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─日本大学英文学会─

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発行:日本大学英文学会

156-8550 東京都世田谷区桜上水3-25-40 日本大学文理学部英文学研究室内 Tel(03)5317-9709(直通)

Fax(03)5317-9336

目  次

《ご挨拶》

  夭折を惜しむ― 人の縁と、寺﨑隆行先生と。 ・・・・・・・・・・・・・・・・会長・英文学科主任 吉良 文孝 2

《エッセイ》

  就活生の皆さんへ/日本代表になるために ・・・・・・・・・・・・・・・・・ 株式会社JTB首都圏 九原英理佳 3   留学を通して ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・日本大学文理学部2009年度卒業 大谷  碧 5   人生を変えるフィリピン留学 ・・・・・・・・・・・・・ 株式会社イージーグループ CEBU21 川合 弘恵 6   高校の教員になるにあたって ・・・・・・・・・・・・・日本大学鶴ヶ丘高等学校講師(専任扱) 加藤 寛典 7   学位論文にまつわる話 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 日本大学文理学部講師 田中 竹史 8   受賞を機に 振り返り 思うこと ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 日本大学理工学部准教授 佐藤  勝 9   雑感 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 日本大学文理学部教授 松山 幹秀 10

《特 集》

  『月と六ペンス』の絵画描写とゴーギャン ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・元日本大学講師 佐々木哲朗 16

《追悼文》

  追想 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 日本大学経済学部教授 曽根  進 17   寺﨑先生の死を悼む ・・・・・ 日本大学大学院総合社会情報研究科博士後期課程満期退学 松山  献 17   寺﨑隆行先生を偲んで ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 福岡大学 深堀真理子 18   寺﨑先輩が与えてくれたもの ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 日本大学国際関係学部教授 安藤 栄子 19

《学会賞受賞》 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 日本大学理工学部准教授 佐藤  勝 20

《月例会報告・予定、研究発表者募集》 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 20

《新刊書案内》

  新刊書案内など ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 21

《事務局・研究室だより》

  2009・2010年度運営委員ほか ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 25   2009年度行事報告・2010年度行事予定など ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 25   2008年度決算報告 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 27

(2)

夭折を惜しむ―

 人の縁と、寺﨑隆行先生と。

日本大学英文学会会長・英文学科主任 吉良 文孝

「大事な講義を休むわけにはいかないから。」

その日は、そんなことばを残してご自宅を後にした そうです。かねてから体調が思わしくなかったもの の、土曜日の講義に無理を押して出講されたのでし た。しかし、講義なかばに身体の異変を覚え、講義を 早めに切り上げたうえで大学医務室へ。しばし身体を 休め、自力で日大病院へと足を運んだものの、帰宅も 許されないままに即座の緊急手術。渾身の力をふり絞 り、意識不明の1カ月余が過ぎるも奇跡は起こらず、

前会長寺﨑隆行先生は、昨年12月8日午前1時32分、

ついに帰らぬ人となってしまいました。享年63歳。

余りにも早く天に召された寺﨑先生。今の長寿の時代 にあっては、まさに夭折でした。

長年にわたり、恐らくは日本大学英文学会創設以 来、学会会長は英文学科主任(「学科代表」と呼ぶ時代 もありました)が兼ねることになっていました。その 後、一人二役の激務から解放するため、学会会長と英 文学科主任は分離してその任にあたることとなりまし た。しかし、会長職と学科主任が兼務しないとはい え、学会会長は英文学科内の教授陣から推挙されてき ました。そしてその後も制度改革が続き、少しでも開 かれた英文学会にしようという声が高まる中、私の知 る限り、英文学科以外から、しかも、推挙というかた ちではなく、選挙によって選出された初めての会長が 寺﨑先生でした(「英文学会通信」第87号に掲載され た寺﨑会長の就任初年度の挨拶文は、「さらに開かれ た学会に向けて」と題するものでした)。英文学科以 外の学会員が会長を務めることは、長い学会の歴史の 中にはなかったことですし、発想すらなかったことで す。寺﨑先生には3年間にわたり学会運営にご尽力い ただきました。その間、寺﨑先生より指名を受けた私 は、副会長として、微力ながら寺﨑会長のお手伝いを させていただきました。私の知る寺﨑隆行先生は、オ シャレで、ダンディで、とても温和な先生でした。込 み入った議論を要する会議などでも先生の怒った顔な どは一度も見たことがありません。それは寺﨑先生を 知る人なら誰もが異口同音に口にする寺﨑評でしょ う。寺﨑先生は、いつもニコニコ顔でしたが、しか し、力強く学会を導いてくださいました。

さて、葬儀・告別式には葬儀委員長というものがつ きものです。しかし、葬儀委員長などという大役を務 めることは、長い人生のうちで一度あるかないかの経 験だと思います。寺﨑先生のご葬儀に際しては、分不

相応ながら私が葬儀委員長を務めさせていただきまし た。もちろん、数々の要職に就いていらした、しかも 現役教授の逝去ということですから、寺﨑先生ご所属 の経済学部長をはじめとして、葬儀委員長を務める適 任者、ゆかりの方々は他にもいくらでもいらっしゃっ たはず。しかし、めぐりめぐってその大役が私に回っ てきたのです。はじめは大変な仕事が回ってきたもの だと、不安な気持ちとその重責に戸惑いを感じていた のですが、それもつかの間、家族のことばにすっかり と吹っ切れました。

「でもあなた、あなたよりも他にたくさん年上の人 がいらっしゃるのに、あなたを副会長に指名してくだ さったのが寺﨑先生だったわよね。葬儀委員長という のはそうそうやれるものではないと思うわよ。他にた くさん適任者がいるなかで、どういうわけかあなたが 葬儀委員長として寺﨑先生の最後をお見送りできるの よ。そんな偶然はそうそうあるものじゃないと思う わ。これも何かの縁よ。あなたが務めることできっと 寺﨑先生も天国で喜んでいらっしゃると思うわ。」

何としてもこの大役を務めあげなければいけないと 自らを鼓舞する自分がそこにいました。寺﨑先生との

「縁」を感じた一瞬です。(洋服屋さんの話では、男性 は一生のうちに礼服を2度新調するのだそうです。1 度目は、社会人になりたての頃と大きく体型が変わる 45歳前後だそうです。寺﨑先生ご逝去のつい2週間 ほど前に礼服を新調したのもまったくの偶然のこと で、何かの知らせだったのかもしれません。)

お通夜、そして葬儀・告別式には多数の人に足をお 運びいただきました。二日間にわたり参列者の多いこ と多いこと。予想どおりのことでもありましたが、そ れは寺﨑先生のお人柄を偲ばせるものでした。読経の 終了時間までに焼香が終わらないと踏んだのか、途中 で香炉が倍の数に増やされるほどの参列者の数でし た。弔電も、日本大学関係者のみならず、各方面の関 係者、全国各地から寄せられたもので、とてもとても 式終了までに披露できる数ではありません。読み上げ る弔電を選ぶのにひと苦労しました。    

葬儀・告別式では、経済学部で年来の同僚であった 曽根進先生が弔辞をお読みになりました。いろいろな 思い出が過ぎったのでしょう。遺影を前に、冒頭から 声になりません。涙、そしてまた涙の弔辞でした。曽 根先生の姿に、そして遺影に見る寺﨑先生の姿に参列 者の多くの目には涙が光ります。また遺影に写る寺﨑 先生のお顔のなんと柔和なことでしょう。それもその はず、お孫さんを抱き上げている時の写真を遺影とし て利用したとのことです。

いよいよ最後のお別れ、出棺です。「出棺の際には どんな曲でお見送りしましょうか。」と、家族の方々 が相談されているのが耳に入ってきました。2曲が候 補として挙がっていました。いずれも加山雄三の曲で した。はじめは別の曲が選曲されていたのですが、直

《ご挨拶》

(3)

前になって、「やはり、「海、その愛」にしてくださ い。」と変更となりました。「海、その愛」。この曲は、

私も好んで歌う、最も好きな曲の一つです。寺﨑先生 とは、年次大会後の懇親会でお酒を酌み交わすことは あっても、お互いの持ち歌を披露し合うような機会は それまでにありませんでした。しかし、「海、その愛」

が寺﨑先生の愛する曲であったとは思いもよりません でした。その「海、その愛」が好きな先生と、そんな こととは知らないままに、(日本大学英文)学会で3 年間ご一緒させていただいたのでした。しめやかに曲 が流れるなか、寺﨑先生とのご縁を感じつつ、先生を お見送りしたのでした。

葬儀・告別式の翌日である12月12日に日本大学英 文学会の年次大会が開催されました。会の冒頭、集 まった会員諸氏には寺﨑先生のご逝去についてご報告 するとともに、先生のご冥福をお祈りすべく1分間の 黙祷を捧げました。例年の如く、研究発表、総会、そ して懇親会へと会は進みました。懇親会は、日本大学 付属第二中学・高等学校の黒澤隆司先生の司会による ものでした。そういえば、黒澤先生を司会者に指名さ れたのも寺﨑先生でした。「あの人は、とても面白い し、司会のセンスがありますから。」と、黒澤先生が 落語研究会の出身であることをちゃんと見抜いての指 名でした。寺﨑先生も湿っぽい会になることは決して 望まれないであろうと会員の誰もが思い、終始和やか な、時折、(黒澤先生の形態模写で)爆笑の渦に包ま れながらの懇親会でした。もちろん、笑いの中には、

われわれのふとした一瞬の心の中に、亡き寺﨑隆行会 長への想いがあったことは言うまでもありません。

寺﨑先生のご遺族のご厚意により、寺﨑先生の愛蔵 書を英文学研究室にご寄贈いただくこととなりまし た。ご遺族の皆様には、そして、寄贈に際しいろいろ な労をおとりいただいている曽根進先生には、この場 をお借りしまして心より御礼申し上げます。ご寄贈本 は「寺﨑文庫」として永く、永く大切に使わせていた だきます。

また、来年3月末に発行となる次号『英文学論叢』

(第59巻)は、「寺﨑隆行先生追悼号」とすることがす でに決まっております。

寂しいことですが、ここで、あらためて寺﨑先生に お別れのことばを申し上げなければなりません。

寺﨑隆行先生、本当にお世話になりました。天国か らわたしたちをいつまでも見守っていてくださいね。

そして、わたしたちは、いつまでも、いつまでも、 

先生の笑顔を忘れません。

(平成22年5月23日)

就活生の皆さんへ

株式会社JTB首都圏 九原 英理佳 私はJTB首都圏に営業職として働くことにしまし た。

就職活動を始めた時はまだハッキリ業界が決まりま せんでした。しかし、『営業職に就いて会社とお客の パイプになりたい』と漠然と考えていました。そこ で、私は他大学の部活の友人や先輩に頼み、内定者訪 問やOB訪問をさせて頂きました。最初は何をしたら いいかも分からず、郵船や博報堂など様々な業種の方 にお会いしました。そこでますます業界が絞れなくな り、興味ある多くの会社にエントリーをしました。

そこで私がしたことは①名刺を作る②興味ある会社 にOB訪問をする③そこで会った方に自分を知っても

らい、ESをチェックしてもらいました。まず、①は

企業説明会で若手の社員にOB訪問を頼むきっかけ作 りをする為です。何故若い方の方が良いかというと、

就活の大変さを覚えているからです。また、私は②で とても苦しみました。人事が取り合ってくれない場合 があるからです。こうなったらダメ元で会社に電話を し、断られたら会社の終わりそうな時間に社員の方を 待ち伏せしました(笑)この方が面接でアピールした 時に、企業は「こんなに行動してまでウチに入りたい のか」と思ってくれて感動してくれました。③は当た り前の事で、貴重な時間を割いてくれたのにESを 持ってこないとお互いの時間の無駄になるからです。

(自己分析に時間をかけると後々他のESを書く時の 手助けにもなります)

また誰にも負けないESが出来たら、次は面接の為 のES負けをしない自分作りです。私が気をつけた事 は『ハッキリ、ゆっくり相手に聞こえやすく』です。

よく学生は「自分を出し切った」とか言っていますが、

10分で自分を出し切る事は不可能です。相手目線で 考えると、きっと好印象を持ってくれるはずです。頑 張って下さい!

〜アドバイス〜

まず何からしていいか分からないという人はルーズ リーフを3枚用意して①性格(短所長所)②今まで やってきたこと③将来何をしたいか漠然と箇条書きで 書いて下さい。これを見直して一番自分らしいものや 気持ちが強いものにラインをつけて下さい。

出来上がってからこれらのルーズリーフを見直した ら、履歴書や面接にきっと役立つはずです。

*     *     *

《エッセイ》

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日本代表になるために

2007年 全日本学生選手権大会;女子総合3位入賞。

全日本新人戦大会;新人女王に選ばれる。

2008年 世界学生選手権大会; 日本代表チームに選ば れる、

チャンピョンシリーズ第一戦; ス ラ ロ ー ム1位、 ト リック2位。

チャンピョンシリーズ第二戦; ス ラ ロ ー ム1位、 ト リック2位。

2009年 全日本学生選手権大会; 個人戦スラローム1 位、 ト リ ッ ク1位、

団 体 戦 女 子 総 合 優 勝。

以上が私の水上スキーの大会での戦績です。『水上 スキー』と聞いて娯楽だと考える人も多いでしょう。

しかしこのスポーツは私に、人との繋がりの大切さ、

勝つ喜び、負ける悔しさ、親への感謝、困難を乗り越 え成長させてくれたり、様々なことを教えてくれまし た。上の戦績だけを見れば、成功だけしたようにみえ ますが、この結果を取るために何度も怪我や失敗をし ました。私は大学に入学してきた時は、やりたいこと もはっきりと定まらず悩んでいました。飲み会だけの

「ただ今が楽しいだけ」で四年間を終わらせたらもっ たいない!と思ったので『今』しかできない水上ス キーを選びました。いざ、練習に参加をすると、とて も楽しかったので入部を決意しました。そして「日本 で1番になる!」という3年後のビジョンを立て、そ れに向かっての日々の目標も立てました。高校と違っ て大学は自分で時間を作るものだと思ったので細かく スケジューリングをしました。単位をしっかりとるた めに授業に参加することはもちろん、ほぼ毎日始発で 練習場所まで通い、時間が空いたらジョギングや陸上 トレーニング、またお風呂に入る前は外国人選手のポ スターを見て筋トレをし、お風呂から出たらストレッ チなどもしていました。こんなに一生懸命努力をして いるのだから1番になれるだろうという自信と、失敗 したらどうしようという不安が入り混じった気持ちが 常にありました。

1年生の初出場の大会では、私は緊張のせいでどの 種目も失敗をしてしまい、しまいには、ずっと苦手意 識を持っていたジャンプ競技で足を骨折してしまいま した。初めての大会で初めての怪我。病院に運ばれて いる時、何が何だか分からず、ただショックでした。

その後暫く松葉杖で生活をしましたが、いつも走り 回っている私には本当に苦痛でした。私は悲観的にな り、何もかも面倒くさくて水上スキーも辞めたいと思 いました。しかし、学校に通わなければという焦りは あったので、授業を受けに行きました。階段を一歩一

歩慎重に歩き、雨の日は傘もさせず、東京に来たばか りの私は人ゴミの電車の乗り換えも大変でした。しか し私は辛くなればなる程、感謝の気持ちを実感してい る自分に気付きました。荷物を持ってくれる友人、心 配をしてくれた先生方、そして自分が五体満足なこ と。当たり前を当たり前と思わずに感謝して毎日を意 識していたら世界観が変わりました。そこでまず、悲 観的に考える時間がもったいない!逃げずにまたチャ レンジすれば必ず成長する!と思いました。そこで、

私は治療に専念し、海外合宿に行くための資金をため る為に初めてアルバイトをすることにしました。春休 みに入り、やっとオーストラリアに滑りに行けること になりましたが、他大学のライバルの意地悪や怪我の 痛みと戦っていました。しかし、せっかく学びに来た のだ、と思い貪欲に吸収していきました。帰国をし て、二年生になった時、私は1番好きなスラロームを 改良する為、新しい板を履いて練習をしました。そこ で、大きな波に足をすくわれ転倒し、激しく顔に板を ぶつけ、右目の上に五針の怪我を負ってしまいまし た。その日から10日間ほど血で顔の腫れが酷く、ま るで別人のようになってしまいました。私は毎日鏡で 自分の顔を見るたび、涙を流していました。女性とし て仕事も結婚もできないのではないかと悩む日々が続 きました。当時の私は水上スキーを辞めることさえ考 えてしまいました。しかし、周囲の人から「失明しな くて良かった」、「すぐに傷跡が目立たなくなるよ」と 励ましの言葉をもらうたびに、私は自分の居場所を再 確認したような感覚を得ることができました。また一 つ上の先輩がいなかった環境の中、常に私の面倒を見 てくれた二つ上の先輩のことを考えると、笑顔で引退 させてあげたいと強く思い、練習再開を決心しまし た。スラロームの練習ではまだ恐怖心が抜けきらな かったが、最低速度の43キロでコースに入らず、ひ たすら滑っていました。怪我をする以前の私は49〜 52キロの速度でコースに入って練習をしていたので、

とても悔しかったです。徐々に練習にも慣れていき、

以前の私を取り戻すことが出来ました。そして通常の インカレに向かっての練習に励みました。結果インカ レでは多くの4年生がいる中、2年生では珍しい入 賞、スラローム競技で個人三位になり、またチームで も準優勝の成績を収め、日本大学に10年ぶりの入賞 に導くことが出来ました。

インカレの後に1年生の時に骨折をした新人戦の出 場では恐怖で涙が出てしまいました。しかし、ジャン プ以外の2種目(スラローム、トリック)で素晴らし い成績を出したので、「必ず成績を出したい!」、「新 人王に選ばれたい!」という気持ちで恐怖心での涙を 堪えながらジャンプ競技に向かいました。そしてジャ ンプ競技でも結果を出し、念願の新人王にも選ばれる ことになりました。

3年生のインカレでは、私がスラローム競技で1位

(5)

を取ることを誰もが予想していましたが、失敗をして しまい、入賞を逃してしまいました。皆の期待を裏 切ったことと本来の実力が発揮できなかったことに ショックを受け、それから半年間悩み続けました。

ちょうどその時期から就職活動が始まり、悩むどこ ろではなくなったため、就職で結果を出し、早く合宿 をしようと目標を立て、日々努力をしました。そのた めか、無事内定も早く頂くことができ、一人大分県に 合宿をすることになりました。この合宿から次のイン カレに向けて毎朝3時からジョギングと陸上トレーニ ング等を怠らずに努力を重ねてきました。大会地の秋 田県に着くと、私は前回のインカレの失敗を思い出し ましたが、今まで行ってきた良かった時の練習だけを 頭の中で何度も何度も思い起こし、自分を落ち着かせ ました。結果は個人戦ではスラロームで1位、トリッ ク1位、ジャンプ4位の好成績を取り、チームでは総 合優勝に輝きました。

※水上スキーには三種目あります。

スラローム: 私が1番すきな種目で雪スキーの水上 バージョンです。6つのブイ(ボール)

をターンして外を回っていきます。

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留学を通して

日本大学文理学部

2009

年度卒業 大谷 碧

スウェーデンに留学したというと、どうして?とよ く聞かれます。何せ私は英文学科、でもスウェーデン の母国語はスウェーデン語。勿論スウェーデン人は英 語が話せますが、母国語ではないのでやっぱりネイ ティブとは違います。それでもスウェーデンという国 を選んだのは、私はスウェーデンという国を全く知ら なかったからというのと、このチャンスを逃したら、

英語圏外の国に長期滞在する事はきっと無いだろうと 思ったからでした。

初めてスウェーデンについた日、空港からストック ホルムに向かうバスの車窓から全く人気の無いさみし い通りを目にした後、着いたホテルの薄暗さに驚かさ れ、何とも言えない不安を感じたのを覚えています。

しかし、その後スウェーデンで生活していくうちに、そん な不安は嘘のようにすっかりふきとんでしまいました。

留学中はスウェーデンという国、文化を知るため に、私はできるだけスウェーデン人の友達と接するよ うにしました。一緒に料理をしたり、スウェーデンや 日本の事について色々話したりもしました。そこから は本当に多くの事を学びました。スウェーデンの事だ けでなく、自分自身や日本の事についても改めて気付

かされた事が沢山ありました。自分が自分で思ってい る以上に自分が日本人であること、小さいころから無 意識のうちに染みついている日本の習慣や文化の中に はそう簡単に変えることができないことがあるという こと。自分が当たり前と思っていることが必ずしもそ うでない事、そして言葉の大切さなどです。日本とは 違うスウェーデン人の生き方からも学ぶ事は沢山あり ました。本当に色々な事がありすぎてとてもここには 書ききれません。

初めは何も知らなかったスウェーデンでしたが、こ のようにスウェーデンについて様々な事を知るうち に、私はスウェーデンがとても好きになりました。ス ウェーデンははっきり言って何も無いところです。首 都であるストックホルムの規模は東京とは比べ物にな らないほど小さいです。でもだからこそ東京には無い 良さも沢山あり、日本では気付かなかった事に色々と 気付かされたのではないかと思います。

留学は本当にやる気さえあれば誰でもできると思い ます。現に私は特別頭が良かった訳でも、家庭が裕福 だった訳でもありません。ただ一つ、留学するために 努力だけは惜しみませんでした。また、留学をするう えで大切な事、それは目標を持つ事、自分が何の為に 留学するかをしっかりと明確にする事だと私は思いま す。英語を学びたい、もしくは私のように知らないか らこそ、その国の事を知りたい、などそれはどんな些 細な事でも構わないと思います。でも必ず何か一つで もそういった目標を持っていって下さい。そうでない とせっかく留学しても、得られるものも少なくなって しまうと思います。インターネットが発達している 今、他の国の事を知る事や英語を学ぶ事など、やる気 さえあれば日本にいてもできます。実際私も行った事 が無い国の言葉をとても上手に話す人を知っていま す。そういう中なぜその国に直接行く必要があるのか よく考えてみて下さい。留学というと華やかで、楽し いイメージを持っている人もいるかもしれませんが、

決してそれだけではありません。1年間行けば英語が 話せるようになる、と考えている人もいるかもしれま せんが、ただ行っただけでは話せるようになりませ ん。留学中は多くの壁にぶつかる事があると思いま す。でもその時、しっかりとした目標を持っていれば 必ずそれを乗り越えられるし、その目標が留学生活を 続けていく励みになるのではないかと思います。留学 をどれだけ実のあるものにするか、その全ては自分自 身にかかっていると思います。

私は留学をして、スウェーデンという国に行って心 から良かったと思います。行かなければ、気づかな かった事、知らなかった事が沢山ありました。一生の 友達もできたし、色んな事に対する考え方も変わりま した。そしてそこで学んだ事は今でも私の中で活きて います。

(6)

人生を変えるフィリピン留学

株式会社イージーグループ CEBU

21

 川合 弘恵

「学生のうちに留学しておけばよかったな・・・・」

社会人になってみて私が一番強く感じたこの後悔。在 学中の皆さんが同じ思いをすることのないよう、少し でも役に立てばと思い私の経験をお話しします。

英文学科を卒業した私は一般企業に就職し、英語が 必要でも何でもない日本企業相手の営業職として働い ていました。しかし、「英文科卒」という肩書だけで 海外からの電話応対、英語資料の翻訳など英語に関す るあらゆる仕事を頼まれ、日々悪戦苦闘・・・。「英 文科卒=英語が話せる」そんな方程式は成立しない事 を皆さん口には出さずとも恥ずかしながら感じている のではないでしょうか。私もその中の1人でした。で も、実際世の中の常識は違い、自分の中でも先述の方 程式が成立しない事にコンプレックスを感じていたの です。英文科を卒業したことにプライドを持ち、4年 間英文科で勉強したという事に意味を持たせたい。遅 ればせながらそんな気持ちが高まり、私は新卒で1年 働いた会社を辞めて留学する事を決意しました。

英語を勉強する為の留学。まず頭に浮かぶのはアメ リカ・イギリス・カナダ等の欧米圏。早速費用を調べ てみて、ほとんど貯金のなかった私は「留学なんて夢 だった・・・」と諦めかけました。そう、留学するには それなりのお金と時間が必要。残念ながら私にはどち らもない。でもそんな時、留学の常識を覆す斬新なプ ラン、『フィリピン留学』を私は見つけたのです。

以前旅行でフィリピンのセブ島を訪れ、是非また行 きたいと思っていた私はすぐに食いつきました。調べ てみると、フィリピンは公用語が英語で外国人向けの 英語学校が無数にあるらしい。1週間からの短期でも受 け入れてくれるし、4週間でも費用は10万円以下!?

しかもそんな格安なのにマンツーマン授業が受けられ るってホント!?その夢のような話に私は乗ってみる 事にしました。思い立ったら即行動しなければ気が済 まない私は、すぐにエージェントにお願いして1ヶ月後 にはもうフィリピン入り。フィリピン留学では出国前 にビザ等の面倒な手続きが一切要らず、逆に心配にな るくらいとんとん拍子でフィリピンまで来てしまった。

フィリピンの英語学校はそのほとんどが韓国人経営 で、学生も3人の台湾人を除いては全て韓国人。日本 人は私1人。フィリピンで韓国人と一緒に英語を学 ぶ・・・そのなんとも不思議な状況の中で私の英語留 学は始まりました。まず初日にオリエンテーションと レベルテストを受けて自分の実力を把握。弱点に合わ せてカリキュラムが組まれ、翌日から授業スタート。

まず一発目の授業はボキャブラリーのマンツーマン授 業。リスニング力もスピーキング力も全くなかった私 は、こんなんで授業についていけるのか、質問したい ことを伝えられるのか、不安と緊張を隠せないまま教 室に入っていきました。しかしフタを開ければ心配御 無用。フィリピン人の先生はその国民性から皆さん非 常に気さくで明るく緊張感もほぐしてくれて、特にマ ンツーマン授業では人の目も気にせず自分の英語力の 無さにも引け目を感じず私自身のペースで勉強するこ とができました。実際フィリピンの英語学校に入学す る学生は初心者が多く、先生もその教え方に慣れてい るので全く実力が無くても大丈夫です。

グループ授業は先生1人に対して学生4人程度の少 人数制。初めは消極的でなかなか発言できなかった私 ですが、この人数では否が応でも話す機会を与えら れ、いつしか自分からどんどん質問するようにもなり ました。グループ授業のカリキュラムの中にTopic

Conversationというものがあり、1つのトピックに関

して皆で議論するのですが、クラスはレベル別に分け られているので自分と同じ程度の実力のクラスメイト がどんな単語を知っていてどんな言い回しを使ってい るのか、その発言一つ一つが刺激になり、負けじと毎 日ひたすら勉強に励みました。

そんなこんなで毎日4時間のマンツーマン授業+3 時間のグループ授業・・・計7時間も勉強し、夜は宿 題をこなすという怒涛の日々(受験の時ですらこんな に勉強したことはない。。。)を過ごしていると、もの の1、2週間で自然と口から英語が出てくるようにな りました。日本人がいなかったので、授業時間に限ら ず誰に何を伝えるにも英語を話さなければならないそ んな状況も手伝って自分でも驚くほど英語の頭に切り 替わっていったのです。まだ日本人学生の少ないフィ リピンだからこそできた事だと思います。私は4週間 しか滞在しませんでしたが、帰国の頃には先生と冗談 を言い合って笑い、ルームメイトに英語で悩みを相談 し、グループ授業でも一方的な意見の投げ掛けではな く「議論」と言えるような格好がついてきました。

しかしこんなに勉強ばかりしていては長続きしませ ん。セブと言えばエメラルドグリーンの海。月曜から 金曜までは必死に勉強し、土日は毎週のように海に出 掛けてリフレッシュです。フィリピンには世界各国か らダイバーが集まる有名なダイビングスポットがいく つもあります。意外な事に世界遺産や観光名所も沢山 あります。いつも友達と英語で週末の計画を立て、思 いっきり遊びながらも英語で会話をする、そんな時間 が大好きだったし自信にも繋がりました。時には先生 と一緒にショッピングに出掛けたり、先生の家でホー ムパーティーをしたりと学校以外でも英語を吸収する チャンスがいくらでもあります。

(7)

こうして仲良くなった先生や友達とは3年たった今 でも連絡を取り合い、時にはお互いの国に遊びに行 き、去年はルームメイトの結婚式にも招待され出席し てきました。人との出会いも留学で得られる大きな財 産のひとつですね。余談ですが私は韓国人に囲まれた 留学生活の中でそれまで全く興味のなかった韓国語を どうしても話せるようになりたくなって、独学で勉強 を始め仕舞には短期で韓国留学までしてしまいまし た。人との出会いで自分の人生が少しずつ変わってい くのが面白くもあり不思議でもあります。

フィリピンの英語学校は全寮制で、掃除・洗濯もし てくれる上に週末を含め食事が3食出てくるので本当 に勉強だけしていればいいという何とも恵まれた環 境。そんな中で4週間勉強して得た英語の実力は、渡 航前に想像していたものを遥かに超えました。欧米圏 に留学する3分の1の費用で3倍以上の実りがあった のではないかと今では思います。もちろん欧米圏でネ イティブスピーカーによる大人数授業を受けて得るも のも大きいですが、費用をかけずにフィリピンでマン ツーマン授業をたっぷり受け、得られる実践力と自信 は何ものにも代えがたいものです。

まだフィリピン留学の知られていない日本では、

「フィリピン?何語勉強しに行くの?危なくない?」

などと思う方が多いと思いますが、私は自分の経験か ら自信を持って英語を勉強する為の留学先にフィリピ ンをお勧めできます。実際お隣の韓国では「留学とい えばまずフィリピン」という習慣が既に出来上がって いて(フィリピンに韓国人経営の英語学校が無数にあ るワケはここから)、欧米圏へ留学する前にフィリピ ンで短期間集中的にある程度の実力を付けてから目的 の地へ向かうといったステップアップ留学が主流に なっているようです。

大学生のバイト代だけでも、そして夏休み・冬休み の短期間だけでも留学はできる、それを私は皆さんに 伝えたいです。就職活動に必要なTOEICスコアだっ て、今からでも十分伸ばせます。

私はフィリピン留学というものに感銘を受け、また 留学で培った英語力を活かしたいという思いからフィ リピン留学専門エージェントに就職しました。前の会 社を退職する時にはこんな世界がある事すら知らな かったのに、不思議なものです。お客さんの中にはや はり以前の私のように一旦仕事を辞めて英語力向上の 為フィリピンに行く方も沢山いらっしゃいますが、皆 さんには今、学生のうちに体験して将来目指せるもの の世界を広げてもらいたいと願います。 留学するこ と、英語を身につけることはそんなに遠い夢の話でも ありません。エージェントとしてではなく、フィリピ ン留学の経験者として、英文科の卒業生として、皆さ んを応援しています。

高校の教員になるにあたって

〜私の教員採用試験対策と今後の目標〜

日本大学鶴ヶ丘高等学校講師(専任扱) 加藤 寛典 ここでは教師を目指す学生に参考になりそうな内容 を書いていきます。教師を目指そう、あるいは目指し てみようと考えている学生に読んでもらえたら、筆者 として嬉しい限りです。

私は運よく日本大学鶴ヶ丘高等学校に内定をいただ きました。その内定に至るまでの勉強法などを紹介し ていきます。

勉強法の話に入る前に最低限の知識として、教員採 用試験について書いておきます。ご存じの通り、教員 免許が発行されただけでは教師にはなれません。都道 府県や各私立学校などの教員採用試験を経て、専任教 員になるのが一般的です。その教員採用試験では主 に、教養(一般教養、教職教養)、専門教養、小論文、

そして面接などが課せられます。

では、私がどのように勉強をしたかに話を移しま す。私の場合、学部生のときと大学院生のときで2回 受験をしたので、別々に勉強法を書いていきます。ま ず、学部時代の勉強について。私が試験対策を始めた のは、学部3年時の10月ごろでした。教養系の勉強 は就職指導課が行う講座がありましたので、受講しま した。その講座は、東京アカデミーの講師に来ていた だくもので、いわゆる予備校のような形式となってい ます。講座で勉強したことはその日、あるいはその週 のうちに復習をし、暗記していきました。また、週末 や長期休暇など、時間のある時は東京アカデミーの問 題集を解きました。(東京アカデミーの講座を受講す る際は、問題集と、参考書(テキスト)を何冊かセッ トで購入することになります)頻出度別にランク分け がされているので、いわゆる出る分野順に解き、答え 合わせをし、解答の理由を東京アカデミーの参考書で 解明し、という流れを何度か繰り返しました。この勉 強法はかなり効果があり、教職教養の分野は足を引っ 張ることがありませんでした。専門教養の勉強は難し めの大学受験問題集を解いていました。ただ、こなす 量が少なかったためか、学部生のときの受験では良い 結果に結びつかなかったのが残念な点です。小論文は 教育に対する受験者の考えや方法を書く場合が多いの で、日ごろからいろいろな場面を想定し、自分ならど う指導するか具体的に考えていました。塾講師(個人 指導)のアルバイトも大学一年のときからしていたの で、そこでの経験は教育について考える助けとなりま した。もちろん、考えるだけではなく、書く練習もし ました。また、論文で問われる内容は、一次選考通過 後の面接で訊かれることと似ています。日ごろから、

教育について考えておくことは面接対策にもなるで

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しょう。学部時代の勉強は以上のようなものです。

大学院生のときの対策は、ほとんどできませんでし た。私は高校で非常勤講師をしていましたので(学部 を卒業すると教員免許は発行されるので非常勤講師と の掛け持ちができます)、大学院の授業や研究、非常 勤講師としての仕事に時間を取られ、ほとんど試験対 策が出来ませんでした。ただ今振り返ってみると、日 ごろから研究や授業の予習などで英語学の洋書を読ん でいるので、読む力がそれなりにつき、専門教養対策 になったと感じています。また、研究計画書やレポー トなどの文章を書く機会が増えましたので、小論文対 策につながったと思います。また、実際の非常勤講師 としての指導経験が、小論文や面接対策の助けになっ たことは言うまでもありません。学部時代の塾講師は 個人指導でしたので、非常勤講師としての集団指導で 始めて学ぶこともありました。教養試験は、学部時代 にやったことを呼び覚ます程度に、試験の数ヶ月前か ら、薄い問題集を一冊買って解いたり、すでに持って いる東京アカデミーの参考書を読み返したりしていま した。

昨今、教員養成として6年間の期間をかけるという 議論がなされています。将来的に大学院卒の教員が標 準となるかもしれません。しかし、現時点で大学院を 経験した私が出来ることは、大学院で学んだことを使 い、より深く、より分かりやすく(系統立てて)英語 を教えることだと思います。このオリジナリティを生 かし、現場に臨みたいです。その反面、私の知らない ことも山ほどあります。教師も人間であるので、知ら ないことがあるのは当然です。ただ、教師である以 上、知らないことを放置してはいけません。今も、4 月からも少しでも多くのことを吸収し、英語教育の場 で何かしらの形で還元していきたいです。

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学位論文にまつわる話

日本大学文理学部講師 田中 竹史 2010年3月を以って、他の人達よりも大分長い時 間を過ごした学生生活をようやく終えることが出来ま したが、その間、指導教員として御指導頂いた保坂道 雄先生、松山幹秀先生、塚本聡先生を始め日本大学英 文学科の先生方、学習院大学の中島平三先生、津田塾 大学の池内正幸先生など実に多くの先生方にお世話に なりました。この場を借りて篤く御礼申し上げます。

さて、今回、『英文学会通信』に「学位論文にまつわ る話」で執筆を、というお話を頂きましたので、論文 を完成させる上で必要だと思われることを以下に三つ ほど簡単にまとめたいと思います。

学位論文に取り組む際にまず重要な点は、通常執筆

している論文の単純な積み重ねが自然と学位論文につ ながるというわけではないこと、つまり、学位論文は 通常の論文執筆の単なる延長なのではなく、それらの 間には大きな飛躍があることに気付く必要があるとい う点です。特に学位論文は、数百ページという長きに 亘る論の中で一貫した主張、矛盾の無い議論を展開す る必要があり、また提出までの期限も決められていま すから、明確に学位論文を書くということを意識し、

扱うトピック、論文全体の結論、何を最も主張したい のかをはっきりさせ、その上でその目標を達成する為 にはどの様な議論が必要になるのかを考えなければな りません。当然、全体の構成や各章毎の議論、内容の 不十分な点や不必要な点、様々な事務手続きのステッ プ毎のスケジュールなどを指導教員の先生とよく相談 をして、滞りなく進める必要があります。

次に必要なことは、自分の取り組むトピックに関し て、これまでどの様な問題が議論されて来たのか、ど の様なアプローチが提案されているのか、何が解決済 みの問題で何が未解決の問題か、残された問題を解決 する為のどの段階まで議論が進んでいるのか、などに 付いて把握し、同時に、海外の殆どの人達が複数の領 域を守備範囲としていることから解るように、自分の 専門分野にかかわらず、取り組んでいるトピックに関 わる複数の分野(例えば語学では統語論、意味論、形 態論、語用論など)の研究を押さえておくことです

(複数の分野を押さえておくことは、ある一つの分野 で解決困難な問題が別の分野から見ると容易に解決可 能な場合があることや、トピック全体の理解に役立つ という点で非常に意味があります)。当然、最新の研 究を見る必要があり、必然的に5、6年以内に公刊さ れた、あるいは未公刊の論文を主に参照することにな ります。20年30年前、あるいはそれ以上古い論文や 書籍を主に参照しているような場合には、現在までの 多くの研究成果を踏まえていない、最新の研究をフォ ローしていない、ということを意味しますから(文学 語学を問わず、20年30年の間研究の進展がないとい うことは考え難い)、その場合、執筆している論文は 学位論文としての質を満たしているとは言い難いよう に思います。

また、現在学位論文を執筆している、あるいは既に 執筆を終えた、多くの同世代の人達と知り合い、情報 交換することも必要です。より実力の高い、第一線で 活躍している人達と接する機会を持つと、自分が最新 の研究からどの程度遅れているのか(2〜3年か、5

〜10年か、あるいはそれ以上の遅れなのか)を計る のに大変役立ちます。この点に関しては、アメリカ言 語学会の提供するプログラムであるLinguistic Society of America Summer Institute(MIT, Harvard, Stanford, UC Berkeleyといったアメリカ各地の大学で隔年開催 されている4週間から6週間程のプログラムです)に 参加することが非常に良い機会になります。ここで

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は、統語論、意味論、形態論、語用論、音声学、音韻 論、社会言語学、歴史言語学、神経言語学、フィール ド言語学、コーパス言語学、実験言語学、類型論、第 二言語習得、自然言語処理、といった言語学の殆ど全 ての分野をカバーする講座が開かれ、Mark Baker, Joan Bresnan, Noam Chomsky, Guglielmo Cinque, Adele Goldberg, Heidi Haley, Howard Lasnik, Beth Levin, Miyagawa Shigeru, David Pesetsky, Tanya Reinhart, Luigi Rizzi, Ivan Sag, Saito Mamoru などの錚々たる顔 ぶれの講義を聴くことや最先端の研究を肌で感じるこ とが出来るのみならず、学会全体のトレンドやアメリ カ・ヨーロッパなどの状況を知ることも出来ます。

更に、論文を英語で執筆する場合には英語の訓練が 必要です。これにはとにかく英文を沢山読むことに尽 きると思いますが、学位論文執筆の為には、自然と、

日本語で書かれた論文や書籍よりも海外のジャーナル など英語で書かれた論文や研究書を読むことになりま すから、そこで使用されている表現や論理展開を真似 し、日本語を介在させずに直接英語を書くことが最も 良い訓練になります。日本語を母語とする人は、英語 よりも日本語の方が圧倒的に得意なはずですから、得 意な日本語を使った(日本語の文章の組立や難しい日 本語の表現が含まれている)文章を不得意な英語で英 文に翻訳するよりも、始めから英語で考え、それを文 章にする方が遥に容易で効率的です。

学位論文に取り組む際には、およそ以上のような三 点(あるいは四点)を念頭に、常に自らの実力の乏し さ、至らなさと向き合い続け、格闘し続け、耐え続け る精神力、加えて、何としてでも論文を仕上げるとい う強い決意と覚悟で最後まで努力し続けることが求め られるように思います。

最後になりましたが、大学院生活を通じて知り合い 多くの刺激を与えてくれた同世代の友人知人達(所属 はいずれも当時)―秋田喜美さん(UC Berkeley)、浅 尾仁彦君(SUNY Buffalo大学院)、Mark Dingemanse さん(MPI for Psycholinguistics)、藤沢貴充君(明海大 学大学院)、長谷部郁子さん(都立大学大学院)、堀田 秀吾さん(立命館大学)、神谷昇さん(都立大学大学 院)、三ツ木紗奈子さん(CMU大学院)、長屋尚典さ ん(Rice大学大学院)、中川奈津子さん(SUNY Buffalo 大学院)、中村光孝君(明海大学大学院)、西川寛之さ ん(明海大学大学院)、小野寺潤君(学習院大学大学 院)、劉代容さん(明海大学大学院)、田村真一君(東 北大学大学院)、渡辺美知子さん(東京大学)、依田悠 介君(大阪大学大学院)―に感謝すると共に、本稿が 後に続く人達に多少なりとも参考となる事を願いつ つ、この辺りで筆を置くことに致します。

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受賞を機に 振り返り 思うこと

日本大学理工学部准教授 佐藤 勝 2009年度「日本中世英語英文学会奨励賞」(第1回)

を受賞した。受賞については、『日本大学新聞』第 1273号(2009年12月20日)2面、nu press e-NEWS 学 術 ニ ュ ー ス 2010年02月01日、 理 工 学 部 ホ ー ム ページ News & Topics 2009年12月17日、日大iクラ ブ 日大ニュース 2009年12月17日をご覧いただきた い。

受賞を機に これまでを振り返り そして思うことを 記す(前半は自身について、後半はさまざまな点につ いて)。読者の年齢や経験により、興味惹かれる点は 異なりましょう。

○専門分野 英語史・歴史英語学、英語学、英文法

○ 略 歴 1963.9東京都生まれ、1987.3日本大学文 理学部英文学科卒業、1989.3日本大学大学院文学研 究科博士前期課程修了、1987.4-89.3(前期在学時)

日本大学櫻丘高等学校非常勤講師、1989.4-90.3日 本 大 学 高 等 学 校・ 中 学 校 教諭( 講 師 専 任 扱 )、

1990.4-91.3日本大学理工学部副手 一般教育教室配 属、1991.4-95.3日 本 大 学 助 手 理 工 学 部 配 属、

1995.4-2000.3日本大学短期大学部専任講師 短期大 学部(船橋校舎)配属、2000.4-02.3日本大学専任講 師 理工学部配属、2002.4-07.3日本大学助教授 理 工学部配属、2007.4-現在日本大学准教授 理工学部 配属*博士後期課程には在籍していない。進学を志 さなかった理由は経済的理由だが、満期退学という 制度に抵抗感もあった。大学教員になれるとも思っ ていなかった。博士前期課程の2年間で、一応の研 究の素地(基本的な研究力・発表力・論文作成力)

が構築できた。

○ 各時代について 〈学生時代〉充実していたが、常 に経済的および将来への不安があった。〈高校教諭 時代〉充実していた。多忙であったが、楽しかっ た。酒は大方楽しく飲んで3 3 3いた。現代英語学分野で あるが、研究を継続できた。〈副手・助手時代〉陰 湿な原因によるストレスが多く、酒にのまれて3 3 3 3い た。研究は継続できた。〈(短)専講時代〉校務に忙 殺され、ストレスも多く、酒にのまれて3 3 3 3いた。研究 は、一時本流を外れ、コンピュータ利用や英語教育 分野へと傾いた。しかし、本流の根を絶やさなかっ た。〈専講時代〉校務による忙殺も減り、ストレス も少なくなり、酒を飲む3 3ようになった。本流の研究 に復帰できた。〈助教授・准教授時代の2002.4-09.3〉

校務に忙殺され、陰湿な原因によるストレスも多く なり、酒にのまれる3 3 3 3ことが増えた。研究は継続でき た。2006.9に単著を上梓しことは大きな喜びであ り、自信となった。〈准教授時代の2009.4-現在〉環 境はさほど変わらないが、良い意味で達観できるよ

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うになった。酒を飲まなくなった。飲む酒は原則楽 しい酒とする。研究を楽しんでいる。退職後の有意 義な生活について考えるようになった。

○ 今 後 さらに良い方向を目指したい。この職業に 就いた(転職した)からには、悔いのないように全 力を出し尽くしたい。

********************

○検定試験 学生は果敢に受験されたい。

○ 教員採用試験 適切な時期より計画を建て実行すれ ば、合格・採用は充分可能である。*私の場合、東 京都公立学校教員採用候補者選考において(A)登 載を受ける(高等学校・英語)。日本大学高等学校・

中学校への就職のため、都の採用を辞退する。

○ 博士前期課程 課程を終えるにあたっては、学位

(課程修士)の取得が原則である。高校までの教員 になるためには、さらに重要な学識となろう。

○ 博士後期課程 課程を終えるにあたっては、満退か 学位(課程博士)の取得かである。以前は満退が当 然であったが、最近は学位を出す方向(=研究者の 始発点3 3 3としての位置づけ)に変ってきているよう だ。しかしながら、大学・学部・学科・分野によ り、取得制度の有無や取得難易度の点で違いがある3 3 と感ずる。学位を取得できる環境にいる方は、取得 すべきであろう。その環境下にない方は、それに代 わる客観的な業績をつくる必要があろう。後期への 進学には相当の覚悟が必要と思われる。例えば「就 職がないから進学」という考えは危険ではないか。

○ 大学教員職 30代前半の世代では、欧米有名大の 学位や国内有名大の学位取得者が増えているよう だ。一定レベル以上の大学の教員専任職を得ようと 考えている若手の方は、学位(課博)の取得を真剣 に考えるべきであろう。その制度下にない方は、学 位(課博)相当の客観的な業績をつくる必要があろ う。本学には多くの学部があるが、今では専任職は ほぼ公募となっているようだ。特に新卒者には、非 常勤職を得ることも容易ではなかろう。本学は学部 が異なれば別の大学なのである。私が学生の頃は、

他の学部にどのような本学出身の先生がいらっしゃ るか大方分かっていたが、いまでは見当もつかな い。公募に勝ち抜いてきた優秀な先生が多くいらっ しゃるのだろう。当然のことだが、競争に勝ち抜く 力をつけねばならない。*理工学部では新卒(に近 い)出身生を非常勤講師として採用してきたが(今 年度は3名)、当然のことと思われては困る。

○ 大学教員像 いつの時代も、研究・教育・校務3つ を均等にこなすことのできる教員が求められている と思う。近年、学生の質が変わってきているため、

これに対応できる必要もあろう。どの仕事にも言え ることだが、バランス良く業務を行うには、強靭な 精神力および体力が必要である。特に、卒業地以外 で働く場合には。こなせて初めて一人前と言える。

○ 学位(論文博士) 後期満退が当然の世代にとって、

学位(論博)の取得は研究者の最終目標であった。

現在その位置づけは、どのようなものなのか。大 学・学部・学科・分野により、取得制度の有無や取 得難易度の点で違いが大きい3 3 3と感ずる。私自信、取 得への関心は強いが、どうしたら良いか。戸惑いを 感ずる。

○ 単著の出版 学術専門書(単著)の出版は、我々に とって非常に意義深いことである。私の経験では、

出版により違った世界が見えてくる。再度の出版を 念頭に研究を継続している。

○ 研究姿勢 若くとも50代半ばまでは現場で活動す べきではないか。後輩には、役職ではなく、活動す る自身の背中を見せるべきではないか。私はそう思 う。

○ 学 会 本学会は、同窓会的要素をもつ学会である が、世代交代が大きく急であったのではないか。会 に集まる会員が限られているように感ずる。思う に、恩師もいなくなり、自分よりも相当に若く親し くもない会員が学会の主力となれば、足が遠のくの は当然なのかもしれない。日本大学英文学会ではな く日本大学英文学科の会という印象をもたれている 会員は少なからずいるのではないか。本学会の規模 や質を再考する時にきていると感ずる。

○ 学 科 教養部の英語研究室とは異なり、博士後期 課程まで有する専門学科(=大学院大学)は、現役 生だけでなく、卒業生にも教育(研究)の責務があろ う。責務ではなく権利とも解せる。所属先によって は、学位がなければ昇格できないところもある。専 門学科の果たすべき役割は大きい。履行しなけれ ば、組織のマイナスにつながるだろう。理工学部の 専門学科は、卒業生や外部の方に(積極的に)学位 を出しているようだ。

 以上、参考になれば幸いである。

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雑感

日本大学文理学部教授 松山 幹秀 昨年度は英文学科主任として再登板することになっ ておりましたが、昨春思いもよらず身に労

いたつ

きを得、皆 様には多大なるご迷惑をお掛けしてしまいました。こ の雑感は、学科主任として本学会通信に載せるべく用 意していた原稿の一部ですが、再掲の機会を頂きまし たことにまずもって深謝の意を申し述べます。『古今 和歌集』の真名序に準えて今の私の想いを述べるなら ば、

  「人の世に在り。思慮移り易く、感は志に成り、

想は言に形あらわる、以って懐を述べるべし。」

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お読み捨て(あるいは読み飛ばし)頂ければ幸いです。

 旅立ちと出会いの季節

3月の別れの季節によく引き合いに出される詩に晩 唐の詩人、于

う ぶ り ょ う

武陵の「勧酒」があります。

  君に勧む金屈巵

      (君に勧める黄金の盃)

  満酌、辞するを須いず

      (なみなみと注ぐが、遠慮はしなさんな)

  花発いて風雨多し

      (花が咲けば、とかく風雨が多い)

  人生きて別離足る

      (人生には別離がつきものだ)

この詩には、井伏鱒二の名訳とされるものがあって こちらもよく知られています。

  この盃を受けてくれ

  どうぞ なみなみ 注がしておくれ   花に嵐の喩えもあるぞ

  「サヨナラ」だけが人生だ

そして、この井伏鱒二の訳詩を愛した寺山修司が、

それを基にして書いたのが「さよならだけが人生なら ば また来る春は何だろう」で始まる「幸福が遠すぎ たから」という詩です(長いので引用は省略します)。

さよならだけが人生だから、別れの杯は金

き ん く つ し

屈巵。共 に飲める内に一緒に飲んでおこう。さよならだけが人 生だから地の果てに咲いてる野の百合がうれしく、さ みしい平原にともす灯りが懐かしいのです。人生には 別れもあれば、出会いもある。晴れの時もあれば、嵐 の時もある。大切なのは、<今、此処>である。この 時この一瞬が私の人生を成している。この時この一瞬 以外にわが人生はない。だからこそ、<今、此処>で 飲もうじゃないか、と于武陵は詠んだ。センチメンタ ルな別れなど望んでいない。現実をありのままに受け 入れて、別れに涙はあっても、爽やかに別れていこう じゃないか。「年歳歳花相似たり 歳歳年年人同じから ず」。「歳歳年年人同じからず」は時にうれしくもあり ますが、この年になると、もう会えなくなってしまっ てから、もっともっといろいろ聞いておけば良かった という想いも一方で募ります。

 学期の初めに   年年歳歳 花相

あ い

似たり   歳歳年年 人同じからず

『唐詩選』に収められた劉

り ゅ う て い し

廷芝の詞藻豊かな詩の中 の有名な一節です。さて、学期初めの一週間ほどは、

毎年美しい花(桜)は同じように咲くが、この花を見 る人々は毎年変わっているのだ、という感懐を年毎に 強くする時期でもあります。(ちなみに、劉廷芝の詩 の「花」は桜ではなくて、桜には似ていますが李[ス モモ]の白い花のことです。)

『古今和歌集』の春歌上57、「色も香も おなじ昔に

さくらめど 年ふる人ぞ あらたまりける」や春歌上98

「花のごと 世のつねならば すぐしてし 昔は又も かへ りきなまし」も詩趣としては近く、回帰的な自然と非 回帰的な人生を対比していますが、老いを、紀友則個 人の宿命の悲しさに限局しているところや、読み人知 らず(女性)の果たせぬ再度の逢瀬の希求といった、

やや湿った情念と、年年歳歳や歳歳年年のもつ悠久の 時間意識とでは立ち位置に大きな違いがあるように思 えます。私が和歌詠みになれず漢詩好きなのは湿った 情念への共感が薄いからかもしれません。

ところで、唐詩のような中国の古い漢詩を読むと、

ほとんど常にそこに歴史までも感得することできま す。歴史と言って憚りがあるなら、そこに過去の一断 片を、幾ばくかの古いにしえを読むことができます。それはほ とんどの場合、前後に辿るべき脈絡もない、ぽつんと した小さな一消息にすぎないのですが、情感を孕んだ ある確かなもの、その意味では最も確かなものとし て、遠い過去から今に生き残った微妙な消息を私たち に伝えてくるところがあります。それこそが文学がも つ普遍的な力であり、また一方でそのような感興に強 く誘われるのも私自身が馬齢を重ねたことの証左と言 えます。

この劉廷芝が27歳で夭逝して150年ほど経った唐 代末期のころの我が日本。835年(承和2年)、不世出 の大天才空海は、自らの死を予告して断食に入りま す。そして3月21日、その予告をした日が到来する のですが、高野山の御影堂に集まった弟子たちは、

口々に 「 お言葉を 」 と強請ります。目前に死を見据え ている空海は、おもむろに、次の言葉を弟子たちに与 えたのでした。

  生まれ、生まれ、生まれ、生まれて、生の始めに 暗く

  死に、死に、死に、死んで死の終わりに冥し 空海によれば人が生まれる前も死んだ後も、永劫の 暗い闇が広がっている。生きているその間だけ、少し だけぽっと明るく輝いている。それはその前の永劫、

その後の永劫の闇の中ではただの一瞬の時間でしかな い。生の輝きは一瞬、そしてその前後は永劫に暗く、

そして冥い。生きて輝くのは、それ自体が大変な奇跡 なのであって、そのことに気づかず人間は傲慢に生き ている−空海は最後にそのことを窘

たしな

めた。そのよう にこの辞世の句(『秘蔵宝鑰』に所収)は解釈できそう です。私の大好きな中国六朝時代の大詩人、陶淵明の

「人生は幻化に似たり 終に当に空無に帰すべし」にな ぞらえて言うと、空海の最期の教えは<虚空>という 空

く う か い

懐であった、というのは戯言にすぎるでしょうか。

 カルペ・ディエム、時に及んで當に勉励すべし この一年は、かつてないほどに生と死、人間という 存在を思索の対象として、宗教書、日本や中国の古 典、そして科学(特に生物学、物理学)の本を読み

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