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明治末期の在日ベトナム人とアジア諸民族連携の試み ―― 「東亜同盟会」ないしは「亜州和親会」をめぐって ――

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(1)

東 南 ア ジ ア研 究 20巻3号 1982年12月

明治末期 の在 日ベ トナ ム人 とア ジア諸民族連携 の試 み

-

東亜 同盟会」 ない しは 「

亜洲和親全」 をめ

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H争i,orthe "LeagueofEastAsia, an organi -zation which,in his memoirs,Phan BaiChAtl claimstohavejoined in thefallof1908・ Infor -mationfrom Japaneseand Chinesesources ,how-ever,indicatesthatthe League could nothave beenestablishedinthesecondhalror1908,because atthattimefわurorthemostimportantpartlCIPantS listedbyP.B.Chauinhismemoirshadeitherleft Japan or were in prison・ Various Japanese,

Chineseand Vietnamesesourcesfurtherindicate that this League was identicalwith the Ashti W ashinkai,the "Asian Friendship Association." AccordingtoJapanesesources,theAssociationwas establishedin thefallor1907.ayearearlierthaTl P.B.ChauelainlS.

Students or VietflamCSe nationalisrn, relying

exclusively on P.B.Chau's memoirs,have

con-cluded that the League lVaS Set uP When the Japanese authorities,under pressure through French diplomatic channels,started suppresslng the Vietnamese movement in Japan, causing P.B.Chau to become disillusioned with Japan. Since the League was established well before Japanese policy turned againstthe Vietnamese,

*大 阪外 国語 大学 タ イ ・ベ トナ ム 語 学科 ;Thai &VietnameseDepartment,OsakaUniversltyOr Forelgn Studies,2734 Aomadani,M inooCity, Osaka562,Japan

however,Otherreasonsshould besoughtfらrP.B. Chau'sdecision to join the League. The year 1907 saw a crucialchange inofhcialJapanese policy towal、d her Asian neighbours and the W estern colonialpowers.which drew criticism from emlgre'softheotherAsiannationswhoresided inJapan. Through a seriesortreatieswith the W esternpowers,theJapanesegovernmentpublicly demonstrateditswillingnesstocooperatewiththe colonialistsatthe expe nse oftheAs ian peoples・ A few yearsearlier,aftertheRussoJapaneseW ar, -anyAsiannationaliststendedtoregardJapanas thechampionOrtheyellow raceaga】nstthewhite colonialists. Yetin 1907theChineserevoluti on-ariesand Indian activiSts in Japan,aswellas theJapanesesocialists.illCreaSingly expressed the idea thatJapan wasI-Ota ft・iend of、As ia buta "common ellemy" Who belolュged to the white imperialists'camp. By thesummeror1907,the Chinese,Indian and Japanese activistswere in closecontactwith each otherand with Korean, PhillipinoandVietna-eseemlgrC∫・

P.B.ChauwasshockedbyJapan'ssigningof'a treatywiththeFrenchinJune1907andabandoned hisideaor"relyingonJapan." insteadhejoined therevolutionariesfrom otherAsian nationsand theJapanesesocialistsin placing theirhopeson coope ration between peoples with the "same sickness." By 1907 the term "same sickness" (dg^ngb.e-nhinVietnamese,t'ungpi)lginChinese)had

(2)

東南 アジア研究 20巻3号 becomeakeyword in Chineseargumentsfわrthe

need f♭r solidarity among the oppressed Asian peoples・ Furthermore,in hismemoirsand inhis lettertoForeign M inisterKomuraill1909,P.B.

Chauusedtheopposlngterms"tlniversalprlnCiple" (co^ng lj;in Vietnamese,hung liin Chinese) and "strongforce"(cy'b'ngquJeAnin Vietnamese,ch'iallg ch'aanginChinese)thattheChineserevolutionaries, especially the anarchists, also used: "universal prlnCiple"stoodfortherigh teousnessofoppressed peoples,and "strong force" fortheirsuppression byimperialists.

Itislogicaltoarguethatafew yearsafterP.B.

ChaucametoJapantoseekJapaneseassistance,hc f

inallyabandonedhisrelianceonJapanandturned to the building or cooperation among the nationalistsofsufferingAs ia. InseekingJapanese

assistance,hehadstressed common cultur alback-ground, ethnicity, and geographical proxi-1ty between Vietnam and Japan,expressed in the phrase"thesameculture,thesamerace,and the same continent." His shift in emphasis tO the HsamesicknessHdemonstratesashiftin hisidenti_ f

iCationofthefateofhisnationwiththatofastrong andrichJapantothatorwcakandoppressedAsia.

人 或 は日ふ, 理想 は理想な り, 実行 すべ きにあ らず と, 余 以為 ら く, 理想 は 実行 す べ き もの な り,実行すべ か らざ る もの は夢想 な りと - 宮 崎滑天 『三十三年 の夢 』 自序 は じ め に ドンズ 束 遊運 動 (Phong rrrao Dbng 1)u)1)の 指 導 者 フ ァ ン ・ポ イ ・チ ャウ (Phan B¢iChau, 播 侭 珠 ) は, そ の ふ た っ の 回 想 録 -2)の 中 で , 彼 ら在 日ベ トナ ム人 が 「東 亜 同 盟 会 」 (Dらng

A

D紬 g M inh H ¢i)な る組 織 に 関 与 した こ とを 記 して い る。 「東 亜 同 盟 会 」 は, 後 述 す る よ う に , 中 国 1)来遊 運 動 の 概観 につ いて は川本 [1966a] およ び M arr[1971]を参照 された い。 2)フ ァン ・ポ イ ・チ ャウの 回想録 と して は,1914 年 に執筆 された 『獄 中書』 と, 晩年 の執筆 に な る 『滞侃 珠 年 表』 が あ る。双 方 とも原漢文。

Although

P.

B

.

Chausharedsomeoplnionswith the revolutionaries ftom othercountries,parti c-tllarly concem ing the Japanese attitude toward AsiaaI-dthecolonialpowers,hcdidnotagreewith them ineveryaspe ct. Itisworthmentionlngthat the Japanese and Chinese participants in the League ofEastAsia were deeply influenced by anarcllistideas,becatlSe they fわund in them a solution to the impasse orthe socialDarwinist explanationortheexistingworldorder. Inother words,theyrefusedtoacceptthatstrugglesbetween nations,with thestrongereating the8esh ofthe weaker,wereinevitable. TheyarguedthatAsian peoplesshould notestablishnation-statesalterthe anti-colonialrevolution had succeeded,sincethey believed thatwithoutstateand government,they couldavoidtheDarwinisticzero-sum gameamong Asian nations. Itisevidentthattheysetup the Leagueinordertospreadthisanarchistideaa-ong the Asian revolutionaries. Nevertheless, it is apparentthatP.B.Chau did notand could not accepttheirargu-entsonthispoint,sincehewas every inch a man orstrong nationalistsentiment and clungtotheideaofbtlildingan independent nation-stateoftheVietnamesepeople.

革 命 派 , 日本 の 社 会 主 義 者 , そ う して ベ トナ ム, イ ン ド, フ ィ リ ピ ン, 朝 鮮 の 在 日活 動 家 『獄 中書 』 に関 して は,本 稿 において はそ の邦 訳 [播 1966]を 引用 す る。 『播伺い珠 年表』 は 『自判」】ない しは 『自批判』 と も呼 ばれ るO いま筆者 の手許 に は, パ 1)荏 住 の ホア ン・スア ン・ハ ン (HoangXuanHan) 氏所 蔵 の 漢文筆 写稿 の コピー [HXH 所蔵本] が あ るので, 本 稿で は これ を主 と して 参 照す る。 ただ し, 以下 の越 訳版 を適宜参照す る。 - ノイ の研究者 が彼地 に残 る 漢文筆写稿 を も とに越 訳 した版O そ の 初 版 は 『自批判』 (Ty' Phe'Phdn)の タ イ トル の もとに 1955年 に 出版 され, そ の 再 版 が 『播凧珠 年 表』 (Phan B.0-i chdu Nie^n Bie'ZL, NB と 略 称) と改 題 さ れ 1957年 に刊行 されて い る。 本 稿で は, この う ち 1957年 の再版 を参 照す る。 他方 , フ工の 出 版社 が独 白に 彼地 残存 の 漢文 筆写 稿を も とに 訳 出 したのが 『白判』(7V Pha'n,TPと略称 ) で あ り, 1956年 に刊行 され た。 本 稿で は この TPを も参 照す る。

(3)

白石 :明治末期の在日ベトナム人とアジア諸民族連携の試み を糾 合 す る組織 で あ った。 チ ャウの言 葉 を借 りれ ば, その組織 の趣 旨 は 「全亜 諸 亡 国 の志 士 と聯 絡 し, 互 い に提撃 し合 い, もって各民 のぼ 族 を して と もに革 命 の舞台 に蹄 ら しめ る こ と を謀 る」(本 稿

339

ペ ー ジ参照)こ とにあ った。 この よ うな組織 にチ ャウた ちベ トナ ム人 が 関 与 した こ とに関 して は,少 な くと も次 の点 に 留意 して お く必 要 が あ る。 そ もそ もフ ァン ・ポ イ ・チ ャウは, 日本 か らの援 助 を期待 して, 日露戦 争 期 の 日本 に渡 来 した。 渡 日当初,彼 は中国保 皇派 の在 日政 客梁 啓 超 を頼 りと し, また犬 養 毅 や 大 隈重 信 (と りわ け前 者 ), そ う して来 聴 同文会 系 の 日 本 人 か らの助力 を得 た。 しか し, そ の滞 日期 の後 半 にお いて は, 日本 へ の失望 と不 信 を深 めて い った と 考 え られ る。 彼 の 「東 亜 同盟 会 」 - の参 加 は, そ の よ うな彼 の対 日認 識 の 変 化 の過 程3)で, どの よ うに位 置づ け られ得 るのか。 また, 同組 織 へ の参 加 か ら,彼 の対 日認 識 の変化 の契機 を読 み とる こ とはで きな いので あ ろ うか。特 に,この組織 が,日本 を舞 台 と して設立 され た に もか かわ らず , 日本 政 府 の助 力 や, 日本 政 府 の政 策 に連 な る 日本 人 政 客 の症 護 を拒 否 した地 点 で の, ア ジア人 同 志 の連 携 を 自覚 的 に追求 した こ とは, 注 目に 値 す る。 しか もその組織 が, 単に 2民 族 間 の 協力 (な い しは援 助 の供与 と獲 得 とい った関 係) とい う次 元 に とどま らず , ア ジア の諸 民 族 を包 含 す るマル チ イ ・ナ シ ョナル な次 元で の連 携 を志 向 して いた こ とに留 意 す る必 要 が あ る。 また, そ の よ うな連 携 の契機 が, 全 ア ジア の r亡 国」諸 民 族 同志 の協 力 におかれ て いた こ とに も, 注 目 して お くべ きで あ ろ う。 この よ うに問題 が重 要 かつ 多面 的 な性 格 を 有 して い るに もか かわ らず ,従 来 の ベ トナ ム 史研 究 にお いて は,i-東 亜 同盟会」の成立 の経 3)チャウ の対 日観 とその 変遷 に 関 しては 川本 [1972],Shiraishi[1975], 白石 [1981b],白 石 [近刊] を参照されたい。 緯 とそ の位 置づ け に関 して, フ ァン ・ポ イ ・ チ ャ ウの 回想 を無 批判 に踏襲 す るのみ で, そ れ以上 の研 究 の深化 を企 図 した もの はなか っ た。 そ の こ とは第 1に,従 来 の研 究 者 が お し なべ て了東 亜 同盟 会 」 の成立 を

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908

年 末 の こ とと して い る点 に示 され て い る

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1。 これ はチ ャウの

想 に お け る記 述 を そ の まま 踏襲 した も の に は か な らな い。 しか し, 本 稿 で筆 者 が指摘 す るよ うに, そ の主 要参 加 メ ンバ ーにつ いて の検 討 か ら導 き出 され る結 論 は, 「東 亜 同盟 会 」 の 成 立 を

1

908

年末 の こ と とす るの は 妥 当 で はな い とい う こ とで あ る。 次 に, それ に関連 して,従 来 の ベ トナ ム史 研 究 者 が

,

「東 唖 同盟 会 」 - の チ ャウた ちの参 加 の経緯 を

,1

907

年 の 日仏協 約一一一 それ に基 づ く フ ランス 当局 よ りの 要 求 -

1

908

年 中 半 以 降 の 日本 当局 によ る来 遊 運 動 の弾圧 一 -チ ャウた ちの 日本 - の失望 , とい った文脈 の 中で 評価 して い る点4)も疑 問 とせ ね ばな らな い。 これ もチ ャウに よ る回想 を そ の まま踏襲 した もので あ る。 しか し,本 稿 に おいて 指 摘 す るよ うに, 「東 亜 同盟会」 の 成立 時期 は, 実 際 に は 日本 当局 によ る弾 圧事 件 の発生 よ り 以 前 の こ と と しな けれ ばな らな い。 とす るな らば, 従 来 の ベ トナ ム史研 究 にお け る, チ ャ 4)その最 も典型的な例は,1′Ⅴ・ダイカー氏による 次のような評価である。「ベ トナム人を追放す るとの 日本の決定の ニュース が明 らか となる と, 77.ン (・ポイ ・チャウ)は, 日本を頼 りにし得ないことを 明白に知 り, どこかほか に助力を求めることを決めた。 彼は, 日本の ノデ イ カ ル ズ 急進主義者 (彼 らは,束アジアおよび東南アジ アの 反植民地主義分子を, 反帝国主義で統一 するために, 政治亡命者の マルテ ィ ・ナショ ナル な組織を 作 り出そうと試みていた) と接 触を持 っていたので, まず東亜同盟会を 組織 した」[Duiker 1976:67]。

(4)

東南 ア ジア研 究 20巻3号 ウた ちの対 日認 識 の変 化 の 契 機 , お よ び 「同 盟 会 」 参 加 の契 機 に関す る理 解 も, 再 検 討 を 加 え な けれ ば な らな い こ と とな る。 さ らに 第

3

に, 「東 亜 同盟 会 」 に は 日本 , 中 国 な どの活 動 家 た ち も参 加 して い るの で あ るか ら, 日本 ・中 国側 の文 献 を検 討 す る こ と に よ って , ベ トナ ム側 の文 献 か ら得 られ る情 報 と比 較 検 討 す る作 業 が必 要 で あ る。 しか る に, 従 来 の ベ トナ ム史 研 究 に お いて は, この よ うな面 で の努 力 も主 と して語 学」二の 障樽 か ら (研 究 者 の 多 くは 欧 米 , ベ トナ ム人 で あ る) 未 開 拓 の ま ま に残 され て き た。 具 体 的 に は, 日本 ・中 国側 の文 献 にみ え る 「亜 洲 和 親 会」 と 「東 亜 同盟 会 」 の比 較 検 討 が , 本 稿 の 前 半 部 分 の主 題 とな る。5)さ らに は, 日本 ・ 中 国側 の 文 献 を 参 照 す る こ とに よ って, 「東 亜 同盟 会 」 の成 立 の背 景 と して あ った, 当 時 の東 ア ジア の 国 際環 境 (と りわ け 日本 の対 ア ジア政 策 の動 向) と, それ に対 す る在 日ア ジ ア の革 命 家 お よ び 日本 の社 会 主 義 者 の認 識 と 対 応 を, よ り深 く理 解 す る こ とが で き る。 そ う して そ の こ とに よ って, チ ャ ウた ちベ トナ ム人 の 「東 亜 同盟 会 」 へ の参 加 の契 機 とそ の 背 景 を , よ り深 く, か っ よ り多 面 的 に理 解 す る こ と も可 能 とな る と思 わ れ る。6) 5)「亜洲和親会」 については, 竹内 [1948],蘇 屋 [1950] (糸屋 [1967]に再 録), 石 母 田 [1953] (竹 内好 [1968] に再 録), Jansen [1970] (初 版1954年),平野 [1955],小野川 [1964](小野川[1975]に再録),寺広[1966], 平野 [1966], 永 井 [1968], 丸 山 [1971], 神 崎 [1971],小 島 [1972] (小島 [1978]に 再 録), 松 本 [1974], 山泉 [1975],狭 間 [1975],大杉孝平 [1978]な どに言及がある。 なお本稿注7を参照。 6)筆者 は前稿 [白石 1981b:263以下] に お い て,日本 ・中国側の文献 を参照す ることによっ て,従来の研究の 限界を越え 得 ることを示 し た。 しか し前稿では, 紙数の制限 もあって, 十分 に議論を展開 し得たとは言 い難 い。 本稿 をもって 「東亜 同盟会」 に関す る専論を試み たゆえんである。 以上 の 点 に留 意 しつ つ ,本 稿 に お いて は以 下 の よ うな構 成 を とる こ と とす る。 まず 第

∼Ⅱ節 に お い て は, チ ャ ウの 回 想 に い う 「東 亜 同盟 会」 と 日 ・中側 の文 献 にみ え る 「亜 洲 和 親 会 」 とが 同一 組 織 に は か な らな い こ と7) を , 参 加 メ ンバ ー, 名 称 問題 , 活 動 時 期 の

3

点 にわ た って , 具 体 的 に検 討 す る。 しか るの ち に第 Ⅲ 節 に お い て は ,在 日 ベ トナ ム人 の 「ー東 亜 同盟 会 」 参 加 の 契 機 を , 当 時 の東 ア ジ ア を め ぐる国 際環 境 や , 中国 , イ ン ド, 日本 の革 命 家 の認 識 と対 応 に も留 意 しつ つ , 検 討 を 加 え る こ と とす る。

I

「東 亜 同 盟 会 」 と 「亜 洲 和 親 会 」 フ ァ ン ・ポ イ ・チ ャ ウの 回想 録 の ひ とつ 『獄 中書 』 (本 稿 注

2

参 照 ) に は, 「東 亜 同盟 会」 に関 して , 次 の よ うな簡 略 な記 載 が あ る の み で あ る。 けだ し私 が 昔 日本 に留 って 居 った 時 , か つ て黄 克 強 (黄 興 ),事 大 炎 (章 柄 麟 ) ら と 交 わ りを 結 び, ま た 張継 らや 日本 ・朝 鮮 ・ 印度 ・フ ィ リピ ン諸 国 の志 士 と と もに, 東 亜 同盟 会 を 組 織 して 亡 国 を い た み, 回復 を 図 った [播 1966:146

]

これ に対 して , い ま ひ とつ の 回 想 録 た る 『播 7)実 は, この点 に関す る指摘その ものは, すで に一部の 中国史研究者によって なされて きた [永 井 1968:97注 51;寺 広 1966:139 -140]。しか し,従来なされて きた指摘は,ふた つの組織が 同一物であると比定す るた め の, 具体的な論 証の手続きを踏 まえた もので あ っ た とは言 い難い。 なお, 従来のベ トナム 史研究者の中にあって は,唯一G・ブ-ダ レル氏 が 「亜洲和親会」に 言及 している。 その情報源 はM .ジャンセン 氏 の 著 書 [Jansen 1970]で あ る。 しか し ブーダ レル氏 は,「東亜 同盟会」 と 「亜洲和親 会」 とを全 く別の組織 とみな し,前者を1908 年,後者を1907年の設立 とす るのみであ り, それ以上の立 ち入 った 詳細な分析 はなされて いない [Boudarel 1981:166-167]。

(5)

白石 :明 治 末 期 の在 日ベ トナ ム人 とア ジア諸 民 族 連 携 の 試 み 侭 珠 年 表 』 (以下 『年 表』) に は, か な り長 い 記 載 が あ る。 そ こで以下 に, 「東 亜 同盟会 」 設立 以 前 か ら の 経 緯 を, 『年 表 』 に 基 づ き つ つ 要 約 して み よ う [HXH所 蔵本 ;NB

1

957:1

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以下 ;

TP 1

956 :1

05

以 下]。 フ ラ ンス当局 は

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908

年 初 め に, チ ャウが 日本 か らサ イ ゴ ンに送 った ふ た りの ベ トナ ム 人 連 絡要 員 を逮 捕 す る。 これを き っか け と し て, フ ラ ンス 当局 は, チ ャウた ちの組織 の実 態 を具 体 的 に掌 握 した。 そ こで彼 らは,

一方

に お いて, ベ トナ ム国 内 の父兄 を して,在 日 ベ トナ ム人 留 学 生 に帰 国 を促 す 手紙 を書 かせ た。と同時 に,日仏 協 約 が締結 され て

(

1

907

6

月 )外 交情 勢 が一 変 して いた ので,フ ラ ンス 政 府 は 日本 に対 して ,在 日ベ トナ ム人 に関 す る要 求 を 出す 。 日本 当局 もこれ を受 け容 れ, 東 亜 同文 書 院 (とチ ャウ は記 す が, 実 際 に は 東 京 同文 書 院 の こ と) 内 の ベ トナ ム入 学生 へ の干 渉 を 開始 した 。そ うして

1

908

年 陰暦 九 月 にな る と, 日本 政府 はベ トナ ム入 学生 の解 散 命 令 を 出 した。 陰暦 冬 十 月 に は, 学生 の解 散 が 完 了 し, 在 日ベ トナ ム入 学 生 の 組織 た る 「公 憲 会 」 も消 滅 した。8)こ こにお いて, チ ャ ウは次 の よ うな心 境 の 変 化 を き た した と,たの 『年 表』 に書 き留 め る。 「日本 の侍 む可 か らざ る こ とを知 り,専 ら中華 革 命 , お よ び世 界 各 民 族 の 自分 た ち と 同病 の者 に 傾 向す る」9)こ と とな った, と。 そ う して, この 時 に至 って, チ ャウは, か っ て宮 崎 沼天 が彼 に語 った言 葉 を思 い 出す 。 8)この間の経緯 についての, チャウ の回想録 と 外務省外交史料館文書[b]の間の比較検討 は, 川本[1980]を参照 されたい。 9)原文 丁一余知 日本之不可侍 〔NB 117ページには 「自分たちの事業は 日本に頼 み得 な い」 とあ る〕,専傾向於中華革命,及世界各民族之輿我 同病者 〔TP 120ページは 「中華革命を専 ら傾 向し, われわれと同病の民族に希望を持つ」 とあって,「世界」 が欠落 している〕」 [HXH 所蔵本 ;越訳の該当箇所 はNB 1957:117; TP 1956:120

]

彼 は以 前 に, 孫 文 の紹 介 で, 「日本 浪人 」 に して 「全 世 界 革 命 の思 想 を富 有 」 す る滑天 と 面 談 した こ とが あ る。 そ の時宮 崎 は, チ ャウ に向 か って 「貴 国 は, 自力 で は フ ランス人 を 打倒 す る こ とが, き っ とで きな い に ちが いな い。 だか ら,友 邦 に援 助 を求 め るの は悪 い こ と とは しな い。 しか し日本 は, ど う して諸 君 を厚 接 し得 よ うか。 日本 の政 治家 は, 大抵 野 心 に富 み, 義侠 に は貧 しい. 君 は竜:し く青年 た ちを して, 英語 , ロ シア 語, ドイツ語 を大 い に学 は しめ, 世 界 の人 々 と大 い に結 交 し, フ ランス人 の罪 悪 を 鳴 ら し,世 界 の人 々 に こ れ を 聞か しめ るよ うに勤 め よ。人 道 を重 ん じ き[) 強権 を薄 う人 々 は, 世 界 に少 な くはな

い。

彼 らに して初 めて諸 君 を授 け得 よ う」10)と語 っ た。 チ ャ ウは, そ の時 はまだ この宮 崎 の言 葉 を深 く信 ず る こ とはで きな か った。 しか し,ll.Il 時 ここに至 って, そ の 「耳並絡世界 之思 想 」 に 納得 した。 だが, 欧米 を 「浪遊 」 す る こ とを 欲 して も,彼 らに はそ のた めの資金 もな く, また 欧文 に も通 じて いなか った ので, 欧米人 士 との接 触 は,後 日を期せ ざるを得 な か った。 そ こで まず 第 1歩 と して, 「全亜 諸 亡 国 の 志 士 と聯 絡 し,互 い に提 撃 し合 い, もって各民 のぼ 族 を して と もに革命 の舞台 に蹄 ら しめ る こ と を 謀 る」 こ と と した。 また 同時 に, (ベ トナ ム人 に 対 す る) 「革 命主 義 の 宣伝 を もって, 亡 国期 間 中の教 育 とす る」11)こ と と した。 10)「貴国 自力必不能傾倒法人 〔NB l17ページに は 「貴国の力量 は・--」〕,其求援於友邦,莱 馬不足,然 日本何能厚援君。 日本政治家,人 抵富於野心,而賓於義侠O貢亨勧宜宵年輩,多 摩英語,俄徳語,多異世界人結交,鳴法人之 罪悪,使世界人聞之。蛮人迫,薄韓権,世界 止不 乏 此等人, 始 能輿 君 等援 耳」 [HXH 所蔵本 ;NB 1957:117 ;TP 1956:1 20-121]。 ll)「其第一 歩則擬 先耳並絡全亜 諸 亡国志 士, 互 相I..r.7 提撃,以諸共蹄各民族於革命之舞基 (量)〔TP 121ページの訳文によれば,「もう1段 階 レベ ルを下げねばな らなかった。すなわち,まず

(6)

東南 アジア研究

2

0

3

号 しか し彼 らはそ の時,活 動 の た めの資金不 足 に悩 んで いた。 この窮状 を救 って くれ た の か浅 羽佐喜 太郎 で あ る。 彼 か ら

1

,

7

00

円の資 金 の提供 を受 ける と, チ ャウは これ を三分 し て, それ ぞれ外 交費 , 印刷費,生 活費 にあて た。 か くして 「外交」 活動 も 可 能 と な り, 「東 亜 同盟会 」 の結 成 に至 るわ けで あ る。 「東 亜 同盟会 」 に 関す る 記 載 に つ いて, 以下 に 『年 表』 の原 文 を示 す 。 た だ し 引用 に際 して は,

HXH

所蔵本 (注

2

参照 ) を もと と し, 越訳版 た る

NB

お よびrrP (注2参照 ) にお け る異 同箇所 は,適 宜 〔

内 に示 す こ と と す る。 得欺後 , 余即 摘馬 三歎 之分配,最 多 者馬 外iflil 交 費, 印刷費 次之 ,砥 居費又次 之。 班別奔 走 於 中華 革命 薫, 輿 日本 平 民 真 之 間

NB

l1

9

ペ ー ジに は 「東 亜 同盟会 を 組織 す るた め に」 の句 が 入 って い る〕, 首 得章柄 麟 先 生 , 及 張纏景 梅 九諸 人, 馬 之 唱

NB 11

9

ペ ー ジに は 「この組織化 は, まず何 よ りも 章柄 麟 , 張継 景 そ う して 梅九 の 賛 同を得●● た 」 とあ るが,これ は明 らか に訳 者 の誤 り。 また TP

1

22

ペ ー ジに は,章柄 麟 の名前 の あ とに括 弧 で 「この人 は民 報主 任 に して 中 国 の大革命家 で あ る」 との注 が付 されて い るが, これ は原 文注 か訳者注 か判 然 と しなifdiiJ い〕。継 則朝鮮遁 君 素昂 (原文 割注 :此人 常i5JrJ 在美洲 識院愛 国), 印 度 帯 (帯 ) 君 〔TP

1

22

ペ ー ジ は 「イ ン ド人

Dai

氏」 と し, 何よりも最初に全亜の志士およびアジアの亡●●● 国諸民族 と連結 し,何 とかひとつの党に団結●●●●●● せ しめ,か くして同時に革命を行 う時期を待●●●●● つ」。 NB

l

1

7

ページによれば,「最初の段階 では全アジアを連合 し,亡国の志士を団結せ しめ,各民族が革命舞台にともにあがるべき だと私は考えた

〕,而一方面別専以革命主義 宣侍篤亡国辰期中之教育」 [HXH 所蔵本 ; NB

1

9

5

7:1

1

7;

TP

1

9

5

6:1

21

]

12)「損桂越連盟会」 の 詳 細 に つ い て は 白石

[

1

9

81

a:5

3

以下]。

NBl1

9

ペ ー ジは 「イ ン ド人

D∂i

氏」 とす る も,と もに 「帯」 の漠 越 音 で あ る〕,非律 賓但君 〔TP

1

22

ペ ー ジ は 「フ イ 7)ピン人

Da

t

氏 」 とす る。 これ に は 「但 」 の 字 が あた る。 しか し

NB l1

9

ペ ー ジは 「フ ィ リ ピン人

Ha

ng

氏」 とす る。 これ には 「恒 」 の字 が あた る。

NB

版 の 底本 が ,こ の 字 を用 いて いた のか ,あ るい は原本 に は 「但」 とあ った のを,訳 者 が誤読 したのか, いず れ かで あ ろ う〕 (以下 原文 割注 :此二 人皆 欧文 姓名 , 余忘 記) 〔この 割注 は

NB

に は 欠〕, 及 同志数 十人 ,皆 附和之 。 而 日本 大ifJEI 杉柴 珍利彦 宮 崎潜天等 , 十 飴 人 〔TP

1

23

ペ ー ジは 「張氏 ,華 氏 と, 日本 社会 党 に属●● ●●● す る

1

0

余 人,つ ま り大森栄,堺彦 ,宮 崎情●● 夫 な ど」 とす る。 ただ し 「森

」(

s

am)

は, 本 来 「杉 」

(

s

am)

とすべ き とこ ろで あ ろiFiiFJ う〕 (原文 割注 :大杉 珍利二 氏 , 馬 日本

食 薫之領 袖也 ) 〔この割 注 は,TP,

NB

と もに欠 〕,尤 同情 。以戊 申年

(

1

908

年 )十 月 ,組成東 亜 同盟倉 。我 国人馬 禽員 者, 宿 是 漠 (原文 割注 :余 之 別名 ),都 子 敏 〔TP

1

23

ペ ー ジ は

D亭ngT

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す なわ ち都 子敏 とす る も,

NBl1

9

ペ ー ジは

D草ngTも

'

Ki

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す なわ ち都 子敬 とす る。 と もに来 遊 運 動 に加 わ った実在 の人物 で あ り, しか も 別人 で あ る〕, 院 掠 林 等 十 飴 人 〔TP

1

23

ペ - ジには

「1

0

余人」 とす る代 りに 「ほかr に多 くの人 々」 とあ る〕, 此 合 成馬職 絡東 亜 之旺胎 , 然余頗 含 有 希 望

[

HXH

所 蔵 本 ;

NB 1

957:11

8-11

9;

TP

1

956:1

22

-1

23

]

このあ とに, 『年 表』 は, 「損 桂 越連 盟会 」

(

Di

nQu占Vi

tLi

e

nMi

nhHsi

)

の結成12)

な どに つ いて 言及 し,さ らに 「東 亜 同盟会 」 の 解 散 につ いて, 以 下 の ご と く述 べ て い る。

不 謂 敵 彊我弱 ,力 薄援 孤 ,首諸 邦 国債等 於 戯 。 東 亜 同盟 合成 綾数月 〔TP

1

24

ペ ー ジ,

(7)

白石 :明治末期の在日ベ トナム人とアジア諸民族連携の試み NB120ペ ー ジ は と もに 「5カ月 」 と記 す 〕, 因 禽 中骨 英 法 革 命 薫 , 而 朝 鮮 革 命 寅 , 日本 社 舎 薫 尤 馬 日政 府 所 深 嫉 者 〔NB 120ペ -ジに は 「朝 鮮 革 命 党 」 が 欠 〕, 英 法 政 府 又マーZ 慈 恵 之 , 這 脅 遂 鳥 目警 官 厳 令 解 散 [HXH 所 蔵 本 ;NB 1957:120;TP 1956: 124

]

つ ま り 『年 表 』 に よ れ ば, †東 亜 同 盟 会」 は,1908年 陰 暦 十 月 に フ ァ ン ・ポ イ ・チ ャ ウ の主 唱 の も とに結 成 され , そ れ か ら数 カ月 後 (NB,TPに よ れ ば5カ月 後 ) に, 日本 当 局 に よ って 解 散 され た とい う こ とに な る。 「東 亜 同盟 会 」 に 関 す る チ ャ ウの この よ う な記 述 に対 して , 他 方 の 「亜 洲 和 親 会 」 は, どの よ うな組 織 と して 記 録 され て い る の で あ ろ うか 。 「和 親 会 」 に 関 す る 基 本 的 な 情 報 源 は, 竹 内善 作 (善 朔 ) の 回 顧 談 [1948] で あ る。 そ れ に よ る と, 「和 親 会 」 は r明 治 四 十 年 (1907年 ) の夏 頃 か ら, 東 京 で 事 大 炎 , 張 継 , 劉 光 漢 」 な ど の 間 に 「だ ん だ ん 協 議 が す す め られ て」 で き た もの で あ る。 そ の母 体 とな った の は, 「社 会 主 義 研 究 会 」 で あ る。 これ は, 張 と劉 を 中心 と して1907年6月 に組 織 され た もの で ,

8

月 か らは 幸 徳 秋 水 た ち 日 本 人 社 会 主 義 者 を 招 い て 講 演 を 依 頼 した 。 こ の よ うな 活 動 の 基 礎 の上 に, 張 と 劉 の 「熱 心 」 な る 「提 唱 」 に よ って , 「上 置 き

13)に 章 柄 麟 (太 炎 )を 立 て て , 「亜 洲 和 親 会 」 が 設 立 され た の で あ る。 「和 親 会 」 の 「宣 言 書 」 は, 同年 秋 に 葦 の 名 で 執 筆 され た [同上 : 74-76

]。

会 の 「約 章

14)に よれ ば, 「凡 そ 会 員 は須 13)「亜 洲和 親会約章」[竹 内 1948:78] によれ ば,「会 中, 会長幹事の職無 し, 各会員皆平 均利権あ り」 とあるので, この場合の 「上置 き」 とは正式の会長 とい った ものではな く, 実質上の中心的統轄者 とい った ほどの意 味で あろうか。 14)竹 内 善 作 の 回 顧 談 の 中 に紹 介 され [竹 内 1948:77-78],それを もとに補筆 した 口語体 ら く毎 月 衆 会 一 次 た るペ し」 とあ る [同上 : 78]。 第 1回 会 合 は, 東 京 青 山 の 「イ ンデ ィ ア ン ・- ウス 」 で 行 わ れ た 。 これ は, 「ミス タ ー ・デ ー」 と呼 ば れ る イ ン ド人 を 中心 に, 6,7人 の イ ン ド人 が 合 宿 して い た 場 所 で あ る。 出席 者 と して は, 中 国 人 , イ ン ド人 以 外 に は, 日本 人 が い た 。 日本 人 と して 竹 内 の あ げて い る人 々 は,竹 内 自身 ,そ う して 堺 利 彦 , 山川 均 , 守 田有 秋 で あ る。 しか し竹 内 に よ れ ば, 幸 徳 秋 水 は 「た しか 出席 して い な か った と思 い ます 」 とい う[同所

]

第 2回 の会 合 は, 赤 司 繁 太 郎 が牧 師 を して い た九 段 下 の 「ユ ニ テ リア ン教 会 」 で 開 か れ た, と竹 内 は い う [同所 ]。 この 教 会 は 「ユ ニ ヴ ア サ リス ト会 堂」 と も呼 ば れ て お り, 日 本 の社 会 主 義 者 も しば しば こ こを集 会 場 に用 い て い た。15)この第 2回会 合 に 出席 した 日本 人 と して 竹 内 の あ げ る の は,竹 内,堺 以 外 に, 森 近 道 平 , 大 杉 栄 で あ る。 ま た , この第2回 の会 合 に は ベ トナ ム人 , フ ィ リピ ン人 も参 加 して い た 。 す な わ ち 竹 内 に よれ ば, 「安 南 の 革 命 党 ,これ は越 南 王 の叔 父 さん に あ た る人 , そ れ か ら四 , 五 人 の 青 年 達 で いず れ も中 国人 を 装 って 留 学 して い た 」 人 々で あ る と い う [同所 ]。 こ こ に い う 「越 南 王 の 叔 父」 とは, の ものが西 [1977:106以下] に収録 されて い る。 15)「堺利彦 略年譜」 も 「九段ユニテ リア ン教会」 と記 している

[

『堺利彦全集』 第6巻515]が, 『大 阪平民新 聞』 で は一貫 して 「東京飯 田町 な るユニヴアサ リス ト会堂」[6号 (1907.8. 20付):「社会主 義夏期講習

] とか, 「九 段 -..1T 阪下ユニヴアサ リス ト会堂」[8号 (1907.9. 20付):第3回 「金曜講演」 の広 告記事] と 呼んでいる。「金曜講演」 の1-4回の会場 は, ここに設 け られた。 ちな み に赤司 繁 太 郎 は 『ユニヴア サ リス ト』 とい う定期刊行物を出 版 して いた。 これ は,『大 阪平民新聞』 [8号 (1907.9.20付)] 「新刊 紹介」 欄 や 『世 界 婦人』[6号 (1907.3.5付)]の 広 告 に, 「進歩的基督教の機関」 として 紹介 されて い る。

(8)

東南 アジア研究

2

0

3

号 明 らか に院 朝 皇 族 の ク オ ン ・デ

(

Cu

'

b

'

ngD

)

の こ とで あ る。 次 に, フ ィ リピ ン人 に関 して は, 竹 内 は単 に 「一 ・二 の フ イ リッピ ンの 同 志 」 と記 して い るのみ で あ る [同所 ]。 この ほか竹 内 の 回顧 談 で 注 目を 惹 く点 は, 朝 鮮 人 の不 参 加 につ いて,彼 が再 三 言 及 して い る こ とで あ る。 す なわ ち, 「不 幸 に して 朝 鮮 の人 々 は一 人 も見 え な か った」 [同所 ], あ るい は 「私 の 知 って い る 範 囲 で は, 朝 鮮 の 人 々 は これ に当 時参 加 しな か った の で あ りま す 。 それ は 日本 人 が 出席 す るな らばわ れ わ れ は出席 しな い, とい う建 前 を と って お った の で あ ります 。 私 は第 二 回 の この会 合 の 際 そ う い う こ とを 中 国 の 同志 か らきいた こ とが あ り ます 」 [同上 :

7

6

]

とい うのが , それ で あ る。 竹 内が会 合 参 加 者 につ いて具 体 的 に述 べ て い るの は, この第 2回会 合 まで で あ る。 この こ とは, 彼 が 第

3

回以 降 の 会 合 に 出席 しな か った こ とを意 味す るの か, あ るい は単 に こ の 回顧 談 の 中で言 及 しな か った だ けの こ とな の か判 然 と しな い。 しか し, 竹 内 はそ の回顧 談 後 半 の雑 談 的 な部 分 の 中で, さ らに 中国人 の参 加 者 と して江兆 銘 [同上 :

7

8-7

9

], 閣 錫 山 [同上 :

90

-91

]

な ど の 名 前 も あ げ て い る。16) この 「亜 洲 和 親会 」 の会 合 は, 竹 内 によれ ば, 翌

1

908

2

月 ごろ に張 継 が 日本 を立 ち 去 った こ とを 主 な 原 因 と して , 「い さ さか挫 折」 し, 「ア ジア の 革 命 党 を打 って 一 丸 とす る こ ころみ が成 就 しな か った」とい う [同上 :

7

9

]。 た しか に張継 離 日後 も,「わ れ わ れ との 連 絡 は 劉 光 漢 によ って 繋 が れ た」 [同所 ] と い う (た だ し, この こ とが, 「和 親 会 」 の 組 織 と して の存 続 を意 味 す るの か, 単 に 日本 人 16)糸屋寿雄氏 [1950:200]はさ らに胡 漢民, 宋教仁,馬宋橡の名前をあげている。糸屋氏 は竹 内善朔 (善作)に直接会 っているようで あるか ら, これは竹内か らの情報か もしれな

い。

と中国人 の連 絡 が持 続 した こ とを意 味 す るの か は, 文脈 上 か らは不 明 で あ る)。 しか しい ず れ にせ よ, 「劉 は 組 織 力 に於 て も 統 率 力 に 於 て も 到底 張継 の 比 で は なか った」 とあ る [同所 ] ので , 活 動 は じき に 停止 した とみ な して よ いで あ ろ う。 以上 の フ ァン ・ポ イ ・チ ャ ウの 「東 亜 同盟 会 」 に関す る回想 と,竹 内善 作 の 「亜 洲 和 親 会 」 に関す る回顧 を比較 して み て, 一 見 して 明 白な こ とは, 第 1に, 両 者 の参 加 メ ンバ ー の共 通 性 と, 第

2

に, 両 者 の活動 期 間 の食 い 違 いで あ る。 第

2

の 問題 は次 節 にお い て検 討 す る こ と と し, 本 節 で は, まず第 1の 問題 に つ いて以下 に検 討 を加 え て み た い。 この点 に関 して まず 確 認 して お くべ き こ と は, チ ャウの い う 「東 亜 同盟 会 」 に は,中 国, イ ン ド, ベ トナ ム, フ ィ リピ ン, 朝 鮮 の在 日 活動 家 , そ う して 日本 の社 会 主 義 者 が参 加 し た とされ るの に対 して, 竹 内 の い う 「亜 洲 和 親 会 」 の参 加 者 もほ ぼ 同様 の構 成 とな って い る こ とで あ る。 た だ し竹 内 の言 に よれ ば, 朝 鮮 人 は 日本 人 と同席 しな い との建 前 を と って いた とい い, この点 チ ャウが朝 鮮 人 の参 加 を 明示 して い るの と 食 い違 う。 しか し 「和 親 会 」 の 「約章 」 そ の もの に は, 「中国, ボ ン ベ イ, 朝 鮮 , フ ィ リピン, ヴ ェ トナ ム, イギ●● リス な どの各 地 に,手 紙 の到 着 ,発 送 の た め の場 所 を 定 め る」 (傍 点 引用 者 ) [同上 :

7

8

]

とあ って, 明 らか に朝 鮮 人 の参 加 が想 定 され て い る。 また 「和 親 会 」 の事 実上 の政 治 的 マ ニ フ ェス トと称 して も差 支 え の な い 劉 光 洪 (劉 師培 )の 「亜 洲現 勢 論 」[『天 義 』

11

1

2

合 冊 (

1

907.

ll.

S

O付)

]

17)にお いて も,イ ン ド, フ ィ リピ ン, ベ トナ ム (原 文 で は安 南 ) とと もに, 朝 鮮 に も等 分 の 関心 が払 わ れ て いた。 また, や は り 「和 親 会 」 の活動 を念 頭 にお い 17)邦訳 として は丸山松 幸 訳 (西[1977]所収) および小島晋治訳 (小島 [1978]所収)があ る。

(9)

白石 :明治末 期 の在 日ベ トナ ム人 とア ジア諸 民 族 連 携 の 試み て書 か れ た と 思 わ れ る 幸 徳 秋 水 の 「病 間 放7'7 言」18)に も, 「支 那 」,

印 度 」, 「此 律 質 入 」, 「安 商 人」 と と もに, 「朝 鮮 人」 へ の 関 心 が 示 され て い るの で あ る。 そ もそ も竹 内 が 朝 鮮 人 の会 合 不 参 加 につ い て 再 三 指 摘 す るの は, 秦 を返 して い え ば, 「和 親 会 」 に 彼 らの 参 加 が も と も と予 定 され て い た か ら に ほ か な る ま い。 恐 ら く朝 鮮 人 は何 らか の形 で (例 え ば, 日本 人 の 出席 しな い会 合 に は参 加 す る とい っ た形 で), この 組 織 に 関 与 して い た と 考 え る べ き で あ ろ う。 さて そ れ で は, 個 々 の 参 加 者 の具 体 的 な検 討 に移 ろ う。 基 本 的 に は, チ ャ ウが 『年 表 』 の 中 に あ げ る 「東 亜 同盟 会 」 の参 加 者 と, 竹 内 が 示 す 「亜

和 親 会 」 の参 加 者 とは,合致 す る部 分 の方 が 多 いO 双 方 に共 通 に名 前 の あ が って い るの は, 中 国人 と して は章 柄 麟 , 張 継 で あ る。 日本 人 と して は大 杉 栄,19)堺 利 彦 が あ げ られ る。 ま た イ ン ド人 に関 して は, 竹 18)『高知新聞』 (1908. 1.1付)初 出o bコ幸徳秋 水全集』[第6巻]に再録。 た しかに竹 内によ れば,幸徳秋水 は 「亜洲和親会」 に出席 して いなか ったよ うで あ り, また チ ャウの 『年 表』にも名前がない。 しか し, も しも幸徳が この組織 に直接参加 して い な か った とす れ ば,それ は同組織の活動期間に,彼が ち ょう ど土佐 中村 に病気静養 のために帰郷 していた か らに はかな るまい。 彼の 東京 出発 は1907 年10月27日,帰京 は1908年7・8月 ごろの こ とであ る

[

『幸徳秋水全集』第6巻 「日記」; 別巻2 「年譜

]。 彼が この会 に関心を払 って いた ことは,土佐 中村 に同会の 「塊的」が残 っていた こと (本稿346ページ)か らも,明 らかであると思われ る。 19)ただ し,大杉栄 は, 1907年5月28EJにクロボ トキ ンの 「青年 に訴ふ」の翻訳で新聞紙条令 違反 に問われて,禁鍋 3カ月 の判 決を受 け, さらに巣鴨入獄 中に r新兵諸君事件」の判決 で禁姻 4カ月が決定 し,引き続 き獄 中にあっ た

[

F

大杉栄全集』 第3巻 「年表

_

」]。 彼の出 獄 は1907年末の ことと思われ る。 ちなみに 「屋上演説事件」で再入獄 していた 1908年 1月 28日付の 堀保子宛獄 中書簡 によ れば,「出てか らまだ 二た月 とも経た ぬ うち 内 は rミス タ ー ・デ ー」 を あ げ, チ ャ ウ は r一印度 入 荷 君 」 を あ げ る。 イ ン ド人 「市 民 」 の名 前 は, 章 柄 麟 の 『民 報

』[

2

0

(

1

908.

4.

25

)

]

の 時 評 「印 度 人 之 親 日本 」 や 「印 度 人 之 論 国 粋 」 な どの文 中 に も登 場 して い る (本 稿

351

,357

ペ ー ジ参 照 )0 「帯 」 は 中 国語 で は

Dai

の発 音 と な る の で , 竹 内 の い う人 物 と同一 とみ な して 問 題 はな い で あ ろ う。 な お チ ャ ウの 『年 表 』 に は, イ ン ド 革 命 党 の 「篤 魁 帯 君 」 との 接 触 につ い て言 及 した箇 所 が あ る

[

HXH

所 蔵 本 ;

NB 1

957:1

46;

TP 1

956:1

51

]。 こ こに い う 「帯 君 」 も前 に述 べ た と ころ の チ ャ ウの い う 「帯 君」 と同 じ とみ て よ いで あ ろ う。20) フ ィ リピ ン人 につ い て , チ ャ ウ は具 体 的 に [但 君

」 (

NB

で は 「恒 」 君 ) の名 を あ げ る。 「但 」 は 中 国 語 で は

D<

A,

も し 「恒 」 とす れ ば

H6ng

の発 音 とな るが,い ま の と こ ろ, こ の人 物 の 詳 細 につ い て はわ か らな い 。 他 方 , 竹 内 の 回想 に は, 「一 ・二 の フ イ リッ ピ ンの に,又,おわかれになろうとは」 との一節が あ る [同上聾 :第4巻407]。 また 『天義』に よれば,彼 は 「社会主義講演会」の11月第2 日曜の会合 に来演 している (注36参照)。 本 稿で 指摘す るように, 「亜洲和親会」-「東亜 同盟会」 とし, その 設立時期を竹 内 善 作 の 証言 す るよ うに1907年秋 の こ ととす るな ら ば,大杉 は同会の設立 当初 には,まだ獄 中に あった ことにな る。 大杉の参加 は,彼の出獄 後,すでに設立 されていた 「和親会」 に遅れ て合流す る形を とった と解すべきであろ う。 ちなみに竹 内の回想によれば,大杉の出席 は 「和親会」 の第2回の会合であ って, 第 1回 の会合 には出席 していなか ったようであ る。 思 うに第 1回の会合 は,大杉の出獄以前 に開 催 されていたのであろ う。 20)ただ し,NB 146ページは f)さとす るも,TP 151ページ に はDeとな って いる。Dさには 帝,帯の双方の漢字が該 当す る。TPにい う DeはD昌の誤記 とみなすべ きであろう。 な お, 帯の中国語発音 は

Di

である。 イン ド人 「帯氏」 と 中国人 の 接触 につ いて は, 小 島 [1978:78],丁[】957:26以下]を も参照 さ れたい。

(10)

東南 アジア研究 20巻3号 同志 」 とあ るのみで具 体 的 な名 前 を あげて い な いが, や は りフ ィ リピン人 の参加 を証言 し て い る。 ベ トナ ム人 に関 して は, チ ャウの回想録 で は,播是

洪 (

PhanTh主Han)

す なわ ちチ ャウ 自身 以外 に, ダ ン ・ トゥ ・マ ン

(

D亭

ng

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n

, 都 子 敏) な い しは ダ ン ・トゥ ・キ ン

(

D亭ngT

L

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, 都 子敬), そ う して グ ェ ン ・ク ィン ・ラム

(

Nguy昌

nQuテnhLam

, 院環林) ら

1

0

余人 の参加 が指摘 され て い る。 他 方,竹 内の方 は,「越繭玉 の 叔父 さん に あ た る人」 す なわ ち ク ォン ・デ と,

4,5

人 の留 学生 の参加 を指摘 して い る。 チ ャウの方 が 自 分 た ちの組織 の盟主 で あ る クォン ・デ に言及 して いな いの は, やや奇異 に感ず るが, その 点 を除 けばチ ャウと竹 内の 回想 に矛 盾点 はな

い。

これ以 外 の 日本人 , 中国人 参加 者 につ いて は, チ ャウの回想 のみ に名前 のみ え る もの, 逆 に竹 内の回想 の方 にのみ あが って い る もの が あ り,若干 の異 同が あ る。 ただ し, この点 につ いて まず指摘 して お くべ きな の は, チ ャ ウ も竹 内 もその回想 の 中で参加者全員 の名前 を網羅 的 にあ げて い る わ け で は ない の だ か ら, そ の よ うな異 同を もって して ただ ちに矛 盾 と呼 ぶ こ とはで きない とい う ことで あ る。 チ ャウの方 に名 前 が あが って お り,竹 内の 回想 の方 に は出て こない中国人 の ひ と りは, 景 梅九 で あ る。景梅 九 白身 の回想録 『留 日回 顧』21)によれ ば,彼 は

1

90

4

年 に留 学 のた め に 渡 日 して い る。彼 は在 日期 間 中 に中国 同盟会 に参加 した最 初 の 山西省人 で あ り, また 山西 同郷会 の会長 を務 めて いた こと もあ った [景

1

96

6:8

9

-90

]。彼 はまた

1

907

年 にな る と, 日本 の社会主 義者 の運 動 に関心 を持 ち始 めて 無 政府主 義 に傾倒 し,幸徳 秋水 らの講演 会 に 参加 した り, 大杉栄 にエ スペ ラン ト語 の教示 21)景梅九 (定成)の自伝 『罪案』の部分訳。な お,波多野

[

1

9

7

3

]

をも併照されたい。 を受 けた り し て い る [同上 書 :

1

1

2

-1

24

]。 同時 に彼 はまた,中国人 の 「社会主義研 究会 」 の メ ンバ ー と な っ て い る [同上 書 :

1

25-1

44

]。 この組織 は上 述 の通 り,張継 や劉 師培 な どを 中心 とす る組織 で あ り,「亜洲和 親会」 の母体 とな った もので あ る。 つ ま り景梅九 が 張継 や劉 師培 た ちの グル ープの一員 で あ った ことは明 白で あ る。 他 方,竹 内の回顧談 のみ にあ って, チ ャウ の方 に は出て こない主要 な 中国人 と して は, 劉光漠 が あげ られ る。 竹 内善作 は劉光漠 につ いて,「これ は 後年 劉思 復 あ るい は劉 師培 と 称 した人 」 [竹 内

1

9

48:7

4]

と述 べ て い る が,劉思復 と劉 師培 ほ実 際 に は別人 で あ り,光 漢 は この うち後者 の号 で あ る。22)劉 師培 は ,

1

907

年 陰暦 正月 に来 日 して い る [森

1

97

8:

1

62

]。

そ う して彼 は, 上 に紹 介 した 竹 内の 回顧 談 か らも明 白な通 り, この ころ事柄 腰 や 張継 と思想 的 に近 く, また常 に行 動 を と もに して い るので あ る。 また, チ ャウの 『年表 』 において は劉 師培 (光漠) の名前 に言 及 され て いない ものの, 彼 が劉 と

1

9

07

年 に は面 識 の あ った ことは,後 者 の 「亜 洲現勢 論」 [『天 義』

11

1

2

合 冊 (

1

9

07

.

ll

.S

O付 )] の記述 か らも窺 われ る [小 島

1

97

8:86-87

]。 し か るに 『年表』 の中で, チ ャウが劉 に言 及 し なか った の は, 竹 内善作 の述 懐す るご と く, 劉 が組織 力 や統 率力 に欠 け る人物 で あ って, あ ま り目立 たなか った た めか も しれ な い。 あ るい は,チ ャウが 中国革命党 の動 静 に詳 し く, 劉 の後 日の変節 を知 って いたた め に, あえて 言 及 しなか った のか も しれ ない。 竹 内の回想 のみに登場 す る中国人 としては, 22)ちなみに察元培 「劉君申叔事略」[『劉申叔先 生 遺書

]冒頭部分に,「君名師培,申叔其字 也,又名光漢,別紙左査」とある。 これに対 して劉思復は劉師復 とも称 し,香港,広東で 活動 していた別人のアナーキス トである [ス カ ラ ピー ノ ;ユ -

1

9

7

0:7

3

-

7

5

]

.

(11)

白石 :明治末期 の在 日ベ トナ ム人 とア ジア諸民 族連携 の試 み ほか に江兆 銘 と閤錫 山が あ げ られ る。 閤錫 山 は, 外 務省外 交 史料館 文書

[

a]

に よれ ば, 1906年 に振 武 学校 を卒 業 して第 8師団 に 入 隊,1907年 碁 に 日本 の士 官学校 に入学,1908 年 碁 に それ を 卒 業 して た だ ちに 見習 士官 と な って い る。 これ よ りみ る と, 彼 は1907年 か ら1908年 にか けて東 京 に 滞 在 (士 官学 校 在 学) して いた こ ととな る。一 万 ,.EE兆 銘 に 関 して は,『国父年 譜 』 によれ ば,1907年6月 に は香 港 にあ り,以 降孫文 の意 を体 して1908 年 末 まで東 南 ア ジア各 地 で金策 に奔走 して い た ら しい

[

『国父年 譜』 1964:217-219]。 この間 日本 に立 ち戻 った こ とが あ ったのか も しれ な いが,竹 内の い う1907年 秋 か らの 「和 親会 」 の会 合 や,チ ャウの い う1908年 冬 (そ れ が正 しい と して) か らの 「同盟 会 」 の会 合 に出席 し得 た のか疑 問が残 る。 竹 内 の回想 に あが って いて, チ ャウの方 に は具体 的 な 名 前 が 出て こな い 日本 人 と して は,竹 内善 作 (善 朔) 白身 を初 め,森近 運 平, 山川 均 ,守 田有 秋 な どが い る。 しか し,彼 ら はお しなべ て, 大杉 や 堺 と同 じ く幸 徳 秋水 の グル ー プに属 す る活動 家 た ちで あ った。23) チ ャウの方 に名前 が あが って いて, 竹 内の 回顧 談 に は登 場 しな い 日本 人 と して江 別 こ値 す るの は,宮 崎 沼 天で あ る。 宮 崎 は幸 徳秋 水 た ち と接触 はあ った もの の, その社会 主 義者 グル ー プの 一 員 とは み なせ な い (この 点, チ ャウの 『年表 』 の記述 が, 宮 崎を 日本 社会 党 の一 員 と考 え て い るよ うに とれ るの は興 味 23)幸徳 秋 水 派 の社会 主 義 者 につ いて は,堺 利彦 「社 会主 義運 動史 話 」 [『堺 利彦 全集 』 第6 巻 251-253],同 「日本 社 会 主 義運 動小 史」[同上 書 :第6巻330-332],Ll川1[1961:247以 下], 糸屋 [1967:229以 下], 森 長 [1968:567以 下], 秋山[1968:1章], 神崎【二1971:256 以 下],田中 [1971:239以 下],松田 [1963 :36以 下], お よ び 『日本平 民新 聞』 [12号 (1907.ll.20付);13号 (1907.12.5付)] 消 息欄 な どを参 照 され た い。 深 い)。 また 何 よ りも 『宮 崎沼天全集』 を み る限 り,彼 自身 には 「同盟会 」 な い しは 「和 親 会 」 に関 与 した ことを示す言 及 はみ あた ら な い と思 われ る。 しか も彼 は1907年 8

31 日か ら, 片 山潜 主 宰, 労働 奨 励会 派 遣 の関 西 ・九州 巡 業 に 出立 し, 同年末 の12

22日 ごろまで 東 京 に戻 って いな い ので あ る

[

『宮 崎 沼天全集 』 第 5巻 「年譜

]。 も しも 「東 亜 同盟 会」 が 「亜 洲和親会 」 と 同一 組織 で あ って, しか も本 稿 で主 張す るよ うに, そ の 成立 時期 が1907年 秋 ごろの こ とと仮 定す る と,宮 崎 沼天 が そ の設立 当初 か らの参加 者 で あ った とはみ なせ な い こ ととな る。 上 述 の ご と く, チ ャウの 『年表 』 に あ って は,宮 崎 のマ. 「耳並絡 世界之 思 想」 に共 鳴 した ことが, チ ャ ウの 「同盟会 」 参加 の重 要 な契機 とな って い るだ けに, この点 は気 にか か る。 な お, ちな み に, チ ャウは宮 崎 と, 1905年 と1906年 に それ ぞれ 1度 ず つ面 談 した こ とが あ る。 その 後 1907年末 にな って 再会 見 を 希 望 したが, 上 述 の ご と く宮 崎 が地方巡業 中だ った た めに 果 たせ ず ,12

26日付 で,会見 したい 旨の 書簡 を送 って い る。 3度 日の面 談が,宮 崎 の 帰 京後 に実現 した か否 か は, い まの と ころわ か らな い。24) 以上 にみて きた よ うに,若 干 の疑 問点 (特 に江兆 銘 や宮 崎 沼天 の場 合) は残 る もの の, 参加 メ ンバ ー に関す る限 り, チ ャウ の い う 「東 亜 同盟会」 と 竹 内の い う 「亜 洲和 親会 」 は共通 点 が多 く,矛 盾 点 はほ ぼな い とい って よい ので あ る。 次 に, 名称 を め ぐる問題 につ いて言 及 して お く。 小 野川 秀 美氏 は

,

「亜 洲和 親会 は東 亜 亡 24)本 稿 で は詳 細 を省 くが,『年 表』にお ける記 載 [HXH所蔵本 ;NB 1957:117;TP 1956 :120-121],宮崎潜天宛のチャウの書簡 [『宮 崎満 天全集』 第5巻691],『革 命評 論』[2号 (1906.9.20付):「編輯 日誌」]の記載など を勘 案 して 得 た結論 で あ る。

(12)

東 南 ア ジア研 究 20巻3号 国 同盟会 と も呼 ばれて いた よ うで あ る」 と述 べ て い る [小 野川

1

97

5:360

]。 その 典 拠 は, 張笠漠 の 「光 復 禽領 袖 陶成幸 革命史」 に 求 め られ る [同上 書 :

365

25

]。い まその原 文 をみ る と,丁

末 (1

907

年 )秋 「更 輿 焚光結 印度 , 安南,緬 旬,諸 志士 ,在 日本東 京 設立lTI.' 東 亜 亡 国 同盟 合,擁章 太炎馬 食長 。冬 ,在昔 風事, 借 張纏 等 講演 , 提 侶社食主 義」 [張笠 渓

1

957:524]

とあ る。 また, 張玉 法氏 の 著 書 も, 中国の 革命 団体 を 示 した 一 覧 表 の 中に 「東 亜 亡 国 同盟禽 」 を 記 載 して い るが [張玉法

1

975:637

], そ の典拠 も同 じ く張 笠 演 の文章 で あ る。 さて, この 「東 亜 亡 国 同 盟 会 」 は, ビル マ (緬旬) の志士 云 々 と述 べ て い る点 に疑 問 は残 る ものの,章 柄麟 を 中心 とす る 組織 に して, かつ イ ン ド, ベ トナ ム (安南 ) の志 士 を組合 して いた点 や,

1

907

年 に東 京 で設立 され た と して い る点 な どにお い て,竹 内の い う 「亜洲 和親 会」 と重 な る。 ち なみ に陶成章 は,葦柄 麟 の光復会 系 に属 し, 孫文, 黄輿 あ るい は 「新世 紀杜 」 の グル ー プ とは対立 して いた [久保 田

1

97

6:421

以下 ; 永 井

1

97

4:1

3]。

とす るな らば,竹 内の い う 「亜 洲和 親会 」 は 「東亜 亡 国 同盟会」 と も 呼 ばれ て いた こ ととな り,名称 の点で もチ ャ ウの い う 「東 亜 同盟 会」とつ なが るので あ る。 さ らに糸 屋寿 雄氏 は,「亜 洲和 親会 」 の こ とを 「東 亜 和親 会」 と呼ん で い る●● 。 彼 は幸 徳 秋水 の郷里 土佐 中村 を訪 れ た時, この 「東 亜 和 親会 の規約 が保 存 され て ゐた」 のをみて い る とい う [糸屋

1

950:1

99-201

]。 同 じ く 平 野 義太郎 氏 も, その 典拠 は 定 か で は な い が,「亜 洲和 親会 」 と と もに 「東 亜 和親 会」 な る呼 び方 を も用 いて い る [平 野

1

955:1

46

以下 ;

1

966:1

5

以下]。25)この よ うに 「亜 洲 和親会」 が 「東 亜和親会 」 と も呼 ばれ て いた●● 25)田中惣五郎氏[1971:337]も 「東亜和親会」 としている。 のが 事 実 と す れ ば, ここで も チ ャウの い う 「東亜 同盟会 」 との 名称上 の 類 似性 が注 目さ れ る。26) ⅠⅠ 活 動 期 間 前節 にみ た ご と く, チ ャウの い う 「東 亜 同 盟会 」 と,竹 内のい う 「亜洲和 親会 」 を, 同 一 組織 で あ る と比定 す るた めの最 大 の問題 点 は, その活動期 間の食 い違 い にあ る。 チ ャウ は 「同盟会 」 の成立 を

1

908

年 陰暦 冬十月 (陽 暦 で

1

0

25

-11

23

日)の こ とと し, 日本 官憲 によ る その 解 散 を, それか ら 数 カ月後

(

N

B,

TP

で は

5

カ月後 ) の こと とす る。 こ れ に対 して竹 内 は, 「和親会」 の成立 を

1

907

年 秋 ごろの こと と し, 翌年 の 初 め に は 活 動 を停 止 した とみ なす 。 そ こで本 節 で は, まず チ ャウの 『年表 』 にい う活動 期 間が,果 た し て妥 当で あ るか否 か の検 討 か ら始 め る こと と した い。 具 体 的 には, 『年表』 に 言 及 され て い る人 々の 中で,その略歴 の判 明す る中国人, 日本人 の い く人 か につ いて,果 た して

1

908

年 陰暦 冬十 月 ごろに どのよ うな状況 にあ ったか を考 察 す る。 『年表』 に 名前 の あが って い る 中国人

3

人 の うち,まず 張継 につ いて み る。 彼 は

1

908

年 陽暦

1

17

日にいわ ゆ る 「屋上 演 説事件」 に 関連 し, 警察 当局 か らの追及 を恐 れ て,

1

月 な い しは2月 ごろに 日本 を 離 れ パ リに 赴 い て い る [永 井

1

968:57

;小野 川

1

97

5:

364

]。同事件 は, 日本 の社会 主 義 者 の主 宰す る 「金 曜講演 」 が 中止解 散命 令 を受 けた こ と に端 を発 して, その参加 者 が官憲 と衝 突 した 26)波多野太郎氏 も,「社会主義研究会」 は 「後 に束亜研究会に発展することとなった」 と記 す [波多野 1973:9]。その依拠資料は明示 されていないが,ここにいう 「東亜研究会」 が 「亜洲和親会」に相当するものであるとす るな らば,ここでもその名称に冠された 「東 亜」なる語に注目しておいてよい。

(13)

白石 :明治末 期 の在 日ベ トナ ム人 とアジア諸民族連 携 の試 み 事 件 で あ り, 6人 の検 束 者 を 出 して い る。 張 継 は この 時 危 う く 逮 捕 され る と ころ で あ っ た。27)当 時 彼 に は清 朝 政 府 か ら懸 賞 金 が か け られ て い た との 情 報 もあ り

[

『日本 平 民 新 聞』

21

号 (

1

908.4.5

付 ):「張 継 君 を 懐 ふ 」;山 川

1

961:304

], 身 の 危 険 を 感 じて も い た の で あ る。 い ま ひ と りの景 梅 九 は

,1

908

年 に は, 創 設 され た ば か りの 「震 旦 公 学」28)の教 員 とな る た め に, 中 国 に 帰 って い るO 彼 の 『留 日回 顧 』 に よ れ ば, 「震 旦 公 学」 の あ る 青 島 に立 ち寄 った あ と, 北 京 , 大 原 を 経 て 故 郷 の 山西 に戻 った 。彼 はそ の年 の 中秋 (八 月 十 五 日, す な わ ち 陽暦

9

1

0

日)を 大 原 で 迎 え て い る。 ま た 山西 滞 在 中 に彼 は再 婚 し, そ の 直 後 に光 緒 帝 と西 太 后 の 死 亡 す る事 件 (陽 暦

11

月 ) が あ った とい う [景

1

966:1

45-1

5

(),

1

58]。

彼 が 再 度 日本 に 渡 った の は, 大 逆 事 件 の裁 判 が 進 行 中 の

1

91

0

年 の こ とで あ った 【二同上 書 :

174-1

86

]。 つ ま り彼 は,

1

908

年 前 半 期 以 降

1

91

0

年 ま で , 日本 に は滞 在 して い な か った こ と とな る。 次 に 日本 人 につ い て み る と, 大 杉 栄 , 堺 利 彦 は, 他 の 同志

4

人 と と もに, 上 述

1

908

年 1 月

1

7

日の 「屋 上 演 説 事 件 」 で 検 束 され て い る (注

27

参 照 )029) 『日本 平 民 新 聞

』 [1

7

号 (

1

908.2.5

付 ):

1

5

両 ;

1

8

号 (

1

9(

)

8.2.20

27)詳 しくは守 田有秋 「金曜講演迫害.言己」 [『日本 平民新聞』 17号 (19O8.2.5付)];堺 利 彦 「日本社 会主義運動 における無政府主義 の役 割」[『堺利彦全集』 第6巻299]。 なお 『熊 本評論』(1908.2.5付) によれば 「張継君 は一旦 同志 に救 ほれて其場を遁れた るも,此 頃京都 にて 捕 はれた りと云 ふ」 [田中 1948 :364] との情報 もあるが, これ は誤報のよ うであ る。 28)1908年春, 青 島に設立O 山東省の 重要 な革 命宣伝 機関 とな った [張玉法 1975:683; 『国父年譜』 1964:248]。 29)その公判の模様 と判決につ いて は刑中 [1948 :361-363]。 付 ) :

3

面 ] に よれ ば, 彼 らは

1

17

日に本 郷 警 察 署 に 拘 引 され ,

1

9

日東 京 警 視 庁 ,

20

日東 京 監 獄 に押 送 され ,

2

月 上 旬 に堺 , 大 杉 と山川 均 に

1

カ月

1

5

日の軽 禁 鏑 が 言 い 渡 され て い る。 彼 らの 出獄 は

3

26

日の こ とで あ る [同上 新 聞

21

号 (

1

908.4.5

付):

1

4

面 ]。 しか る に堺 , 大 杉 は

1

2

人 の 同志 と と もに, 同年

7

2

2

日の 「赤 旗 事 件」30)で 再 び検 挙 さ れ て い る。 主 謀 者 格 の 大 杉 に は

2

6

カ月 の 懲 役 , 堺 に は2年 の 懲 役 と, ほ か に余 罪 と し て2カ月 の 軽 禁 鏑 が 課 され た。 彼 らは9月 に 千 葉 監 獄 に押 送 され , そ こで 刑 に服 した。31) 堺 の 出獄 は

1

91

0

9

22

[

『堺 利 彦 全 集 』 第

6

巻 「年 譜 」], 大 杉 は同 年

11

29

[

『大 杉 栄 全 集 』 第

3

巻 「年 表

]

の こ とで あ る。 以 上 み て き た よ う に, チ ャ ウ が 『年 表』 の 中 に あ げ た人 々 の う ち, 張 継 と景 梅 九 は 日 本 国外 に あ り, 大 杉 栄 と堺 利 彦 は獄 中 に あ っ て , と もに

1

908

年 陰 暦 十 月 あ る い は そ れ 以 降 の 時 期 に, 活 動 に 参 加 で き る 状 態 に は な か った 。 つ ま り チ ャ ウの 『年 表 』 に お け る 「東 亜 同 盟 会」 に 関 す る記 述 に 関 して , 活 動 時 期 と参 加 メ ンバ ー は両 立 し得 な い。 と こ ろ で チ ャ ウの い ま ひ とつ の 回 想 録 『獄 中書 』 の 30)「赤旗事件」 に関 して は, 堺利彦 「社会主義 運動史話」[『堺利彦全集』 第6巻238-239], 同 「日本社会主義運動 における-・-」 [同上 書 :第6巻303-304], 同 「赤旗事件の回顧」 [同上書 :第3巻425-430], 山川均 「ある凡 人 の記録」[山川 1961:311以下],『大杉栄 全集』 [第3巻 「年表」], 田中 [1948:462] な どを参照 されたい。 31)山川均 「ある凡人の記録」[山川 1961:313] によれば,「私をのぞ く被告の全部 は一審で 服罪 して千葉監獄 に送 られたが,私 は家のあ と始末な どの必要か ら-たん控訴 し,ま もな く控訴を取 り下げて服罪 した。たぶん秋 の初 め ごろだ った と思 う,二十人ばか りの囚人た ちとい っしょに ,千葉監獄 に護送 された. と あ るので,大杉,堺が判決後ただちに千葉監 獄 に収監 された ことがわか る。『堺利彦全集』 [第6巻 「年譜

] によれば, 堺 の千葉監獄へ の押送 は1908年9月 とな って いる。

(14)

東南 ア ジア研究 20巻3号 中で は, 前 掲 の ご と く (本 稿

338

ペ ー ジ), 「東 亜 同盟 会 」 に関 して そ の成 立 時期 が 明示 され て い な い一 方 で, 同組 織 と張継 の結 びつ き は非 常 に明確 な形 で示 され て い る。 つ ま り チ ャウの記 憶 にお いて, 「同盟 会」 と 張継 は 切 り離 し難 い もの とな って い る。 この点 を も 勘 案 す る と ,「同盟 会 」 の成 立 時期 は ,『年 表 』 の い う ご とき

1

9

08

年 陰暦 十 月 の こ と とはみ な し難 く, そ の 時 期 は, 実 際 に は

1

908

1

・2

月 の張継 の離 日以 前 の こ とで あ った と し な けれ ば な らな い こ と とな る。 とす るな らば,チ ャウが 『年 表 』 にお いて, 「同盟 会 」結 成 の 背 景 と して 説 明を加 え て い る部 分 に も, そ の妥 当性 に関 して再 検 討 を加 え な けれ ば な らな くな る。 彼 の 回想 にお い て は, 「同盟 会」の結 成 は,

1

908

年 陰 暦 九 月 の 学生 解 散 の命 令 - チ ャウ の 日本 - の 失望 と, 中華 革 命 お よ び世 界 の 「同病 」 の諸 民 族 - の 関心 の移行 , とい った一 連 の事 件 の文脈 の 中で 把 え られ て い る。 しか も彼 は, この よ うな 日本 当局 によ るベ トナ ム人 組織 弾 圧 の背 景 と して,

1

907

6

月 の 日仏 協 約 の締 結 と, そ れ が そ の後 の 日 ・仏 両 当局 の 関係 に及 ぼ し た影 響 を強 調 して もい る。32) チ ャウの 『年 表 』 にお け る, この よ うな 因 32)『獄 中書』には, フランスは 「同時に日仏協 約の関係上, 日本政府 に交渉 して,わが党の 首魁 引渡 しと留 日学生田の解散を要求 しま し た」 とある [清 1966:141]。また 『年表』 には,1908年の サイゴンにおける連絡要員 の逮捕の一件 に続けて, 「禽一日法協約成,交 i51i51 外情勢一撃,法有所求 日人骨曲狗之.とあ り, ついで 日本当局による東亜 同文書院 (実際に は東京同文書院)内のベ トナム入学生への干 渉事件が 記 されて いる [HXH所蔵本 ;NB 1957:101;TP 1956:105-106]。また同 じ く 『年表』 の1909年陰暦二月の記載 にも, ク *ンヂ 「析外 (畿外侯 彊楯:の こと)輿余同辰被 日政 府逐 出境外之令。野外限二十四小辰,而余則inih 限旬 日内,倶不得遮限滞留。蓋 (蓋か) 日法 協約成立之影響也」 とある [HXH所蔵本 ; NB 1957:124;TP 1956:128

]

果 関係 の説 明 は,本 稿 の 「は じめ に」 の部 分 で も指 摘 した よ うに, い ま まで の ベ トナ ム史 研 究 者 に よ って も, その ま ま 踏襲 され て き た。 しか し, この よ うな評価 の根 拠 は,本 節 にみ て き た よ うに 否 定 され な けれ ば な らな い。 つ ま り 「同盟 会 」 の成立 は

,1

908

年 陰暦 十 月 の こ ととは考 え られ ず ,少 な くと も張継 の離 日す る

1

908

1

2

月以 前 の こ と と しな け れ ば な らな い。他 方 , 日本 当局 に よ る在 日ベ トナ ム人 へ の干 渉 が本 格化 す るの は

,1

9

08

年 後 半 期 あ るい は

1

909

年 初 めの こ とで あ る。33) に も か か わ らず , 『年 表 』 の 中で, チ ャウ が事 実 とは逆 転 した 因果 関係 を提 示 して い る の は, なぜ で あ ろ うか。理 由 と して は, ふ た つ の可 能 性 が考 え られ よ う。 そ の ひ とつ は, 彼 が本 当 にそ の よ うに記憶 して い た可 能 性 で あ る。 また い ま ひ とつ は,彼 が意 図 的 に時 間 的順 序 を 逆 に した可 能 性 で あ る。 も し前 者 と す れ ば, 彼 に と って, そ の記 憶 を ね じま げ る ほ どに, 日本 当局 の弾 圧 の衝 撃 が 大 きか った こ とを意 味 しよ う。 また後 者 とす れ ば, それ だ け 日本 当局 に よ る弾 圧 に対 す る彼 の失 望 感 が 大 きか った こ とを強 調 した か ったか らにほ か な るまい。 さて 以上 に指 摘 して きた ご と く, 「東 亜 同 盟 会 」 の活動 期 間 に関 して, チ ャウ の 『年 表 』 にお け る記 述 は, 事 実 に合 致 しな

い。

し か も, そ の成 立 時 期 は

,1

908

年 初 頭以 前 の こ と と しな けれ ば な らな

い。

とす るな らば 「東 亜 同盟 会 」 は, 竹 内 の い う 「亜 洲和 親 会 」 と 同一 組織 で あ って, しか もそ の活 動 時 期 は竹 内 の い うご と く

1

9

07

年 秋 ごろの ことで あ る と み なす蓋 然 性 はます ます強 くな った とい う こ 33)『年表』によれば,1908年の 日本警察の東京 同文書院内のベ トナム人への干渉が,その最 初である。 日本の外務省外交史料館文書 [b] によれば, 日本当局のベ トナム人組織の動静 調査の開始は1909年初頭の ことである。これ については長岡[1966]

,

川本[1980]を参照 されたい。

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