新井 葉子
Yoko Arai
1930 年代に航空機から撮影された沖縄の空中写真に関する調査の中間報告である。第1節では、
1920 年代から 1930 年代にかけての日本における空中写真撮影状況を軍と民間とに分けて概観す る。第2節では、防衛省防衛研究所が所蔵する海軍文書に含まれる沖縄の空中写真について考察する。
【目次】
はじめに
1.1920 年代から 1930 年代の空中写真撮影状況 1)日本軍の空中写真撮影
2)民間の空中写真撮影
2.新たに確認された 1930 年代の沖縄の空撮 1)那覇飛行場の設置
2)海軍小禄派遣隊の空中写真 おわりに
はじめに
筆者は、沖縄の景観を撮影した最古の空中写真として、米軍が 1944 年 9 月 29 日に撮影した一 連の写真を確認していたが、今回新たにそれより古い空中写真をみつけることができた1。
日本軍の空中写真撮影が 1920 年代から本格的に実施されるようになったこと、そして沖縄には 1930 年代に海軍が小禄飛行場を設置していたことを考え合わせると、1930 年代の沖縄を撮影し た空中写真が存在しても不思議ではないと考え、調査を始めることにした。調査を進めていたとこ ろ、防衛省防衛研究所所蔵の海軍文書の中に沖縄の空中写真が複数含まれていることが判明した。
これらの画像が撮影された時代背景を整理していくことで、1930 年代の沖縄の空中写真を他に も発見できるのではないか。そのような期待を持って、1920 年代から 30 年代のわが国における 空中写真撮影状況と 1930 年代に撮影された沖縄の空中写真について、これまで調べたことを研究 ノートとしてまとめることにした。なお、本稿中は旧日本陸軍を陸軍、旧日本海軍を海軍と記載する。
1930 年代の沖縄の空中写真
沖縄を撮影した最初の空中写真についての研究ノート A research note on aerial photographs of Okinawa in the 1930s
1.1920 年代から 1930 年代の空中写真撮影状況
世界初の空中写真は 1858 年、フランスのナダールが高度約 80 メートルの繋留気球からパリ郊 外で撮影した2。日本でも 1877 年の西南戦争を契機に国産気球が開発され、1878 年には陸軍の気 球から横山松三郎が空中写真撮影を試みていた3。1892 年には当時陸軍の陸地測量手であった小 倉倹司がフランス製気球から空中写真の撮影を行った4。その後、1901 年には陸軍で徳永熊雄ら が作製した国産気球から陸軍砲工学校(新宿)の空中写真が撮影されている5。1904 年 6 月には 海軍技師・市岡太次郎が東京・築地上空に揚げた気球から空中写真を撮影した6。市岡はこの 2 ヶ 月後の 8 月、日露戦争の戦場であった旅順で陸軍の気球に搭乗し、空中写真偵察を行っていた7。 日露戦争終結後、1905 年 11 月に行われた凱旋観艦式では陸軍通信隊が、1906 年 4 月の凱旋観兵 式では陸軍中野気球隊が、気球から空中写真を撮影していた8。
1)日本軍の空中写真撮影
わが国で飛行機からの空中写真撮影が始まったのは 1911(明治 44)年のことで、徳川好敏によ るという9。1911 年 4 月に所沢で行われた軍用飛行機第二回演習で、徳川好敏大尉が操縦するブ レリオ機から、同乗の伊藤中尉がコダックA三号(ハガキ型)写真機で 12 枚前後の写真を撮影し たのが日本の航空写真の嚆矢との報道もある10。
第一次世界大戦の後、1919(大正 8)年に陸軍は航空学校を設置してフランスから航空教育団 を招聘するなど、海外から航空技術を吸収し始めた。空中写真術習得を含めた航空偵察教育が、千 葉の下志津で行われた。1923(大正 12)年 9 月の関東大震災では陸軍、海軍ともに被災地の状況 を空撮し、震災状況の把握や震災後の復興に寄与する貴重な空中写真を撮影した11。
小田内通敏[5]によると、陸軍下志津航空隊は、1930 年頃までに 2 万枚に及ぶ空中写真を撮影 していたという。また、1936 年には陸軍が東京と北海道で空撮演習を行っており、少なくとも北 海道で 150 枚、東京・神奈川・山梨で 648 枚の空中写真を撮影していた12。このように、日本軍 は 1920 年代から 30 年代にかけて航空写真の撮影実績を重ねていった。
2)民間の空中写真撮影
1911(明治 44)年、奈良原三次が設計した奈良原式2号機が、本人の操縦により、所沢で国 産機として初飛行に成功した。このとき奈良原の助手を務めていた伊藤音次郎は、1915(大正 4)
年に伊藤飛行機研究所を開設した(伊藤音次郎[3])。
1922(大正 11)年 6 月には井上長一が日本航空輸送研究所を設立し、大阪は堺の大浜海岸に水 上飛行場を開設し、同年 11 月には大阪と井上の故郷である徳島とを結ぶ航路(大阪―徳島)、そ して大阪―高松間で定期航空を開始した(中谷達也[2])。
1923(大正 12)年 1 月には朝日新聞社が東西定期航空会を設立し、東京―浜松―大阪間で定期 航空輸送を開始した13。同年、川西竜三は日本航空株式会社を設立し、大阪―別府間の定期航空を 開始した14。そして 1928(昭和 3)年には政府の補助指導の下、日本航空輸送株式会社が設立さ
れた15。同社は、のちに那覇を経由する定期航路を設置することになる。
同時期に類似した名称の事業者が登場するため、下表で簡単に整理しておく。
定期航空輸送が始まったことで、搭乗する者が空撮用のカメラを用意すれば、空中写真を撮影で きる時代になった。実際、1920 年代より日本の民間企業のなかにも航空写真事業を扱うところが 現れ始めた。前出の伊藤飛行機研究所は、月刊誌『飛行』の 1921 年 7 月号に空中写真部開設の広 告を出している。因みに『飛行』とは、航空思想の一般国民への普及を目指していた帝國飛行協会 が 1920 年 11 月に創刊した月刊誌である。
伊藤飛行機研究所の広告は「本所の新らしき試み 空中写真部開設」との見出しで、「工場、事務所、
商店、学校、別荘、劇場、庭園、野外宴遊会場、各種競技会、船舶等一切の空中撮影(鮮明無類)応需」
とし、料金は「原版一枚に付金百円焼増及引伸(新聞紙大まで最も鮮明に撮影)実費」と掲載して いる。1頁全体を使った広告で、千葉停車場付近の航空写真をサンプルとして掲載している。
また、改造社や朝日新聞社など、大手の出版社や新聞社の中には社機を所有するところも現れ、
自社の出版物に社機から撮影した空中写真を取り入れるようになる16。
2.新たに確認された 1930 年代の沖縄の空撮
本節では、まず沖縄上空に航空機が飛来する機会を生み出した、那覇飛行場の設置について見て いく。次に、1938 年に海軍が撮影した沖縄の空中写真を紹介したい。
1)那覇飛行場の設置
1920 年代末から 1940 年頃にかけて、全国各地に次々と飛行場が設置された。陸軍飛行場 48 か所(朝鮮半島、中国大陸、台湾の飛行場を含む)、海軍飛行場 32 か所(朝鮮半島、台湾の飛行 場を含む)が設置され17、公共用飛行場 29 か所、そして非公共用飛行場(民間企業や財団法人、
表1:日本の航空事業黎明期の航空事業者
年 航空事業者
1915 伊藤飛行機研究所(伊藤音次郎)
1922 日本航空輸送研究所(井上長一)
1923 東西定期航空会(朝日新聞社)
日本航空株式会社(川西竜三)
1928 日本航空輸送株式会社(政府の補助指導による)
※同社は 1935 年 10 月に那覇を中継地点として福岡
―台北間の定期航空輸送を開始し、1936 年 4 月には 那覇―福岡、那覇―台湾間の旅客輸送を開始した。
個人、あるいは国所有)が少なくとも 22 か所設置されていた18。
那覇港湾・空港管理事務所[15]は、1933 年には沖縄にも海軍の飛行場が設置されたとしてい る19。場所は島尻郡小禄村字當間(現:那覇市小禄)であった。この飛行場は、のちに国の公共用 飛行場となる。国からは、まず 1935 年 12 月 23 日付で、同月 26 日より沖縄県島尻郡小禄村に那 覇飛行場を設置する告示(逓信省告示第 3310 号)が出され、次に 1936 年 4 月 11 日付で、同月 15 日より公共用の飛行場として那覇飛行場を設置するとの告示(逓信省告示第 757 号)があった。
しかし、この告示の後に作成された海軍文書を見ると、同飛行場を指す際に「小禄飛行場」の名称 が継続して使用されていた。海軍資料との関連でこの飛行場に触れる本節においては、「小禄飛行場」
の名称を用いることにする。
日本航空輸送株式会社は、同飛行場が公共用の飛行場になる以前の 1935 年 10 月 8 日、福岡―
那覇―台北間の定期航空輸送を開始した。これはフォッカーFVII機を用いた一週間に一往復の定 期便で、郵便物と貨物のみの輸送であった20。(その後、同年 12 月 23 日付で同飛行場が国の公共 用飛行場となったのは既述のとおりである。)1936 年 4 月 1 日には、この路線に旅客機(ダグラ
スDC-2 型陸上旅客機)が導入され、那覇―福岡、そして那覇―台北間の旅客輸送が実現した21。
ところで、第 1 節で述べたように、1920 年代の日本では軍でも民間でも航空写真撮影が始まっ ていた。軍用機でも民間機でも、航空写真撮影用のカメラを機内に持ち込めば、空撮可能な時代 が到来していた。ところが、1936 年頃から軍が空中写真の撮影や頒布を取り締まるようになる。
1937 年 7 月 5 日には逓信省が航空運送業者に対し、航空旅客が機内に写真機を持ち込まないよう 取り締まることを指示した22。
那覇に福岡や台湾から航空旅客が訪れるようになった 1936 年 4 月から、航空旅客による空撮が 禁じられた 1937 年 7 月初めまでの 1 年 3 カ月の間に、日本航空輸送株式会社の路線で沖縄上空 に飛来した旅客が、空中写真を撮影した可能性はあるだろうか。
離陸して高度を上げていく旅客機の窓、あるいは着陸すべく高度を下げていく旅客機の窓から、
肉眼で沖縄の島々を見下ろすという体験、つまり空中写真の視点で沖縄を眺める体験をした人の数 は、この時期から増えていったと考えてよいだろう。しかし、本格的な航空写真撮影のためには空 撮に適したカメラや撮影計画が必要である。飛行中の旅客機の窓越しに写真撮影が行われていたと しても、一般の小型カメラを用いた場合には地表の景観を記録していた可能性は低いようにも思わ れる。
2)海軍小禄派遣隊の空中写真
前項での考察を受けて推論を立てれば、1930 年代に空撮に適したカメラを持ち、撮影計画を立 てて沖縄上空から空撮を行うことが出来たのは軍関係者に限られてくるのではないかと思われる。
当時の軍関係資料を調べてみると、防衛研究所所蔵の海軍文書の中に 1930 年代の沖縄の空中写真 を含む資料が見つかった。
その資料とは、「昭和七年以降航空基地及訓練関係綴」という表題の簿冊の中に収められた「第
四回陸上基地訓練報告」である23。海軍小禄派遣隊の鳳翔航空部隊指揮官・大橋富士郎による報告 書である。報告書の日付は 1938(昭和 8)年 5 月 6 日であり、内容は同年 4 月 12 日から 5 月 5 日までの訓練報告であった。この報告書の中に、沖縄島小禄、泡瀬、久志、そして伊江島の空中写 真が貼付されている。いずれも斜写真で、プリントの大きさはそれぞれ縦が約 11 ㎝、横が約 15
㎝である。
小禄の写真は、小禄飛行場の南側上空から撮影した斜写真(図1)である。画面中央には、当 時の小禄飛行場の独特な形状(「く」の字の角の部分に四角形の一角を嵌め込んだような形)が認 められ、そこに、複葉機 28 機が確認できる。(訓練報告によれば、この時の訓練では戦闘機 19 機、
攻撃機 11 機に何らかの故障が生じたというから、少なくとも 30 機が訓練に参加していたと考え られる。)画面手前には民家の瓦屋根がいくつか確認できる。飛行場の向こう側には漫湖に浮かぶ 奥武山、その向こうには不鮮明ながらも那覇の街、さらに遠景には首里の高台がおぼろに捉えられ ている。
また、公文書ではないが、大橋富士郎が作成した写真アルバムのなかにも、空中写真が 30 枚ほ ど貼付されており、その中に沖縄の空中写真も含まれている24。上述の報告書に貼付された小禄飛 行場の写真よりもさらに高い高度から同地を撮影した写真があり、また、波之上宮を低高度から撮 影した斜写真も貼付されている。波之上宮の写真は、石灯籠が配された参道の石段から鳥居を抜け 境内の社へと至る景観、そして波之上宮の背後の海までを捉えており、よく見ると、白い帽子を被
図1:1938 年の小禄飛行場
出典:「昭和七年以降航空基地及訓練関係綴」(防衛研究所戦史研究センター所蔵)
り白っぽい長袖・長ズボンの制服姿の 20 人ほどが、境内や石段、そして海浜へと続く道に認めら れる。これらの写真に撮影年月日は記載されていないが、1938 年に実施された海軍陸上基地訓練 の際、あるいはその前後に撮影されたと考えてよいのではないだろうか。
上述したように、1937 年 7 月には一般の航空旅客による空中写真撮影が禁じられていた。よって、
海軍小禄派遣隊の報告書に掲載された 1938 年の沖縄島や伊江島の空中写真、そして大橋個人のア ルバムに貼付された小禄や波之上宮の空中写真は、軍だからこそ撮影できたものである。いずれも、
当時の沖縄の景観を記録した貴重な空中写真であるといえよう。
おわりに
1930 年代の沖縄の空中写真に関する今回の調査では、1938 年に海軍が沖縄の空中写真を撮影 していたこと、この演習を指揮した大橋富士郎・元海軍大佐の個人アルバムにも、同時期に撮影さ れたと思われる沖縄の空中写真が貼付されていることがわかった。今後も調査を進めていきたい。
注
1 1944 年 9 月 29 日の空中写真は、高高度を飛行していた米軍の長距離爆撃機(B-29)から撮影 されたものである(源河葉子[1])。この日、米軍機は沖縄島と伊江島とを重点的に撮影していた。
5 コース分、全 296 枚の空中写真は、国土地理院[14]で確認できる。全体を眺めると、機上か ら地表への視界は、島のあちらこちらで飛行機と地上との間に浮かんだ白い雲によって遮られて いたことがわかる。空中写真の撮影に適した天候でなかったことは明らかだったが、米軍は撮影 を続けたようである。
2 小倉孝誠[4]、127-130 頁。
3 亀井至一[7]、288 頁。
4 小倉倹司ほか[12]、604 頁。
5 気球聯隊「気球聯隊歴史」、陸空―部隊歴史―19、防衛省防衛研究所。徳川好敏[10]には、この
時の気球の吊籠部分の写真が掲載されており、搭乗者 2 名のうち 1 名が写真機らしき箱状のも のを手にしているのが確認できる。
6 宮内庁書陵部所蔵。この時の画像は「軽気球にて空中より撮影したる我帝都東京市の壮観」のみ
だしで加工・印刷され実業之日本社『実業之日本』1910 年新年号に「大附録」として折り込まれた。
7 「臨時気球隊 気球昇騰に関する報告 明治 37.8.13―10.3」戦役-日露戦役-267、防衛研究所。
8 凱旋観艦式については「11.21 陸軍電信教導隊より軽気球写真各種及送付」、JACAR(アジア 歴史資料センター)Ref. C06040759200、大本営-日露戦役-M38-9-122、防衛研究所。凱旋観 兵式については小倉倹司ほか[12]、604 頁。
9 測量・地図百年史委員会[9]、376 頁。
10『読売新聞』[13]
11 測量・地図百年史委員会[9]、376 頁。北原糸子編[8]がこれらの写真を掲載している。
12 国土地理院[14]を用いて筆者が確認した件数である。
13 日本航空輸送株式会社編『日本航空輸送株式会社十年史』(1938)。
14 同上。
15 同上。
16 朝日新聞社の事例については橋爪紳也[11](171 〜 174 頁)が紹介している。
17 海軍大臣官房[6]、1051 〜 1052 頁。
18公共用飛行場については『海軍制度沿革 巻 9』1053 頁の表を参考にした。また、非公共用飛 行場については官報掲載の情報から、次の飛行場設置を確認した。括弧内は設置年である:中島 大井飛行場(1930)、札幌飛行場(1930)、川西鳴尾飛行場(1931)、上田飛行場(1931)、堺 大濱飛行場(1932)、東雲原飛行場(1932)、城崎飛行場(1933)、高知飛行場(1933)、宮島 飛行場(1934)、館山寺飛行場(1935)、桐生愛國飛行場(1935)、衣ヶ原飛行場(1935)、大 津飛行場(1935)、中越飛行場(1936)、滋賀飛行場(1937)、埼玉第一飛行場(1937)、阪神 飛行場(1938)、最上飛行場(1938)、讀賣飛行場(1939)、愛知時計伊保ヶ原飛行場(1939)、
太田飛行場(1940)、昭和飛行場(1940)。
19 小禄飛行場の開設年は、本稿提出時点では資料や文献での確認が出来なかった。
20「空監第1116号 10.10.4 内地台湾間航空輸送に関する件」、JACAR(アジア歴史資料セ ンター)Ref.C05034292500、公文備考 昭和10年 G 航空 巻1、防衛省防衛研究所。
21 日本航空輸送株式会社編『日本航空輸送株式会社十年史』(1938)
22「写真機取締に関する件」、JACAR(アジア歴史資料センター)Ref. C01001547000、陸軍省- 大日記甲輯-S12-9-31、防衛省防衛研究所。
23 ⑤-航空基地-22、防衛省防衛研究所所蔵。
24「元海軍大佐 大橋富士郎 写真帖 其の二」、⑧参考―写真―18、防衛省防衛研究所。
参考文献
1)<日本語文献>
ア) 論文:
[1] 源河葉子(2002)「沖縄戦に際して米軍が撮影した空中写真:米国側資料にみる撮影・利用の概要」
『沖縄県公文書館研究紀要 第 4 号』、pp69-83。
[2] 中谷達也(2012)「日本初の民間航空輸送サービスについて」『第 27 回日本観光研究学会全国 大会学術論文集』、pp.141-144。
イ) 単著・共著:
[3] 伊藤音次郎(1966)「日本最初の東京上空三十秒」『文藝春秋』44 巻 7 号。
[4] 小倉孝誠(2016)『写真家ナダール―空から地下まで十九世紀パリを活写した鬼才』中央公論社。
[5] 小田内通敏(1931)『日本・風土と生活形態:航空写真による人文地理学的研究 序集』鉄塔書院。
[6] 海軍大臣官房(1940)『海軍制度沿革 巻 9』。
[7] 亀井至一(1989)「横山松三郎の履歴」青木茂・酒井忠康 校注『美術 日本近代思想体系 17』、
岩波書店、pp.284-290。
[8] 北原糸子編(2010)『関東大震災 写真集』吉川弘文堂。
[9] 測量・地図百年史編集委員会(1970)『測量・地図百年史』国土地理院。
[10]徳川好敏(1964)『日本航空事始』航空同人会編、出版共同社。
[11] 橋爪紳也(2004)『飛行機と想像力:翼へのパッション』青土社。
ウ) 座談会記録:
[12] 小倉倹司、河野恒吉、谷口徳次郎、星野辰男「日露戦争激戦写真撮影苦心談を当時の写真班 長に訊く」『アサヒカメラ』19(5)、朝日新聞出版社、1935 年 5 月、601-604 頁。
2)<新聞>
[13] 『読売新聞』1911 年 4 月 29 日、朝刊。
3)< Web >
[14] 国土地理院「地図・空中写真閲覧サービス」http://mapps.gsi.go.jp/ (閲覧日:2017 年 1 月 22 日)。
[15] 那覇港湾・空港管理事務所「空港の歴史」http://www.dc.ogb.go.jp/nahakou/air-rekishi/01.
html (閲覧日:2017 年 1 月 22 日)。