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東北タイ・ドンデーン村 : 自然, 農業, 村経済の全体像試論 [Don Daeng Village in Northeast Thailland : An Overview on Nature, Agriculture and Economy]

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東南 ア ジア研究 23巻3号 1985年12月

東北 タイ ・ドンデーン村 :自然 ,農業,

村経済の全体像試論

朗 *

DonDaen皇Vi

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HayaoFUKUI*

Although Don Daeng village has long been involvedinamarket-orientedeconomy,ricepr oduc-tionhasneitherbeencommercializednordeclined. Neitherhasitbeenintensi丘ed,despitethepotential ofa largeincreaseofvillage population,which hasnotbeenrealizedbecauseofemlgration・ The extremeinstabilityandpoorproductivity ofrai n-fedriceononehand,andtheunreliabilityofcash income from other sources,farm and off-farm alike,Ontheother,areresponsiblef♭rthepersis -tenceof rice cultivation in the traditionalstyle. This resultsin a two-sector economy: one f♭r

は じ め に ドンデー ン村 は,1964-1965年 に故水野浩 一氏 によ って は じめて調査 されたOそれか ら 17年後の1981年 と, さ らにその2年後の1983 年 に,今 回の調査 が行われた。今 回調査 で最 後まで村 にいた者 が帰 国 してか ら,すでに 1 年以上 が経過 した。 しか し,え られたデータ の一部 しか, いまだ分析 されて いな い. これ は,データの量 の膨大 さにもよる。 データの 完全 な整理 ということは難 しいが,一応整理 *京都大学東南アジア研究センター;The Center f

orSoutheastAsian Studies,Kyoto University

acqulrlnggoods,mainlyrice;theotherforacquir -ing cash・ The former limits the maximum accommodablepopulationinthevillage,whilethe latterdeterminesthelevelofincome. Emigran ts from thevillagetodayhaveavariety ofdestina・ tion,though manysti

l

l,traditionally,makeforthe f

rontierlands. Theslow increase ofpopulation preventstheincreaseofvillageincomefrom being offsetbythatofpopulation. Thepersistenceof thetraditionalricecultivationpromotestheprese r-vation ofthetraditionalcustoms,institutionsand theorgani2:ationofmutualcooperationamongkin・

の区切 りがつ いた この段階で,自然条件 ,農 莱 ,経済 を中心 と した全体像 の素描 を あえて 試 みたい。 あえて全体像 の素描 を試 み るには,それな りの理 由がある。 自然科学者 を も含んだ総合 的な村落定着調査 の必要性 が語 られ はす るが 実行例 が少 な い中で,われわれの調査 は曲が りな りにもそれを実行 した。村落調査 とい う 方法 の意味 自体 が問われつつ ある近年 ,学際 的チームによる定着調査 によ って,開発途上 国の農村 の これまで分 か らなか った一面 で も 明 らか に しえたであろ うか。また,方法論 と しての学際的定着調査 が成功 した といえ るの であろ うか。 こ の よ う な問掛 けに答 え るベ 371

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東南アジア研究 23巻3号 く,荒 削 りなが らわれわれの理解 した ドンデ ー ン村 の鳥轍 図を描 き,また,それ によ って われわれの とった方法 の有効性 を判断す る一 助 に した い。 まず全体像 の骨格 を述べ,次 いで 自然環境 と農業 ,経済 ,社会 の順 で肉づ けを行 う。以 下 の文 中では叙述 の方法 として,現時点 での われわれの もつ仮説的全体像を大 きな活字 で 書 く。大 きな活字 で書 いた部分 の段落 ごとに, 小 さな活字 でその根拠 とな るべ き も の を 書 く。根拠 とはいって も必ず しもデータが揃 っ て いるわ けではな い。 いうまで もな いが,デ ータの分析 が進 めば, ここに述べ る全体像 は 修正 され るであろ うし,場合 によって は,ま っ た く書 き直 されね ばな らないか も しれな い。 Ⅰ 全体像の骨格 水野調査 時 と今 回調査時の ドンデ ー ン村 を 比較す ると,農業 の企業化,農外収入 の増加 , 兼業化 の傾 向がみ られ る。 そ して, このよ う な経済 の基盤 の変化 に呼応 して伝統的な農村 生活 が変容 し,人間関係 にも影響 が及 びつつ あることが観察 され る。 これ らは,程度 の差 こそあれ,今 日の開発途上国の農村 に共通 に み られ ることである。ドンデー ン村 の特徴 は, 主穀作物 である米 の商品作物化 がま った くと いってよ いはど進んで お らず,か といって消 滅 も して いな いことで ある。畑作物や野菜 な どの商業的栽培 が盛んで あ り,また,農外所 得 の比重 も高 いだ けに,伝統的な稲作 のみが 依然 と して 自給米生産 にとどま って いるのは 奇異 な感 さえ与え る。 自給米生産 とそれ以外 の経済活動 とは, 目的,相互扶助 の慣習 など の面 で対照 的である。 これを現物獲得経済部 門 と現金獲得経済部門の2部門経済制 と呼ぶ こととす る。 ドンデー ン村 の第 2の特徴 は,村 の人 口増 加率 が低 いことである。 過去17年間 に810人 372 か ら900人 に増加 しただ けである。この低 い増 加率 は,主 に人 口の移 出によるものである。 しか し, ドンデー ン村 か らの移 出は,必ず し も農村 か ら都市-の移動 だけではな い。東北 タイにおける村人 口の増加 に対す る伝統的な 対処 の方法 は開拓移住 であって,それは,そ の重要性 は減 じた とはいえ,今 日で も存続 し て いる。 いずれ にせ よ,村 内で水 田面積 の拡 大 が不可能 にな って以来現在 に至 るまで,村 の人 口増加 は主 と して移 出によ って抑 え られ て きた。 同時 に水 田の細分化 とそれ に伴 う社 会経済的変化 が進行 して いない。 以上 のふたつの特徴 ,すなわ ち経済 の 2部 門制 と低 い人 口増加率 は,実 は同 じ原 因 に発 して いると考え る。 その原 因 とは, コラー ト 高原 の稲作 の特徴 で ある限界地性 である。 コ ラー ト高原 の地形 ,気候 ,土壌条件 は,低 い 生産性 の稲作 しか許 さず, しか も,集約化 に よる生産性 の向上を本来 的 に阻む。その結果, 家族労働力 の許す限 りの面積を耕作 して も, あるいは,土地 当た りの労働投入を増加 させ て も,恒常的 には余剰米 を生 産 しえな い。 よ って経済環境 がい くら近代化 されて も,現金 獲得書押弓の安定性 が十分 に大 き くな らな い限 り, 自給米生産 は必須 であ り続 ける。同 じ理 由によ って村 の人 口は,ある限度を超 えては 増加 しな い。村 の水 田面積 が基本的 には村 の 扶養可能人 口を規定 して いるか らで ある。 伝統的稲作 の存続 と人 口移 出を常態 とす る 生活スタ イル とは,村人 の組織 ,制度 ,行動 に強 く反映 されて いる。 前者 は,稲作 におけ る相互扶助や儀礼 の温存 に とどま らず ,広 く 伝統的価値 ,文化 ,権威 の継続 に寄与 して い る。後者 は,相続 における男女間の差 などに とくに顕著 に表われて いる。 以上 が,われわれの理解 した ドンデー ン村 の全体像 の骨格 であ る。 この全体像 を さ らに 縮 めて一言 で表現す るとすれば, ドンデー ン 村人 の,そ して広 く東北 タイ, コラー ト高原

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福井 :東北タイ ・ドンデーン村 :自然,農業,村経済の全体像試論 に住 む ラー オ系 タ イ人 の基 本 的特 徴 は ,開 拓 移 住 稲 作 民 で あ る といえ よ う。 こ こに 「開拓 移 住 」 とい うの は,焼 畑 耕 作 民 の よ うに新 た な耕 地 を求 め て他 の場 所 へ 移 動 す る と い う意 味 で はな い。 彼 らの伝 統 的生 業 は あ くま で水 田稲 作 で あ り, した が って ,定 着 的 で あ る。 しか し,村 の人 口が増加 した とき,農 業 を集 約 化 させ て村 の人 口扶 養 力 を 向上 させ るの で はな く,村 外 の未 墾 地 の開拓 に よ って耕 地 面 積 を増 大 させ ,食 糧 を確保 す る。 この開拓 移 住 は,ふ つ う,近 親 関係 に あ る数 家族 を 中心 と し, そ れ に近 隣 の一 部 が加 わ る形 で行 わ れ る。 これ を 「ハ - ナ -デ ィー (良 い田 を求 め る

)

」と呼 ぶ。 ハ - ナ -デ ィー こそ が , タ イ ラ ーオ系 社 会 の基 本 的性 格 を理 解 す る鍵 で あ る と考 え る。 ドンデー ン村 自体 が, およそ 120年前 ご ろ チ-川下流に当たるローイエ ット,マハ-サラ カムなどの県か らの移住民によ って形成 された lKaida,Chap.2(1)inFukuiezaZ.1985(以下 Rpt.85 と略す)]。 ドンデー ン村周辺の30カ村 の中で 200年を超えて同 じ村域を維持 している 古い村は四つ しかな く, 100-200年前の成立 と されるものが 9カ村,残 りは 100年以下の歴史 しか もたない 【MaekawaandKoike,Chap.2 (3)inRpt.85]。 コンケ ン市の東10キロメー ト ルにある ドン〆ボ ンダ村は,1922年に 8家族 し かいなか ったが,その年マハ-サラカムか ら29 家族,167人が移住 してきて,今 日の村の基礎が T gf=lLefferts 1974]. 開拓移住は,いまだ過去のものとな ってはい ない。 ドンデー ン村か らの開拓移出は,水田面 積がほぼ現在のそれに近 くな った1940年代に至 って盛んにな った らしい。その後の ドンデー ン 村か らの移住例 については,移出者の多いウ ド ンクエ県などの村を訪問 したときの記録が本特 集号に報告 してある ので, 参照 され た い 【林 19851。 1981年に ドンデー ン村に在村 していた 176人の世帯主 は,641人の生存 している子供を もち,その中の190人が離村 していた。190人の 中で既婚者は126人いたが, その30パーセ ン ト は,ウ ドンタこ,ルーィ,チャイヤプムなど新 しい開拓地の多い県に居住 し,農業に従事 して いる [福井 1985

コラー ト高原におけるタイラーオ系住民によ る開田が,いつごろか ら--チ-デ ィーと呼ば れる自発的移住に主 としてよるようにな ったの かは,明 らかでない。記録に残るメコン河を越 えてのラーオ人のチ-川流域-の移住は18世紀 後半に始まるが,それ らは王族などの指導者を 戴 く屯田的移住であ った。1826年のタイ ・ラー オ戦争以後は, バ ンコク政権の意図 的 な 移 住 政策によって, メコン左岸か ら コラー ト高 原 -かな りの ラーオ人が移動 させ られ た [Ishii, Chap.1(1)inRpt.85;Keyes 1976]

.

ⅠⅠ 自然 環 境 と稲 作 人 口増加 に 対 処 す るに 開拓 移 住 を も っ て し,集 約 化 が進 ま な い根 本 的理 由 は, コ ラー ト高 原 の 自然環 境 条 件 に あ る。 ま た ,開 拓 可 能 な土 地 の存 在 は, この地 方 が辿 った歴 史 的 状 況 によ って説 明 で きよ う。 コ ラー ト高 原 の地 形 条 件 は,天 水 稲 作 を余 儀 な くさせ る。 この高 原 で は,技 術 ,資 本 , 組織 力 の不 足 に よ って かん が いが不 可 能 で あ るの で は な い。 地 形 条 件 が本来 的 にかん が い を拒 む。近 代 技 術 に よ って ,一 部 で かん が い が行 わ れ るよ うにな った が ,全 体 の ご く小 部 分 に過 ぎな い。今 後 の か ん が い面 積拡 大 の見 込 み も小 さ い。 かん が いが な くと も十 分 な降 雨 量 に恵 ま れ れ ば,稲 作 は安定 す る。しか し, コ ラー ト高 原 の降 雨 量 , と くに ドンデ ー ン村 を含 む西 南 部 の そ れ は ,天 水 稲 作 を行 うには 限 界 に近 いほ ど少 な い。 そ の結 果 ,稲 作 は極 端 に不 安定 で あ る。コ ラー ト高 原 の大 部 分 は, 砂 岩 風 化 物 を母材 とす る土 壌.に 覆 わ れ て い る。作 物 の養 分 含 量 は少 な く,稲 作 に と って の物 理性 もよ くな い。 湛水 条 件 下 の土 壌 粒 子 の沈 降 が早 く,代 掻 き直 後 で な い と苗 の挿 秋 が困 難 で あ る。 この よ うな土 壌 の性 質 は ,降 373

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東南 アジア研究 23巻3号 雨 に恵 ま れ た年 に あ って も,単 位 面 積 当た り の低 収 量 を結 果 し,季 節 的 な労 働 の ピー ク, と くに植付 け時 の そ れ を大 き くす る。 アジア稲作圏は,温暖多雨なモ ンスー ン気候 と山の多い地形の重な った地域 に成立 して い る。山と山の間に発達 した沖積平野は集水面積 が大 きく,そ こか らの流れを制御で きれば,辛 野が直接受ける雨量以上の水を利用で きる。こ の利点を生か したのが水田農業である。ところ が,稲作圏の中にあ って も,高原や大 きな平野 の周辺を形作 る段丘などでは,集水面積が小さ く天水依存度が大 きい。借地などで域内の降雨 を貯水するか,流域を越えた取水が必要である lFukui,Chap.I(4)inFukuiezal.1983(以下 Rpt・83 と略す)]。前者の大型のものはコラー ト高原上にもい くつかあるが,地形的に適地が 少ないので今後の増加は望めない。小さな潜池 では生活用水に しかな らない。後者の方法は, 巨大な土木工事を必要 とする。コラー ト高原の 場合,それはメコン本流を堰止めるパモ ンダム 計画である。 この巨大プロジェク トの実現は近 い将来には期待できそうにない し,また,たと え実現 して も コラー ト高原の水田のおよそ 1/3 を潤すに過 ぎない。 天水依存水田で年間何カ月の継続 した湛水状 態が期待 されるかを, 熱帯 アジア各地 の月別 気温 と降雨量 とに基づいて 試算 した例 が あ る lKawaguchiandKyuma1977].試算のために 仮定 した条件は, 土壌の最大容水量が 100ミリ メー トル,畦畔によ って地表に貯水 される量が 200ミリメー トル,地下浸透 による損失が月100 ミリメー トルである。 これ らの仮定のもとにソ ー ンスウエイ トの方法に準 じて試算を行な った 結果によると, 125カ所の 測候所は九つの気候 区に分類され,コラー ト高原は,Ⅴ区に属する。 この区に分類 された32カ所の中の25カ所では, 連続湛水期間は2カ月か,それ以下である。 天水稲作にとって少な くとも 120ミリメー ト ルの月雨量が必要であると仮定 し,5年のうち 4年 はその月間雨量がえ られる月 を 計算 す る と,コンケ ン県を含む コラー ト高原西部では 9 月1カ月 しかない。この条件を満たす月数が4 374 カ月あるのは,メコン本流沿いの諸県に限 られ

る 【Hoshikawa,Chap.Ⅲ(1)inRpt.83].

水野が ドンデー ン村で聴 きとった村全体の粉 生産量は,1961年123トン,1962年44トン,1963 年46トン,1964年 8トンであ った 【水野 1981 :48]。今回の調査時のそれは,1978年30トン, 1979年53トン,1980年34トン,1981年257トン, 1982年90トン,1983年425トンであ った [Kohno and Kaida,Chap.8(3)in Rpt.85]. 凶作年 がたびたびあるというよりも,ときどき豊作が あるとい った方が適切な表現であろう。タイ国 の県別米生産量の経年変動は,五つの県で変動 係数が30パーセ ントを超える。このうちの4県 はコラー ト高原の西南部にある【内田 ら 1981]。 熱帯 アジア全体において県別米生産量の変動係 数が25パーセ ントを超える生産不安定地域は, ス リランカの ドライゾー ン,インドのデカ ン高 原,ビルマの ドライゾー ンの中央部,それにタ イ国のコラー ト高原である 【Fukui 19821。 コラー ト高 原 の地 質, 土 壌 につ いて は, Hattoriand HoshikawalChap.1(2)inRpt. 85],ItattoriandMatsufujilChap.6(1)inRpt. 85]を参照されたい。 雨季初期の降雨は,間欠的にや って くる。ま とま った降雨があるたびに田植えが進行する。 これを数回繰 り返 して,全部の田の植付けが終 了する。すなわち,田植え時の労働 ピークは, 日単位で細か くみれば,降雨に同調 した波状で ある 【MiyagawaandKuroda,Chap.7(1)in Rpt.85】。稲作における労働集中の ピークが大 きいことはよ く知 られているが,天水稲作にお ける植付け時の ピークがとくに大 きいのはこの ためである。また, コテ- ト高原の土壌は,粘 土含量が低いものが多いため,代掻 き直後でな いと移植で きない。田植え時の家族内の労働分 配にみ られるように,田植え当日には男手が代 掻 き,女手が田植えに従事する 【小池 ら 1985]。 このことは,ピークをさらに大 きなものにする。 かん が いを 困難 にす る地 形 条 件 ,極 端 な収 穫 不 安定 を結 果 す る降 雨 条 件 ,低 収 と大 きな 労 働 ピー クを もた らす 土 壌 条 件 とによ って , 集 約 化 は阻 ま れ ,余 剰生 産 は困難 とな る。 家

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福井 :東北タイ・ドンデーン村 :自然,農業,村経済の全体像試論 族 労働 の許す限 りの土地 を耕作 して も,低収 と不 安定性 とによ って,恒常 的な余剰生 産 を 生 み 出す こ とがで きな い。 これを稲作 の限界 地性 と呼ぶ こととす る。 コラー ト高原 の稲作 が不 安定 性 を もって特 徴 とす る限 り,稲 作農民 の生 活 も不 安定 とな る。 と くに現金獲 得部 門 が小 さか ったかつ て の村生 活 は, ときに棄村 を余儀 な くさせ るは ど厳 しい もの で あ った といわ れ る。 しか し, この不 安定性 自体 を改善 す る ことはで きな く とも,生 活 へ の影響 を最小 限 にす る手段 が存 在 す る。 それ は,耕 地面積 を最大 限 に し,豊 作 年 の収 穫 を備蓄 す る こ とで あ る。その結果, 「1年 の豊作 が あれ ば3年 は とれな くて もよ い」 とい った農業 が行 われ る。 村の古老が語るところによれば,米が枯渇 し て くると,水増 ししたおかゆをすすり,野性の 救荒食をもって飢えを凌いだ。ときには,牛車 をつ らねて遠 くナコンラーチャシーマ県までさ まよい歩 き,一握 りを単位に米を求めた。村人 が遠出をするときには,その目的などによって いろいろな縁起を担 ぐが,米を求めに遠出する ときのための特別の縁起がある 【林 1985】。こ のことは,そのような遠出が,けっして稀なこ とではなかったことを物語る。東北タイを舞台 にした小説 『東北タイの子』 【カンプ-ン・ブ ンタグィ- 1980】に描かれた早魅による凶作 と放浪の旅のありさまは, ドンデーン村民にと っても他人事ではなかった。 米は籾米のまま米倉に貯蔵される。1983年は 数十年に1度の大豊作であった。収穫期が近づ いてから米倉を増築する者が多かった。 ドンデ ーン村とチ-川を隔てた対岸にはかんがいがあ り,2期作が行われている。そこでは米の商品 作物化が進み,米倉はみられない。すべてを収 穫 した田圃から直接搬出し,売却する。自家消 費米は精米を購入する。田圃から米倉まで運搬 する費用と労力を節約するためである。 以 上 に述 べ た よ うな不 安定 で,低収 で,粗 放 な稲作 と, それ が結果 す る生 活水準 を許容 で きる人 々に とって, コラー ト高原 の 自然条 件 はむ しろ魅力 的 で あ った か も しれな い。高 原 特有 の河川 の少 な い,果 て しな く続 く緩 や か な起 伏 は,徒歩 や牛車 によ る移動 を妨 げ な か ったで あ、ろ うO また,貧 弱 な土壌 と寡両生 件 下 に発達 した熱帯 サバ ンナの疎林 は,開墾 す るの に比較 的容易 で あ った と思 われ る。健 康 な働 き手 に恵 まれた家族構 成 を もち,移住 に十 分 な資金 さえ あれ ば,窮屈 にな った村 を 離れて新天 地 を求 め る こ とは,少 なか らぬ危 険 を伴 うとは いえ ,決死行 ではなか った と思 われ る。 とは いえ ,未墾 地 の余裕 がな けれ ば開拓 移 住 は不可能 で あ る。 コ ラー ト高原 には, さま ざまな先住民族 が遺跡 を残 して い る。しか し, 理 由は分 か らぬ が, この高原 に今 日まで継続 して多数 が居住 し続 けて きた とい う民族 はな い。 ラーオ人 が この高原 上 の中心部 に拠点 を 築 いた最初 の記 録 は,18世紀 も後半 の ことで あ る。 この時期以 降 メ コン河 を越 えて この地 に移住 した ラーオ人 と,そ の後急速 に増加 し た と思 われ る彼 らの子孫 に とって, コラー ト 高原 は格好 の開拓 地 を提 供 した。 ドンデーン村の成立初期のころは,その集落 の場所を近距離の範囲内で何回か変えている。 その最初の場所には,シーサケットのスウェイ 人が数家族いたといわれている。他の近隣村で も同じことがいわれている。また,近在にクメ ール様式と思われるパゴダの遺跡 が残 って い る。ラーオ人のコラー ト高原進出以前に,アン コール帝国以来のクメール系人が,その数を減 じたとはいえ残存 していたとしても不思議では ない。 ⅠⅠⅠ 村 経 済 前節 に述 べ た理 由 によ って,水稲耕作民 で あ りなが ら移住 を常態 とす るタ イ ラーオ社 会 が結果 した と考 え る。 で は次 に, ドンデ ー ン 村 にみ られ た経 済 的 な諸 特徴 とは何 か,そ し て,それ らは移住 を常態 とす る水稲耕作民 と 375

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東 南 ア ジア研 究 23巻3号 い う上述 の理 解 とど う関係 す るのか。 ドンデ ー ン村 の経済 構 造 を理解 す るには, 村 経 済 が現 物獲 得経 済 と現金 獲 得 経 済 のふ た つ か らな る と考 え るの が よ い。 そ して ,時 間 的 に は前者 が縮 小 し,後者 が拡 大 しつつ あ る。 前 者 はかつ て衣 食 住 の ほ とん どを賄 った が , 今 日で は稲 作 以 外 には顕著 で はな い。後者 は, 農 業 ,非農 業 の両者 を含 む。 す なわ ち,農 業 と して は,棉 ,ケ ナ フ,キ ャサバ と変 遷 して き た商 品 と して の畑 作 物 の栽培 が あ り,ま た,ト ウガ ラ シを主 とす る野菜 栽培 が あ る。非農 業 と して は定期 ,不定 期 の農 外 雇 用 と村 内 の 自 営 業 とが あ る。貨 幣経 済 が ドンデ ー ン村 を巻 き込 む よ うにな って か ら久 しい。 に もか か わ らず ,依 然 と して ,主 穀 で あ る米 が商 品作 物 化 せ ず ,現 物獲 得 部 門 と して残存 して い るの は, なぜ か。 ふ たつ の理 由 が考 え られ る。 ひ とつ は,稲 作 に と って の限界 地性 で あ る。 も うひ とつ は,現 金 獲 得部 門 の不 安定性 で あ る。 今 日の現物獲得部門が稲作だ桝 こ限定される とは厳密にはいえない。多 くの活動が現物 と現 金の両方を目的とする。水牛の飼育は一部は現 金収入のためであるが,役畜の自家謝達で もあ る【Yano,Chap.7(2)inRpt.85]。野菜は70 パーセ ント以上の世帯が栽培 してお り,今 日で は重要な現金収入源のひとつ となっているが, そのすべてが換金されるわけではない。世帯に よっては, もっぱ ら自家消費用 の 野菜 しか作 っていないこともある tFukuiand Anukul, Chap.ⅠⅤ(5)inRpt.83].魚 とりや,日常の道 具類,衣類,敷物などを作る手仕事 も重要であ る。生活時間調査が示すところによれば,乾季中 のその他の就業機会の有無によって,それ らに 費やされる時間が大 きく異なる【小池 ら 1985]。 とれた魚の一部,手仕事の産物の一部は換金さ れる。野性の植物,昆虫を含む小動物なども盛 んに採集,捕獲 される。日常のおかずに占める これ らの重要性は,いまだ大 きい [野間 1982]。 とくに農繁期の昼食は野良で用意されるが,米 と調味料以外の材料のほとんどは現場で調達さ れる。これ らのうちの商品価値の高い動植物は 376 換金される。ときに換金を目的とした採集,捕 獲 も行われる。養蚕 も行われているが,自らの 衣類を作るためで もある。楠を栽培 して自家用 に木綿衣類を作ることは,いまではほとんどみ られないが,綿を買 ってきて紡 ぎ,織ることは 今 日で もみられる。家屋建築の材料は購入が多 くなっているが,ときに農地に残る木を倒 し, 板に挽 く。村外か ら専門の大工を雇 うことはほ とんどない。 1981年に収穫された トウガラシの約半分は, 米 と物々交換されている 【FukniandAnukul, Chap.ⅠⅤ(5)inRpt.83].この場合,現金収入 とはな っていないが,実質的には現金獲得部門 に属する経済活動である。なぜな ら,1980年に 先立つ数年間,米の不作が続いたため米 と交換 したまでであ って,そうでなければ換金 したと 思われるか らである。 とれた米をま った く売 らないというの も,厳 密には正 しくない。緊急に現金が必要な場合, 米倉に十分な蓄えがある場合には売ることもあ る。東北タイの北半分はモチ米圏であり, ドン デー ン村で栽培される米のほとんどはモチ品種 である。モチ品種はウルチ品種より安いので, もし販売を当初か らの目的とするな らばウルチ 品種を栽培することが考え られる。東北部内で も米の商品化が進んだ村ではウルチ品種の作付 け割合が大 きい。 しか しながら, ドンデー ン村 では豊作年の翌年あるいは余裕のある農家で, ウルチ米の作付け割合が大 きくなる傾向は確認 できなか った。 土 地 に余 裕 が あ り,かつ商 品化 のた め の商 品市 場 と労 働市 場環 境 が整 って いな い場 合 に は,た とえ余 剰生 産 が可 能 で あ って も,実 際 には余 剰 は生 産 され な い。ドンデ ー ン村 で は, この よ うな状 態 が1930年 代 まで は存 在 して い た と思 わ れ る。1940年 代 にな る と水 田 にな り うる未墾 地 は はば な くな り, 同時 に開拓 民 と して移 出す る者 が急 増 した。 ドンデ ー ン村 で は,米 の商 品化 の条 件 が整 う以 前 に土 地 の余 裕 が消滅 した もの と考 え られ る。前 述 した通 り, コ ラー ト高原 の 自然 条 件 は面 積 当た り労

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福井 :東北タイ ・ドンデーン村 :自然,農業,村経済の全休像試論 働投 入 の増加 に よ る土 地生 産性 の増加 を拒 む か ら,一 旦 開 田 の余 地 が な くな れ ば余 剰生 産 の可 能性 はな くな る。 東北タイにあって もかな りの余剰米を生産す る場合がある。主なものは,メコン河のもうひ とつの大 きな支流で,域内南部を東西に流れる ム ン川の流域である。 もうひとつは,近年のか んかいによる 2期作地帯である。 ムン川流域の米は早 くか ら輸出されていたと いう。その理由として,この地域がいわゆるモ チ米圏に属さず ウルチ米を常食 とするため,自 給米生産の余剰が直 ちに換金 されうるという利 点が考え られる。しか し,より根本的な理 由は, まだ土地に余裕のある時期 に余剰米生産のため のインフラス トラクチャーが整え られたためと 思 われる。 タイ国 における国営鉄道建設 は, 1900年完成 の バ ンコクーナコンラーチャシーマ 間264キロメー トルを もって始ま'る。1929年に は,それはウボンに達 した。それに対 し,ナコ ンラーチャシーマか ら北方への延長は遅れ,コ ンケ ンは1933年,メコン川沿いのノングカイは や っと1955年にな って結ばれた【Donner1982: 172-173]。 ドンデー ン村のある年配の男性は, 若いころの季節的出稼 ぎのひとつ として, コン ケ ンか らウボンまで米を運搬する舟運に従事 し ていた。ムン川流域に比べチ-川流域は,商品 米の生産にとって不利な条件下にあ った。 鉄道は生産物の流通に益 した ば か りで は な く,季節的労働力の移動を も可能に した。同じく 不安定で,肥沃度が低 く,労働の季節的 ピーク が大 きい稲作であって も,土地に余裕があり, 在村人 口以外に他所か ら季節的に労働力が調達 されれば,余剰米生産は可能であったと思われ る。これに対 しチ-川流域では,鉄道が達 した ときには自給農民によ って土地は占拠されて し ま っており,面積拡大 と在村者以外の労働力を 当てに した米の商業的生産は不可能であ った。 かんがいによる 2期作化は, コンケ ン県のナ ンボンダとカラシソ県のラムパオのふたつの地 域が代表的である。いずれの地域のかんがいも 近年のことである。今 日の東北タイの大部分で は,商品米の流通にとってインフラス トラクチ ヤーが問題 となることはない。このような条件 下でかんかいによって実質的な耕作面積が一度 に倍加 し,かつ,労働の季節性が緩和されたの であるか ら,

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期作化は急速 に普及 した。コラ ー ト高原におけるかんがいの将来性 につ い て は,前述 した。 稲 作 以 外 の収 入 源 が十 分 に確保 され れ ば, 米 は上述 の理 由で換金 作 物 とはな らな い に し て も,消 費米 流 通 に支 障 の な い今 日, 自給 稲 作 は消 滅 して もよ さそ うで あ る。現 在 , ドン デ ー ン村 にお け る米生 産 によ る所 得 は,世 帯 所 得 源 の1割 に も満 たな い [Tsujii,Chap.2 (2)inRpt.85]。これ に比 べ れ ば,稲 作 に投 入 され る労 働 の量 や村 人 一 般 の水 田 に対 す る価 値 範 は,不 釣 合 いに大 きい。これ は農業 ,非 農 業 を 問 わず ,現 金 獲 得部 門 か らの所 得 の安定 性 に対 す る不 信 感 に よ る もの と考 え られ る。 農 業 によ る現 金 獲 得 は ,第 2次 大 戦 前 後 の 棉 の栽 培 に始 ま った。次 いで栽 培 され た もの は ケ ナ フで あ る。 そ して , も っ とも最 近 の畑 作 物 は キ ャサバ で あ る。 棺 は ,戦 時 の特殊 経 済環 境 下 に急 に需要 が 出現 した もの で あ る。 ケ ナ フ, キ ャサバ は, ともに海外 市 場 に依存 す る輸 出作 物 で あ り,価 格 の変 動 に もて あそ ばれ が ちで あ る。一 方 , トウガ ラ シを は じめ とす る野 菜 は国 内市 場 向 けで あ り, コ ンケ ン 市 の発 展 と と もに着 実 に 需要 が 増 加 して い る。 しか し, それ らが換金 作 物 と して盛 ん に 栽 培 され るよ うにな った の は,せ いぜ い こ こ

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年 以 内 の こ とで あ る。 棉栽培は,第2次大戦中の原綿輸入の激減に よる一時的な異常高値によって触発されたもの である[Ingram 1971:121】。それまで ドンデ ー ン村では,水田にな りえない高みの土地は, 家畜の放牧地はどの意味 しかなか った。その土 地に対 して権利を主張する者はいなか った。柿 のブームにな って この疎林を焼 き払い,焼畑形 式によって柿が栽培された。同じ地片は 1年 し か使われなか った。放棄された土地について慣 習法による権利は生 じなか ったといわれる。当 377

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東 南 ア ジア研 究 23巻3号 時すでにコンケ ンまでは通 じていた鉄道の駅近 くには綿の買付け業者が進出 していたというか ら,数キロメー トルの距離を運べばよか ったこ とになる。稗は戦争による一時的なブームで, 長 く続 くはずはなか った。 次いで栽培されたものはケナフである。ケナ フの需要増は,当時の東パキスタ ンにおけるジ ュー トの輸出不振に負 うところが大 きい。続 く インド・パキスタ ン戦争などによってジュー ト の不作はしば らく続いた。ここにジュー ト代替 物 としてのケナフの市場が出現 した。 ドンデー ン村 におけるケナフは,柏の焼畑跡地に植え ら れた。ケナフは連続的に栽培され,ここに ドン デー ン村の畑地の所有権がはじめて確立される ようにな った 【Kaida,Chap.2(1)inRpt.85]. ケナフは,収穫後に水漬け して繊維を分離 しな ければな らないので,多量の水を必要 とする。 その時期は,稲の収穫期 と重なる。稲刈 りがお わ ってか らだと水が豊富ではない。このような わけでケナフ栽培には大きな季節的労働の ピー クがある。そのはかに除草の手間も大 きいため, 1世帯当た りの栽培面積は小さくな らざるをえ ない。水野が ドンデー ン村を謂査 した1960年代 の中ごろは,ちょうどケナフ栽培の時代であ っ た。水野は,世帯当たり4ライを超えるケナフ 栽培は困難であ り,また,わずか数年の間に価 格が1/3-1/4にも低下 したことを報告 している 【水野 1981:51】。 この ころ の ケナフの価格 低下は, 統計によ って も示 されている。1958 -1960年に1ライ当た りの価値 (平均収量にバ ン コクの卸売価格を乗 じた もの)が1,531バーツで あ ったものが,1965-1967年には569バーツにま で下が った[Ingram 1971:TableXXVIII]。 全国のケナフ栽培面積 (そのほとん どが東北 部にある)は,1950年代初期に数万 ライに過 ぎ なか った ものが,1960年代初期 には百万 ライを 超え,1970年代にはいると250万 ライを超えた。 しか し,1976/77年には百万 ライ程度に減少 し, その後再び増加に転 じている。そ して,同時に 仝生産量に対する輸出量の割合が小さ くな った lThailand 19791。これは, もっぱ ら繊維材料 として輸出用であ ったケナフが,パルプ材料と 378 して国内で使用 されるようになったためと思わ れる。パルプ材料 としてのケナフは,織姫の分 離を必要 とせず, したがって,生産者に帰する 付加価値が小さい。このため畑地面積の限 られ た ドンデー ン村では,今 日ではほとんど栽培さ れていない。 もっとも最近の畑作物はキャサバである。こ れは家畜飼料 として EC,ヨーロッパ共同市場 向けに輸出される。ECは,域内農業の保護の ため種 々の輸入規制を決めているが,根菜類の 輸入については親制が援か った。この除をつい て タイ国の キャサバ が 急速 に伸びたものであ る。1978年には600万 トンを超える量が輸出され た【ibid.]OこのためEC内の飼料生産にかな り の影響を及ぼす こととな り,ECはタイ国に対 して 自主規制を強要 して きている。事実,1978 年以降は輸出量は減少 して きている。キャサバ の将来に関 して も確信はもてないのである。 1960年代半ばには, 「野菜のうちで もキュウ リと長爽豆はよ く売れるので,好んで栽培され」 ていたが, 「野菜の栽培は,販売を目的とする よ りは,自給 自足のためであ り,消費量以上に 余剰があれば売る程度であるにすぎな」か った [水野 1981:51-52J.今 日 ドンデー ン村の菜園 の主産物である トウガラシは,その後,チ-川 左岸,コソケ ン市東方のある村か ら伝え られた といわれる。それは従来のものより小 さくて辛 みのきつい品種であ った。村の女たちが自らコ ンケ ンやクープラの市場で小売 りすることを知 ったのも,同 じ村の影響であるといわれている。 これは村までの枝道路がよ くな り,定期的な交 通の便が確保されたことによ って 可能 にな っ た。 ドンデー ン村は,チ-川の旧流路であるサ ン川を もつ。年 によっては,乾季のおわ りには 水位が非常に低 くなり,ほとんど枯渇するとは いえ,通常は, 1年を通 じて水がある。野菜栽 培がこれだけの規模で可能な村 は限 られる。 農 閑期 あ るい は凶作 年 の出稼 ぎ に よ る現金 収 入 は古 くか らあ った 。しか し,地 方 都 市 が未 発 達 で交 通 事 情 が悪 か った ころ の 出稼 ぎ は, 数 カ月 以 上 にわ た って遠 方 - 出掛 け る もので あ った。 コ ンケ ン市 の膨 張 が始 ま り,道 路 事

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福井 :東北タイ ・ドンデーン村 :自然,農業,村経済の全休像試論 情 が よ くな るにつ れて , 出稼 ぎの季 節性 は減 じ,近 距 離 の 出稼 ぎ とな り,不定 期性 が減少 した。 中 には村 か ら通 勤 して安定 した給 与所 得 を う る者 もい る。 しか し,そ の数 には限度 が あ り,多 くの者 に とって在 村 の ま まえ られ る非農 収 入 は,村 内 自営業 を除 いて は安定 性 を欠 く。 安定 した収 入 を うるた め には離村 せ ざ るを え な い場 合 が多 い。 中央平野の稲作労働者 として東北部か ら多数 が季節的に移動 したことはよ く知 られ て い る が,これを自ら経験 した村の生存者はいない。 もうひとつ前の世代であったという。父親が長 い旅から米袋を担いで帰 ってきたのを覚えてい る老人が多い。彼 らはナコンラーチャシーマま では徒歩であ ったという。生存 している老人の 中には,南タイの鉱山で働いたり,博労となっ て各地を旅 した者がいる。 1964-1965年には

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「農閑期には村の女達50 -60名が クープラの ケナフ選別工場に働きに出 る。(中略)農業賃金労働者は2- 3例あるのみ である。(中略)俸給生活者 としての先生2名を 除 くと,この村で給料を受けているのは村長, 区医, 小学校の小使いの3名 で あ る」 と, 水 野は書いている 【同上書 :58]。 1981年 には, 176人の世帯主のうち,13人がクープラの農業 セ ンターで,5人がコカコーラ工場で働いてい る。そのはかに11人が何 らかの給与を受けてい る 【KuchibagJα/.,Chap・V inRpt.83]。 以 上 のふ たつ の理 由 ,す なわ ち稲作 の限界 地性 と現金 収 入 の不 安定 性 とによ って , も っ ぱ ら自給米 生 産 を 目的 とす る稲作 が商 品化 も せ ず ,か とい って消滅 もせ ず存続 して い る と 考 え る。 も しこの理解 が正 しい とす れ ば, ド ンデ ー ン村 経済 のふ たつ の重要 な特徴 ,す な わ ち,低 い人 口増加 率 と急速 な所 得 の向上 を よ く説 明 す る と思 わ れ る。 村 の人 口は,水 野調 査 時 と今 回調 査 との間 の17年 間 に年率

0

.

65パ ーセ ン トで しか増加 し な か った。 過去10年以 内 にかな り顕著 な出産 率 の低 下 が あ った とは いえ , それだ けで は こ の よ うな低 い増加 率 を説 明す る こ とはで きな い。 か な りの数 の移 出 が あ った た めで あ る。 開拓 移 出 によ る村 人 口の抑 制 が伝 統 的 で あ る こ とは前 述 した。今 日の移 出 は,必 ず しも開 拓 移 出 ばか りで はな いが,移 出 によ って生 業 を求 め る点 で は同 じで あ る。 移 出 に よ って村 人 口を一定 水準 に維 持 して い るの は,基 本 的 には米生 産 量 が村 の人 口扶 養 力 を規 制 して い るた め と思 わ れ る。米生 産 が村 内開墾 地 の消 滅 と集 約 化 によ る増 産可 能性 の欠 如 とによ っ て頭打 ちで あ る こ とは,前 述 の通 りで あ る。 また ,他 の収 入 源 によ る所 得 で恒 常 的 に米 を 購 入 す る こ とは,収 入 の不 安定性 の た め極 め て危 険 が大 き く, それ ぐ らいな ら村 外 に安定 した収 入 源 を求 めた方 が よ い。豊作 年 の収 穫 を備 蓄 して 凶作 年 を乗 り切 る とい う生 活 の厳 しさは,現 金収 入 の増加 によ って よ ほ ど緩 和 され た。 した が って , そ の分 だ け村 の収 容 人 口は増加 して い る と思 わ れ るが,在 村 非農 安 定収 入 の機 会 は多 くは な いので ,現 金 部 門拡 大 の人 口扶 養 力 に対 す る効 果 は いまだ顕著 で はな い と思 わ れ る。 1982年後半に在村 していた235人の結婚経験 女性は865人の子供を生んでいる。この865人を 母集団として推定された平均寿命は,過去30年 間に少な くとも10歳延 び た。 一万, 235人 の 女性の出産率は,ようや く5-6年前から低下を 始めた。 したがって,移出がなければ急激な人 口増加があったはずである。移出については, 前述 した。人口動態については,本特集号の論 文 [福井 1985】を参照されたい。 ドンデー ン村で現在水田となっている土地に 対する所有権は,遅 くとも1920年代には確立さ れてい た。 しか し,そのすべてが開田されてい たのではない。水田面積が今 日のそれにほぼ等 しくな ったのは1940年代のおわりごろと思われ る 【Kaida,Chap.2(1)inRpt.85].1940年代 に ドンデー ン村か らの開拓移住が増加 したこと は前述 した。 Leffertsl1974]は,コンケ ン市東方の ドング 379

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東南 ア ジア研究 23巻3号 ボ ンダ村で移入の卓越する開拓期が,資源の枯 渇に伴 って移出の卓越する時期に移行すること を報告 している。後者の時期には労働人 口ひと り当たり農地の大 きさは,約5ライではぼ一定 であるという。また,1970年代には洪水防御に よる稲作の安定化,野菜栽培,賃労働による収 入の増加により,在村人 口増加率は前期の水準 に戻 ったという。 ドンデー ン村の老人たちの話によると,昔の 生活が辛いものであ った最大の理由は,米がな くなったときそれを買 う現金がなか ったことで あるという。現金収入の増加は,単に生活を楽 に しただけでな く,村の人口扶養力自体をもい く分かは増大させていると思われる。例えば, 野菜栽培に特化する農家がみられるし,農外就 業でも政府機関に常勤者 として雇用される場合 などがあり,これ らは稲作に依存する度合いが 小さい。 しか し,ドングボンダ村 と異なるのは, 洪水防御による稲作の安定化などといった稲作 の改良がま った くみられないことである。いず れにせよ,稲作以外の生業の拡大が人 口扶養力 に及ぼす影響についての定量的分析は,まだで きていない。 現 物獲 得部 門 で あ る稲作 によ って村 の扶 養 可能人 口が規 制 され て い る一方 ,現金 獲 得 部 門 の方 は,扶 養 人 口を著 し く増 やす こ とな く 拡大 を続 けて い る。 この拡 大 は,上述 した よ うに コ ンケ ン市 の膨 張 と,村 と市 を結 ぶ道路 交通 の改善 に負 う ところが極 めて大 きい。 す なわ ち,農 外 雇 用 の機 会 の増 大 は もちろん の こ と,野菜生 産 の急速 な展 開 も膨 張 す る都 市 との近 接性 に負 って い る。 この よ うな現金収 入 の増加 は,村 の所 得 水準 を顕著 に引 きあげ て い る。 この所 得 向上 は,単 に村 全 体 と して の経 済規模 が大 き くな ったた め ばか りで はな く, それ と同時 に人 口が停滞 して いた た め と 思 わ れ る。つ ま り,人 口増 によ る所得 増 の相 殺 がみ られなか った こ とにな る。在 村人 口の 顕著 な増加 と村経 済 の拡 大 とが並行 的 に進行 して い るよ うな村 とは, よ ほ ど異 な った様 相 を呈 して い る と考 え られ る。 380 1964年 と1980年の間の16年間に,村全体の粗 収入は実質3.62倍になり,それは8.37パーセ ン トの年成長率に当たる。これをひとり当たりに 直すと7.65パーセントの成長率 となる 【Tsujii, Chap.2(2)inRpt.85】Oいま,人 口の移動がま った くな く,在村人 口が1974-1976年人口変動 調査による東北部の自然人口増加率である3.38 パーセ ント【小林 1984:表3-7】で増加 した と仮定すると,1981年の村人 口は約1,379人 と なるはずで, 同年の実際の数より478人多い。 これだけの余分の人口を抱えて,なお上述のひ とり当たり所得の向上が可能であったかどうか は,極めて疑問である。 移 出 によ る人 口抑 制 は,人 口圧 力 の高 ま り に伴 う農 地 の細 分化 ,小作 の増加 ,農 業 雇 用 労働者 層 の 出現 とい った階層 分 化 の過程 が, ドンデ ー ン村 で は顕著 で はな い こ とを結 果 し て い る。 この村 で も貧 富 の差 の増 大 がみ られ る こ とは,否定 で きな い。 しか し,それ は水 田所有 を め ぐって展 開 されて い るので は必 ず しもな く, それ以 外 の現 金獲 得経 済 部 門 にお け る世帯 間 の差 に主 と して起 因 して い る。 水田所有世帯当たりの所有面溝は,1964年の 平均19.6ライか ら1980年の15.7ライへと減少 し た【KuchibaetaZ.,Chap.VinRpt.83]。 しか

し,同 じ期間に人 口が11パーセ ントしか増加 し なか ったのに,水田所有世帯数は36パーセ ント も増加 している 【Kuchibaetal.,Chap.

V

in Rpt・83]。 したがって,上にあげた水田規模縮 小を表わす数値は,通常の意味における農地の 細分化を必ず しも意味 しない。人口ひとり当た り所有面積は,1964年2.50ライ,1980年2.44ラ イで,ほとんど変化がない。 1980年には全水田の42.2パーセ ントが83人の 所有者以外の者によって耕作されていた。その 面積の約80パーセ ントは所有者の親族によって 耕作され,83人中の43人は使用料をま った く払 ってお らず,残 りは刈分小作の関係にある。定 額小作人は,水田に関 してはひとりもいない。 また,世帯主で農業雇用労働を主たる収入源と する者はいない【KuchibaetaZ.,Chap

Yin Rpt.83]

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福井 :東北タイ ・ドンデーン村 :自然,農業,村蓮済の全体像試論 所有農地の広さと年間粗収入 との関係は,水

野が1964年について,今回調査では1980年につ いて検討 した が, いず れ も明らかな関係を見 出 していない【Kuchibaezall,Chap.Ⅴ,Table V-64inRpt.83;水野 1981:60,表 6]。 し か し,いずれの年 も米の不作年であるため,水 田の重要性が過小評価されていると思われる。 水野は同年の米の購入量を調査 し, 「上層の農 家はど保有米の持続期間が長 く,不作に耐える ことができる。そ してそれは水田の所有面積の 大 きい40ライ以上の農家である」 と述 べ て い る 【同上書 :66-67]。また,1980年において も, もっとも多額の現金が支出されたのは食料品の ためであると,73パーセントの世帯主が答えて いる【Kuchibaezal.,Chap.

,TableV-69

-71in Rpt.83】。 ドンデーン村のように極度に 不安定な稲作が行われているところでは,単年 の調査では水田の重要性は評価で きない。この 点を考慮 して数年間の平均米生産量に基づいて 村の全収入に対する米生産か らの収入の割合を 試算 してみたが,1960年代では1割強,今回調 査時ではそれ以下に過 ぎない 【Tsujii,Chap.2 (2)inRpt.85]

村 落 社 会 ドンデ ー ン村 の個 人 ,家族 ,親族 ,そ れ を 超 え る集 団 の あ り方 や機 能 は,先 にみ た現 物 獲 得 部 門 と現金 獲 得 部 門 とい う2部 門 を枠組 み と して考 え るの が有効 で あ る。 と くに, 同 じ農 業 で あ る稲 作 と商 品作 物 栽培 との比 較 に お いて ,そ の差 は明瞭 で あ る。 親族 を 中心 とす る複 数 世帯 の共 同耕 作 は稲 作 に限定 され る こ とはな いが,収 穫 物 の分配 はま った く異 な る。す なわ ち,畑 作 で は労 働 , 資 本 ,土 地 の提 供 の度合 いに応 じて ,取 り分 が厳 密 に算定 され ,す べ て が現金 で決済 され るの に対 して ,稲作 で は現 物 を分配 す るの は もちろん の こ と と して も, おの おのの分 け前 は養 うべ き家族 の数 によ る。 もっ とも関係 が 緊密 な場 合 は,米倉 を共 有 し,必要 に応 じて と り出 して よ い。 この よ うな関係 は, 「共 働 ・共 食 (- ッ トナ ムカ ン ・キ ンナ ム カ ン

)

」と 呼 ばれて い る。 関係 が疎 にな る と分配 比 が決 め られ た共 同経 営 の形 とな るが, その比 は生 産 - の寄与 よ りも必要 量 を考慮 した窓 意 的 な もので あ る。農地 の貸 借 にお いて も,水 田 と 畑 地 とで は顕著 な差異 が あ る。 水 田で は,近 親 者 問 の貸 借 は無 料 の場 合 が多 い。小 作 の場 合 で も刈 分小 作 で あ って , しか も小 作 料率 は 関係 の疎 密 を反 映 して い る。 これ に対 し,畑 地 で は,親族 間 の無 料貸 借 や刈 分小 作 もみ ら れ る もの の,現 金 定 額小作 が存 在 す るの が特 徴 的 で あ る。 水野は, 126戸の農家を自作, 小作などに分 類する際,26戸を 「その他」 としている。そ し て

,

「これ らの世帯は原則として土地 を所有せ ず,ふつ う妻の両親が所持する田 ・畑で働 き生 計をたてている。そういった意味において経済 的に親の家族に依存する半独立的家族であり, 親族共同体の一部として農業に従事 している世 帯である」 と述べている 【水野 1981:84]。ま た,小作関係については次の よ うに述 べ て い る。「水田の場合 と畑地の場合 とでは差 が認め られる。畑地にかん しては(中略)1ライあたり 30バーツとすることが多 く,刈分制はみられな い。ただ し親類関係にある場合は若干安 く,ま た無代の例 もみられる。(中略)水田の場合は畑 地 と異なり,刈分利が多い」【同上書 :83-84]。 今回調査で,自らの所有水田以外の水田を耕 作する者が83人お り,その中の43人が無代であ ることはすでに述べた。畑地については,27人 の借地耕作者の17人が無代,ふたりが刈分,8 人が定額小作料を払 っている[KuchibaetaZ.,

Chap.

,TqbleV-41inRpt.83]

.

集落近 くの水田区画であるノングシムバー ン を耕作する47世帯 の詳 しい調査 [Funahashi, Chap.9(1)inRpt.85】によると,複数の世帯 が共同で水田を経営する場合,世帯間の関係, 生産物の分配にはいろいろな姫合わせがある。 いずれも相互扶助を目的とするが,親子などの 近親者間で,生産物をまった く共有する場合が 381

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東南 ア ジア研究 23巻3号 其の共働 ・共食である。水野が 「その他」とし た26戸が,そのような共同経営における土地を もたない方のパー トナーに当たると思われる。 関係が疎となるにつれて生産物の分配が一定の 率に決められるようになるが,このようになっ て も,労働力やその他の生産資材が双方によっ て負担されている限りは共同経営である。 しか し,負担が一方に偏 って くると,XU分小作と変 わらなくなる。ノンg・シムバーンで水田を耕作 する世帯のうちの何戸かは,畑地においても共 同耕作をしている。ところが,畑地では水田に みられた種々の組合わせはまったくなく,

ットナムカン・ベングンガンカン」と呼ばれる 形がただ1種類みられるだけである。この形の 共同経営では,生産への実際の寄与率に応 じた 一定率で現金を配分する。 畑地 の場合 ,土地 の売 買 が多 く,その相手 は近親者 に限 らな い。村外者 との売 買 も少 な くな い。所有 は個 々の世帯 単位 で あ り,その 処分 に関 して近親者 が介入 す る度合 いが小 さ い。現金小作 や雇用労働 によ って,所有者 自 ら の家族労働 とは関係 な く経 営 が可能 な ので, 生 産財 と しての土地市場 が畑地 につ いて は成 立 して い る。 これ に対 し水 田の所有 は,わ が 国 におけ るはど固定 的で はな いが,や は り相 続 を除 いて は所有者 が変 わ ることは少 な い。 売買 があ って も,その処分 には近親者 の介入 が顕著 で あ り,売 買 は親族 内部 で行 われ る場 合 が多 い。 もっとも一般 的 な近親者 間 の売 買 は,相続者 の取 り分 があま りに も小 さ くて, それだ けで は生 活 がで きな い場合 で あ る。 そ のよ うな ときには,他 の きょうだ い,あ るいは その他 の近親者 に売却 して, 自 らは村外 に移 出す る。 その ときの価格 は,はな はだ窓 意的 で あ る。土地市場 が成立 して いるとはみ な し 難 い。す なわ ち,水 田 に関 しては,名 目的所 有権 の所在 は ともか く,実質 的 には親族集 団 全体 の意思 を反映 した土地売買 がみ られ る。 以 上 に述べ た稲作 におけ る相互扶 助 の諸慣 行 と水 田売 買 にみ られ る傾 向 は,以下 のよ う な機能 を果 た して いる。 ひ とつ は,親族集 団 382 全体 と しての稲作労働力 と米必要量 との釣合 いを保 つ機能 で あ り, これ は構成員 の出生 , 死 亡 と並 ん で移 出によ って保 たれ る。 もうひ とつ は,集団 を構成す る各世帯 ご との稲作労 働 と米 消費 の釣合 いを保 つ機能 で, これ は共 働 ・共食 ,無料貸借 ,悪 意的な小作料率 によ る刈分小作 ,それ に親族 内での水 田の売 買を 通 じて保 たれて いる。 水田の無料貸借,共同経営,刈分小作に関与 している世帯の収穫物の取 り分を分析 した結果 は,次のように結論される。 「伝統的土地所有 下の農地配分は,当該世帯における自給米の安 定的確保を目的として行なわれ,現状ではいず れの世帯も,最低必要量以上の自給米が確保さ れているものと推定できる」【宮崎 1984]。 以上 にみ られ るよ うに,稲作 にあ って は一 見 して親族 間 の相互扶助 の規制 が強 く働 いて いる。 これ に対 し,畑作 その他 の現金獲得経 済 において は個人 の利潤追求 が明瞭 で あ る。 この ことは,後者 において相互扶助 が行 われ な い ことを必ず しも意味す るもので はな い。 しか しなが ら,稲作 においてかか る形 の相互 扶 助 が 慣行 とな って いる理 由は,問 われて も よか ろ う。 ドンデ ー ン村 で依然 と して 自給米生 産 が続 け られて いる理 由が前節 に説 明 した もので あ る とすれ ば, もっぱ ら自家消費米 を生 産す る 耕作者 に とってのみ水 田は価値 を もつ。利潤 追求 の原 理 にのみ基 づ く地主一小作 間契約 あ るいは在村農業雇用労働 によ る経営 は,限界 地性 ゆえ に原則 と して成 立 しえな い。 したが って,水 田の共 同耕作 によ る共 働 ・共食 の慣 習 ,無料貸借 , あ るいは窓意的な価格 によ る 売 買な どは,必ず しも土地提供者 の利潤 の犠 牲 の もとに成立 して い るわ けで はな い。 これ らの形 によ る土地 の提供 は,提供 され た者 が 村 の扶養可能人 口の中 に含 まれ うることを意 味す る。誰 を村 に残 して お きた いか が,土地 提供 の選択基準 とな る。 その結果 ,両 親 の老 後 の世話 をす る子供 , と くに末娘 が土地 の提

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福井 :東北タイ・ドンデーン村 :自然,農業,村経済の全休像試論 供 を受 け る場合 が多 くな る。 このよ うに, ド ンデー ン村稲作 における相互扶助的慣行 の存 続 は,恒 常的な余剰 を生 み出 しえな いはど低 い生 産性 に,その根本 的理 由を求 め ることが で きる。 同 じ稲作農村 で あ って も生 産力 が高 く,商 品作物化 が進ん だ ところで は,違 った 様相 を呈 す ると思われ る。 お わ り に は じめ に述 べ たよ うに, この小稿 はあ くま で試論 で ある。 した が って, ドンデ ー ン村 で 観察 された事象 が東北 タイ全体 に対 して いか ほど適用可能 で あ るかを論 ず るの は,時期 尚 早 であ る。 したが って,それ 自体 は論 じな い が,東北 タイにおけ る ドンデ ー ン村 の位 置づ けにつ いて, い くつ かの重要 な点 を指摘 して お きた い。 農林漁業人 口ひ とり当た りな らび に全人 口 ひ とり当た りの籾生 産量 を,四つ の地域 と首 都 圏 につ いて比較す ると,表 のよ うにな る。 南部 の全 人 口ひ とり当た りの生 産量 が低 いの は,農林 漁業人 口の割合 が と くに小 さいため で はな い。 この地域 では,農林漁業人 口に占 め る稲作人 口の割合 が低 いため と思 われ る。 も しそ うだ とすれ ば,必ず しも南部 の米生 産 性 が低 いことを物語 るもので はな い。南部 , 首都圏 を除 く3地域 で も,稲作人 口の割合 と 農林漁業人 口の割合 は,厳密 には同 じで はな い。 しか し,南部 はど極端 には差 がな いと考 え られ るので,一応 の比較 は許 され ると考 え る。東北部 の農林漁業従事者 ひ とり当た りの 籾生 産量 は, 1 トン以下 で,中央部 の半分 に も満 たな い。東北部 におけ る全人 口ひ とり当 た り籾生 産量で あ る377キ ログ ラムは,種籾量 を差 し引 いて も,数字 と してはひ とり 1年 の 消費量 を上回 る。 しか し,北 ,中央部 のそれ に比べ て低 いのは事実 で ある。 同 じ5年 間 の 年平均米輸 出量 (精米 を 主体 とす る) は148 万 トンで,そのほ とん どは,北 ,中央部 か ら で ある【Thailand 1979: Table701。 いま, 輸 出量 を籾換算 で年200万 トンと仮定 し,東北 部 を除 く他地域 が この輸 出量 のすべてを生 産 し,な お,首都圏 を含 む地域全体 の人 口を養 った と して も,全人 口ひ とり当た りの籾 の量 は380キ ログ ラムで ある。この数字 は,東北部 の値 とち ょうど同 じ水準 で ある。東北部 に余 剰 を生 み 出さな い稲作 が卓越 す ることを示唆 す るもの と解釈 で きよ う。 ちなみ に ドンデー ン村 の1978年 か ら1983年 までの6年 間の平均 籾米生 産量 [Kohnoand Kaida,Chap.8(3)

in Rpt. 851を1981年 の人 口900人 で割 る と 表 米生産/人口比の地域間比較 地 域 (芳志鰐 ) (ii.試 *, 闇 .#^1完 ;* 墓金7kSf=り

北 部16県 4,202 7,489 東北部15県 4,538 12,025 中央部24県 5,082 7,535 首 都 圏 115 3,077 南 部14県 1,092 4,272 2,813(37.6) 5,010(41.7) 2,277(30.2) 103 (3.3) 1,480(34.6) 1 7 4 7 6 6 7 7 3 5 5 3 6 2 1,494 906 2,232 1,117 738 全 国 15,029 34,397 11,683(34.0) 437 1,286

*

1974/75から1978/79の5年間の年平均籾生産量【Thailand 1979:Tables18,19]。 **1970年センサス [小林 1984:表3-61による。

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1970年センサスによる15歳以上の経済活動人口中の農業,林業,狩猟,漁業に従事する人口【Thailand 1975:Table30

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東南 ア ジア研究 23巻3号 164キ ログ ラム とな る。 チ-川流域 の開拓 は下流か ら上流- と広 が った と思われ る。 ドンデ ー ン村 の場合 , ロー イエ ッ ト,マハ -サ ラカムの祖先村 を特定 で きる。 それ らの祖先村 を訪 問 したが,そのさ らに祖先 が ど こか らきた か は漠然 と して い る。一方 , ドンデ ー ン村 か らの移 出は,既述 の通 り1940年代 か らで ある。彼 らはチ-川 の さ らに上流-向か った。 ドンデ ー ン村 か らの 移 出民 の居住す る開拓村 では移入 が続行 して お り,移 出はまだ な い。 コ ンケ ンの東方 の ド ングボ ン ダ村 で も,村 の創始者 グル ープの出 身地 (マハ -サ ラカム) が明確で あ り, ドン デ ー ン村 とほぼ同 じ時期 に移入 か ら移 出 に転 じた [Lefferts 1974]. チ -川 流域 で は ち ょ うど コンケ ン周辺 の村 で,移入 が いまだ村人 の記憶 に明確 にあ る一方 ,移 出が今 日的意味 を失 って いな い。 県庁所在地 で あ るコンケ ン市 か ら村 までの 距 離 はおよそ15キ ロメー トルで,往復 の交通 費 は10バ ーツで あ る。東北 タイ全体 の農村人 口の何パ ーセ ン トが ドンデー ン村 よ り一層都 市近郊 的な ところ に居住 して いるかは明 らか でな い。 しか し,少 な くともチ-川 流域 で は 人 口密度 が高 く,県 庁所在地 が互 いに近接 し て いるので, ドンデ ー ン村 があま りに も例外 的だ とはいえな い。む しろ特異 なのは, コ ン ケ ン市 が東北 タイの県庁所在地 と しては例外 的 に発展 のめざま しい都市 で あ ることで あろ

う。

現在 の県 (チ ャン グワ ッ ト)制度以前 には, モ ン トンを単位 と して行政 が行 われた。東北 部 のモ ン トンは, ラーオ系住民 の故地 であ る ラオス に近 いメ コン河近 くの ウボ ン (ウボ ン ラーチ ャタニ) とウ ドン(ウ ドンタニ),チ-川流域 の 中心 で ある ローイエ ッ ト, そ れ に バ ンコク政権 の出先 で あ った コラー ト (ナ コ ンラーチ ャシーマ) の 四 つ で あ った [Ishii, Chap.1(1)inRpt.85]。 ローイエ ッ トを除 く 384 三 つ の都市近 くにはそれぞれ米軍基地 が置か れ, さ らに発展 を促進 した。1950年代 にな っ て,ま った く政策 的 に コンケ ン市 を東北部 の 中心 とす るべ く発展 が計 られた。東北 タイ最 初 の大学 な ど,政府機 関が意図 的 に配 置 され た。 しか し,軍事基地 はな い。1973年 の人 口 は64,400人,1982年 には108,400人 で,年率 7・56パ ーセ ン トの増加 で あ る [Tsu5ii,Chap. 2(2) inRpt.85]。 東北 タイの農村 の中では, ドンデ ー ン村 が 都市 の影響 を強 く受 けて い る の は事実 で あ る。しか し,都市労働者 の住宅地 とな り,農地 , 農業 が減退す るとい う意味 での 「郊外」 で は な い。結局 , ドンデー ン村 は,全部 で はな い が東北部 の多 くの農村 が これか ら経験 す るで あろ う経過 を,一足 早 く経験 した といえ よ う。 付 記 ドンデー ン村 の調査 は,多人 数 の共 同 によ って行 われた。小稿 を善 くに当た って,それ ぞれが集 めた資料 を利用 したの は もちろんで あ る。 それだ けでな く, ここに述べ た構想 そ の もの も,多 くの メ ンバ ーに負 って いる。 し か し,全員 の合 意 の もとに書 かれたわ けで は 必ず しもな い。責 は著者 が負 うが,功 があれ ばそれ は全員 に帰 すべ きもの と考え る。 この草稿 に対 して コメ ン トを いただ いた京 都大 学東南 ア ジア研究 セ ンタ ーの坪 内長博 , 前 田成文両教授 と加 藤剛助教授 に感謝す る。 参 考 文 献

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参照

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