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荻原耕平 リルケの詩 魔術師 について 荻原耕平 Der Magier Er ruft es an. Es schrickt zusamm und steht. Was steht? Das Andre; alles was nicht er ist, wird Wesen. Und das gan

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リルケの詩『魔術師』について

荻原 耕平

Der Magier

Er ruft es an. Es schrickt zusamm und steht. Was steht? Das Andre; alles was nicht er ist, wird Wesen. Und das ganze Wesen dreht ein raschgemachtes Antlitz her, das mehr ist.

Oh Magier, halt aus, halt aus, halt aus!

Schaff Gleichgewicht. Steh ruhig auf der Waage, damit sie einerseits dich und das Haus

und drüben jenes Angewachsne trage.

Entscheidung fällt. Die Bindung stellt sich her. Er weiß, der Anruf überwog das Weigern. Doch sein Gesicht, wie mit gedeckten Zeigern, hat Mitternacht. Gebunden ist auch er.1

彼はそれに呼びかける。それはびっくりして、立ち止まる。/何が立ち止まったの だろう?それは他なるもの、彼ではない全てのものが/存在するものとなる。そし て存在の全体は/急いで出来た顔をふりむける、より以上になった顔を。

使用テキスト:Rainer Maria Rilke: Sämtliche Werke. 6Bände. Herausgegeben vom Rilke–Archiv in Verbindung mit Ruth Sieber-Rilke, besorgt durch Ernst Zinn. Frankfurt a. M. 1987. (以下 SW)

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おお、魔術師よ、耐えよ、耐えよ、耐えよ!/平衡をつくれ。静かに秤の上に立て。 /秤のこちらにはお前と家が、/向こう側にはあの増大したものが載るように。 決定が下される。結びつきが作られる。/彼は知っている、呼びかけが拒絶を上ま わったことを。/だが、彼の顔には、覆われた指針のように/真夜中がある。彼も 結び付けられたのだ。(『魔術師』1924 年 2 月 12 日) * 1923 年から 1924 年に亘る冬は、ライナー・マリア・リルケ(1875-1926)にとっ て非常に生産的な季節だった。E・ツィン編纂のインゼル版リルケ全集で調べてみ ると、この冬(3 月まで)にリルケが書いた作品は、ドイツ語の完成詩だけで 31 篇を数え、晩年多く書かれたフランス語の作品まで含めれば、後にまとめて発表し たフランス語詩集『果樹園』の大半はこの時期の仕事であったことが分かる。豊作 と不振を大きな波で繰り返す彼の詩作生活からすれば、ちょうど2 年前、10 年に亘 って書き継いできた『ドゥイノの悲歌』に決着をつけ、同時に『オルフォイスに寄 せるソネット』全55 篇を一挙に書き上げたあの 1922 年 2 月以降を考えたとき、つ まりリルケ最後期の詩作について言えば、作品が集中的に残されたという点で注目 に値するのがこの1924 年の初頭である。U・フュレボルンはこの冬の成果を、内 容的に見てひとつのグループと考えており、その中核をなす作品として冒頭に掲げ た1924 年 2 月 12 日の日付を持つ『魔術師』を挙げている2。フュレボルンによれ ば、ここで打ち立てられたリルケの詩法とは、先ずリルケが、詩人をして客体を現 実界にまざまざと呼び出す魔術師と見ている点、そしてそのように見る根拠として、 具体的な言葉の用い方の点で、文法的に見て1 格とも 4 格とも言えない形で名詞が 出現し、それを云わば単語が垂直に屹立するように見て、そのように論理的に説明 し難い姿で、詩人が対象を呼んでいる点と、この2 点に特徴付けている3。ここにフ ュレボルンは、この時期のリルケの新しい詩法の展開を読み取って、その内実に対 してしばしば「魔術的」の形容詞を冠して語っている4。その標語はもちろんのこと

2 Rainer Maria Rilke: Werke. Kommentierte Ausgabe in vier Bänden.

Herausgegeben von Manfred Engel, Ulrich Fülleborn, Horst Nalewski, August Stahl. Frankfurt a. M. 1996. Band 2, S.766.(以下 KA)

3 KA2, S.768.

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詩『魔術師』から取ったものだが、それはこの詩においてこそ、リルケの新しい詩 法が一種の綱領として打ち出されているからである。 加えて『魔術師』はその作詩過程が私たちの目にはっきりとさらされている点でも 興味深い。というのは、全集の編纂者E・ツィンにより、この詩は同日、すなわち 1924 年 2 月 12 日に書かれた別の詩の詩句から発展して書かれたことが判っている。 その上に先行詩と『魔術師』の間に書かれ、放棄された2 篇の草稿も残されており、 詩『魔術師』を考える上で、直接的な材料に恵まれている。 そこで本稿では詩『魔術師』を作詩過程に注目しつつ読みながら、このときリルケ が考えていた詩人の姿とは如何なるものであったのか考えてみたい。その際、この 問題を大きく取り扱ったフュレボルンの論考 „Das Strukturproblem der späten Lyrik Rilkes. “(『後期リルケ抒情詩の構造的問題』)は本論の大きな導き手となっ ている。そしてもう一つ、本論を貫く論述の方法について一言しておきたい。本論 はリルケの詩を解釈するにあたって、同時期に生まれた他のテキストからの並行箇 所を傍証として積極的に採用している。この伝統的な方法が有効である理由は、本 論のテーマがリルケの詩人観であることによる。詩人観とはいうまでもなく詩人に とって特別なテーマである。詩人のレーゾンデートルを決するところである。この ような思考が詩人において厳密を極めるのは当然であるから、詩人はこの主題を常 に点検するように、繰り返し詩のモチーフとして採り上げる。ことに本論で扱う魔 術師に関するリルケの思考は、既にフュレボルンが論述するように、ある時期、つ まり1923年から1924年の冬に集中するのである。そのためこの時期を中心にして、 コンテクストを踏まえた上で、詩句から並行箇所を拾ってゆくことは、詩人の思考 を正確に位置付けるために有効かつ不可欠であると思われるのである。 * インゼル版リルケ全集第2 巻の末尾に付されたE・ツィンによる注記から、詩『魔 術師』の成り立ちについて以下のことが判る5 ①: 詩『魔術師』は同日に書かれたゲルトルート・オゥカーマ・クノープ6への献 1960. S.172.(以下 Strukturproblem) 5 SW2, S.790. 6 ミュンヘンにおけるリルケの交友グループの一人。彼女の娘で、19 歳で死んだ

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呈詩7の詩節から生まれたものであること。 ②: より詳しく言うと、『魔術師』に残された2 つの草稿詩篇のうち、最初のも のは、献呈詩の手稿にそこに続くように書かれており、2 番目の草稿は、献 呈詩の浄書のあとに続くように書かれていたこと。 ③: それに引き続いて『魔術師』の決定稿が書かれたこと。 先ずこの点を確認した後で、早速テキストにあたることにする。最初に献呈詩『ゲ ルトルート・オゥカーマ・クノープに』。

Für Gertrud Ouckama Knoop

...Erfahren in den flutenden Verkehren, die durch die wehrlos dichten Wände ziehn, war er entschlossen, keine zu entbehren, der Stimmen..., und sie hielten sich an ihn.

Sie kamen sanft wie der verschwebte Samen, der oft vom Park her in die Fenster drang; er kannte nicht den reinen Blumennamen, der in ihm wuchs aus ihrem Untergang...8

…防ぐすべなく厚い壁を通り抜け/滔々と流れる交通に精通して/彼は決意した、 いかなる声の一つをも/逃すまいと…、すると声は彼に与するのだった。 しばしば庭園から窓の中へと入り込んで来た/軽やかに舞う種子のように声が優し くやって来た。/その純粋な花の名を彼は知らなかった、/声が沈むと彼の内部に 育った花の名を… Wera Ouckama Knoop の墓碑銘として『オルフォイスに寄せるソネット』は捧げ られた。

7 本論ではこれ以降この詩を「献呈詩」と呼ぶことにする。 8 SW2, S.259.

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続いて2 つの草稿詩篇(草稿①・草稿②)。

Der Magier ‹Entwürfe›

‹Ⅰ›

[Er war gehorsam bis hinein ins Weigern; verschloß er sich der eingedrungnen Macht]

Er wurde Sprache bis hinein ins Weigern; schloß er sich zu dem Eindrang einer Macht, so stand sein Antlitz mit verdeckten Zeigern und offenbarte Mitternacht.9

[彼は拒絶にいたるまで忠実だった。/(それで)彼は入り込んでいる力から身を 閉ざした] 彼は拒絶にいたるまで言葉になった。/(それで)彼は力の進入に対して身を閉ざ した/彼の面は覆われた指針とともに静止し、真夜中を開示した。 ‹Ⅱ› Der Magier

So bindet er die Kräfte die sich weigern sie binden ihn zurück in ihren Kreis Und sein Gesicht mit den gedeckten Zeigern ist einer Mitternacht Beweis.10

彼は拒絶する諸力を結び合わせる。/諸力は彼を自分らの環に結び返す。/そして 覆われた指針と彼の顔は/真夜中の証し立てである。

9 SW2, S.483. 10 SW2, S.483.

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この章では『魔術師』決定稿を含め、献呈詩、草稿①と②、以上4 つの詩を比較す ることで、詩人の発想の流れをつかんでおきたい。それは成立順に見ていけば良い のである。 先ず献呈詩と草稿①を繋ぐものとして最初に目にとまるのは献呈詩の第2 詩節第 2 詩行末尾にある「drang」の語である。これはもちろん動詞「dringen」の変化形で あるが、進入するdringen というイメージが草稿①に直接繋がっているのが見て取 れる。これに関わる箇所を抜き出すと、献呈詩で「庭園から窓の中へと入り込んで 来た軽やかに舞う種子のように声が優しくやって来た」と書かれ、外部から身の近 くへと何物かが入り込むさまが動詞dringen でもって規定されているのだが、ここ が草稿①では、[ ]で囲まれた詩句、これは草稿①のうちでも最初の段階の詩句で、 一番最初に破棄された部分であると思われるが、この中で「彼は入り込んでいる力 から身を閉ざした」と云い、やはり何らかの対象が外から入り込んでいるさまを動 詞eindringen で規定している。これは草稿①の新しい部分でも採用され、ここで も「力の進入」Eindrang einer Macht と、意味としては似た表現が用いられた。 つまり献呈詩と草稿①を繋ぐのは、ある力が進入してきたというモチーフである。 献呈詩では例えば種子のように窓を越えてやって来ると書かれたある客体に対して、 「彼」=詩的主体は最高の従順さと注意深さをもって対応しようと決意している。 「如何なる声も逃すまいと…」。献呈詩はこの決意を貫き通して結ばれる。そしてこ れに続く草稿①は、最初に破棄された部分で見ると、彼の従順さは、彼の「拒絶す る」という意志に至るまで客体の力のままになった、と書き出す。これは献呈詩で 打ち出された主体のあり方から見て一貫性が保たれていると言える。ところがこれ に続く詩行で、詩人はもはやそのようなあり方に違和を感じた如くに急転回を行っ ている。「彼は入り込んでいる力から身を閉ざした」。これはその転回の急激さから 言って着目に値するところである。いわばそれまでの行き方に、言葉を換えれば献 呈詩のイデーに、はっきりした否を突きつけたと見て良い。この転調は草稿①の書 き換えられた箇所でも繰り返されている。「彼は拒絶にいたるまで言葉になった。/ (それで)彼は力の進入に対して身を閉ざした」。すなわち彼の従順さは、彼の言葉 が客体の力に宰領されて、云わば客体が彼の口をかりて言葉を言うという状態にま で至ったが、いまや彼はそのような力の到来に対して身を閉ざすのである。この部 分までを整理すると次のようになる。献呈詩では対象に喜んで従う詩人の姿が詩人 の理想として打ち出された。しかし草稿①でそのような従順な詩人というイメージ に反抗がなされた。この転回の背景を探ってみることは興味深いテーマであるが、 これこそ実は冒頭で述べたようにフュレボルンが1923‐1924 年の冬全体のテーマ

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として見て取った問題そのものなのである。先回りしてまとめると、この冬全体の 作品がそれまでの作品に突きつけた詩人像の改変という問題が、いまこの論文で問 題にしている一日、すなわち1924 年 2 月 12 日のうちに凝縮した形で現われている ということなのである。そしてたった一日の間にあっても見られるこの揺れは、彼 の思考に迷いが生じていることの端的な表れということが出来る。あるいは詩人と は何かという問題をめぐって展開される彼の思考を伝える生のドキュメントなので ある。これをまとめて、外部からの力の到来に何故詩人は身を閉ざそうと決意した のか、これを第1 のポイントとして提出したい。 続いて草稿①と草稿②の関係を見たい。このとき最初に指摘したいのは『魔術師』 という表題は草稿②において初めて現われたということである。これは重要な点だ と思われるが、今のところは注意しておくだけに止めたい。続いて注目出来るのは 2 つの草稿は共通して、献呈詩とは無関係のモチーフを新規に採用していることで ある。この新しい主題とは、詩的主体である「彼」の顔が「覆われた指針」、つまり 長針と短針が重なった状態の時計というイメージを介して、真夜中(という概念) に結ばれるというものである。ただしこの主題は2 つの草稿において共に後半 2 詩 行に現れる。つまりこの主題が登場するにあたっては前段があるということだが、 これが草稿①と草稿②では随分違う。草稿①と草稿②を考えるにあたって、私はこ の前段の相違に最大の注意を払いたいと思う。しかし、この着目の仕方はリルケの 遺稿を整理したE・ツィンのものとは異なる。2 つの草稿には一見して、用いられ た語彙の点で共通する部分が多いことに気が付く。加えて『魔術師』決定稿まで視 野に入れると、その第3 詩節に見られる Weigern, Zeigern の押韻構造が草稿①で既 に登場しており、また「時計の指針」Zeiger に導かれる「真夜中 12 時」Mitternacht というモチーフもここで共有している。この表現が『魔術師』決定稿に至るまで一 貫して採用され続けたことを考えると、この主題は『魔術師』決定稿の着想を遡る うえで、一つの中心と考えて良いと思う。つまりここが草稿①において『魔術師』 決定稿を発想する上での源になったのである。従ってこの2 篇を『魔術師』の草稿 と見れば、遺稿の整理としては煩雑を避けることが出来よう。これがリルケの遺稿 を整理したE・ツィンの立場であると推測される。しかし私はこの論文で、草稿① は献呈詩の圏内に入れ、草稿②だけを『魔術師』決定稿の草稿と分類してみたい。 その理由はやはり2 つの草稿の前段部分から見出せるのである。一つは草稿②にお いて献呈詩以来の押し寄せ進入してくるdringen する力という主題がもはや消えて しまっていること。次に、前段部分の意味内容を各々とってみたとき、『魔術師』決 定稿に至るまで重要な役割を果たしている「拒絶」Weigern という語について、草

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稿①では「彼の忠実さは拒絶にまで至っていた」と、それが主体の行為として発想 されているのに対し、草稿②では、「彼は拒絶する諸力を結び付ける」と、拒絶する 主体が客体に移ってしまっている(A・シュタールの指摘による11)。これは着想の 明快な相違からして、草稿①と草稿②を一直線に結ぶことを許さない決定的なポイ ントであると思う。これが2 番目の理由である。そして草稿②は、外部からやって 来る力に従順な、言葉を換えて言えば受動的な態度を取っていた献呈詩との観点の 違いは明らかであり、最後の最後でそれにたいして身を閉ざすと言った草稿①は4 つのテキストの中で云わば魔術師という思想の萌芽として位置づけられると思う12 また詩の展開からして草稿②については、その全体が『魔術師』決定稿の中に溶か し込まれてあると読める。拒絶する主体が客体である点。そして主体がある行為に よってある結びつきを産む点、これは『魔術師』決定稿における魔術師の「呼びか ける」という行為によって、呼びかけられた他なるものが「存在するもの」となる という箇所に、主体の方から働きかけるという点で共有するものがある。そして諸 力を結び付けると言われる「彼」が、すぐさま、客体のほうに結び返されると規定 されている草稿②は、『魔術師』決定稿では最終詩行で「彼も結び付けられたのだ。」 と活かされている。そして草稿②の後半2 詩行、時計の指針と真夜中 12 時の主題 が『魔術師』決定稿にも表現を変えて保存されていることは既に述べた通りである。 これに対して献呈詩と草稿①は客体からの力の進入dringen というモチーフで一貫 している点で強力な結びつきが見られる。 ここで、草稿②において『魔術師』という表題が初めて出現したことを考えあわせ ると、この表題は草稿①と草稿②の間にある断層を端的に示していると考えること が出来ないだろうか。あるいは、この断層と深い関係があると推測出来ないだろう か。つまり草稿②において初めて詩想の新しい展開と共に、あるいは『魔術師』と いう表題とともに新しい詩の展開が生まれたということである。表題が付けられた ことで草稿②においてその目指す方向が確定された。そして表題による内容規定性 を裏付けるように、献呈詩と草稿①の共有するところであったdringen してくる力 というモチーフは草稿②に進むと完全に消えている。つまり詩人のうちで『魔術師』 という表題とともに、献呈詩及び草稿①とは別のモチーフが採用されたことを推測

11 August Stahl: Er war gehorsam bis hinein ins Weigern. Vom Sinn einer

verworfenen Variante zu Rilkes Gedicht Der Magier, in: Blätter der Rilke-Gesellschaft 13. 1986. S.123.

12 その意味で草稿①を『魔術師』決定稿の圏域に入れることも可能だが、より強い

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出来る。これは仮説として後の章で解き明かしてみたい。さて以上をまとめると、 拒絶する主体の入れ替わること、それから主体の積極的な能動性において草稿①と 草稿②の間に見られる断層は何を意味するのか、ということになる。これが第2 の ポイントである。 そして第3 のポイントとして挙げたいのは、フュレボルンの分類の仕方とも関わる のだが、リルケにおける詩人のメタファーとしての魔術師というモチーフの内実は 何かということである。そうして上述の2 つのポイントも、最終的には、リルケの 捉えた「詩人=魔術師」観に収斂される筈である。何故なら、献呈詩から『魔術師』 決定稿へ至る経過こそ、リルケが魔術師=詩人の本性について考えを廻らす道程そ のものに他ならないからである。 以上3 点をここで整理しておこう。 ①:外部からの力の到来について、献呈詩と草稿①に見られる、詩人の態度のねじ れについて。 ②:「拒絶」する主体の入れ替わりを廻って草稿①と草稿②の間に見られる断層は何 を意味するのか。 ③:以上2 点を踏まえて『魔術師』決定稿がどうして詩人を魔術師と捉えるのか、 そしてその場合の魔術師とは如何なる点において魔術師であり得るのか。 これで問題点が提出されたので、ひとつひとつ考察を進めて行きたい。 * 詩というものは自分以外のものからやって来る声に従って「書き取られた」diktiert ものであるという考えは、常にリルケの頭を離れることはなかった。それは数々の ドキュメントに依って諸家の既に指摘するところである。つまり詩人とはある力の ままにその声を伝える存在であったのである13 13 近代詩人として、このかなり古風に見える詩観は、しかし、リルケにおいては 理論的に厳密に形成されている。そのようなリルケの詩論を、「時間」と「形象」と いうキーワードを用いて読み解いたのがB・アレマンの論考『時間と形象』である。

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そのような詩観の極端な例として、1920 年の 11 月と 1921 年の 3 月に分けて書か れた『C・W伯爵の遺稿から』がある。この連作に関して、リルケはこのようなタ イトルを冠した理由を「最初のページに『C・W伯爵の遺稿から』とあります。お かしいことを言いますが、この作品に対して私は責任がありません。真剣な話、私 にはこれが何なのか分からないのです。このお遊び、それは魅力に富んでいて、私 を次々と誘ったのです。」14という言い方で説明している。つまりこれは他人の声を 書き取ったものなので、自分の作品と考えることが出来ないというのである。 これは最も極端な例であるが、このような見解は、仮に当人がおとぎ話風に韜晦す るつもりであったとしても、他ならぬ詩人=口述筆記説が根底にないと出てこない 話なのである。これに連なるドキュメントはリルケに多く、もう一つ傍証としてそ れより前1913 年夏に書かれたと推定されているエッセイ『若い詩人について(Über den jungen Dichter)』の一節を挙げておこう。ここでもリルケは詩の誕生には自分 の意識の他にある何ものかの力が与っているのではないか、と書いている。 「しかし、詩は形成されるということを認めなくてはならない今となってもなお、 詩が案出されるものだとは、私にはとうてい考えることができない。むしろ、既に 私たちの間に(まだ見つかっていない星座のように)張り渡されたひとつの精神的 な要因が、詩的に感動させられた者の魂の中に歩み出るのではないか、と私には思 われるのである。」15 この見解を詩作品=口述筆記説の文脈のうちに位置付けるとすれば、詩とは、詩的 に感動させられた者の魂の中に歩み出たひとつの精神的要因を、その歩み出たまま に書き取れば足りるということになる。このような詩観を詩人としてのリルケの生 涯から大きく捉えて、フュレボルンは次のようにまとめている。 「『時禱詩集』と『ドゥイノの悲歌』は、その連作形式、宗教的あるいは形而上的な 響きにおいて、そして情念によって規定されたスタイルにおいて共通している。両 者は「口述筆記」の下で書かれている。それに対して『新詩集』では、個々独立し た詩が戦略的な意図で統一されており、言葉が能うかぎり事物の世界と接近し、詩

14 An Nanny Wunderly-Volkart, 30.11.1920; Rainer Maria Rilke: Briefe an

Nanny Wunderly-Volkart, Frankfurt a. M. 1977. Band 1, S.349.

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人の感情の与る部分が厳格に抑えつけられている。つまり『新詩集』は「書き取ら れた」のでなく、「作られた」作品なのである」16 ここでフュレボルンが見出した「書き取られた」diktiert 詩と「作られた」gemacht 詩という2 つの対立、これがそのまま献呈詩から草稿①草稿②を経て『魔術師』決 定稿へと向かう詩想の展開のうちに露呈しているのである。献呈詩における詩的主 体「彼」は「窓の中へと入り込んで来た」声を聴く。ここで、外部からの力の進入、 これが「声」として感知されていることは「書き取られた」詩という論点からすれ ば象徴的なことである。まさに客体とは「声」として語りかけてくる存在なのであ る。だから詩人はそれをそのまま書き取るという口述筆記者以外の何者でもない。 だから最高の詩人とは次のように決意して、またそのように行う者なのである。「彼 は決意した、いかなる声の一つをも/逃すまいと…、」。献呈詩は一貫して口述筆記 の主題を展開し、客体に純粋に仕える詩人という存在に喜ばしい調子を見出してい る。しかしこのような詩人の自我は、反面、危うさを多分に孕んでいる。語りかけ てくる声に押しまくられて、一切の自意識が解体してしまうからである。この局面 が続く草稿①において強烈に顔を覗かせる。[彼は拒絶にいたるまで忠実だった。/ (それで)彼は入り込んでいる力から身を閉ざした]。この場合、過去分詞による規 定から、彼に影響を及ぼす力Macht は既に彼の内部に入り込んでしまっていること が分かる。そして献呈詩での喜ばしい彼は、別の批判的角度からみて、意志を完全 に失っており拒絶する権利さえ奪われているという状態と認められたのである。こ のモチーフは草稿①の新しい部分では、彼が少しの自主性を回復しようという意志 のもとに、外から進入しようとする力との抗争として表出されている。退けるため に抗争を要するほど、この力が非常な魅惑で詩人を捉えようとしていることは、献 呈詩での性格付け、「花」「庭園から窓を越えてやって来る種子」という明るい気分 から解る。それだけに詩人には今や忌まわしい力とも感じられるのである。「彼は拒 絶にいたるまで言葉になった。/(それで)彼は力の進入に対して身を閉ざした」。 このとき力は中にまでは入っていない。入り込もうとする力を水際で防ぎとめよう としているのだ。それは草稿①において、破棄した部分を含めて全体でいうと第4 詩行での表現の改変に見られる。詩人は今や自らの発する言語、これを支配された と感じたのである。書き取りによった意志の喪失を言語の喪失と観ずる点で、草稿 ①の新たな部分は言語を本質とする詩人としての立場への洞察が含まれていると言 16 Strukturproblem. S.156.

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えよう。つまりここでリルケの詩人観に変更が迫られているのである。「書き取り」 に従順であった詩人から、別種の詩人の可能性として何が採用されるのか。ここで フュレボルンの指摘に従えば、リルケにおける従来からの二項対立としての「作ら れた」gemacht という詩法が念頭に浮かぶ。『時禱詩集』における「口述」の成果 に引き続いて、それからの転回として「作られた」『新詩集』、その成果に対して再 び新たな展開として「口述」された『ドゥイノの悲歌』、このように交互に繰り返さ れる2 つの詩観。単純な二項対立で考えると、次は「作られた」作品が来るとも考 えられるが、果たしてリルケはこれに基づきつつも、それを一面的に踏襲すること はなかった。一体「魔術師」の名の下にはいかなる詩法が見出されたのか。それは 次章以下で展開される主題である。それに至る必要な手続きとして先ずは草稿①と 草稿②の関係性を探って行こう。 * 草稿①で「彼」の中に進入し影響力を及ぼそうとする「力」Macht から身を退けた 詩人であるが、続いて書かれた草稿②では、それを「die Kräfte」 と規定した。そ して言葉の変化に伴い、ここでその力の性格はかなり違うものになった。草稿①で は主体である「彼」が進入する力に対して拒否を言うのだが、草稿②において、力 は他なるものから身を閉ざすものとなる。つまり他に影響を及ぼす力という点では 暴力とも捉えられるMacht が、内にこもる自足した力 die Kräfte となったのであ る。これは草稿①に見られる「彼」のあり方そのものである点が注目に値する。そ してこうした力に対し「彼」が「結びつけ」るという力を行使するのである。云わ ば「彼」の方が「力」Macht の所有者なのである。これは献呈詩と草稿①で共有す る「他なる力の進入」という主題に酷似する。これは2 つの草稿の間で、主体と客 体の立場が入れ替わり、攻守が逆転したこと意味している。詩人の視点の位相が逆 転したのである。 そもそも献呈詩はゲルトルート・オゥカーマ・クノープに送る献呈本『ドゥイノの 悲歌』に献辞として添えられたものである。そういう状況と、詩のモチーフが前章 で指摘した詩=「書き取られたもの」説を展開している点から見て、献呈詩におけ る「彼」とは詩人のメタファーであると言ってよいが、ここで提出された詩人像が、 草稿①を経由して、草稿②では正反対ともいえる立場をとるようになったこと、こ れはリルケにおける詩人観の逆転を意味している。これは前章で考察した詩作=口 述筆記説への拒否、これに基づいたリルケの思考の展開をよく示している。そして

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この新しい詩人観に従い、草稿②のために『魔術師』という表題が用意されたとい うことになる。これが草稿②において初めて表題が出現した理由であろう。ところ が、この冬の作品を少し遡って読んでみると、草稿②で表明された詩人観は既に提 出済みのものであることが分かる。フュレボルンによればそれは1923 年のクリス マス前に書かれた次の詩において明らかであるという。『ニーケに』という献呈詩で ある。 FÜR NIKE Weihnachten 1923

Alle die Stimmen der Bäche, jeden Tropfen der Grotte, bebend mit Armen voll Schwäche geb ich sie wieder dem Gotte

und wir feiern den Kreis.

Jede Wendung der Winde war mir Wink oder Schrecken; jedes tiefe Entdecken

machte mich wieder zum Kinde -,

und ich fühlte: ich weiß.

Oh ich weiß, ich begreife Wesen und Wandel der Namen; in dem Innern der Reife ruht der ursprüngliche Samen,

nur unendlich vermehrt.

Daß es ein Göttliches binde,

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aber, statt daß es schwinde, steht es im Glühn der Erhörung

singend und unversehrt.17

小川のたてる全ての声を、/洞窟に滴るあらゆる雫を/震えながら、か弱い両腕で /私は神に返すのだ そして私たちは円環を祝う。 吹く風のどんな転回も、私には/合図であり、あるいは恐怖であった。/どのよう な深い発見も/私を再び子供にしてくれた―、 そして私は感じた。私は知っていると。 おお、私は知っており、私は理解する/諸々の名前の本質と変転を。/成熟の内部 では/根源の種子がやすらって、 ただ無限に増える。 神的なものを結ぼうと/言葉は呼び出すことへと高まる。/しかしそれは消失する かわりに、/聞き届けられて燃え上がり 歌いつつそして無傷である。 この詩の成立の仕方もまた興味深い。最初から11 詩行「おお、私は知っており、 私は理解する」までが1922 年の 1 月 31 日から数日の間に書かれ、続く第 12 詩行 以下は全て1923 年のクリスマス直前に書かれたというのである18。ということは前 半詩行と後半詩行との間に2 年弱の時間が経過していることになる。そして前半が 書かれたのが1922 年の 1 月‐2 月ということは、『ドゥイノの悲歌』の残りが一挙 17 SW2, S.256-257. 18 SW2, S.776, S.904.

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に完成する1922 年 2 月の直前、既に『ドゥイノの悲歌』と『オルフォイスに寄せ るソネット』に連なる断片が書かれていた時期に始まるということになる。そう思 って読むと、前半部には仕事に憑かれていた詩人に宿る確信に満ちた高い調子を感 得できる。そしてこの前半と後半の間で詩想に明らかな変質があるというのがフュ レボルンの指摘である。 「リルケは、彼の作品が成熟するプロセスとして、彼の詩作が神的なものを結ぶこ とを目指しており、諸々の名前が成熟し豊かになることによって初めて、「聞き届け られる」ことが実現するのだと理解している。(中略)。諸々の名前(第 12 詩行) は「(呼び出すための)呪文」として理解しなければならない。そして名前が成熟し 豊かになるということ、これはつまり名前が燃え上がり炎を増したこと意味する。 (中略)。最初の詩節にある「神」は最終詩節では既に忘れられているのである。」19 最初の詩節において詩人の責務とは現象を聞き取って「神」に捧げ返すことにあっ たのだが、これが後半では「聞き取る」のは逆に神的なものの領分になり、詩人は 言語の成熟をもっぱら事とするのである。これがフュレボルンの「最初の詩節にあ る「神」は最終詩節では既に忘れられているのである」と述べる意味であると考え られる。つまりここにも、『魔術師』決定稿を廻る 4 つの詩篇と同種の詩想の逆転 が見られるのである。唯一つの違いは、『ニーケに』については前後半の詩行の間に ある 2 年弱のブランクとともに起こったこの現象が、『魔術師』詩篇の中では一日 の間で集約的に起こっていることである。これはリルケ自身が、詩人の態度として どちらを取るべきか躊躇っていたことの証であるかも知れないし、献呈詩が『ドゥ イノの悲歌』の献辞であることから、執筆当時の姿勢を回想して、『悲歌』に相応し い方を採ったのだと考えることも出来る。しかし、何れしてもリルケにうちにこの 2 つの相反する詩人観が共存していることの証ではあると思う。 ただし『魔術師』草稿②において際立つのは、その呼び出されるべき客体に「拒絶 する」という性格が与えられたことである。これは魔術師が決して万能の存在では なく、彼の行為に対して客体側からの最大限の抵抗を付すことで、魔術師の能力に 限界が区切られていることを示している。つまり、魔術師にとって、世界は彼の能 力に対する拒絶に満ちており、これに向かいあって立っているというのが魔術師の 立場なのである。この拒絶に満ちた厳しい立場、これは容易に魔術師に能力を揮わ 19 Strukturproblem. S.136-137.

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せない世界であると同時に、それにも増して魔術師自身の存在が非常な危険にさら されていることも言うのである。ここで現われる危険は、その先の『魔術師』決定 稿において秤の比喩とともに明らかにされている。これを理解するために先ずある 書簡を参照してみたい。 「幾年も前にパリで見たレースのように、目の前に広げられ、ひとつの生命の変容 したこれらの織物を見て、突然私はショールの本質を理解しました!しかしそれは 言うことができるでしょうか?またしても失敗です。おそらくはこんなふうにして のみ、つまり具体的な、時間をかけたったひとつの「手−仕事」が許すさまざまな 変容においてのみ、生のなにひとつ欠けるところのない寡黙な等価物が生じるので す。言葉は、つねに言い換えることでしか、成功しません。もしも言葉が魔術的な 呼びかけで、現存在のある秘められた顔を、一篇の詩の空間のなかで私たちに向け たままにしておくことに、時々成功するのでなければ。」20 これは書簡中に「詩」との関連で「魔術的」magisch という言葉がそのまま現われ るという点で貴重なドキュメントだが、この手紙は1923 年 12 月 16 日、いままさ に問題となっている冬に書かれている。この冬において如何に魔術ということが詩 人のテーマであったかということの端的な証左である。しかし、この手紙が持って いる興味深さは「魔術的」という言葉もさることながら、「等価物」Äquivalent と いう概念が『魔術師』決定稿に見られる秤のモチーフにそのまま直結する点にある。 おお、魔術師よ、耐えよ、耐えよ、耐えよ!/平衡をつくれ。静かに秤の上に立て。 /天秤のこちらにはお前と家が、/向こう側にはあの増大したものが乗るように。 (『魔術師』決定稿) リルケにおいては事物の本性は重さとして感得される。例えば『オルフォイスに寄 せるソネット』第1 部第 4 番。

Fürchtet euch nicht zu leiden, die Schwere, gebt zurück an der Erde Gewicht;

20 An Gräin Sizzo, 16.12.1923; Rainer Maria Rilke: Die Briefe an Gräfin Sizzo

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schwer sind die Berge, schwer sind die Meere.

Selbst die als Kinder ihr pflanztet, die Bäume, wurden zu schwer längst; ihr trüget sie nicht. 21

悩むことを恐れるな。苦しみの重さを/大地の重さに返し与えるがいい。/山々は 重い、海もみな重い。 子供の頃お前たちが植えた木々ですら、/すでに久しく重すぎて、担うことが出来 ないだろう。 このように事物の存在が重量と捉えられることにより、その計測器として秤という モチーフが生まれるのは自然である。その結果「等価物」とは秤の皿に載せてみた 上で、天秤の平衡を実現することによって初めて「等価物」であることが出来るの だ。 以上の材料からここでは皿が3 つある秤を考えてみたい。1 つ目の皿には詩人が手 紙で言う「生」、『魔術師』決定稿で言えば呼びかけられた「他なるもの」、すなわち 何らかの客体、2 つ目の皿には例えばショールのように計り知れない時間がかかっ ている、人間による「手−仕事」Hand-Werk の成果が載っている。ここまで 2 つ の皿の間で釣り合いが取れている。そして3 つ目の皿に詩人は「言語」すわなち「詩」 を載せるのである。 最初の皿に載っているのは「生」das Leben、これが極めて重いということはリル ケにおける前提である。これが何を措いても基準となる重さということになる。さ てそれに対する等価物としてのショール、これには「時間をかけ」た「手−仕事」 という不可視の分銅が吊り下げられている。このようにして初めてショールは生と 釣り合うことが出来る。さて3 番目の皿、ここに言葉を載せたとき、いったい何を 見えない分銅として添えれば、詩は2 つの皿と釣り合うことになるだろうか。もと より3 番目の皿に、すなわち詩に与えられたチャンスは限りなく小さい。前掲書簡 が既に「時々成功するのでなければ」と限定を付している。その上で、その少ない 可能性を辛うじて満たすものとして、詩人は「魔術的な呼びかけ」という分銅を示 21 SW1, S.733.

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唆するのである。秤の比喩を完成させるため、すなわち詩人として詩に与えられた 僅かのチャンスに賭けるため、ここに魔術というトリックが要請されるのである。 それと同様に『魔術師』決定稿で3 度繰り返される「耐えよ、耐えよ、耐えよ!」 という励ましもまた可能性が少ないことの証である。そしてこのチャンスの少なさ は、そのまま危険の大きさの裏返しでもある。ここで強調される危険とは何に基づ くのか。リルケの表現に即して言えば、魔術師自身が秤の上から落下するという危 険である。 おお、魔術師よ、耐えよ、耐えよ、耐えよ!/平衡をつくれ。静かに秤の上に立て。 /天秤のこちらにはお前と家が、/向こう側にはあの増大した顔が乗るように。 しかし魔術師は秤の上に乗ることはない。秤に載るのは言葉だからである。だから この表現は言葉を載せる魔術師の危険を比喩的に言うのである。このように、秤に 乗らない魔術師には落下先が無いということ、はっきり言えば実際の落下はないと いうことが、かえって本当の危険であると言うことも出来る。つまり落下先がない からこそ、詩人に落下は許されないのである。これがリルケにおいて詩人に課せら れた責務であり、彼の持っていたリゴリズムがここにある22。常に危険を前にしな がら、つまり詩の不可能性を前にしながら、しかも退路は絶っている存在、これが 詩人の姿である。

Dass ich dereinst, an dem Ausgang der grimmigen Einsicht, Jubel und Ruhm aufsinge zustimmenden Engeln.23

いつの日か、恐るべき認識の果てにたち、/歓喜と賛嘆を、肯う天使らに向かって 歌いえんことを。 この『ドゥイノの悲歌』第十悲歌の冒頭は、詩人が立つことが出来るのは、非常に 狭隘な一地点でしかないことを言う。魔術師が危険と深淵への落下に常に面してい 22 『マルテの手記』で述べられた、全生涯に亘って経験を成熟させた後、ようやく たった一行の詩が生まれるかも知れない、という詩法をここから回想することが出 来る。つまり詩とは何と書き得ないものかということである。 23 SW1, S.721.

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るという点で、このモチーフはそのまま『ドゥイノの悲歌』の天使が持つ力の恐る べき危険とも遠く響きあうのである。つまり詩人の呼び声が何の答えも齎さないば かりか、かえってもし天使に触れるようなことがあるとすればそれは詩人の壊滅を 引き起こすばかりであるという天使。危険を前にして、しかも後がないという詩人 の立脚点を示す別の現われである。

Wer, wenn ich schriee, hörte mich denn aus der Engel Ordnungen? und gesetzt selbst, es nähme

einer mich plötzlich ans Herz: ich verginge von seinem stärkeren Dasein. Denn das Schöne ist nichts

als des schrecklichen Anfang, den wir noch grade ertragen, und wir bewundern es so, weil es gelassen verschmäht, uns zu zerstören. Ein jeder Engel ist schrecklich.24

誰が、たとえ私が叫んだとしても、天使らの序列から私の声を聴くだろうか?/た とえ一人の天使が突如私をその胸に抱きとることがあろうとも。/私はその厳しき 存在によって/身を滅ぼすであろう。なぜなら美とは私たちの/かろうじて耐える あの恐ろしきものの始まりに他ならないのだから。/そして私たちは美に賛嘆する。 何故なら美は私たちを滅ぼすことを平然としてはねつけるからだ。いずれの天使も 恐ろしい。(『ドゥイノの悲歌』第一悲歌)

Jeder Engel ist schrecklich! Und dennoch, weh mir, ansing ich euch, fast tödliche Vögel der Seele, wissend um euch.25 あらゆる天使は恐ろしい!にも関わらず、痛ましきかな、/私はお前たちに向かっ て歌うのだ。殆ど死をもたらすばかりの魂の鳥たちよ、/お前たちのことを良く知 りながら(『ドゥイノの悲歌』第二悲歌) * 24 SW1, S.685. 25 SW1, S.689.

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さて本論はいよいよ『魔術師』決定稿の解釈に移ることになる。いくつかの局面は 既に先取りされているが、この章で、詩を全体通して読むことで最初に問題提起し た3 点のうちその最後のものについて考察を進めていきたい。すなわち『魔術師』 決定稿がどうして詩人を魔術師と捉えるのか、そしてその場合の魔術師とは如何な る点において魔術師であり得るのか。 ただ少し広い背景から作品の意味を規定するために、この冬に書かれた他のテキス トを広く眺め渡す必要がある。冒頭で紹介したフュレボルンによる指摘に従って 1923‐1924 年に亘る冬の作品を概観したとき、魔術 Magie という語の圏内にある と思われる言葉がいくつも見られるというのは事実なのである。 前章で紹介したジッツォー夫人に宛てた書簡にある言葉「魔術的な呼びかけ」 magischer Anruf、まさにここから『魔術師』決定稿は始まる。Er ruft es an.「彼 はそれに呼びかける」…。 彼はそれに呼びかける。それはびっくりして、立ち止まる。/何が立ち止まったの だろう?それは他なるもの、彼ではない全てのものが/存在するものとなる。そし て存在の全体は/急いで出来た顔をふりむける、より以上になった顔を。 「呼びかける」という行為はリルケにおいていくつかの重要な局面で登場する。『ド ゥイノの悲歌』においては「言う」sagen という行為、これが人間の領分として保 存されており、これが天使に向かっての呼びかけという形でなされる、あるいは呼 びかけざるを得ないというのが、悲歌全体における人間と天使との関係の基本構造 となっている。また、呼びかけとはこちらから相手に向かっての行為の投げかけで ある。その点で次の詩もまた呼びかけることの一つの表現となっている。『魔術師』 決定稿より4 ヶ月後、1924 年 6 月 16 日の日付がある。

Durch den sich Vögel werfen, ist nicht der vertraute Raum, der die Gestalt dir steigert. (Im Freien, dorten, bist du dir verweigert und schwindest weiter ohne Wiederkehr.)

Raum greift aus uns und übersetzt die Dinge: daß dir das Dasein eines Baums gelinge, wirf Innenraum um ihn, aus jenem Raum,

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der in dir west. Umgieb ihn mit Verhaltung. Er grenzt sich nicht. Erst in der Eingestaltung in dein Verzichten wird er wirklich Baum. 26

鳥たちが身を投げかけ横切ってゆく空間は/お前の形姿を高めてくれるあの親しい 空間ではない。/(あそこの戸外では、お前は自分自身にさえ拒まれており、/再 び帰還することなく、絶えず消えて行く。) 私たちの内部から空間が広がって行き、/物たちを移し替えてゆく。/お前が一本 の樹木の存在を成就するために、/お前の中にあるあの空間の中から、その樹木の 周りに/内部空間を投げかけるがいい。その樹木を抑制で包み込むがいい。/樹木 は自分の境界を区切ることはない。お前の諦念の中へと/造型されてはじめて、樹 木は本当に樹木となるのだ。 「内部空間を投げかける」とは言葉を投げかけるということで、その先に詩の成就 が予感されている。この展開の先には「造型」Eingestaltung という言葉さえ見え ている。これは人間のアポロ的行為である。ここで行為の主体は人間に置かれてい る。もはや一面的な口述説は退けられているのである。 さて『魔術師』決定稿において、呼びかけにより、客体が驚き静止するという規定 は、主体による客体の呼び止めとも言える。運動体へ呼びかけ、呼び止め、静止を もたらして形態へと促すのである。それがぴたりと焦点化されているのが次の詩で ある(ヘルマン・ハラーに:1924 年 8 月 12 日)。『魔術師』詩篇から半年後である。 Für Hermann Haller

Unser ist das Wunder vom geballten Wasser, das der Magier vollbracht. Welche Freude, welche Macht, Leben, das dahinstürzt, aufzuhalten!

Aber freilich: als bemühte Über

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sind wir doch nicht Herren der Gewalten; denn nun reißen sie uns dort hinüber, und wir stürzen still in die Gestalten.27

魔術師がなしとげた/まるめられた水の奇跡は私たちのもの。/何という喜び、何 という力だろう、/慌しく走ってゆく生を引き止めるのは! しかしもちろん、努めて鍛えた先に/私たちはついに暴力の支配者でない。/とい うのは猛威が私たちを彼方へひっ攫って行くからだ、/そして私たちは形姿の中へ 静かに落ちて行く。 ここで登場するのは水という流動する運動体、これは形態が絶えず変転する点で形 態化が極めて困難である。それをまるめようとする手から漏れ出て行く水に抗して、 ボール状の形態を実現するということは本当に驚くべきことである。そのためこの 点が直接に「魔術」とか「奇跡」という語に繋がって行くのである。これは彫刻家 に献呈した詩であるために、形態化という局面がクローズアップされている。ある いは先に引用した詩「鳥たちが身を投じて横切ってゆく空間は」の言葉でいえば「造 型」と言い換えてもいい。この形態化という行為が「引き止め」と捉えられている。 このように「呼びかける」という行為がそのまま「引き止め−形態化」を予感させ るというのが『魔術師』決定稿の第1 詩節に見られる客体停止の実態である。そし て「呼びかける」ことが言語行為である点からして、あるいはジッツォー夫人宛書 簡の言葉、「言葉が魔術的な呼びかけで、現存在のある秘められた顔を、一篇の詩の 空間のなかで私たちに向けたままにしておくこと」、から勘案して、魔術師の魔術の 実態が言語にあることはここで確認しておきたい。 さてここで魔術師の行う呼びかけはどのような手付きでもって行われるのであろう か。呼びかけといっても様々なスタイルの呼びかけが存在し得る。怒鳴るようにす るものもあれば、おずおずとするものもあるからである。 「彼はそれに呼びかける。それはびっくりして、立ち止まる」。『魔術師』決定稿の 冒頭は、彼のかなりな大声を想像させる。anrufen という動詞が既にそういうこと を意味しているかに見える。しかしここで草稿②を思い出して欲しい。呼びかけら れた客体は拒絶をもって呼びかけに応ずるのであった。つまりここでの主体と客体 27 SW2, S.263.

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の間には初めから相当の緊張関係が存するのである。裏を返せば、もともとが呼び かけられることを拒否しているものが、その前提の中で、(にも関わらず)急に呼び かけられ、はっとして立ち止まったのだから、この魔術師の呼び声も実際に大声を 出したということよりも、主体と客体との緊張関係、つまり客体の拒絶の計り知れ ぬ強さを言うのである。もっと言えば、主体がする呼びかけに在るかなりの程度の 無効性に抗して、にも関わらず呼ぶという敢為を言ったのだと考えておかしくない。 譬えて言えば、通りの向こう側を先に向かって歩いている人を、後ろから呼びとめ 引きとめた、と言い表せるだろうか。つまりこれは魔術師の手付きを言うのでなく、 どんな声で呼んだにしろ、それとは無関係に、魔術師の行為そのものが持つ性格の 強さを言い当てているのである。 従って他の箇所をさがすとなると、魔術師の体勢の形容として詩から見てとれるの は実は第2 詩節第 2 詩行、「静かに秤の上に立て」という規定だけなのである。そ してこの点で『魔術師』決定稿を補足するのが次の詩である。

Berühre ruhig mit dem Zauberstabe das Ungenaue, das du um mich scharst, und du wirst wieder wissen, wie du Knabe und in der Dinge Freundschaft warst.

Berühre nochmals, und es wird sich zeigen, daß dich die Liebende empfing,

weil aller Glanz, den Himmlische verschweigen, aus deinem Neigen in sie überging.

Ein drittes Mal berühr, um zu erfahren, daß Macht sich giebt und sich entzieht, und nun sei rein in deinem Offenbaren und sage dienend, was geschieht.28

魔法の杖で静かに触れてみるがいい、/お前が私の周りに集めたあの定かならぬも のに。/そうすればお前は再び知るだろう、少年だったころのこと/そして物たち

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といかに親しく交わっていたかを。 もう一度触れてみるがいい、そうすれば分かるだろう、/あの愛に生きる女がお前 を受け入れたことを。/天上的なものが黙して語らぬ全ての輝きが/彼女へと傾く お前から彼女の中へと移って行ったのだから。 三度触れてみるがいい、そうすれば分かるだろう、/力が生まれそして消えて行く ことを、/そして今こそ自らが行う開示に純粋であれ、/そして献身しつつ言うが いい、生起するものを。 この主題としてかなり似通っている詩には1924 年 2 月末という日付がある。『魔術 師』詩篇と同じ月の作品である。この詩では魔術的性格を付与されたものとして「魔 法の杖」が登場する。「魔法の杖で静かに触れてみるがいい、/お前が私の周りに集 めたあの定かならぬものに」。「静かに触れる」Berühre ruhig、この慎重さ、繊細 さ、優しさを『魔術師』決定稿は、秤の上に乗る仕方「静かに秤の上に立て」Steh ruhig auf der Waage,で完全に共有するのである。ともに ruhig と規定されるのは 偶然ではない。それは魔術師に対する詩人の明確なイメージから来ているのである。 その印象は魔術師が自分の魔術でもって、例えば諸術に通じたファウスト博士が地 霊を召喚するbeschwören とは完全に異質のものなのである。 『魔法の杖で静かに触れてみるがいい』の詩で詩人が触れた「お前が私の周りに集 めたあの定かならぬもの」これが、この詩の展開に伴って、はっきりした形態へと 定まっていくさま、これは『魔術師』決定稿では最初の1 詩節に要約されているか に見える。すなわち「彼ではない全てのものが/存在するものとなる」という詩行 である。しかし『魔法の杖で静かに触れてみるがいい』で3 詩節の時間を要するプ ロセスは、実は『魔術師』決定稿においても同じ時間のままに保存されている。そ れが『魔術師』決定稿における、「急いで出来た顔を振り向ける」という表現にかか っている。つまりここで未だ「急いで出来た」ものである顔は『魔術師』決定稿の 残り全部の時間をつかって、ゆるやかに本来の顔へと成熟してゆくことになる29 29 「成熟」という言葉、これは『ニーケに』の中にも見えた表現である。さらに『魔 術師』詩圏のうちにあると見られる詩『果実』ではその全体を挙げて果実が成熟へ と向かい、そして熟れきって行くさまであるが、これもまたリルケにおいては、詩 空間そのものの重要なメタファーになっている。

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それが最終詩節において、魔術師が本来の時間である「真夜中」に参入するという ことの意味でもある。『魔術師』詩篇に登場する「覆われた指針」と「真夜中」とい うモチーフはなかなか解釈が難しい。フュレボルンも『魔術師』決定稿のこの箇所 に関しては「最終詩節のイメージは全く簡単には理解できない」30とした上で次の ように解釈している。なお[ ]内は荻原による補足である。 「魔術師の顔が真夜中を持つというのは、おそらく次のような意味であると思う。 魔術師は他なるものを呼び出したにも関わらず、それを見ることが出来ない。つま り示すzeigen(つまり名前で呼ぶこと)が出来ないのである。「覆われた指針でも って(mit gedeckten Zeigern)」と比喩は、魔術師の顔を一瞬、時計の文字盤に擬 して、その文字盤[=魔術師の顔]を死んだように凝結させてしまうのである。時計 の文字盤というものは、短針と長針が文字盤の上で回っているときだけ、本来の機 能を働かすのである。それに対して、短針と長針は真夜中には共に文字盤のゼロの 上に置かれている。つまり文字盤の役目である何かを(つまり時間を)示すという 機能を果たさないのである。魔術師の呼び出しはつまりなんの開示もしないという ことである。つまり「彼も結び付けられたのだ」という詩節である。」31 つまり魔術師の「呼びかける」行為にはじまって、それが他なるものを指し示す (Zeigern)とは見えたものの、その瞬間に一切の位相が逆転し、実はその行為に よって、草稿②の表現に従えば、諸力を結びつけると見えた彼こそが逆に結びつけ られていたことの証になっているという意味になる。真夜中という特殊な時間、一 日と一日の狭間にある一瞬、の中に落ちこんだことを示すように、魔術師は「短針 と長針と2 つの指針(Zeiger)の重なった時計=真夜中」に見立てられて、実は zeigen (=Zeiger)としての能力を欠いているという意味である。 この、時間の狭間、あるいは垂直の時間という概念は、時計によって具象化される、 未来に向かって一様に流れて行く直線的な時間、に対立して用いられ、リルケのう ちで特別のものとなっている。

Heil dem Geist, der uns verbinden mag; denn wir leben wahrhaft in Figuren.

30 Strukturproblem. S.138. 31 Strukturproblem. S.138.

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Und mit kleinen Schritten gehn die Uhren neben unserm eigentlichen Tag. 32

栄えあれ、私たちを結び合わせる精神に!/何故なら私たちは形象のうちで真実生 きるのだから。/そして小刻みな足取りで、時計たちは歩んでいる、/私たちの本 来の日のかたわらで。 これは『オルフォイスに寄せるソネット』の第1 部第 12 番の冒頭である。『オルフ ォイスに寄せるソネット』はその全体がリルケにおける時間の問題と深く関わって いるが、これはその最も端的な表徴である。『魔術師』詩篇に見られる「真夜中」の 主題ももちろん、ここで見られる時間すなわち「時計で計測できない本来の日」と いう考えの別の面である。つまり魔術師は、時計の指針が重なった時計に擬えられ て、真夜中という時間の狭間に参入したのである。 この時間の中に入りこんで、逆に魔術師が客体の充溢した世界に結びつけられると いう詩想は、『魔術師』決定稿に引き続いてフランス語で書かれた『魔術師(Le Magicien)』の最終詩行においてもっと、魔術師の完全な無力化という直截な展開 で示されている、というフュレボルンの指摘を付け加えておこう33。詩中の該当箇

所は次のようになっている。「et on le tue, en le nommant!34(だがそのものを殺

す、その名を呼ぶことによって)。 このように見て、詩作が客体から聴こえる声の「書き取り」であるという説と、詩 とは「作られる」ものだとする説、この2 つの詩学は、ここにおいて、魔術師は結 びつつ結ばれるのだとする点で、統合あるいは融合されたと見てよいのではないの だろうか。『魔術師』決定稿には2 つの詩観がそっくり含まれているのである。そ して魔術師の観点から見た場合、詩とは「作る」ものであり、詩は、それが書かれ たあかつきには実は「書き取られた」ものであったのだ。しかし、このような結び 32 SW1, S.738. 33 KA2, S.768. 34 SW2, S.649. 本論では『魔術師』決定稿に引き続いて書かれたフランス語版とも 言うべき『魔術師(Le Magicien)』を論述の対象にしなかった。本論の眼目は献呈 詩から『魔術師』決定稿へのダイナミックな詩想の逆転にあり、もはや『魔術師』 決定稿と同じ地平にあるフランス語版『魔術師』は、その逆転の位相という点での 重要性が低いからである。

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付き方にはやはりどこかしら「魔術的」な力の関与があるように思われる。もの35 魔術師=詩人が互いに結んだり、結ばれたりするのは、その結節点に「詩」がある からに他ならない。だが詩は何をもって「作る」のかといえば、それは詩人の側に 属する言語に他ならないのだし、一方書き取られる「声」、これは客体の方に属し、 詩人はこれを聴き取るのである。だから主体と客体の間には、言語というどちらに も属するような不分明の領域からのものがあることになる。この境界線にものとひ とを直接に結び付ける魔術があるのだが、これはリルケの言語観から解明すること が出来る。 この点で示唆に富んでいるのが、先ずは前に引用した『ニーケに』という献呈詩の 次の詩節である。 神的なものを結ぼうと/言葉は呼び出すことへと高まる。/しかしそれは消失する かわりに、/聞き届けられて燃え上がり 歌いつつそして無傷である。(『ニーケに』) ここでは「言葉が燃え上がる」、この点に魔術の秘密があると考えられる。つまり魔 術の魔術たる所以は、言葉そのものの持つ性質に焦点化されるのである。魔術とは 何かという問題を考えるとき、魔術師という主体は後景に退いたと見るべきである。 この点をさらに明らめるのに資するのが、次の詩である。1924 年 2 月中旬に書か れた。表題はない。

Da dich das geflügelte Entzücken über manchen frühen Abgrund trug, baue jetzt der unerhörten Brücken kühn berechenbaren Bug.

Wunder ist nicht nur im unerklärten Überstehen der Gefahr;

erst in einer klaren reingewährten

35 「もの」とは、これまで「客体」と呼んできたもののことである。『魔術師』決

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Leistung wird das Wunder wunderbar.

Mitzuwirken ist nicht Überhebung an dem unbeschreiblichen Bezug, immer inniger wird die Verwebung, nur Getragensein ist nicht genug.

Deine ausgeübten Kräfte spanne, bis sie reichen, zwischen zwein Widersprüchen... Denn im Manne will der Gott beraten sein.36

歓喜の翼がお前を乗せて/かつての多くの深淵を飛び越えていったのだから/今は あの前代未聞の橋梁の/大胆に計算できる湾曲を懸けるがいい。 奇跡は不思議な/危険の乗り越えの中にあるだけではない、/澄みわたり純粋に聞 き届けられた成果において/初めて奇跡は奇跡的となるのだ。 言い難い関連に加わって/共に働くことは倨傲ではない、/結びつきはますます親 密になってゆく、/担われていることだけでは十分ではないのだ。 お前の鍛えられた諸力を張り渡すがいい、/それが届くまで、二つの/矛盾の間を …。何故なら男によって/神は必要なことを知るのだから。 正確な日付は不明だが、書かれた時期は2 月中旬というから『魔術師』決定稿から 数日後ということになる。ここには魔術という表現は見られない。しかしその代わ りという訳ではないが、その圏内にある語として「奇跡」という語がある。これに 加えて「危険」という語が見られることにも注意を促しておきたい。魔術(奇跡) という概念には、危険という概念が必ず付随する点は、『魔術師』決定稿の重要な局 面でもあったからである。さて、この詩では奇跡とは危険の克服にあるのみならず、 成果の中にこそあると言われている。危険にさらされているのは確かに魔術師であ 36 SW2, S.157.

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る。秤の上に言語を載せるからである。しかし、奇跡という点から見ると、魔術師 が成し遂げる危険の克服は二次的なものであり、むしろ成果、つまり具体的な詩= 言葉そのものが奇跡的であるという詩想である。さてその詩とは一体何物であろう か。 魔術師は事物に呼びかけ、引き止め、形態化を行うのだが、それが名前をもってし てではないということを詩人は強調することを忘れなかった。さきに紹介したフラ ンス語版『魔術師』の中で「そのものを殺す、その名を呼ぶことによって」と書き、 あるいは献呈詩の最終詩節で「その純粋な花の名を彼は知らなかった、/声が沈む と彼の内部に育った花の名を…」と書いた。しかし花を呼んだのは詩人である。し かも名前で呼んだのではないという。 名前とは対象の存在を前提としているが故に、名を呼ぶことには常に時間的な遅れ が生じる。これが名前というものが持つ必然である。であるから名前とは常にオリ ジナルのもの(=客体・事物)の二番煎じであることを避けられない。それに対し て、『魔術師』詩篇でつかんだリルケの詩観とは、詩人は詩を「作る」のだが、それ が対象の「書き取り」でもあるということが矛盾無く同時に起こるということであ り、つまり書かれた詩それ自体が、オリジナルである事物と魔術を媒介にして結び つけらており、詩と事物が区別されない思考なのである。つまり言葉が事物の「等 価物」なのである。この規定を外すと、また「詩とは「書きとられる」ものなのか 「作られる」ものなのか」という二項対立が延々と継続される。両者ともオリジナ ルの存在を認めた上で、それに対する関わり方の二面的な現われであるのだから。 しかし、『魔術師』決定稿で打ち出された詩観とは、物(オリジナル)と、言語を媒 介にして結びつくということとは発想を異にする言語観である。そこまでこの詩人 においては物を言うことと、あるいは、物と出会って詩人が物のほうから呼びかけ られることと、言葉を言う(=詩を書く)ということ、これらが完全に同じ一つも のと考えられていたのである。つまり物について考えるということは言葉について 考えるということと同義なのであった。リルケが言う「等価物」という考えには根 本にそれがある。そこで魔術的であるのは、オリジナルである対象と言葉とは違う ものなのに同じ重量を持っているということ、ここにしかないのである。詩=言葉 の重量は「言葉が成熟」し「炎を増す」ということによって、つまり『魔術師』決 定稿の全詩節を経過することで、「他なるもの」が増大した顔を「こちら」に「振り 向け」得て、初めて実現された。これらは全て言葉の問題として語られている。こ こに見られる言葉の操作に詩人の危険、「耐えよ、耐えよ、耐えよ!」という危険が あることは既に確認しておいたが、ここでも再度強調しておきたい。

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言葉は常に詩人自身を超えている存在である。言葉は詩人が用いるとき、既に音と 核となる意味を持っている。これは詩人が最初に直面している如何ともし難い条件 である。そしてその点で言葉とは完全に物質である。つまり言葉もまた事物であり、 客体なのである。つまり『魔術師』決定稿の表現に戻ると、魔術師が呼びかけるも の、それは言葉そのものでもあるのだ。詩人は言葉と言葉を結びつける。それが草 稿②で云われた、魔術師がなそうとする「諸力の結びつけ」という詩想の核心にあ る。魔術師は言葉に呼びかける。すると言葉はびっくりして立ち止まる……。 だから『魔術師』詩篇とは一般にそう思われているように、詩人と物との関係、例 えばフュレボルンが言うように「物を呼び出す魔術師−詩人と、呼び出される対象 である「他なるもの」との鋭い対置」37、これだけがモチーフという訳ではない。 詩人と言葉との間にある鋭い緊迫、これこそが隠されたモチーフなのである。 ここでジッツォー夫人宛書簡をもとに考えてみた皿が3 つある秤を思い出して欲し い。詩とは3 番目の皿にしか載せられないものである。ここで「生」と「手−仕事」 と等しい重さを作ろうとした場合、言葉が詩人にする抵抗には計り知れないものが ある。言葉の重量は詩人に委ねられているように見えて(gemacht)、同時に言葉の 重量は言葉自身のうちにこそある(diktiert)からである。言葉は詩人の恣意の他 にあるのである。これが「拒絶」というモチーフの根源にあると思われる。だから 魔術とは詩人の力ではないのである。魔術的であるのは言語そのものであるのだ。 言葉が計り知れない重量を持っていることの不思議、そして言葉が奇跡的に事物の 等価物になる不思議、これこそが魔術なのである。そして魔術師が徹底的に無力で あるのは、詩人が言語に従わざるを得ないところに発する必然なのである。 このように考えてみると、厳密に言って、詩人は魔術師であるとは言えない。もし それでも詩人は魔術師であると言うならば、それは詩を書き得たその瞬間、その瞬 間においてだけ詩人は魔術師に近いものに見えるというだけの話である。魔術的な もの=言語=詩を呼び止めた者の名称として。そして次の瞬間、詩人はもう当たり 前の人間である。詩人の魔術などはもともと存在していないのだから。 三度触れてみるがいい、そうすれば分かるだろう、/力が生まれそして消えて行く ことを、(『魔法の杖で静かに触れてみるがいい』) とリルケが書く所以である。 37 KA2, S.767.

参照

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