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与那国島の水田立地と稲作技術 ―― 東南アジア島嶼部稲作との関連において――

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東 南 ア ジ ア研 究 21巻3号 1983年12月

与 那 国島 の水 田立 地 と稲 作技 術

- 東 南 ア ジア島峡 部 稲 作 との 関連 にお い て

司*

TraditionalRiceCultureonYona皇uniIsland A ComparisonwithRiceCultureintheSoutheast

AsianArchipel a皇O-KojiT ANAKA*

YonaguniIsland,locatedatthesouthwesternend ofthe Ryukyu Islands,hasahumid sub-troplCal climate. Infbrmation on traditionalrice culture on theisland prlOrtO theintroduction oftlle S O-CalledHora3'rice,the new high -yieldingvarieties bred in Taiwan in the 1930S,was collected by interviewing old farmers,and the characteristics ofrice culturewerecompared with thosein the SoutheastAsianarchipelago・

W et-ricefieldsonYonagunilslandwereclassi丘ed intothreegroupsaccordingtotlleirwaterand soil conditions:rain-fed(tz.nchz'da),inundated(nn'nza),

and muddy or swampy (h房da). The technical componentscharacterlZlng thericeculttlreOftile islandvariedwidelywiththelocationalconditions・ Forland preparation,forexample,the dominant methodin each groupwasasfollows:tilling and levellingbyhandonlyinkzfda;tillingby wooden hoe and by cattle-trampling, and levelling by harrow inminza;andtillingbyplough ,preventing

seepage by cattle-trampling, and levelling by harrow in ttnchida・ The traditional cropplng seasonofwetricepriortO theadoption OfHorai rice)withwhichdoublecropplngOfricewasest ab-lished,differedfrom thatofthemainlandofJapan.

は じ め に

与那 国島で営 まれて きた伝統 的 な稲作 の姿 *京都大学東南 アジア研究 セ ンター ; The Center

forSoutheastAsianStudies,KyotoUniversity

W etrice was generally transplanted in January and February with two-month101d seedlings and harvestedinJuneandJuly. Thiscropping season wasfavouredbytherainfallduringthenortheast・ monsoon season, commenclng in October, and could avoid danger of typhoons between July andSeptember・ A similarcropplngSeasonCanbe found in Taiwan and the east coast of the PhilipplneS aS Well as throughout the Ryukyu islands. The local varieties replaced by the Horai rice had the followi ng morphologlCal characters:longculm,longpanicle,low tilleri ng-capacity)long awn)black orbrown huskJlarge grains,etc・ These characters are considered to resemble those of localvarieties grown in the SoutheastAsian archipelago,which belongtothe so-calledbuZuorjaZJanicatype.

Traditional rice culture on Yonaguni lsland thusappearstohavebeen characterized by com・ ponentscommontoriceculturesoftheSoutheast Asian archipelago,and is consequently thought tohavehad aclosegenealogicalrelationwith this reglOn,aS indicated by the practice of cattl e-trampling and thesimilarity orricevarietiesand CrOpplngSeaSOn・

を,立地 に即 して記述 す ること, そ して, こ の地 の稲作技術 の特徴 を東南 ア ジア島峡部 の 稲作 との比較 において考察 す ること, これが 本稿 の 目的で あ る。

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東南 ア ジア研究 21巻3号 15世紀 の朝 鮮人 漂 流者 の見 聞を記録 した 『成 宗 大王 実録 』巻 105の記載 が最 初 で あ る。 こ れ によ る と,与那 国 島 で は,主 食 物 に米 を も っぱ ら用 いて いた こ と, そ して,牛 に水 田を 踏 ませ て苗代 を こ しらえ,移植 稲作 を行 な っ て いた ことな どが うか がえ る [伊 波 1927: 50]。この漂 流者 た ちが与那 国 島滞 在 の の ちに 見 聞 した南 島 の他 の島 々 (た とえ ば, 西表 島 祖 納 , 波照 間 島, 宮古 島 な ど) に くらべ て, 与那 国 島 で は稲 作 の 占め る位 置 が よ り重要 で あ った と推察 され, 同島 の稲 作 が15世紀 まで 確実 に さか のぼ りうる, 重要 な生 業 で あ った こ とを, この史 料 か ら知 りうる。 本 稿 で と りあげ る与那 国 島 の稲作 技 術 は, 台湾 か ら導入 され た蓬莱米 が同島 に普 及 す る 昭和10年 代前 半 ごろまで の技 術 を 中心 と して い る。1) 蓬莱米 の導入 によ って二 期 作 が は じ ま る と ともに, あ い前 後 して新 た な牽 引農 具 な どが導入 され,与那 国 島 の在来 稲作 技 術 は この時期 に大 きな変 化 を とげて い るので, 同 島 の伝統 的 な稲 作 技術 を知 るため に は, ひ と まず この時期 まで の技 術 を眺 めて み るのが妥 当で あ ろ う と考 え られ るか らで あ る。 与 那 国 島へ は1981年 の8月 と11月 , および 1982年 の3月 の計3回訪 れ る機 会 が あ った。 いず れ も短期 間 で はあ った が,以 下 に示 す在 1)与那国島-蓬莱米がいつ導入されたかは明らか でない。大正12,3年 ごろ,当時の村長慶田元貞 則氏が台中か ら6斗入 りのかますで種籾をもち 帰 り,採種団で栽培 したのち配布 したという聴 取例を得たが,このころにはまだ蓬莱米 という 呼称は与え られていないので,これはおそ らく 当時台湾に導入されていた内地米あるいはその 交配種をもち帰 ったものと推定される。蓬莱米 という名でこれ らの品種が与那国島へ導入され たのは,昭和6年 ごろとするのが妥当ではない かと思われる。聴きとりによると,昭和6年, オキモIJ 請盛正雄氏(与那国尋常高等小学校教員)が蓬莱 米を試験的に栽培 し,昭和8年には普及 しはじ めたという。また,昭和9年には石垣稔氏(与那 国在勤の沖縄県農業技手)が栽培指導に来島 し, その後の試験を経て,昭和10年代はじめには全 島に普及するようになったという。 310 采 の稲作 技 術 とそ の変遷 に関す る記 載 は,す べ て この間 の観 察 と聴 取 調 査2)に もとづ いて い る。 Ⅰ 与那 国 島の水 田立 地 1. 気 候- 降水 量分布 と台 風 の襲 来 与 那 国 島 は,年 間 を通 じて温 暖 多湿 で,良 潤 亜 熱 帯 海洋性 気 候 の特 徴 を示 して い る。 年 間 の気 温較 差 が小 さ く,年 平均気 温 が

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度, 最 寒月(1月 )の月 平均気 温 が17.7度 ,最暖月 (7月)の それ が28.5度3)と,年 間 を通 じて稲 作 に必 要 な温 度条件 に恵 まれて い るので, 同 島 の稲作 に とって,気 温 は さ して大 きな規 制 要 因 で はな い。 同島 の稲作 を規制 す る も っ と も重要 な気 候 要 因 は,台 風 と降水 量分布 の変動 幅 が大 きい ことの2点 で あ る。 台 風 の襲 来 は強 い風 雨 を 伴 うた め に, イ ネの倒伏 や冠 水 ,風送 によ る 潮 害 を もた ら し,生 育 中 の イネに直 接 に甚 大 な被 害 を もた らす。表

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は,過去

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年 間

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-1979年)に,与 那 国 島か ら300キ ロメ ー トル 以 内 に入 った台風 の年 平 均数 を月 別 に示 して い る。 乎 均 して年 間 に3な い し4回 の台 風 の 接近 また は襲来 が あ り, と くに,7月 か ら9 月 まで の3カ月 間 には,毎月 1度 は台 風 が接 近 して い る こ とを, この記録 は示 して い る。 従 って, この期 間 の台 風被 害 を回避 す るこ と が,稲 作 の安定 化 のた め に もっと も重 要 な要 2)聴取調査は主に祖納で行われた。在来農法 とそ の変遷については,東迎仁太郎,久部艮勇吉, 我那覇尚,東浜永成の各氏から詳 しくお話をう かが った。また,近年の稲作技術については, 八重山農業改良普及所与那国事務所の仲本光則 氏か らご教示を受けた。なお,本調査は,昭和 56年度文部省科学研究費補助金 (一般研究(B) 「日本農耕のオース トロネシア的要素」)および ユネスコ東アジア文化研究セ ンターの援助によ って行われた。ここに記 して謝意を表 します。 3)与那国島測候所 「与那国島の気候略表」 (1981) による。以下に示す気候データも,すべて この 略表にもとづいている。

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田中 :与那国島 の水 田立地 と稲 作技術 蓑 1 与那国島の降水量と台風の接近回数 1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月 年 甥 漂水琵 no')193・2154・6174・3178・9247・8200・5133・7182・3260・1234・6226・6190・72377・3 与那国島か ら 300km以 内に 入 った台風の 年平均数 0.1 0.1 0.3 0.8 1.0 0.9 0.2 0.2 ′出所 :与那国島測候所 「与那国島の気候略表」 (1981) 件 とな る。 伝 統 的 な イネの作李 が この台風常 襲 期 間以前 に刈 取 りが おわ るよ うに設 定 され て お り,一 定 の作 李 に従 った稲作 が行 われて きた こ とは, の ちにあ らた めてふ れ る こ と と な ろ う。 台 風 の ほか に稲作 に大 きな影 響 を与 え るの は,年 間 の降水 量 分布 で あ る。表1に月間降 水 量 の平均 値 を示 した よ うに, 与那 国 島で は 5月 と 9月 にふ たつ の ピー クを もつ降水量分 布 がみ られ る。前 者 は南 風 モ ンスー ンに由来 す る降 雨 で, 後者 は北 東 風 モ ンス ー ンが もた らす降 雨 で あ る。後述 す るよ うに,天 水 田 の多 い与那 国 島で は, イ ネの移 植 が は じま る1月 まで に, どれだ けの水 を水 田 に確保 で き るか が,そ の年 の稲 作 の成 否 を握 る鍵 とな る。表1 によれ ば,各月 と も100ミ リメ ー トル以 上 の降 水 量 を記 録 して い る ものの, これ はあ くまで 平均 の降水 量で あ って,年 間 の変 動 は各 月 と も相 当 に大 きい。と くに,7月 か ら 9月 の台 風 期 の降雨 が少 な い年 には, そ の後 の秋 雨 の変 動 と もあ いま って, 深刻 な水 不足 や干 ばつ に 見 舞 わ れ る こ と も少 な くなか った とい い,本 田期 間 が は じま るまで の降雨 の多寡 は,与那 国 島 の稲 作 に と って重大 な関心事 で あ った。 その他 の気 候要 因 と して は,与那 国 島 の季 節 風 の強 さを あげ る こ とがで きよ う。 年 間 を 通 じて海洋性気 候 にお おわれ る この島で は, 南 西諸 島 の他 の島 々に くらべ て さ らに風 が 強 く,年 間 の平均 風速 が5.9メ ー トル,冬 期 (ll - 2月 ) のそれ が約 7メ ー トル とな り,月 の 翫 1957 ∼ 1980 1955 3.6 ∼ 1979 うち半 ばは 日最大 風速 が10メー トル以 上 とな る。 このた め,委節 風 に よ って もた らされ る 潮 害 も無 視 で きな い。冬 期 の北 東 風 に さ らさ れ る同 島北 部 の台地 は, わず か に放牧 地 と し て利 用 され るのみで, この季 節 風 の与 え る影 響 も, 同島 の水 田立地 を み る うえで見逃 せ な い要 因 とな って い る。 2. 地 形 と土壌 ウ ラ プ 与那 国 島 の東 部 には芋 良部岳(231.2メー ト ル) を主 峰 とす る宇艮 部 山系 が東北 東 か ら西 ク プ ラ 南 西 -, そ して西部 には久 部長岳(188メー ト マンタノヾル ル)を主 峰 とす る蒲 田原 山系 が東 西 に走 り,両 山系 の周縁 に数 段 にわ た る段丘 が発達 して, 波状 の台地 が ひ ろが って い る。段 丘 の発達 は 両 山系 の北 側 で顕著 で あ る. 沖 積地 は, 山麓斜面下 部 ,台 地 や 山地 間 の 谷 底 および海岸 部 の低 地 にみ られ る。 芋艮 部 タバル イリマタ 岳 北 部 の 田原 川 沿 い低湿 地 (田原 ,田原 西俣), ホ丁 ン 同岳 北 東 部 の台 地 間谷 底 (浦 田,南 帆 安), 西 ク ンバ ラ ク ザ 部 の山地 間谷 底 (貢 原 ,久 座 ),溝 田原 山系 南ルマイ 部 の谷 底 (満 田原 , 樽 舞), および同 島南 部 の 比 川 や西部 の久 部 良 にみ られ る海岸 部 低地 が 主 な沖 積 地 で,両 山系 の山間 凹地 に も小 面 積 で はあ るが沖 積地 が散 在 す る。 山地 は八重 山爽炭層 と呼 ばれ る第 三 紀 の砂 岩 ,頁岩 で構成 され, これ が 同島 の基 盤 をな して い る。山 田 ら[1973:313-318]によ る と, 段 丘 面 は琉球石 灰 岩 と呼 ばれ る隆起 さん ご石 灰 岩 を基 盤 に, そ の上 を非 固結堆 積岩 を母 材

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東 南 ア ジア研 究 21巻3号 とす る赤 褐色土, あ るいは第三紀 の砂岩 ,蛋 岩 また は これ らの二次堆積物 を母材 とす る赤 黄 色土 が おお って お り, い っほ う沖積地 の土 壌 は,第三紀砂岩 ,頁岩 を母材 に, 自然 的 あ るいは人為 的 な水 の影響 を受 けて生成 した褐 色低地土 と灰 色低地土,排水 不良 の低地 に生 成 した グ ライ土, および排水 不良 の沼沢地 や 山間 の凹地 に湿性 植物 の遺体 が集 積 して生成 した黒泥土 の4土壌 群 に大別 され る とい う。 農耕地 が分布 す るの は,主 に この段丘 面上 と沖 積地 で あ る。段丘 上 の台地 や丘 陵 は, か っ て は水 田 に利用 された ところ もあ るが,大 部分 はサ トウキ ビや甘藷 の蝿 , あ るいは牧 野 と して利用 されて い る。 また,原 野 のまま放 置 された り,耕作放棄 のため にいまで は原 野 と化 して い る ところ も少 な くな い。沖 積地 は かつ て はすべて水 田 に利用 されて きたが,覗 在 で は稲作 の相 対 的 な 重要度 の 低下 の た め に,畑 に転用 され た り,耕 作放 棄 によ り原 野 とな って い る ところが多 い。比較 的排水 が良 好 な山麓斜 面下部 や谷底 の,灰 色低地土 や褐 色低地土 の沖 積地 は,畑 に転 用 され, サ トウ キ ビが栽 培 されて い る。 い っぽ う,排水 不良 の低湿地 は, た とえ ば田原 や 田原 西俣 のよ う に,干拓 によ って畑 が造成 された り, あ るい は椅 舞 のよ うに,耕 作放 棄 のた め に湿原 に変 わ るな ど,往 時 の稲作 の様子 を うか が うこと が いま はま った く不可能 とな って しま った土 地 も少 な くな い。 3. 水 田の分布 と立地 図 1は,与那 国島の水 田分布 と代 表的な地 形 断面 を示 して い る。図 中では,現在 な お水 田 と して利 用 されて い る地域 と,畑 に転用 ない しは耕作放棄 され た地域 を区分 して い るが, ここで は, かつ て水 田 と して利 用 され たすべ ての土地 につ いて, あ る程 度 の類型化 を試 み つつ, その立地 を眺 めてみ る ことと しよ う。 水 田が分布 す るの は,両 山系北側 の山麓下 312 部 緩斜 面,台 地 ・丘 陵間 の谷底,山間 の凹地,お よび排水不良 の低湿地 や沼沢地 な どで あ る。 す なわ ち,水 田の分布 は前述 の沖積土 の分布 とほぼ対応 して い る。 ところで, これ ら水 田 を類型 的 にま とめ るた め には,上述 のよ うな 地 形 のほか に,水 田の水 源 あ るいは水条件 を 考慮 す る必要 があ ろ う。 た とえ ば, 同 じ丘 陵 間 の谷底 に位 置 して いて も, ま った く天水 に のみ依存 す る水 田 もあれ ば, 山麓斜 面 か らの 表面 流去水 の流入 す る水 田, あ るいは山麓 か ら湧水 を絶 えず供給 されて い る水 田な ど, そ の水 条件 は さま ざまで, おおむね, その水条 件 によ って稲作 の様子 も異 な って い るか らで あ る。 図 1の地形 断面図 に示 されて い る沖積地 の うち, 田原 と樽舞 は,水 の供 給 よ りもむ しろ 過剰 な水 の停滞 が問題 とな る,排水 不良 の強 湿 田が分布す る地域 であ る。 田原 が全層 グ ラ イ土,椅舞 が植 物遺体 を含 む黒泥土 【同上論 文 :324,325】 と,土壌条件 は異 な るけれ ど も, いず れ も腰 や胸 までつ か る深 い泥 田を も つ点 で,両者 は共 通 して い る。同様 な深 田は 帆安上原 な どの山間凹地 に も局部 的 にみ られ る。与那 国島 の水 田の うち,水 条件 に恵 まれ た水 田は,図1の地形断面図で示せ ば,満 田 原 や浦 田,南 帆 安 な どの丘 陵 ・台地 間谷底水 田の うち, 山脚 か らの湧水 を直 接 利用 で きる 水 田で あ る。 なか には,年 間 を通 じて湧水 を 確保 で きる水 田 もあ り,干 ばつ年 で も安定 し た稲作 が可能 な これ ら水 田は, 同島で は もっ と も恵 まれた立地 に位 置す る といえ る。 以 上 の比較 的用水 の心 配 のな い水 田 に対 し て, 山腹 か らの表面流去水 や降雨 にのみ用水 を依存 しな けれ ばな らな い水 田は,降雨寡少 年 の干 ばつ被害 や,常 習的 な用水 不足 に悩 ま ね ばな らな い。 同 じく表面 流去水 を利用す る 水 田で あ って も,手長部岳 南部 のよ うな山間 凹地 の水 田は,集水 面棟 が相 対 的 に大 きいた め,用水 の確保 には恵 まれて い るが,菊 帆安

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や浦 田 お よび その他 の谷 底水 田 (貢原 , 久座 な ど) で は, 隻 水面 積 の相 対 的 な狭 小 さのた め に, 稲作 ほよ り不 安定 にな ら ざ るを え な か った。 また,帆 安 や割 目な ど に分布 した台 地 上 の天水 田, あ るいは 前述 した谷底 水 田 の うち, 表面 流去 水 や 湧水 を ま った く受 益 で きな い水 田 は, 降 雨 の変動 に直 ちに影 響 され る, もっ と も 不 安定 な立地 に位 置 した水 田で あ る。 そ のため, 降雨 によ っ て い ったん確保 され た用水 を どれだ け有 効 に水 田内 に とどめ て お くか が, これ ら 水 田の重要 な技 術 的 課題 とな り, 後述 す るよ うに,用水 の確 保 のた め に多大 の労 力 を払 った の も, こ うい った水 田 におい て で あ る。天 水 田の 多 くは人 頭税 時代 に 水 田化 され た といわ れ,与那 国 島で は比 田中 :与 那 国 島 の水 田立 地 と稲 作 技 術 111 () 1,000111 Ln 200 100

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久 郎 良店 ⊂⊃ も と水臥 現 在 は 畑 あ る い は 耕 作 放 棄 (D) (B) 図1 与那国島の地形断面と水田分布 注)地形断面の土壌分布は山田ら[1973]による。 較 的新 しい開墾 にな る水 田で あ る。 現在 , こ れ ら天 水 田 にはま った くイ ネが栽 培 され て お らず, 多 くは牧 野, サ トウキ ビ畑 と して利用 されて い る。 図2は字南 帆安 の水 田分 布 の変 遷 を示 して い る。 南 帆 安 は南 に宇良 部 山系 の山麓 部 ,北 に字 帆 安 の台 地 の一部 を含 み, これ ら両高 地 に囲 まれ た谷 底 か らな る。 かつ て は,与那 国 島 のなか で は水 田が比 較 的 ま とま って大面 積 に分布 した地 域 で あ る。 明治末 年 ごろ には, 南 帆 安 の ほぼ全域 に水 田が分布 した が, まず 台 地 上 の天水 田が畑 に転 用 され,続 いて 山脚

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部 の棚 田が耕 作放 棄 され た とい う。 戟 後 , サ トウキ ビ栽培 が盛 ん にな る につ れ て水 田 は さ らに減少 し

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年 代 には,宇良 部岳 の麓 か ら湧 きで る湧水 がか りの水 田 と, そ の水 を受 益 で き る谷 底 水 田が残 るだ け とな っ た。 この傾 向 はそ の 後 も さ ら に 続 き,調査 時点 で は,湧水 がか りの谷 底 水 田 のみ がわず か に残 って,他 はす べ て畑 に転 用 され て いた。 いわ ば, サ トウキ ビが栽 培 で きな い立地 に水 田が残 され た と もいえ るほ ど,土 地 利 用 の大 きな変 化 が近 年起 こ って い る ことが, この 図 か ら理解 で き よ う。 これ を逆 にみれ ば, かつ て は水 条 件 の相 当 に困難 な立地 に も水 田が 開 か れて いた こ とを意 味 して お り, 与那 国島 のかつ て の水 田分布 と立地 との関係 を考 え る とき, 降水 量 の多 寡 と用水 確保 の難 易 とが,稲作 に と って いか に重要 で あ ったか が よ く理 解 で き るので はなか ろ うか。 東 南 ア ジ ア研 究 21巻3号 (a)明 治末 ごろ (b)1970年 代 末 ごろ ⅠⅠ 水 田の類 別 とそ の特 徴 1. 水 条件 に応 じた水 田の類別 前 述 した よ うな さま ざま な立地 に 位 置す る水 田が,与那 国 島で は実 際 にどの よ うに類別 されて いたかを次 にみ よ う。耕 作 者 自身 は, 用水 を得 るた め の水 源 や用水 の多寡 , あ るい 図2 字南帆安の水田分布の変化 注) (a)は明治32年の沖縄県土地整理 局の設置とそれに続 く測量実施に より作成された土地台帳の地 目に もとづき作成。(b)は土地台帳変 更地 目お よ び1977年撮影 の航空 写真 (国土地理院発行)による。 (C)は1982年3月現在 。 314

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田中 :与那国島の水 田立 地 と稲 作技術 は用水 確保 後 の水 もちの難易, さ らに水 田の 泥 の深浅 な ど,各水 田の水条 件 にかかわ るい くつ か の基 準 によ って類別 して い る。 す なわ ち, まず水 源 の種類 によ って,次 の3種 に大 き くは類 別 され る。用水 を降雨 に依存 す るテ ィ ンチダ (天水 田), 山麓 か らの湧水 を利用 す る ミンタ (水 田), そ して排水 不良 の低湿地 で 常 時滞 水 して い るカーダ (深 田) で あ る。 そ れ ぞれ は, さ らに用水 の多寡, 泥 の深浅 に応 じて小 区分 され る。 テ ィ ンチダ は,完全 に降 雨 のみ に依存 す るテ イ ンチダ と,降雨 に加 え て 山腹 か らの表面 流去水 も流 れ こむハ タケダ に分 け られ る。 い っぽ う ミンク は,干 ばつ時 には湧水 が澗 れた り, た とい湧水 はあ って も 十 分 に配水 で きな いた め に湛水 で きな くな る ナマ ミンク 4)と, どん な干 ばつ時で も水 がな くな らな い ミンク に類別 され る。 常 時滞水 し て い るカーダ は,泥 の深 さに応 じて カーダ (比 川 で は フグルダ ともい う), クダ, アギタ (浅 田) に区分 され る。 テ イ ンチダや- タケダ は, 山鹿下部 の綬傾 斜 地 や台地 ・丘 陵上 に位 置 して, 降雨以 外 の 水供給 がな いた め, い ったん溜 ま った水 を逃 さな いよ う丹念 な耕 転 を必要 と した。 と くに テ ィ ンチダ で は,台風 (- ヤ カゼ)が もた らす 夏期 の降雨 を少 しで も多 く確保 す るた め に, 刈 取 り後 か ら次 の 田植 えまで のあ いだ,雨 が 降 るた び に何 度 も踏桝 (後述 ) を繰 り返 した とい う。 そ のた め,い ったん湛水 させ れ ば,給 水 量 の少 な いテ イ ンチダ がハ タケダ よ りもか え って水 もちが よか った と もいわ れて い る。 水 もちのよい水 田は, ミンスサル タ (スサル は 「強 い」 の意) と呼 ばれ,耕 盤 の赤土 が固 ま って不透水層 を形成 して いた とい う。 い っ ぼ う, 水 もちの悪 い田 は ウダ (「もっこ」 の 4)ナマ ミンクを ミンクよりも水が豊富にある水田 という聴取例 もあったが,多数例がナマ ミンク を ミンタよりも水の少ない水田 として いたの で,ここでは後者に従 った。 意) と呼 ばれ,右 混 じりの水 田 に これ が多 か った ともい う。台地 上 のテ ィ ンチダで は,水 田内 に比較 的大 きなひ び割 れや亀裂 のあ る こ とが多 く, その場合 には図3に示 した よ うな アブ ヒキを用 いて漏水 を防止 した。 かつ て は 竹筒 を用 いたが, いま は塩 ビパ イプを用 いて い る。 湧水 が直接流 れ こむ ミンタ に続 く一連 の水 田を ミンクバ リといい, これ ら水 田 は用水 に もっとも恵 まれた立地 に位 置 して い る。 ミン クバ リのい ちばん上 の田を カ ンノタあ るいは ミンノカ ンと呼 び, この水 田 は刈取 りの とき に も排水 せ ず,年 間 を通 じて湛水 させ て, ミ ンクバ リ- の給水 源 と して の役割 も果 た して いた。 カ ンノタ はテ イ ンチダや- クケダ の分 布 す る地 域 に もあ り,表面 流去 水 の と くに多 く流 れ こむ最 奥部 の水 田が カ ンノタ とな り, 下方 の 田-水 を補給 した。天水 田地域 の カ ン ノタの役割 は と くに重要 で,幅1メー トル, 高 さ1メー トル余 ほどの大 畦で水 田を囲み, 刈 取 り時 に も水 を切 らず,常時水 を潜 め るよ うに心配 りを怠 らなか った とい う。 カーダ が泥 の深 さによ って3種類 の水 田 に 類別 されて い る ことはす で に述 べ た。 もっと も浅 いアギタが太 もも くらいまで の深 さ, ク ダ が腰 くらいまで, カーダ が胸 までつ か る底 のな い水 田であ る。 アギ タで は耕 盤 が形成 さ れ,水 のか けひ きが可能 で あ った が, クダや カーダ で は土 が ドロ ドロで耕 盤 がな く,水 の 図3 ア ブ ヒ キ

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東 南 ア ジア研 究 21巻3号 か けひ きはま った く不可能 で あ った とい う。 カーダ のなか には, ところど ころ落 ちこむ よ うに深 い ところがあ り, そ うい う田 は フギル メ (抜 ける田)とも呼 ばれた。哩畔 (アブチ) は どの深 田に も設 け られて いたが, カーダ で は イナマ (矢板) を打 ちこみ, そのあいだ に 木 や石 を入 れ土 を盛 って,

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尺 幅 の畦を 造 った とい う。 常 に干 ばつ に見舞 われ る危 険 の あ った与那 国島 の水 田で は, どん な に きつ い干 ばつ年 であ って も必ず一定 の収 穫 が保証 されて いた低湿地 の水 田が,耕作 の困難 さに もかかわ らず,価 値 のあ る水 田で あ った。祖 柄 で は, 田原川沿 いの低湿地 に水 田を もつ農 家 を タプルダモ チ (田原 田 もち) と称 して, 天水 田 しか耕作 して いない農家 を うらや ま し が らせ た ともい う。 それぞれの立地 に位 置 した水 田が どの程度 の歴 史 を もつ か は, いま とな って は明 らかで な い。ただ, テ ィンチダや- タケダ が もっと も新 しく開 かれた水 田であ るとい うことは, 古老 た ちの一致 した見解 であ った.与那 国 島 で は

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筆 ごとに固有 名 のつ いた水 田があ り, こ うい った水 田 はテ ィ ンチダや- タケダ に と くに多 い。 また, 固有 名 のつ いた大 きな区画 の水 田で は, 田植 えの 日にニ ワ ト リを供犠 した り,牛 の頭皮 の干物 を調 理 して これを食 す る水 田があ り, これ は,人頭税時代 に新 た に 開かれた水 田に牛 を供犠 した こと の名残 りで あ るといわれて い る。 水条 件 に恵 まれた ミンクや カーダ で は, この よ うな固有 名を もつ水 田が少 な く,供嬢 も行 わ れて いな い。過去 の開 田の記 憶 が囲有 名や 供儀 のかた ちを とって継承 されて きた テ イ ンチダや- タケダが,す で に これ らを失 った ミンクや カー ダ よ りも新 しく開 かれた水 田で は なか ろ うか, とい うのが古老 た ち 316 の考 えで あ る。 どち らが古 い水 田であ るか は もちろん即断で きな い ものの,与那 国島 の水 田の歴史 と立地 との関係 を考 え る うえで興 味 深 い点 で はな いか と思 われ る。

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宇久座 の天水 田 固有 名 を もつ天水 田の一例 を示 して,天 水 田で用水 が どのよ うに確保 されて いたかをみ ることは,与那 国島の水 田立地 を さ らに具体 的 に知 るため ばか りで な く,水 の豊 富 な イネ の国, と他 の島 々か らう らや まれた与那 国島 が,実際 には,天水 田を多 くもつ,水不足 に 悩 む イネの国で あ った ことを知 る うえで も有 効 で あろ う。 図4は,与那 国島 のほぼ 中央部,宇久座 の 丘 陵上 に位 置す る天水 田,ダ ママ チ付近 の水 田 と用水 の流れを示 して い る。 ダママチはひ ろ さ約4反 5畝 の- タケダで, この付近 で は ニ ワ トリを供犠 す る唯一 の水 田であ った。昭 和

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年 ごろまで水 田 と して利 用 されて いた と いい,現在 は,両 隣 の イ リダマ マチ,ウブ シマ チ と合筆 され,サ トウキ ビ畑 とな って い る。こ の付近 の水 田は,細 い谷間 の ミンクを除 いて すべて- タケダで,完全 に降雨 だ けに依存 す ①デママナ (診イリグママチ ③ウブシマナ ④ ナスノバ リ (9カンノタ ⑥イリフグンニ ( 診フグン-⑧ バ タヌタ ⑨ マ ージャノタ ⑲ カンノタ 図4 宇久座ダママチ付近の水田分布と用水の流れ

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田中 :与那国島 の水 田立地 と稲作技術 るテ ィ ンチダ はなか った とい う。ダ ママチ周 辺 の水 田 もすべ て- タケダであ る。 ダママチ- の用水 の補給 は,南 の山地 か ら 流 れで る渓 流か ら得 られ る。 この渓 流 の水源 は山腹 の湧水 で あ るが,常時水 が湧 きでて い るわ けでな く, 降雨 が少 な くな る と滴 れて し ま う。 この水 は, まず い ちばん上 の田であ る マ ー ジャノタのカ ンノク に入 れ られ, さ らに ダ ママチのカ ンノタで溜 め られ る。水 源 の水 量 が十 分 で な く,渇水 時 には潤れ るので, こ れ らカ ンノタ も- タケダ に類別 されて い る。 マー ジャノタのカ ンノタか らは, その西側 に ひろが る- タケダ-配水 され, ダママ テのカ ンノタ か ら は, ダママテ, イ リダママチ, ウブ シマ テ, さ らに東 の フグ ンニへ と田越 し に水 が回 されて い く。 ダ ママテのす ぐ下 の水 田, ナス ノバ リが苗代 と して利用 され,ダ マ マチ周辺 の水 田に宙 を供給 した。 ナスノバ リ は この付近 の水 田のなかで もっとも低 く,苗 代水 を得 るの に好都合 であ ったか らで あ る。 宙取 り後 は ナス ノバ リに も イネが 植 え られ た。 ダ ママ チ周 辺 の水 田で は, 旧暦

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月 ご ろか ら田の準備 が は じま る。 これは降雨 のた び に行 われ る牛 によ る踏耕 で,天水 田で の水 の確保 と漏水 防止 をね らった ものであ る。本 格 的 な準 備 はカ ンノタか らの水 入 れ がは じま る旧暦10月 か らで あ る。 まずダ ママチにカ ン ノタか ら水 が補給 され る。夏雨 が十分 に降 っ て, 田がすで に濡 れて い るよ うな状態 (タ ン ガ イ) の ときには,ダ ママ チで の水入 れ後 の 踏新 はほぼ10日で おわ るが,降雨 が少 な く, 田面 にチ-- ンキ (水 がな くな り地面 にひび 割 れがで きる状態) があ らわれて いるよ うな 年 には,約 1カ月 か けて10回 ばか り田を踏 み 続 けな い と漏水 が止 ま らなか った とい う。上 土 が十分 に こなれて,下士 は人 が歩 けば滑 る ほ どにな る (ニ ー ラ トゥ リル) まで踏耕 が続 け られた。 こ う して完 全 に床 固めを し,漏水 を止 めな い ことには,ダ ママ チか ら下 の田へ は水 を回せ なか った とい う。降雨 があれ ば, 周辺 の山地 や未利用地 か ら各水 田に水 が流 れ こむ ものの, カ ンノクか らの水 を補 いつつ, ひ とつ の田の漏水 が止 まれ ば次 の田- とい う よ うに, ひ とつ ひ とつ の水 田を入念 に耕 して いかね ばな らなか った。台風期 の降雨, そ し て旧暦8月 か らは じま る北東風 モ ンス ー ンの 降雨 を少 しも逃 す まい とす る, こう した入念 な耕作 が行 われて, は じめて テ ィ ンチダやハ タケダで も旧暦12月 か ら 1月 にか けての田植 えの季節 を迎 え る ことがで きた ので あ る。 ⅠⅠⅠ 稲作 の年 間 サ イク ル 1. 作李 と作業暦 これ まで述 べて きた水 田立地 の多様性 に く らべ て,与那 国島 の伝統 的 な イネの作李 は相 対 的 に単純 であ った。稲作 に甚大 な被害 を も た らす台風 の季節 を避 け ることが, 同島 の稲 作 に とって最重要 の問題 であ った ことはすで に述 べ たが,これ が,水 田立地 の多様 さにかか わ りな く,全 島 を ほぼ一律 の作李 の もとにお か しめた最大 の要 因であ った と考 え られ る。 図5は,与那 国島 の伝統 的 な イネの作李 と 主 な作業 の流れを,前述 した主要 な水 田類型 ごとに示 した もので あ る。比較 のため に同島 で現在行 われて い る二期作 の作季5'を あわせ て示 し,また,表1に示 した月 間降水 量 および 台風接近 回数 の月 間平均値 もあ らためて図示 して冬作李 と対照 で きるよ うに した。 なお, 伝統 的 な稲作 の作業暦 は旧暦 で記憶 されて い るので,本章 で の作業時期 な ど もすべ て旧暦 で記 す ことと した。 6月 に刈 取 りが おわ り,7月 の盆 が明 け る と,す ぐに次 の稲作 の1年 のサ イクルが は じ ま る。まず,本 田の荒起 こ し,客土 な どが行 5)八重山農業改,良普及所普及資料による。現在の 沖縄県奨励品種 トヨニシキの二期作例を示す。

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東 南 ア ジ ア研 究 21巻3号 旧 暦 7 8 9 10 ll 12 1 2 3 4 5 6 新 暦 l 8 1 9

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10 f 11 1 12 E l l 2 r 3 1 4 1 5 r 6 1 7 l 平 均 20 月 間 降水 量(mm) 100 台 風 接 近 1-0 回 数 の 0.5 年 平均値

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I カ - チミ ン タ テインチ ダ 二 期 作 I

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l l l 十 l ノ;=. I l l ′ ト ー 本 田準備 ■一 首代 播種 m 田植 え 丘 ==ア 刈取 り l除草 図5 与那国島の伝統的稲作 と二期作の作季 われ る。 そ して,10月 の苗代 播種 まで の あ い だ,本 田 は何 度 も耕 され,各水 田の条 件 に応 じて地 力 の維 持 ,水 の確保 , あ るい は雑草 の 抑 制 な どが はか られ る。 8月 , 9月 の秋 雨 は 本 田の準 備 に必要 な水 を もた ら し,10月 に入 る と苗代 播種 や本 格 的 な本 田準 備 作 業 が は じ ま る。百代期 間 は60日前 後 で,12月 に入 る と 田植 え とな る。 田植 え は遅 くと も1月 の雨水 の ころまで に終 えた とい う。 田植 え のあ とは 除草 で あ る。 移 植 後約1カ月 に最 初 の除草 , そ して 出穂前 に2回 目をす るのが標 準 だ った といわ れて い るが, カ ーダ な どで はま った く 除草 しな い こ とも多 か った とい う。 本 田期 間 中 には4回 のム ヌ ン (物忌 み) が行 わ れ, 虫 害 や風 害 の起 こ らな い よ う祈 願 され る。 こ う して, 干 ばつや大 きな虫害 ,台 風 の襲 来 な ど がな けれ ば, 無 事 に

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月 か ら

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月 の収 穫期 を 迎 え る こ とがで きる。JZa上 の よ うに,稲作 の 318 年 間 のサ イ クル は ほぼ1年 間 を通 じて切 れ 目 な く続 いて い った。 イ ネの作 李 は,播 種 が10,11月 , 田植 え が 12,1月 ,刈 取 りが5,6月 とな り,苗代期 間 が約60日,本 田期 間 が120-150日 と, いず れ も長期 間 にわ た って い る。 当時用 い られ た在 ハ ネ ヂ タル ナ ゴ ハ ツ カ 来 品種 は, 羽地 黒, 名護穂赤 , マ - ノマ イ, イ ネマ イ, ウチ ノマ イ, ツ-マ イ, ム テ ィマ イ (精米) な どで あ った が, いず れ の品種 も 生 育期 間 に大 差 はな く, 田植 え が少 々遅 れ て も, 6月 には収 穫 で きた とい う。 イネの作 李 には水 田立地 によ る差 はみ られ な い もの の,稲 作 の各作 業 は立地 の違 いに大 き く影 響 され て い る。 そ こで,以 下 で は,水 田類 型 によ る違 い に注 目 しつつ,各 作業 につ いて さ らに詳 し くみて い くこ とと しよ う。 2. 本 田準 備

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EEl中 :与那 国島の水 田立地 と稲 作技術 テ ィ ンチダや- タ ケダ で は7,8月 に野原 や荒 れ地 の土 を客土 す る。バ ー グ と呼 ばれ る 組織 で共 同作業 され,30戸 くらいの水 田をす べ て おわ るの に約 1カ月 か か った とい う。 客 土 は毎年 行 われ,草 の生 えた土 を根 や草 もい っ しょに削 りとり, ふ た りが組 ん で もっこで● ●● 土 を運 び入 れ た。 バ ーグが行 わ れた のは戦 後 の一 時期 まで で, そ の後 は個人 で行 うよ うに な った とい う。 ミンク や カーダ に は ユ ウナ (オオハ マ ボ ウ)や アグ (ア コウ), タ ビチ (オ オバ キ), ナ ンチ (クワ)な どの葉 や枝 を緑 肥 と して入 れ た。戦 後 はテ ィ ンチダや- タケダ - も緑肥 を入 れ るよ うにな った とい う

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) 蓬 莱米 の導入 後 ,化学肥料 も使 わ れ るよ うにな ったが,戦 後 まで の本 田施肥 は客 土 や緑 肥 施 用 が 中心 で あ った。 本 田の最初 の耕起 (ク ーカ シ) が は じま る の は7月 の盆 明 けか らで あ る。 テ ィ ンチダ や ハ タケダ で は,降雨 を ま って水 田用 の在来 型 (ク ー カ シダ マ)で耕起 が は じま る。 タ -カ シ ダ マ は型錘 のな い枠塾 長床 型 [下 田 ら

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で,大正 初年 に ク ラブ と呼 ばれ る 台湾 型 が導入 され るまで使 用 された。続 いて 昭和7,8年 ごろか ら12,3年 ごろ にか けて 磯 野式短床 型 が導入 され るよ うにな り,耕起 は ク ラブに代 わ って磯 野型 で行 われ るよ うに な った。 荒 起 こ しのあ とは,す で に述 べ た よ うに, 午 (ウチ)を使 って踏耕 (タ ン ミ)が行 われ る。 牧 場 (マ ーテ ィ)か ら牝牛 (ナ - ミャ)を集 めて き, 5, 6頭 を横 に並 ばせ,首 に縄 を回 して 胴 がす りあ う程度 につ な ぎ, その い ちばん外 側 に牡 牛 (ビギ ウチ) また は馬 をつ な ぎ,水 田内を ぐる ぐる回 りな が ら水 田を踏 み こませ た。 い ちばん外側 の牛 を カ ネ ウチ, 内側 の牛 6)戦前からティンチダや-タケダでも客土ととも に緑肥を施用 したという聴取例があるので,緑 肥施用はすべての種類の水田で行われていたと も考えられる。 を トー ウチ といい, 外側 にな るほ ど足 の速 い 牛 を お いて,人 を 中心 に反 時計方 向へ回転 さ せ , トー ウチの手綱 をあやつ りなが ら作業 し た。 と くに畦 際 の踏 み こみ を丹念 にす る必要 があ り, カ ネ ウチが畦 か ら踏 み外 さない よ う 注 意 しな けれ ばな らなか った とい う。天水 田 で はタ ン ミは降雨 のた び に行 われ, タ ン ミを す れ ばす るは どイ ネの収 量 は よ くな った とい われ て い る。 タ ン ミのたび に必 ず イチムタ セ も行 わ れた。 これ は,1辺15-20セ ンチ メー トル四方 ,長 さ約 1メ ー トル半 の四角柱 に整 形 した石 を牡 牛 にひかせ る作 業 で,砕土 と鎮 圧 のた め に行 われ た。通 常 の水 田で はタ ン ミ は3回程度行 われ たが,漏水 のひ どい水 田で は水 が止 ま るまで何度 も繰 り返 された こ とは す で に述 べ た とお りで あ る。 漏水 が止 ま る と, 田植 えのため の整地 作業 が は じま る。耕 右 には稚 (マ -グ) が用 い ら れ, これで数 回耕 した の ち均 平 (ク ー ミダ カ ナ シ) が行 わ れ る。均 平 に は約3メー トル の 長 さに切 った径3, 4セ ンチ メー トル の竹 を 20数本束 ね,縄 や トウで縛 った ものや, 長 い 角材 が用 い られ, いず れ も牛 に牽 引 させ た。 また, ドニモ テマ - グ と呼 ばれ る,歯 の幅 が ひ ろ く歯 と歯 の間隔が狭 い木 製 の把 や, ツー ツ ァと呼 ばれ る牽 引用 の板 も均 平 に用 い られ た とい う。昭和12,3年 ごろ に台湾 か らクル バ シャが, そ して ほぼ 同 じころに石 垣 島か ら 水 牛 が導入 され て,耕 転 には クルバ シャが も っぱ ら用 い られ るよ うにな った。 クルバ シ ャ は現在 もな お続 けて利 用 されて い る。 ミンクや ナマ ミンクで の本 田準 備 は,刈 取 り後 の刈株 を埋 め るための荒起 こ しが最初 の 作 業 で あ る。 水 が豊 富 にあ り,泥 の深 い ミン クで は木 鍬 (辛-パ ンガ ェ) が用 い られ た。 大 正年 間 には鉄 製鍬 (カニパ ンガ ェ) が導入 され たので, キーパ ンガ ェ に代 わ って これ を 用 い るよ うにな った とい う。 この鍬耕 は,最 初 の荒起 こ しのの ち整地 に と りかか るまで,

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東南 ア ジア研究 21巻3号 2,3回行 わ れ た。 い っぽ う,水 のそれ ほ ど多 くな い ミンクや ナマ ミンクで は,荒 起 こ しをせ ず に, 直 接牛 を入 れ て タ ン ミを させ ,刈 株 や雑草 , さ らに 緑 肥 を踏 み こませ た。 こ こで もタ ン ミと同時 に イチムタ セが行 わ れ た。 タ ン ミは天 水 田の よ うにた び た び行 わ れ なか った が,雑 草 が生 え て くる と再 び タ ン ミを行 な った ので,整 地 に と りか か るまで数 回繰 り返 され た とい う。 田植 え前 の整 地作 業 は,前述 の天水 田の場 合 と同様 で, マ - グで耕 寂 し, そ の あ とク ー ミ ダ カナ シを行 な った。 磯 野翠 や クルバ シャが導 入 され てか らは, ミンクや ナマ ミンタの本 田準備 に は, もっぱ ら両 農 具 を用 い るよ うにな った とい う。 タ ン ミをせ ず に,磯 野型 で荒 起 こ しとそ の後 の耕 起 を行 い,砕 土 や整 地 に は クルバ シャを用 い, 最 後 に長 い角材 を ひかせ て均 平す るよ うにな った。前章 で字南 帆 安 の例 を示 した よ うに, 与那 国 島で現 在 イネが栽 培 されて い る水 田の ほ とん どが ミンクや ナマ ミンクで あ るので, 短床 型 とクルバ シャを用 い る この本 田準 備方 式 が実 際 に行 わ れて い るのを, いま もみ る こ とがで き る。 深 田の うちで も比 較 的 泥 の 浅 い アギタ で は,

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月 ,刈 取 り後 のマ ク ビェ (ひ こぼえ) が で る前 に最初 の桝 起 を行 な った。土 がや わ らか いので, キーパ ンガ 工で刈 株 や雑 草 を埋 表2 木 田 準 備 の 作 業 体 系 水田の種類 作 業 体 系 塞 莱 米 導 入 以 節 芸 一 芸ト 刈株 .雑草の埋めこみ (辛) (嵩葬 ) ア ギ タ---刈株の埋めこみ 耕 転 均 平 (貢三 :;;芳三/) (貢三:話 芸三/) 塙 芋板を) ミ ン クぐ- -一一荒起 こし 耕 転 均 平 \、 (君二 三;芳三/) (妄言グ .イチム) (牽引農具) ナマ ミンjL"-:-7賢 誓 笠 ) 琵 茅 や.イチム) 鎧 品 具) 塞 莱 米 導 芸 - 計 ----xrJ# .鵬 の埋めこみ (辛)

静 を)

ア ギ 久---一一刈株の埋めこみ 耕 兼云 均 平 ミ ン ク_、、 、、 (カニパ ンガエ) (カニパ ンガエ)

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嘉盲板を)

入 以級 ナマ ミンク---.//--::;>荒起こし 耕 転 均 平 - タ ケ 打 / (短牌 ) (12',Vご妄 言 ●) (牽 引農 鄭 320

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田中 :与那 国島の水 田立地 と稲作技術 め こむ (ア ラ-) のが主 な作業 で あ った とい う。 い っぽ う, カーダや クダ で もほぼ同 じ時 期 に耕 しは じめ るが, その作業 には農 具 を使 わず,手 で刈株 を埋 め,土 の表面 を掻 き回 し て (ク ー キ シ)雑草 の発生 を抑 え るだ けであ った。 アギタで もカーダ で もひ と月 くらいす れ ば雑草 がでて くるので, 田植 えが は じま る まで ほぼひ と月 に1回,多 い ときには さ らに 間隔を短 くして耕 した とい う。 こ う して頻繁 に耕 す こ とが,雑草 を抑制 し,地 力 を維持 す る うえで効果 があ った と もいわれて い る。ま た, この よ うな深 田で は, 田植 えの直前 に長 い板 (ビュエ イタ) を手 で押 す だ けで, 田面 は簡単 にた い らにな った とい う。 この均平作 業 はふ た り一組 で行 われた。 以 上 の よ うに,本 田準備 の方法 は水 田立地 の違 い に大 き く影響 され るた め, その一連 の 作業 の流 れ は立地 に応 じて さ ま ざ ま で あ っ た。各立地 の作業 を対偶 す るの に便利 な よ う に, その作業体 系 を表2に簡単 にま とめて お いたので参照 され た い。 3. 苗 代 天 水 田や ミンクで は,水 がか りが よ く土 の 肥 えた水 田が苗代 (ナース)と して選 ばれ る。 湧水 が直接 流れ こむ ミンクで は,降雨 の際 に 浸水 す る恐 れがあ るため,用水 は常 に得 られ るに もかかわ らず苗代 を作 らなか った。 む し ろ, その ミンクか ら水 をひ く水 田に苗代 を こ しらえた とい う。天水 田で は, カ ンノタか ら 用水 をひ け る水 田, あ るいは比較 的早 く水 が 溜 ま る水 田 に苗代 を こ しらえた。深 田で は苗 代 がで きな いため, アギタ周辺 の比較 的浅 い 水 田を苗代 田 と した。 た とえ ば祖納南 部 の田 原 田の場合,祖 納部落 と田原 田が接 す る,部 落東南 部 の周縁 に ドゥ-マ チナス と呼 ばれ る 苗代 田が あ った。 ドゥ-マ チナスはアギタあ るいは- タケダ に類別 され る水 田で,下 の田 原 田か ら汲 みあげた水 が苗代水 と して利用 さ れた。苗代 は各戸 が個別 に作 り,共 同苗代 は なか った とい う。 苗代 ご しらえ に もタ ン ミが行 われた。 これ はナース ン ミと呼 ばれ,漏水 防止 や緑肥 の踏 み こみ のため に, どの苗代 で も行 われた とい う。苗代 の肥料 には,前述 した本 田の肥料 と 同様 ,大 き くや わ らか い葉 を もつ木 の枝 葉 を 緑 肥 と して入 れた り,数年 に1度 野原 の土 が 客土 され た。 また,本 田 には用 い られ なか っ たが,牛糞 や豚 糞 を代 か き前 に施用 す る こと もあ った。百代 はナース ン ミのの ち,数 回型 や和 で耕 して整地 され る。 短冊状 に区切 らな い平 畦 の水百代 で,本 田1反歩 に対 して15坪 前 後 の百代 が準備 され た。 種 播 きの約 1週 間前 か ら種籾 の準備 が は じ ま る。 種籾 を クバ の葉 に包 ん で,一昼夜 か ら 4,5日真水 に浸種 し, そ の後 よ く水 を切 っ て屋 内でわ らをかぶせ て催芽 (オ ク ミ-)させ た。苗代 には,最 後 の代 か き後,まだ土 が濁 っ て い る状態 の ときに, この催芽 籾 が播種 され る。 こ うすれ ば,種籾 が適 当な深 さに落 ち着 き,覆土 もされて発芽 が よ く揃 った とい う。 播種 量 は本 田1反歩 あた り 4升 か ら 5升 ,苗 代 1坪 あた り約 3, 4台 を 目安 と した。播種 時 には,スス キの茎 な どの 目印 を百代 に立 て, 区切 りと した。 このひ と区切 りを トゥウ ンチ と呼 び, トゥウンチで 1反 の本 田 に十 分 に植 え られ る苗 が確保 で きた とい う。 苗代期 間 中 は,初期 の烏害防除 と水管理 に 注 意 が払 われ る。 播種後,苗代 には縄 を張 り, クバ の葉 な どを 吊 した り,松 明や ラ ンプを と も して カモやバ ンの飛来 を防 いだ とい う。 ま た,水管 理 は,播種後2日間 は2寸 ほ どの深 さに水 を溜 め, その後落水 して芽干 しし,再 び水 を入 れて,播種後55-65日で移植 され る まで湛水 した。苗代期 間 中の水 の確保 は どの 苗代 で も重要 な作業 で あ ったが, と くに田原 田の ドゥニマ テナスで は,苗代水 を供給 す る の に多大 の労力 を要 した。下 のカーダ あ るい

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東南 ア ジア研究 21巻3号 は アギタ か ら, クバ の葉 で作 った 大 きな 杓 (クバ ヌ- ウブル あ るい は ミンアギ ウブル) で汲 み あげ られ た水 は, シ ッチ と呼 ばれ る溝 に入 れ て苗代 に供給 され た。 さ らに上 の苗代 へ供 給 しな けれ ばな らな い ときに は,下 の苗 代 に ミンアギ ウ ンブ と呼 ばれ る水 溜 め を こ し らえ, そ こか らさ らに ミンアギ ウブルで上 の 苗代 の シ ッチ に水 を汲 み あ げた とい う。水 の 過剰 のため に,本 田で はむ しろ用水 を心 配 す る必 要 のな か った カーダ や アギ タ の稲作 も, 苗代 期 間 には,苗代 水 を確保 す るの にず いぶ ん苦 労 を しな けれ ばな らなか った。 与 那 国島 で は,苗代 に供 され る水 田 は毎 年 はぼ決 ま って いた が,苗代 にのみ利 用 され る 水 田, いわ ゆ る通 し苗代 はな く, 苗 取 り後 , す べ て の苗代 に イネが植 え られ た。 ドゥニマ チ ナス の よ うな深 田用 の苗代 田 は,深 田で収 穫 した イネを干 す場 所 に も使 わ れ るので, い ちばん遅 く田植 え が行 われ,逆 に稲刈 りは い ちばん早 か った とい う。 4. 田植 え 早 朝5時 ごろか ら苗代 - でか け,松 明をつ けな が ら苗 取 り (ナ イ トゥイ) が は じま る。 苗取 りは も ともと女 の仕 事 で あ った が, とき には男 も手 伝 った とい う。苗 は両手 で抜 きと られ,片手 ふ たつ が い っぱ い にな る と, 1把 (トゥタバ エ) に し, テ ィバ ラと呼 ばれ るイ ネわ らで結束 した。 トゥタバ 工が三 つ で トゥ ツカ とな り, この トゥツカ を

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集 めて

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束 (トゥマル テ ィ) と した。 トゥマル テ ィは30 タバ 工か らな り, マル ンナ と呼 ばれ るカ ヤの わ らや,バ ラ ンナ と呼 ばれ るイネわ らの穂先 部 分 を結 ん だ結束 用 わ らで束 ね られ た。1反 歩 の水 田を植 え るの に10マル テ ィ, す なわ ち 300タバ 工を要 した とい う。本 田へ は4- 6マ ル テ ィを天 秤棒 にかつ いだ り,馬 の鞍 に振分 け荷 物 に して運 ん だ。 田植 え (ク ー ビル あ るい はク ー ビ) は午 前 322 7, 8時 ごろ に は じま る。植 え るの は男 の仕 事 で あ る。 ドゥイマル (エ イマ ール,結 い) で行 われ, 参加 者 に は握 り飯 , 汁物 ,酒 が振 る舞 われ た。 田植 え は12月 か ら1月 ,大 寒 か ら雨水 にか けて行 われ るので,亜 熱帯性 気 候 とは いえ水 につ か る仕 事 は寒 か った とい う。 1時 間 はど作 業 を して は酒 を飲 み,身体 を温 か くして また 田植 え に と りか か った。 ドゥイ マル に対 して は同 じ仕 事 を返 す のが習慣 で あ った。 田原 田の よ うな深 田で は, タ ブル ダ モ チの あ いだ で お互 い に ドゥイマル を した とい

う。

苗 は育苗期 間約60日の熟宙 で,40セ ンチ メ ー トル くらいの文 が あ った。葉 の先端 部 を切 る こ とはせ ず , そのま ま ひ と株3本植 え前 後 で植 え た とい う。天水 田で は用水 確保 のた め にで きるだ け深 く湛水 して いた し, い っぽ う 深 田で は泥 が深 か った ので, 大 苗 で な けれ ば 植 え られ なか った とい う。7) 蓬莱米 の導入 と ともに, 除草機 の導入 が奨 励 され るよ うにな り, そ の とき正 条植 え も奨 め られ たが, それ まで は ほぼ

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寸 角 を 目 安 に して, ひ と りが イ ツモ ト(5株)もちで, 後退 しなが ら植 えて い った。 ま た, ミンク の 土 の肥 えた 田や カ ーダ で は1尺 角 くらいで疎 植 され た。植 え た宙 が抜 けな い よ う, 風 が強 い と きには右手 斜 め う しろか ら, あ るい は右 の手 甲 に風 を受 け るよ うに田 に 入 っ た と い う。 田植 え上手 を先 頭 に,植 え手 は彼 に従 っ て い った。風 のな い と きには, 図6に示 した よ うな ブ イマ ギ (あ るい は イ ロハ植 え とも呼 ばれ た) とい う移植 法 が行 われ る こ と もあ っ た。植 え手 が イ ツモ トを植 え おわ る と,互 い に 「イ ヤ-

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「イ ヤ ヒ-」とか け声 を交 わ し 7)与那国島に蓬莱米が導入された当初は,水や泥 の浅い水田にのみ栽培されたという。その後の 栽培試験の結果,育苗期間50日くらいの大苗を 植えて も収量が低下 しないことが 明 らか に さ れ,昭和12,3年 ごろか ら全般的にひろまるよう になった。

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田中 :与 那国島の水 田立地 と稲作技術 図6 イロ-植え (ブイマギ) つ つ植 え進 ん で い った とい う。 5. 本 田管 理 田植 え後 は,本 田 の水 管 理 に注 意 が払 わ れ る。 2,3日お きに水加 減 をみ,降雨 が あ る と きは,上 の 田か ら順 に田越 しに排水 して水位 を調節 した。本 田管 理 の主 な作 業 は除草 (ツ ァー トイ) で あ る。在来 品種 を栽培 して いた ころ は, 田植 え後 1カ月 か ら40日で第 1回 目 の除草 に入 り, 出穂 前 に2回 目の除草 を行 な った。 蓬莱 米 が入 って か らは, 田植 え後20日 くらいで第1回 目の除草 に入 り,手 入 れ の い い 田 はそ の後2回,3回 と 除草 さ れ た と い う。 大 きな区画 の水 田で は, 除草 は1回 くら いがせ いぜ いで あ った。 除草 はす べ て手 取 り で行 われ, 蓬莱米 以 降 に手 押 し車 が導入 され た けれ ど も, それを使 お うとす るの はわず か で あ った とい う。 カーダ や クダ で は, 田植 え の あ と除草 には入 らなか った。 在 来 品種 を栽 培 して いた ころ には, 目立 っ た虫 害 はな か った。虫 害 よ りも烏 の食 害 や踏 みつ け によ る被 害 がむ しろひ ど か っ た と い う。 昭和4,5年 ごろか ら台湾 との往来 が頻 繁 にな り,新 た に ドロオ イム シが入 って きた。 出穂 前後 にメ イ虫 が あ らわ れ るので,部 落総 出 の共 同作 業 (ウ ヤダ イ) で メ イ虫 の被 害 茎 を抜 き防 除 した。 また, 出穂 後 に は ウ ンカの 被 害 もあ った が,総 じて在来 品種 は虫害 ,柄 害 ともに少 な く,育 てやす い品種 で あ った と い う。 6. 収 穫 ・調製 出穂 後約40日で在来 品種 は成 熟 した。 ウ ン デハ ッカ ウ ン ミハ ッカ とい い,出穂 して20日, 熟 しは じめて20日で収 穫期 を迎 えた。穂 ば ら み期 や 出穂前 後 に台 風 が来 る と,被 害 は もっ と も甚 大 だ った とい う。 ま た, 立夏 の こ ろ (3月 末∼ 4月 初) に北 風 が吹 くと穂 ば らみ が悪 くな った。在来 品種 は夏 至 の ころの南 風 で登 熟 す る といわ れ て いた。早植 えで も晩植 えで も成 熟期 は ほぼ同 じで, この夏至 の南 風 が吹 く季 節 によ く稔 らな い イネは収 量 が悪 か った とい う。 稲 刈 り (マ イカ イ) は,水 田立地 の違 い に かか わ らず, ど こで もほぼ 同 じ時期 に行 われ た。午 前 中 に刈 取 りを おえ,午 後 は結束 で あ る。 刈 取 りは男 の仕 事 で,稲 刈 り用 刃鎌 で地 際 か ら20セ ンチメ ー トル くらいの高 さで刈 り 取 り,刈株 の上 にひ と握 りずつ並 べ て い った。 刈 取 りが ひ ととお りおわ って か ら結束 が は じ ま る。 ひ と握 りの イネ (カタ テ) ふ たつ を友 わ らで結束 した ものが トゥタバ エ (1把 ) で あ る。 トゥタバ 工が三 つ で トゥツカ, トゥツ カが五 つ で イ シカ, イ シカがふ たつ で トゥマ ル キ (1束 ) と呼 ばれ る。 す なわ ち,宙 取 り の場合 と同様

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タバ 工で トゥマル キ とな り, この大 きな束 がマル ンナで結束 され た。 常 時 湛水 して稲刈 りの ときに も乾 か な い ミ ンメや, カ ーダや アギ タな どの深 田で は,柿 刈 りの ときに田舟 (ウ ンナ ラ) や,牛 や水牛 に牽 引 させ るそ り (マ エ カ ングルダ マ) が用 い られ た。 ミンクで は,刈 り取 った イ ネを刈 株 上 に並 べ, その後 マル キに結束 した ものを 水 田内 に立 て て お き, 田舟 や そ りで畦-運 び だ した。 ま た深 田で は,水 面 か ら20セ ンチ メ 一 日 レくらいの高 さで刈 り取 られ た イネを, 同 じよ うに刈株 上 に並 べて お き, その後友 わ らで結束 した タバ 工を 田舟 に積 み, 畦へ運 び

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東南 アジア研 究 21巻3号 だ して か らマル 牛に結束 した。深 田で はかつ て は運搬用 に くり舟 も用 いた とい う。 刈 り取 られた イネは, マル キのまま野原 や 屋敷近 くの空地 -運 び,乾燥 させ た。 イネの 乾燥 は女 の仕事 で あ る。 前 日の うちに野原 -運 ばれ たマル キを翌 日ほど き, タバ 工をひ と つ ひ とつ扇 のよ うにひ ろげて, ま る

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日乾燥 した。乾 燥 のおわ った イネは,15タバ エずつ, す なわ ちイ シカ に束 ね られ, これを稲叢 (シ ラ) に仮 積 み した。 この シラは脱穀 まで の一 時 的 な もので,風通 しが よ く運 搬 に便利 な場 所 に作 られた。竹 を編 んだ枠 の上 にバ シ ョウ の葉 を敷 き, そ の上 にイ シカを積 み あげて シ ラに した とい う。年 を越 して 自家保 有米 とす るイネや種籾用 の イネは,屋敷地 内で タバ 工 にば ら した うえ, タ ネマ イ シラに撮 み あげ保 存 され た。石 を四隅 および各辺 の中央部 に据 え, そ の上 に木 をわ た して竹 で編 ん だ枠 を お き, さ らにイネわ らを敷 いて シラの土台 と し た。 そ して, まず保有米 を積 み あげ, その上 に翌 年 の種籾用 の イネを積 み,雨 除 けに クバ の葉 を最項部 にかぶせ れ ばタネマ イ シラがで きあが った。10月 には翌年 の稲作 のため の種 子 取 り (タ ナ ン ドゥ リ) が行 わ れ るので,種 籾用 の イネを シラの最上部 に保存 して お くと 便利 で あ った とい う。 シラ作 りはすべ て男 の 仕事 で あ る。 稲刈 りがすべ て おわ ったの ち,仮 積 み した シラを ば ら して屋敷地-運 び,脱穀 ・調製 が 行 われ る。脱穀 ・調製 は女 の仕 事 で あ るO脱 穀 には,大正 のは じめ ごろまで タ キ ンダ ー と 呼 ばれ る,細竹 で作 った扱 きは しが使 われ た が, その後 は千歯扱 ぎが使 われ るよ うにな っ た。 タ キ ンダ ーを使 った脱穀 の場合 ,上手 な 人 な ら午 前 中 に8マル キの イネを脱穀 で きた とい う。 脱穀 され た籾 は,天 日乾燥 のの ち, カテ ィカバ と呼 ばれ る空取 り用 の杵 で菅 が取 り除 かれ, そ の後, キ ウチ (木 白)とカバ (柿) で籾 す り, およびザ ニ ウチ とザ ニ カバ で精米 324 され た。 稲作 の年 間 サ イ クル の しめ くくりと して, 当時 の在来 品種 の収 量 が どの程度 で あ ったか を最後 に検 討 して お こ う。聴 取例 で は, 当時 の収 量 は1筆 あた りの籾重 量 (斤) や, あ る いは, た とえ ば100マル キ とれ る田を トゥガ ラダ と呼ぶ よ うに,収 穫 されたマル キ数 で記 憶 されて い る ことが多 か った。 そ こで,100 マル 辛の平均 的 な籾重量 を1,500-1,600斤 , そ して在来 品種 の籾 す り歩合 を50パ ーセ ン ト と して,各事 例 を反 あた りの玄米収 量 に換算 す る と,128.-230キ ログ ラム とい う収 量 にな り,平均収 量 (6事例) は165キ ログ ラム と な った。聴 取事例 はいず れ も当時 の精農家 の 収 量 で あ るので, この数字 よ り少 し低 い収 量 が 当時 の平均 的 な収 量 で あ った と考 え られ よ う。 蓬莱米 が導入 されて,収 量 は倍 増 した と 一般 にいわれて い る.与那 国 島で は,天水 田 で蓬莱米 の半分 の収 量, ミンクで3分 の 2の 収 量 で あ った とい う聴取例 もあ り,反 あた り 140キ ログ ラム前 後 の収 量 が,当時 の平均 的 な 収 量 で はなか ったか と推定 され る。8〉 いず れ にせ よ, 当時 の与那 国島で は, これまで述 べ て きた よ うに,年 間 を通 じて稲作 のた めの作 業 が切 れ 目な く続 き,多大 の労働 が投 下 され て いた に もかかわ らず,収 量水 準 は非常 に低 か った といえ よ う。

東 南 アジア島唄部稲作 との関連 周 囲約27.5キ ロメー トル,面積約31.5平方 キ ロメー トル の与那 国島 はけ っ して大 きな島 で はな い。 しか し,小 さいなが らもこの島 内 8)与 那 国 町 役 場 調 べ の 昭 和55年 度 水 和 生 産 実 績 に よると,一期作の反あたり収量が288キログラ ム,二期作が112キログラム,両作李をこみに した平均収量が281キログラムである。また, 八重山農業改良普及所与那国事務所によると, 過去5年間の平均収量が258キログラムである ので,当時の平均収量の推定はもう少 し低 く見 積もる必要があるかもしれない。

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田中 :与那 国島の水 田立地 と稲 作技術 に多様 な水 田立地 が存在 し, それ ぞれ に対応 した稲作 が営 まれて いた こ とを これ まで に述 べ て きた。 こ こ で は, 蓬莱米 導 入以 前 の稲 作 の特徴 を本 土 の稲 作 との比 較 にお いて と ら え, さ らに東 南 ア ジア島峡部 の稲作 との関連 にお いて考察 す る こ ととす る。 本 土 の稲作 と比較 して,与那 国 島 の稲作 は 次 の よ うな点 で異 な る特 徴 を有 して いた。 す な わ ち,(む作 李 が新 暦 1, 2月 か ら6, 7月 まで で,本 土 の作李 とはま った く異 な る, ② 耕 走法 におけ る型 の役割 が低 く,本 土 にはみ られ な い踏耕 が行 われ る, ⑧水 稲 品種 の生 育 期 間 が長 い,(㊤収 量水 準 が非常 に低 い, な ど で あ る。以 上 の よ うな特 徴 の はか に,景 観 的 にみ た現在 の水 田 の姿 も,本土 のそれ とはず いぶ ん異 な って いた よ うに思 え る。 かつ て は 天 水 田が開 かれて いた丘 陵地 や台 地 上 の耕 地 の赤 土 のひ ろが り,亜 熱帯 樹林 に囲 まれた 山 間 の谷 地 田な どは,本 土 にはみ られ な い水 田 景観 といえ よ う。 前述 した本 土稲 作 との相 違 点 や景 観 的 にみ た水 田の印象 は, 与那 国 島の 稲作 が本 土 の稲作 よ り も, む しろ南 方 の東 南 ア ジア島峡部 の稲 作 に似通 った もので はな い か とい う考 えを強 く抱 かせ るので あ る。 それで は,東 南 ア ジア島峡部 の稲作 に は ど の よ うな特 徴 が認 め られ るので あ ろ う。 筆 者 は この地 域 に共 通 す る特 徴 と して次 の よ うな 点 を指摘 した い。 まず稲 作 の景 観 的 な特 徴 と して は,比 較 的限 られた地 域 内で水 条件 にお いて連 続 的 に遷 移 す る立地 が混在 し, そ こに 焼 畑 一 常畑 一天水 田一 低湿 地 水 田 とい うよ う に多様 な耕 地 が開 かれ, さま ざまなタ イプ の 稲 作 が共 存 して営 まれ て い るのが,東 南 ア ジ ア島峡部稲作 の特 徴 で あ る。 大 陸部 に くらべ て箱庭 的 と もいえ る島峡部 の地 理 的還 境 が, 小 地域 内で の多様 な稲作 の共 存 を必然化 せ し めた と もいえ よ う。 そ して,技 術 的 な特徴 と して は,年 間 の降水 量分布 に対 応 した伝統 的 作 李 の多様性 ,踏 耕 ,橋形鋤 な どの耕 地 準 備 のため の この地 域独 特 の方 法 と農 具 の存在 , ブル系 品種 と総 称 され る, 非 感 光性 で生 育期 間 が長 い,大粒 ・長苦 の品種 群 の栽 培 , あ る い は稲作儀 礼 にお け る牛 ・豚 の供蟻 な どを指 摘 で きよ う。 焼畑 や常畑 で の オ カボ栽 培 の伝統 を与那 国 島でみ るこ とはで きな か った けれ ど も,天水 田か ら低湿 地 水 田 に至 る連 続 した水 条 件 の も とで さま ざま な稲 作作 業 が共 存 して いた こと は, す で に述 べ た とお りで あ る。 この よ うな 与那 国島 の水 田立地 と対比 す る とき, ジ ャワ 島 の火 山性 台 地 を開析 した谷 底 の谷地 田や, それ に続 く緩斜 面 上 のゆ るや かな棚 田水 田, あ るい はス ラ ウェ シ島 ボ ネ地 方 の隆起 石 灰 岩 台 地 の天 水 田な どが容 易 に想起 され, それ ぞ れ,与那 国 島 の ミンクや- タケダ, あ るい は テ イ ンチダ にた い- ん似通 って い るよ うに思 え る。与那 国 島 の稲作 が東南 ア ジア島峡部 の 稲 作 に関連 す るので はない か とい う筆 者 の印 象 は, このよ うな水 田景観 の相 似 に もとづ く 印象 にす ぎな い けれ ど も,以 下 に と りあげ る よ うな イネの作李 や水 田耕作 法 の特 徴 にまで 考 え を及 ぼ して い くな らば, そ の印象 もあな が ち的 はず れ で な いので はな か ろ うか と思 え て くるので あ る。 東 南 ア ジア島峡部 の イネの作 李 は,各 島 々 の大 陸側 と大洋側 ,言 い換 えれ ば脊 梁 山脈 の 西側 と東 側 で異 な る場合 が多 い。 これ は, モ ンス ー ン由来 の降雨 の年 間分布 パ タ ー ンが 島 の両 側 で異 な る こ とによ る。 た とえ ば, フ ィ リピ ンのル ソ ン島 の オカ ボ栽 培 の場 合 ,南 西 モ ンス ー ンによ る夏雨 が卓越 す る西岸 型気 候 区 (脊 梁 山脈 西側 ) で は,6月 か ら10月 が主 要 な作 季 で あ るの に対 して,北東 モ ンス ー ン によ る冬 雨 が卓越 す る東 岸 型気 候 区 (脊梁 山 脈東 側 ) で は,10月 か ら1月 に降雨 が比較 的 集 中 して,10月 か ら2月 が作季 とな る [古 川 1982:55]。また,ス ラ ウェ シ島南 部 の南 ス ラ ウェ シ州 の場合 ,北 西 モ ンス ー ンが卓 越 して

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東 南 ア ジア研 究 21巻3号 イネの作李 が12月 か ら5月 ごろ とな る西岸 部 と,南東 モ ンス ー ンが卓越 して作李 が3月 か ら8月 ごろ とな る東岸 部 とは, 際立 った対照 をな して い る。大洋 と大 陸 に挟 まれ た島峡 の 地 理 的位 置 は, このよ うにひ とつ の島内 に複 数 の対照 的 な イネの作 李 を成 立 させ る気候条 件 を もた らす点 が大 きな特色 で あ る。 この こ とは,大 陸部 の稲作 がモ ンス ー ンの交番 によ る明確 な乾季 と雨季 とによ って一律 に競走 さ れ て い るの と好 対照 をなす といえ よ う。 バ イモ ーダ ルな降雨分布 を示 し, 明確 な乾 季 や雨季 を もたな い与那 国島 の気候条件 は, こ うい った意味か ら,東南 ア ジア島峡部 の気 候条件 に通 じる特徴 を示 して い る。す なわ ち, その降雨パ タ ー ンは, 島峡部 の主要 な島 々に み られ る脊梁 山脈 の東 西両側 の降雨パ タ ー ン が重 な った もので, なかで も,北東 モ ンス ー ンによ る冬雨 が卓越 す る北半球 の島 々の東岸 塾 の降雨パ タ ー ンを示 す もので あ ると位 置づ け られ よ う。 そ して,台風期 と冬 雨 の卓越 と い うふ たつ の条 件 によ って成 立 した与那 国島 の伝統 的 な イネの作李 は,東 南 ア ジア島峡部 とい うひ ろい枠組 のなかで と らえ る とき, 同 様 な条件 によ って成 立す る,台 湾 や フ ィ リピ ン東岸 部 の伝統 的 な イネの作季 とともに, 島 喚塾稲作 の北半球東岸塾稲作 とで も呼べ るひ とつ の グル ープ にま とめ ることも可 能 で はな いか と考 え られ る。 次 に,東 南 ア ジアの島峡部 の稲作 と関連 し て注 目 したいのは,与那 国 島 の伝統 的な水 田 耕 作法 で あ った踏耕 の問題 で あ る。踏新 につ いて は,す で に この地域 との関連 につ いて論 じて い る報告 もあ るので,9) 先 に述 べ たわた しの印象 を もう少 し補 強す る材 料 を示 す とい う立場 か ら,簡 単 にそ の ことにふ れ るに とど めて お こう。 与那 国島で行 われた踏耕 は,天水 田で の漏 水 防止, ミンクで の土壌 の摸 拝耕 , および緑 肥 の踏 み こみ とい う三 つ の役割 を もって いた 326 が, 同様 な役割 を果 たす踏 耕 は東南 アジアの 島峡部 で ひ ろ く行 われて い る。 た とえ ば, 山 間盆地 の水 田の耕 恵 を主 な 目的 と した踏耕 , 低 湿地水 田の雑草 の踏 み こみ のための踏耕 , あ るいは石灰岩 台地水 田で の漏水 防止 のた め の踏耕 な どで あ る。これ らの踏餅 は,その機能 にお いて も, また型耕 に先行 す る耕 走法 で あ った と推定 され る点 で も,与那 国島 の踏耕 と きわめて 共 通 して い る点 が 多 い といえ る [田 中 ら 1982:24-26]。 そ して,踏耕 の 行 われ た地域 が, ひ ろ く,東南 ア ジア島峡部 か ら, 与那 国島を経 て南 西諸 島を北 上 し,遠 くは九 州南端 にまで及 ん で いた こと[同上論文 : 26-31]を想起 す る とき,与那 国 島 の稲作 が 系譜 的 に も東南 ア ジア島峡部 の稲作 と強 く結 びつ いて いた ので はない か とい う思 いを強 くす る ので あ る。 いまひ とつ 島峡部 の稲作 との関連 で指摘 し た い点 は,与那 国島 の イネ品種 の問題 で あ る。 前章 で記 した よ うに, 蓬莱米導入以前 の在来 品種 は,羽地黒 , 名護穂赤, マ - ノマ イ, イ ネマ イ,ウチ ノマ イ,ツーマ イ,ムテ ィマ イな どと呼 ばれ る品種 で あ る。 この うち,前二者 はその名 の示 す よ うに,八 重 山地方 -新 しく 導入 された品種 で あ る。 また,他 の品種 の う ちい くつか は,与那 国島だ けで な く八重 山の 島 々で も栽培 されて お り [安渓 1978:51】, 与那 国島の イネ品種 は八 重 山地方 と大 き く異 な る もので はなか った よ うであ る。 聴 取 によ る と,与那 国島 の品種 はいず れ も草丈 が高 く, 長だ,長穂 の形態 的特徴 を有 して いた といわ れ る。品種 が現存 しな いため にその形質 を詳 しく検 討 で きな い ものの,聴 取 によ る形態 的 9)国分 [1970:162]は,踏耕を 「日本内地系の技 術と異なるもの」 とし,これを 「島型稲作」と 呼称 して南西諸島に 「弥生系の技術とは異なる 南方系の技術が分布」 していたことを示唆 して いる。 また,小林 【1982】は,主 として文献資 料により,南西諸島の多数の踏耕事例をあげて おり,踏桝が水田保水に重要な役割を果た して いたことを明らかにしている。

参照

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