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The Wind in the Willows における牧歌の特性

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論 文

The Wind in the Willows における牧歌の特性

八代 華 子

はじめに

ケネス・グレアム(Kenneth Grahame, 1859-1932)のThe Wind in the Willows(1908)

はイギリス児童文学の古典として親しまれてきたが、この作品をめぐる批評におい て“pastoral”という語がたびたび使われてきたことに違和感をもつ人はほとんど いないだろう。イギリスの田園を舞台に、動物たちがボートで舟遊びをし、川岸や 畑を散歩し、互いの家を訪ね合うさまは、都市の喧騒を逃れ、つらい労働もなく、

穏やかな自然の中で満ち足りて過ごしているという意味で「牧歌的」であり、その ようなアルカディアを描いた作品が牧歌と呼ばれるのも不思議ではない。最近の研 究でも、たとえば動物たちの心のよりどころである川辺の世界が「牧歌的な田園風 景(a pastoral idyll)」(Dysart-Gale 30)として言及されているように1、この作品 の議論に登場する“pastoral”という語は、多くの場合、親しみ深い自然と共にあ る幸福な状態を示唆してきたのである2

しかしながら、そうした「牧歌的」な雰囲気ではなく、文学の形式としての

“pastoral”、すなわち古くは古代ギリシアのテオクリトスにさかのぼる田園詩、ル ネサンスにおける牧歌劇や牧歌ロマンス、さらには、これらの系譜に連なるとさ れてきた小説群を含む牧歌の伝統に対して、The Wind in the Willowsはどのような 位置を占めるのだろうか。もちろん「牧歌的」な雰囲気も牧歌の特性のひとつで ある。しかしウィリアム・エンプソンが牧歌論Some Versions of Pastoral(1935)に おいてAlice’s Adventures in Wonderland(1865)を牧歌の末裔と見なしたように、

テクストにおいて伝統的な牧歌の型が何らかの形で見出されるのであれば、The

Wind in the Willowsもまた牧歌の「諸変奏」として捉えられるはずである。

本稿では、従来の研究ですでに指摘されているThe Wind in the Willowsの特徴 を、牧歌の観点から検討することで、テクストにおける牧歌性を明らかにしたい。

第 1 章 羊飼いとしての動物たち

The Wind in the Willows批評における“pastoral”という語は、作品世界の「牧歌 的」な雰囲気を指していることがほとんどだが、一方で、このテクストに伝統的な

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牧歌の枠組みを見出そうとする試みもなかったわけではない。ここでは、ジョン・

デイヴィッド・ムーアの議論を手掛かりに、The Wind in the Willowsに登場する動 物たちを牧歌の枠組みの中に位置づけてみようと思う。

The Wind in the Willowsに描かれる動物たちは擬人化された動物たちである。服

を着こなし、人間と対等に言葉をかわし、住まいをもち、人間の社会の一員として 不自由なく暮らしている。動物であるという外見をのぞけば、人間の大人と何ら変 わるところはないように思われる。しかし、その一方で、彼らが労働する様子は いっさい描かれず、モグラとネズミは川へピクニックに出かけ、金持ちのヒキガ エルは自動車を乗り回して遊んでいる。また、登場する動物たちのほとんどが男 性として描かれる川辺の世界は、グレアムが“clear of the clash of sex”(Kuznets

1)と呼ぶような場所である3。このことからムーアは「大人であることの縛りか

ら逃れ、子どものように好きなだけぶらぶらと時間を過ごして(freed from the restraints of adulthood, free to engage in childlike pottering)」(Moore 47)いる動物 たちには、実のところ理想的な子ども時代を過ごす子ども像が投影されているのだ と述べている。

さて、このような動物たちの姿はThe Wind in the Willowsにアルカディアの雰囲 気やノスタルジアを見出す根拠となってきたが4、ムーアはやや見方を変えて、子 どもであり大人でもあるという動物たちのアンビバレンスに、牧歌の基本的な枠組 みを見出している。というのも、伝統的な牧歌における素朴な羊飼いたちが、洗練 された宮廷の言葉を使って語ることによって、素朴さと洗練という相対立する価値 の組み合わせを表してきたように、動物たちもまた、子どもであり大人であること のアンビバレンス、すなわち素朴さと洗練を表しているからである(47)。

この議論はおそらくエンプソンの牧歌論をふまえたものだろう。エンプソンは、

素朴さと洗練という矛盾を引き受ける牧歌の羊飼いが、社会のさまざまな対立や矛 盾を表現する役目を担ってきた経緯から、牧歌の定式とは、「複雑なものを単純な もので表現する(putting the complex into the simple)」(25)ことにあるとした。

そして現代の牧歌では、「単純な」羊飼いの役割を与えられているのは子どもであ り、テクストの中の子どもは、その自由な言動によって社会を風刺していると指摘 した。ムーアは、この羊飼いから子どもへというエンプソンの視点を引き継ぎ、羊 飼い=子どもの系譜を動物にまで延長して、The Wind in the Willowsの動物たちが、

子ども時代という楽園を楽しむ大人であると考えたのである(Moore 47)5 しかしそれでは、動物たちを「単純なもの」とする根拠はどこにあるのだろう か。ムーアは、動物におけるもうひとつの牧歌の特性について言及している。それ は「風景との一体化(fitting into a landscape)」(50)である。牧歌とは、それが理

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想とする風景との一体化を要求するものであり、牧歌の登場人物たちは、羊飼いの ように風景に溶け込むことを求められる。エンプソンの用語で言えば「単純なも の」でなくてはならないのだ。この点において動物は、常に自然の風景と一体化し ているように見えるばかりか、物語の中でアナグマが語るように、栄枯盛衰の激し い人間とは違って先祖代々変わらぬ営みを続けていく不変の存在である。ムーアは このように述べて、動物は時として人間よりもアルカディアの風景になじむことを 示唆している。

け れ ど も さ ら に 重 要 な の は、 風 景 と の 一 体 化 は、 裏 を 返 せ ば「 非 人 間 化

(dehumanization)」(52)へつながるのだとするムーアの指摘である。すなわち、

風景と本当の意味でひとつになることは、風景との一体化を感じさせないくらい 風景に溶け込むことであり、「風景との完全な調和は、死においてのみ達成される

(The most complete harmony with a landscape is attained only in death.)」(52)。補 足するならば、牧歌の人間たちは、風景から独立した他者としてではなく、風景に 同一化するモノとして「非人間化」されざるを得ないということになろうか。そし て、この「非人間化」の問題を避けるために、グレアムは人間ではなく動物を用い て、これを擬人化したのだとムーアは述べている(52)。

動物であれば、風景との一体性を損なうことなく、アルカディアの風景を保つこ とができる。何より、人間の社会的・文化的属性を最初から消された動物は、風景 になじむうえで、少なくとも「非人間化」のリスクを負うことはない。ムーアのこ の主張は、The Wind in the Willowsの動物たちが担う「単純なもの」の役割を考え るうえで、ひとつの方向性を示してくれる。確かに、動物である彼らは、社会的・

文化的属性をもつ他者として風景に向き合わざるを得ない人間に比べて、風景と完 全に調和しているように見える。けれども同時に、擬人化されているがゆえに本来 の生物的属性を消され、「非」動物化されてもいるだろう6。物語に登場するモグ ラ、ネズミ、ヒキガエル、アナグマの身体は人間の大きさにそろえられ、その暮ら しぶりも人間に限りなく近い。つまりこれらの動物たちは、人間としての他者性、

動物としての他者性を共に希釈されることで、逆に、動物でもあり人間でもあると いう、ふたつの意味合いを同時に担うことができるのである7

このような動物の役割は、牧歌における羊飼いの役割を思い起こさせる。という のも、風景と調和することで「非人間化」された羊飼いもまた、自身が住まう素朴 な環境をはるかに超えたコンテクストにおいてさまざまな意味を、時として社会 のさまざまな矛盾を表現しているからである。エンプソンは、牧歌の伝統的な手 法は、羊飼いを政治家や司教などになぞらえることであったとしている(Empson 17)。すなわち、牧歌は羊飼いを「単純なもの」として示し、その「単純な」人物

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に、「社会の各所にある葛藤(some conflict between the parts of a society)」(22)

や、そのような「社会の葛藤を反映する個人の葛藤(the conflicts of an individual in whom those of society will be mirrored)」(22)を表現させてきたのである。とす れば、羊飼いの「単純」さとは、風景へのなじみやすさを意味するだけではなく、

社会や個人の葛藤といった複数のコンテクストに向かって開かれている、言わば共 有性を意味しているのではないだろうか。羊飼いの姿をしながらも、羊飼いとして のアイデンティティの縛りから逃れて、さまざまなコンテクストを受け入れるべ く、自らを広く開放していくこと。「複雑なものを単純なもので表現する」牧歌の 意義は、この点にあるのではないか。「複雑なもの」が同時に生起する共有の場と して、「単純なもの」は牧歌のアンビバレンスを表現するのであり、単に「複雑な もの」を表現する道具としてあるわけではない。「複雑なもの」を「単純なもの」

の優位に置くヒエラルキーを脱して「単純」であることに意味を見出すとすれば、

それは多様なコンテクストの参入を受け入れる共有性にあると思われる。

では、このような羊飼いの役割をThe Wind in the Willowsの動物たちに見出すこ とはできるだろうか。動物たちは、テクストにおいてさまざまな役柄をあてがわれ ている8。たとえば彼らは、社会的地位のある大人であり、かつ社会的責任を逃れ た子どもである。また、後述するように、動物たちはそれぞれ特定の社会階級を反 映しているように見える。すなわち、彼らの暮らしぶりや交友関係から、ネズミや モグラやアナグマは中産階級、ヒキガエルは上流階級、イタチやテンは労働者階級 に属しているらしいことがうかがわれる。あるいは、ヒキガエルの無軌道ぶりを諭 す父親としてのアナグマや未熟な子どもとしてのヒキガエルなど、伝統的な家族の 役柄を見出すこともできよう(Gaarden 44-47)。さらに、占拠されたヒキガエルの 屋敷を奪還するためにアナグマ、ネズミ、モグラ、ヒキガエルが乗り込むエピソー ドに、「ユリシーズの帰還(The Return of Ulysses)」という章タイトルがつけられ ているように、動物たちには、叙事詩の英雄のイメージが重ねられている9。この ような動物たちのあり方は、彼らが複数のコンテクストを受け入れる共有の場とし て機能していることを示しており、彼らを牧歌の羊飼いの系譜に位置づけることを 可能にするものである。しかしまた、羊飼いが擬人化された動物であるという点に こそ、この多彩な役柄は展開されるのではないだろうか。なぜなら人間でも動物で もないがゆえに、人間や動物であることの限界を超えて、複数のコンテクストを同 時に生きることができるからである。かくして動物たちは「単純なもの」として他 者性を希釈されることで、逆にさまざまな役柄を演じられる演者となるのである。

ここまで、The Wind in the Willowsの動物たちにおける羊飼いの系譜をたどるこ とで、テクストに見られる伝統的な牧歌の仕組みを検討してきた。だが、グレアム

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の描いた動物たちの中でもヒキガエルについては、その喜劇的なエピソードが作品 の「牧歌的」な雰囲気と相容れないとする見方もある。次章ではこの点を考えてみ たい。

第 2 章 ヒキガエルの冒険に見られる牧歌性

The Wind in the Willowsが書かれたのは、グレアムが息子のアラステアに語って

聞かせたヒキガエルの物語が始まりだったとされている(Green 268)。この物語は 複数の章に分かれてThe Wind in the Willowsの中に組み込まれているが、「牧歌的」

な雰囲気をもつとは言い難く、むしろ作品全体の統一性を損なうものだと評価され ることも多い10。だがはたして、ヒキガエルの冒険はテクストの牧歌性とは無関係 なのだろうか。

先のムーアによれば、動物たちが安穏に時を過ごす「牧歌的」世界は、その平和 をかき乱す要素を退けることによって成り立つものである(Moore 55)。川辺に住 む者たち、すなわち“the River-bankers”(Grahame 164)の静かな生活に侵入して くるのは、ヒキガエルが引き起こす一連の騒動である。有産階級の出身で遊ぶ金に 不自由しないヒキガエルは、自動車好きが高じて他人の自動車まで勝手に乗り回 し、町の牢屋に入れられてしまう。洗濯女に変装して脱獄し、やっとの思いで帰っ てきてみれば、自分の屋敷は森に住む“the Wild Wooders”(163)であるイタチや テンに占拠されている。このヒキガエルのエピソードをムーアは、川辺の世界の秩 序を脅かすという意味で「反牧歌的(anti-pastoral)」(Moore 50)であるとする。

しかしまた、この「反牧歌的」要素は、牧歌の安定感を強化するうえでは、むしろ 必要なのだとも述べている。事実、屋敷を取り戻したヒキガエルが、これまでの行 動を反省して心を入れ替えることによって、「反牧歌的」要素は取り除かれ、「牧歌 的」世界の安定は維持される。「牧歌的」な雰囲気と相容れない「反牧歌的」要素 も、実は「牧歌的」世界の成立を助けているということになろう。

しかし、これに対して横田順子は、ヒキガエルの冒険を「牧歌的」世界に対立 する要素としては捉えていない。「反牧歌的」と呼べるのは自然の風景に闖入する 自動車という機械なのであり、むしろヒキガエル自身はその「無鉄砲な子ども性」

(横田 67)によって自動車を「玩具」とすることで、「パストラルの破壊分子」た る自動車の力を「矮小化」しているのである(66)。この「無鉄砲な子ども性」を 横田は「自己中心的で無責任で衝動的でやんちゃ」な「子ども性」とも述べている が(73)、このようなヒキガエルの資質が原因となって川辺の世界の静けさが破ら れたことを考えるならば、ヒキガエルの冒険は、「牧歌的」世界の秩序を乱した点

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で「反牧歌的」であるかもしれない。けれども、ヒキガエルの「子ども性」が自動 車を「玩具」化したのであれば、それは、遊びに熱中するヒキガエルの自由さが、

「牧歌的」世界の秩序と、その秩序を転覆させる「反牧歌」の拮抗し合う関係に遊 びの感覚を持ち込んだからではないか。他人の自動車を暴走させながら“you shall know what driving really is, for you are in the hands of the famous, the skilful, the entirely fearless Toad!”(Grahame 157)と叫び、そのまま車ごと池に突っ込むヒキ ガエルは、確かに秩序の破壊者だが、その自由な振る舞いは秩序と反秩序という対 立関係それ自体を「矮小化」し、静と動の入れ替わりを楽しむ遊びへと変えてしま うのである。この点で横田の議論は、ムーアの「牧歌的」「反牧歌的」という図式 を乗り越えているのだと言えよう。

では、横田の言う「子ども性」がもたらす遊びの感覚に、牧歌の伝統を見出す ことはできるだろうか。先のエンプソンの牧歌論にヒントを求めてみよう。エン プソンは、羊飼いから子どもへと受け継がれる現代の牧歌の背後に、18世紀以降 に顕著となった、子どもを崇拝する傾向を見出している。この子ども崇拝には、

ロマン主義的な子ども観に加えて、子どもの自由な言動に大人に対する風刺を認 めるという、「子どもらしさを楽しむ態度([t]he pleasure in children)」(Empson 207)が見受けられた。すなわち、子どもは「想像力による逃避の手段(a means of imaginative escape)」であると同時に、社会を風刺する「裁定者(the critic)」と しての羊飼いの役割を担うようになったのである(221)。だが重要なのは、本来は 羊飼いが担ってきた「裁定者」の役割が子どもへと引き継がれるとき、そこには子 どもの言動から派生する、風刺の喜劇的な効果が加わったのだという点であろう。

The Wind in the Willowsにおけるヒキガエルの冒険は人間の欲望の風刺であるが、

周りを顧みずに遊びに熱中するヒキガエルの子どもらしさは、牧歌における「裁定 者」としての役割を引き継ぎながらも、喜劇的な効果を生み、牧歌と「反牧歌」の 対立を「矮小化」して、テクストを遊戯的な運動へ巻き込んでいく11。テクストに 見られる遊びの感覚は、子どもの「裁定者」によって生み出される喜劇的な効果な のである。

さて、ここまでヒキガエルの冒険が、「反牧歌」としての位置づけを乗り越えて、

伝統的な牧歌の仕組みの一端を担っていることを示してきたが、ヒキガエルに見ら れる牧歌の特性を考えるにあたって別のアプローチを試みることもできよう。それ は、ヒキガエルが脱獄する際に行う変装と、牧歌の伝統に見られる変装のモチーフ との共通点である。

町の牢獄に入れられたヒキガエルは洗濯女に変装して脱獄するが、ただ服装を変 えるだけでなく洗濯女らしい言葉づかいや振る舞いをすることで、行く先々で人々

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の目を欺く。牢獄の番人たちに冷やかしや冗談を言われても我慢し、洗濯女にふさ わしいと思われる返答をしてその場を乗り切ったヒキガエルは、今度は作り話をし て機関手をだまし、ただで機関車に乗せてもらうことになる。

 ‘Oh, sir!’ said Toad, crying afresh, ‘I am a poor unhappy washerwoman, and I’ve lost all my money, and can’t pay for a ticket, and I must get home tonight somehow, and whatever I am to do I don’t know. Oh dear, oh dear!’

 ‘That’s a bad business, indeed,’ said the engine-driver reflectively. ‘Lost your money— and can’t get home— and got some kids, too, waiting for you, I dare say?’

 ‘Any amount of ’em,’ sobbed Toad. ‘And they’ll be hungry— and playing with matches— and upsetting lamps, the little innocents!— and quarreling, and go- ing on generally. Oh dear, oh dear!’ (Grahame 118)

もともと “a strong sense of his own dignity”(115)をもつヒキガエルは、最初は 牢番たちのくだらない冗談を軽蔑し、紳士に “his good woman”(117)と呼ばれて 憤慨するが、やがて自分から進んで作り話をして洗濯女を演じるようになる。けれ ども、涙を流して哀れっぽい言葉を並べ立てる女という、紋切型の役柄を通して思 い出されるのは、ヒキガエルの自己憐憫に浸りやすい感傷的な性格である。自ら

“the well-known and popular Mr Toad”(120)と名乗るヒキガエルは、自分がひと かどの人物であることを信じて疑わないが、実際は、追手に捕まりそうになるたび に涙をこぼし、その場に崩れ落ちてしまう弱い部分をもっている。このようなヒキ ガエルの弱さは、ヒキガエルが大げさに泣く洗濯女を演じるとき、二重写しとなっ て現れ出ている。言うなれば、洗濯女の変装は、変装が覆い隠しているはずのヒキ ガエルの人格を(意図せずして)模倣し、演出する行為なのである。

シンシア・マーシャルは、ヒキガエルの変装をジェンダーの観点から考察し、

洗濯女の扮装と、ヒキガエルのヒステリックな部分すなわち「文化的通念として の女々しさ(culturally marked as feminine)」(Marshall 66)が組み合わさり、ジェ ンダーの境目が曖昧になっていると述べている12。この点からすれば、ヒキガエル の変装は、マーシャルの言う「アイデンティティに対する固定化した考えの転覆

(subversion of the idea of fixed human identity)」(66)を図るものである。しかし 別の見方をすれば、固定化されたアイデンティティの転覆によって浮上するジェン ダーの曖昧さは、ヒキガエル自身の資質に他ならない。変装によってヒキガエルの 感傷的な部分が演出されるのであれば、変装とは実はヒキガエルらしさを表現する

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ものだということになるだろう。ヴォルフガング・イーザーは、ルネサンスの牧歌 における変装のモチーフの議論の中で、変装とは自己を演出する行為であることを 指摘している。

変装は登場人物その人の人格を隠すという限りでは欺きであるが、また一方、

隠すという像を通してその人の多様な像の位相としてのその人の人格を暴くと いう限りではヴェールを剥ぎ取ることである。……それは変装を通して欺きと いう行為はすべて同時に発見であるということを明確に示すにすぎない(イー ザー 125)。

変装においては隠ぺいと暴露という逆向きの力が同時に働いている。しかし、さ らに言えば「変装することで自らを踏み越える」ことは、「異なったやり方でいつ も自分自身でいることができるようになる」がゆえに「自己を演出する」ことであ る(129)。つまり変装とは、隠れていたものが露わになるきっかけであるだけで なく、「自らを踏み越え」て、自分自身のさまざまな面を表現する積極的な行為な のである。イーザーのこの分析は変装に対するヒキガエルの態度の変化に当ては まる。当初は洗濯女に扮することに抵抗があったヒキガエルだが(‘But look here!

you wouldn’t surely have Mr Toad, of Toad Hall, going about the country disguised as a washerwoman!’(Grahame 114))、やがて慣れてくると自ら進んで洗濯女の役を 演じるようになる。たとえば逃亡の途中で出会ったひき舟のおかみさんを相手に、

自分が殊勝な母親であること、洗濯の商売も繁盛していることを得意げにしゃべっ てみせる。

 ‘I dare say it is a nice morning to them that’s not in sore trouble, like what I am. Here’s my married daughter, she sends off to me post-haste to come to her at once; so off I comes, not knowing what may be happening or going to hap- pen, but fearing the worst, as you will understand, ma’am, if you’re a mother, too. ...’(144)

 ‘Finest business in the whole county,’ said Toad airily. ‘All the gentry come to me―wouldn’t go to anyone else if they were paid, they know me so well. You see, I understand my work thoroughly, and attend to it all myself. ...’ (145)

子どもや商売について長い作り話をするヒキガエルは、どこか演技を楽しんでい

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る様子を見せている。それどころか、後日モグラがヒキガエルの真似をして洗濯 女に扮装し、占拠されたヒキガエル屋敷に乗り込んだ話を聞くと、“It was exactly what he would have liked to have done himself”(175)とモグラを妬ましく思うの である。このような変化からは、洗濯女に扮することを恥と捉えるアイデンティ ティのあり方、すなわち“the well-known and popular Mr Toad”であるという自意 識からヒキガエルがいっとき解放され、「自らを踏み越え」ることで、ジェンダー や階級の境目を行き来して楽しんでいる様子がうかがわれる。洗濯女の変装は、こ のようなヒキガエルの人格をのびのびと展開してみせる点で「自己を演出する」行 為となり、アイデンティティの揺らぎを純粋に楽しむ機会となる。変装は「変装し た人物と登場人物その人の人格の間で戯れ動く(=作用する)ものを浮き彫りにす るための様式」(イーザー 117)として、アイデンティティをめぐる「途切れるこ とのない一連の遊戯的可能性(an ongoing series of playful possibilities)」(Marshall 67)を披露するのだと言えよう。

けれども、このようにアイデンティティの遊戯に身をゆだねるヒキガエルのあり 方は、ヒキガエルを始めとするThe Wind in the Willowsの動物たちが本質的に緩や かなアイデンティティを生きていることと関わりがあるのではないだろうか。すで に述べたように動物たちは、大人や子ども、階級、家族、叙事詩の英雄などの複数 のコンテクストが生起する共有の場である。しかし本来ならば動物たちのアイデン ティティを特徴づけるはずのコンテクストは、どれも曖昧にほのめかされているだ けで、決定的な特徴となるに至っていない。たとえばムーアが指摘するように、中 産階級らしい暮らしぶりをしているネズミ、モグラ、アナグマも、実際にその同じ 階級の中でどのあたりに位置しているのかは明確でない(Moore 52)13。何より、

彼らが動物であり人間でもあるという事実、つまり究極的には動物の姿が偽装であ ることは、The Wind in the Willowsの動物たちのアイデンティティ自体が確固たる ものではなく、逆に、複数のコンテクストに向けて開かれている緩やかなものであ ることを示している。この点において、ヒキガエルの変装は、ヒキガエル自身のア イデンティティの演出を越えて、最終的には動物たちのアイデンティティを演出し ているのだということになろう。

だが、このようにして自らを広く開放し複数のコンテクストを受け入れるあり方 とは、「単純な」者として「複雑なもの」を表現する牧歌の羊飼いの本質に他なら ない。とすれば、羊飼いのあり方を演出するヒキガエルの変装もまた、牧歌の枠組 みの中にあると考えられるのではないだろうか。変装は伝統的な牧歌において繰り 返されてきたテーマのひとつだが(Toliver 9)、先のイーザーによれば、羊飼いの 素朴な世界を描きながらも、それを越えてさまざまな意味を表現する牧歌の「二

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重化」は、変装つまり「登場人物の分裂」という形になって「再現・反復」され る(イーザー 116)。ヒキガエルの変装は、羊飼いにおける「二重化」を、ただし いっそう楽しみながら、演出しているのだと言えよう。

以上、ヒキガエルの冒険が、羊飼いとしての子どもがもたらす遊びの感覚、そし て変装によるアイデンティティの遊戯というふたつの点において、牧歌の枠組みの 中で機能していることを示した。次章ではThe Wind in the Willowsに見られる牧歌 特有の態度について検討する。

第 3 章 アンビバレンスと牧歌の態度

これまで見てきたように、The Wind in the Willowsの動物たちはさまざまな形で 牧歌の羊飼いの役割を担っている。けれどもエンプソンの牧歌の定式にもとづくな らば、羊飼いの本質とは、素朴な世界によって複雑な世界を表象するという、「単 純なもの」と「複雑なもの」を同時に背負うアンビバレンスにある。テクストを牧 歌として特徴づけるものは、この相対立する視点が共存するアンビバレンスである

14。ここではThe Wind in the Willowsにおけるアンビバレンスについて考えてみた い。

The Wind in the Willowsをめぐってたびたび取り上げられてきたのは、ヒキガエ

ルの屋敷がイタチやテンに奪われるくだりが、“the River-bankers”と“the Wild Wooders”の住み分けによって象徴される階級社会の不安定さを表しているとする 解釈である。

グレアムの伝記作者ピーター・グリーンはイタチやテンなどの“the Wild Wooders”

を「エドワード朝の上位中流階級にとっては悪夢のような、都市のアナーキスト 集 団(the urban mob-anarchist of every Edwardian upper-middle-class nightmare)」

(Green 246)と位置づけており、世紀の変わり目における中産階級の社会不安が 描かれていると指摘した。この見解はThe Wind in the Willowsを「イギリスの中産 階級とその安定性に対する脅威の物語(a narrative about the English middle class and the threat to its stability)」(Carpenter 163)15とするハンフリー・カーペンター などにほぼ引き継がれ、今日でもさまざまな視点から議論されている16

しかしながら、仮にThe Wind in the Willowsが階級社会の不安定さを表現してい るとしても、それは一面にすぎないのではないだろうか。物語の最後で、ヒキガエ ル屋敷を奪還して勝利を収めた動物たちが散歩をする場面を見てみよう。

Sometimes, in the course of long summer evenings, the friends would take

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a stroll together in the Wild Wood, now successfully tamed so far as they were concerned; and it was pleasing to see how respectfully they were greeted by the inhabitants, …(Grahame 192)

社会は再び安定を取り戻し、“the Wild Wooders”はうやうやしく挨拶をする。

しかし“now successfully tamed so far as they were concerned”という一文は、秩 序がいつまでも続くとは限らないことも暗示している。つまり、ここに描かれてい るのは完全な安定でも完全な不安定でもなく、安定と不安定が共存するアンビバ レンスなのである。このことは“the Wild Wooders”に対する“the River-bankers”

の態度にも表れている。物語の最初で、川辺の向こうに広がる森についてモグラか ら尋ねられたネズミはこう答えている。

‘Well, of course—there—are others,’ explained the Rat in a hesitating sort of way. ‘Weasels—and stoats—and foxes—and so on. They’re all right in a way—

I’m very good friends with them—pass the time of day when we meet, and all that—but they break out sometimes, there’s no denying it, and then—well, you can’t really trust them, and that’s the fact.’

The Mole knew well that it is quite against animal-etiquette to dwell on pos- sible trouble ahead, or even to allude to it; so he dropped the subject.(17)

“the River-bankers”と“the Wild Wooders”は、まさに住む世界の違う者同士 である。だが肝心なのは、潜在的な脅威である“the Wild Wooders”の話をしない ことが暗黙の了解であり、“animal-etiquette”なのだとされている点である。もち ろん、ひとたび“the Wild Wooders”がヒキガエル屋敷を占拠すれば、“the River- bankers”(もっともアナグマは森に住んでいるが)も反撃し、結果として社会の秩 序は回復したかのように見える。けれども“the Wild Wooders”が今のところ服従 しているだけなのだとすれば、どうだろうか。最後は「牧歌的」世界に再び身を落 ち着けた動物たちであるが、当面の間は“animal-etiquette”にならって“possible trouble ahead”についての話題を避けること以外に、見かけの安定を維持し、不安 定さを抑圧していく方法はない。この点において、The Wind in the Willowsの描く 世界は、「牧歌的」な雰囲気が約束する安定感と、不協和音としての不安定感を孕 むアンビバレンスを抱えているのである。

さて、社会の安定を揺さぶる不安定な要素に気づきながら、あえてそれを口にす ることを避けるという「動物の作法」は、実は、伝統的な牧歌の態度ときわめて近

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い。エンプソンによれば、牧歌の基調をなすのは「人生とは、本質的に人間の精神 にとって満たされないものであるが、良い人生を送るためにはそのことにふれては いけないのだ(life is essentially inadequate to the human spirit, and yet that a good life must avoid saying so)」(Empson 95)という感情である。このことから、牧歌 のアンビバレンスは、「人生とは不満足なものである(the inadequacy of life)」(96)

ことの表現だと見なすこともできよう。しかしまた「そのことにふれてはいけな い」のであれば、牧歌とは対立や矛盾を解消しようとすることなく、あたかもそれ に気づかないふりをする態度を促すものだということになる。“the Wild Wooders”

の脅威を意識しながらもあえてそれを問題化しない“the River-bankers”の態度は、

現実から目を背けているようにも見えるが、実は牧歌らしい現実主義に裏打ちされ ているのではないだろうか。

とはいえ、「良い人生を送るためにはそのことにふれてはいけない」という牧歌 の態度をどのように解釈するかについては、議論の余地があるだろう。たとえば ポール・アルパースは、その牧歌論の中で、牧歌の羊飼いは「自分のディレンマ や痛みに耐えて、それを歌うことはできるが、その解決や克服のために行動した り、その終わりを見届けることはできない(he is able to live with and sing out his dilemmas and pain, but he is unable to act so as to resolve or overcome them, or see them through to their end.)」(Alpers 68-69)と述べている。もちろん、このような

諦念はThe Wind in the Willowsにそのまま当てはまるわけではない。動物たちは、

ヒキガエル屋敷の占拠に対して、まさに「行動」するのであり、武器を手に取って イタチやテンに立ち向かい、勝利するからである。だが、そのようにして取り戻し た平穏な生活は「彼らに関する限り(so far as they were cocerned)」続いているの であり、行動が根本的な解決に至らなかったことが暗示されている。ムーアは、安 定を脅かす要素を次々と排除していけば、結果としてアルカディアの風景はますま す狭まっていかざるを得ないとして、川辺の世界の安定が本質的に不可能なもので あることを指摘する(Moore 59)。その意味では、世界の安定と不安定が共にある アンビバレンスに対する“animal-etiquette”は、アルパースが牧歌の羊飼いに見出 しているような牧歌の諦念、すなわち行動することの限界と世界の不安定さに対す る無力を表明しているのだとも言えよう。

けれども一方で、エンプソンの議論に戻るならば、牧歌の態度は必ずしも理想の 放棄と結びつくものではない。1章で部分的に引用したエンプソンの言葉を改めて 見てみよう。

The poetic statements of human waste and limitation, whose function is to

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give strength to see life clearly and so to adopt a fuller attitude to it, usually bring in, or leave room for the reader to bring in, the whole set of pastoral ideas. For such crucial literary achievements are likely to attempt to reconcile some conflict between the parts of a society; literature is a social process, and also an attempt to reconcile the conflicts of an individual in whom those of soci- ety will be mirrored.(Empson 22)

エンプソンの考えでは、牧歌もまた、社会や個人の「葛藤(conflicts)」を示す と共に、究極的には「葛藤と和解しようとする試み(an attempt to reconcile the

conflicts)」を表現する文学である。つまり葛藤の打ち消し難さを認めながらも、

それにあえてふれない牧歌の態度は、実のところ葛藤と「和解」するための戦略 なのだということになろう。だが、この「和解」とは何を意味するのだろうか。

エンプソンの牧歌論においては「社会の各所にある葛藤(some conflict between the parts of a society)」は、社会や個人の葛藤を歌う素朴な羊飼いによって、つま り「複雑なものを単純なもので表現する」牧歌の定式によって表現されるが、そ の根本的な発想は、「単純なもの」と「複雑なもの」という相対立する価値の「釣

り合い(balance)」(22)を取ることにある。「単純なもの」と「複雑なもの」を共

に引き受ける牧歌の動機を代弁してエンプソンは「単純な人間がもつ感情をしば し想像してみることで、私は自分自身の釣り合いを取らなくてはならない(I must balance myself for the moment by imagining the feelings of the simple person.)」(22- 23)と述べ、「単純なもの」と「複雑なもの」が共にあることの意味を説明する。

‘ ... I must imagine his way of feeling because the refined thing must be judged by the fundamental thing, because strength must be learnt in weakness and sociability in isolation, because the best manners are learnt in the simple life’

…(23)

相対立する価値が牧歌の中で示されるのは、片方の側からもう片方の側へと身を 置いてみることで、自らの限界を脱してより良い均衡を達成できるよう試みるため である。つまり牧歌が目指す「和解」とは、人生の不完全さを解決するのではなく 許容することによって、ひとつの均衡へ至ることなのである。「単純なもの」と「複 雑なもの」を担う牧歌の羊飼いはこの実践を引き受ける者に他ならない。葛藤に正 面から立ち向かうのではなく、そのままを受け入れること。エンプソンが「良い人 生を送るためにはそのことにふれてはいけない」という一節において示したのは、

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葛藤に対して受け身の姿勢を取ることで、実は葛藤を均衡へ変えていこうとする牧 歌のしたたかさなのではないだろうか。

このように考えるならば、The Wind in the Willowsにおける世界の安定と不安定 のアンビバレンスは、それ自体がひとつの均衡のイメージを提示しているのだとも 言える。しかし牧歌の戦略的な態度は、とりわけヒキガエルが担うアンビバレンス において明らかとなる。勝利を祝う祝賀会で得意の演説や歌を披露することを禁じ られたヒキガエルは、がっかりして寝室に閉じこもるが、やがて“his countenance cleared, and he began to smile long, slow smiles.”(Grahame 189)と表情が変わっ ていく。それから部屋中の椅子を並べて、あたかも聴衆が目の前にいるかのように おじぎをし、自分をほめたたえる歌をひとり高らかに歌う。そして歌い終わると

“he heaved a deep sigh; a long, long, long sigh.”(190)と長いため息をついて、祝 賀会の客たちが集まる部屋に出向き、終始謙虚な態度で主人役を務めるのである。

想像の聴衆に向かって思い切り歌を歌うという、最後の小さな反逆で満足するしか なかったヒキガエルは、自分自身の中の子どもっぽい衝動に区切りをつけて改心し たかのように見える。ヒキガエルもまた「人生とは、本質的に人間の精神にとっ て満たされないものである」ことを受け入れざるを得ない。けれども、祝賀会で 時折“he stole a glance at the Badger and the Rat”(191)と様子をうかがっては、

自分のあまりの変わりようにあっけにとられているのを確認して“the greatest satisfaction”(191)をおぼえるというくだりからは、ヒキガエルが、自身の中にあ る葛藤を解消したというよりも、地に足のついた尊敬される地主であることと、自 由を求める反逆児であることのアンビバレンスを引き受ける選択をしたのだと考え られないだろうか。事実、迷惑をかけたひき舟のおかみさんに金を払うという話に なると、おかみさんから侮辱的な扱いを受けたヒキガエルは反発し、自分は“an instrument of Fate, sent to punish fat women with mottled arms who couldn’t tell a real gentleman when they saw one”(192)なのだと言い張るのであり、反抗心は依 然として消えていない17。しかし川辺の世界で生きていくのであれば、葛藤があっ てもそれにふれないようにする他ない。ヒキガエルはそのようにして反抗心をむき 出しにしないことで、アンビバレンスを生きるという芸当をやってのけようとした のではないだろうか。それは、反逆児であることを捨てずに責任ある地主であるこ ととの釣り合いを取ろうとするヒキガエルの、ひいては牧歌の、ひそかな戦略なの である18

このように、The Wind in the Willowsは世界や個人のあり方をアンビバレンスと して表現しているが、いずれもその根底にあるのは、対立や矛盾を受け入れる牧歌 の受動的な態度である。けれどもそこに悲壮感はない。最後の場面では、動物たち

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は静けさを取り戻した森の中で、夏の夕暮れの散歩を楽しむ。それぞれの心の中に あるのがアンビバレンスに対する諦念であろうと「和解」の意志であろうと、“the Wild Wooders”が噂する伝説の英雄として「牧歌的」世界の奥へと消えていく彼 らの姿は、満ち足りているようにも見える。とすれば、もはや彼ら自身は、ネズミ とモグラが川の小島で出会った牧神の“forget”(107)という声に従って「人生と は、本質的に人間の精神にとって満たされないものである」ことを忘れようとして いるのかもしれない。このとき、「牧歌的」世界のアンビバレンスに耳を傾けるよ う促されるのは、ただ読者のみなのである。

おわりに

本稿では、羊飼いとしての動物、遊びの感覚、変装、そしてアンビバレンスに関 わる受動性という四つの観点からThe Wind in the Willowsにおける牧歌の特性を考 察した。The Wind in the Willowsが“pastoral”であるとすれば、それは単に「牧歌 的」な雰囲気を備えているからではなく、伝統的な牧歌の特徴を示しているからで ある。牧歌の羊飼いと同じく、動物たちは複数のコンテクストが立ち現れる共有の 場となる。「反牧歌」的であるように見えるヒキガエルも、その遊びの感覚や変装 において牧歌の枠組みの中で振る舞っていることが分かる。さらに、対立する視点 が共存するアンビバレンスに対しては人生に対する牧歌特有の受動的な態度を見せ る。このような動物たちのあり方は、羊飼いのように「単純なもの」でありながら

「複雑なもの」を表している点で、「複雑なものを単純なもので表現する」牧歌の 定式をなぞっているのである。

けれども、この「複雑なもの」について動物たちが思いめぐらすことはない。彼 らにとって、人生の対立や矛盾は、牧神との邂逅の記憶のように、あるいは“the

wind in the willows”のように、ひととき感じられるものに過ぎない。「単純なもの」

として“happy and light-hearted as before”(Grahame 105)であることが、彼らの 生き方だからである。The Wind in the Willowsの牧歌性は、「複雑なもの」を表現 しながらも最後は「単純なもの」への回帰を促す。だが、それは現実からの逃避で はなく、「複雑なもの」をおおらかに受け止める「牧歌的」世界への回帰である。

エンプソンが示唆したように、牧歌とは人生の複雑さをめぐりながら、「単純」で あることによって複雑さとの「釣り合い」を取ろうとする「和解」のプロセスなの ではないだろうか。

(16)

[注]

1 ただし、デボラ・ダイサート=ゲールは、牧歌の世界と、(ヒキガエルの自動 車によって象徴される)テクノロジーとの対比に、近代化と「牧歌的理想(the pastoral ideal)」の終焉にいかに向き合うかというグレアムの問いかけがある と結論している(Dysart-Gale 40-41)。 

2 マリア・ニコラエヴァはThe Wind in the Willowsが牧歌として議論されてきた 経緯にふれながら、児童文学における「牧歌(pastoral works)」の特徴として、

特定の場所へのこだわり、外の世界から独立した幸福な空間、調和の感覚など を挙げている。ここでも“pastoral”という語はアルカディアの意味で使われ ている(Nikolajeva 20-21)。

3 ロイス・R・クズネッツはThe Wind in the WillowsCharles Scribner’s Sons 版(1908)序文に、このグレアムの言葉の引用があると述べている(Kuznets 1, 137n)。ただし筆者はこの版を直接確認できていない。

4 たとえばデボラ・スティーヴンスンは、牧歌がノスタルジアの美学であるとの 考えを引き合いに出しながら、この作品におけるノスタルジアが子ども時代や 失われた風景といった過去への憧憬に関わるものであると指摘し、グレアムが

「牧歌的無時間(pastoral timelessness)」の中にある空想の世界を描いたのだ と述べている(Stevenson 130)。

5 同じくエンプソンの論にもとづいて、ジョアン・リンは、Russell Hoban The Mouse and His Child(1967)に、羊飼い=子ども=おもちゃの動物という 系譜を見出している(Lynn 20)。

6 マーシャルは、たとえば人間の自動車を乗りこなすヒキガエルなどを例に挙げ て、The Wind in the Willowsの動物たちが身体の大きさの制約から逃れ、動物 と人間という種の境界を越えて、さまざまな喜びを享受していることを指摘し ている(Marshall 60)。

7 矢野智司は動物の擬人化について、動物の姿が人間に近づくにつれて「動物の 他者性は一般に低減していく」(矢野44)と述べている。しかしまたそのよう な「人間中心主義」にもとづく擬人化とは逆に、人間の方をあらゆる存在へと

「世界化」する「逆擬人法」があることも指摘する(82)。この「逆擬人法」に おいては「人間はもはや世界の中心という特権性をもたず、他の存在者と等価 であり、全存在者によって作りだされる風景の一部分となる」(83)のであり、

「動物や昆虫や植物や鉱物は、人間が欲望を実現するための手段や道具である ことをやめてしまい、人間とは異なる言語ゲームに生きる『他者』となる」(83)。

(17)

The Wind in the Willowsの動物たちの場合には、このような「逆擬人法」によ り「他者のもつ異質性を読者に贈与」(82)する性質は見受けられないが、動 物としての他者性を希釈されている一方で、動物のように風景に溶け込むこと で「脱人間化」(82)を図っていると考えられるかもしれない。 

8 たとえばピーター・ハントは、動物たちが象徴する役割を指摘している。すな わちアナグマは地主、おじ/父親であり、ネズミは詩人、唯美主義者、夢想家、

兄、ヒキガエルは反逆児、成金、妄想家、甘やかされた子ども、モグラは労働 者階級の事務員で、かつ大人の考え方や言葉遣いを学ぶ子どもでもあるとする

(Hunt 165-166)。

9 この点についてはジェラルディン・D・ポス(Poss 80-90)の議論を参照のこと。

10 たとえばハンフリー・カーペンターは川辺の世界のエピソードとヒキガエル の冒険のエピソードは、ふたつの別々の本であると述べている(Carpenter 229n)。

11 児童文学の牧歌性と遊戯との関わりについては拙論(Yatsushiro 34-36)を参 照のこと。

12 さらにマーシャルは、洗濯女に扮したモグラがヒキガエルと違って変装を楽し んでいることに言及している。すなわちモグラの変装は、変装の不安定さと遊 戯性をより強調し、異性装の根本にあるジェンダーの境界を侵犯するパロディ となっている(Marshall 66)。

13 特にモグラに関しては、ビールや九柱戯や石膏像などに対する嗜好や、内装に 金をかけたという会話が、落ちぶれた紳士を連想させる反面、快適さを当然の ように受け入れ、収入についても話題にしない点は階級が上であることも示唆 する(Moore 52)。なお、ハントは、動物たちの階級がさまざまな形で描かれ ていることを認めながらも、彼らの言葉には階級差がほとんど反映されていな いと述べている(Hunt 163-164)。

14 たとえばハロルド・E・トリバー(Toliver 3)やテリー・ギフォード(Gifford 11)の議論を参照のこと。

15 ただしこれはカーペンターの議論で提起されているさまざまな見方のひとつに 過ぎない(Carpenter 151-169)。

16 たとえばキャサリン・L・エリックは、階級秩序の転倒に、ミハイル・バフチ ンの「カーニヴァル性」を見出している(Elick 43-44)

17 グリーンによれば、グレアムは「もちろんヒキガエルは本当に改心などしない。

そういうことはできない性質なのだ(Of course Toad never really reformed; he was by nature incapable of it.)」と述べている(Green 248)。

(18)

18 アンビバレンスの「均衡」に関しては、マイケル・メンデルスンがThe Wind

in the Willowsにおいて、家庭的な居心地の良さを求める心と、英雄の冒険心の

対比が描かれている点に注目している。このふたつの衝動はそれぞれが異質な プロット、異質な価値観としてテクストを分裂させているとされてきたが、実 は複雑に絡み合いながら最後には共存し得ることが示されていると述べている

(Mendelson 141)。

[引用文献]

Alpers, Paul. What Is Pastoral? Chicago: The University of Chicago Press, 1996.

Carpenter, Humphrey. Secret Gardens: A Study of The Golden Age of Children’s Literature. London: George Allen and Unwin, 1985.

Dysart-Gale, Deborah. “Techne, Technology, and Disenchantment in The Wind in the Willows.” Kenneth Grahame’s The Wind in the Willows: A Children’s Classic at 100.

Eds. Jackie C. Horne. and Donna R. White. Lanham, Md.: The Scarecrow Press, 2010. 23-41.

Elick, Catherine L. “Up [and Down and Back and Forth] We Go!: Dialogic and Carnivalesque Qualities in The Wind in the Willows.” Kenneth Grahame’s The Wind in the Willows: A Children’s Classic at 100. Eds. Jackie C. Horne. and Donna R. White. Lanham, Md.: The Scarecrow Press, 2010. 43-66.

Empson, William. Some Versions of Pastoral. Harmondsworth: Penguin Books, 1966.

本稿の引用では邦訳(ウィリアム・エンプソン『牧歌の諸変奏』柴田稔彦訳、

研究社出版、1982年)を参照した。

Gaarden, Bonnie. “The Inner Family of The Wind in the Willows.” Children’s Literature 22 (1994): 43-57.

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Grahame, Kenneth. The Wind in the Willows. Ware: Wordsworth Editions, 1993.

Green, Peter. Kenneth Grahame: 1859-1932. London: John Murray, 1959.

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(19)

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Toliver, Harold. E. Pastoral Forms and Attitudes. Berkeley: University of California Press, 1971.

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イーザー、ヴォルフガング『虚構と想像力 文学の人間学』日中鎮朗、木下直也、

越谷直也、市川伸二訳、法政大学出版局、2007年(Iser, Wolfgang. Das Fiktive und das Imaginäre: Perspektiven literarischer Anthropologie. Frankfurt am Main:

Suhrkamp Verlag, 1991)。本稿の引用はすべて日中鎮朗の訳による。

矢野智司『動物絵本をめぐる冒険 動物―人間学のレッスン』勁草書房、2002年。

横田順子「ユートピアの作り方 ケニス・グレアムThe Wind in the Willows再考」『児 童文学研究』31号、1998年、75-64(32-43)

参照

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