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Int. Relations 159: (2010)

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41 日本国際政治学会編﹃国際政治﹄第 159号﹁グローバル化の中のアフリカ﹂ ︵二○一○年二月︶

コンゴ東部紛争の新局面

︱︱二〇〇六年選挙後の変化︱︱

武 内 進 一 

近年の武 力紛争に 従来と異 なる、新し い性格が 看取され るとの指 摘が ︵ 1︶ ある。何が紛 争の﹁新 しさ﹂を 特徴づ けるか につい ての議 論は 多様 だが、一 般的に 言えば 、紛争を﹁ グロー バ ︵ 2︶ ル化﹂の文脈 に置い て考 えざるを えないと ころにあ ろう。近年 の紛争は 国内紛争 の形で 勃発 すること が多いと はいえ、原 因にせよ 、その事後 的な影響 にせ よ、一 国を超え た地域や グローバ ルなレベ ルとの関 係を有し 、同時 にそ れがロー カル、ナシ ョナルな レベルと の間で複 雑な相互 作用を 引き起こす。 コ ン ゴ 民 主 共 和 国 ︵ 以 下 、 コ ン ゴ ︶ の 紛 争 は 、 そ の ひ と つ の 典 型 で ある。コ ンゴは、一 九九〇年 代半ばか ら長く紛 争状態に あり、二〇 〇二年 末の和平 合意が結 ばれた後 も東部で 紛争が継 続した。コ ンゴ 東 部 の 紛 争 は 、エ ス ニ シ テ ィ の 政 治 化 、隣 国 ル ワ ン ダ 内 戦 の 越 境・ 拡散、グロ ーバル経 済を背景 とする鉱 物資源の 違法採掘 など、ロー カル、リー ジョナル 、グローバ ルな紛争 要因が交 錯し、複雑 な様相 を呈して きた。最近 の動きと して注目 されるの は、移行期 の締めく く り と し て 二 〇 〇 六 年 に 実 施 さ れ た 選 挙 後 に 、 南 北 キ ヴ ︵ Kivu ︶ 州 で紛争 が激化し たことで ある。平和 構築の重 要な画期 であるは ずの 選挙を 経て、東部 の紛争が 激化した のはなぜ だろうか 。状況変化 を もたらした政治力学に関して、十分な分析はなされてい ︵ 3︶ ない。 本稿 の目的は 、近年にお けるコン ゴ東部の 紛争の展 開とその 背景 を 分 析 し 、 紛 争 激 化 に 至 る ダ イ ナ ミ ズ ム を 明 ら か に す る こ と に ︵ 4︶ ある。 以下では、内 戦勃発後 の政治過 程を二〇 〇六年の 選挙に焦 点を当て つつ略述し た後、選挙 後の状況 変化につ いて、政治 経済の両 面から 検討し、その 意味を考 察する。政 治的側面 として、州 政府や議 会の 構成をエス ニック集 団との関 係に留意 して分析 する。経済 面として は、この地域 で最も重 要な経済 活動であ る鉱物資 源採掘に ついて検

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42 討する。分 析によっ て、選挙が 生ぜしめ た政治権 力関係の 変化が紛 争の激化を招いたことが明らかにされる。

紛争勃発後の政治過程

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移行政権期まで 一九九六 年の第一 次コンゴ 内戦勃発 と翌年の モブツ政 権崩壊、そ して一 九九八年 の第二次 内戦勃発 以降の政 治過程に ついては 、すで に多 数の先行 研究が ︵ 5︶ ある。ここで は、本論で 問題とな るルワン ダお よびルワンダ系コンゴ人との関係に絞って、説明を加えておこう。 第一次コ ンゴ内戦 の勃発は 、その二年 前に決着 したルワ ンダ内戦 の延長 線上にあ る。この内 戦で、ルワ ンダでは ウガンダ 出身のト ゥ チ︵ ツ チ 。 Tutsi ︶を 中 核 と す る﹁ ル ワ ン ダ 愛 国 戦 線 ﹂︵ Rw andan P atriotic F ront: RPF ︶が 政 権 を 握 り 、そ れ に よ っ て 旧 ハ ビ ャ リ マ ナ ︵ J uv ´enal Habyarimana ︶ 政 権 派 指 導 者 、 そ し て 彼 ら と 同 じ エ ス ニ ッ ク 集 団 に 帰 属 す る フ ト ゥ︵ フ ツ 。 Hutu ︶一 般 大 衆 が 百 万 人 を 越える規模 で難民化 し、コンゴ 東部に流 入 ︵ 6︶ した。彼らの 存在に安 全 保障 上の脅威 を感じた RPF政 権が、コン ゴ東部に 居住する ルワン ダ 系 住 民 を 支 援 し て 一 九 九 六 年 九 月 に 蜂 起 さ せ 、難 民 キ ャ ン プ を 掃 討 さ せ た の が 、内 戦 勃 発 の 引 き 金 と な っ た 。こ れ が コ ン ゴ 国 内 の反 モブツ武 装闘争と 連動し、反 政府武装 勢力﹁コン ゴ・ザイール 解 放 民 主 勢 力 連 合 ﹂ ︵ Alliances des F orces Democratiques pour la Liberation du Congo-Zaire: AFDL ︶の 結 成 に 至 る 。一 九 九 七 年 五 月、A FDLは 首都に入 城してモ ブツ政権 を打倒し 、議長のロ ーラ ン=デジレ・カビラ︵ Laurent-D ´esir ´e Kabila ︶が大統領となった。 発足 当初のA FDL政 権は、内戦 中に軍事 部門を担 ったルワ ンダ とルワンダ系 コンゴ人 の影響力 が強く、現 役ルワン ダ軍参謀 長のカ バ レ ベ︵ J ames Kabarebe ︶が 新 コ ン ゴ 軍 の 参 謀 長 を 兼 任 し た ほ ど だ っ た 。カ ビ ラ 大 統 領 は こ の 状 況 を 払 拭 す る た め 、一 九 九 八 年 七 月 末 を も っ て ル ワ ン ダ 軍 に 帰 還 を 求 め た 。こ れ が き っ か け と な っ て、その 直後の八 月二日、ル ワンダの 支援を受 けた反政 府武装勢 力 ﹁ コ ン ゴ 民 主 連 合 ﹂︵ Rassemblement Congolais pour le d ´emocratie: RCD ︶が蜂起し、第二次内戦が勃発する。 第二 次内戦は 周辺国が 多数軍事 介入して 複雑化し たが、二〇 〇一 年 一 月 に ロ ー ラ ン = デ ジ レ・カ ビ ラ が 暗 殺 さ れ 、息 子 の ジ ョ ゼ フ・ カ ビ ラ ︵ J os ´eph Kabila ︶ が 後 継 者 と し て 大 統 領 に 就 任 し て 以 降 徐 々 に 和 平 プ ロ セ ス が 進 み 始 め 、権 力 分 有 を 定 め た 和 平 合 意︵ ﹁ プ レ ト リ ア 合 意 ﹂ ︶が 二 〇 〇 二 年 一 二 月 に 締 結 さ れ た 。プ レ ト リ ア 合 意 で は、カビラ 政権と主 要武装勢 力、そして 武装勢力 以外の野 党や市民 社会の代表の間で厳密な権力分有が定められた。 内戦 長期化の なかでR CDは、R PF政権 と結びつ いたルワ ンダ 系 住 民︵ 特 に ト ゥ チ ︶を 核 と す る﹁ ゴ マ 派 ﹂ ︵ RCD-Goma ︶と 、ウ ガ ン ダ が 支 援 す る ナ ン デ ︵ Nande ︶ 人 中 心 の ﹁ 解 放 運 動 派 ﹂︵ RCD-Mouvement de la Lib ´eration: RCD-ML ︶な ど に 分 裂 し た 。プ レ ト リア合 意におい てRCD ︱Gom aは、モブ ツ時代の 富豪の息 子ベ ン バ︵ J ean-Pierre Bemba ︶を 指 導 者 と し て 結 成 さ れ た﹁ コ ン ゴ 解 放 運 動 ﹂ ︵ Mouvement pour la lib ´eration du Congo: MLC ︶と と も

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43 コンゴ東部紛争の新局面 に、副大 ︵ 7︶ 統領をはじ め移行 政権の 閣僚、国 会の議 席、軍、行 政機構 などのポストを多数獲得した。

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選挙結果とその後 二〇〇三 年六月に 発足した 移行期政 権は、その 締めくく りとして 二〇〇 六年に一 連の選挙 を実施し た。和平協 定の締結 から選挙 に至 る過 程では、国 際社会が 強い主導 性を発揮 ︵ 8︶ した。七月三 〇日に大 統 領選 挙第一回 投票と下 院選挙が 、一〇月二 九日に大 統領選挙 第二回 投票 と州議会 選挙が実 施され、二 〇〇七年 一月に州 議会議員 によっ て上 院議員 が選出 さ ︵ 9︶ れた。大統領 選挙で は、現職 のジョ ゼフ・カビ ラ と M L C 党 首 ベ ン バ の 間 で 決 選 投 票 が 実 施 さ れ 、カ ビ ラ が 五 八・ 〇五%の 得票率 で勝利 した。R CD︵︱ ︵ 10︶ Goma︶の代表ルベ ルワ ︵ Azarias Ruberw a ︶は 大 統 領 選 に 出 馬 し た も の の 、第 一 回 投 票 で 二%弱しか得 票できず 惨敗した 。一方、RC D︱ML の代表ニ ャム ウィ シ︵ Antipas Mbusa Nyamwisi ︶は 、い っ た ん 出 馬 を 表 明 し た ものの第一回投票の直前に撤回し、カビラ支持に回った。 下 院 選 挙 の 結 果 、カ ビ ラ を 党 首 と す る﹁ 民 主 主 義 再 建 人 民 党 ﹂ ︵ P arti du peuple pour la reconstruction et la d ´emocratie: PPRD ︶ が全五〇 〇議席の うち一一 一議席を 獲得して 第一党と なり、連立 会 派﹁ 大 統 領 多 数 派 同 盟 ﹂ ︵ Alliance pour la majorit ´e pr ´esidentielle: AMP ︶を 構 成 し て 議 会 の 過 半 数 を 確 保 し た 。こ れ に 対 し て M L C やRCD︵︱G oma︶は 野党にま わり、ML Cは第二 党となっ た ものの、RC D︵︱Go ma︶はわ ずか一五 議席にと どまった 。南 北キヴ州の選 挙区でも PPRD が勝利し 、北キヴ州 で四八議 席中一 六議席、南 キヴ州で 三二議席 中一四議 席を獲得 したのに 対して、R CD︵︱Goma︶は北キヴ州で五議席を得ただけであ ︵ 11︶ った。 二 〇 〇 七 年 二 月 に 発 足 し た ギ ゼ ン ガ︵ Antoine Gizenga ︶首 相 の 内閣では 、閣僚がA MPで占 められた 。大統領選 でカビラ を支持し たRC D︱ML のニャム ウィシ︵ナ ンデ人︶が 外務・国際協 力相に 就任した ほか、RC D︱ML に近い諸 政党から も入閣者 がでた。こ れに対 して、野党 に回った MLCや RCD︵︱ Goma ︶からの入 閣はなか った。選挙 後の新政 権ではR CD︱G omaの 影響力が 大 幅に低下 し、RCD ︱MLが 顕著に政 治力を増 加させた 。エスニッ ク集団に 置き換え れば、トゥ チが政治 的影響力 を失い、ナ ンデのそ れが著しく強まったことになる。

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選挙後の紛争 プレ トリア合 意締結の 後、東部州 のイトゥ リや南北 キヴ州な ど東 部で紛争が起 こったが 、二〇〇六 年の選挙 前は比較 的落ち着 いた状 況 に あ っ た 。し か し 選 挙 後 、各 地 で 紛 争 が 噴 出 し た 。そ の 多 く は 、 政 治 権 力 闘 争 の 延 長 と し て の 暴 力 で あ っ た 。二 〇 〇 七 年 三 月 に キ ン シ ャ サ で 、武 装 解 除 を 拒 否 す る ベ ン バ 派 の 民 兵 を 新 国 軍︵ F orces arm ´ees de la R ´epublique d ´emocratique du Congo: F ARDC ︶と カ ビラ派の 民兵が攻 撃して戦 闘となり 、約一五〇 人が死亡 ︵ 12︶ した。結果 として、ベ ンバは事 実上の亡 命を余儀 なくされ 、ベンバ派 の勢力は 弱まっ た。この衝 突は、大統 領選挙で 勝利した とはいえ 、カビラが 首都で実 権を掌握 するため には、暴力 による決 着が必要 だったこ と を意味している。

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44 選挙後に 頻発した 南北キヴ 州の武力 紛争も、政 治権力闘 争の性格 が強い 。その中心 となった のが、元R CD︱G oma司 令官のン ク ン ダ︵ Laurent ︵ 13︶ Nkunda ︶が 率 い る 武 装 勢 力﹁ 人 民 防 衛 国 民 会 議 ﹂ ︵ Congr `es national pour la d ´efense du people: CNDP ︶ であ る。ン クンダは 、移行期に おいても FARD Cへの統 合を拒否 し、しばし ば反乱 を起こし ていたが 、二〇〇六 年七月に CNDP を組 ︵ 14︶ 織し、F A R D C へ の 統 合 を 拒 否 し て い っ そ う 暴 力 に 依 存 す る よ う に な っ た 。八 月 に は 北 キ ヴ 州 サ ケ ︵ Sake ︶ に お い て F A R D C と C N D P が衝突し、一一 月には同 じ地域で MONU Cを巻き 込んだ大 規模な 戦 闘 へ 発 展 し た 。ン ク ン ダ は 、 統 合 拒 否 と 反 乱 の 理 由 と し て 、﹁ ト ゥ チ・コミュニティ ﹂を守るた めだと主 張した。周 辺コミュ ニティか らの攻撃に対 してFA RDCは 何もせず 、自分たち が守るし かない というのである。 事態を収 拾するた めにルワ ンダの首 都キガリ で交渉が 持たれ、ル ワ ン ダ 国 軍 参 謀 長 カ バ レ ベ の 下 、ン ク ン ダ と コ ン ゴ 軍 空 軍 司 令 官 ︵ 当 時 ︶ の ヌ ン ビ ︵ J ohn Numbi ︶ が 会 談 ︵ 15︶ した。こ の 結 果 、 C N D P に つ い て は 、﹁ ミ キ サ ー ジ ュ ﹂︵ ︵ 16︶ mixage ︶ と い う 特 別 な 形 で の 軍 統 合 を認める ことが合 意された 。ミキサー ジュとは 、ンクンダ の指揮権 を 事 実 上 残 し 、C N D P を 活 動 拠 点 の 北 キ ヴ 州 か ら 移 動 さ せ ず に 、 形だけF ARDC に統合す るという ものであ る。この方 式は、CN DPだけでな く、 南キヴ州のイ トンブウェ ︵ Itombwe ︶ で活動する トゥチの武装組織に対しても認めら ︵ 17︶ れた。 二 〇 〇 七 年 前 半 、形 の 上 で F A R D C に 統 合 さ れ た C N D P は 、 フ ト ゥ の 武 装 勢 力﹁ ル ワ ン ダ 解 放 民 主 勢 力 ﹂ ︵ F orce d ´emocratique de lib ´eration du Rw anda: FDLR ︶へ の 攻 撃 を 激 化 さ せ た 。F D L Rは第一次コ ンゴ内戦 時に難民 キャンプ から掃討 された旧 ハビャリ マナ政権派︵フ トゥ︶で、そ の本国へ の帰還は 国際社会 にとって 長 年の懸案事項 であった が、帰還は 進んでい なかった 。FARD Cの ンクンダ派部 隊は、FD LR掃討 作戦のな かで、FD LRを匿 った と見なした村 々では民 間人にも 暴行や略 奪などを 行ったた め、二〇 〇七年一月∼ 六月の間 に一八万 人が強制 移動を余 儀なくさ ︵ 18︶ れた。二 〇〇七年 後半にミ キサージ ュが中断 されると 、南北キヴ 州では、C NDP、F DLR、F ARDC が三つ巴 となって 戦闘が続 いた。二 〇 〇 七 年 一 二 月 の 北 キ ヴ 州 ム シ ャ キ ︵ Mushaki ︶ に お け る 政 府 軍 の 大敗北をきっ かけに和 平交渉の 機運が高 まり、二〇 〇八年一 月に和 平合意がなさ れたもの の長続き せず、同年 八月以降 は再び戦 闘状況 となった。 二 〇 〇 九 年 に 入 っ て 事 態 が 変 化 し た 。一 月 初 旬 、C N D P 内 部 で ン ク ン ダ が 参 謀 長 を 解 任 さ れ 、代 わ っ て 就 任 し た ン タ ガ ン ダ ︵ J ean-Bosco Ntaganda ︶は C N D P が 停 戦 と F A R D C へ の 統 合 を受け入れ ると表明 した。軍統 合の形式 は、やはり ミキサー ジュで ある。一月二 〇日にな るとコン ゴとルワ ンダの﹁共 同軍事作 戦﹂が 実施され、ル ワンダ軍 が二月末 までコン ゴ領内で FDLR 掃討作戦 を 実 施 し た 。ル ワ ン ダ 軍 は 掃 討 作 戦 の 開 始 直 後 に ン ク ン ダ を 逮 捕 し、軟禁状態 に置 ︵ 19︶ いた。CND Pが軍統 合を受け 入れたこ とで和平 に向け た可能性 が高まる かとも思 われたが 、FDLR の反撃に より

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45 コンゴ東部紛争の新局面 避難民の 数が以前 より増加 するなど 、本稿執筆 時の二〇 〇九年一 一 月現在、南北キヴ州の状況は依然不安定である。

キヴの地方政治とルワンダ系住民

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バニャルワンダとバニャムレンゲ 南北キヴ 州には、バ ニャルワ ンダとバ ニャムレ ンゲとい う二つの ルワン ダ系住民 の集団が 居住 ︵ 20︶ する。バニャ ルワンダ は主に北 キヴ州 に居住し、植 民地化以 前からコ ンゴ領内 に居住し ていたグ ループも あるが、植民 地化以降 に移民や 難民とし て移動し てきた人 々かその 子孫が多い 。特に、一九 五〇年代 末以降は ルワンダ の国内紛 争のた め大量のト ゥチ難民 がコンゴ へ流入 ︵ 21︶ した。バニャ ルワンダ にはトゥ チ も フ ト ゥ も い る が 、本 国 よ り も ト ゥ チ の 割 合 が 高 い と 考 え ら れ る。もう一つの ルワンダ 系住民の 集団は、バ ニャムレ ンゲと呼 ばれ る。彼らは南キ ヴ州に居 住し、その 祖先は一 九世紀頃 にルワン ダか ら コ ン ゴ 領 内 に 移 住 し て き た 。主 と し て 牧 畜 を 生 業 と す る 彼 ら は 、 周囲からルワンダのトゥチと見なされてきた。 バニャル ワンダも バニャム レンゲも 、独立以降 のコンゴ で国内政 治に巻 き込まれ 、紛争の火 種を抱え 込んだ。特 に顕著な のは、モブ ツ政権 期に優遇 されたバ ニャルワ ンダであ る。バニャ ルワンダ は外 国人で あり自分 を脅かす 政治力を 持ち得な いと考え たモブツ は、エ ス ニ ッ ク 政 治 の 観 点 か ら バ ニ ャ ル ワ ン ダ を 取 り 立 て た 。こ の た め 、 大 統 領 府 官 房 長 を 務 め た ビ セ ン ギ マ ナ ︵ Barth ´el ´emy Bisengimana ︶ など中央 政界で重 要なポス トに就く 者の影響 力によっ て、バニャ ル ワンダ︵特 にトゥチ ︶の多くが 恩恵を被 った。しか し、これは 近隣 のエスニック集団との軋轢を強めることと ︵ 22︶ なる。 ル ワ ン ダ 系 住 民 の 人 口 規 模 に つ い て は 十 分 な 統 計 が な く 、断 片 的 な 数 字 が 得 ら れ る に 過 ぎ な い 。バ ニ ャ ル ワ ン ダ に 関 し て は 、一 九 八 三 年 に﹁ 約 八 〇 万 人 ﹂と の 推 計 が あ り 、北 キ ヴ 州 で は ナ ン デ に次ぐ人口 規模だ と考え ら ︵ 23︶ れる。ナンデ は、北部 のルベ ロ県、ベ ニ 県 を 中 心 に 居 住 し 、 バ ニ ャ ル ワ ン ダ は フ ン デ ︵ Hunde ︶ や ニ ャ ン ガ ︵ Nyanga ︶ な ど と と も に 、 マ シ シ 県 、 ル ツ ル 県 、 ワ リ カ レ 県 な ど に 居 住 し た︵ 図 1 ︶ 。一 方 、バ ニ ャ ム レ ン ゲ に つ い て は 、一 九 九 〇 年 代前半に南キヴ州に三∼四万人が居住していたと考えられて ︵ 24︶ いる。 モブ ツ政権期 には州知 事に当該 地域出身 者を充て ない方針 が採ら れ た が 、一 九 九 〇 年 に 複 数 政 党 制 が 導 入 さ れ る と 、北 キ ヴ 州 で は 人 口 的 多 数 派 の ナ ン デ が 知 事 な ど 地 方 行 政 府 の 主 要 ポ ス ト を 独 占 ︵ 25︶ した。これは 、特にバニ ャルワン ダとの間 で軋轢を 強め、一九 九三 年には ワリカレ 県でフン デやニャ ンガとバ ニャルワ ンダが衝 突する 事 件 が 勃 発 し て 、数 千 人 が 殺 害 さ れ 、十 数 万 人 が 避 難 民 と な ︵ 26︶ った。 ルワンダ内 戦で膨大 な数のフ トゥ難民 がコンゴ 東部に流 れ込む以 前 から、北キヴ 州ではル ワンダ系 住民とそ の他のエ スニック 集団との 間で紛争状態が現出していたのである。

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AFDL、RCD︱Goma統治期 内戦 期から移 行政権期 にかけて 、南北キヴ 州は主に AFDL とR CD︵分裂後 はRCD ︱Gom a︶の支配 下にあっ た。第一次 内戦 勃発以降第二 次内戦勃 発までが 、AFDL の時代で ある。ルワ ンダ

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47 コンゴ東部紛争の新局面 系住民を めぐる軋 轢が強か った北キ ヴ州では 、AFDL の支配が 確 立した一 九九六年 一一月以 降、トゥチ︵ バニャル ワンダ︶の カニャ ム ハ ン ガ︵ L ´eonard Kanyamuhanga ︶が 知 事 に 就 任 し た 。南 キ ヴ 州 で は 、 同 じ 時 期 に バ ニ ャ ム レ ン ゲ の セ ル キ ザ ︵ Serukiza Nkunda Bantu Benjamin ︶が 副 知 事 に 就 任 し て い る 。A F D L 期 は 、ト ゥ チが政治権 力を集中 的に掌握 し、それ以 外のエス ニック集 団は総じ てマイナーな地位に留ま ︵ 27︶ った。 第二次内 戦勃発と ともに、南 北キヴ州 はRCD の統治下 に置かれ た。RC D︱ML が分裂し た後は、R CD︱G omaが この地域 の ほとん どを支配 した。表1 に、RCD ︱Gom aの中央 組織︵政治 局、執行 委員会等 ︶のエスニ ック集団 別構成を 示す。一貫 してトゥ チの人 数が最も 多いこと 、副議長、事 務局長、そ して議長 という重 要なポ ストを占 めている ことがわ かる。二〇 〇一年以 降事務局 長を 務め、二 〇〇四年 に議長に 昇格した のは、二〇 〇六年の 大統領選 挙 に立候補したルベルワである。 ただし 、トゥチの 人数が最 も多いと はいえ、圧 倒的多数 を占める わけで はない。二 〇〇三年 まで、RC D︱Go maの議 長はトゥ チ 以外の エスニッ ク集団出 身者であ った。RC D︱Go maがル ワン ダのR PF政権 から強力 な支援を 受け、トゥ チが中核 を占めた こと は事実 だが、多様 なエスニ ック集団 を含んで いたこと にも注意 すべ きであ る。これは 、支配地域 である南 北キヴ州 に居住す るエスニ ッ ク集団の構成を、組織執行部に反映させているからである。 この点 は、地方行 政機構に 関してよ り明確で ある。表1 の出所と 同じ年鑑 の巻末資 料には、南 北キヴ州 の州レベ ルおよび 県レベル の 主要ポス トの名簿 とそのエ スニック 集団が記 されてい る。これを 用 いて、トゥ チがどの 程度ポス トを占め ていたの かを調べ ると、それ ほど多く ないこと がわかる 。州政府の 主要ポス ト︵州知事 、二名の 州 副 知 事 、 州 局 長 directeur de province ︶ に つ い て み る と 、 一 九 九 九 年から二〇 〇六年の 選挙前ま でにトゥ チが占め たのは、先 述したカ ニャムハン ガ知事︵一 九九九︱ 二〇〇〇 年︶とセル キザ副知 事︵一 九 九 九 ︱ 二 〇 〇 三 年 ) だ け で あ る 。県 レ ベ ル で は 、バ ニ ャ ル ワ ン ダ が多い ルツル県 やマシシ 県、バニャ ムレンゲ が多いブ カヴ市、フ ィ ジ県、カ レヘ県な どでポス トを獲得 している 。ただし、必 ず他のエ スニッ ク集団出 身者も上 位ポスト に任命す るなど、地 方行政の ポス ト配分 には、当該 地域に居 住するエ スニック 集団の構 成が色濃 く反 映され ている。R CD︱G omaは 、トゥチを 支持基盤 の核とし て い て も 、多 様 な エ ス ニ ッ ク 集 団 が 混 在 す る 地 域 を 統 治 す る た め に 、 占領地 に居住す る他のエ スニック 集団を組 織に取り 込まざる を得な かった。 こ れ は 、R C D ︱ G o m a が 占 領 地 で ソ フ ト な 統 治 戦 略 を と っ た と い う こ と で は な い 。彼 ら は 、ル ワ ン ダ の 軍 事 力 を 背 景 と し て 、 と り わ け 占 領 初 期 に 苛 烈 な 統 治 を 行 い 、抵 抗 運 動 を 抑 圧 し て 多 数 の 人 権 侵 害 事 件 を 起 こ し て い る 。ト ゥ チ を 中 核 に 据 え 、マ イ マ イ ︵ Ma yi-︵ 28︶ Ma yi ︶な ど 他 の エ ス ニ ッ ク 集 団 の 抵 抗 勢 力 を 武 力 で 掃 討 し つつ、協力 者を見つ けて行政 トップに 据える戦 略を占領 地で採っ た と考える べきであ る。RCD ︱Gom a期は、A FDL期 に比べて

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49 コンゴ東部紛争の新局面 トゥチに よる権力 の集中が あからさ までなく 、他のエス ニック集 団 の出身者 であって も、協力者 を積極的 に登用し た。こうし た行政手 法は、モブ ツ政権期 と本質的 に変わら ない。いず れも地方 行政幹部 は当局の 協力者︵コ ラボレー ター︶の性 格を持ち 、当局の意 向を汲 んで反対勢力を抑圧することが期待されて ︵ 29︶ いた。

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選挙後の変化 下院選挙 によって 国政レベ ルでナン デの影響 力が強ま ったこと は 前 述 し た が 、こ の 傾 向 は 州 議 会 選 挙 で も 同 じ だ っ た 。北 キ ヴ 州 の 州 議 会 議 員 四 二 人 の う ち 、二 二 人 を ナ ン デ が 占 め た 。ナ ン デ に 次 い で 数 の 多 い エ ス ニ ッ ク 集 団 は フ ト ゥ の 九 人 で 、う ち 七 人 が R C D ︵︱Goma︶ のメン バーだ った。南 キヴ州 議会選 挙では 、RCD ︵︱Goma︶は一議席も獲得できなかった。 二 〇 〇 七 年 一 月 末 に 州 議 会 で 新 知 事 が 選 出 さ れ た が 、北 キ ヴ 州 で は 無 所 属 で ナ ン デ 人 の パ ル ク︵ J ulien P aluku Kahongya ︶が 選 ば れ た 。彼 が 組 閣 し た 州 政 府 で は ナ ン デ が 多 数 を 占 め 、州 局 長 ︵ Directeur de province ︶や 官 房 長 、さ ら に 九 つ の 閣 僚 ポ ス ト の う ち治安担 当大臣な ど三つを 獲得した 。南キヴ州 では、州議 会の勢力 を 反 映 し て P P R D の チ バ ロ ン ザ ︵ C ´elestin Cibalonza Byaterana ︶ が 知 事 に 選 出 さ れ た 。彼 の エ ス ニ ッ ク 集 団 は シ で 、州 政 府 に は シ 、 レガ、ハヴ が複数の 閣僚を出 した。南キ ヴ州政府 に関して は、エス ニック集 団を超え てPPR Dの影響 力の強さ が目立ち 、知事、州局 長に加えて一〇の閣僚ポストのうち五つを占 ︵ 30︶ めた。 一方、ト ゥチが獲 得したポ ストは、南 北キヴ州 で一つず つにとど まった。選 挙後の南 北キヴ州 の行政機 構におい ては、PP RDなど 政権与党 やそれに 近いナン デ人勢力 が拡大し た一方、R CD︵︱G oma︶や トゥチの 影響力は 大幅に減 少した。選 挙によっ て、南北 キヴ州の政治地図は大きく変化したのである。

鉱物資源の略奪

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内戦期・移行政権期の状況 南北 キヴ州の ほとんど は、内戦期 にはRC D︱Go maとル ワン ダ軍に制圧 され、鉱物 資源の違 法採掘が 広く実施 さ ︵ 31︶ れた。コンゴ の 鉱物資 源は、基本 的に全て 人力によ って採掘 される。機 械を利用 し た採掘 は、モブツ 政権期の 無策と内 戦によっ て鉱業企 業が撤退 した ため、消 滅した。農 産物の市 場向け生 産が大幅 に縮小し た結果、農 村居住 者は農業 を放棄し 、鉱夫とな ってイン フォーマ ルな鉱業 セク ターに 参入した 。彼らが採 掘した鉱 物を地元 商人が買 付け、それ を 大都市 の輸出業 者が国外 に輸出す る。この鉱 物資源輸 出は世界 的な 流 通 網 の 一 部 を 構 成 し て お り 、 最 終 消 費 地 は 主 と し て 先 進 国 で あ る 。 ル ワ ン ダ は 、軍 に 設 置 さ れ た 担 当 部 局﹁ コ ン ゴ・デ ス ク ﹂ ︵ Congo Desk ︶ が 司 令 塔 と な っ て 、 コ ン ゴ 東 部 の 制 圧 地 域 で 莫 大 な 利 益 を 得 た。二〇〇二 年後半以 降、ルワン ダがコン ゴ東部か ら公式に 撤退し た後、その制圧地は同盟するRCD︱Gomaに引き継がれた。 ルワ ンダもR CD︱G omaも 、鉱物資源 の採掘に 直接手を つけ ることはほと んどなか った。モブ ツ政権末 期に成立 したイン フォー マルな人力採 掘と集荷 のシステ ムがほぼ そのまま 利用され 、そのう

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50 えで買付 や輸出の 段階で課 税し、また ルワンダ 経由で輸 出しただ け である。す なわち、資 源略奪は 、国家の無 策によっ て企業経 営が壊 滅した、モ ブツ政権 期の鉱物 資源採掘 システム の延長線 上に成立 し たといえる。

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選挙後の状況 選挙後の 南北キヴ 州におけ る鉱物資 源の違法 採掘につ いては、幾 つか 報告書 が刊行 されて ︵ 32︶ いる。その顕 著な特 徴は、新 国軍︵F AR DC︶の違法採 掘に関す る記述の 多さであ る。FAR DCの前 身に おいて中核を なすカビ ラ政権派 の軍は、内 戦期の南 北キヴ州 におけ る鉱物資源違 法採掘に 関与して いない。カ ビラ政権 の支配が この地 域に及んで いなかっ た以上、こ れは当然 である。し かし、二〇 〇九 年七月に発 表された グローバ ル・ウィット ネスの報 告書では 、FA R D C に よ る 鉱 物 資 源 違 法 採 掘 活 動 へ の 組 織 的 関 与 が 指 摘 さ れ て ︵ 33︶ おり、状況は一変している。 F A R D C に よ る 違 法 採 掘 へ の 関 与 の な か で﹁ 最 も あ か ら さ ま な 例 ﹂と し て 挙 げ ら れ て い る の は 、北 キ ヴ 州 ワ リ カ レ 県 の ビ シ エ ︵ Bisie ︶ 鉱 山 で あ る 。ビ シ エ は 、 北 キ ヴ 州 最 大 の ス ズ 鉱 ︵ cassiterite ︶ 産出地で 、州全体の 産出量の 八割を占 ︵ 34︶ める。地域最 大のスズ 鉱山と して、ビシエに は多数の 鉱夫や商 業機会を 求める人 々が集ま り、二 〇〇八年半ば には一万 ∼一万五 千人が生 活してい た。二〇〇 六年以 降 二 〇 〇 九 年 三 月 ま で 、ビ シ エ は 元 マ イ マ イ の マ ト ゥ モ︵ Sammy Matumo ︶大 佐 を 司 令 官 と す る F A R D C 第 八 五 旅 団 の 支 配 下 に あっ た。有力な 軍人は鉱 山に﹁自分 の﹂坑道を 持ち、そこ で産出さ れるスズ 鉱の販売 益を独占 した。また 、ビシエに 集まる一 般人から も、商業活 動に違法 に﹁課税﹂す る、道路に 検問所を 設けるな どの 方法で金品を略奪した。 FA RDCに よる違法 採掘が大 幅に増え た理由は 、コンゴで 和平 合意締結後に 進められ た軍統合 にある。コ ンゴの軍 統合は、和 平合 意 締 結 後 、 治 安 部 門 改 革 ︵ Security Sector Reform: SSR ︶ の 中 心 課 題と認 識されて いたもの の、実施は 遅れ、本格 的な開始 は二〇〇 五 年以 降にず れ込 ︵ 35︶ んだ。軍統合 と戦闘 員のD DR︵武 装解除・動 員解 除・再統合︶は 、並行して 実施され ることと なってい た。まず諸 武 装勢力の 部隊をい ったん解 体し、戦闘 員の武装 解除・動員解 除を行 う。そのうえ で、新国軍 FARD Cへの就 職を希望 する者に ついて は ﹁ 混 交 セ ン タ ー ﹂︵ Centre de brassage ︶ に 送 り 、 様 々 な 部 隊 の 戦 闘員と﹁混交 ﹂して研修・訓 練を実施 し、FAR DCの旅 団を編成 する、という想定である。 し か し 、汚 職 や 予 算 不 足 な ど か ら 軍 統 合 は 遅 延 ︵ 36︶ した。グ ロ ー バ ル・ウィット ネスの調 査によれ ば、第八五 旅団は二 〇〇八年 の段階 で 、 ﹁ 混 交 ﹂は も と よ り 、武 装 解 除 や 動 員 解 除 す ら 実 施 さ れ て い な い状況だ ︵ 37︶ った。それで も、選挙を 実施し平 時に移行 したコン ゴの政 治過程のなかで、第八五旅団はFARDCの一部とみなされる。 これ は、反乱軍 の違法行 為がFA RDCの それと混 同されて いる というだけの 話ではな い。マトゥ モの第八 五旅団は 、第八軍管 区や 中 央 司 令 部 の 高 級 将 校 と も 鉱 物 資 源 関 連 利 益 を 分 け 合 っ た 疑 い が あ る 。第 八 五 旅 団 に よ る ビ シ エ 支 配 に は 、第 八 軍 管 区 の ビ ン ド ゥ

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51 コンゴ東部紛争の新局面 ︵ Etienne Bindu ︶ 参 謀 長 や 、 F A R D C 陸 軍 参 謀 長 で 前 第 八 軍 管 区 司 令 官 の ア ミ シ︵ Gabriel Amisi ︶将 軍 が 重 要 な 役 割 を 果 た し た と いわれ て ︵ 38︶ いる。和平合 意と軍統 合によっ て、FAR DC内部 に旧反 政府武 装勢力が 様々な形 で入り込 み、特に東 部の軍管 区では、多 数 の元反 乱勢力司 令官が有 力な地位 を占 ︵ 39︶ めた。彼らは 、第八五旅 団の ように 統合プロ セスを終 えていな い部隊、あ るいはC NDPの よう に軍統 合からの 離脱を宣 言した部 隊とも、イ ンフォー マルな関 係を 保ち続けたと考えられる。 FDLR も南北キ ヴ州で鉱 物資源の 取引に深 く関与し 、年間数百 万ドル に上る収 入を挙 ︵ 40︶ げた。ルワン ダ内戦の 敗北によ って旧ハ ビャ リマナ政権 派勢力が コンゴ東 部に流入 してから 既に十五 年以上が 過 ぎたが、FD LRの勢 力は二〇 〇九年段 階でも依 然として 六千人以 上と推計 さ ︵ 41︶ れる。FDL Rは、長期 にわたり 住民に寄 生しなが ら生 計を維 持してき た。内線後 のルワン ダが安定 するに伴 い、FDL R が武力侵 攻によっ て本国帰 還を果た す可能性 は事実上 なくなり 、コ ン ゴ 東 部 に お け る 鉱 物 資 源 取 引 が 生 計 活 動 と し て 自 己 目 的 化 し て いる。 CNDP も鉱物資 源取引を 行い、主た る支配地 域のマシ シ県で産 出す るコルタ ンから利 益を得て いると報 告されて ︵ 42︶ いる。ただし 、鉱 物資源取 引に対す る依存度 はFDL Rほど高 くない。鉱 物資源取 引 のほかに いくつか の資金源 があるこ とに ︵ 43︶ 加え、CND Pにはル ワン ダ本国からの支援が期待できることが理由であ ︵ 44︶ ろう。 三つの組 織の鉱物 資源取引 には共通 点がある 。いずれも 自ら採掘 活動に従 事するこ とはほと んどなく 、地域住民 を利用し 、搾取する ことであ る。武装勢 力は、暴力 によって 鉱業部門 の流通過 程を押さ えること で利益を 確保した 。これは、内 戦期・移行政 権期と全 く同 じやり方である。 鉱 物 資 源 取 引 に 関 わ る 武 装 勢 力 の 構 成 も 、内 戦 期 と 実 質 的 に 変 わっていな い。内戦期・移 行政権期 に南北キ ヴ州で鉱 物資源を 略奪 した武装勢力 はルワン ダ軍とR CD︱G omaが 中心だが 、近年の 鉱物資源取引 に関わる とされる FARD C、FDL R、CND Pの 三者のうち、C NDPは RCD︱ Goma の後継組 織であり 、FD LRは以前 からこの 地域で活 動して ︵ 45︶ いた。そして 、鉱物資源 取引へ の従 事が指摘 されてい るFAR DCの部 隊は、ビシ エ鉱山の 例が示 すよ うに、新た に配置さ れたとい うより、形 式的な軍 統合によ って FARDCに編入された元反政府武装勢力がほとんどと見られる。 この ように考 える根拠 は、軍統合 が実態と して進ん でいない こと である。選挙 後の、特に 東部にお ける軍統 合は、基本 的にミキ サー ジュによって 進められ てきた。こ れによっ て、統合の 実態がな くと も、FARD Cの組織 は拡大す る。南北キ ヴ州では 、RCD︱ Go maなど以前 の反政府 勢力が形 式的にF ARDC に統合さ れ、引き 続き資源略奪 を行った と考える べきであ る。形式的 に言えば 、選挙 が実施されて 平時への 移行過程 が終了し 、軍統合が 進んだが 、実際 には、RCD︵ ︱Gom a︶内戦期 の武装勢 力が鉱物 資源の違 法取 引を継続し、経済権益を掌握し続けている。

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結びに代えて

二〇〇九 年一月、ン クンダを 追い落と してCN DP指導 者となっ た ン タ ガ ン ダ は 、武 装 闘 争 の 終 焉 と F A R D C へ の 統 合 を 宣 言 し た。三月 には政府 とCND Pの間で 和平合意 が結ばれ 、南北キヴ 州 のトゥ チ武装勢 力の軍統 合が︵ミキ サージュ によって ︶実施され る ことが 決まった 。加えて、北 キヴ州の マシシ、ル ツル、ワリ カレの 三 県 に つ い て は 、ル ワ ン ダ 系 住 民 ( ト ゥ チ ) が 軍 、警 察 、諜 報 、行 政 で指導的地 位を獲得 すること が合意さ れたと ︵ 46︶ いう。CND Pに代表 され るバニャ ルワンダ︵ トゥチ︶の 政治エリ ートは、暴 力を利用 し て、選挙で失った政治力を取り戻したことになる。 ルワン ダ系住民︵ 特にトゥ チ︶はコン ゴで少数 派に過ぎ ず、選挙 を通じ た政治的 意思の表 出が困難 である。彼 らは近隣 エスニッ ク集 団 と の 間 で 緊 張 関 係 を 抱 え つ つ 、モ ブ ツ 政 権 期 に は 独 裁 者 モ ブ ツ 、 一九九 〇年代の 内戦勃発 以降は隣 国ルワン ダのRP F政権の 庇護を 受け、自 らの政治 力と経済 的利益を 確保して きた。選挙 によって そ れを喪 失する脅 威に直面 した彼ら は、暴力を 用いて阻 止したの であ る。CN DPが結 成された のは、まさ に第一回 大統領選 挙と下院 選 挙が実 施された 時期であ った。RC D︵︱Go ma︶のト ゥチ急進 勢力は 、数の論理 で敗北す ることを 見越して CNDP を結成し 、既 得権益を確保するという目的を達したのである。 本稿は、二 〇〇六年 選挙後に おけるコ ンゴ東部 の紛争激 化という 現象に 着目し、そ の要因や 帰結につ いて分析 してきた 。それによ っ て、選挙が その後の 紛争激化 をもたら したこと 、紛争は選 挙が生み だした権 力関係の 再調整と いう性格 を有して いたこと 、紛争によ っ て南北キ ヴ州のト ゥチ急進 勢力が従 来の経済 権益と政 治的影響 力の 維持に成 功したこ とが明ら かになっ た。一方、本 稿で説明 した紛争 の歴史的 背景を念 頭に置け ば、選挙後 の紛争に よって創 出された 権 力配置が 、それ以前 と同様に きわめて 脆いもの でしかな いことも 明 らかであ る。バニャ ルワンダ のトゥチ が、CND Pの暴力 を用いて 北キヴ州 の政治的 影響力を 奪還した としても 、それによ ってナン デ など他の エスニッ ク集団が 怨嗟の念 を強め、報 復を誓っ ているこ と は容易に想像できる。 コン ゴ東部の 紛争は、グ ローバル な要因︵国 際社会主 導の和平 プ ロ セ ス 、鉱 物 資 源 の 世 界 市 場 向 け 輸 出 ︶ 、リ ー ジ ョ ナ ル な 要 因 ( 特 に ル ワ ン ダ と の 関 係 ) 、 そ し て ロ ー カ ル な 要 因 ︵ エ ス ニ ッ ク 集 団 間 の 政 治的 バランス ︶が複雑に 絡み合う なかで継 続してき た。二〇〇 九年 三月 の和平合 意がどの 程度持続 可能か予 断を許さ ないが、今 後の政 治プ ロセスも これら諸 要因間の 関係によ って規定 されてい くことだ けは間違いない。 ︵ 1︶ 1990 年 代 以 降 の 紛 争 に 新 た な 特 質 が 見 ら れ る と い う 指 摘 に つ い て は 、 Mary Kaldor , New and Old W ar s: Organized V iolence in a Global Era , (Stanford University Press , 1999). 武 内 進 一﹃ 現 代 ア フ リ カ の 紛 争 と 国 家 ︱ ポ ス ト コ ロ ニ ア ル 家 産 制 国 家 と ル ワ ン ダ・ ジェノサイド﹄明石書店、二〇〇九年、など参照。 ︵ 2︶ こ こ で は 、﹁ グ ロ ー バ ル 化 ﹂ を 経 済 面 だ け で 捉 え ず 、 政 治 的 、 文

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53 コンゴ東部紛争の新局面 化 的 側 面 を 含 め て 考 え る 。﹁ グ ロ ー バ ル 化 ﹂ や ﹁ グ ロ ー バ リ ゼ ー シ ョ ン ﹂ の こ う し た 捉 え 方 に つ い て は 、 例 え ば 、 デ ヴ ィ ッ ド ・ ヘ ル ド ( 中 谷 義 和 監 訳 ) ﹃ グ ロ ー バ ル 化 と は 何 か ︱ 文 化 ・ 経 済 ・ 政 治 ﹄ 法 律 文 化 社、二〇〇二年、など参照。 ︵ 3︶ コ ン ゴ 内 戦 に 関 し て は 、最 近 、二 冊 の 重 厚 な 研 究 書 が 相 次 い で 刊 行 さ れ た︵ G ´erard Prunier , Africa’ s W orld W ar : Congo , the Rwandan Genocide , and the Making of a Continental Catastro-phe , (Oxford University Press , 2009). F ilip Reyntjens , T he Great African W ar : Congo and Regional Geopolitics , 1996-2006 , (Cam-bridge University Press , 2009). ︶ 。し か し 、い ず れ も 、二 〇 〇 六 年 選挙後の東部紛争激化について十分に扱っていない。 ︵ 4︶ コ ン ゴ 東 部 の 紛 争 と し て 、本 稿 で は 分 析 を 南 北 キ ヴ 州 に 限 定 す る 。特 に 二 〇 〇 三 年 前 後 に は ウ ガ ン ダ と 国 境 を 接 す る イ ト ゥ リ ︵ Ituri ︶ 地 域 で も 深 刻 な 紛 争 が 起 こ っ て い る が 、 本 稿 で は 扱 わ な い 。 ︵ 5︶ コンゴ内 戦の過程 について は、武内進 一﹁紛争が 強いる人 口移 動 と 人 間 の 安 全 保 障 ︱ ア フ リ カ 大 湖 地 域 の 事 例 か ら ﹂望 月 克 哉 編 ﹃人間の安全保 障の射程 ︱アフリ カにおけ る課題﹄ ︵アジア 経済研究 所 、 二 〇 〇 六 年 ︶、 一 五 一 ︱ 一 九 二 頁 / 武 内 進 一 ﹁ コ ン ゴ 民 主 共 和 国 の和平プ ロセス︱︱ 国際社会 の主導性 と課題︱︱ ﹂武内進一 編﹃戦 争 と 平 和 の 間 ︱︱ 紛 争 勃 発 後 の ア フ リ カ と 国 際 社 会 ︱︱ ﹄︵ ア ジ ア 経済研究所、二〇〇八年︶ 、一二五︱一六二頁、などを参照。 ︵ 6︶ トゥチは ルワンダ 総人口の 一〇∼一 五%、フト ゥは八〇 ∼八五 %を占め るが、言語 や宗教の 違いはな く、混在し て居住す る。ルワ ンダでは 、植民地期 末期の紛 争︵ ﹁社会革 命﹂ ︶でトゥチ 中心の政 治 体制が崩 壊し、フト ゥ・エリート が政権を 握って一 九六二年 に独立 した。この ため多数 のトゥチ が難民と なったが 、独立後の 政権は彼 らの帰還 を認めな かったた め、RPF の結成へ と至った 。一九九〇 年の内戦 勃発後い ったんは 和平協定 が結ばれ たが、一九 九四年四 月 の大統領 暗殺と大 虐殺を契 機に内戦 が再発し 、同年七月 にRPF が 軍事的勝 利を収め た。それと ともに、旧 政権派と フトゥ大 衆が周辺 国に大量流出した。 ︵ 7︶ 移 行 期 政 権 に お い て は 、ジ ョ ゼ フ・カ ビ ラ が 引 き 続 き 大 統 領 職 を 担 う 一 方 、四 つ の 副 大 統 領 職 が 設 け ら れ 、カ ビ ラ 政 権 派 、野 党 、そ し て R C D ︱ G o m a と M L C が そ れ ぞ れ 一 つ ず つ ポ ス ト を 占 め た 。R C D ︱ G o m a の ル ベ ル ワ 副 大 統 領 は 、﹁ 政 治 、 武 装 解 除・動 員 解 除 、治 安 ﹂を 担 当 領 域 と し 、国 防 相 は 同 派 か ら 任 命 さ れ た︵ Bucyalimwe Maroro Stanislas , “Kivu, RD Congo: Les institutions post ´electorales face aux multiples pi `eges de la transition, ” Stafaan Marysse , F ilip Reyntjens & Stef V andeginste dir . L ’Afrique des grands lacs , Annuaire 2007–2008 (L ’Harmattan, 2008), p .201. ︶ 。 ︵ 8︶ 例えば、二 〇〇六年 の選挙は 資金や治 安維持の 面で欧米 を中心 とする国 際社会に 深く依存 していた︵ 詳しくは 、武内前掲 論文﹁コ ンゴ民主共和国の和平プロセス﹂参照。 ︶ 。 ︵ 9︶ コ ン ゴ の 下 院 選 挙 は 、 総 じ て 県 ︵ territoire ︶ と 市 ︵ ville ︶ を 選 挙区とし 、有権者数 に応じて 総数五〇 〇の議席 が配分さ れる。選出 議席数が 一の場合 は、単純多 数を獲得 した候補 者が当選 する。選出 議席数が 二以上の 場合は、全 候補者の 一覧表か ら有権者 が一候補 者 を選択し 、それを政 党︵無所属 を含む︶別 に合計し て、比例代 表の 方法を用 いてで当 選者を決 定する。州 議会選挙 もほぼ同 様で、キン シ ャ サ 特 別 州 で は 下 位 行 政 区 分 の コ ミ ュ ー ン︵ Commune ︶が 選 挙 区とな るが、それ 以外の各 州では県 と市が選 挙区とな り、有権者 数 に応 じて議 席が配 分され る。ただ し、総数 690議席の うち、 58議席は 伝統首長など の任命枠 になって いる。一方 、上院議員 は地域代 表の 性格を持ち、各 州議会に おいて選 出される 。以上はい ずれも、二 〇 〇六年に公布された選挙法で規定されている。 ︵ 10︶ 選挙の際 には﹁RC D﹂として 政党化し た。しかし 、RCD︱ M L な ど と 混 同 す る 恐 れ が あ る の で 、本 稿 で は 選 挙 後 に つ い て は

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54 ﹁RCD︵︱Goma︶ ﹂と記載する。 ︵ 11︶ 下 院 選 挙 の 南 北 キ ヴ 州 選 挙 区 に お け る 結 果 に つ い て は 、 Bucyal-imwe Maroro Stanislas , “Les ´elections de 2006 et l’ordre post-transition au Kivu: Changement et continuit ´e, ” Stefaan Marysse , F ilip Reyntjens & Stef V andeginste dir . L ’Afrique des Grands Lacs , Annuaire 2006–2007 (L ’Harmattan, 2007), pp .243–271. を 参照。 ︵ 12︶ Economist Intelligence Unit , J une 2007, p .14. ︵ 13︶ ンクンダ はコンゴ 生まれの ルワンダ 系住民︵ト ゥチ︶で、R P Fに参加 してルワ ンダ内戦 で戦った 。第一次コ ンゴ内戦 でAFD L に 、第 二 次 コ ン ゴ 内 戦 で は R C D ︱ G o m a に 参 加 し 、司 令 官 と な っ た 。移 行 期 政 権 が 発 足 し た 際 、い っ た ん 新 国 軍 に 加 わ っ た が 、 そ の 後 離 脱 し た ︵ J eune afrique 、︵ No .2508, 二 〇 〇 九 年 二 月 一 ︱ 七 日号︶ 、 pp .28–31 ︶ 。 ︵ 14︶ C N D P に 関 す る 記 述 は 、 J ason K. Stearns , “Laurent Nkunda and the National Congress for the Defence of the P eople (CNDP), Stefaan Marysse , F ilip Reyntjens & Stef V andeginste dir . L ’Afrique des Grands Lacs , Annuaire 2007–2008 (L ’Harmattan, 2008), pp .245–268 、参照。 ︵ 15︶ J eune afrique , ︵ No .2513, 二 〇 〇 九 年 三 月 八 ︱ 一 四 日 号 ︶、 p .32. ︵ 16︶ ﹁ 加 速 化 さ れ た 統 合 ﹂︵ accelerated integration ︶ と 呼 ば れ る こ ともある。 ︵ 17︶ Bucyalimwe , “Kivu, RD Congo ..., ” op .cit., p .203. ︵ 18︶ J ason K. Stearns , “Laurent Nkunda ... ” op .cit., p .254. ︵ 19︶ コ ン ゴ 領 内 で ル ワ ン ダ に F D L R 掃 討 作 戦 を 認 め る 代 わ り に 、 ル ワ ン ダ に ン ク ン ダ を 逮 捕 さ せ る と い う コ ン ゴ と ル ワ ン ダ の 外 交 的 取 引 は 、ア メ リ カ が 主 導 し た と い わ れ て い る︵ J eune afrique ︵ No .2507, 二〇〇九年一月二五︱三一日号︶ 、 p .18 ︶ 。 ︵ 20︶ コ ン ゴ 東 部 の ル ワ ン ダ 系 住 民 に つ い て は 、 J ean-Claude W illame , Banyarwanda et Banyamulenge: V iolences ethniques et gestion de l’identitaire au Kivu , (L ’Harmattan, 1997) など参照。 ︵ 21︶ バニャル ワンダの 出自は多 様であり 、必ずしも 一体的な アイデ ン テ ィ テ ィ を 有 し て い な い 。フ ト ゥ と ト ゥ チ 、植 民 地 化 以 前 か ら の居住、移 民、難民と いった出 自の差な どによっ て、内部に 複数の グ ル ー ピ ン グ が 存 在 し て き た︵ Bucyalimwe Maroro Stanislas”Le TPD `a Goma (Nord-Kivu): Mythes et r ´ealit ´es ,” F ilip Reyntjens & Stefaan Marysse dir . L ’Afrique des Grands Lacs , Annuaire 2003– 2004 , (L ’Harmattan, 2004), pp .139–170. ︶ 。 ︵ 22︶ 例 え ば 、 モ ブ ツ と の 関 係 を 利 用 し て 、 北 キ ヴ 州 マ シ シ 県 の 土 地 が か な り バ ニ ャ ル ワ ン ダ の 手 に 集 積 さ れ た 。こ の た め 、 バ ニ ャ ル ワ ン ダ と従来の 土地権利 保持者で ある近隣 エスニッ ク集団と の緊張関 係が 高 ま っ た︵ Bucyalimwe Mararo Stanislas “La guerre des chiffres: Une constante dans la politique au Nord-Kivu, ” F ilip Reyntjens & Stefaan Marysse dir . L ’Afrique des Grands Lacs , Annuaire 1999– 2000 (L ’Harmattan, 2000), pp .225–262. ︶。 ︵ 23︶ J ean-Pierre P abanel “La question de la nationalit ´e au Kivu, ” P olitique africaine (No .41, 1991), pp .35. ︵ 24︶ W illame , op .cit., p .91. ︵ 25︶ Bucyalimwe “La guerre des chiffres ..., ” op .cit. ︵ 26︶ W illame , op .cit., pp .66–67. ︵ 27︶ Bucyalimwe Maroro Stanislas “L ’administration AFDL/RCD au Kivu (novembre 1996–mars 2003); Strat ´egie et bilan, ” Stefaan Marysse & F ilip Reyntjens dir . L ’Afrique des Grands Lacs , Annu-aire 2002–2003 , (L ’Harmattan, 2003), pp .171–205. ︵ 28︶ 第二次内 戦の武装 勢力の一 つ。東部の エスニッ ク集団の 自警団 的性格を持ち、ルワンダ系武装勢力に敵対的な立場を取る。 ︵ 29︶ モ ブ ツ 政 権 期 の 地 方 行 政 と 内 戦 期 の そ れ と の 連 続 性 に つ い て は 、 Denis M. Tull, “A Reconfiguration of P olitical Order? The State of

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55 コンゴ東部紛争の新局面 the State in North Kivu (DR Congo), African Affair s (102(408), 2003), pp .429–446. を参照。 ︵ 30︶ Stefaan Marysse , F ilip Reyntjens & Stef V andeginste dir . L ’Afrique de grands lacs , Annuaire , 2006–2007 (L ’Harmattan, 2007), pp .282–284. ︵ 31︶ 内 戦 期 の 資 源 略 奪 に 関 す る 報 告 書 と し て 、主 に 以 下 を 参 照 。 United Nations , “Report of the P anel of Experts on the Illegal Exploitation of Natural Resources and Other F orms of W ealth of the Democratic Republic of the Congo ,” (S/2001/357) ︵ 二 〇 〇 一 年 四 月 二 日 付 ︶ ; United Nations , “F inal Report of the P anel of Experts on the Illegal Exploitation of Natural Resources and Other F orms of W ealth of the Democratic Republic of the Congo ,” (S/2002/1146) ︵二〇〇二年一〇月八日付︶ 。 ︵ 32︶ Global W itness , “‘F aced with a Gun, What Can Y ou Do?’: W ar and the Militarisation of Mining in Eastern Congo ,” A Report by Global W itness , J uly 2009; United Nations , “F inal Report of the Group of Experts on the Democratic Republic of the Congo ,” (S/2008/773) (12 December 2008). ︵ 33︶ Global W itness , op .cit., pp .25–26. ︵ 34︶ 南北キヴ 州で採掘 される鉱 物資源と して特に 重要なの は、スズ 鉱、 金、 コルタン、 タングステン鉱 ︵ wolframite ︶ である。二〇〇 〇年にコ ルタンの 価格が急 騰したが 、翌年以降 は下落し 、近年では スズ鉱の取引が活発化している。 ︵ 35︶ 武内﹁コンゴ民主共和国の和平プロセス﹂前傾論文参照。 ︵ 36︶ コ ン ゴ に お け る 軍 統 合 プ ロ セ ス の 問 題 に つ い て は 、以 下 の 論 文 を 参 照 。 Eirin Mobekk, “Security Sector Reform and the UN Mission in the Democratic Republic of Congo: Protecting Civilians in the East, ” International P eacekeeping , (16(2), 2009), pp .273– 286; Renner Onana and Hannah T a ylor , “MONUC and SSR in the Democratic Republic of Congo ,” International P eacekeeping , (15(4), 2008), pp .501–516; S ´ebastien Melmot, “Candide au Congo: L ’´ec hec annonc ´e de la r ´eforme du secteur de s ´ecurit ´e (RSS), ” F ocus strat ´egique , (No .9, 2008), IFRI. ︵ 37︶ Global W itness , op .cit, p .31. ︵ 38︶ ビ ン ド ゥ は ワ リ カ レ 出 身 の 元 マ イ マ イ で あ る ︵ ibid. p .31. ︶。ア ミシは元RCD ︱Gom aの所属 で、二〇〇 七年一二 月にFA RD Cがムシャキで CNDP に大敗北 を喫した ときのF ARDC 司令官 であった︵ J ason K. Stearns , op .cit., p .256. ︶ 。 ︵ 39︶ 例 え ば 、南 キ ヴ 州 を 管 轄 す る 第 十 軍 管 区 の 司 令 官 マ ス ン ズ ︵ P acifique Masunzu 。時 に P atric k Masunzu と し て も 言 及 さ れ る ︶ 大将は、元RC D︱Go maの司 令官でバ ニャムレ ンゲであ る。二 〇 〇 二 年 に は R C D ︱ G o m a か ら 離 脱 し て ル ワ ン ダ 軍 と 戦 闘 し た 経 験 を 持 ち 、マ イ マ イ と も つ な が り が あ っ た︵ Global W itness , op .cit., p .34; IRIN News . 2 J uly 2002, 16 J uly 2002, 3 November 2003 など参照︶ 。 ︵ 40︶ United Nations , “F inal Report ..., ” (S/2008/773), par .73. ︵ 41︶ International Crisis Group , “Congo: Une strat ´egie globale pour d ´esarmer les FDLR, ” Rapport Afrique No .151, (9 juiller 2009). ︵ 42︶ United Nations , “F inal Report ..., ” (S/2008/773), par .57–60. ︵ 43︶ 国連の報 告書によ れば、CN DPはコ ンゴとウ ガンダの 国境に あ る ブ ナ ガ ナ︵ Bunagana ︶を 支 配 し て お り 、そ こ で の 関 税 収 入 を 得ている︵ ibid., par .35–47. ︶ 。 ︵ 44︶ ibid., par .61–68. ︵ 45︶ 組 織 名 こ そ 違 う と は い え︵ 二 〇 〇 二 年 頃 ま で は 、 ﹁ ル ワ ン ダ 解 放 軍 ﹂︵ Arm ´ee pour la lib ´eration du Rw anda: ALIR な ど と 称 し て い た ︶ 、ル ワ ン ダ 旧 政 権 派 勢 力 は ル ワ ン ダ 内 戦 で 敗 北 し た 直 後 か ら コンゴ東部 で活動し ている。当 時から、資 源採掘な どで地元 住民を

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56 搾取して活動を維持していたと考えられる。 ︵ 46︶ International Crisis Group , op .cit., pp .9. ︵たけうち しんいち  JICA研究所︶

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87)がある。二〇〇三年判決については、その評釈を行う Schneider, Zur Annahme einer konkludenten Täuschung bei Abgabe einer gegenteiligen ausdrücklichen Erklärung, StV 2004,

〔追記〕  校正の段階で、山﨑俊恵「刑事訴訟法判例研究」

  ステップ 1

約二〇年前︑私はオランダのハーグで開かれた国際刑法会議に裁判所の代表として出席したあと︑約八○日間︑皆

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