れる︒本稿ではその事を論証したいと考える︒
はじめに
﹃時代不同歌合﹄は左右各五〇人の歌人の歌各三首を歌合形式にした作品である︒撰者は後鳥羽院︒隠岐に流された院が当地で選んだ︒名称のように︑歌人の時代を異にする架空の歌合
である︒左は古今集から拾遺集初出の歌人︵ただし中務と花山院は後拾遺集初出歌人︶︑右は後拾遺集から新古今集初出の歌人からなる︒
﹃時代不同歌合﹄の研究史を略述する︒樋口芳麻呂氏は﹃平安・鎌倉時代秀歌撰の研究﹄︵1983・2 ひたく書房︶の第三章 第二項 時代不同歌合︵初出は1955・8︑1974・1︑以下この著書による︶において︑本作品の諸本を研究し︑Aか
らFの六類に分け︑AからDを初撰本︑E・Fを再撰本に分類︑
また細かく内容の吟味などをしている︒そしてこの作品の続編 キーワード後鳥羽院・秀歌撰・初撰本・再撰本・在原業平
要 旨
本稿は﹃時代不同歌合﹄について︑初撰本と再撰本の違いに
より四組の番いが異なることを取り上げ︑その相違や再撰本に変えた理由などを考察するものである︒歌自体も伝本により十数首の相違がある︒本作品は樋口芳麻呂氏・寺島恒世氏により詳しく研究されているが︑稿者もその驥尾に付して考えてみた
い︒撰者の後鳥羽院が隠岐の島に配流されて以後に撰んだ作品
である︒結論として︑初撰本は歌人の組み合わせはよいが歌の組み合わせの理由がわかりにくい所があり︑再撰本では歌の組
み合わせが合理的になった所が多いと考えられる︒詞書が書か
れていないため歌の詠作事情などを無視して︑番いとして読み取ろうとする努力が必要な場合もあるが︑比較すれば︑再撰本
の方が歌の内容中心の︑読みやすい良い番いになったと考えら
大 伏 春 美 ﹃ 時代不同歌合 ﹄ の 番 いの 研究
︱︱初撰本と再撰本について︱︱
文の引用を︑前者は樋口氏校注の岩波文庫﹃王朝秀歌選﹄所収本︵1983・3 岩波書店︑底本は宮内庁書陵部蔵
501・608本︶︑後者は﹃新編国歌大観﹄所収本をテキスト
とし︑表記を私に変えながら使用する︒その他の作品の本文と歌番号は﹃新編国歌大観﹄により︑表記を変えたりした︒﹃万葉集﹄は旧番号による︒
1 諸本について
本作品は左右の五十人の歌人の各三首を歌合形式にしている
が︑百五十番に記すものと︑一人三首ずつにまとめて五十番に記すものがある︒五十番の時は三首まとめての和歌の享受がさ
れやすいと思う︒また歌仙絵がある時も五十番の作品が多い︒諸本研究は樋口氏著書が詳しい︒氏は諸本を六種類に分ける
が︑A本は孤立しており︑B本がC・D・E本と展開してゆく
として分類する︒伝本について︑樋口氏の分類を記し主な伝本
と活字本を記すと︑初撰本は
A本 穂久邇文庫蔵伝飛鳥井雅康筆本日本歌学大系 甲本 B本 群書類従巻二一五所収本 など C本 宮内庁書陵部蔵501・608本など
﹃王朝秀歌選﹄所収
D本 愛知教育大学蔵本
C本と赤染衛門の歌一首の違い再撰本は にあたる藤原基家撰の﹃新時代不同歌合﹄についても論じてい
る︵初出は1971・3︶︒諸本については︑森 暢氏の﹃歌合絵の研究 歌仙絵﹄︵1970・3 角川書店︶もある︒久曽神昇氏は﹃日本歌学大系 別巻六﹄中で︑﹁時代不同歌合﹇甲﹈﹂︵樋口氏A本にあたる穂久邇文庫本蔵伝飛鳥井雅康筆本︶と﹁﹇乙﹈﹂
の一人一首本を紹介する︒
﹃新編国歌大観 第五巻﹄所収本︵1987・4 角川書店︑樋口氏担当︑底本は宮内庁書陵部蔵501・609本︶におい
ては諸本を初撰本と再撰本に分け︑再撰本のF本を底本にして
いる︒この樋口氏の分類が現在の標準的な分け方である︒また吉田幸一氏の﹃時代不同歌合為家本考﹄︵1996・11 古典文庫︶も出て︑貴重な本が紹介された︒樋口氏分類のF本にあ
たる︒内容の研究には寺島恒世氏の﹃後鳥羽院和歌論﹄
︵2015・12 笠間書院︶があり︑第五章 時代不同歌合︵初出は1984・6︑1994・1︑以下この著書による︶では︑
この作品の秀歌撰としての性格を﹁番えることによって切り開
かれる新たな世界創出のための模索﹂と記す︒出典・部立・詞書を持たない歌は読者に自由な読みを与え︑また番いとして享受することの意味を考えさせるのである︒本稿も寺島氏に多く
を学んでいる︒また田槇伸子氏﹁﹃時代不同歌合﹄について﹂︵日本文学文化︿東洋大学﹀3号 2003・6︶は諸本を詳しく調査し︑樋口氏の諸本分類に批判を加えて四類に分けることを提示している︒田槇氏の精力的な調査に敬意を表しつつも︑成立論と無関係な諸本分類には賛同できず︑稿者は樋口氏の分類に従いたい︒そこで︑本稿では︑初撰本と再撰本に大別して︑本
〇﹃時代不同歌合﹄ 四巻四軸 チ4・6345・1〜4 文政三年︵一八二〇︶古致写 彩色画あり 五十番本 一巻は人麿から良暹まで︵一番から十七番まで︶︑二巻は貫之から秀能まで︵十八番から三十三番まで︶︑三巻は絵を部分的に模写
したもの︑四巻は順から宮内卿まで︵三十四番から五十番まで︶
を記す︒四巻の内題に遠藤伴介とあり︒WINEに画像情報あ
り F本
2 初撰本と再撰本の番いの変更について 本作品は藤原公任の﹃三十六人撰﹄の形式を踏襲するから︑樋口氏の指摘のように︑ひとり三首ずつの秀歌をみることと︑歌合の番いとして対者との組み合わせをみることの二つの楽し
み方がある︒
さて︑初撰本と再撰本では︑寺島氏の指摘のように四組の番
いの変更が見られる︒即ち
初撰本 家持――清輔、篁――国信、業平――西行、
伊勢――良経
再撰本 家持︱︱国信︑篁︱︱西行︑業平︱︱良経︑伊勢︱︱清輔
である︒左の歌人はそのままで︑右の歌人は清輔が後ろにま
わってずれている︒以下で具体的にみてゆくことにするが︑そ
の前にこの作品の番いの傾向を知るために︑わかりやすい例を取り上げたい︒
凡河内躬恒と紫式部の場合である︒﹃古今集﹄撰者の躬恒と E本 宮内庁書陵部蔵501・556本など多数
F本とは後鳥羽院歌二首の違いと︑西行歌の順序の違いあり F本 宮内庁書陵部蔵501・609本新編国歌大観所収本
であり︑樋口氏によりそれぞれの本の相違が示されている︒基本となるのは初撰本︵初稿本︶と再撰本︵再稿本︶の違いで
あり︑前者は後鳥羽院が隠岐に遷った承久三年︵一二二一︶の後︑貞永元年︵一二三二︶以降︑文暦二年︵一二三五︶九月十日以前の成立︑後者は嘉禎二年︵一二三六︶七月以後の成立と考
えられている︒両者の相違点は︑四組の歌人の組み合わせと︑十三首の歌の差替え︵単なる歌の差替え十一首︑順序の変更の
ある定家の一首︑対者の変更を伴う良経の一首︶にあるが︑本稿では良経の差替えにふれる︒そして本稿では四組の歌人の組
み合わせとそれに伴う歌の相違を中心に論じたいと思う︒次に樋口氏・田槇氏の未紹介の本を記す︒ともに早稲田大学中央図書館蔵である三本で︑再撰本である︒
〇﹃時代不同歌合﹄ ヘ4・1584 一巻 一軸 彩色画あり 江戸期の模本本文は樋口氏著書分類のE本︵東京国立博物館蔵 勝川雅信写本︶に近似 一番に三首ずつ記す五十番本 早稲田大学図書館の検索システムWINEに画像情報あり
〇︵外題なし︶ イ4・3164・84 一巻 一軸 明暦二年︵一六五六︶写 五十番本 絵なし 下巻のみ 蝉丸から宮内卿まで︵二十五番から五十番まで︶ E本
対比を含めてこのように組み合わせた後鳥羽院の意図もうかが
える︒一一一は松風と白波の音をうたい︑一一二は虫の声をう
たうから︑ともに音を扱っている︒一一三と一一四は恋と哀傷
の歌という違いがあり︑躬恒歌は﹁あはぬ君かな﹂と逢えない恋の心をうたうが﹁藤衣﹂は喪服を連想させることばでもある︒式部は火葬の煙をうたう︒一見︑関係のない番いの歌のようだ
が︑逢えないことが共通するので対比させたのではないだろう
か︒なおA本のみは蝉丸と紫式部︵十六番から十八番︶︑躬恒
と能因︵五十八番から六十番︶の番いである︒
ちなみに︑躬恒の前後の左側の歌人は︑延喜︵醍醐︶・貞文・兼輔・友則・貫之・躬恒・忠岑と古今歌人が整然と並んでいる︒
この配列は︑最初に左側の歌人を選定し︑その人物にふさわし
い右側の歌人をならべたことが推定される︒本歌合の番いの理由がすべて明瞭に説明できる訳ではない
が︑さまざまに考えることは可能だと思われる︒そして本作品
の理解は︑歌を番いの形で読み︑単独では読み取れない深読み
も必要になると考える︒
以下に︑初撰本と再撰本で相違のある四組について︑それぞ
れを比較しながら検討を加えていきたい︒歌の相違があるた
め︑右歌には初撰本と再撰本の本文を併記する︒なお左右の本文は再撰本によるが︑左の歌は変化がないのでそのままとし︑右歌については初撰本の歌番号を算用数字︵その左に再撰本の歌番号も併記する︶︑再撰本の歌番号を漢数字で記す︒初撰本の家持・清輔の番いは︑﹃万葉集﹄をまとめた家持に ﹃源氏物語﹄の作者という一流の歌人の組み合わせであり︑良
い番いといえる︒また歌も
五五番左躬恒一〇九 いづくとも春の光はわかなくに まだみ吉野の山は雪ふる︵後撰・春上・一九︶
右 紫式部一一〇 み吉野は春のけしきにかすめども むすぼほれたる雪の下草︵後拾遺・春上・一〇︶
五六番左一一一 住吉の松を秋風吹くからに 声うちそふるおきつ白波︵拾遺集・雑秋・一一一二︑古今・賀・三六〇・
よみ人しらず︶
右一一二 鳴きよわるまがきの虫もとめがたき 秋の別れや悲
しかるらん︵千載・離別・四七八︶
五七番左一一三 伊勢の海にしほ焼く海人の藤衣 なるとはすれどあ
はぬ君かな︵後撰・恋三・七四四︶
右一一四 見し人の煙となりし夕べより 名もむつましき塩釜
の浦︵新古今・哀傷・八二〇︶
の各三首である︒一〇九・一一〇は似た内容だが︑躬恒は単に初春の景色をうたい︑式部は霞と雪の対比を描いており︑時代
が下って和歌が複雑化していく様子も読み取れるので︑新旧の
右一六 何ごとを待つとはなしにあけくれて 今年も今日に
なりにけるかな︵金葉・冬・三〇四︶
九番左一七 かささぎの渡せる橋におく霜の 白きを見れば夜ぞ
ふけにける︵新古今・冬・六二〇︑家持集︶
右 18 冬枯れの森の朽ち葉の霜の上に 落ちたる月の影の六〇 さやけさ︵新古今・冬・六〇七︶
右一八 山路にてそほちにけりな白露の あかつきおきの木々のしづくに︵新古今・羈旅・九二四︶
の各三首である︒一三と14は淡雪・白露という自然をよむ︒
14の白露は一面に散っている︒一三・一四はともに﹁淡雪﹂を
よむが︑一四は﹁つれなく見ゆる﹂と淡雪を擬人化しており︑表現が複雑化している︒一五は葛かづらが風で裏返るような秋
が来たというが︑16は月を見て理由もなく落涙するので︑月
は見るまいと決意を述べる︒﹃伊勢物語﹄の四五段﹁暮れがたき夏の日ぐらしながむればそのこととなく物ぞ悲しき﹂を踏まえ
るといわれる︒一六は冬の終わりを﹁今年も今日になりにける
かな﹂といい︑年の暮の感慨を表現する︒一五・一六は共に季節の変化をうたいまとまりのよい番いといえる︒一七は夜が更
けたことをいい︑18は霜の上に照る月の光の美しさを表現す
る︒空の橋と月光も共通点となるだろう︒一八の﹁暁おき﹂は 対し︑六条藤家の歌学者清輔であり︑私撰集の﹃続詞花集﹄他
を撰びまた歌学書を多くまとめた実力者であるから︑和歌に造詣の深い二人を並べ︑適切な組み合わせと思われる︒一方︑再撰本の家持・国信の番いの歌を見ると︑それぞれの歌もうまく対応しており︑良い組み合わせと考えられる︒また国信は実力や業績は清輔に劣るにしても︑堀河歌壇で活躍した人物であり︑﹃堀河百首﹄への関与や詠出︑自家の歌合の主催
なども見られる︒歌は
七番左家持 一三 まきもくのひばらもいまだくもらぬに 小松が原に
淡雪ぞ降る(新古今・春上・二〇、万葉・二三一四・
作者未詳、家持集、人麿集)
右 清輔 14 竜田姫かざしの玉の緒を弱み 乱れにけりと見ゆる 五六白露︵千載・秋上・二六五︶ 右 国信一四 春日野の下もえわたる草の上に つれなく見ゆる春
の淡雪︵新古今・春上・一〇︶
八番左一五 神なびのみむろの山の葛かづら 裏吹きかへす秋は来にけり︵新古今・秋上・二八五︑家持集︶ 右 16 今よりは更け行くまでに月は見じ そのこととなく五八 涙落ちけり︵千載・雑上・九九四︶
一六 りにけるかな︵金葉・冬・三〇四)
右二二 なげけとて月やは物をおもはする かこちがほなる
わがなみだかな︵千載・恋五・九二九︶
十二番左二三 数ならばかからましやは世中に いと悲しきはしづ
のをだまき︵新古今・恋五・一四二五︶
右 24 山路にてそぼちにけりな白露の 暁起きの木々の滴一八 に︵新古今・羈旅・九二四︶
右二四 あきしのやと山の里やしぐるらん いこまのたけに雲のかかれる︵新古今・冬・五八五︶
である︒一九は隠岐に配流された時の歌である︒20は早春の景をい
い一九とは無関係である︒二〇は春を迎えて雪が解け清滝川に流れ入る水をよんでいる︒白波が立つほどに水が多い︒二一の歌は配流された離島隠岐での感懐︒﹁思ひきや﹂と想像もしな
かった事をいい︑漁をする生活をいう︒22は年末の感慨で︑二一末尾の﹁は﹂と22の﹁かな﹂の詠嘆が共通する︒二二は西行の代表作だが︑恋の思いを月のせいにし︑その不合理を自覚
している歌である︒寺島氏は初撰本の番いについて論じるので︑二一と22につ
いて﹁二首ともに時間の経過による不遇意識を表明して共通す 白露の﹁置き﹂と旅人が﹁起き﹂ることの掛詞であり︑暁は一七
の夜更けに連続する時間であるから︑空の様子や変化をいうの
も一七・一八は共通している︒また﹁白﹂が共通する︒このよう
に︑再撰本は初撰本と比較すれば︑歌の組み合わせがよいと思
われる︒家持歌も﹃新古今集﹄に収められた優雅な伝家持歌である︒
次に︑初撰本の篁・国信︑再撰本の篁・西行の番いについて考えてみる︒本文は
十番左篁一九 わたのはらやそ島かけてこぎ出でぬと 人にはつげ
よあまのつりぶね︵古今・羈旅・四〇七︶ 右 国信 20 春日野の下もえわたる草の上に つれなく見ゆる春 一四の淡雪︵新古今・春上・一〇︶
右 西行二〇 ふりつみし高嶺のみゆきとけにけり きよたき河の水のしらなみ︵新古今・春上・二七︶
十一番左二一 おもひきやひなのわかれにおとろへて あまのなは
たぎいさりせんとは︵古今・雑下・九六一︶ 右 22 何事を待つともなしに明け暮れて 今年も今日にな
四三 花にあかぬ嘆きはいつもせしかども 今日の今宵に
にる時はなし︵新古今・春下・一〇五︑伊勢物語二九段︶
右 西行 44 降り積みし高嶺のみ雪解けにけり 清滝川の水の白二〇 波︵新古今・春上・二七︶
右 良経四四 ふるさとの元あらの小萩咲きしより 夜な夜な庭の月ぞうつろふ︵新古今・秋上・三九三︶
二十三番左四五 月やあらぬ春やむかしの春ならぬ わが身ひとつは
もとの身にして︵古今・恋五・七四七︑伊勢物語四段︶
右 46 秋篠や外山の里やしぐるらむ 生駒の嶽に雲の懸か二四 れる︵新古今・冬・五八五︶
右四六 もらすなよ雲ゐる峰の初時雨 木の葉は下に色変は
るとも︵新古今・恋二・一〇八七︶
二十四番左四七 たがみそぎゆふつけ鳥かから衣 たつたの山にをり
はへてなく︵古今・雑下・九九五・よみ人しらず︶
右 48 嘆けとて月やは物を思はする かこち顔なるわが涙二二 かな︵千載・恋五・九二九︶
右 ることが︑相互に関わらせる読みを誘うであろう︒﹂と記す︒二三は恋の成就しない身分の賤しい我が身を嘆いている︒
24は﹁起き﹂と﹁置き﹂を掛ける︒二四は秋篠の里の時雨を想像している︒この番いでは24と二四の差はあまりないと考え
られる︒なお再撰本のうち伝本の多いE本では西行の歌が二四・二二の順になっているため︵樋口氏指摘︶︑二一・二四の番いは海と山の対比︑二三と二二の番いは﹁悲しき﹂と﹁なげけ﹂
﹁涙﹂の組み合わせとなり︑こちらの方がF本より内容が緊密
になると思われる︒寺島氏は本作品が詞書をもたないため︑歌のみを享受する︑
また番いとして読み取るという立場から初撰本について詳述す
る︒20の﹁つれなく見ゆる﹂も一九の﹁悲痛な思いを聞き入
れてはくれない大方の反応﹂と読むことが可能という︒そして篁歌について二十三を一九・二一の流れの上から﹁現況への嘆
きはやはり配流の事実と関わるように解されやすい︒﹂とする︒
そして﹁配所での苦悩は後鳥羽院の現在と呼応すると読まれて
くる︒﹂とまでいう︒ただし篁は後年許されて都に戻っている︒
また氏は24の﹁おき﹂にも﹁﹃隠岐﹄の掛詞が透視されてくる︒﹂
と読み取っている︒
次に︑初撰本の業平と西行︑再撰本の業平と良経の番いを考
える︒後者は天皇を祖父に持つ業平︑代々の摂関家の出の良経
という貴種︑貴公子の組み合わせである︒
二十二番左 業平
同じ形見の春の夜の月﹂︵俊成卿女︶がこの歌を本歌にするな
ど︑たいそう愛好された歌である︒
46は秋篠の山の里の時雨について︑生駒山にかかる雲から想像している︒そして久保田淳氏﹃新古今和歌集全注釈 二﹄
︵2011・11 角川学芸出版︑旧版の﹃新古今和歌集全評釈 二﹄は1976・12 講談社︶は︑﹁新古今注﹂﹁八代集抄﹂が
﹃伊勢物語﹄二三段の高安の女の歌﹁君があたり見つつを居らむ生駒山雲な隠しそ雨は降るとも﹂を指摘すると述べる︒また﹁神無月ゆふまの山に雲かかる麓の里や時雨ふるらむ﹂︵堀河百首・冬・時雨・九〇二・源顕仲︶を参考歌として記す︒46は﹃伊勢物語﹄の﹁雨﹂を時雨に変えて季節を加え︑また表面上は時雨をよむが︑恋心を秘めた歌とも取れる︒そうするとこの番い
は﹃伊勢物語﹄に共通基盤があり︑良い番いといえそうである︒四六も初時雨をよみ46と共通点もあるが︑雲の下で︑時雨
に紅葉する木の葉が下にあっても時雨はもらさないでくれと︑時雨に呼びかけている︒本歌は﹁白露も時雨もいたくもる山は下葉のこらず色づきにけり﹂︵古今集・秋下・二六〇・貫之︶で
ある︒四六は恋の歌には見えないが﹃六百番歌合﹄の﹁忍恋﹂題
でよまれた︒すると﹁もらすな﹂も恋心を相手や他人に知らせ
るなという意味になる︒また﹁初時雨﹂の﹁初﹂も初恋を連想す
るものと指摘され︑﹁雲ゐる峰﹂も秘めた恋心︑﹁木の葉﹂も袖
を暗示するといわれる︒四六は倒置法で﹁もらすなよ﹂と力強
くよむ点︑四五の恋の絶唱に対置できると後鳥羽院は考えたの
だろうか︒四七は木綿付鳥が龍田山に﹁長く﹂︵をりはへて︶鳴く様子を 四八 いく夜われなみにしほれて貴舟川 袖に玉ちる物思ふ
らん︵新古今・恋二・一一四一︶ *この歌は初撰本に入らない︒
業平を﹃伊勢物語﹄の﹁男﹂と考えれば︑東下りの旅をした人物となり︑初撰本の旅の歌人西行とは良い組み合わせとなるで
あろう︒四三と44ではあまり対応がよくないが︑四三と四四
では︑四三が花を眺め足りないという嘆きは過去にもしていた
が︑今夜ほど眺めて満足する経験はないという︒﹃伊勢物語﹄二九段では春宮の女御の花の賀での作とする︒四四も古里の小萩が咲いてからは︑毎夜その庭に月が映っているという︒古里
になった庭の美しさと寂しさをうたっている︒四三は過去と現在の対比であり︑四四は﹃仙洞句題五十首﹄の﹁月前草花﹂題の歌であるが︑古里への回想をさそうため︑両首ともに上句で過去を連想し︑下句で現在を取り上げていると読め︑内容的に類似点がある︒この組み合わせの表現は︑業平が直接心情をいう
のに対し︑良経は心情の変化を月の﹁うつろふ﹂変化にたとえ
ている︒そして月と同様に萩をめで︑日時も経過した︒業平は現在の栄光をいい︑良経は過去に栄えた﹁ふるさと﹂の美しさ
と寂しさをいう︒四五は業平の代表作だが︑周知のように﹃新古今集﹄春上・四四から四七では︑﹁梅の花に匂ひをうつす袖の上に軒もる月
の影ぞあらそふ﹂︵定家︶︑﹁梅が香に昔を問へば春の月こたへ
ぬ影ぞ袖にうつれる﹂︵家隆︶︑﹁梅の花誰が袖ふれし匂ひぞと春や昔の月に問はばや﹂︵通具︶︑﹁梅の花飽かぬ色香も昔にて
四八は貴船川の浪にぬれ︑袖に涙の玉を散らして物思いをす
るというが︑本歌﹁奥山にたぎりて落つる滝つ瀬の玉散るばか
り物な思ひそ﹂︵後拾遺集・雑六・一一六三・貴船明神︶による︒
﹁玉ちる﹂は涙が激しく落ちる状態であり︑﹁しほれ﹂の縁語と
いう︒﹃六百番歌合﹄の﹁祈恋﹂題の歌である︒四七の禊ぎと四八の貴船明神への恋の成就の祈りが関連され︑また木綿付鳥
の﹁鳴く﹂が﹁泣く﹂を連想させるから︑﹁玉ちる﹂ごとき涙と
も関係する︒
なお四八は再撰本で差替えられた歌である。右に四七と48
の番いを「泣く」で関係づけたが、四七・四八の祈りの方がより
密接な関係になると思われる(四八に差替えられた初撰本の
58の歌については次に述べる)。
次に︑初撰本の伊勢・良経︑再撰本の伊勢・清輔の番いを考
える︒伊勢は︑古今集時代の女性歌人の第一人者であり︑宇多天皇
の御子を産み︑伊勢の御と尊敬された︒三代集に多くの歌が入
る︒対する良経は︑﹃新古今集﹄の真名序を書くなど︑摂関家
の教養を身に着けた貴公子である︒番いとして不足はないと思
われる︒再撰本の清輔は実力歌人である︒初撰本については寺島氏の考察がある︒歌は
二十八番左 伊勢五五 あひにあひて物思ふころの我が袖に やどる月さへ
ぬるる顔なる︵古今・恋五・七五六︶ 描き︑誰の禊ぎかと想像する︒48と番わせて考えれば︑﹁鳴く﹂
は﹁泣く﹂を連想させるといえる︒ただし業平歌ではなく︑よ
み人しらずの歌である︵後述︶︒
48の西行歌は﹃山家集・中﹄の﹁月前の恋﹂の題詠で︑﹃御裳濯河歌合﹄︑﹃百人一首﹄他にも入る︒月の美しさのせいで落涙するのではなく失恋のために流す涙なのだが︑月のせいで流
すようにかこつけて見せているという︒俊成は歌合判詞で﹁心深く姿優なり﹂と評している︒﹃百人一首﹄にも入りよく知られ
た歌であるため多くの先行研究があるが︑題詠であり︑恋心を
うたうよりも自身の﹁かこち顔﹂の涙を強調するという理解が多いようである︒また涙の多寡も論じられている︒業平の代表作の四五と48と比較すれば︵これは番いではな
いが三首を一括して記す五十番本ならば︑より比較しやすい︶︑業平歌は月と花︵梅︶をうたい下句で自身のことをうたってい
る︒﹃伊勢物語﹄ではその他にも︑桜︵八二・八七段︶︑かきつば
た︵九段︶︑藤︵八〇・一〇一段︶などの花がうたわれている︒
さて︑月や花を見て涙を流した﹃伊勢物語﹄の世界をふまえ
て48﹁なげけとて﹂の歌が発想されたとまでは考えないとし
ても︑または西行の意識は別としても︑後鳥羽院あるいは読者
が四五と48を関連付けて考えることは可能であろう︒先行研究で西行の四五享受は指摘されていないと思われるが︑この場所にあることにより関連が読み取れると考えるのである︒西行
も月と花︵桜︶の歌人として知られている︒業平・西行を月と花にかかわる歌人として扱ったのならば︑初撰本の番いも良い組み合わせといえるのではないだろうか︒
となっている︒五五・56・五八・六〇には﹁月﹂が共通している︒五五は恋の物思いに涙し︑袖に映った月も悲しそうに見えると
いう︒月に感情移入した恋歌である︒なお﹁ぬるる顔﹂に対し︑西行の二二の﹁かこち顔﹂が想起されるが︑伊勢と西行は番い
にならなかった︒56は先にも述べたが︑ふるさとに小萩が咲
き︑そこに月が照らすという︒﹁宮城野のもとあらの小萩露を重み風を待つごと君をこそ待て﹂︵古今集・恋四・六九四・よみ人しらず︶をふまえる歌であり︑恋への連想も可能である︒す
でに寺島氏は︑56について︑﹁恋に悩む左歌の主体が立つ周辺の景を描いた形となっていることに気付かされる︒﹂と述べ
ている︒五六は龍田姫のかんざしの飾りの玉と﹁白露﹂が縁語となり︑秋の野に置く白露の動きが巧みによまれている︒参考歌に﹁彦星の挿頭の玉の妻恋に乱れにけらしこの川の瀬に﹂︵万葉集・九・一六八六・間人宿祢︶が指摘されている︒五六は一面に置
いた白露を︑龍田姫のかんざしについている白玉が散ったと表現する美しい歌であり︑龍田山の紅葉を想像させるといわれ
る︒五五の袖にやどる涙が五六の白露との連想を呼び番いとし
ても納得できる︒56は前述のように四四に置かれた方が歌の上下句の構成︵過去と現在の対比︶が生きるだろう︒五七は伊勢の代表作で恋人を待つ歌である︒58も山を舞台
にしており︑嵐の音もとだえがちになり︑牡鹿の声が弱まった
のは鹿が山頂に帰ったためかと推測している︒五八は雑歌であ
り︑涙の落ちる理由も﹁そのこととなく﹂と不明だが︑五七と 右良経
56 古里の本あらの小萩咲きしより 夜な夜な庭の月ぞ 四四 うつろふ︵新古今・秋上・三九三)
右清輔五六 龍田姫かざしの玉の緒をよわみ 乱れにけりとみゆ
る白露︵千載・秋上・二六五︶
二十九番左五七 三輪の山いかにまちみむ年ふとも たづぬる人もあ
らじと思へば︵古今・恋五・七八〇︶
右 58 たぐへ来る松の嵐やたゆむらむ 尾上に帰るさをしか
の声︵新古今・秋下・四四四︶*この歌は再撰本に撰入されず︒
右五八 今よりはふけ行くまでの月はみじ そのこととなく涙落ちけり︵千載・雑上・九九四︶
三十番左五九 思ひ川たえず流るる水の泡の うたかた人にあはで
きえめや︵後撰・恋一・五一五︶
右 60 漏らすなよ雲ゐる峰の初しぐれ 木の葉は下に色変 四六 るとも︵新古今・恋二・一〇八七)
右六〇 冬がれの森の朽ち葉の霜の上に 落ちたる月の影の
さむけさ︵新古今・冬・六〇七︶
て合うのではないだろうか︒寺島氏は初撰本の二十八番から三十番の番いについて︑伊勢
の恋歌に対し︑良経歌は
いずれも秋から冬にかけての景を詠み込んで︑相補いつ
つ︑奥行きのある融合世界を創造していると読まれる︒や
はり新たに紡ぎ出すことができる意味を読者が楽しめるよ
うな二首が選択され︑結合されているのである︒
と結論づけている︒しかし再撰本もそれぞれに読み取れるもの
があると稿者は考える︒
また寺島氏は
再撰本への改訂理由は︑編者の歌を含む十余首に及ぶ歌の差し替えとも絡んで単一ではないものの︑小さくない動機
の一つに︑配流の体験と関わる特異性を解消しようとする思惑を指摘してよいように思われる︒
と述べる︒例として篁歌と国信歌の番いがあげられている︒貴重な指摘である︒以上いろいろと見てきたように︑初撰本と再撰本を比較する
と︑再撰本では歌に使われる語句の組み合わせが緊密になった
と考えられる︒初撰本が歌人の組み合わせを重視して構成して
いるのに対し︑再撰本は歌人を入れ替え︑より歌同士の組み合
わせがうまく機能し納得のいくものになったと思われる︒また詞書がないため読者は歌を自由に享受することができるから︑番いの二首を相互に影響させて読むことが可能である︒改良し
てわかりやすくするのは撰者にとり当然のことであろう︒そし
て業平歌が含まれるためか︑﹃伊勢物語﹄との関係も密接なよ 並べて恋歌のように解せば︑落ちる涙の理由も恋人が来ないか
らとわかりやすくなる︒寺島氏は五七の﹁孤独な恋人﹂に対し
て︑58を﹁背景としての山の景の設定をするという相補的な関係になっている︒﹂と述べる︒五七・58の番いでは︑五七﹁た
づぬる﹂︑58﹁帰る﹂とあり︑恋人︵58では鹿だが︶を求め
るという点では共通する︒五七は待っても甲斐がなく︑58で
は妻を探しに山上に帰るのであるが︑嵐と鹿の組み合わせとい
うやや類型的な歌のため再撰本でははずされたのだろうか︒
﹁み山べの松の梢を渡るなり嵐に宿すさ牡鹿の声﹂︵新古今集・秋下・四四二・惟明親王︑正治初度百首︶や︑藤原季経の﹁山
たかみおろす嵐やよはるらむかすかになりぬさ牡鹿の声﹂︵仁安二年太皇太后宮亮経盛朝臣家歌合・三二︶︑同﹁さそひくる峰の嵐やよはるらむ遠ざかるなりさ牡鹿の声﹂︵三百六十番歌合・四〇七・︶の類歌が指摘されている︒五九と60は恋歌であるが︑五九は水の泡のようにはかない自分は相手への思いのために常に涙が流れていて︑しかし逢わ
ないで消えることはないと決意を述べる︒﹃後撰集﹄の長文の詞書では︑男から﹁失せにたる﹂︵いなくなった︶といってきた言葉に対して︑それを死んだの意に解しての返歌である︒﹁流
るる﹂は﹁泣かるる﹂との掛詞である︒60は前に述べたように︑時雨の様子をうたうように見えるが︑初恋をよそに漏らすまい
とする歌である︒決意の表明という点では五九の﹁きえめや﹂
︵消えてしまわない︶に対応する︒六〇は冬の歌で︑冬枯れの落ち葉の上に月が寒そうに照って
いる様子である︒その寂しい景色は五九の寂しい心の人に対し
に︑寺島氏は初稿本から再撰本への理由を﹁配流の体験と関わ
る特異性を解消しようとする思惑﹂と指摘しているので︑五三歌は帰郷の思いが直接すぎるだろう︒なおこの歌は吉田氏の指摘のように︑B本の群書類従本は作者を﹁よみ人しらず﹂と記
す︒また新日本古典文学大系﹃後撰和歌集﹄の脚注には︑定家本系は業平だが︑坊門局本などが﹁よみ人しらず﹂とするのが古い形かと指摘する︒再撰本四三の﹁花にあかぬ嘆きはいつもせしかども今日の今宵ににる時はなし﹂は隠岐への連想の要素がなくなり︑過去に
は嘆いていたが現在に満足する様をうたい︑やや︑現状に満足
しているという強がりも感じられる︒﹃新古今集﹄の歌︵撰者注記は定家・家隆・雅経︶︒作者に問題のあることも差替えの理由になったのだろうか︒一方︑五一の﹁たがみそぎ﹂はAからF本まですべての本に載るが︑前掲のように﹃古今集﹄九九五のよみ人しらず歌︑﹃大和物語﹄一五四段の男の歌であり︑作者に問題がある︒
このことについて樋口氏﹃王朝秀歌選﹄は︑﹃古今集﹄九九五
の前の九九四の左注への後鳥羽院の錯誤かという︒また樋口氏
は著書の第三章第二節第二項﹃八代集秀逸﹄において︑定家撰
の流布本﹃八代集秀逸﹄の成立は天福二年︵一二三四︶九月︑そ
の後まもなく成立した別本﹃八代集秀逸﹄は後鳥羽院・定家・家隆各撰をまとめたものといい︑別本﹃八代集秀逸﹄を調査研究した上で︑同書には
14﹁たがみそぎ﹂歌の作者を 「業平朝臣」とあるのも、『古今集』が「よみ人しらず」とし、
定家も流布本『八代集秀逸』で「よみ人しらず」と記してい うに思われる︒後鳥羽院は改作をして作品をより良くする傾向がある︒また
﹃新古今集﹄の切継ぎや︑﹃後鳥羽院御集﹄と各百首歌などとの相違は周知の事実である︒
3 業平の歌について
ここで問題にしたいのは業平歌で︑初撰本のA本では
二十五番左業平 四九 月やあらぬ春やむかしの春ならぬ 我が身ひとつ
はもとの身にして五一 たがみそぎ木綿つけ鳥かから衣 龍田の山にをり はへてなく五三 いとどしく過ぎ行くかたの恋しきに うらやまし
くもかへる浪かな︵後撰・羈旅・一三五二・業平、
伊勢物語七段)
であり︵歌番号は私による︶︑B本も同じであるが︑C本から
F本は前掲のように四三﹁花にあかぬ﹂四五﹁月やあらぬ﹂四七
﹁たがみそぎ﹂である︒五三﹁いとどしく﹂は前掲のC本以下と異なる歌である︵同様の例が経信四﹁秋の夜は﹂︵AB本︶と﹁君が代は﹂にもある︒
﹃新編国歌大観﹄解題︶︒どうしてC本以下で﹁花にあかぬ﹂歌
に差替えられたのだろうか︒五三は﹃伊勢物語﹄の歌であり︑業平作とも考えられている︒差替えられたのは︑京を離れて東下りの旅に出た﹁男﹂の望郷の思いが隠岐の後鳥羽院の心境に重なるように読まれるのを避けたためだろうか︒先掲のよう
不同歌合﹄が摂取していると考えられてきた︒田仲洋己氏はさまざまな方面から﹃俊成三十六人歌合﹄を検討し︑後鳥羽院の﹃時代不同歌合﹄が先行し︑それを取り込ん
だ形で﹃俊成三十六人歌合﹄が成立したとする︒即ち︑
思考実験的な一つの仮説ではあるが、現存する『俊成
三十六人歌合』については俊成の真作ではなく、先行する
『時代不同歌合』の選歌を踏まえて後人が作成した書物で
ある可能性が高いというのが、現時点での結論である。(『中世前期の歌書と歌人』2008・12 和泉書院、初
出1999・7)
とする︒稿者としてもこの結論に賛成だが︑証拠を出すことが
できず残念である︒また田仲氏は﹃時代不同歌合﹄の番いにつ
いて分析し︑番いが不自然でないことが多いため︑﹁右方の近代歌人の選歌が先行もしくは優先﹂されたかとも指摘する︒
なお﹃時代不同歌合﹄と﹃別本八代集秀逸﹄を扱った寺島氏は田仲説に触れつつも論考を﹁当初のまま﹂とする︵寺島氏著書 490ページの﹇付記﹈︶︒
おわりに
公任は時期の異なる歌合の最初の試みである﹃前十五番歌合﹄を撰んだ人物であり︑﹃三十六人撰﹄もある︒しかし﹃時代不同歌合﹄の歌人には選ばれていない︒形式を学んだのならば入れても良いのではないだろうか︒樋口氏は後鳥羽院の公任へ
の評価が低かったと記すが︑少なくとも︑文学的な志向を異に
する立場だったのだろう︒ るのに、別本は、後鳥羽院撰の『時代不同歌合』と同じく業平の歌とみているわけで、院の『八代集秀逸』に付されていた作者名に依拠していることが推察される。
と記す︒樋口氏はこの論文︵初出は森本元子氏編﹃和歌文学新論﹄1982・5 明治書院︶において別本である愛知教育大学蔵本と神宮文庫本を翻刻する︒また﹁別本﹃八代集秀逸﹄の新出本とその意義﹂︵愛知教育大学論集 16号 1991・2︶
では樋口氏蔵本を翻刻する︒両論文から︑﹁たがみそぎ﹂歌は神宮本と樋口本は定家撰で業平作︑愛知教育大学本は勅︵後鳥羽院︶と定家撰で業平作としていることがわかる︒以上から﹃時代不同歌合﹄が業平作とする理由が明らかになった︒業平歌の全般については﹃伊勢物語﹄の歌がすべて業平作と
いえないなど︑いろいろ問題があり︑片桐洋一氏の論などがあ
る︒公任の﹃三十六人撰﹄においても︑業平歌とされる﹁たの
めつつあはで年ふるいつはりにこりぬ心を人は知らなむ﹂︵古今集・恋二・六一四・躬恒︑後撰集・恋五・九六七・業平︶は作者名が分かれるものである︒
C本以下は四三﹁花にあかぬ﹂四五﹁月やあらぬ﹂四七﹁たが
みそぎ﹂だが︑この三首は同じ順番で﹃古三十六人歌合︵俊成三十六人歌合︶﹄に入る︒この本については︑谷山茂氏︑樋口氏は俊成撰とし︑松野陽一氏は存疑とする︒樋口氏は後鳥羽院
の俊成への尊敬の念から三首を継承したかという︒﹃古三十六人歌合﹄と﹃時代不同歌合﹄は二十四人が共通し︑歌自体の配列もC本では二一人︵配列の異なる家持を入れれば二二人︶が共通するという︑密接な関係のある作品である︒従来は﹃時代
の主人だと︑恨む体を装う︒一三四は公任の代表作だが︑早朝
の嵐の吹く山︵今の嵐山とも︶は寒いので︑人びとの衣に紅葉
が散りかかるといい︑﹁紅葉の錦﹂と美しい表現をする︒初句
を﹁小倉山﹂とも︒公任の三船の話でも有名な歌である︒一三五は︑室内にいて霜の置かない私の袖さえ寒い冬の夜に︑池にいる鴨の羽の表面は凍っているだろうと想像し同情してい
る︒本歌は﹁冬の池の鴨の上毛におく霜の消えて物思ふころに
もあるかな﹂︵後撰集・冬・四六〇・よみ人しらず︶である︒公任は優れた歌人︑漢詩人として評価が高かったが︑後代に歌風が好まれなくなった︒久保木哲夫氏は︑﹁藤原公任﹂︵和歌文学講座5﹃王朝の和歌﹄1993・12 勉誠社︶の中で︑﹁技巧的でありながら︑表現に平明さがある﹂とし︑その﹁平明さ
が逆に公任の評価を落とす大きな要因﹂と記すが︑この三首を見ても︑機知はあるが驚くような技巧はない︒
そして﹃新古今集﹄の入集は六首などと評価が下がった︒錦仁氏は︑﹃八雲御抄﹄の記事から︑公任の権威が元久年間
︵一二〇四︱〇六︶以降になくなったことと︑﹁俊成は定家たち
よりも公任を尊敬したが︑定家たちは俊成ほど公任を尊敬しな
かったことを意味するのではなかろうか︒﹂と記す︒そして定家の﹃三代集間之事﹄に︑後鳥羽院が﹃拾遺抄﹄を﹁平懐﹂と評し︑
その例に公任の﹁春きてぞ﹂を挙げたという︒︵﹃中世和歌の研究﹄1991・10 楓桜社︑初出は1983・10︶
それを受けて寺島氏は︑﹁﹃時代不同歌合﹄の一性格﹂︵山形大学紀要︵人文科学︶11巻1号 1986・6︶の中で︑錦仁氏
の公任評の論にふれつつ︑﹁秀歌選作者後鳥羽院における対公 ﹃時代不同歌合﹄の続編となる藤原基家の﹃新時代不同歌合﹄
は︑公任と基家を番えている︒公任に敬意を表し︑また後鳥羽院の意思を補足したのだろう︒本文を記す︒こちらは一番に三首ずつを記す︒
二三番左 公任一三三 春きてぞ人も問ひける山里は 花こそ宿のあるじ
なりけれ︵拾遺集・雑春・一〇一五︑拾遺抄・雑上・三八八︶一三四 朝まだきあらしの山のさむければ 紅葉のにしき
きぬ人ぞなき︵拾遺集・秋・二一〇、拾遺抄・秋・
一三〇)一三五 霜おかぬ袖だにさゆる冬の夜に 鴨の上毛をおも
ひこそやれ︵拾遺集・冬・二三〇︑拾遺抄・冬・一五二︶
右基家一三六 ながめきて年にそへたる哀さも 身にしられぬる春のよの月︵続拾遺・雑春・五二三︶一三七 松かげの入海かけてしらすげの みどり吹きこす秋のしほ風︵続古今・雑上・一五六四︶一三八 草も木も時にあひける春雨に もれたる袖はなみ
だなりけり︵続古今・雑上・一四九六︶
である︒公任の一三三は冬の間は人が訪れなかったが春に花が咲くと人びとが来るので︑自分ではなく花こそがこの家︵山荘︶
任意識﹂を指摘する︒単純に公任を無視したのではないのであ
る︒後鳥羽院は自身の秀歌撰に︑より芸術的な技巧的な和歌を求
めたのだろう︒
注
︵1︶
解題に お い て
久曽神氏は︑ E・ F
本の そ れ ぞ れ
三首の
一首目と
一致す る が︑
定家・
秀能・
寂蓮・
高内侍は D
本と
一致す
る と
記す︒
秀歌撰に お い て
広本と
略本が あ る
場合︑
広本の
一首目を
略本が
集成することが
多いように
思われる︒
︵2︶
有吉保氏﹁
新古今集の
構想︱︱
物語的構想と
物語構想の
否定︱︱﹂ ︵
有吉保氏編﹃
和歌文学の
伝統﹄ 1997 ・ 8
角川書店︶ は
物語を
摂取した
歌の
配列などを
分析する︒
︵3︶
他に︑ ﹃
新撰和歌﹄
二一三・
作者未詳︑﹃
古今和歌六帖﹄
一三六二・
同上︑﹃
大和物語﹄
一五四段の﹁
男﹂ の
歌な ど と し
て
入る︒
︵4︶
加藤磐斎著青木賢豪解説﹃
百人一首増註﹄︵1985 ・ 7
八坂書房︶ は︑ ︹
増註
の
最後で︑ ﹁
月や あ ら ぬ の
歌の て に を は と
同じ
歌な る べ 86 ︺
西行﹁なげけとて﹂ の ﹃
秀歌体大略﹄ の
注の
し︒ ﹂ と
記す︒その
注において
青木氏は ﹁
両首の ﹃や﹄ をともに
反語とみての
指摘と
思われるが︑
業平歌の ﹃や﹄ については
異説が あ る︒ ﹂ と
解説す る︒
直接の
影響関係の
指摘で は な い が
連想が
起きたのだろうか︒
︵5︶ ﹃
新古今集﹄ の
切継ぎに
関する
研究には
小島吉雄・
後藤重郎・
有吉保の
諸氏の
他︑
最近で は
田渕句美子氏﹁﹃
新古今和歌集﹄
の
変容︱︱ ﹃
明月記﹄
等に
見え る
切継︱︱﹂ ︵
文学・
語学217
号2016 ・ 12︶ が
細かい
内容を
研究し
詳しい︒ ︵6︶
片桐洋一氏は
新大系﹃
後撰和歌集﹄ で
九六七番歌は
九六八番歌の
伊勢と の
贈答だ が︑
業平で は
時代が あ わ な い た め﹁ な か
ひら ︵
仲平︶ ﹂ との
贈答︵
歌の
転用も
含めて︶ かとする︒
︵7︶ ﹃
三十六人撰﹄ の
享受と し て︑
佐藤恒雄氏は﹁
香川県下の
三十六歌仙扁額﹂︵ ﹃
古代中世歌論考﹄
笠間書院2013 ・ 3︑
初出は 1 9 7 4 ・ 2︶ の
論の
中で︑
扁額の
歌の
選択は
公任の
﹃
三十六人撰﹄ や
俊成撰・
近衛尚通追加﹃
古卅六人歌合﹄ の
二著書に
限定されると
指摘する︒
︹
付記︺
院生時代以来長年
お
世話に な っ て お り ま す︒
共に
有吉保教授 辻勝美氏の ご
退職を
心か ら お
祝い
申し
上げ ま す︒
同級だ っ た
書名を
記さなかったが︑
学恩に
感謝申し
上げます︒
百人一首の
注釈書な ど は︑
引用と し て
用い た
以外は い ち い ち
典文学全集︑
鑑賞日本古典文学︑
和歌文学大系︑
新古今集や
先行研究と し て
参照し た
新旧日本古典文学大系︑
新旧日本古 行教授にお
礼申し
上げます︒
典籍室と
入館の お
世話を い た だ い た
早稲田大学文学部兼築信貴重
な ご
本の
閲覧を お
許し い た だ い た
早稲田大学図書館古︵
現・
名誉教授︶ のご
指導を
受け
現在に
至っています︒
︵おおぶし はるみ︑徳島文理大学名誉教授︶