ま へ が き
私が此虚で問題にし庇いと思ふのは、山岳が日本人の詩情に如何に反映したか、また日本人の詩情が山岳に如 何に働きかけたかと云ふ事であつて、出水得べくんば、其慶に日本的なるもの、特殊的なるものを摘椚し庇いと 思ふのでぁる。 山岳が人間生活に密接な紺係を持っでゐることは富ふ蓬もねい審であつて、衣食代にわ上り唯だひとへに山岳 に依存して生活した原始時代は言ふに及ばず、農牧業が憩達して文化の中心が平地河川に移行してからも、また エ糞が盛になり大都市が形成せられた現代に至っても、山高の藷要件は増加こそすれ、決して減少するものでな かつに。其の間、何十萬年もの間、人類は絶えず山稿に向って文化の鍬を振ひ績けて釆にわけであるが、斯かる 人間共に絞らべて山岳は飴りに琴南に、華厳に、自然のうちの最も自然なるものとして、仲代ながらの納材さを 容易に失はうとしないのである。詩情は人間生活に速いものは、之を無線のものとして和みないであらうし、埋満載甘同等商業畢校紀元三千六百年記念論文集
山 岳 と 日 本詩 情
田
岡
貰
三五〇性で割り切れるものは、之を平凡として郡けるであらう。山岳が何れの民族に於ても叔も始原的な固民詩、即ち
樽説文革の遠要な封稲となり得たのは、此の二つの條件、断ち人間生酒に交抄が多い事と、人間埋性を超絶した
盛的存在であると云ふ事嘗に基くものである。我が樹は山の観であると北ハに神々の治らす因である。従って、山
の謹が恩然教達しなければならない。
魂が圃人が山番に勤して抱いた感情は、他の凡ゆる民族に於けると同様、先づ何よゎも凝れであつに。アルプ
ス諸峯も十八≠紀中葉、近代的登山が近代的男衆を以って開始せられる迄は悪報の趣豪として、また恵鹿の城廓
として怖れられてゐ、仁そうであるが、我が園の山岳も亦おさ′∼之に劣るものでなく叫切の鬼神妖怪が跳梁する世界であった。日本旗典記、今甘物語を始め、後世無数の物語顆は勿論の轟、夕涼の橡養に、守の竣の焼蓮に、
老人の口から洩れる山の怪異、例へば、鬼の詐、山神の諦、山男山女の諦、其の他几炒る狐撫妖怪の諾等は何れ
も山の叙事詩として、何れの地方にも果てしなく豊富に倦承せられてゐる。
併し乍ら此の場合津意しなければならない事は、之等の物語の大部分が彿教思想或ひは支那紀元の妖怪談の影
響下に教達したと示ふ事であつて、特に綬.の小角に勤まり徳川時代に愈々盛んであつた修験道の影攣を看過する番が‖釆ない。故に我々は先づ之等の影響が殆どなかった上代に注目し、黄塵に日本的なる特殊舶を明かにして
それより川渡して、此の日本的なるものが、外来的なるも・のと如何に排斥調和し、糾合認庵しにかを玖究める必
要がある。
出品と日本詩情 三芳二但し私は此虚では上代丈けに止めて、後世に於ける至展にまで言及しやうとは思はない。
の 叙 事 詩
山 人類の詩は神々の麓生と共に初まつに、いや、詩が抑々としで誕生しだと云ふ方が愛篤かも知れない。従って 山の詩は常然山の紳の詩でなければならなかつに。我が園の山南詩も亦山の紳の叙事詩である。併し乍ら古代人 が考へた山の紳は観念上二つに薗分せられる。即ち紳が山そのものである場合と紳が山の領知者である場合とで ある。此の二つの観念哲比較すると前者は明かに原始的、素朴的で偉大なる自然に射する古代人の啄嘆的感情を 直接表現したものと云へるであらうが、後者は明かに自己及び自己を取りまく乱酔を反省し、其の人間相及び配 合相を面々に類推した跡を覗ふ事が桐来る。従って原始的な山の詩は山そのものを紳格化した詩でなければなら ない。西洋の宜人倖詮はまさに其の適例であるが、我が図に於ては西洋種リアールな良人樽謝は存在してゐな い。尤も常陸風土記には丘の上に座して蛤を喰ひ、北ハの只が構って岡となつにといふやうな俸給があるが、之は 単に貝塚を見ての幻想に過ぎないであらう。叉、播磨風土記にも損のやうな他説があり、民問鯨承にも之に獅す る物は多い寄と恩はれるが、之等の貰人は決して山そのものでなかった。 我が閲に於て山を命透るものとして取扱った例は萬尭共に出て凍る三山率ひⅥ訟試である。 香具山は畝火をを︵え︶しと耳梨と利率ひき、紳代よりかくなるらし、古へもしかなれこそ、うつせみ≠l喘を 高松高等簡柴畢校紀元二千六百隼記念論文集 ニ山嘉l一反 歌 香具山と耳梨山とあひし特恵ちて見にこしいなみ因原。 此の歌は中大江皇子が播磨囲印南に行かれだ際詠ぜられたものと悼へられるが、両方播購風⊥託には、〓簑の 固の阿晋の大潮が三山の飾を開き、之を諌めやうと此鹿に来たが、和解が出来た話を闘いで両耳に・隼まつたとい ふ丈けしか俸へられてゐない。その上此の歌の解鐸に放ても、畝火が女紳であつて育英山と耳梨山と争ったとす る説と、耳梨が女紳であつて香具山と畝火が謡ったといふ設に分かれでゐる有枝で、此れ以上の串は少しも明か でない。が、私が此鹿で指摘し庇いのは寧ろ、此の憶説の内容が文献上明瞭でないと云ふ革質である。それから 叉、之に如し㌍俸説が苗代の文献に血向鬼常らないと云ふ寄貰である。 だからと富つで山を人仰めるものとする概念が日本人に於で快乏してゐたわけではない。例へば青森願の束嶽に まつはる樽説でぁるが、此の山は甘八甲田山と仲速ひして、首を斬られた、その薦め批の山は今でも甘が無く、 叉首が飛んでいった岩木山にはその眉の附近に癖があると云ふ試であるが、鳥が二つあれば必ず女島、男島と名 付け、え峯が二つあれば二千山とか、男鴨山、女鷺山等と名付ける轟が好きな日本人には斯ういふ詮諦は数多い に違ひない。古事記の園生みの條を見ると蕾岐の圃は飯依彦であり、阿波の園は大宜都娯である等、何れの島、 何れの囲も皆赫右のものでぁつた。叉大根大冊も必しも其の砥が太陽に比すべきものであつたと云ふわけでな 久。 山岳と〓本訴惰 ≡五≡
掛藍
く、寧ろ太陽白身と考へられた時代があつた寄を想像せしめるものがある。叉後世各地に建ってゐる石神崇揮で ぁるが、之も其の石が紳の御座桝である場合もあるが、その多くは、石そのものの崇拝でなければならない。現 に仰預の石鎚山崇拝の如きも恐らく石土成苗の紳で土佐の長岡郡の石筒紳址と共に和そのものの崇拝であつにの でなからうか。 ところで古事記に出て来る紳としては大山津見の紳がある。大山津見の語渥に就ては山樺持とする説がある が、我々は語瀕論、特に日本語に於では川東る突け憤盛でなければならないが、若し山捧持だとすると、之は山 そのものゝ榊格化でなくして、山を領射するものである。が、果して争っであるか、卜こうかは容易に利恵する番 が出釆ない。と云ふのは、古事記の此の部分を謹んだ印象から云っても、また日本苗紀には﹁次に山を生み給抹﹂ と簡軍に常識的見方をしでゐる鮎から考へても、矢張す同時に威トごました紳々同様自然現象の神格化と考へられ るからである。併し、他方山津見の紳は他の自然紳と造つで、自然としてではなく、人として所動してゐる覇が 多いのに注目しなければならない。射ち兢佐之男命が大蛇退治をせられた時雄の河上で泣いでゐた老夫婦は﹁普 は観つ沖天山津見の子なり﹂と云ひ、文数々杵尊が結射せられたのも閉つ沖天山津兄の女、木花喚耶如である。 して軋ると大山津見はも早や自然紳でなく、寧ろ天孫放とは異なる豪族と見られない蕃はない。殊に須作之別啓 が大糾弾鬼の娘大市如に婚して大年紳以下の紳々を生み、大山津見の孫柄名田姉と婚して八島士奴実の紳を牲云 此の紳が吏に木花智流妹に姶して大閲喪の紳の租とぉってゐる研から考へて愈々椚雲系統の豪族である軍が知ら 高松高密商魂盛校紀元二千六百年記念論文集 三五四
れるのである。そればかりでない。古来、船乗りの信仰を集めてゐる大三島帥赦の祭帥は大山津見であつて、仁 徳礪S痢代、膏臍囲から凍釆したとの俸盆がある。之はどう解絆すべきであらうか、同名輿帥だと云ふ訟もある が柄鮮牛島と出賽との幣接な交渉を考へる時、共慶に脱げながら成る想像が付くのでなからうか。 大山津見は以上の様に應免的に甚だ興味ある存在であるが、白身山紳としては何等の疾跡をも止めてゐない。 山に踊係があるのは唯だ名前丈けであるやうに見える。併し、大山津見の紳の娘、木花喚耶雛は富士山の祭紳で ある。之は恐らく、富士に燃える火と、木花嘆耶姉が己の貞節む示さんが焉めに産室に火をつけた事貨とが結び 付いたのかも知れない。又、大山韓見の子孫の大樹主命は三輪山の祭帥である。此の神政は本殿がなく、山が御 紳閻である寄で有名であるが、斯ういふ紳軋は此の外に肥前の甘奈備軸祀、武職の金銭榊赦、信濃の諏訪紳赦等 あるそうであるが、注目すべきは出雲系の紳批に多いと云ふ事である。また播痍風土記を見ると出雲の図の帥々 が如何に多く、圃境の山を越えて播磨の囲の山々に来臨したかに驚かされる、之等の鮎より考へて、或ひは叉大 樹、肇命と八十紳等との説話が可成り山に閲したものが多く、しかも∵万に於て海洋に関係しに詮許も少くない斯 から見て、著し大願な想像が許されるとしたならば︵此んな想像は飴りしない方がいゝのだが︶出実族は原始産 業族であつて、より文化の高い農柴校旗たる天孫放に麒倒抱擁されたといふ解粋が成り立っかも知れない。 神格化された山岳の詩は以上述べた如く甚だ乏しいものであり、叉あつた研でリアールな描焉を軟いでゐると 云ふ事は必やしも之等の詩がなかつたと云ふわけでは無く、唯だ記紀や風土記の作者が放り問題にしなかったと 山岳と日本帯惜
いふ削が多分にあるものと考へられる。先にも述べたやうに相生みの筒所に於ては充分自然伸の症跡む残してゐ るのであるが、それが次彷に歴史時代に恒準づくに経って斯かる素朴な信仰を磯展せしむる事が旧来なかつたので あらう。そして∵大仙津札の性格の矛眉は恐らく過渡的な混乱から生じた庶物であらう。兎に角ゲルマン帥話や 希聴紳諸に見られるやうな詩的に生々と描荒せられた日然紳が記紀に於で快げでゐると云ふ寄は、作者が、或ひ は作者に射する要求が素朴信仰時代を脱してゐたといふ寄を謹明するものであるが、併し、それ丈けだろうか、 私は更に筑要な原因を求め庇いと思ふ。が、それに就ては後に述べる事にするり 帥格化された山の物語は以上の如く甚だ貧弱でのるが、山の領知者としての紳の物語なら殆ど無数である。と 言っても、数の多い事は必ずしも質が優れてゐると云ふ事にはならないが、それは兎に角、古文献に出て氷る之 等物語には⋮隼に歴史的事件であるに止まつて、詩的叙述、例へば海軍彦山事務の物語の如き完成した詩篇と同一 刷し・得ないものが多くある事に注意しなければならない。 第二我々が現在から考へると、常時の紳々は所謂翻らしい帥、即ち何等か渾秘的威力を持った榊と、そうで は此の情別は必やしも明瞭でなか
ない、ぁつさりの人で
唯間ある仰の二種新であるが、常時の人々の考へとして ったかも知れない。といふのは後者の細々も普通人に比べて柿力を持ってゐたであらうし、叉之隼の紳には女仰 が多く、それが巫女であつたと想像する場合は、之等の紳が更に叫段と高い仰の構成を代表する事にょつて良民 から犠牲を要求し、良民ほ初穂を献じ、人身供養をしてひたすらに崇りなからん事を諦つたであらう。共鹿に雛 高松筒啓商築貌校紀光二千六百年記念論文塊 三五ふハ念上のコンプレックスが起ったであらう事は容易に想像せられる。 例へば肥前風土記に﹁山の川上に荒ぶる紳あり。往来の人、寧ば焦き車ば死にき。こゝに轡貰等が粗大兼m古 間ひき。時に土蜘蛛、大山田女、狭山閏女、二人の女子ありて云ひしく﹃下田の村の土む取りて、人形、罵形を 作りて、この紳を祀らば必ず應へ和むことあらむ﹄と抽しき︰・⋮﹂とあるが、此の荒ぶる紳は、他にも多く例が めるやうに、良民を傷け王師に抗しに山の豪族であつたであらうが、併し此磨では、それを知らげる方渋がも早 や篭際的な試ではなく、死人を埋葬する場合と同じく、土埴人形といふ象徴的な供物である事が注意せられる。 苗俸訟の神々は、斯かる車輌隼人的笹神が多いのであるが、神秘化せられる程度が少い場合には、箪に荒ぶる 紳として歴史的存在に止まるのであるが、高度に紳秘化せられた場合は、葛城の二百主の仰の如き妖怪的布森と なる。 葛城の﹂言主の命が山中で雄各天皇の御得耐に、天皇と寸分速はない姿で現はれたといふ物語は記紀ともに樽 へる所であるが、その玉髄は明かでない。葛城貿山詑には﹁二百圭紳。飛行礫文相之桝欒、既孔雀王是也。劇薬 無二淡守護之紋。名言昌泰。故蕾鹿名山乗峰云々﹂とぁるが、其の虞偏は兎も角、初めから密教式の神野不思 議の紳であつた寄丈けは確かである。 山の紳は以上のやぅな紳ばかりでなく、動物でぁる場合も歴々であつに。例へば狼は大口紳と糾せられてゐた が、狼の字音が眈に大神の意味であるとしたら、古来から駅く紳聖祓せちれてゐた寄が知られる。また日本武尊 山岳と日本一碍情 三元七
三五八 需総高箪商業巌校紀元二千六昔年記念論文簸 が信濃の山中を通られた時には山の紳が鹿となつで硯はれ、伊吹山では大蛇となって啓を苦しめ挙ってゐる。 蛇が常時に於て特別紳粗相せられてゐた事は各囲民族と同様であつて、三輪山の紳婚樽詮は飴りにも有名であ る。三輪山は古くから信仰せられ、叉山としても大いに親しまれてゐた塵であつて、祭伸は大物童画である。と ころが、此の紳は蛇と欒じて人に婚ひ、叉笛となつて、雄鼻天皇より智恵の名を賜はってゐる。恐らく‖芸妓の 複雅な脛更的鯛係やら種々の侍詮が鈴鹿したのであらう。蛇はまた常陸囲で夜刀紳となつて〓現してゐるが、讃 岐方言でも蛇の事を﹁やとし﹂といふところから考へて夜刀仰の信仰が金柑的であつただらう番が想像せら灯 る○ 以上、私は主として山の神の事に就いて述べて釆たが、此の侍戊は其の外、様々なものが残存して居る。併し それ等に就いては詳論しない事としで、唯⋮つ之等の叙事詩を適廟しで言ひ度い番は、完成した詩篇になつたも のが極めて稀であると云ふ事である。その敷から言ったならば殆ど強敵であるか、併しその何れもは、舶芽のま ゝ直まつて後世の育成を待つものであり、城ひは ー いや此の方が多いのかち知れないが1完成した物語があ るのであるが、筆がその詳細む記述しなかったといふ風な印象を受けるものばかりである。 山‖ の 叙・情 詩 山の叙事詩が上代に於ては萌芽のよゝに止まり、大して葦展しなかつにのに反しで、叙情詩は鬱然として繁茂
し、未曾有の盛観を示してゐる。勿論薦薬袋に於ても、山萌そのもの■を詠じた詩はそう多くはないが、出荷が自
然の叫部として萬装入の生清を彩とり、共の詩に反映した事は多大であり、経つで彼等が如何に山高を畏敬し、
讃美し、生活し、呼吸したかぉ先分覗ふが串が出乗るのである。
警が萬襲基に於ける自然ざ山高に於て驚嘆するのは其のみづく−しさである。淡陸寺の艶諾の色彩が今市の汁を絞り糾して塗ったかと児はれる程新鮮なのと同様、山の姿、草木の彩どり、それが今生れたばかりの新鮮
さで我々の心象に状つる事である。これはみづノ1しい薦某人の感情が何等の技巧もなく、何等の思料もなく、唯だひたむきに裸となつて白然と抱き合つでゐる結果に外ならない。
此の場合何よりも大切な虫は、平安朝の人々にとつて自然は唯だ観念に過ぎなかつたのであるが、萬華人は山
野に起臥し、山野を呼吸しで生活してゐたと云ふ事である。例へば古今集奄二の貫之の歌
やどりしで春の山べにねたる夜は夢のうちにも花ぞちりける。
此の歌は﹁山寺に詣で上りけるに詠める﹂と前雷きがあるが如く、古今菓では珍らしく琴際に山を関験しでの
歌であり、且つ山に閲した歌では叔も優れたるものであるが、之を人麻呂の
妹がため管の寛掘らに行くわれを山路まどひで此の日暮しっ ︵奄七︶に比べると、其の直接さと眞鷺さに於て填て及ばや、何題やらに誼があるのを知る寄が川東るであらう。敢へて
人肺呂ばかりではない。
山岳と日本詩情 三五九ぁしびきの■山の竿にいも待つと曹れ立らぬれぬ山の雫に。 かくはかり擾ひつヽあらすは高山の岩根しまきて死なょしものを。 自実の棚引く山の高々に我がおもう妹を見むよしもがも。 等の歌を見れば櫛愛生活の中にも山が如何に美しき絃をなして織り込まれてゐにかを知る番が爪木るであらう。 後れゐてわが擾ひをれば白雲の棚引く山を今日か越ゆらむ。 之は族に出た夫の山路遥かな旗を思ひやる妾の心である。特に我々の胸を打つのは死相一ざ恩ひやるの歌であつ で、死ぬと云ふ事を﹁山隈くる﹂と云ふ言葉で表はしてゐるのは、山へ現非したからであらうが、桝うなれば死 者への切々たる忍ひは山嶽ひとなつて瑛はれる。例へば大津皇子蟹玉山に葬りし時、松岩大衆皇女の御歌とし て ぅっそみの人なるわれや明日よりは二上山をいもせとわが見む ︵⋮詑にわがせと︰⋮J と云ふのが他へられ、また人踊胃が沓を失った時の悲嘆は 秋山のもみぢをしげみまどわせる妹をもとめむ山路しらすも。 となつてゐる。史に〓耳目に糧すといふ思想を班はしにのほ 詫梓の妹は珠かも足曳の活き山蓮に蒔けば散りぬる。 と.去ふ歌でぁつで、放愛の女の骨を焼き、其の次を美しき山に珠と散らすと云ふ意味である。斯うなると山は生 高松高等商業単校紀元二千六官牢記念論文韓 ニニハ○
漕であるばかりでなく、永遠の珪命である。 次に、私は薦英人が如何なる山を愛したかに就いて述べやう。薦英人が問題にした出で硯都も飼ほ高山として 登山者を儀めてゐるのは宮上山、立山、筑波刊ぐらいのものであらうか。 富士に就ては赤人の﹁あめつちの分れし時ゆ紳さびて・:︰﹂と赦膳雄大に書き起こした詩篇は散りにも有名で あると共に、古今に絶する名吟であるが、讃人知らやの長歌﹁⋮:大害もいゆきはばかり飛ぷ島もとびも上ら 、 す、燃ゆる火を野もてけち降る蟹 ﹂ を火もて滑ちつゝ雷ひも得や名づけも知らにあやしくもいます紳かも︰:・・ も亦之に劣らサ偉大である。此の讐闘士山が既に練られたかどうかは不明とするより外仕方がないであらう。役 小川が登ったといふ伸説は論外として、都艮香の富士山記には小角以外に尊ちたものがないとしてあるが﹁頂上 弔二平地∴駒叫詐里、共頂中央繕下、慣如ご炊慨㌔触武石二紳池㌔地中有二大至。不憫驚苓、宛如二辟虎∴其他 車常有レ嵐、諸州共色純奇∵・=・﹂とある文によると噴火口の中を窺った者があるやうにも思はれる。併し、萬‡人 は的へで斯かる高山に登らうとする興味を起こさなかったであらう。富七山も立山も従来の途次此ハの赦膳な細々 しい姿にうだれで斯かる歌となつたのに過ぎない。神武天皇以来岡見といふ事が歴々行はれたが何れも低山であ って、此の時代には山燕と戦ふ興味はなかつ十∵かゝる興味は修ぬ造と北ハに和まつたのであつて、前葉人の興味 は寧ろ低山にある。 琉楽人の興味が低山にあつた事は我が民族枠を知る上に敢も凱嬰な東である。彼等が特に愛したのは奈良盆地 山岳と日本詩情 三大“
拓松高等商琴蓼校紀元二千六官牢記念論文集 三山ハニ を収り囲むや凡ぢ山々である。杏曳山、耳城山、畝火山∵朝潮山、高閲山、奈良山等小さい乍らも形がとゝの ひ、木が繁った山である。 特に香具山に対する愛斎は古いものがある。天より落ちて釆たといふ倦訟の詳細は不明であるが、和代より以 来此の山が演じた役割こそは⊥代人が此の山に対して抱いでゐた愛着を物語るものであつて、萬梨にも﹁とりよ ろふ大の香具山﹂と云ふ言葉で其の形の発しさを骨貝めてゐる。上代人は怪奇なる発しさを知らない。形の足らは ないものは大祓の言本にもあるが如く非悪でさへあつたのである。閥生みの二面が蛭チ薮産み給ふて川に流した のも、成ひは上代人が死者を忌むのも同じ思想である。故に彼等はコ石根こごしき﹂山を愛しないで、閲ろやか に和やかな奈良盆地の山々を何よりも愛したのである。だから持統天皇の藤原の宵監見めたゝえて、﹁:言柚安 かど の堤の上にれり立たしめし給へば、大和の滞香具山はHのたての︵東︶大御門に容山と茂みさびたてhソ、畝火のこ カど すが のみづ山は日のよこの︵西︶大御門にみづ山と山さびいます。考梨の育菅山はそとも︵北︶の大御門に甘しなへ伸さ くわ かど びたてりJ名細しの碧野の山は影ともの︵柄︶大御門ゆ雲届にぞ鹿くありける・▲■・▼▲・﹂と歌つ㌣のであるが、此の 歌監混むと﹁青山四方に閣ぐり﹂と讃へられ仁奈良盆地に放ける萬楽人の生活がそのま、に限に欺じるやぅな気が するのである。 此の外、三諸山、立旧山、高閲山、二上山と一々撃げたなら際限がないであらうが、嬰するに萬菓人の美ほ飽 くまで調和の発しさであり、平和なる発しさである。従つで拍に入り山に求むるものも氷軍を凌いで吃立する笥
其の理由は梯々考へる寄が出来るであらう。 山岳と日本詩情 岩怪石の豪放な喜びではなかつた。例へば あかときと硬鳥なけど此の峯の木ぬれが上は未だ櫛けし。 の歌の如きは、ゲーテの、、尋ande誌2acht−i註、、の面影さへあるではないか。勿論蚊轍の詩人ゲー一rも薦基人に 比べると造かに照準的であらう。併し彼も亦グロテスクなものを眠恋した調和実の静人であつたっ殊に﹁ウェル テル﹂に見られる、あの自然への欺喜こそは薦装入の欺富でなかったか。 猫逸に於て、文革兜的意味からも、よた時代、背盈、内容からも苗某集に平行するものは猫逸文革の筒山間花 期の輩ミンネザング︵呂nnesang︶であるが、其の到自然態度に於ては潟厘の懸附が布衣する。鵜某集に於ける 人聞は轟音するに自然の山部であつr、自然とともに花喚き、また自然とともに凋落するのであるが、ミンネザ ングの自然は人間に封しで客間を飾る叫つの盛花でしかないであらう。猶逸に於て自然がそのまゝの姿で招諭せ られたのはウエ ルテル等に改めて敬意を表しなければならないであらう。 山の詩が叙事昔に於て貧錫で、叙情詩に於て豊富である革を私は捉潤したが、何故そうなつたのであらうか。 くー ゝ ‖ソ 三上ハ≡
高聡高等商量単校紀元〓千六有年記念論文集 三六四 兜づ箪⋮に常時文字を持ってゐた種族乃至は階級であるが、上代に於ける住民を産葉的に、従ってまた文化的 に置分すれば、海岸放と、平野放と、山間族の三者に償則する事が出来るであらう。 梅岸放は勿論漁葉に従志し、朗溝海部として特殊な配合を形成し、叉文化的にも、粘別の語部を有してゐたか ら、恐らく海洋悼紛なども豊宵に倍承してゐた寄と思はれる。 平野放は富ふまでもなく、曲京紫放であつて、大和朝が小心となーり、或ひは早くから大和朝に蹄順する番により 文化的に混も張接し、古文献は放て此の種族の断産であつた。 之に反して山閥族は各地の山間に鮎在し、荒ぶる紳として、図柄、土蜘蛛、倖椚として、原始床柴に従ってゐ たものと恩はれる。日本武奇が碓氷峠を準ぇ、信濃路より莫濃に出られにと偉へられるのも、かゝる山中にさへ 可成り多く住民がゐた寄生剛提しなければ想像し得られない魔である。彼等は早くから草化に浴したものもあつ たであらうが、叉時としては反抗し、成ひは期絹隠れ里としで孤立の生酒を営んだ詣であらう。例へば踊谷村の 如きも、決して平家の落武者が迫ったのではなく、此の頃から既に鵜民せられてゐ左尋と私は想像する。 それは扱て退き、之等の住民こそ、屁に山と戟ひ、山の恐怖を知り、山の紳を幻想した着である。従って彼等 は部落々々に払て山の叙事詩を豊富にこ鰭承してゐたのに遽ひないのであるが、併し、彼等の生活が地勢上割櫨的 であった馬めに、共同的な犬叙事詩にまで磯屈する轟は稀だつにと考へられる。主ネ十∵ガ、彼等の俸承する叙事 詩を文字に止めたのは平野放でめる。平野族はそれ等の叙事詩に射して冷淡だったであらう。我が先に言った如
く、山の叙事詩が多くは萌芽的状態を扮してゐないのは以上に原因するのでなからうか。殊に大山樽見の紳をは
じめ多くの山紳が出鮮買統であることを想ふべきである。また農党旗は山と戦はない、唯だ之を挑めるだけであ
るから黄塵に叙情詩が畿接する原因があつたのでなからうか。
併し乍ら、右に準へに埋山よりも遥かに盈大な、寧ろ宿命的な理由がある。それは日本人の件柵が叙霊柑的で
なく叙情詩的であるといふ事である。
摘生式士詣−と神政建築とに共通的行アものを輩托した者は必ず、記紀に登場する人物に於ても同株なものを黎見するであらう。之等の人物の仙人としで、どんな顔をしてゐたか、とんな舶怨をしてゐたか明確に描見せられて
ゐる者はないのである。私は屡々不盈蛾に思ふのであるが、摘生式去⋮を造った者は退層まぎれにでも何故落雷
でもするか、簡単な文枝ぐらゐ入れなかつたのであらうか。勿論多少の例外はあるやうであるが、大多数は殆ど
無気味なまでにブランクである。白々しい沈歎である。之に勤しては造型力が炊げてゐたといふ解繹も川東るで
ぁらうが、叉、それと反割に簡素の申にこそ無限の美を尊兄したといふ解繹も成り立つであらうC私は恐らく、 その両方が相寄り相助けT∴〓本的性格を迫り上げたものと思ってゐふが、それは兎も角、上代人が描渇的興味を有しなかつ立寄だけは確かである。此の興味がない以上想像的描罵を基礎とする叙事詩が語展しないのも亦常然
と言はなけれはならない。日本文単に於て短詩形が盈賓な位置をパめてゐるのも此の牲格かちして容易に御絆する事が招来るであらう。
山岳と日本惜議 二〓ハ五高松高等商薬撃校紀元〓千六昔年記念論文集 三六六 第一‖本語そのものが感情的方面に於て替達し論理的に不華確である。仁一本人は論理を愈ばない、何よりも棄持 といふものを愛する民族である。言葉も亦叙述的ではなく、詠嘆的である。此磨に於て短詩形の叙情詩が語法し たのも亦棲めて酋然といはなければならない。 日本人と正反対に立つ者は支那人である。その契術、音楽は日本人の眠から見ると放りにも毒々しい帝都であぃ るが、かゝる民族であってこそ、はじめで、あの山海離に出で釆る妖怪連の如き奇怪像を想像し相克する尊が‖ 釆たのである。怪力乱紳を語る事を戒めたのは支那の聖人であるが、その支那こそ妖怪の本場である。勿論我が 国に於ても妖怪は布衣する・にはしたが、叫切め醜怒、叫切の不調和を罪悪祀する我が固入の仲格は、箪に醜女と か雷細とかと名前丈けに止めて、その描焉、物語に耽ける番はなかつた。我が団の山の叙事詩に於て山紳の揃お がリアールでない事は前に指摘したところであるが、それは凡て此の民族的件格によるものと考へられる。 上代に於ける山岳昔は以上の如くであるが、之が後代のそれと如何にこ闘係してゐるかに就て砦十述べたいと〓心 ふ0 此の欒漫に於て汲も盈要な影埋を及ぼしたものは彿教の渡来、就中修験道の椚現である。修験道は役小角の初 めたものと鰭へられるが、小角はその行状に於ても、叉年驚森的な割に於ても日本のファウス一博士である。 第一、生れた年も五通か六通りか異説があつたと記憶するが軍紀に稚へば箕徳天皐の御代に生れた事になつで ゐる。日本憲異記に従ふと大利嵩木上邦茅原村に生れ、博輿で、惨く彿教を信じ、毎夜打色の憲に来つで飛行し