の地方存留体制の発
達と並行して普及したのが︑その管掌事務に当る三司軍将の分遺制である︒このような末端機関が確立すると︑北面転運
使にもそれを基盤として職権を拡大佑させたことはいわずして明らかであろう︒
では︑北面転運使の職権の拡大強佑は何時頃から始まったとみるべ︑きであろうか︒史料に乏しきため明確には指摘し難
いが︑その基盤となった財務行政組織が藩州よりも率先強力に政策を実施し得る迄に強化されていた頃からとみて大過あ
るまい︒資治通鑑法天福元年十一月の条に︑石敬璃が後唐の河東節度使として太原に居た時︑その野心を見抜いた後唐
朝廷が彼を抑えんとしたことを述べて︑
初帝︵師敬︶在河束︒為唐朝所忌︒申書侍郎同平章事・判三司張延朗︒不欲河東多畜積︒凡財賦応留使之外︒尽収取
之 ︒
と︑留使以外の財物︑即ち係省銭物を尽く取上げたことがみえている︒これは地方存留の係省鏡物を叛抗勢力に渡さぬよ
う中央三司がいち早く引揚げた例であるが︑こうした係省銭物の地方留貯と中央三司の適切にして迅速なる運営は︑中央
五代
の北
面転
運使
につ
いて
︵室
永︶
一 一 一
五代の北面転運使について︵率永︶
一一
四
の財務行政力の強化を示しているものであうっ︒これによって後唐の末期頃から後晋の天積年間頃には北面転運使の職権
拡大の基盤が出来上り︑財務行政官による専任制へ移行する迄になっていたと思われる︒後晋の開運二年︑三司副使李穀
が北面転運使に任命されたのは︑かかる財務行政組織の発展過程の結果である︒そして三司副使を以て任用したことは︑
地方の財務機闘を広く協力させ︑北面転運使そのものの職権を強佑確立させるためと思われる︒こうした事情が北高転運
使の制置使或は招撫使の兼帯を消滅させたものであろう︒先述の李穀が北面転運使となるや︑当時最も不足し且つ緊急の
軍需物であった戦馬補充のために︑時人に抵抗の大きかった括馬ぞ断行していることは︑その権限の強佑を示す一例であ
︿ 沼︺
︒ ︒
要するに︑後唐初の頃の北面転運使は︑その職務遂行に当り河北大藩の藩帥の威力を籍りねばならなかったが︑後唐末
より財務行政政策の一環として係省銭物の地方留貯体制が普及強ル泊されてくると︑北面転速使はそれら末端組織を基盤と
して次第に職権を強佑拡大化させていった︒後晋関連時代以降にみられる三司制使からの専任制はかかる発展過程の結果
であ
った
ので
ある
五 ︒
︑ 北 面 転 運 使 の 歴 史 的 意 義
最後に︑こうして北高転運使に専任の財務行政官を任命した中央の意図が何処にあったか︑或は換言すれば︑中央三司
よりその次官たる副使を差遣した時どんな効果が現われたかという問題について検討してみる︒
五代では河南の黄河沿いの地は中央の最大財源地帯として重要な地位を占めていた︒叉河北も肥沃ではあったが契丹に
備えて禁軍主力の屯駐する所として︑その軍需調達の整備は国家存亡にも拘わる一大要件であった︒この財政的両要地の
運営処理に当ったのは︑諸道塩鉄転運使であり︑北面転運使であった︒特に北面転運使にあっては︑緊急を要する軍需品
の調達のために︑河北諸務州の係省銭物の運営︑管轄内の監・院・場・務の統督︑及び務州県の指揮等の権限が附与され
ていた︒叉平時にあっては非常時の際の所要軍需の数量品目の調整のために︑管内の係省銭物の収入・支出との関係及び
各地の財源の現在額について精通せねばならなかったであろう︒こうした財務の計度の面に於ける特色は︑後晋以降の三
司副使よりの住用によって︑
る︒宋史常一王費伝に
以賛為客省使領河北諸州計度使︒五代以来︒姑息務鎮︒有司不敢細以法︒費所至発摘姦伏︒無所畏忌︒振挙綱領︒号 一層強佑され︑洞北方面を管掌する最高の財務運営長官とし発展する方向へ進んだと思われ
為称
職︒
とあり︑河北諸州計皮使王賛が溶鎮に姑息な態度をとることなく職務に当ったことがみえるが︑河北諸州計皮使が北両転
運使と同じものであることは︑旧五代史詩︵小周慈市紀・顕徳六年九月丙辰の条に︑
以三司副使王賛為内客省使兼北厨諸州水陸転運使︒
とあることより明らかである︒このように北面諸州或は河北諸州の計度転運使とみえることは︑かかる傾向を推測せしめ
る︒叉王賛が藩鎮に姑息することなく︑法を以て取締り綱領を振挙させたとあるのは︑北面転運使が地方行政長官たる性
格をも具備しつつあったものとして注目される︒
唐代以来国家が努力を続けた藩鎮の細分佑及び直属州佑は︑五代末より急速に進展し︑藩鎮の領州は削減狭小佑されて
務鎮制の最小限度たるニ州を管轄する程度のものが多くなり︑直属州制も拡大佑されて来一明こうした藩鎮制の解体過程
は藩道制の解体に他ならない︒かかる方向の中で中央政府が新たに方面の行政を大きく統轄して行く中間行政機闘を必
要としたであろうこと︑更にはこの役割を担わされたものが北高転逮使の如き性格を持つものであろうことは推察に難く
ない︒職官分紀時四諸路転運使の条に
五代
の北
面転
述使
につ
いて
︵室
永︶
一一
五
五代
の北
面転
運使
につ
いて
︵室
永︶
一一
六
五代罷巡院︒始置転運使︒
とある記述は︑かかる意味から注目される︒これには内容に対する説明がないため直ちに結論を出すには問題があるが︑
唐代の巡院が各道に設置され領域内の係省銭物の徴収及び保管事務を管掌し︑藩鎮体制下にあって地方最高の財務運営機
関として活躍したこと︑
品 ︑
ζの史料に或る程度の見当をつけ得るものと思われる︒即ち唐代に巡院が果した中間行政機関の役割が︑五代になる 更には遠心性を発揮していた藩鎮を兎に角も統轄して唐朝の瓦解を防ぐに役立っていた事実等
と新たに転運使に受継がれたものであろう︒この転運使が北面転運使等の某面転運使といわれるものであったことは︑既
に青山教授も御指摘の所であ向︒
要するに︑宋初に地方行政長官として設置された転運使が︑某面水陸計度転運使といわれ︑ついで間もなく路制が布置
されると︑某路水陸計度転運使と称されたことは︑河北方面に於いて発達した北面・転運使或は北面水陸計度転運使体制の
拡大佑を継承したものに他ならないであろう︒
結
語
以上本稿に論述した所を要約するに︑後唐以後の四朝は皆契丹と境を連ねその侵入に備える辺防軍事体制の確立を迫ま
られた︒藩鎮の防戦体制の間隙をうずめる屯駐禁箪の布置は︑その軍資補給毎任とする北面転運使を常設佑させるに至
った︒ついで後唐の明宗の後半から屯駐禁寧を機軸として︑圏内の中央集権への諸施策が推進せられると︑北面転速使は
転運路沿線を管掌するものから︑次第に国家権力の強佑を背景として河北方面の財務行政をも管掌する方向に進んだので
ある︒宋代に路の監司の一つとして財務行政上重要な春在であった転運使は︑かかる五代に於ける北面転運使の如︑き現実
の体制から発展していったものの表面への登場であった︒
註
ω
︑﹁五代禁軍の地方屯駐につい﹂東洋史学口組制ω
︑拙稿﹁五代節度使府の粉料使について﹂東方学れ輯ω
︑旧五代史雌四謄明宗紀・同年月条に同文の記事がある︒ω
︑冊府元亀崎明立川部−m
運問
︑−
h代
会要
時一
一型
地の
条︒
︐ 寸 ︐ ノ 一 ︐ /
的︑旧五代史巻三唐荘宗紀・同年月条参照︒
一 一
一
FK14
刷︑
附府
一苅
亀叫
ん帝
王部
・鮎
忠門
−M
年月
条参
照︒
ιE tu
m
︑旧五
代史
以M
7 間
以延
探い
い参
照︒
仙︑冊府元亀巻一帝王部・宴字門・同年月条参照︒
一 一
刷︑
旧五
代史
巻一
決隠
帝紀
上・
乾耕
一苅
年秋
七月
条参
照︒
O
一
巻四
om m府
一元
3
亀二邦
叫川
部・
選任
門−
M伴
月条
参照
︒
︐ ノ −
− −
ω
︑註
ω
論文
︒
H U P U A
トe J
﹂
ω
︑旧
五代
史醍
ブ劉
処譲
伝︑
冊府
元亀
山川
一川
一総
禄部
・祭
附門
参照
︒
川問
︑旧
五代
史巻
一周
氷帝
紀・
顕徳
山ハ
年九
月一
内.
h条 ︒
ニ
Oω
︑旧五代史噌い劉株交伝︑同比U泊六叫
円高
知帆
紀・
一六
一樹
二年
六月
f︑
コ
﹂
−
t・?
巾1
G E
内川崎寸条︑新五代史成開劉審交伝︑附府一手篭Mヨ邦計部・選任門を比較すると︑それぞれの表現方訟をとっている︒師︑第二節中の北而松巡使表参照︒
帥︑松井助教授﹁慮組務鋲孜﹂史学雑誌側ノ口問︑通鑑巻二同光二年春正月条参照︒
七三
五代の北面転運使について︵L
冨永
︶
ω
︑通鑑巻二天成元年九月条参照︒七五
側︑適時九一巳天成元年十月及び同具店天成三年八月条参照︒
倒︑
通鑑
巻二
一大
成元
年冬
十月
及び
十二
月条
参照
︒
七五
ω
︑通鐙
暗記
一六
成二
年十
二月
参照
︒
ω
︑遥鑑
巻一
︶天
成三
年五
月︑
七月
及び
八月
の条
参照
︒
七ア
刷︑提言論将帥部・霊門・越徳鈎の条に同様の記事があ る ︒
例︒五代会要時二潮速の条に川内容の記事がある︒
側︑
適時
良一
店長
一興
二年
十一
月釜
高︒
側︑通鑑Ad己清泰二年六月条の胡註に︐4
・
JI
J
総管
府在
叫回
腸︒
石敬
部時
為北
面ぬ
歩軍
都総
掛回
故也
︒
と示
され
てい
る︒
師︑通鑑巻二清泰二年六月条参照︒
七九
側︑
通鑑
唯一
山清
泰三
年十
一月
条参
照︒
倒︑
通鑑
暗に
天一
補元
年十
二月
条申
請山
︒
側︑設
ω
論文
側︑宋会要輯稿・職官志・判知県官軍践の条参照︒
側︑
通鑑
地一
﹂同
年月
条に
は
E 1
ノJ
紺鎮
州輸
絹五
万円
於総
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山山
︒捌
糊軍
制︒
半銭
其人
前半
千五
百
乗︒
運料
於代
州︒
とあ
る︒
七