はじめに
﹃源氏物語﹄﹁少女﹂巻でその完成が語られる六条院について
は︑光源氏の王権の超越性もしくは理想性の表象として論じら
れてきたが︑その超越性や理想性は︑春夏秋冬をそれぞれの町
に配した四季の庭と四人の女性を包括的に領有することによっ
て表現されている︒その四季の庭とは︑春夏秋冬が均等でシン
メトリカルな構造として認識されているが︑六条院を四分割に
よる﹁聖なる空間﹂として論じた野村精一氏が︑一方で﹁六条院は果たして真に左右均斉だったのだろうか
﹂とも疑問を呈し 1
たように︑そのシンメトリカルな四方四季の構造は︑あくまで
も神話的もしくは観念的記号である︒
では︑その観念を物語はどのように表現したのか︒実際に六条院は︑四神相応説や陰陽五行説における方位と四季の対応関係が一致していない︒また︑田の字型の四区分の南半分に春と秋の町を隣り合わせたことで︑右回りでも左回りでも四季の循 キーワード﹃源氏物語﹄・六条院・四方四季・﹁河原院賦﹂
要 旨
﹃源氏物語﹄に描かれた六条院は︑光源氏の王権を表象する
シンメトリーな四方四季の空間として把握されてきた︒だが︑実際に描かれた六条院には春と秋の町を重視する構造が見られ
る︒これは和歌や漢詩において伝統的に春と秋を重視してきた傾向によるものと考えられる︒一方︑四神相応説に見られるよ
うなシンメトリカルな四季表現は︑﹃白氏文集﹄の庭園表現を介して漸く河原院文化圏に広がっていったが︑特に源順の﹁河原院賦﹂の均等な四季表現は﹁少女﹂巻の六条院の﹁四季の庭﹂
との類似性が見られる点で注目される︒﹁河原院賦﹂の均等な四季の表現構造を踏まえつつ︑﹃古今和歌集﹄の部立を超えて夏や冬の景物を増補することで︑六条院の﹁四季の庭﹂の表現
が生み出されたと考えられる︒
袴 田 光 康 ﹃ 源氏物語 ﹄ の 六条院 と 四季 の 庭
︱二つの四季表現から︱
︿
論文﹀
記述は︑﹃源氏物語﹄以降のものであり︑﹃源氏物語﹄以前には龍宮を四方四季とする文献は見当たらない︒また海龍王につい
て記された﹃海龍王経﹄や﹃法華経﹄にも四方四季のことは記さ
れていない︒つまり︑文献的には龍宮=四方四季というコード
がどこまで遡り得るのかは明らかでないということになる︒仏典関係では︑浄飯王が悉達太子︵釈迦の前世︶の出家をと
どめるために造ったという三時殿を六条院の源泉と見る向きも
ある
二時寝息 一者暖殿︒以擬降冬︒第二涼殿︒擬於夏暑︒其第三殿用擬春秋 ︒ただし︑三時殿については︑﹁浄飯王為於太子造三時殿︒ 4
︒﹂と記されているように︑春と秋の二季は第三の殿 5
として一つの建物に集約されており︑四方四季とは異なる発想
と言わなければならない︒
﹃河海抄﹄以来︑六条院のプレテキストとして注目されてき
たのは︑﹃うつほ物語﹄の吹上・上巻に描かれた神南備種松の豪邸である︒
吹上の浜のわたりに︑広く面白き所を選び求めて︑金銀・瑠璃の大殿を造り磨き︑四面八町の内に︑三重の垣をし︑三つの陣を据ゑたり︒宮の内︑瑠璃を敷き︑おとど十︑廊︑楼なんどして︑紫檀・蘇枋・黒柿・唐桃などといふ木ども
を木材として︑金銀・瑠璃・車渠・瑪瑙の大殿を造り重ね
て︑四面巡りて︑東の陣の外には春の山︑南の陣の外には夏の陰︑西の陣の外には秋の林︑北には松の林︑面を巡り
て植ゑたる草・木︑ただの姿せず︑咲き出づる花の色・木
の葉︑この世の香に似ず︒栴檀・優曇︑交じらぬばかりな
り︒孔雀・鸚鵡の鳥︑遊ばぬばかりなり
︒ 6 環が不可能な構造となっている︒あるいは冬の町には寝殿も池
もない一方で︑春の町と秋の町には双方に跨る広大な南池が造園されている︒そうした多くの不均斉を内包するにも関わら
ず︑なお︑六条院が均等な四方四季として認識される要因の一
つは︑六条院の完成を語る﹁少女﹂巻における四季絵のように
シンメトリカルな﹁四季の庭﹂の表現にあるように思われる︒
そもそも︑光源氏による六条院の造営は︑紫上と秋好中宮の春秋争いを受けて︑それを物語の舞台として発展させたもので
あったが︑春秋の優劣論は和歌の世界で伝統的に繰り返されて
きたテーマであり︑﹃万葉集﹄にしても﹃古今和歌集﹄にしても︑春秋の歌が夏冬の歌に比して圧倒的に多いことは周知の通りで
ある︒本稿では︑伝統的な春秋重視の文学的傾向が六条院の構造にどのように影を落としているのか︑また︑その春秋重視の傾向の中でどのように六条院のシンメトリカルな﹁四季の庭﹂
が表現され得たのかということについて考えたい︒その中で
﹁四季の庭﹂の表現の先蹤として︑河原院の歌人たちの四季表現にも注目してみたいと思う︒
1 ﹁四季の庭﹂のプレテキスト
六条院の構造については︑民俗学的アプローチから御伽草子
の﹃浦島太郎﹄の龍宮城のような四方四季を原型とすることが指摘されてきた
︒確かに﹃栄花物語﹄﹁こまくらべの行幸﹂巻に 2
は︑﹁高陽院殿の有様︑この世のことと見えず︒海龍王の家な
どこそ︑四季は四方に見ゆれ︒この殿はそれに劣らぬ様なり
︒﹂ 3
と記されている︒しかしながら︑この﹃栄花物語﹄の高陽院の
あったことは推測されるが︑春の庭のみによって四方四季を表
し︑他の季節の庭は省略した表現は︑四方四季のシンメトリー性を弱めていることも否めない︒ここで考えたいのは︑夏や冬
の描写が省筆された背景には︑その裏返しとして春秋の重視が
あるのではないかということである︒四季の部立を編み︑四季の観念を文学的に確立した﹃古今和歌集﹄の仮名序には︑﹁それがなかに︑梅を插頭すよりはじめて︑郭公を聞き︑紅葉を折り︑雪を見るにいたるまで︑︵中略︶あ
るは︑春夏秋冬にも入らぬくさぐさの歌をなむ撰ばせ給ひけ
る
︒﹂と四季それぞれの歌を選んだことが記されているが︑春 9
と秋の部が上下に編成されていることからも明らかなように︑実際の選出は春秋に偏重したものであった︒東望歩氏は﹃古今和歌集﹄の四季部では春の歌一三四首︑夏の歌三四首︑秋の歌一四五首︑冬の歌二九首というように圧倒的に春と秋の歌が多
いことを指摘した上で︑春秋重視から四季並列への転換を論じ
ている
︒あるいは︑吉村幸子氏は︑漢文学においても﹃文選﹄ 10
の﹁詩篇﹂では︑春七四篇︑夏一四篇︑秋八一篇︑冬三六篇と春秋を偏重する傾向が顕著に見られることを指摘している
視し︑春秋によって四季を代表させる発想や表現は顕著であ 歌文学においても漢文学においても︑和漢を問わず︑春秋を重 ︒和 11
る︒こうした文学における春秋重視の傾向は︑実際の四季の表現とシンメトリカルな観念的四季観との間にズレが生じている
ことを示している︒歌数の少ない夏や冬は自ずとその季節の景物も少なく︑夏や冬に相応しい庭の植物も限られてくることを考えれば︑春や秋 種松の吹上の宮は四方四季の館として描かれており︑四方四季の観念が﹃源氏物語﹄以前に既にあったことが明らかである
が︑海竜王および龍宮との関係はここでは定かでない︒この庭
は東西南北の四方に造営されているが︑﹁三つの陣﹂とあるよ
うに﹁北﹂には﹁陣﹂がない︒庭の記述も︑東は﹁春の山﹂︑南
は﹁夏の陰﹂︑西は﹁秋の林﹂とあって四神相応や五行説の方角
と四季の関係に対応しているのに対して︑北だけは﹁松の林﹂
となり︑﹁冬﹂の語を欠いている︒四方四季とは言え︑︿北=冬﹀
は不均等であり︑シンメトリカルな構造とはなっていないこと
が注意される
︒ 7
かの君の住み給ふ所は︑吹上の浜のほとりなり︒宮より東は︑海なり︒その海面に︑岸に沿ひて︑大いなる松に︑藤懸かりて︑二十町ばかり並み立ちたり︒それに次ぎて︑樺桜︑一並︑並み立ちたり︒それに沿ひて︑紅梅︑並み立
ちたり︒それに沿ひて︑躑躅の木ども︑北に並み立ちて︑春の色を尽くして立ち並みたり︒秋の紅葉︑西面︑大いな
る河面に︑からのごと波を染め︑色を尽くし︑町を定めて植ゑ渡し︑北・南︑時を分けつつ︑同じやうにしたり
︒ 8
これも吹上の宮の庭に関する描写だが︑東側の庭について
は︑﹁松﹂・﹁藤﹂・﹁樺桜﹂・﹁紅梅﹂・﹁躑躅﹂などの庭の植栽に
も言及し︑庭の﹁春の色﹂を具体的に表現している︒だが︑詳細なのは︑この東の庭園だけで︑西面の庭園は﹁秋の紅葉﹂を挙げるのみ︑北や南に至っては﹁同じやうにしたり﹂と省筆さ
れている︒﹁同じやうにしたり﹂とあるから︑北には冬の庭が︑南には夏の庭がそれぞれ造られ︑全体として四方四季の構造で
が︑東西の方位のみに関して言えば︑春の町は東︑秋の町は西
に位置し︑四神相応の方位と一致している︒これは春秋の方位
を優先させた形であるが︑むしろ︑春の町と秋の町を一対とし
て東西に並べる構造こそ︑春秋争いを基盤とした六条院の基本的コンセプトであったと考えられる
︒ 13
それはまた︑紫上の春の町と秋好の秋の町が東西に並ぶこと
で︑南側の二つの町が広大な南池を共有する形を作り出してい
る︒つまり︑六条院全体を見た場合︑大きな池を共有する春の町の庭と秋の町の庭を併せて一つの寝殿造様式の庭園を構成す
る統一体として把握できるのである︒一般の寝殿造の庭園の場合には︑庭の東から遣水を引いて南池に注ぐようにし︑南池か
ら南西もしくは西の方向に向けて水を排出するように設計をす
るのであるが︑六条院においては︑丑寅の町から遣水を引いて辰巳の町の池に注がせ︑辰巳の町とそれに隣り合う未申の町の池を繋いで一つの大きな池とし︑その池から南西もしくは西の方角に排水をする形になっていたものと思われる
作庭の原則に叶った形を実現しているわけである 同時にまた一般の寝殿造の庭園と同様に水を東から西へと流す 秋の重視によって春の町と秋の町を東西に配置した六条院は︑ ︒つまり︑春 14
︒六条院全体 15
を一つの寝殿造の様式として見るならば︑六条院の庭園の機能
はまさに春と秋の町にあると言えるであろう︒
このように六条院には春秋重視の傾向が様々に読み取れるの
であるが︑四つの町に四季と四人の女性を配したその構造は基本的にはシンメトリーな構造である︒このシンメトリーな構造
に関して注目されるのは︑寝殿造の作庭指南書である﹃作庭記﹄ の庭と同様に夏や冬の庭を描くことは難しく︑物語に四方四季
の庭園を描くということも決して容易でなかったことが推測さ
れる︒種松の吹上の宮が四方四季でありながら四季を描かな
かったのは︑伝統的な春秋を偏重する発想と表現の枠組みの中
にあったため︑夏冬の庭を描かなかった︑あるいは描くことが
できなかったということではないだろうか︒それでは︑﹃源氏物語﹄の六条院の﹁四季の庭﹂はどうであったのだろうか︑節
を改めて考えてみたい︒
2 六条院の﹁四季の庭﹂
六条院においても春秋偏重の傾向が見られることは︑紫上と秋好の春秋争いがそれを端的に物語っている︒﹁女御の︑秋に心を寄せたまへりしもあはれに︑君の︑春の曙に心しめたまへ
るもことわりにこそあれ︒時々につけたる木草の花に寄せて
も︑御心とまるばかりの遊びなどしてしがな﹂︵薄雲②四五四
〜四五五頁
︶という紫上に語った光源氏の言葉に示されている 12
ように︑春秋の競い合いが六条院の創設へと繋がるというのが物語の構図である︒実際に造営された六条院は︑秋好の旧邸を改めて一町とし︑更にその東︑北︑北東の隣接地を領じて四町に拡張したもので
あった︒即ち︑六条院は︑﹃うつほ物語﹄の吹上の宮や﹃栄花物語﹄の高陽院のように東西南北に庭が造られるのではなく︑秋好の古宮をそのまま継承したことで田の字型の構造に四季を配
する形となり︑これによって四神相応や陰陽五行説に見られる方位と四季の対応関係とは一致しない形となったのである︒だ
の庭の記述を確認しておこう︒
︿春の町﹀
南の東は山高く︑春の花の木︑数を尽くして植ゑ︑池のさ
まおもしろくすぐれて︑御前近き前栽︑五葉︑紅梅︑桜︑藤︑山吹︑岩躑躅などやうの︑春のもてあそびをわざとは植ゑ
で︑秋の前栽をばむらむらほのかにまぜたり︒︵少女③七二頁︶
︿秋の町﹀
中宮の御町をば︑もとの山に︑紅葉の色濃かるべき植木ど
もをそへて︑泉の水遠くすまし︑遣水の音まさるべき巖た
て加へ︑滝落として︑秋の野を遥かに作りたる︑そのころ
にあひて︑盛りに咲き乱れたり︒嵯峨の大堰のわたりの野山︑むとくにけおされたる秋なり︒︵少女③七二〜七三頁︶
︿夏の町﹀
北の東は︑涼しげなる泉ありて︑夏の蔭によれり︒前近き前栽︑呉竹︑下風涼しかるべく︑木高き森のやうなる木ど
も木深くおもしろく︑山里めきて︑卯花の垣根ことさらに
しわたして︑昔おぼゆる花橘︑撫子︑薔薇︑くたになどや
うの花くさぐさを植ゑて︑春秋の木草︑その中にうちまぜ
たり︒︵少女③七三頁︶
︿冬の町﹀
西の町は︑北面築きわけて︑御倉町なり︒隔ての垣に松の木しげく︑雪をもてあそばんたよりによせたり︒冬のはじ
めの朝霜むすぶべき菊の籬︑我は顔なる柞原︑をさをさ名
も知らぬ深山木どもの︑木深きなどを移し植ゑたり︒︵少 ︵十一世紀後半成立︶の次のような記事である︒人の居所の四方に木をうゑて︑四神具足の地となすべき事
経云︑家より東に流水あるを青竜とす︒もしその流水なけ
れバ︑柳九本をうゑて青竜の代とす︒
西に大道あるを白虎とす︒若其大道なけれバ︑楸七本をう
ゑて白虎の代とす︒
南前に池あるを朱雀とす︒若其池なけれバ︑桂九本をうゑ
て朱雀の代とす︒
北後にをかあるを玄武とす︒もしその岳なけれバ︑檜三本
をうゑて玄武の代とす︒かくのごときして︑四神相応の地
となしてゐぬれバ︑官位福禄そなはりて︑無病長寿なりと
いへり
︒ 16
このように寝殿造の庭園は︑四神相応説に基づき︑四神の代替え物として柳︑楸︑桂︑檜の四種の植物を植えることを説い
ているが︑このシンメトリーな世界観において︑四種の植物の代わりに紫上︑秋好︑花散里︑明石の君ら四人の女性を配置し
たのが︑まさに六条院の構造である︒確かに六条院は前述のよ
うに四神相応の方位とはずれているのだが︑シンメトリカルな四季の配置は︑庭園の世界観に基づきながら︑六条院が四神具足の地であることを表象しているように考えられる︒そして︑
その四分割されたシンメトリーの世界にそれぞれの季節を具体的に描くことで﹁四季の庭﹂が四方四季として具現化されるの
である︒
それでは︑六条院の﹁四季の庭﹂は具体的にどのように表現
されていたのか︒六条院の完成を語る﹁少女﹂巻からそれぞれ
いる︒いわば︑﹃古今和歌集﹄の四季の部立の枠組みを越境す
ることで︑季節の景物の少ない夏や冬を増補し︑それによって
﹁四季の庭﹂の均等性が作り出されているのである︒
その反対に秋の庭の描写では︑紅葉一つのみと極端に少ない
ことも目を引く︒紅葉は楓に限らず紅葉する樹木を広く指した
ものであろうが︑他にも秋の庭の植物としては菊︑萩︑女郎花︑藤袴など多くの候補があったはずである︒それにも関わらず秋
の庭の植物を紅葉のみとしたのは意図的な表現であろう︒﹃古今和歌集﹄の四季の歌の中でも最も歌数が多く︑﹁やまと言の葉には︑秋のあはれをとりたてて思へる﹂︵薄雲②四五二頁︶と源氏も言うように︑秋は最も人々に好まれた季節である︒加え
て﹁八月にぞ︑六条院造りはてて渡りたまふ︒﹂︵少女③七二頁︶
とある通り︑物語に描かれているのは秋の季節である︒特に﹁少女﹂巻の巻末付近では︑﹁九月なれば︑紅葉むらむら色づきて︑宮の御前えもいはずおもしろし︒﹂と語られ︑﹁こころから春ま
つ苑はわがやどの紅葉を風のつてにだに見よ﹂︵少女③七六頁︶
という歌が秋好から紫上に贈られるなど︑秋の印象が強く打ち
だされているのである︒そうした点から見て︑六条院の初出の場面では︑突出しがちな秋の植物の描写をあえて抑制すること
で︑﹁四季の庭﹂のバランスが保たれているものと考えられる︒六条院の春の町に描かれた植物は︑山吹を除けば︑実は吹上
の宮の東の陣の庭の植物と全く同じである︒つまり︑春の草木
の植栽そのものに大きな違いはないのである︒それでも両者の四方四季の印象が異なるのは︑六条院の﹁四季の庭﹂が均等な四季の表現を達成しているからであろう︒その均等な四季を描 女③七三〜七四頁︶
ここで注目されるには︑この﹁四季の庭﹂の描写が︑それぞ
れの季節に具体的な植物を配置しながら︑四季をほぼ均等に表現していることである︒この均等な四季の表現こそ︑﹃うつほ物語﹄の表現とは異なるものである︒今︑六条院のそれぞれの庭に描かれた具体的な植栽を整理すると以下のようになる︒
︿春の町﹀⁝五葉︵松︶︑紅梅︑桜︑藤︑山吹︑岩躑躅
︿秋の町﹀⁝紅葉
︿夏の町﹀⁝呉竹︑卯花︑花橘︑撫子︑薔薇︑くたに︵未詳︶
︿冬の町﹀⁝松︑菊︑柞︑文章の分量としては各庭ともほぼ均等であるが︑描かれた植物の数には差が認められる︒これらの植物と﹃古今和歌集﹄の関係を見るならば︑春の町の松︵五葉︶︑梅︑桜︑藤︑山吹は
いずれも春部に詠まれており︑岩躑躅は春部ではなく恋部に見
える︒秋の町の紅葉が秋部に多く詠まれていることは言うまで
ない︒夏の町の卯の花︑花橘は夏部にあるが︑呉竹は雑歌や雑躰に︑撫子は秋部に︑薔薇とくたには物名の題にそれぞれ見え
る︒冬の町の松は冬部に見え︑菊や柞は秋部に詠まれている︒
つまり︑ここに具体的に名を挙げられた植物は︑全て﹃古今和歌集﹄の範疇にあると言える︒しかしながら︑必ずしも﹃古今和歌集﹄の四季の部立に対応しているわけではないことに注意
したい︒夏の庭の描写では︑秋の部に収められた撫子をふくめ︑呉竹︑薔薇︑くたに等も夏部以外から取り込んでいる︒同様に冬の庭
の描写においても︑本来は秋の部にあった菊や柞を盛り込んで
間氏の論では︑白居易の﹁草堂記﹂や源順の﹁奉レ同二源澄才子河原院賦一﹂も視野に入れた上で︑﹁六条院についても︑初音巻
から始まって行幸巻に至る四季描写があるのは︑﹃草堂記﹄や
﹃河原院賦﹄の簡潔な四季表現を骨格にし︑具体的な肉付けを
して表現したものと考えられるのである︒﹂と結論付けている︒金子氏や新間氏が取り上げた作品は︑﹁閑適﹂をテーマにし
た白居易の庭園文学の強い影響のもとに作られた作品群であ
り︑豪奢な六条院を描く﹃源氏物語﹄とは主題的な性質を異に
するものではあるが︑新間氏が指摘するように表現のレベルに
おいて庭園の四季が描かれている点では︑やはり検討に値する
ものである︒特に﹃古今和歌集﹄に代表される和歌文学におい
ては春秋重視の傾向が顕著であっただけに﹃白氏文集﹄の享受
による新たな表現には注目すべきであろう︒両氏の言及された五つの作品の四季の表現を挙げ︑その四季の景物を確認した
い︒なお︑便宜上︑引用文中の春・夏・秋・冬の四季に関わる文字は私にゴシック体で表記したことをお断りしておく︒
1白居易﹁草堂記﹂︵﹃白氏文集﹄巻第二十六︑唐元和十一年
︹八一六年︺︶
其四傍︑耳目杖屨可レ及者︑春有二錦繡谷花一︑夏有二石門澗雲一︑秋有二虎谿月一︑冬有二鑪峰雪一︒
︵其の四傍︑耳・目・杖・屨の及ぶ可きは︑春には錦繡谷
の花有り︑夏には石門澗の雲有り︑秋には虎谿の月有り︑冬には鑪峰の雪有り
︒︶ 19
※春︱花︑夏︱雲︑秋︱月︑冬︱雪
2白居易﹁池上篇幷序﹂︵﹃白氏文集﹄巻第六十九︑唐大和三 き出すために︑﹃古今和歌集﹄の四季の部立を逸脱して夏と冬
の景物を増やす一方で︑最も好まれる秋の景物を抑制するなど
の操作を加え︑﹁四季の庭﹂の表現に工夫が凝らされているの
である︒春と秋の町を東西に配することで春秋重視の構造を示
しながら︑同時に﹁四季の庭﹂の記述においては均等に四季を表現することで︑四方四季のシンメトリー性を獲得した六条院
の独自のあり方が窺われるであろう︒
3 漢詩文における四季の表現
ここまで均等でシンメトリカルな四季の表現構造と四季の中
でも特に春秋を重視する四季の表現構造の二つの鬩ぎ合いを六条院の﹁四季の庭﹂に見てきたが︑伝統的に春秋重視の表現が
なされてきたことから言えば︑均等な四季の表現の達成こそ︑新たな四季表現として注目すべきものである︒果たして均等な四季の表現はどのようなコンテキストから導かれてきたのであ
ろうか︒この節では︑﹁少女﹂巻の六条院の﹁四季の庭﹂のプレ
テキストとして︑漢詩文における庭園の四季の表現に目を転じ
たい︒仁明朝以降︑唐の﹃白氏文集﹄が広く愛読され︑日本の漢詩文や和歌にも大きな影響を与えたことは周知の通りだが︑白居易の﹁池上篇幷序﹂を原点として︑その影響の下に兼明親王の
﹁池亭記﹂︑慶滋保胤の﹁池亭記﹂︑鴨長明の﹃方丈記﹄などの一連の庭園の文学が展開されたことを論じたのは金子彦二郎氏で
あった
物語﹄の六条院と﹃白氏文集﹄の関係について論じている ︒その金子氏の論を踏まえつつ︑新間一美氏は︑﹃源氏 17
︒新 18
禄年間︹九七〇〜九七三年︺頃
︶ 21
春玩二梅於孟陬一︑秋折二藕於夷則一︒九夏三伏之暑月︑竹含二錯午之風一︒玄冬素雪之寒朝︑松彰二君子之徳一︒
︵春は梅を孟陬に玩び︑秋は藕を夷則に折る︒九夏三伏の暑き月には︑竹錯午の風を含む︒玄冬素雪の寒き朝には︑松君子の徳を彰はす
︒︶ 22
※春︱梅︑秋︱藕︑夏︱竹︑冬︱松
年︺︶ 5慶滋保胤﹁池亭記﹂︵﹃本朝文粋﹄巻十二︑天元五年︹九八二 況乎春有二東岸之柳一︑細煙嫋娜︒夏有二北戸之林一︑清風颯然︒秋有二西窓之月一︑可二以披一レ書︒冬有二南簷之日一︑可二以炙一レ背︒
︵いはんや春は東岸の柳有り︑細煙嫋娜たり︒夏は北戸の林有り︑清風颯然たり︒秋は西窓の月有り︑以て書を披く
べし︒冬は南簷の日有り︑以て背を炙るべし
︒︶ 23
※春︱柳︑夏︱林︑秋︱月︑冬︱日白居易の庭園詩における四季の表現が︑兼明親王の﹁池亭記﹂
に影響を与え︑更にそれが源順や慶滋保胤の庭園の表現の中に
パターン化されていったことが見て取れる︒それらの一連の表現は︑いずれも短い表現ではあるものの︑春夏秋冬の四季を均等に表現してることが確認される︒
5では︑春︱﹁東岸﹂や秋
︱﹁西窓﹂のように季節と方位に対応関係が見られることが注目されるが︑夏︱﹁北戸﹂や冬︱﹁南簷﹂は四神や五行による方位ではなく︑暑い夏は北︑寒い冬は南という発想である︒ただ
し︑ここに均等な四季表現における春秋重視という二重構造を 年︹八二九年︺︶
毎レ至二池風春︑池月秋︑水香蓮開之旦︑露清鶴唳之夕一︑払二楊石一︑挙二陳酒一︑援二崔琴一︑弾二姜秋思一︑頽然自適︑不レ知二其他一 ︵池風の春︑池月の秋︑水香しく蓮開くの旦︑露清く鶴唳くの夕に至る毎に︑楊の石を払ひ︑陳の酒を挙げ︑崔の琴を援き︑姜の秋思を弾じ︑頽然として自適し︑其の他を知らず︒︶
※春︱風︑秋︱月︑夏︱蓮︑冬︱鶴︵夏・冬の語はないが︑﹁蓮﹂
が夏︑﹁鶴﹂が冬の季節を表すことで四季の表現となって
いる︒︶
年︺︶ 3兼明親王﹁池亭記﹂︵﹃本朝文粋﹄巻十二︑天徳三年︹九五九 夏条為レ帳︑冬氷為レ鏡︒南島之五大夫作二老伴一︑東岸之一眼泉為二知音一︒況乎竹霧︑蘋風︑沙煙︑波月︑陰晴︑顕晦︑有不レ可二形容一者︒蓋洞庭湖之一雲孫矣︒毎レ至二池水緑︑岸葉紅︑華前春暮︑月下秋帰一︑一吟一詠︑聊以卒レ歳︒
︵夏の条を帳と為し︑冬の氷を鏡と為す︒南島の五大夫を老の伴と作し︑東岸の一眼泉を知音と為す︒いはんや竹霧︑蘋風︑沙煙︑波月︑陰晴︑顕晦︑形容すべからざるもの有
り︒蓋し洞庭湖の一雲孫なり︒池水緑に︑岸葉紅に︑華の前に春暮れ︑月の下に秋帰るに至る毎に︑一たびは吟じ一
たびは詠じて︑聊か以て歳を卒へん
︒︶ 20
※夏︱条︑冬︱氷︑春︱華︑秋︱月
4レ二一源順﹁奉同源澄才子河原院賦﹂︵﹃本朝文粋﹄巻一︑天
秋を優先したとも考えられるが︑厳密に身分を基準とするなら
ば︑やはり中宮である秋好が第一に来るべきであり︑必ずしも身分が叙述の順番を決定しているとは言い切れない︒春↓秋↓夏↓冬という六条院の﹁四季の庭﹂の記述順には︑春と秋を優先する春秋重視の傾向が示唆されると同時に︑それはまた︑前掲の
2や 無論︑ 能性も浮かんでくるだろう︒ 4のような漢詩における庭園の四季表現を踏まえた可 2や 4の漢詩の四季表現は︑一つの庭園における四季
の移り変わりを表現したものであって︑四季をそれぞれの四町
に配した六条院の﹁四季の庭﹂とは異なることは否めない︒し
かし︑六条院とて実際には時間の流れの中で春には春の花を︑夏には夏の花をそれぞれ咲かせるのであって︑前掲の﹁少女﹂巻の﹁四季の庭﹂の記述は︑いわば時間の流れを度外視して四季絵のように並列に描かれた四方四季の見取り図である︒四季
の移り変わりが凝縮された表現という点では︑前掲の漢詩文の四季表現も﹁少女﹂巻の四季表現も同様と言える︒特に
四季にそれぞれ植物を配して均等に四季を表現をしている点︑ レ二一順﹁奉同源澄才子河原院賦﹂︵以下﹁河原院賦﹂と略記︶は︑ 4の源
また︑春↓秋↓夏↓冬という叙述の順番で表現している点な
ど︑六条院の﹁四季の庭﹂の表現と共通していることは注目さ
れる︒
5 河原院の歌人たちの四季表現
前掲の源順の﹁河原院賦﹂は︑源融の河原院の往時を偲んで詠じられたものであったが︑まさにその河原院の往時に準拠し 読み取るとすれば︑﹃源氏物語﹄の﹁四季の庭﹂とも通じるもの
と言える︒
これらの漢詩文における四季の表現は︑六条院の記述に比す
れば︑いずれも極めて簡潔である︒四季の表現の中で具体的に庭の植物の名が挙げられているのは︑
2の﹁蓮﹂︵夏︶︑
4の﹁梅﹂
︵春︶・﹁藕﹂︵秋︶・﹁竹﹂︵夏︶・﹁松﹂︵冬︶︑
5の﹁柳﹂︵春︶といっ
た程度であるが︑このうち︑
応させており︑﹁少女﹂巻の六条院の﹁四季の庭﹂の記述に近い 4だけは四季それぞれに植物を対
ものがある︒
4で具体的に名が挙げられた﹁梅﹂︵春︶・﹁竹﹂
︵夏︶・﹁松﹂︵冬︶の三つについても︑六条院の﹁紅梅﹂︵春︶・﹁呉竹﹂︵夏︶・﹁松﹂︵冬︶と重なっている︒特に﹁呉竹﹂を夏の植物
とすることは︑﹃古今﹄・﹃後撰﹄・﹃拾遺﹄などの勅撰集には見
えず︑平安中期頃までは一般的ではなかっただけに両者の共通点は注目される︒
もう一つ︑注意したいのは描かれた季節の順番である︒
1と 5は︑春↓夏↓秋↓冬という四季の順番になっている︒
節を示すとすれば︑春↓秋↓夏↓冬の順となる︒ 夏と冬の語そのものは記されていないが︑蓮が夏︑鶴が冬の季 2には 比較すると聊か変則的であるが︑順番としては夏↓冬↓春↓秋 春と秋をそれぞれ対句的にセットとしており︑他の四季表現と 3は夏と冬︑
の順になる︒
条院の﹁四季の庭﹂の記述は︑春↓秋↓夏↓冬の順番に描かれ 4は春↓秋↓夏↓冬の順である︒﹁少女﹂巻の六
ており︑これは
2と 宮であるという身分立場の上から︑四季の順番ではなく︑春と 六条院の場合︑紫上は源氏の正妻格︑また秋好は冷泉帝の中 4の順番と一致している︒
語ったものと解される︒ここでは︑四季ごとに植物名を具体的
に挙げているわけではないが︑短いながらも均等に四季が表現
されており︑しかもその記述の順番も︑春↓秋↓夏↓冬という順の﹁河原院賦﹂と同じ順番になっている︒
この﹁好忠百首﹂への返歌として詠まれた恵慶法師の﹁恵慶百首﹂の序においても︑これと類似した四季表現が見られる︒
我すべらぎや︑天徳のすゑのころほひ︑あざな好忠曽丹と
いふ人︑ももちの哥をさへにいだし︑いはし水のいはまし
きことども︑そのありさまは︑春の花のをりにつけ︑秋の
もみぢの色々にふれ︑うぐひすききすぐしがたきあした︑
なくしかあはれなるゆふぐれ︑ほととぎすこゑするなつの
よ︑まさきのかづら色づきたる冬のはじめ︑かぜのおとふ
きあげのはま︑月のひかりあかしのうらなる夜︑物のあは
れにおぼゆれ□︑いひあつめたることども︑春の花秋のも
みぢよりも︑よの中にちりはてにけり
︑ 28
これは恵慶が﹁好忠百首﹂を評した部分なので︑﹁好忠百首﹂
と対応するのも当然ではあるが︑ここでも春↓秋↓夏↓冬の順番に四季が表現されていることが確認される︒﹁春 4の花 4のをり につけ︑秋 4のもみぢ 444の色々にふれ︑うぐひすききすぐしがたき あした 444︑なくしかあはれなるゆふぐれ 4444﹂︵傍点筆者︶と︑春と秋
の記述が聊か長く︑やや四季のバランスに欠ける印象だが︑こ
れは︑﹃古今和歌集﹄仮名序の﹁春 4の朝 4に花 4の散るを見︑秋 4の夕 4
暮れ 44に木の葉 444の落つるを聞き﹂︵五五頁︑傍点筆者︶を踏まえつ
つ︑新たに﹁うぐひす﹂や﹁しか﹂という景物を盛り込んだため
と思われる︒この仮名序の言葉は︑前掲の﹁好忠百首﹂の﹁春 4 て描かれているのが﹃源氏物語﹄の六条院であった︒河原院が
﹃河海抄﹄以来︑六条院の準拠の一つとされてきたことは︑こ
こで改めて言うまでもない︒その意味では︑﹁河原院賦﹂の四季表現が︑六条院の﹁四季の庭﹂の表現と類似性を持つことは興味深い︒
この順の詩は︑﹁源澄才﹂こと︑源為憲の﹁河原院賦﹂に応え
て作られたものだが︑源融の豪邸として知られた河原院は︑十世紀後半には河原院の往時を偲ぶ沈淪歌人らが集い︑和歌や漢詩を詠み合う文学的交流の場となっていた︒いわゆる河原院文化圏である
氏文集﹄の積極的な享受が指摘されており ︒河原院に集った歌人たちの大きな特徴として﹃白 24
︑順の﹁河原院賦﹂ 25
も漢詩文におけるその一例を示すものと言える︒和歌の面で
は︑源順をはじめ︑曽禰好忠や恵慶法師ら河原院文化圏を代表
する歌人たちには百首歌という特徴が見られるが︑好忠の百首歌は﹃白氏文集﹄の﹁詩一百首﹂から発想を得たとも指摘されて
いる
︒その﹁好忠百首﹂の序には︑源順の﹁河原院賦﹂とも類似 26
する四季並列の表現が見られる︒
あらたまの年の三十に余るまで︑春は散り匂ふ花を惜しみ
かね︑秋は落つる木の葉に心をたぐへ︑夏は上紐ささで風
にむかひ︑冬はさびしき宿に群れゐて︑荒れたる宿のひま
をわけ︑過ぎゆく月の影をそへて︑明けては暮るる月日を
のみも過ぐすかな
︒ 27
ここに記された﹁荒れたる宿﹂は沈淪する好忠自身の家を卑下して表したものであろうから︑この一文は好忠が三十余年を過ごしてきた自宅とその庭の四季を通して彼の人生の悲哀を
えていると考えられる
︒いずれにせよ︑白居易の庭園詩の大き 30
な影響の下に四季の均等な表現は河原院の歌人らによって新た
な四季表現として展開されていったものと考えられるのであ
る︒﹃白氏文集﹄を享受した河原院の歌人たちによる和歌や漢詩
における新たな四季表現に支えられることによって︑﹃源氏物語﹄は︑初めて物語にシンメトリーな﹁四季の庭﹂を描くこと
ができたと考えられる︒特に順の﹁河原院賦﹂に詠まれている河原院は︑六条の地にあること︑四町を占めていたこと︑一世源氏によって造営されたこと︑贅を尽くした風流な名園として知られたことなど︑六条院のイメージ重なるところが多い︒そ
の﹁河原院賦﹂の四季表現と六条院の﹁四季の庭﹂の表現構造が極めて類似するのも偶然ではないだろう︒物語の作者は︑河原院を歴史的な準拠とするだけでなく︑その表現においても﹁河原院賦﹂の均等な四季表現に学び︑﹁四季の庭﹂にそれぞれの植物を配しつつ︑春秋夏冬の順番に倣って四季を描いたものと考
えられる︒確かに順の﹁河原院賦﹂の四季の表現は簡潔である
が︑その均等な四季の表現構造の枠組みに﹃古今和歌集﹄の景物を配し︑更には四季の部立を越境して夏や冬の庭に植物を盛
り込むことによって︑六条院の均衡な﹁四季の庭﹂は表現され
たのである︒
6 まとめ
﹃うつほ物語﹄の吹上の宮が四方四季として描かれているこ
とからすれば︑四方四季のイメージは﹃源氏物語﹄以前に既に は散り 44匂ふ花 4を惜しみかね︑秋 4は落つる木の葉 444444に心をたぐへ﹂
︵傍点筆者︶にも踏まえられており︑ともに﹃古今和歌集﹄の仮名序を下敷きにしていると見られる︒ここで重要なのは︑仮名序では春と秋を表現しながら夏と冬には触れていないのに対し
て︑﹁好忠百首﹂及び﹁恵慶百首﹂では︑仮名序の春秋の表現を踏まえつつ︑更に夏冬にも言及していることである︒これは︑
﹃古今和歌集﹄に代表される春秋重視の四季表現に対して︑春夏秋冬の均等な四季表現を打ち出そうとする好忠の新たな試み
として捉えることができるだろう︒
﹁好忠百首﹂の成立の時期は︑﹁恵慶百首﹂に﹁天徳のすゑの
ころほひ︑あざな好忠曽丹といふ人︑ももちの哥をさへにいだ
し﹂とあることから︑天徳四年︵九六〇年︶頃のことと見られ︑源順の﹁河原院賦﹂の成立を天禄年間︵九七〇〜九七三年︶とす
れば︑﹁河原院賦﹂に先行するものと推測される︒一方で︑﹁好忠百首﹂と同時期にその返歌として詠まれた源順の﹁順百首﹂
には︑四季の表現が見られない︒そこでは︑﹁花咲く春も暮れ
やすく︑紅葉する秋もとどまらず﹂という春秋の表現のみが見
られ︑また﹁好忠百首﹂についても﹁春も秋も心憂しとあれば
﹂ 29
と評すだけである︒
﹁順百首﹂には四季の表現が見られないとは言え︑順が﹁好忠百首﹂を通して︑﹁河原院賦﹂の詠作以前に︑四季の均等な表現
に接していたことは確かである︒この点では︑順の﹁河原院賦﹂
は︑白居易の﹁池上篇幷序﹂を源流とした庭園詩における四季表現の流れを汲むだけでなく︑同じく白居易の四季表現の影響
を受けた﹁好忠百首﹂の和歌における新たな四季表現をも踏ま
︵ 経刊行会︑一九二四年︶七〇七頁 5︶﹃大正新修大蔵経﹄第三巻本縁部上﹁仏本行集経﹂︵大正一切
︵
年︶二四三頁︒ 6︶室城秀之﹃うつほ物語全改訂版﹄︵おうふう︑二〇〇一
︵
7︶この点︑六条院の冬の町のみが寝殿や池を持たないことと
も通じている︒
︵
8︶注
7同書二四五頁
︵
六〇頁︒以下︑﹃古今和歌集﹄の引用は同書により︑その頁数 9︶日本古典文学全集﹃古今和歌集﹄︵小学館︑一九七五年︶
のみを記す︒
︵
稿の問題意識とも重なる部分があるが︑﹃枕草子﹄初段の場合 二〇二〇年十月︶︒なお﹃枕草子﹄の四季観を論じた同論は本 10︶東望歩﹁﹃枕草子﹄初段考﹂︵﹃文学・語学﹄第二三〇号︑
は庭園という意識が希薄であり︑庭園の四季表現とは性格を異にすると考えられる︒
︵
文﹄第三号︑一九八一年三月︶ 11︶吉村幸子﹁額田王・春秋優劣歌について﹂︵﹃山口女子大学国
︵
氏物語﹄の引用は同様である︒ 語﹄により︑同書の巻名・巻数・頁数のみを記す︒以下︑﹃源 12︶﹃源氏物語﹄本文の引用は小学館日本古典文学全集﹃源氏物
︵
併せてご参照いただきたい︒ 月︶に論じたことがある︒本論とも重なる部分があるので︑ 浄土︱﹂︵﹃国語と国文学﹄第九一巻第十一号︑二〇一四年十一 13︶この点については︑拙稿﹁六条院の春︱﹁胡蝶﹂巻の蓬莱と
︵
年︶︑玉上琢彌﹁光る源氏の六条院について﹂︵﹃中古文学﹄第 物語︱その住まいの世界︱﹄︵中央公論美術出版︑一九八九 14︶六条院の復元について論じたものは多いが︑池浩三﹃源氏 あったものと見られる︒しかし︑﹃うつほ物語﹄の吹上の宮で
はその四季が描かれることはなかった︒四方四季の手本となる
プレテキストがない中で︑春秋重視の伝統と鬩ぎ合いながら︑
﹁四季の庭﹂を描くということは︑案外に難しいことであった
ように思われる︒﹁少女﹂巻の六条院の創設は華々しく描かれ
ているが︑そこは﹃古今和歌集﹄に代表される春秋重視の四季表現と四神相応に基づく四季均等の四季表現という二つの四季表現が交差する時空でもあった︒春秋重視の表現構造の中で︑
なおシンメトリーな﹁四季の庭﹂が描き得たのは︑源順の﹁河原院賦﹂のような均等な四季表現の先蹤があったからであり︑河原院は歴史的準拠であるだけでなく︑表現の準拠ともなって
いると見られる︒﹃古今和歌集﹄の四季の部立を超えて夏や冬
の景物を増補しながら四季を均等に描くことによって︑六条院
の﹁四季の庭﹂は表現されたのであり︑ここに初めて四方四季
が具体的な形をもって現わされたのだと言えるだろう︒
注︵
阿部秋生編﹃源氏物語の研究﹄︵東京大学出版会︑一九七四年︶ 1︶野村精一﹁光源氏とその〝自然〟︱六条院構想をめぐって︱﹂
︵
一九六〇年︶︑同﹃物語史の研究﹄︵有精堂︑一九六七年︶ 2︶三谷栄一﹃日本文学の民俗学的研究﹄︵有精堂出版︑
︵
一五七頁による︒ 3︶日本古典文学大系﹃栄花物語︵下︶﹄︵岩波書店︑一九七五年︶
︵
一九四三年︶︑荒木浩﹁四方四季と三時殿︱日本古典文学の庭 4︶外山英策﹃源氏物語の自然描写と庭園﹄︵丁子屋書店︑
と景観をめぐって︱﹂白幡洋三郎編﹃作庭記と日本庭園﹄︵思文閣︑二〇一四年︶
︵吉川弘文館︑二〇〇二年︶第三章﹁河原院哀史﹂などを参照︒
︵
25︶近藤みゆき﹁摂関期和歌と白居易﹂﹃白居易研究講座﹄第三巻
︵勉誠社︑一九九三年︶︑同﹃古代後期和歌文学の研究﹄︵風間書房︑二〇〇五年︶第一章﹁河原院文化圏と初期定数歌歌人群﹂
︵
研究﹄︵和泉書院︑二〇〇三年︶ 26︶丹羽博之﹁﹃好忠百首﹄と﹃漢詩百首﹄﹂﹃古代中世和歌文学の
︵
字はゴシック体で表記してある︒ 二〇一八年︶九頁︒但し︑春・夏・秋・冬の四季に関わる文 27︶歌合・定数歌全釈叢書二十﹃好忠百首全釈﹄︵風間書房︑
︵
二〇〇八年︶七頁︒但し︑本文の一部を前田本により私に改 28︶歌合・定数歌全釈叢書十一﹃恵慶百首全釈﹄︵風間書房︑
めた︒なお︑便宜上︑春・夏・秋・冬の四季に関わる文字は
ゴシック体で表記してある︒
︵
二〇一三年︶九頁︒ 29︶歌合・定数歌全釈叢書十八﹃順百首全釈﹄︵風間書房︑
︵
30︶源順の四季の表現に関しては︑﹁四季の庭﹂の初例である﹃う
つほ物語﹄の作者にも擬せられていることは注目されるが︑
﹃うつほ物語﹄の作者については不明な点が多く︑ここでは言及することを控えたい︒ちなみに︑﹃うつほ物語﹄の吹上の宮
の﹁四季の庭﹂の描写の順番は︑春夏秋冬という四季の順番で
あり︑順の﹁河原院賦﹂や﹃源氏物語﹄の六条院の四季描写の順番とは異なっている︒
︹付記︺ 本稿は日本学術振興会・科研費二〇二〇〜二〇二二年度基盤研究︵C︶﹁古代における庭園文学と﹁名所﹂形成に関する比較文化史的研究﹂︵課題番号20K00287︶の研究成果の一部で
ある︒
︵はかまだ みつやす︑本学教授︶ 五〇号︑一九九二年十一月︶︑倉田実﹃庭園思想と平安文学 寝殿造から﹄︵花鳥社︑二〇一八年︶第一章などが代表的なも
のである︒
︵
孝﹃源氏物語の風景﹄︵武蔵野書院︑二〇一三年︶に詳しい︒ 15︶六条院が﹃作庭記﹄などの記述と一致していることは︑横井
︵
所収﹁作庭記﹂︵林屋辰三郎校注︶二四三頁︒ 16︶日本思想大系﹃古代中世藝術論﹄︵岩波書店︑一九七三年︶
︵
17︶金子彦二郎﹃平安時代文學と白氏文集道真の文學研究篇 第一冊﹄︵藝林舎︑一九四八年︑覆刻一九七七年︶第六章﹁方丈記と中国文学との関係︱主として白楽天詩文との関係に就
いて︱﹂
︵
年︶﹁Ⅴ白居易文学と源氏物語の庭園について﹂ 18︶新間一美﹃源氏物語と白居易の文学﹄︵和泉書院︑二〇〇三
︵
19 ︶﹃白氏文集﹄の本文の引用は﹃宮内庁所蔵那波本白氏文集﹄
︵勉誠出版︑二〇一二年︶による︒訓読は私に付したものである︒
︵
年︶三三五頁︵本文︶と八五頁︵訓読文︶による︒ 20︶新日本古典文学大系﹃本朝文粋︵抄︶﹄︵岩波書店︑一九九二
︵
21︶正確な成立年代は不明ながら︑詩の中に﹁為天禄之禅扉﹂と
﹁天禄﹂の年号が記されていることから天禄年間の成立とした︒
︵
年︶一二七頁︵本文︶による︒訓読文は私に付したものである︒ 22︶新日本古典文学大系﹃本朝文粋︵抄︶﹄︵岩波書店︑一九九二
︵
年︶三三六頁︵本文︶と九十頁︵訓読文︶による︒ 23︶新日本古典文学大系﹃本朝文粋︵抄︶﹄︵岩波書店︑一九九二
︵
朝篇﹄︵桜楓社︑一九六七年︶︑増田繁夫﹃源氏物語と貴族社会﹄ 一九六七年一〇月︶︑山口博﹃王朝歌壇の研究村上冷泉円融 安法法師を軸として︱﹂︵﹃国語と国文学﹄四四巻一〇号︑ 24︶河原院の歌人たちについては︑犬養廉﹁河原院の歌人達︱