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近時の日支關係-香川大学学術情報リポジトリ

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(1)

近来、慶賀す可き外交的現象と見らる可きもの1蒜、日玄関係の改善、換言すれば、支部側の封日態度が改

善したることである。

しかして、それ埜ハ月二十八日後表せられた満洲図及北支那間の通草問題解決に規はれ、史に幾分日本品に有

利と富はれる七月二日公布、三日賛魔の南京政府の輸入税則改訂に硯はれたのである〇何ぞや北支部の京津から

山蕗幽を経て奉天に至る鋏邁扱こそは、交通の大動脈であり、内外人共忙最も之を謹んじたものであつたが、瞭

和六年九月十八日浦洲事欒教生以来、双方敵組し過去二年九ケ月間、その交通は断絶してゐたのである。之れ亦

満洲圃を承認せす、その執政者姦賊苧る義政府としては理追的に見て、=聡止む為ざるものがあつ凛 ぁらう。就中昨春我が軍の熱河討略行はる1に及んで、支那人の排日心は竺愴を加へたに違ひなかったっ然る 近時の日支調係

近時 の 日支閲係

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に今春よしや、満絨側宇佐芙絨路局長、後宮顧問、女難側股同、北琴錦道局長問に東方旅行敢を創設する形式を

とり、叉同族行政が浦洲閣及び北支那問の運柑に常るてふ通串細則が協定せられ、浦支開閉を表面に出さゞるこ

七ゝし、適中の嘗を収めたとは言へ、兎も角滴洲囲と支部問の交通関係が常態に復したことは、何人も支那側が

資際上、封日方針を恕和的にした実践として歓迎の念を禁じ得ないであらう。

史らに関税改訂は如何と言ふと、支部はその久しく悩まされてゐた﹁充分﹂関税の拘束を脱却せんと囲った昭

和二年を手始めとし、着々日本品に箕枕を課しっゝあつたが、澗り今回の改訂になると、大嘘として日本よりの

聴入品中汲も重安なる加工綿布、又た海産物等の課税を軽減し、米国系よりも日本系の方、有利に扱はされたと

柄せられてゐる。之れ亦矢張り親日的政策の仙つの現はれたるや疑ひなしと富はねぼならない。

思ふに此二大革質は支那の封日態度を卜せしむる上に於て、憤憶多き現象と断じて善いであらう。だが予を以

てすると、南京政府が比較的に親日的態度に傾いて米たのを物語るものは、弼り之等の二つの苺件のみではな

い。巳にその之道北支部を始め港口、稲塵等に親日政簡を解する人物を配附し来れる経路を検するとき、予は蒋

介石の封日態度が永遠か一時かは別として、日本との安協常に向へることを偲はぬわけにはいかない。

先づ北支郵を見よ。北支部は昨春我が熱河討伐後、張畢艮の退去を見た後、黄邦が政櫨の中心となり、蓑艮、

北平市長として之を助けてゐる。背部は蒋介石と同じく研狂人であるが、夙に日本に遊撃し、陸地測量部に入り、

膵閣の後、清朝政府に仕へ、軍諮府の測温部に居たのであつた。ところが革命が起ったので、南下して革命派に

高聡高等商薬拳校開校十周年記念論文集

(3)

我等が忘れてならぬのは、常に日本に勤し理解を有し、目安掟携の味方たることである。それ竺九二八年我が

済南出兵常時にも示㌢れて居れば、昨年来北支に於ける日支関係改善につきての氏の努力振りでも示されてゐ

名や確滋宜月停戦交渉の成立も、今度通算問題解決も、茸に氏の封日政策によるもの少くなかつたと富はねぼな

ちない。

ところが、之は濁り北支のみではない。南京政府は、日本と閥係少からぬ長江筋の漠口方面にも張群を配して

ゐる。張群が日本士官学校出身であゃ、白本語にも通じて居り、之も日安和挙論者であり、昭和三年四月闘民政

府代表として日本に乗り、轟々働いたことは、知る人ぞ知らう。叉昨秋から本年にかけて内乱を見空相建省に

も、南京政府は、同省が基礎に相近いところから、今や親日分子を配し、双方の好関係を掛りつゝある専管は、

予等がどうしても獣過し得ないところである。

香、否、南京政府の中心には荘兆銘︵精街︶が居る。勿論今日南京政府の中心勢力は依然蒋介石にあり、赤成討

伐中彼が本感としてゐる南員こそ、最終決定の地として螢げられてゐるが、然かも名目的に政府の茸作者たるは、

行政院長の椅子にある注兆銘であらねばならぬ。洋兆銘が夙に日本に留聾し中央大挙にありたる繚故の如きは間

はずとしても、氏が夙に日支親善論を以て立ち、此鮎から末子雲蒋介石の義弟︶孫科︵孫逸仙の子︶等光臨系と寧 ひ来れる歴史は予等がどうしても忘る1を待ざるところであらねぼならぬ。 投じ、第叫、第二の革命軍には陳英美の参謀長として働き、 近時の日支開係 又蒋介石の上官だつたこともあつた。 だが氏匿つき

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かぐの如く緒婁別に疲日系が配附せられてゐる奉賛巧満洲囲問題の存在するにも拘らず、南京国民政府が兎も

角も、目下のところ、日本との安協策に傾けることを詑明するものではなからうか。

勿論、昭和六年九月十八日浦洲事攣七年三月満洲珂建設は、甚しく日玄関係を感化したものであり、之竺

靭にして復曹、曹自の親和状態となり得るものとは断するを得ないのである。殊に日本が求めつ1あり、又満洲 囲が同じく要請しっ1ある、﹁支那観に依る満洲図承認﹂の如きは急に乗り得ないに違ひない。しかも支那をして

急激に滴洲囲地莱を決意せしむることは、無理だと富はねばならぬ。過去の資例を見ると、母国がその曹領土の狩

立を承認するのは退いのが常である。劇八三〇年ベルギーがオランダから濁立すると、イギリス、。シア、フラ

ンス、プロシヤ、オーストリアは竪穴≡年之を承認したが、オランダ自身の承認には九年の年月を要したの

であるUギリシアの潤立も列腿が・ス二七年に承認してから、五年の後にトルコが漸く承認したのであつ駕ま

た香ばしい例ではないが、完〇三年十〓月パナマ共和図の攣止も米圃はわづかに九日後に之を承認したが、母

国コロンビアの承認には十九年を嬰Lた。今日程蒜窟を票る米閲は南米諸国の弼立につき、コロム貰▼の場

合竺八二二年、アルゼンチンの場合竺八二三年に承認⊥たが、母陶スペインの承認竺八三関年までは掛へ

られなかったの′であ空かく考へて来ると、支部に依る満洲周東認を急激に希望するのは、非常識であらねぼな

らぬ。故に日清支摘係が常久的平和の基礎に温かる・ゝ如きはなほ違いであらう。

だが、それにも拘らす﹂最近の支那側に於ける日文親善の動きは、極東閥際政治に留意するもの∼路却し得ぬ 高聡甘何等甜菜拳校開校十周年記念論文箆 四

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ところである。 依つて此﹁日女親善﹂の動きにつき予は少しく朗思を述べやうと思ふ。殊に此動きを翳らすに輿つてカありたる 東部側の内部的事情肥っき少しく観測を試みて見たい。

然らば仰が故に蒋介石の南京政肝は、親日的態度忙傾いて来たか、それには節々の原因球曲があらう。だが内 政的原閲と見らる1ものむ、下に蓮ペやうと思ふ。 顧みると昭和六年九月満洲尉欒畿生すると、支部忙在りても拳固叫致、以て日本に劉抗するの企てが起された のであつたじ即ち同年九月二十日︵清洲事欒勃戦から二日の後︶蒋介石は、廣東猫立政府に勤し﹁困難釆の際、山 梨外敵に懲らんことを望む﹂旨打電し、顔東側は二十二日葉の下野を礫件として安協せんと詮き、南京、廣東南 側の和平合議開催とはなつた。之につき蒋介石は贋東派を安心せしむる馬め京減地方の自己打直系部隊を河南に 移監せしめ、廉束派の陳銘相室兄掲衛戌絶司令に任命し、炭凍軍をして上海附近の警備に常らしめた。而して十 月二十七日から二手﹁日忙官富商京、庚東預備禽議、十叫月の南東側第四朔令豊代表大命、十仙丹、十二月靡東 側弟初期全濃代表密議などがあつたが、鹿東臥は蒋介石の下野を主要礫件として譲らす、その上十二月固際聯盟 珊塾倉の容菊が支部に不利だつたので、滞介石譲歩、茸任の地位を去り、林森を困民政府座席に孫科を行政院長 近時の日支路係

(6)

とし、頗東浜に要位を譲ることによりて、一歩を所謂﹁封日容顔〓致﹂実に進めたのであつた。しかもかくて政楷 を葦鹿した頗東沢は、忽ち財政に膵蹟し、劇月二十二日清江の南京入を飴俵なくするに及んで、贋東波路落し、折 角の挙国一致荒も失虚し爾後満洲事欒に利敵せられ允愈由㌣敦繋は、全く復活の望みなきに至つたのである。否、 之丈けではない。目下の支部の政情を検すると、群雄剤接、不流山甚しくして、日本に封抗し得るの政治的状況 匿あらざることは、どうしても否認し得られぬところである。蒋介石、狂兆銘が善く此窮地を了解せることこ そ、予は現下の封日安協発の田舟なる旨を指摘せねぼならぬのである。 蓋し山九州 側年秋武漢に革命起り、翌一九仙二年二月掃朝退位して以来、支那は各地に軍閥跳梁し、中央の威令 行はれなくなつてゐる。焉めに久しく日本に留堕し、日本の隆盛の原因が明治維新の際、靡薄置願を断行したる に在るを看取せる蒋介石は、劇九二八年︵昭和三年︶張作森を北京より逐ひ、こ1に陶土統一の形腰を牧むると、 直ちに朗謂厳存雷併発を進めたのであつた。 之が方法として、先づ山九二九年三月、政治分合厳止、交渉員厳正を断行した。政治分命とは、地方軍閥が自 ら地方政治を左右する横網であつた。たとへば李宗仁は武漢政治分合毒席として、李臍探は虞東政治分合竜虎と して﹂閥錫山は大原政治分合主席として、碍玉砕は開封政治分合主席として、その支配隈域の政治を支配したも のであつたが、南京の中央政治合議は二九二九年三月土二日、各政治分合の敬治を可決し、直ちに分合を閉鎖す 可きを電命したのである。叉、各省に於て親分封外関係に開興した交渉員に封しては一九二九年八月から十二月 高松高等商業畢校閲校十周年記念論文集

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迄に之を既止することゝし、こゝにも中央集健素養を磯挿したのである。而して之等は兎も舟も形式的に賛行せ

られたけれども、各地軍閥は、左様に簡単に自己の勢力を秘薬するの心がなく、従つてその勢力の根底たる軍隊

の縮小になると、我が武士階級が明治維新に於て自己犠牲を璧挿したると異り、断乎その縮小に應ぜす、途に折

角の洒介石の中央集樺第をして失敗せしむるに至ったのである。

少しく之を訟明せんに、山九二九年頃の支那軍兵数は公式のものが首六十萬であり、外に土匪軍を加ふるときは

二百萬に達してゐた。鵬九一九年頃には全図八十篤と富はれ、一九二三年頃には百二三十萬程度であつたが、そ

れは著しく増加したのであつた。ところで蒋介石は日本の資例に牌トて腰帯畳願を行ふには、不用軍兵の解除と

軍力の中央集横を陶らねばならぬとし、一九二八年巳に幾分之に指を染めたが、わづかに直隷、山束の兵員の山

部を整地し解除し得たに止つたのである。叫九二九年二月南京に編過食議を開き、栽兵を断行する薦め二月仙日

栽兵費として八分利附公債五千萬元を短行したが、之些二月、四月鹿西叛乱討伐費に流用せられ、竜も栽兵は苦

行せられす、報告すらも行はれすに終った。間もなく鴻玉砕と南京政府の寧ひが起ったので、政府は金員を諸将

軍に輿へ横嫌を損せざらんとし、栽兵は二頓挫したのである。秋に入りて政府は栽兵費として八分四厘利附公債

七千萬元を蜃行したが、之も何の賛効をも奏しなかつた。蒋介石は常時﹁困窮牧入四倍五千萬元の内三億九千六

百薦充は軍事費である。此ま1にては固家の財政が六ケしい。その上に地方の牌軍等は膠手に地方に於て軍事費

を胡達し人民を苦しめてゐる﹂と憤慨したが、それは何の反響をも翳らさず、叉蒋介石が建でた軍縮案たる﹁二

近時の日支関係

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腎筒の兵を八十常に減縮し、血筋一千より成る帥圏六十五節とし、濁玉秤、閣錫山、張嬰艮等には各九師︵九萬 九千︶を輿へ、他は中央政府に属せしめん﹂と冨ふ案の如きも、賛硯の望みなくして、叫九二九年は暮れ、仙九 三〇年になると、南京政府封鴻、閣、任聯合の戦争となり、爾後、流石の南京政府も栽兵の語を口にし得なくを ったのである。而して現在正於ける支部の兵員は、絶えず攣化があり、正確には富ひ得ぬけれども、少くとも二 百四五十萬台なりと糾せられ、賛に未曾有の多数となり、中央集権どころではなく、甚しき地方分藤の勢を助長 しっ1あることは、我等がどうしても否認L得ぬと 就中予等をして痛嘆壕しむるものは、現在に於ける政治的勢力の封時、南京政府の無力である。試みに之を詮 明しやう。兜づ南方から鱒ぐると、浜田省は如何、此省は李宗仁、白菜祓の支配下にあるが、此粛清軍は曾って 一九二七年時代蒋介石の下にありて、長江に進撃し、不平を持して之と手を分ったものであり、殆ど﹁不倶戴天 の仇﹂研してゐる。唯目下省内の教育費達、道路尭成に努力してゐるので、兵を外に出さぬのみである。次に鷹 巣省は∵九三山年番以来南京に封し弼韮を唱へたもの、思想的に見ても研漢民の勢力眠く、大腰滞介石の味方ね り経きものがある。唯だ陳臍栄、此頃鴇分蒋介石に接近せるを侍へらる∼も、そは唯だ金銭上よりする川時的打 算によるものに外ならぬのである。輪じて紅躇省に入ると、こ1には端金を首那とする中開リグニット政府が潜 る。∴九二七年二〃賀龍、葉挺等が武漢政府より猫嘉して﹁紅軍﹂を起し、一九三〇年勝介石勘閣満の戦争に爽じ て、江酉、湖南、隔蓮、廣東、湖北、安徽等に舘二歩地紫を造り、今や紅軍二十萬、支配人民五千萬を唱へるに 高怒高等商染拳校開校十周年記念論文集 入

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至った。蒋介石度々之を討伐するも成功の色なく、依然南東政府にとりての放火癌の㌻となつてゐる。乗らに西 北に向ふと、掴川省がある。こゝには劉湘、劉文輝以下諸婿、割接して和傘ひ、久しく南京政府に屈しなかつた のである。之がチベットに於けるイギリス勢力増進の摂食を払ったことは、天下の知る鹿である。何となればチ ベッ トにつき注意せぬ.ぼならぬ四川省の支那官憲は、内軍に化はしくして、チベットを顧みるの飴地がなかった からである。 敢近劉淵幾分申別に欺を逸す告還るゝけれども、心服せりと見るは尚早であらねぼならない。若しそれ北方 に於ける闘鋤山︵山酉省︶がどうしても蒋介石に叩頭し得ざること、韓復巣が表面、勝介石と安協せるが如くにし て、唯だ自己に有利なる南京政府の命を聴くも不利なるも.のを璃かざるの状にあり。南京政府の勢力たる、わづ かに紅蘇、新注、安徽、湖南、湖北、河北、河南等に止まるを見るときは、詐か我が隣国の蔑めにその不統一振 り、依然甚しきを惜しまぬものがあらう。 否之のみではない。こゝに詳鰍に堪ぶる飴裕を持たぬけれども、ソヴモット・ロシアは故近著しく新軽省に活 躍し、之に封Lイギリスも亦た幾分新らしき動きを新酸に飴儀なくせられ、それはチベッ・卜間趨と共に爵祀を値 するものがある。叉フラシスも新らしく雲南省に動いて居り、支那は園内不統山に加へて、又封外聞題益々複雑 化せんとしてゐるのではないか。 巳にかくの如く園内勢力不流山に加へて、外患も亦た容易でないのである。兼して然らば、南京政府が此状勢 近時の日支朋係

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が﹁支部の封日反射活動﹂を困難にするを見、打算的にも我との安協を欲せしむるに至つたことを断言するも、予 は決してその誤謬にあらざるを信ぜんとするのである。 三 Lかし支那の封日態度摂動を滑らしたその内部的事情は、捏由〓数日本に皆るを不可能ならしめてゐる内政 的事情丈けではない。予は屠らにその財政的経臍的事情が亦これを助長したことを疑はぬものである。就中その 排日運動鼓吹の結果、白から傷くるに至つた資験の如きも、此鮎に於て重きを成すものゝ鵬なるを見るのであ る0 乞ふ下に之を述べやう。兜づ支部政府の財政不足は例年のことである。﹂九三仙年度には二億八千酷元の不足 であつたが、血九三二年には覚らに増加して二億五千七百蔵元の不足となつた。昨叫九三三年度は如何と言ふ と、一九三三年五月、国民政将が中央政治倉試に提出した篠笛に依ると、下の如くなるを見るのである。 之を前年に比すれぼ不足の程度を減じた如くであるが、隔建事件、災害救済、共匪討伐等の費用新に加はりた るを思ふと、此程度の不足を以て足る可きや甚しく疑はしいと言はねばならぬ。ところで国民政府は如何にして 歳 入 六億八千萬元︵内、閑磯耽入三億五千四甘琴冗、嘩鱒一億四千六官琴聖 顔 出 八億こ千入官琴宍内、軍静費四億一千五官簡元、債務費l一億四千筒元︶ 不 足 脚億四千八百商元 高松高等商染拳校閲硬十周年記念論文集

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比較の財政不足を補って雅たかと富ふと、それは財閥からの借入金に仰いで釆たのである。・今試み忙民国畝年以

来、中央政府は如何に内観公債を蟄行し釆たかと見ると、完三三年末までの2ころにて内園公債費行は五十八

程に上り、内北京政府磯行のもの二十八錘、武漢政府潜行のもの一辟、南東政府費行のもの二十九種に亙り、そ

の金額十七億六千育十革帯二千七百八十二元に達したのであるeしかして完三三年十二月に於て膵年償還及回 収せるものを除くと、現存朝九億言七百七十国富五千充百五十克と科せらる1。北京財政盤理委員合資行の財

政瓢所管不確賛塘保内便衣に列記せられてゐるその他の短期囲庫音容約七十柾、攣向四千五十四萬元、贋東固民

政府十五年度俊行公債埜竺千九百八萌元及び武漢閑居政府畿行の渓Ⅵ固庫八百五十九萬九千五十三元等は之を

含んでゐないのである。若し全部を合算すると、内債堵高九倍八千二百十六萬四千八百七充に達してゐる。なほ

叉右の内、囲民政府が北伐成功の年たる完二八年から以後年々内債を改行した金額を紹介すると下の如くであ

る0 年 次 ︼九二八年 一九二九年 一九一ニ○年 ︼九≡一年 仙九ニ≡年 近時の日支鯛係 内債密行貌 山億〇三百薦元 二億四賃二百萬元 一億七千四官萬元 四億一千禿首潟元 ○ ヾ

(12)

仙九三三坪 山億二千四官親元 ︵山九三二年には市鬱状勢薗白からずして、野市するを綽なかつたのである。︶ 而して南京政府の内偵は、′新江財閥︵蒋介石の同郷人系︶の支持によるもの多く、政府は賓際引受高七〇又は七 五見富に封して額面に射する九分内外の利ナを輿へ、彼等をも刺したものであつた。又血つには支部内地動乱甚 しく、地方富豪連は止むを得ず、銀を携へて上海方面に逃れ、焉めに嘲般の公債應寡上、便宜ある事情教生し、 かくて漸く宜顧の内偵を消化せしめたのであつたいだが此状勢のま1にて、囲民政府の財政が重度なきを得るや は、関越たらざるを待ぬのである。何となれば費用僅々増加し易きところに、図民の苦境の馬め若干親税の減免 を期せねぼ怒らぬ国民政府の財政には、今や世人は漸く疑健の念を生じてゐるからである。 殊・に内外人をして垂悌に堪えぎらしむるものは、政府財政の基礎たる吋き支部国民の経済そのものが、非常に 窮状に立ってゐることである。 誰も知るやうに支部は曲京菜観であり、四億の入口中三憶三千六日萬は農民である。︵土坤所有者こ憶五千常、 借地人叫倍三千六雷蔵、琴某労働者三千萬、英他遊民、匪、年商二千萬︶その内十畝以下の土地所有者及び小作 人等を加へて負農二億三千濁と富はれてゐるが、之等は如何なる窮境にあるかは仙年に於ける〓琴族︵山個人に あらす︶の収入が、わづかに百五十元以下なるもの、最洩多しとされてゐるのせも分るであらう。 ︵備考.一家髄〓年収入官五十元以下のものは、河北省農民の入割二分牛、安徽省忙て、は五割〓分、江蘇禽五割二分牛、 高松高等商量登校開校十周年記念論文集

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耐年共に、その輸出額は輸入額の年分にも連Lないのは、驚く好き現象ではなからうか。然かも変らに進んで 如何なるものが輸入せらる1かを検すると、 断江者六剖四分三度主旨はれてゐる。他の滞者は之忙劣るもの㍉さ︵多かる可しと推せられてゐる・︶ 然かも之撃農民が中大、地方官意の蔑め盗まゝに高枕を課せられ、流石の南京政府も之等に封する滅釈第を辞 するの止むなきに至ってゐるのは、何ごとを物語ると冨へるであらうか。 殊に我等が注意せねばならぬのは、農薬尉たる支那が、年々多顧の食料品の輸入を飴儀なくされつゝあること である。然かも牡牛に於てそれは、増加の勢を示してゐるのを忘れてはならぬのである。試みに山九三二年及一 九三三年の貿易額を見よ? であり、穀物中には米最も多く、小穿之に次ぎ、︰蓼粉之に次げるを見ると、何人も農薬閻の支那の疲弊を思は ねぼならぬであらう。殊に此入超が毎年鳩摸した今日、他方に於て在外支那人の迭金等貿易外の牧人も減少し、 支部は今や之が差額の支彿方法に苦しみ、止むを得す、わづかにある金銀の輸出を以て之が喋補を企て、それも 穀物及穀粉輸入 砂 槍 輸 入 丁九三三年度 エ九三二年度 近時の日支調係 輸入十六億三千綱百萬元、輸出七億六千七官萬元、入超八億六千薔元 入超七億三千濁元 輸入十三億四千親元、 輸出六倍二千萬九、 劇九三二年 三億こ千九百親元、叫九三三年 二億七千萬克 則九三三年 四千こ官爵元 則九二三奉 七千萬元、 二ニ

(14)

高松高等商染拳校閲校十周年記念論文集

六ケ⊥きまゝに、完三=毎度の如き、購買力減じ、止むを待ず、入超朝の減少を翳らすに至ったのである。之

れ完三三年中図銀行の報督が﹁梶木の差禦入撃は無形の入超によつて祈ふを得たが、丁孔三二年に至っては

それ竺ハケしく怒り、金銀合計に於て輸出が輸入よりも多く、完三三年に於ては、玉顔の地金の輸出があつた

にも拘らず地銀が妄四百琴冗出超をなした。之れ貿易史上掘れに見るところである。貨物の輸出と無形の収入

を以てしても、翰際的支彿に不十分であるとき蜂、勢ひ従来蓄積されたる通貨を以て此差祁を補ふの外、仕方が

ない。それは圃民鮭溶が極めて危険なる黙に達したことを示してゐる﹂と道破し、叉別に﹁叫九三三年度によつ

て明完三園年度を推測するに、掛民経済の破盛佐瀬することは、飴り速くないと思はれる﹂と言明せるにも反

映せる大窮境に外ならぬのである0

かくの如く囲民経済が窮境に陥れるとき、図民政府の財政は如何にしても改善し得やうはない。同時に支部政

府が、′よしや浦洲問題あるにしても、その排日、抗日策を進むるの財政的経済的地位にあらざるや、白から明僚

なものがあるではなからうか。

殊に叉近年支那側が排日抗日む補遺したる結果、却って痛く在外安部人の財力を管し、緒エて支那本圃の利益

を害した革質は、別箇の意味に於て吏らに支那人の反省を促Lたのである。

顧みるに、在外支部人即ち華僑の人口数につきては、統計不完全であるが、大腰千二百萬と科せられ、内﹂南

洋にあるやのとしては、鳳来牛島打七十八琴ビルマ三十二萬、シャム三百五十萬、安歯五十議、誓ヴァ百

(15)

割五分、ジャブ丁の八割、シャムの殆んど全部は彼等の平にあり。然かも紋等は久しく日本品取扱に於て窟利を 博してゐたものであつた。然るに軸九三一年︵昭和六年五月沸洲寄件以来、彼等は排日発から日貨取扱を中止し 牢のであつたが、賛蹟を見ると、之が焉め彼等は低廉なる月貸からの利益を受くるを得す↓却って日商の磯展を 誘ひて、彼等として大損害を経験するに至ったのである。蔑めに串攣糾少くと軋こ年三億克と言はれた彼等の封 故国迭金融も減少し、一九三二年には二部減、仙九三三年には八割減となり、蔑めに華僑申、事柴を閉鎖して踵 閲するものさへ絞出したのである。香努二般的に見て海外行移民多き支那は咋山九三三年度には港外渡航移民数 わづかに十三萬なりしに封し昂固着二十七萬の多きを示したのである。之も準備不振の詮である。而して之が馬 めに、支那人漸く排日の愚を悟れることも亦た故近の封日熊度柁和に封する叫助閑たるや、亦、疑ひを容れぬと ころであらう。 四 以上詮き来ったところ、不十分だが、大腰魚近文郡の封日熊度顔和につきての内部的原因を示し得たと考へ る。而して此内部的原因は一朝仙夕に滑滅し得ぬものである。そこに日安閑係の急激なる態化を防止する寄情の 存在を見る可きであらう0 二十三筒と数へられてゐる。而Lて華僑は商業に教厳して居り盛雄牛島の商業の八割、ビルマの五割、か 近時の日支闇係

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しかし、固際的摘係は活物であり、欒遷固より期す可からざるものがある。萬叫、日本と英米との関係、太平 洋上の拷問竃等が困難化する如き大欒化あるときは、支那の動きも橡め知る町からざるものがある。何となれば 支部今日の封日妥協は根本的なる親日政籠の賜ではなくて、単に時局に関する打算に命ぜられてゐるに過ぎぬか らである。故に予は刻下の形勢をこそ解剖したれ、放て勝木紛緋せる太や洋政局に於ける支那の地位をまで預言 するわけではないのである。此鮎を特記して、予は小党づ目安現下関係の解剖たる本文を終らうと思ふ。 高東電等商業畢校開校十周年記念論文集

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