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伊勢神宮の創祀 : 日本民俗学の古代王権論

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(1)

創祀

 

日本民俗学の古代王権論

   

新谷尚紀

Ise Shrine Japanese F olklore T

heories on the Ancient Imperial T

hr one 田 國 男 を 中 心 と し て 折 口 信 夫 の 参 加 に よ っ て 創 始 さ れ た 日 本 民 俗 学 を 継 承 す る 立 る 伊 勢 神 宮 の 創 祀 を め ぐ る 試 論 で あ る 。 結 論 と し て 得 る こ と が で き た の は 以 下 の 伊 勢 神 宮 の 創 祀 の 歴 史 的 過 程 に つ い て は 、 推 古 朝 に お け る 日 神 祭 祀 、 斉 明 朝 に お 祀 世 界 の 吸 収 、 持 統 朝 の 社 殿 造 営 と 行 幸 、 と い う 三 つ の 画 期 が あ っ た 。 確 実 な 伊 は 天 武 二 年( 六 七 三 )四 月 の 大 来 皇 女 の 泊 瀬 の 斎 宮 へ の 籠 も り か ら 翌 三 年( 六 七 四 ) へ の 出 発 の 段 階 で あ る 。 そ し て 、 持 統 六 年 ( 六 九 二 ) の 伊 勢 行 幸 に 際 し て 社 殿 の て い た こ と は 確 実 で あ る 。 そ れ は 律 令 制 的 な 税 制 度 の も と で の 伊 勢 神 宮 の 造 営 で ( 藤 原 京 ) と い う 新 た な 都 城 の 造 営 と 対 を な す 国 家 的 事 業 で あ っ た 。 政 治 権 力 の 律 令 制 と 都 城 制 、 に 対 応 す る 宗 教 権 威 の 基 盤 と し て の 神 祇 制 と 官 寺 制 、 と い う 律 の も と で 、 そ の 神 祇 制 の 中 核 と し て の 意 義 を も つ 伊 勢 神 宮 の 造 営 と 祭 祀 が そ こ に で あ る 。 そ し て 、 天 照 大 神 の モ デ ル と な っ た の は 高 天 原 広 野 姫 天 皇 を そ の 謚 号 と で あ っ た 。 た だ し 、 伊 勢 神 宮 の 創 祀 の 意 味 は こ の よ う な 歴 史 的 な 事 実 関 係 の 追 跡 重 要 な 点 が 見 え て こ な い 。『 記 紀 』 に な ぜ 出 雲 神 話 が 存 在 す る の か と い う 問 題 も 大 社 の 祭 祀 と 対 を な す も の と と ら え る と き 、 は じ め て 大 和 王 権 の 祭 祀 世 界 が 見 え 部 〉 と し て の 出 雲 、 と い う 概 念 設 定 が 有 効 な の で あ る 。 そ し て 、 以 下 の 点 が 指 摘 と 持 統 の 大 和 王 権 を 守 る 装 置 と し て 位 置 づ け ら れ た の が 、 伊 勢 と 出 雲 と い う 東 西 両 端 の 象 徴 的 霊 威 的 存 在 で あ っ た 。 王 権 神 話 で 政 治 は 皇 孫 に 、 神 事 は 大 己 貴 神 に と の 分 業 を 語 る と と も に 、 そ れ は 同 時 に 、 朝 日 ( 日 昇 )― 夕 陽 ( 日 没 )、 東 方 ( 対 外 的 安 全 領 域 た る 太 平 洋 の 海 辺 )― 西 方 ( 対 外 緊 張 の 日 本 海 の 海 辺 )、 太 陽 ― 龍 蛇 、 陽 ― 陰 、 陸 ( 新 嘗 祭 ) ― 海 (神 在 祭) 、 現 世 (顕 世) ― 他 界 (幽 世) 、 と い う 対 照 性 の コ ス モ ロ ジ ー の 中 に 位 置 づ け ら れ る 関 係 性 で あ っ た 。 七 世 紀 末 か ら 八 世 紀 初 頭 に か け て 成 立 し た 天 武 ・ 持 統 の 大 和 の 超 越 神 聖 王 権 と は 、〈 外 部 〉 と し て の 出 雲 、 の 存 在 を 必 要 不 可 欠 と し た 王 権 だ っ た の で あ る 。 出 雲 の 祭 祀 王 に と っ て 龍 蛇 祭 祀 と は 毎 年 繰 り 返 さ れ る 外 来 魂 の 吸 収 儀 礼 で あ り 、 一 方 、 大 和 の 祭 祀 王 が 新 嘗 祭 と 大 嘗 祭 に 先 立 っ て 執 行 す る 鎮 魂 の 祭 儀 も 外 来 魂 の 吸 収 儀 礼 で あ る 。 そ の よ う な 外 来 魂 の 吸 収 と い う 呪 術 的 霊 威 力 の 更 新 の 儀 礼 と 信 仰 を 大 和 の 王 権 が 獲 得 し そ れ を 内 部 化 で き た の は 、出 雲 の 祭 祀 王 権 と の 接 触 に よ っ て で あ り 、〈 外 部 〉 と し て の 出 雲 、の 設 定 に よ る も の で あ る 。 天 皇 の 鎮 魂 の 祭 儀 と は 、 外 来 魂 を 集 め る む す び ( 結 び ) と む す ひ ( 産 霊 )、 そ の 外 来 魂 を 天 皇 の 身 体 に 定 着 さ せ る た ま ふ り ( 鎮 魂 )、 そ う し て 内 在 魂 と な っ た 天 皇 の 霊 魂 を 増 殖 し 活 性 化 さ せ る た ま し ず め ( 鎮 魂 )、 そ し て そ の 天 皇 の 創 造 力 豊 か な 増 殖 す る 内 在 魂 を 臣 民 へ と 分 与 す る み た ま の ふ ゆ ( 皇 霊 之 威 ・ 恩 頼 ) ま で を 含 む も の で あ り 、 天 皇 と い う 存 在 と 機 能 の 基 本 が そ の 霊 魂 力 ( 生 命 力 ) の 不 断 の 更 新 と そ の 分 与 に あ る と い う こ と を 示 す 。 こ の 王 権 論 を 普 遍 化 す る 視 点 か ら い え ば 、 カ ー ル ・ ポ ラ ン ニ ー Karl Polanyi の い う と こ ろ の 、 中 心 性 centricity と 再 分 配 redistribution の 構 造 と み る こ と も で き る 。 の構成歴史の中の伊勢神宮伊勢神宮と出雲大社 結論 akanori

(2)

伊勢神宮

創祀

 

日本民俗学の古代王権論

   

新谷尚紀

T he Origin of Ise Shrine Japanese F olklore T

heories on the Ancient Imperial T

hr one [論文要旨]   本 論 文 は 柳 田 國 男 を 中 心 と し て 折 口 信 夫 の 参 加 に よ っ て 創 始 さ れ た 日 本 民 俗 学 を 継 承 す る 立 場 か ら 提 出 す る 伊 勢 神 宮 の 創 祀 を め ぐ る 試 論 で あ る 。 結 論 と し て 得 る こ と が で き た の は 以 下 の 諸 点 で あ る 。 伊 勢 神 宮 の 創 祀 の 歴 史 的 過 程 に つ い て は 、 推 古 朝 に お け る 日 神 祭 祀 、 斉 明 朝 に お け る 出 雲 の 祭 祀 世 界 の 吸 収 、 持 統 朝 の 社 殿 造 営 と 行 幸 、 と い う 三 つ の 画 期 が あ っ た 。 確 実 な 伊 勢 神 宮 の 造 営 は 天 武 二 年( 六 七 三 )四 月 の 大 来 皇 女 の 泊 瀬 の 斎 宮 へ の 籠 も り か ら 翌 三 年( 六 七 四 ) 一 〇 月 の 伊 勢 へ の 出 発 の 段 階 で あ る 。 そ し て 、 持 統 六 年 ( 六 九 二 ) の 伊 勢 行 幸 に 際 し て 社 殿 の 造 営 が 完 了 し て い た こ と は 確 実 で あ る 。 そ れ は 律 令 制 的 な 税 制 度 の も と で の 伊 勢 神 宮 の 造 営 で あ り 、 新 益 京 ( 藤 原 京 ) と い う 新 た な 都 城 の 造 営 と 対 を な す 国 家 的 事 業 で あ っ た 。 政 治 権 力 の 基 盤 と し て の 律 令 制 と 都 城 制 、 に 対 応 す る 宗 教 権 威 の 基 盤 と し て の 神 祇 制 と 官 寺 制 、 と い う 律 令 国 家 の 体 系 の も と で 、 そ の 神 祇 制 の 中 核 と し て の 意 義 を も つ 伊 勢 神 宮 の 造 営 と 祭 祀 が そ こ に 完 備 さ れ た の で あ る 。 そ し て 、 天 照 大 神 の モ デ ル と な っ た の は 高 天 原 広 野 姫 天 皇 を そ の 謚 号 と す る 持 統 天 皇 で あ っ た 。 た だ し 、 伊 勢 神 宮 の 創 祀 の 意 味 は こ の よ う な 歴 史 的 な 事 実 関 係 の 追 跡 か ら だ け で は 重 要 な 点 が 見 え て こ な い 。『 記 紀 』 に な ぜ 出 雲 神 話 が 存 在 す る の か と い う 問 題 も 含 め て 、 出 雲 大 社 の 祭 祀 と 対 を な す も の と と ら え る と き 、 は じ め て 大 和 王 権 の 祭 祀 世 界 が 見 え て く る 。〈 外 部 〉 と し て の 出 雲 、 と い う 概 念 設 定 が 有 効 な の で あ る 。 そ し て 、 以 下 の 点 が 指 摘 で き る 。 天 武 と 持 統 の 大 和 王 権 を 守 る 装 置 と し て 位 置 づ け ら れ た の が 、 伊 勢 と 出 雲 と い う 東 西 の 海 に 面 し た 両 端 の 象 徴 的 霊 威 的 存 在 で あ っ た 。 王 権 神 話 で 政 治 は 皇 孫 に 、 神 事 は 大 己 貴 神 に と の 分 業 を 語 る と と も に 、 そ れ は 同 時 に 、 朝 日 ( 日 昇 )― 夕 陽 ( 日 没 )、 東 方 ( 対 外 的 安 全 領 域 た る 太 平 洋 の 海 辺 )― 西 方 ( 対 外 緊 張 の 日 本 海 の 海 辺 )、 太 陽 ― 龍 蛇 、 陽 ― 陰 、 陸 ( 新 嘗 祭 ) ― 海 (神 在 祭) 、 現 世 (顕 世) ― 他 界 (幽 世) 、 と い う 対 照 性 の コ ス モ ロ ジ ー の 中 に 位 置 づ け ら れ る 関 係 性 で あ っ た 。 七 世 紀 末 か ら 八 世 紀 初 頭 に か け て 成 立 し た 天 武 ・ 持 統 の 大 和 の 超 越 神 聖 王 権 と は 、〈 外 部 〉 と し て の 出 雲 、 の 存 在 を 必 要 不 可 欠 と し た 王 権 だ っ た の で あ る 。 出 雲 の 祭 祀 王 に と っ て 龍 蛇 祭 祀 と は 毎 年 繰 り 返 さ れ る 外 来 魂 の 吸 収 儀 礼 で あ り 、 一 方 、 大 和 の 祭 祀 王 が 新 嘗 祭 と 大 嘗 祭 に 先 立 っ て 執 行 す る 鎮 魂 の 祭 儀 も 外 来 魂 の 吸 収 儀 礼 で あ る 。 そ の よ う な 外 来 魂 の 吸 収 と い う 呪 術 的 霊 威 力 の 更 新 の 儀 礼 と 信 仰 を 大 和 の 王 権 が 獲 得 し そ れ を 内 部 化 で き た の は 、出 雲 の 祭 祀 王 権 と の 接 触 に よ っ て で あ り 、〈 外 部 〉 と し て の 出 雲 、の 設 定 に よ る も の で あ る 。 天 皇 の 鎮 魂 の 祭 儀 と は 、 外 来 魂 を 集 め る む す び ( 結 び ) と む す ひ ( 産 霊 )、 そ の 外 来 魂 を 天 皇 の 身 体 に 定 着 さ せ る た ま ふ り ( 鎮 魂 )、 そ う し て 内 在 魂 と な っ た 天 皇 の 霊 魂 を 増 殖 し 活 性 化 さ せ る た ま し ず め ( 鎮 魂 )、 そ し て そ の 天 皇 の 創 造 力 豊 か な 増 殖 す る 内 在 魂 を 臣 民 へ と 分 与 す る み た ま の ふ ゆ ( 皇 霊 之 威 ・ 恩 頼 ) ま で を 含 む も の で あ り 、 天 皇 と い う 存 在 と 機 能 の 基 本 が そ の 霊 魂 力 ( 生 命 力 ) の 不 断 の 更 新 と そ の 分 与 に あ る と い う こ と を 示 す 。 こ の 王 権 論 を 普 遍 化 す る 視 点 か ら い え ば 、 カ ー ル ・ ポ ラ ン ニ ー Karl Polanyi の い う と こ ろ の 、 中 心 性 centricity と 再 分 配 redistribution の 構 造 と み る こ と も で き る 。 はじめ 論点整理 ❷「神話と歴史」 の構成歴史の中の伊勢神宮伊勢神宮と出雲大社 結論 SHINT ANI T akanori

はじめ

  この民俗学の小さな試論は、伊勢神宮の創祀という大きな問題に対し て、柳田國男を中心として折口信夫の参加の中で創生された学究の視点 から、一定の仮説を提出してみるものである。柳田も折口もその民俗学 の中心的な課題として日本の神とは何かという問題を追い続けた。そし て、その成果は祖霊論やまれびと論として知られているが、筆者もその 文 脈 に そ い な が ら か つ て 拙 著『 ケ ガ レ か ら カ ミ へ 』 〔 木 耳 社 一 九 八 七 〕 に おいてケガレの逆転からカミが生まれるという拙論を提示した。 しかし、 その分析視点は神々の誕生のメカニズムという理論的な問題に関するも のであり、具体的な神社の創祀についての事例研究ではなかった。伊勢 神宮の創祀という問題は、日本の歴史と文化を考える上でもっとも重要 な問題の一つであり、これまで文献史学の立場から膨大な研究蓄積があ る。しかし、具象と抽象の両界にわたる現象を解析する必要があるこの 伊勢神宮の創祀というような深遠なテーマの場合には、柳田や折口のよ うな歴史視界をもつ日本民俗学の参加による研究の推進も必要ではない かと考える。本稿は、 その日本発の民俗学の視点から、 『古事記』や『日 本書紀』また『隋書』などの文献史料とこれまでに発掘されている考古 学的な遺物資料などの諸資料が伝えているところの多様な伝承情報を広 く比較論的に整理し分析してみることによって新たな学説を提示してみ るものである。

論点整理

先学の諸説     伊勢神宮の創祀というのは実に大きな問題であり、神 社関係者や古代史関係者の間でこれまで多くの研究が行なわれてきてい る。しかし、それ以外の分野の研究者からの論文は逆に非常に少ないの が現状である。研究者の立場や視点を反映してそれぞれ特徴的な論点が 示されているが、以下のテーマにそって整理すれば、大きく二つの立場 に分類される。   第一の論点は、天照大神が伊勢に祭られるのがいつの時代かという点 である。これには、大別して古いとみる説と新しいとみる説との両者が ある。古いとみる説は、たとえば田中卓氏 (( ( に代表されるもので『日本書 紀』の崇神・垂仁紀の記事を信頼すべきであるとする説である。歴史年 代を比定してそれを三世紀後半から四世紀初頭とみる。新しいとみる説 は、 た と え ば 津 田 左 右 吉 (( ( 氏 は 推 古 朝 の こ ろ と 推 定 し、 直 木 孝 次 郎 氏 (( ( は 先行する伊勢の地方神はあったものの壬申の乱に勝利した天武朝におい て で あ ろ う と い う。 第 二 の 論 点 は、 な ぜ 伊 勢 の 地 か と い う 問 題 で あ る。 これにも大別して二つの見解がある。一つは大和王権にとって伊勢は東 国進出の拠点であったからだとみる説であり、もう一つは伊勢は大和か ら東の方角、太陽の昇る方角にあたるからだという説である。田中卓氏 は前者で大和朝廷の東国進出と関係があるとみる見解に立ち、桜井勝之 進氏 (( ( は後者でそれとは関係ないとする見解に立っている。そして、丸山 二郎氏 (( ( や直木孝次郎氏はこの両者を併せる立場をとっている。第三の論 点は、伊勢の地に先行の神社と祭祀があったとみる説とそれはなかった とみる説とである。あったとみるのが瀧川政次郎氏 (( ( 、直木孝次郎氏、田 中卓氏、田村円澄氏 (( ( などであり、なかったとみるのが桜井勝之進氏であ る。   つまり、神社史や古代史の重要な問題であるにも関わらず、この伊勢 神宮の創祀という問題は論者によって見解の相違が大きく実はまだ十分 な検証が尽くされてはいないというのが現状であるといってよい (( ( 。筆者 の専門は日本民俗学であるが、柳田國男や折口信夫の学究姿勢に学びな がら、この大きな問題に少しだけでも取り組んでみることにしたい。

(3)

『古事記』 と『日本書紀』    まず指摘しておきたいのは、伊勢神宮の創 祀 と い う 問 題 に 関 す る 文 献 史 料 と し て は、 『 古 事 記 』 ( 和 銅 五 年( 七 一 二 ) に 太 安 万 侶 に よ り 撰 上 ) と『 日 本 書 紀 』 ( 養 老 四 年( 七 二 〇 ) に 舎 人 親 王 を 総 裁 と す る 編 纂 者 集 団 に よ り 撰 上 ) し か な い、 と い う 事 実 で あ る。 こ れ は 重要な事実である。それ以外の、たとえば延暦二三年(八〇四)三月に 度会宮禰宜五月麻呂、内人神主山代・同御受・同牛主らより神祇官を経 て 太 政 官 に 奏 上 さ れ た 解 文 で あ る『 止 由 気 宮 儀 式 帳 』、 ま た、 同 年 八 月 に宮司大中臣真継、禰宜荒木田公成、大内人宇治土公磯部小紲らによっ て神祇官に進上された解文『皇大神宮儀式帳』は、現存する伊勢神宮最 古の文献ではあっても、すでに天武・持統朝の神宮祭祀の整備の時点か らみればはるかに長い時間、つまり一〇〇年以上の時代が過ぎ、また奈 良朝の複雑な政治抗争を経たあとの平安朝における記録である。いわゆ る天武皇統から天智皇統への転換や、皇親勢力から外戚官僚勢力への転 換、などの大きな政治的転換を経たあとの時点における記録である。そ こに神宮創祀に関する情報が記されていても、それは多くの利害関係に よる潤色や創作が加えられているものといわざるをえない。伝承情報と しても、西暦八〇四年の時点で語られ記されている歴史情報に、それよ りも一〇〇年、二〇〇年以上も前の確実な史実の情報が混在している可 能性はむしろ少ない。それは、大同二年(八〇七)の斎部広成の撰述と される『古語拾遺』の記事の場合も同様である。そこに記されている記 事に記紀の内容とは異なる伝承がみられるとはいっても、それはすでに 一〇〇年近くも後の記録であり、かつ前述のように政治状況も大きく変 化 し た 時 点 で の 記 録 情 報 に 過 ぎ な い。 『 弘 仁 私 記 』 な ど が 引 く 史 料 情 報 も同様であり、さらには『釈日本紀』関係の記事などこの問題について の論拠にすることはできない。   つまり、伊勢神宮の創祀を語る情報資料としては、八世紀初頭の律令 国家体制の成立期に編纂撰上された『古事記』と『日本書紀』しかない のであり、それ以外の文献はここでは除外すべきであると考える。むや みに後世の関連文献の情報には惑わされない、という情報解読の上での 基本的な視点の重要性をまずは提案しておきたい。   では、その 『古事記』 と 『日本書紀』 とはどのような文献であるのか。 まず注意しておいてよいのは、家永三郎氏が『日本書紀』 (岩波版の日本 古 典 文 学 大 系 本 ) の 解 説 で 述 べ て い る (( ( よ う に、 『 日 本 書 紀 』 は、 そ の 成 立 直 後 か ら 購 書 が 開 始 さ れ、 そ の 後 も 常 に 古 典 と し て 重 ん じ ら れ て き て、 古写本にも八世紀にさかのぼるものもあり、その数も『古事記』のそれ に 比 べ て は る か に 多 い ((( ( の に 対 し て、 『 古 事 記 』 は 久 し く 後 人 の 注 目 を 引 かず、一八世紀に入って本居宣長がその価値を力説するまで古典として 重 視 さ れ る こ と は な か っ た と い う 事 実 で あ る。 つ ま り、 『 古 事 記 』 は 現 存の古写本も一四世紀の真福寺本以前には、現に知られている註釈の試 みも一三世紀の卜部兼文の「古事記裏書」より以前にさかのぼるものは 見出せない状態である ((( ( 。      もちろん『古事記』の古典的価値の高さはその言語をはじめ内容の上 で も い う ま で も な い。 し か し、 『 日 本 書 紀 』 と 比 べ る と、 そ の 伝 来 に つ い て は 不 明 の 部 分 が 多 い 書 物 で あ る と い う こ と は 考 慮 し て お く 必 要 が あ る。 ま た、 『 古 事 記 』 の 筆 録 者 で あ る 太 安 万 侶 が、 一 方 で は『 日 本 書 紀 』 の 編 修 に 参 加 し た と 諸 書 は 伝 え る が、 そ れ に つ い て は 疑 問 が 残 る。 つ ま り、 そ の 太 安 万 侶 が 参 加 し た と い う 記 事 が 見 え る の は、 弘 仁 四 年 ( 八 一 三 ) の 多 おおのひとなが 人 長 の 撰 に な る『 日 本 書 紀 』 の 講 書 の 講 義 録『 弘 仁 私 記 』 の序においてが初見である点、また、 『日本書紀』がまったく『古事記』 を無視している点、同様に『古事記』も『日本書紀』の編纂事業につい てその序などでまったく言及していない点、そして、多人長自身が太安 万侶と同じ多(太)氏として同族的な系譜意識と顕彰意識がうかがえる という点、などからの疑問である。それらの事実からはむしろ、多人長 撰の『弘仁私記』序において、太安万侶が史書の編纂に当たったという

(4)

『古事記』 と『日本書紀』    まず指摘しておきたいのは、伊勢神宮の創 祀 と い う 問 題 に 関 す る 文 献 史 料 と し て は、 『 古 事 記 』 ( 和 銅 五 年( 七 一 二 ) に 太 安 万 侶 に よ り 撰 上 ) と『 日 本 書 紀 』 ( 養 老 四 年( 七 二 〇 ) に 舎 人 親 王 を 総 裁 と す る 編 纂 者 集 団 に よ り 撰 上 ) し か な い、 と い う 事 実 で あ る。 こ れ は 重要な事実である。それ以外の、たとえば延暦二三年(八〇四)三月に 度会宮禰宜五月麻呂、内人神主山代・同御受・同牛主らより神祇官を経 て 太 政 官 に 奏 上 さ れ た 解 文 で あ る『 止 由 気 宮 儀 式 帳 』、 ま た、 同 年 八 月 に宮司大中臣真継、禰宜荒木田公成、大内人宇治土公磯部小紲らによっ て神祇官に進上された解文『皇大神宮儀式帳』は、現存する伊勢神宮最 古の文献ではあっても、すでに天武・持統朝の神宮祭祀の整備の時点か らみればはるかに長い時間、つまり一〇〇年以上の時代が過ぎ、また奈 良朝の複雑な政治抗争を経たあとの平安朝における記録である。いわゆ る天武皇統から天智皇統への転換や、皇親勢力から外戚官僚勢力への転 換、などの大きな政治的転換を経たあとの時点における記録である。そ こに神宮創祀に関する情報が記されていても、それは多くの利害関係に よる潤色や創作が加えられているものといわざるをえない。伝承情報と しても、西暦八〇四年の時点で語られ記されている歴史情報に、それよ りも一〇〇年、二〇〇年以上も前の確実な史実の情報が混在している可 能性はむしろ少ない。それは、大同二年(八〇七)の斎部広成の撰述と される『古語拾遺』の記事の場合も同様である。そこに記されている記 事に記紀の内容とは異なる伝承がみられるとはいっても、それはすでに 一〇〇年近くも後の記録であり、かつ前述のように政治状況も大きく変 化 し た 時 点 で の 記 録 情 報 に 過 ぎ な い。 『 弘 仁 私 記 』 な ど が 引 く 史 料 情 報 も同様であり、さらには『釈日本紀』関係の記事などこの問題について の論拠にすることはできない。   つまり、伊勢神宮の創祀を語る情報資料としては、八世紀初頭の律令 国家体制の成立期に編纂撰上された『古事記』と『日本書紀』しかない のであり、それ以外の文献はここでは除外すべきであると考える。むや みに後世の関連文献の情報には惑わされない、という情報解読の上での 基本的な視点の重要性をまずは提案しておきたい。   では、その 『古事記』 と 『日本書紀』 とはどのような文献であるのか。 まず注意しておいてよいのは、家永三郎氏が『日本書紀』 (岩波版の日本 古 典 文 学 大 系 本 ) の 解 説 で 述 べ て い る (( ( よ う に、 『 日 本 書 紀 』 は、 そ の 成 立 直 後 か ら 購 書 が 開 始 さ れ、 そ の 後 も 常 に 古 典 と し て 重 ん じ ら れ て き て、 古写本にも八世紀にさかのぼるものもあり、その数も『古事記』のそれ に 比 べ て は る か に 多 い ((( ( の に 対 し て、 『 古 事 記 』 は 久 し く 後 人 の 注 目 を 引 かず、一八世紀に入って本居宣長がその価値を力説するまで古典として 重 視 さ れ る こ と は な か っ た と い う 事 実 で あ る。 つ ま り、 『 古 事 記 』 は 現 存の古写本も一四世紀の真福寺本以前には、現に知られている註釈の試 みも一三世紀の卜部兼文の「古事記裏書」より以前にさかのぼるものは 見出せない状態である ((( ( 。      もちろん『古事記』の古典的価値の高さはその言語をはじめ内容の上 で も い う ま で も な い。 し か し、 『 日 本 書 紀 』 と 比 べ る と、 そ の 伝 来 に つ い て は 不 明 の 部 分 が 多 い 書 物 で あ る と い う こ と は 考 慮 し て お く 必 要 が あ る。 ま た、 『 古 事 記 』 の 筆 録 者 で あ る 太 安 万 侶 が、 一 方 で は『 日 本 書 紀 』 の 編 修 に 参 加 し た と 諸 書 は 伝 え る が、 そ れ に つ い て は 疑 問 が 残 る。 つ ま り、 そ の 太 安 万 侶 が 参 加 し た と い う 記 事 が 見 え る の は、 弘 仁 四 年 ( 八 一 三 ) の 多 おおのひとなが 人 長 の 撰 に な る『 日 本 書 紀 』 の 講 書 の 講 義 録『 弘 仁 私 記 』 の序においてが初見である点、また、 『日本書紀』がまったく『古事記』 を無視している点、同様に『古事記』も『日本書紀』の編纂事業につい てその序などでまったく言及していない点、そして、多人長自身が太安 万侶と同じ多(太)氏として同族的な系譜意識と顕彰意識がうかがえる という点、などからの疑問である。それらの事実からはむしろ、多人長 撰の『弘仁私記』序において、太安万侶が史書の編纂に当たったという 伝承が九世紀初頭において存在した、という意味において貴重な情報と いえるだけである。そして、伝世の来歴に不明な点の多い『古事記』に とってそれが貴重な情報の一つである、というレベルにとどめておくべ きである。   一 方、 『 日 本 書 紀 』 の 編 纂 に つ い て は、 天 武 天 皇 一 〇 年( 六 八 一 ) に 始まり元正天皇の養老四年 (七二〇) に完了したというのが通説である。 『日本書紀』天武天皇一〇年(六八一)三月丙戌条に「天皇御于大極殿、 以詔川嶋皇子・忍壁皇子・広瀬王・竹田王・桑田王・三野王・大錦下上 毛野君三千・小錦中忌部連首・小錦下阿曇連稲敷・難波連大形・大山上 中臣連大嶋・大山下平群臣子首、令記定帝紀及上古諸事。大嶋・子首親 執 筆 以 録 焉 」 と あ る 記 事 と、 『 続 日 本 紀 』 養 老 四 年 五 月 条 に「 先 是、 一 品舎人親王奉勅、修日本紀。至是功成奏上。紀卅巻系図一巻」とある記 事とを根拠に、その間、約四〇年間の長期に及んだ編纂事業であり、多 くの人物がその編纂に関わったものと考えられている。しかし、この通 説自体にも疑問の余地があることを確認しておきたい。記事をそのまま 読むならば、天武天皇一〇年の「帝紀及上古諸事」の記録はまもなく中 臣連大嶋と平群臣子首によって執筆されたということになる。その史書 とは何か。そして、元正天皇の養老四年 (七二〇) の 「紀卅巻系図一巻」 の奏上は、その前の『続日本紀』の元明天皇の和銅七年(七一四)二月 戊戌の「詔従六位上紀朝臣清人、正八位下三宅臣藤麻呂、撰国史」とい う記事と関連するものと思われる。専門外の分野であるためここで深入 りは避けるが、通説にもこのように疑問点が残っていることは確認して おきたい ((( ( 。 』の    膨 大 な 分 量 の『 日 本 書 紀 』 の 成 立 に 関 し て こ れまでの研究でその全三〇巻の編纂上の区分論が提示されている。ここ で参考としたいのは表 (にみる区分論である。これは遠山美都男氏が整 理した図であるが ((( ( 、とくに重視したいのは、そのもととなった森博達氏 による α 群と β 群という (分類である。 α 群が先行しそれに続いて β 群 の編纂が行なわれたとする編纂順序の想定である ((( ( 。 α 群は、中国語の原 音 に よ っ て 仮 名 が 表 記 さ れ て お り、 文 章 も 正 格 の 漢 文 で 書 か れ て お り、 原資料を尊重しながらあくまでも中国語で撰述されているのがその特徴 だという。それに対して、 β 群は、歌謡と訓注の仮名が倭音で表記され ており、中国語の原音で読むと日本語の音韻がまったく区別不能で、文 章も倭習に満ちており、漢語や漢文の誤用や奇用ばかりで正規の漢文と は ほ ど遠いというのである。そして、森氏は α 群の執筆者は渡来人(中 国人)で、 β 群は倭人(日本人)であっただろうと推定している。この 森氏の α 群と β 群という (分類の有効性は、表 (にもみるように、それ が従来の多くの研究者の区分論ともよく符合するところであり、これか らの立論の上でも十分に依拠できる学説であると考える。     『 古 事 記 』 や『 日 本 書 紀 』 の 記 述 は、 世 界 の 始 ま り か ら 説 か れ る た め に、 歴 史 の 叙 述 と し て 読 ま れ や す い。 し か し、 神代の物語であるイザナギ・イザナミやアマテラスやスサノオの物語は あくまでも神話であり、歴史として読むべきではない、と説いたのは津 田左右吉である ((( ( 。記紀の記述の内でも神話の部分は、歴史的な時代や時 間の範疇からは除外してその構成を読み取るべきだというのである ((( ( 。確 か に 天 上 の 高 天 原 の 神 話 や 天 孫 降 臨 の 神 話、 ま た 地 上 の 物 語 に し て も、 ヒコホホデミとトヨタマヒメ、ウガヤフキアヘズとタマヨリヒメとの異 類 交 婚 の 話 な ど 物 理 的 に も そ の ま ま 史 実 と は 考 え ら れ な い 物 語 で あ る。 では記紀の記述の内、どこからが歴史の叙述として読むことができるの か。この問題については、天皇の実在性の問題とも関連して大別すると 現在では (つの説がある。 ( ()『日本書紀』自身が提示する神武紀以降がそのまま歴史時代であ るとする見解 ((( ( 。 ( ()崇神の実在性を認める学説 ((( ( 。

(5)

表1 日本書紀の区分論

岡田正之

和田英松

鴻巣隼雄

藤井信男

永田吉太郎

太田善麿

菊沢季生

西宮一民

小島憲之

巻 1  神代上

  2  神代下

  3  神武

  4  綏靖

開化

  5  崇神

  6  垂仁

  7  景行・成務

  8  仲哀

  9  神功

 10 応神

 11 仁徳

 12 履中・反正

 13 允恭・安康

 14 雄略

 15 清寧

仁賢

 16 武烈

 17 継体

 18 安閑・宣化

 19 欽明

 20 敏達

 21 用明・崇峻

 22 推古

 23 舒明

 24 皇極

 25 孝徳

 26 斉明

 27 天智

 28 天武上

 29 天武下

 30 持統

β

  群

α

  群

β

α

  群

β

(6)

表1 日本書紀の区分論

岡田正之

和田英松

鴻巣隼雄

藤井信男

永田吉太郎

太田善麿

菊沢季生

西宮一民

小島憲之

巻 1  神代上

  2  神代下

  3  神武

  4  綏靖

開化

  5  崇神

  6  垂仁

  7  景行・成務

  8  仲哀

  9  神功

 10 応神

 11 仁徳

 12 履中・反正

 13 允恭・安康

 14 雄略

 15 清寧

仁賢

 16 武烈

 17 継体

 18 安閑・宣化

 19 欽明

 20 敏達

 21 用明・崇峻

 22 推古

 23 舒明

 24 皇極

 25 孝徳

 26 斉明

 27 天智

 28 天武上

 29 天武下

 30 持統

β

  群

α

  群

β

α

  群

β

( ()応神もしくは仁徳以降の実在性を認める学説 ((( ( 。 ( () 天 皇 の 実 在 性 は と も か く と し て、 雄 略 朝 を も っ て 歴 史 の 出 発 点 とみる学説 ((( ( 。   こ の (つ の 見 解 の う ち、 ( () の 崇 神 の 実 在 性 に つ い て は 古 代 史 研 究 者 の 間 で も 意 見 の 分 か れ る と こ ろ で あ る が、 ( () の 仁 徳 の 実 在 性 に つ いては ほ ぼ認定されているといってよく、日本史教科書にもその記載が みられる。しかし、ここで重視したいのは歴史の画期を雄略朝におくと いう( ()の学説である。なぜなら( ()の学説の論拠がもっとも明確 だからである。その論拠とは、①和風諡号のオオハツセノワカタケ(紀 =大泊瀬幼武、記=大長谷若建命)の独自性、②その名前が『宋書倭国 伝』の武と通じ、四七八年に「上表文」を提出してその事績を述べてい る こ と、 ③ 埼 玉 県 稲 荷 山 古 墳 出 土 鉄 剣 銘 ( 〓 加 多 支 鹵 大 王 ) と、 熊 本 県 江田船山出土古墳太刀銘 ( 〓 □□□ 鹵 大王) のワカタケルと通じており、 具体的な大王としての実在性が認められる。④ 『万葉集』 や『日本霊異記』 や『新撰姓氏録』など古代の文献では雄略とその時代が特別な位置を占 めており、しかも『日本書紀』の暦日も雄略紀から元嘉暦 ((( ( を使用してい る、⑤前述のように日本書紀の区分論からみて α 群に属してもっとも最 初に編纂が着手されたのが雄略朝の事績であったと考えられる、という (点である。つまり、雄略紀以降の『日本書紀』の記事には一定の歴史 性を読み取ることができるが、それ以前については、史実の伝承と創作 の伝承とが混在しているものとみる必要がある。   ただし、壬申の乱で勝利した歴代二八代目とされる天武天皇の時代か らすれば、一四代目の天皇とされる西暦四七八年の中国南朝の宋への遣 使 と 上 表 文 と で 知 ら れ る 雄 略 の 時 代 と は、 約 二 〇 〇 年 前 の 時 代 で あ る。 そ の 約 二 〇 〇 年 間 の 歴 史 叙 述 に は、 『 古 事 記 』 序 文 の い う「 削 偽 定 実 」、 つまり創作や脱落等々が多くあると考えられ、とくにそれ以前の神武か ら 安 康 ま で の β 群 の 記 事 に 対 し て は さ ら に 注 意 深 く 読 み 取 る 必 要 が あ る。

❷「神話と歴史」

の構成

    『 古 事 記 』 と『 日 本 書 紀 』 と は、 前 者が和文、後者が漢文、前者が公的な国史ではないのに対して、後者は 公 的 な 国 史 で あ る と い う 点、 そ し て、 記 事 内 容 に 多 く の 相 違 点 が あ り、 その相違自体が貴重な歴史情報を発信していながらも、基本的な神話と 歴史の叙述の順序、及び歴代の天皇の順序、という点では両者が一致し ているという点では、これまでの古代史研究者の諸説が一致していると ころである。そして、その編纂目的が、律令法体系にもとづく新しい国 家体制とそれに君臨する天皇という王権の正当性と正統性を、神話と歴 史の中に説くために編纂された書物であるという点でも諸説の一致する ところである。   では、天皇という王権の由来、国土の由来、は両書ではどのように説 かれているか。その構成の特徴はといえば、実はきわめて単純ないわゆ る直線的な構成であるという点である。つまり、天上界における神の子 としての天皇の祖先たる男子の誕生、その天孫の地上への降臨、初代天 皇の大和への東征と即位、大和の王権の安定化、国土の平定、半島の経 略へ、という発展物語である。一方、神代の神話は『日本書紀』では天 地開闢からスサノオノミコトの八岐大蛇退治までが前半、国譲りから天 孫降臨、 そして神武誕生までが後半、 とそれが上巻と下巻となっている。 この神代の伝承情報は多様であり、編者が選定した本文とは別に一書の 類も少ない場合は (、多い場合は ((で、多くは (から (の一書の伝承を 併記している。しかし、基本的な物語の展開は同じである。

(7)

    記 紀 の 記 す 神代というのは上代つまり古代とはまったくちがった観念である、神代 とは歴史上の或る時代をさすのではない、神代は観念上の存在であり事 実上の古代の或る時代ではない、と指摘したのは津田左右吉である ((( ( 。天 上の高天原や天孫降臨の話など物理的には考えられない物語が記されて いるのも、それがあくまでも観念上の存在だからである。しかし、記紀 は こ の「 神 話 と 歴 史 」 を 一 連 の も の と し て つ な ぐ か た ち の 叙 述 態 度 を とっている。そして、この神代の物語が語ろうとしているもっとも重要 な内容とは、天照大神という神が子を生みその神の子が天皇の祖先とな るという話である。ただし、天照大神が生む最初の神の子の誕生は世俗 的な男女の性交によるものではない。天照大神と素戔鳴尊との誓約によ り、剣と玉とを物 ものざね 実として、それぞれを天真名井に濯いで吹く息吹の狭 霧の中に (柱(一書 (では (柱)の男神、 (柱の女神が生まれる。その 第 (男 子 が ア メ ノ オ シ ホ ミ ミ で あ る。 次 い で そ の ア メ ノ オ シ ホ ミ ミ と、 高皇産霊尊の女子タクハタチヂヒメとの間に男子ニニギノミコトが生ま れる。このニニギが天照大神の孫つまり天孫と称される男子であり、彼 は男女の両親の間の子として生まれる。 天上から地上へ ―国譲りと天孫降臨―     次は、そのニニギの天孫降臨の 物語である。ここに、高天原と葦原中国の別、国造りと国譲り(出雲) 、 天 孫 降 臨( 筑 紫・ 日 向 )、 の 神 話、 が 配 置 さ れ て い る が、 そ れ に つ い て は後述することとして、その後の展開をみると、それは地上での神話で ある。まず、天上から降臨した天孫ニニギと地上の山の神の大山祇神の 女子コノハナサクヤヒメとの間に男子ヒコホホデミが生まれる。次いで そのヒコホホデミと海神の女子トヨタマヒメとの間に男子ウガヤフキア ヘズが生まれる。そのウガヤフキアヘズと叔母でありやはり海神の女子 タマヨリヒメとの間にカムヤマトイワレヒコが生まれる ((( ( 。     そ の カ ム ヤ マ ト イ ワ レ ヒ コ は よき地をもとめて日向から大和へと東征し、磐余宮で即位して初代の神 武天皇となる。これは地上における大和という地理的な特定地点の由来 を説明する物語である。ここで最重要の主題は、 神話から歴史への転換、        本文(記事内容) 異伝とその数 巻 (   神代   上   第 (段    天地開闢 一書 (   第 (段    イザナギ・イザナミ 一書 (   第 (段    神世七代という呼称 一書 (   第 (段    イザナギ・イザナミによる島生み 一書 (0   第 (段    三貴神誕生 一書 ((   第 (段    天照とスサノオの誓約による三女神と五 (六) 男神 一書 (   第 (段    天岩戸 一書 (   第 (段    八岐大蛇 一書 ( 巻 (   神代   下   第 (段    国譲りと天孫降臨 一書 (   第 (0段    海幸彦と山幸彦 一書 (   第 ((段    カムヤマトイワレヒコの誕生 一書 ( 天 照 大 神 と 素 戔 鳴 尊( 本 文・ 一 書 ()、 も し く は 日 神 と 素 戔 鳴 尊( 一 書 (・ 一 書 () との間で子が生まれる 本 文 で は、 天 照 が ス サ ノ オ の 十 握 剱 を 取 っ て 三 人 の 女 子 を、 ス サ ノ オ が 天 照 の 御 統 を乞い取って五人の男子を、第 (子オシホミミ 一 書 (で は、 日 神 が 自 分 の 十 握 剱 を 取 っ て 三 女 神 を、 ス サ ノ オ が 自 分 の 御 統 を 以 て 五   男神を、第 (オシホミミ 一 書 (で は、 天 照 が ス サ ノ オ に 吾 が 剱 を 奉 る か ら 汝 の 曲 玉 を く れ と い い、 そ の 曲 玉 を使って三女神を、スサノオが剱を使って五男神を、第 (オシホミミ 一 書 (で は、 日 神 が 自 分 の 十 握 剱 を 取 っ て 三 女 神 を、 ス サ ノ オ が 自 分 の 御 統 を 以 て 六   男神を、これらの内で、オシホミミを 表 2   『日本書紀 』神代 の 構成 表 3   天上 で の 神話 ・ 神代第 6段

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    記 紀 の 記 す 神代というのは上代つまり古代とはまったくちがった観念である、神代 とは歴史上の或る時代をさすのではない、神代は観念上の存在であり事 実上の古代の或る時代ではない、と指摘したのは津田左右吉である ((( ( 。天 上の高天原や天孫降臨の話など物理的には考えられない物語が記されて いるのも、それがあくまでも観念上の存在だからである。しかし、記紀 は こ の「 神 話 と 歴 史 」 を 一 連 の も の と し て つ な ぐ か た ち の 叙 述 態 度 を とっている。そして、この神代の物語が語ろうとしているもっとも重要 な内容とは、天照大神という神が子を生みその神の子が天皇の祖先とな るという話である。ただし、天照大神が生む最初の神の子の誕生は世俗 的な男女の性交によるものではない。天照大神と素戔鳴尊との誓約によ り、剣と玉とを物 ものざね 実として、それぞれを天真名井に濯いで吹く息吹の狭 霧の中に (柱(一書 (では (柱)の男神、 (柱の女神が生まれる。その 第 (男 子 が ア メ ノ オ シ ホ ミ ミ で あ る。 次 い で そ の ア メ ノ オ シ ホ ミ ミ と、 高皇産霊尊の女子タクハタチヂヒメとの間に男子ニニギノミコトが生ま れる。このニニギが天照大神の孫つまり天孫と称される男子であり、彼 は男女の両親の間の子として生まれる。 天上から地上へ ―国譲りと天孫降臨―     次は、そのニニギの天孫降臨の 物語である。ここに、高天原と葦原中国の別、国造りと国譲り(出雲) 、 天 孫 降 臨( 筑 紫・ 日 向 )、 の 神 話、 が 配 置 さ れ て い る が、 そ れ に つ い て は後述することとして、その後の展開をみると、それは地上での神話で ある。まず、天上から降臨した天孫ニニギと地上の山の神の大山祇神の 女子コノハナサクヤヒメとの間に男子ヒコホホデミが生まれる。次いで そのヒコホホデミと海神の女子トヨタマヒメとの間に男子ウガヤフキア ヘズが生まれる。そのウガヤフキアヘズと叔母でありやはり海神の女子 タマヨリヒメとの間にカムヤマトイワレヒコが生まれる ((( ( 。     そ の カ ム ヤ マ ト イ ワ レ ヒ コ は よき地をもとめて日向から大和へと東征し、磐余宮で即位して初代の神 武天皇となる。これは地上における大和という地理的な特定地点の由来 を説明する物語である。ここで最重要の主題は、 神話から歴史への転換、        本文(記事内容) 異伝とその数 巻 (   神代   上   第 (段    天地開闢 一書 (   第 (段    イザナギ・イザナミ 一書 (   第 (段    神世七代という呼称 一書 (   第 (段    イザナギ・イザナミによる島生み 一書 (0   第 (段    三貴神誕生 一書 ((   第 (段    天照とスサノオの誓約による三女神と五 (六) 男神 一書 (   第 (段    天岩戸 一書 (   第 (段    八岐大蛇 一書 ( 巻 (   神代   下   第 (段    国譲りと天孫降臨 一書 (   第 (0段    海幸彦と山幸彦 一書 (   第 ((段    カムヤマトイワレヒコの誕生 一書 ( 天 照 大 神 と 素 戔 鳴 尊( 本 文・ 一 書 ()、 も し く は 日 神 と 素 戔 鳴 尊( 一 書 (・ 一 書 () との間で子が生まれる 本 文 で は、 天 照 が ス サ ノ オ の 十 握 剱 を 取 っ て 三 人 の 女 子 を、 ス サ ノ オ が 天 照 の 御 統 を乞い取って五人の男子を、第 (子オシホミミ 一 書 (で は、 日 神 が 自 分 の 十 握 剱 を 取 っ て 三 女 神 を、 ス サ ノ オ が 自 分 の 御 統 を 以 て 五   男神を、第 (オシホミミ 一 書 (で は、 天 照 が ス サ ノ オ に 吾 が 剱 を 奉 る か ら 汝 の 曲 玉 を く れ と い い、 そ の 曲 玉 を使って三女神を、スサノオが剱を使って五男神を、第 (オシホミミ 一 書 (で は、 日 神 が 自 分 の 十 握 剱 を 取 っ て 三 女 神 を、 ス サ ノ オ が 自 分 の 御 統 を 以 て 六   男神を、これらの内で、オシホミミを 表 2   『日本書紀 』神代 の 構成 表 3   天上 で の 神話 ・ 神代第 6段 つ ま り、 人 間 と し て の 神 武 天 皇 と い う 存 在 の 位 置 づ け で あ る。 そ し て、 もう一つが現実的な空間的地理と時間的年代の設定である。時間につい ては天孫降臨から一七九万二七四〇年余が経過したといい、東征の開始 の年を「是年、太歳甲寅」とし出発の日を「冬十月丁巳朔辛酉(五日) 」 としている。そして、橿原宮に即位した神武天皇元年が、辛酉年の正月 庚辰の朔(西暦への換算では紀元前六六〇年)としているのである。空 間については、出発地を九州の日向として瀬戸内海を通過し浪速、河内 から紀州へと旋回して熊野から大和の東部山中の菟田に出てそこから西 方に向かって大和盆地へ入る、という地理的関係を設定している。   ここで重要なのは大和盆地という現実的な王権発祥の土地であり、出 発 地 の 日 向 に つ い て は 神 話 的 な 構 成 の 産 物 に す ぎ な い と い う 点 で あ る。 先の一七九万二七四〇年余という時間が歴史時間として虚構であるとす るならば、同時にこの日向という空間と地理も神話的な構成によるもの で あ る。 そ れ は、 『 日 本 書 紀 』 第 (段 の 天 孫 降 臨 の 一 書〔 (〕 で、 天 孫 降 臨 の 地 が「 筑 紫 の 日 向 の 」 高 千 穂 の ク ジ フ ル 峯 で あ る と い い、 『 古 事 記』でも同様で、 さらに「此地は韓国に向ひ、 笠沙の御前を真木通りて、 朝 日 の 直 刺 す 国、 夕 日 の 日 照 る 国 な り、 故、 此 地 は 甚 吉 き 地。 」 と 表 現 さ れ て い る こ と か ら も 明 ら か で あ る。 「 筑 紫 の 日 向 の 」 小 戸 の 橘 の 檍 原 に至りまして、という言い方は、三貴神の誕生を記す『日本書紀』第 ( 段の一書 〔 (〕 でも、 『古事記』 でも同じくみられる表現であり、 この 「筑 紫の日向の」という表現こそが重要な伝承である。その筑紫は地名であ り日向はその筑紫における太陽信仰に関連する呼称である。それについ て現実上の日向国という地理的認識を与えたのは、国郡制などが整備さ れたのちのことであり、記紀編纂の最終段階であった可能性が高い。つ まり、一七九万二七四〇年余という時間と日向という空間とは現実の時 間と空間ではなくまだ神話の中での伝承情報と考えるべきなのである。   また、神武の正妃で綏靖の母とされる姫蹈鞴五十鈴姫は、事代主神が 八尋熊鰐に姿を変えて三嶋溝橛耳神の女子玉櫛姫のもとに通って生まれ た子であり ((( ( 、そこにはまだ神話の要素が強く残っており歴史物語とはい えない。それは津田左右吉の指摘のように、物語の構成として神代と人 代 と を 連 続 さ せ る た め に は、 そ の 間 の 境 界 は「 ぼ か さ れ る 」 の で あ り、 神代の終わりの部分に人代的要素を加えるとともに、人代の始めの部分 に神代的着色を施して交互に幾分かの融合をさせているのである ((( ( 。     神 話 的 な 要 素 を 残 し な が ら も 初代天皇として具体的な大和の磐余宮に即位した神武はハツクニシラス スメラミコトと称された。そして、それに続いて現実的な大和の宮都に おける王権の物語が始められるのが、もうひとりのハツクニシラススメ ラミコト崇神の段階でありそれに続く垂仁と景行である。物語の構成か らして、最初に大和に入って即位する天皇とその大和の宮都を拠点とし て統治を始める天皇と、ハツクニシラススメラミコトは必然的に二人が 必要だったのである。まず、崇神と垂仁の物語で最重要の主題は、大和 における王権の行使と神祇祭祀の整備である。崇神紀に記されているの は次の通りである。①皇祖神の天照大神を皇女豊鋤入姫命に託けて倭の 笠縫邑で奉祭する、しかし、これは完結せず垂仁の事績の中に引き継が れ る。 大 和 の 国 魂 で あ る 倭 大 国 魂 神 を 皇 女 渟 名 城 入 姫 に 託 け て 奉 祭 す る、しかし、これも不可能でこのあと市磯長尾市に託される。②王権の 守り神である大物主神の倭迹迹日百襲姫への神憑りと大田田根子による 奉祭、市磯長尾市による倭大国魂神の奉祭。この①と②は王権にとって 必須の神祇祭祀の整備の物語である。③墨坂神と大坂神の奉祭、これは 大和盆地の東西の守りを地理的に固める意味をもつ。④武埴安彦の謀反 と鎮圧、これは今後もくりかえされる皇位継承争いとその処理の最初の 例である。なお、戦いの場としてここに那羅山が出てきており、この奈 良盆地北方の乃楽山と東方の墨坂とは繰り返し登場するが、その点につ いては後述する。⑤四道将軍の発遣、これは王権の領域拡大への序章で

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あり後の景行と日本武尊の物語へと引き継がれる。⑥大物主神と倭迹迹 日百襲姫の神婚と御諸山と箸墓にまつわる伝説。これは神代や神武の物 語でも語られてきた三輪山伝説の一変形であり、前述のような神話と歴 史の境界領域における神話的要素の残存例である。   次に垂仁紀であるが、①新羅の王子の天日槍の来朝、②狭穂彦王の謀 反、③野見宿禰の伝承、④皇子誉津別王の伝承、⑤天照大神を倭姫命に 託けての伊勢への奉祭、 ⑥出雲の神宝検校、 ⑦殉死の禁止と埴輪の伝承、 ⑧石上神宮の神宝の伝承、⑨天日槍の神宝の伝承、⑩田道間守と常世国 の伝承、が次々と語られている。これらにおいては崇神からの神祇祭祀 の整備という主題が継続している。 西     次 の 景 行 と 日 本 武 尊 の 物 語 は 全国への領土拡大が主題である。景行の九州巡幸が語られ、続いて日本 武 尊 の 熊 襲 討 伐 と 東 国 遠 征 の 物 語 が 展 開 し て い る。 そ の 東 国 遠 征 に 関 連して語られているのが伊勢神宮と倭姫命であり、草薙剣と熱田社であ る。そして、伊勢神宮に献上された東国の蝦夷たちの御諸山への移住と その後の播磨 ほ か五国への移住と彼らが佐伯部の祖となった話が語られ ている。     仲 哀 と 神 功 皇 后 の 物 語 は、 景 行 に 続 く 九 州征圧から展開して半島へ向けての経略の物語である。角鹿(敦賀)の 笥飯宮(気比神宮)から穴門豊浦宮へと移り、海を渡って新羅に軍勢を 進めて三韓の征圧と服従と朝貢へと至る話である。これは神託による遠 征 で あ り、 神 祇 の 教 え と 皇 祖 の 霊 みたまのふゆ を 蒙 り な が ら、 荒 魂 と 和 魂 の 加 護 に よ る こ と が 強 調 さ れ て い る。 そ し て、 国 内 的 に は 忍 熊 王 の 反 逆、 角 鹿 ( 敦 賀 ) の 笥 飯 大 神( 気 比 神 宮 ) の 奉 祭 が 語 ら れ て い る。 ま た、 神 祭 り における武内宿禰、半島交渉における葛城襲津彦のような皇后の近くに 仕える重臣の存在が語られるようになっている。   直線的な発展物語の完了     ここで、神代から続いた一連の大和王権 の神話的な歴史物語は完了するかたちとなっている。そして、この神功 皇后の物語を編修した 『日本書紀』 の編者たちの知識の中にあったのが、 『 魏 志 倭 人 伝 』 の 記 事 で あ り、 女 王 卑 弥 呼 の こ と で あ っ た。 『 日 本 書 紀 』 は神功皇后の物語の中で、注記のかたちで「魏志に云く」との記事を掲 載 し て お り、 神 功 皇 后 を 卑 弥 呼 に 擬 そ う と し て い た こ と が う か が え る。 なお、神功皇后の子である応神天皇は実在性が推定されている天皇であ るが、物語の構成からみればむしろ神功皇后の物語のあとをうけて神話 的な内容を引き受ける存在となっている。それは、武内宿禰や葛城襲津 彦のような天皇の近臣の活躍の物語と、弓月君や阿直伎や王仁や阿知使 臣など高い技能をもつ渡来人の来朝の伝承である。したがって実在性か らいえば、 応神は神話的な神功皇后の分身的な存在であり、 『宋書倭国伝』 が倭王の讃と記すオオサザキは仁徳であり、その実在の可能性が高い。

歴史の中の伊勢神宮

   紀・   伊 勢 神 宮 の 創 祀 に つ い て の 記 述 と し て は 『 日 本 書 紀 』 の そ れ と『 古 事 記 』 の そ れ と が あ る。 ま ず『 日 本 書 紀 』 の それについて確認してみる。   崇神六年の記事が最初である。天照大神と倭大國魂の二柱の神を天皇 の大殿の内に並べ祭っていたが、神の勢いを畏れて共に住むこと安から ずということで、天照大神を皇女の豊鋤入姫命に託けて倭の笠縫邑に祭 ることとして磯堅城の神籬を立てた。日本大国魂神は皇女渟名城入姫に 託けて祭らせたが、渟名城入姫の髪が落ち身体が痩せ衰えて祭ることが できなかった。次いで、垂仁二五年三月一〇日の記事である。天照大神 を豊耜入姫命から離して倭姫命に託けた。倭姫命は大神を鎮め坐させむ 処を求めて、菟 うだのささはた 田筱幡に詣 いた る。そこからさらに還って近江国に入り、そ こから東の方向の美濃国をめぐり、 そして伊勢国へと到った。そのとき、

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天 照 大 神 が 倭 姫 命 に 悔 おし え て い わ れ る に は、 「 是 の 神 風 の 伊 勢 国 は、 常 世 の 浪 の 重 しきなみ 浪 帰 よ す る 国 な り。 傍 かたくに 国 の 可 う ま 怜 し 国 な り。 是 の 国 に 居 ら む と 欲 おも ふ」と。そこで、大神の悔 おし えにしたがい、その祠を伊勢国に立て、斎宮 を五十鈴の川上に興てた。これを磯宮というが、これはすなわち天照大 神が始めて天より降られた処である。   こ れ が 伊 勢 神 宮 に 天 照 大 神 を 祭 る 原 点 と し て の 物 語 で あ る。 し か し、 『日本書紀』はもう一つの異伝を記している。それは以下の通りである。 垂仁天皇は倭姫命を天照大神の御杖として貢奉った。そこで倭姫命は天 照大神を磯城の厳橿の本に鎮め坐せて祠った。しかし、のちに神の悔 おし え のままに丁未の年の冬十月の甲子に、伊勢国の渡遇宮に遷しまつった。   これが伊勢神宮創祀の垂仁紀の異伝であるが、この異伝では続いて次 のような記事を伝えている。倭大神が穂積臣の遠祖水口宿禰に著って悔 え て い わ れ る に は、 「 太 初 の 時 に 約 束 さ れ た の は、 天 照 大 神 は 悉 く 天 原 を治さむ、皇御祖尊は専ら葦原中国の八十魂神を治さむ、我は親ら大地 官( 大 和 の 土 着 の 神 霊 ) を 治 さ む 」 と い う こ と で あ っ た。 そ れ な の に、 先の崇神天皇は神祇を祭られはしたもののこの源根を探らずに枝葉にと どまったためにその寿命は短かった。そこでいまあなたが先皇の不及を 悔いて祭れば寿命は長く天下も太平であろう、と。そこで結局、倭大神 を渟名城稚姫に託して祭ったが、その身体が痩せ弱り祭ることができな かったので、結局、大倭直の祖長尾市宿禰に祭らせることとなった。つ まり、この異伝は倭大国魂神の祭祀についてのより詳しい情報であると いえる。そして、神祇祭祀の整備の上では崇神紀の物語と垂仁紀の物語 と が ワ ン セ ッ ト で 不 可 分 の 関 係 に あ る こ と を 知 ら せ て く れ る も の で あ る。これらはいずれも神話的物語であり、たとえばそれらの中にはこの 渟名城入姫(渟名城稚姫)の衰弱化の話題と天武天皇の皇女で斎宮とし て立てられながらも直前に急死した十市皇女の話題に一定の共通性が認 められるなど、後世の事件を反映して構想された可能性のある神話も含 まれており、それらの記事内容がそのまま歴史時代的な史実の情報とは 認めがたい。成務紀から安康紀までの長期間にわたる斎宮の記事の欠落 もこの想定を支持する。 斎宮奉祀     伊勢神宮の天照大神の祭祀の特徴の一つは、皇女がその 御杖代、斎宮として奉祭するという点である。その始めは崇神皇女の豊 鋤入姫命と垂仁皇女の倭姫命の記事であるが、 『日本書紀』ではその後、 どのように記されているか確認してみる。       そ れ ら の 記 事 を 整 理 し た 表 (か ら 指 摘 で き る の は 以 下 の (点 で あ る。 ( () 雄 略 紀、 継 体 紀、 欽 明 紀 の 記 事 は い ず れ も 皇 女 の 誕 生 の 記 事 に 注 景行二〇年 二月四日 五百野皇女を遣して天照大神を祭らしむ。 雄略一年四五七 稚 足 姫 皇 女、 更 の 名 は 栲 幡 姫 皇 女 と を 生 め り。 是 の 皇 女 伊 勢 大 神 の 祠 に 侍 り。 三 年   栲 幡 姫 皇 女   姦 淫 妊 娠   五 十 鈴 河 の 河 上   神 鏡 埋 め て 経 死   虹 が 蛇 の よ う に 四、 五 丈 ば か り   虹 の 立 つ と こ ろ を 掘 っ て 皇 女 の 屍 を 得 た。 腹 の 中 に 水 あ り水の中に玉あり 継体一年五〇七 荳角皇女を生めり。是伊勢大神の祠に侍り。 欽明二年五四一 三月 磐 隈 皇 女( 更 の 名 は 夢 皇 女 )、 初 め 伊 勢 大 神 に 侍 へ 祀 る。 後 に皇子茨城に   されたりけるによりて解けぬ 敏 達 七 年 五 七 八 三 月   五日 菟 道 皇 女 を 以 て 伊 勢 の 祠 に 侍 ら し む。 即 ち 池 辺 皇 子 に   さ れぬ。事顕れて解けぬ 用明即位前紀五八五 酢香手姫皇女を以て伊勢神宮に拝して日神の祀に奉らしむ。 是の皇女、 此の天皇の時より、 炊屋姫天皇の世に逮ぶまでに、 日神の祀に奉る。自ら葛城に退きて薨せましぬ。 炊 屋 姫 天 皇 の 紀 に 見 ゆ。 或 本 に 云 は く、 三 十 七 年 の 間、 日 神 の 祀 に 奉 る。 自 ら 退 き て 薨 せ ま し ぬ と い ふ。   な お、 『 上 宮 聖 徳 法 王 帝 説 』 に「 須 加 氐 古 女 王   此 王 拝 祭 伊 勢 神 前、 至 干 三 天 皇 也 」 と あ る が、 推 古 紀 に は 斎 宮 の 記 事 なし 天 武 二 年 六 七 三 四 月   一四日 大 来 皇 女( 大 伯 皇 女 )を 天 照 太 神 宮 に 遣 侍 さ む と し て、 泊 瀬 の 斎 宮 に 居 ら し む。 是 は ま ず 身 を 潔 め て、 稍 に 神 に 近 づ く 所なり。 天 武 三 年 六 七 四 一 〇 月   九日 大 来 皇 女、 泊 瀬 の 斎 宮 よ り 伊 勢 神 宮 へ 向 で た ま ふ。 ( 朱 鳥 一 年一一月帰京、大宝一年一二月没) 表 4   斎宮奉祭関係記事 記 的 に 記 さ れ て い る の み で あ り、 実 体 性 は 認 め が た い。 ( () 雄 略 紀 の 記 す 稚 足 姫 皇 女 は そ の 名 前 が 雄 略 の ワ カ タ ケ ル の 女 性 形 で 虚 構 的 で あ る。別段の栲幡姫皇女の姦淫と妊娠の流言、五十鈴河の河上に神鏡を埋 めて皇女は経死し、虹の立つところに皇女の屍が発見されその腹の中か ら石が見つかった、流言者は石上神宮へと逃亡した、という一連の記事 は、 一 つ の 伝 説 的 物 語 と 位 置 づ け ら れ る。 ( () 欽 明 紀 と 敏 達 紀 の 皇 子 による皇女   淫の記事は雄略紀のそれをなぞった話題挿入であり実体性 は 認 め ら れ な い。 ( () 用 明 紀 の 記 事 で は、 そ の 本 文 で 酢 香 手 姫 皇 女 を 以て伊勢神宮に拝して日神の祀に奉らしめたとあるのに対して、注記の 部 分 で 炊 屋 姫 天 皇 の 世 に 及 ぶ ま で 奉 り、 そ れ は「 炊 屋 姫 天 皇 紀 に 見 ゆ 」 と 記 し、 ま た 或 本 に は 三 七 年 間 奉 っ た と そ の 年 数 ま で 記 し て い る。 そ の 三 七 年 と い う 数 字 に つ い て は、 用 明 即 位( 五 八 六 年 ) か ら 推 古 三 一 年(六二三年)までと数えると中途半端なものとなり、むしろ推古の在 位期間をその即位五九二年から舒明即位の六二九年までの三七年間と数 えた数字である可能性が高い。また、参考資料として『上宮聖徳法王帝 説 』 の 記 事 に ((( ( 、「 須 加 氐 古 女 王   此 王 拝 祭 伊 勢 神 前、 至 干 三 天 皇 也 」 と あり長く三代の天皇に及んだとある。その三代とは用明、崇峻、推古と 考えられるが、このように用明皇女の酢香手姫による伊勢の斎宮奉仕を 歴史的な事実であるとする記事が多く残されている一方で、よく注意し てみると逆にこれらの伝承には疑問点も多いといわざるをえない。 追記された用明紀と削除された推古紀     ここで、問題を整理してみ る。第一に、前述の『日本書紀』の区分論からいえば、先行の α 群の用 明紀にある注記に、後続の β 群に属する推古紀つまり「炊屋姫天皇紀に 見ゆ」との記事があるのはおかしい。この用明紀の注記は β 群の推古紀 の編修よりそのあとに記入されたものである、つまり、これらの注記は もとの α 群の用明紀にはなかった記事であり、 β 群の推古紀の編修段階 のさらに後の段階で追記されたものである。では、 それはなぜか。天武 ・ 持統朝以降の編修の最終段階で、用明紀にその注記の記事が必要であっ たからである。それは酢香手姫の伊勢神宮における日神奉祭が用明朝か ら推古朝まで継続していたと説明しておきたかったからである。伊勢神 宮に拝して日神の祭祀に奉じる皇女の存在の継続性の主張である。そこ から逆にクローズアップされてくるのは、逆に用明紀から天武紀までの 約一世紀に及ぶ斎宮奉祭の記事の欠落という事実であり、その期間の長 さである。つまり、酢香手姫の斎宮奉仕の伝承にはその実体性は薄いと いうことになる。   そ し て、 さ ら に 問 題 で あ る の は、 こ の「 豊 御 食 炊 屋 姫 天 皇 紀 に 見 ゆ 」 という記事が実はそれらの注記の部分だけでなく、本文にもみられると いうことである。それは厩戸皇子が推古朝に東宮として天 みかどわざ 皇事をしたま ふたという記事の部分である。その記事も α 群の用明紀にはなかった記 事であり、 β 群の編修のそのさらに後の段階で追記された記事であると いうことになる。すると、本文にある酢香手姫皇女の斎宮の記事もあと から追記された可能性があるということになる。つまり、用明紀におけ る①厩戸皇子の推古朝における東宮と天皇事の記事、②酢香手姫皇女の 伊勢斎宮の記事、この①②の二つは、 α 群に属するもとの用明紀にはな かった記事であり、後続した β 群の推古紀の編修よりもそれ以後に追記 されたものと考えられるのである。   第二に、その用明紀の注記の部分、つまり β 群の編修のあとから記入 されたその注記に、酢香手姫の伊勢神宮における日神奉祭が用明朝から 推古朝にまで及んだことが 「炊屋姫天皇の紀に見ゆ」 と記している以上、 そ の 記 事 は 現 在 伝 え ら れ て い る β 群 の 推 古 紀 に は な い け れ ど も、 天 武・ 持統朝以降の『日本書紀』編纂の段階で編者たちが見たもうひとつの推 古紀にはあったはずである。つまり、現在の β 群の推古紀以外に、皇女 による日神奉祭を記す「もう一つの推古紀」が存在したということにな る。しかし、現在見られる β 群の推古紀ではその部分が削除されている

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記 的 に 記 さ れ て い る の み で あ り、 実 体 性 は 認 め が た い。 ( () 雄 略 紀 の 記 す 稚 足 姫 皇 女 は そ の 名 前 が 雄 略 の ワ カ タ ケ ル の 女 性 形 で 虚 構 的 で あ る。別段の栲幡姫皇女の姦淫と妊娠の流言、五十鈴河の河上に神鏡を埋 めて皇女は経死し、虹の立つところに皇女の屍が発見されその腹の中か ら石が見つかった、流言者は石上神宮へと逃亡した、という一連の記事 は、 一 つ の 伝 説 的 物 語 と 位 置 づ け ら れ る。 ( () 欽 明 紀 と 敏 達 紀 の 皇 子 による皇女   淫の記事は雄略紀のそれをなぞった話題挿入であり実体性 は 認 め ら れ な い。 ( () 用 明 紀 の 記 事 で は、 そ の 本 文 で 酢 香 手 姫 皇 女 を 以て伊勢神宮に拝して日神の祀に奉らしめたとあるのに対して、注記の 部 分 で 炊 屋 姫 天 皇 の 世 に 及 ぶ ま で 奉 り、 そ れ は「 炊 屋 姫 天 皇 紀 に 見 ゆ 」 と 記 し、 ま た 或 本 に は 三 七 年 間 奉 っ た と そ の 年 数 ま で 記 し て い る。 そ の 三 七 年 と い う 数 字 に つ い て は、 用 明 即 位( 五 八 六 年 ) か ら 推 古 三 一 年(六二三年)までと数えると中途半端なものとなり、むしろ推古の在 位期間をその即位五九二年から舒明即位の六二九年までの三七年間と数 えた数字である可能性が高い。また、参考資料として『上宮聖徳法王帝 説 』 の 記 事 に ((( ( 、「 須 加 氐 古 女 王   此 王 拝 祭 伊 勢 神 前、 至 干 三 天 皇 也 」 と あり長く三代の天皇に及んだとある。その三代とは用明、崇峻、推古と 考えられるが、このように用明皇女の酢香手姫による伊勢の斎宮奉仕を 歴史的な事実であるとする記事が多く残されている一方で、よく注意し てみると逆にこれらの伝承には疑問点も多いといわざるをえない。 追記された用明紀と削除された推古紀     ここで、問題を整理してみ る。第一に、前述の『日本書紀』の区分論からいえば、先行の α 群の用 明紀にある注記に、後続の β 群に属する推古紀つまり「炊屋姫天皇紀に 見ゆ」との記事があるのはおかしい。この用明紀の注記は β 群の推古紀 の編修よりそのあとに記入されたものである、つまり、これらの注記は もとの α 群の用明紀にはなかった記事であり、 β 群の推古紀の編修段階 のさらに後の段階で追記されたものである。では、 それはなぜか。天武 ・ 持統朝以降の編修の最終段階で、用明紀にその注記の記事が必要であっ たからである。それは酢香手姫の伊勢神宮における日神奉祭が用明朝か ら推古朝まで継続していたと説明しておきたかったからである。伊勢神 宮に拝して日神の祭祀に奉じる皇女の存在の継続性の主張である。そこ から逆にクローズアップされてくるのは、逆に用明紀から天武紀までの 約一世紀に及ぶ斎宮奉祭の記事の欠落という事実であり、その期間の長 さである。つまり、酢香手姫の斎宮奉仕の伝承にはその実体性は薄いと いうことになる。   そ し て、 さ ら に 問 題 で あ る の は、 こ の「 豊 御 食 炊 屋 姫 天 皇 紀 に 見 ゆ 」 という記事が実はそれらの注記の部分だけでなく、本文にもみられると いうことである。それは厩戸皇子が推古朝に東宮として天 みかどわざ 皇事をしたま ふたという記事の部分である。その記事も α 群の用明紀にはなかった記 事であり、 β 群の編修のそのさらに後の段階で追記された記事であると いうことになる。すると、本文にある酢香手姫皇女の斎宮の記事もあと から追記された可能性があるということになる。つまり、用明紀におけ る①厩戸皇子の推古朝における東宮と天皇事の記事、②酢香手姫皇女の 伊勢斎宮の記事、この①②の二つは、 α 群に属するもとの用明紀にはな かった記事であり、後続した β 群の推古紀の編修よりもそれ以後に追記 されたものと考えられるのである。   第二に、その用明紀の注記の部分、つまり β 群の編修のあとから記入 されたその注記に、酢香手姫の伊勢神宮における日神奉祭が用明朝から 推古朝にまで及んだことが 「炊屋姫天皇の紀に見ゆ」 と記している以上、 そ の 記 事 は 現 在 伝 え ら れ て い る β 群 の 推 古 紀 に は な い け れ ど も、 天 武・ 持統朝以降の『日本書紀』編纂の段階で編者たちが見たもうひとつの推 古紀にはあったはずである。つまり、現在の β 群の推古紀以外に、皇女 による日神奉祭を記す「もう一つの推古紀」が存在したということにな る。しかし、現在見られる β 群の推古紀ではその部分が削除されている

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